永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(63) サマーディ③

ヨーガにおける習熟度を表す八段階(アシュタンガ)の最終段階は、「サマーディ」とされていますが、古今東西、これまでに開示されている文献にも、「サマーディ」に関する情報は、それほど多くなくないため、(その理由は、サマーディ体験者が少ないから、と言えますが)、また、サマーディ体験者であっても、既存の言葉で言い表すことは、非常に難しいと言及する体験者も多いようで、情報化時代の今般においてでさえ、「サマーディ」は、一般的人には、イメージすることすら難しい神秘に閉ざされた体験となっています。

 

しかしながら、そうであっても、「サマーディ」は、探求の最終目標であり、探求への最終的な答えを与えてくれる唯一、最大の可能性を秘めた「神秘の扉」を開ける鍵とも言える体験ですので、最大限の誠意をもって、智識としてであっても、一般人にも理解可能な情報をお伝えしたいと思います。

 

もちろん、「サマーディ」についての情報を得たり、頭で理解するだけでは、Moksha(モクシャ、解脱、解放)は、達成され得ないことは言うまでもありませんが、正しいイメージを持つことは、道の短縮につながりますので、有益な情報に触れることは、探求のプロセスにおいては、プラスとして働くことはあっても、マイナスとして働くことはないでしょう。

 

それ故、今回、最後にご紹介いたしますラマナ・マハルシの「ラマナ・マハルシとの対話②」から抜粋したラマナの御言葉が、サマーディ未体験者が「サマーディ」を理解する上で、非常に役立つと思われますので、文章をただ単にサラッと読み流すのではなく、ラマナが詳細に語って下さっている内容を、自分の身体と心に当てはめて、深く理解しようとすることで、”「サマーディ」とは、どのような状態を指しているのか?””「サマーディ」とは何なのか?”など、「サマーディ」について、正しく理解することにつながり、それに依り、これまで漠然としていた「サマーディ」のイメージが、より具体的に浮かび上がって来ることと思います。

 

そして、最終的には、「サマーディ」とは、私たちにとって、何ら特別な状態ではなく、私たちに内在する原初の状態であり、この現象界という、生まれる前から存在し、死んだ後も在り続ける永遠、無限の全宇宙における「存在ー意識の根本的な基本状態」であると結論づけることができるようになれば、「サマーディ」体験に一歩近づいたと言えるでしょう。

 

先ずは、スワミ・シヴァナンダの日本未翻訳本「Bliss Divine」からの抜粋と、次にラマナ・マハルシの御言葉をご紹介いたします。

 

 

The Mind in Samadhi(サマーディにおける心)

サマーディは、心(マインド)の消滅、或いは、没頭を意味している。

心(マインド)は、サマーディにおいては、全く機能していない。

それは、ブラフマンに没入した状態である。

もしあなたが、意識的に深い眠りのような状態を引き起こすことができるならば、それは、もはや深い眠りではなく、サマーディである。

それは、眠りの無い眠りである。

そこでは、感覚や心(マインド)は、完全に機能を止めており、無知の覆いは、智識の炎によって破壊される。

探求者は、自由の完全なる喜びを楽しむ。

彼は、不死の至高の静寂を楽しむ。

サマーディにおいては、精神的な緊張はない。

完全なる静寂、或いは、完全なる平静がある。

全体的な精神的抑制がある。

サマーディにおいては、純化された心(マインド)は、その源である真我(アートマン)に溶解し、真我(アートマン)そのものになる。

それは、まるで樟脳が炎になるように、真我(アートマン)の形を取る。

ブラフマンを知ることは、ブラフマンになることである。

心(マインド)が、清められ、サマーディの状態になる時、ブラフマンそのものになる。

心(マインド)がブラフマンになる時、この世界、それは心(マインド)の創造であるが、もまた、ブラフマンに溶け去り、ブラフマンそのものになる。

 

 

The Samadhi Experience(サマーディ体験)

この体験においては、暗闇も虚空もない。

それは、すべて光である。

ここにおいては、音も、接触も、形もない。

それは、統合、或いは、一つ(ワンネス)の度量の大きな体験である。

ここにおいては、時間も、因果もない。

ただ永遠だけがある。

あなたは、全知全能となる。

あなたは、全知者となる。

あなたは、すべてを知る。

あなたは、創造の全神秘を知る。

あなたは、不死を得、より高い智識と永遠の至福を得る。

すべての二元性は、ここでは消滅する。

主体も客体もない。

形あるモノも、形なきモノもない。

瞑想も、サマーディもない。

二元も一元もない。

心の動揺も、一点集中もない。

瞑想者も、瞑想されるモノもない。

昼も夜もない。

あなたが、最も高いニルヴィカルパ・サマーディに落ちつくと、あなたは、何も見ず、何も聞かず、何も嗅がず、何も感じない。

あなたは、身体感覚がなくなる。

あなたは、最高のブラフマンの意識を持つ。

真我以外は、何もない。

それは、崇高な体験である。

あなたは、驚きと不思議に感銘する。

この体験は、エゴ(自我)と心(マインド)が分解されると、起こる。

それは、自身の努力によって達成された状態である。

それは、制限のない、分割不可能な、永遠の、在るという純粋意識の体験である。

この体験が実現されると、心(マインド)や願望、行為、喜びや悲しみの感覚は、虚空の中に消滅する。

個人性は、今や行ってしまった。

小さな“私”は、溶け去ってしまった。

分裂し識別する心(マインド)は、消滅してしまった。

 

 

Samadhi Gives Moksha(サマーディは解放を与える)

サマーディは、独尊(カイヴァリヤ)、或いは、絶対的な独立をもたらす。

サマーディは、解放(モクシャ)※を与える。

これは、ヨーガの最高点、頂点である。

真我の智識の降臨と共に、無知は消滅する。

原因の根の消滅と共に、無知、利己心、等もまた消える。

ヨーガ行者は、同時に起こる智識を持つ。

過去と未来は、現在と調和している。

すべては、“いま”である。

すべては、“ここ”である。

彼は、時間と空間を超越する。

人が、未知なるモノを知り、見えないモノを見て、アクセスできないモノにアクセスできるのは、サマーディを通してのみである。

世俗の科学や三次元世界のすべての智識の全量は、サマーディという最も高い状態を達成した聖者の永遠の智識に比べると、無か、ただの粕でしかない。

サマーディから戻って来た人は、以前と全く同じようにありふれた方法で動き回り、生きるかもしれない。

そして、彼の人生と行いにおいて、行きすがりの見る人にとっては、目立った明確な変化はないかもしれない。

しかし、それでもやはり、彼の意識における変化は、否定できないものである。

単なる変化を何と言ったら良いだろう?

人格におけるポジティブな変容があるであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

※Moksha=解脱、解放、霊的な自由

 

 

 

『質問者

「サマーディは何の役に立つのでしょうか?

それが起こるとき、想念は存在しつづけるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ただサマーディだけが真理を顕わにすることができる。

想念は真理の上にヴェールを覆いかぶせる。

そのため、サマーディ以外に真理を実現する術はない。

サマーディのなかには「私は在る」という感覚だけがあり、想念はない。

「私は在る」という体験は「静かに在る」ことである。」

 

質問者

「あなたの臨在のなかで体験した静寂あるいはサマーディの体験を再び得るにはどうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「現在のあなたの体験は、あなた自身が見出したこの場の影響によるものだ。

この場の外でもそれを体験することができるだろうか?

その体験は断続的なものである。

それが永久的になるまでは、修練が必要となるだろう。」

 

質問者

「サマーディは静けさと平和の体験なのでしょうか?」

 

マハルシ

「心が揺らぐことのない透明な静けさこそがサマーディであり、解脱のための確固たる土台である。

心の動揺を断ち、澄みきった内なる平和の意識としてのサマーディを体験しなさい。」

 

質問者

「外的と内的なサマーディの違いは何でしょうか?」

 

マハルシ

「外的サマーディとは世界を目撃している間も、内面ではそれに反応することなく実在をとらえていることだ。

そこには波のない海の静寂がある。

内的サマーディは身体意識を失った状態である。」

 

質問者

「私の心はそのような状態に一瞬でさえも入ったことはありません。」

 

マハルシ

「『私は心と世界という現象を超越した真我である』という強烈な確信が必要である。」

 

質問者

「それにもかかわらず、心は真我のなかへ突入しようとするどんな試みも防げる頑固な障害物なのだということがわかりました。」

 

マハルシ

「心が活動的であろうと、それが何だというのかね?

心はただ真我という土台の上で活動しているだけである。

たとえ心が活動的であろうとも真我をとらえなさい。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

『シュリー・バガヴァーンは「アルナーチャラ・アシュタカム」※(アルナーチャラを讃える八連の詩)の第五、第六頌を説明した。

 

第五頌

宝石を繋ぎ合わせるネックレスのように、

あらゆる生き物とさまざまな宗教のすべてを貫き通し、

一つにまとめているのは、「あなた」である。

磨かれた宝石のように、純粋な心という砥石で不純な心が研ぎ澄まされれば、

欠陥や瑕(きず)は消え去り、外側の事物に影響されずとも輝くルビーのように、

心はあなたの恩寵の光を映し出すだろう。

ひとたび陽の光に露出された感光板に像(イメージ)を映すことが可能だろうか。

ああ、眩く輝く慈悲深きアルナの丘よ!

あなたから離れて存在するものなどあるだろうか。

 

第六頌

あなたは自ら輝くハートとして永遠に気づき続ける一なる実在。

あなたの内には神秘の力(シャクティ)が宿る。

その力から、潜在していた微細な安徳の霧を放つ小さな点(自我)が現れ出す。

それはあなたの意識の光に照らされて、

内面でプラーラブダ(運命)の渦の中を旋回するかのように霧の上に反映される。

後にそれは精神的世界へと展開し、それから外面に物理的世界として投影され、外向的な感覚器官によって拡大されて、映画のように活動する現実の物事へと姿を変えるのだ。

ああ、恩寵の丘よ、あなたなしではそれらも無に等しい。

(※「アルナーチャラ・アシュタカム」は、マハルシ作のアルナーチャラ(インドのタミルナードゥ州にある丘の名前で、南インドの五つの主要なシヴァ派の聖地の一つ)に捧げられた賛歌。マハルシはこの詩の中で、グルであるアルナーチャラに対して「あなた」と呼びかけている。)

 

最初の言葉では「あなたは自ら輝くハートとして永遠に気づき続ける唯一の実在」であると答えています。

そして、「唯一の実在ではあるが、それはその驚くべき力によって、(無知あるいは潜在的傾向の集まりとしても知られる)「私」という小さな点(自我)の上に反映される。この反映された光とは相対的知識のことである」という言葉が続きます。

この反映された光は、プラーラブダ(現世で実を結んだ過去のカルマ)にしたがって、内なる潜在的傾向を粗大な世界として外側に現し、再びその粗大な外的世界を精妙な潜在的傾向として内側に引き入れます。

そのような力は、精妙な次元では心と呼ばれ、物理的な次元では脳と呼ばれています。

この心あるいは脳は、「永遠の一なる存在」の拡大鏡として働き、その力を「拡大された宇宙」として見せるのです。

心は目覚めと夢見の状態では外向的で、眠りの状態では内向的です。

「一なる至高の存在」は、目覚めと夢見の状態では心を媒介として多様化され、眠りや気絶では内側に引き込まれるかのように見えます。

しかしあなたは「それ」であり、「それ」以外の何ものでもないのです。

たとえいかなる変化が起ころうとも、唯一の存在はあなた自身として在り続けます。

あなたの真我以外に存在するものなど何もないからです。

第五頌では、「ひとたび陽の光に露出された感光板に像(イメージ)を映すことは不可能だ」と述べています。

同じように、(感光板である)心も「あなたの光」に照らし出された後で、世界を投影させることはもはやできません。

その太陽とは「あなた」に他なりません。

太陽光線が像の形成を阻むほど強力なものなら、「あなたの光」はいったいどれほど強力でしょう?

それゆえ、唯一の存在である「あなた」以外に存在するものはないと言われるのです。

第六頌にある「小さな点」とは自我(暗闇でできた小さな点)のことです。

自我は心の潜在的傾向(ヴァーサナー)と主体である「見る者」で構成されています。

その自我は立ち現れるとともにそれ自体を見られるもの、対象、あるいはアンタハカラナ(内的器官、思考機能)として拡大させます。

自我が立ち現れるためには、薄暗い光を必要とします。

日中の溢れる光の中では、ロープが蛇のように見えることはありません。

真っ暗闇の中では、ロープ自体が目に見えないため、それを蛇と見間違えることもありません。

夕暮れの薄暗い光の中、あるいは光が翳りを見せたとき、あるいは暗闇の中をほのかな光が照らしたときにだけ、ロープを蛇と見間違える可能性があるのです。

それと同じように、「純粋な輝く存在」が自我として立ち現れるのは、その光が暗闇の中に拡散されたときにのみ可能です。

この暗闇は原初の無知(原罪)として知られています。

この暗闇を通り抜ける光は「投射された光」と呼ばれます。

投射された光はその美徳ゆえに「純粋な心」、あるいはイーシュヴァラ(創造神)、あるいは神として知られています。

イーシュヴァラが「マーヤー」と一つであることは周知の事実です。

つまり「投射された光」とはイーシュヴァラのことなのです。

もう一つの「純粋な心」という名前は、そこに不純な心もあるということを暗示しています。

不純な心とは活動的な心(ラージャシック)、あるいは自我のことです。

これももう一つの反映を通して「純粋な心(サートヴィック)から投影されたものでしかありません。

それゆえ、自我は第二の暗闇である無知の産物です。

それからアンタハカラナ(内的器官)という形のターマシック(不活発)な心が立ち現れ、それが世界として現れます。

粗大な身体の視点からすれば「投射された光」は脳という媒介によって世界として外的に輝くものと言えるでしょう。

しかし粗大な身体は心でできたものでしかありません。

心とは四つの内的器官、あるいは想念から成る基本原理、あるいは第六感、あるいは自我と知性を組み合わせたもの、または記憶機能と思考機能を組み合わせたものと言えるでしょう。

あるいは自我と心という二つの部分で構成されているとも言えるでしょう。

後者の場合、ヴィジニャーナートマン(知的自己)、あるいは自我、あるは「見る者」が主体を成し、精神的な鞘、あるいは「見られるもの」が対象を成しています。

目覚め、夢見、眠りの状態は、原初の暗闇(ムーラ・アヴィディヤー)をその起源としています。

心は目覚めと夢見の状態では外側へと向かって体験を得、眠りの状態では内側へと引き込まれます。

このように心は個人と宇宙のすべての活動を司る類なき力、マーヤー(幻影)を体験するのです。

しかしこれらすべては真我という輝く存在の基盤の上に投影された、移り過ぎゆく現象でしかありません。

日中の溢れる光の中では、ロープが蛇に見えることはなく、真っ暗闇の中では、ロープ自体が目に見えないように、輝く真我である純粋な存在というサマーディの境地では世界は現れず、深い眠りや気絶でも世界は現れません。

光と闇が同時に存在している、あるいは知識が無知によって汚されている状態が反映された光です。

その反映された光の中でのみ、世界は現れ、拡大し、消え去るかのように見えます。

世界はその源から独立してはいません。

そしてその多様性も、原初の源である実在から分離して存在することはできないのです。

ここでは「一なる存在」が多様化し、対象化され、そして内側へと引き込まれてゆくという劇(ドラマ)が起こり続けています。

そこにはそれを可能にするシャクティ(力)があります。

そしてそれは素晴らしい力です!

彼女(シャクティ)もまた彼女が生まれ出た源から独立して存在することはできません。

輝く真我という純粋な存在の中では、このシャクティは目に見えません。

それにもかかわらず、彼女の活動はあまりにもよく知られています。

何と崇高な働きでしょう!

彼女(シャクティ)の崇高な原初の活動(力の波動)から、サットヴァに満ちた繁栄が現れます。

それからラージャシックな自我が現れ、それから拡大鏡のレンズに相当する光、あるいは一般には知識として知られるターマシックな想念形態が現れます。

映写機の光がレンズを通してスクリーンに投射されるように、投射された光は想念(拡大鏡)を通して世界として展開します。

種子の状態にあった世界という想念が、外的な世界として現れるのです。

これが彼女(シャクティ)の驚くべき力です!

このように、イーシュワラ神(創造神)、個人、世界は、真我として輝く「一なる存在」を根底にし、その上に反映された光でしかないのです。

では、この「私」という想念(自我)とはいったい何なのでしょうか?

それはその成り立ちにおいて主体なのでしょうか、対象なのでしょうか?

目覚めと夢見の状態の中であらゆる対象物を観照するという事実からすれば、「私」という想念は主体と見なされるに違いありません。

しかしながら、純粋な真我に目覚めたとき、それは対象でしかないことがわかるのです。

この「私」という想念(自我)はいったい誰の想念なのでしょうか?

ヴィチャーラはこの探究をもとに成り立っています。

「私」という想念も「これ」という想念も、ともに同じ光から放たれたものです。

それらはそれぞれラジョー・グナとタモー・グナに関連しています。

ラジャスとタマスから自由になったサットヴァ(純粋性)である「投射された光」を得るためには、「これ」という想念に防げられない「私-私」が輝き出さなければなりません。

この純粋な状態は、眠りと目覚めの状態の間に一時的に現れます。

もしこの状態が長引けば、それは宇宙意識、イーシュヴァラ神(創造神)として認識されます。

それが至高の存在として輝く真我を実現する唯一の道です。

目覚めてから、「私は幸せに眠った。まったく何にも気づかなかった」と言って想い返す深い眠りの状態には二つの体験があります。

それは幸福の体験と無知の体験です。

このことから、私たちは「力」(シャクティ)が①アーヴァラナ(真我を覆い隠すもの)と②ヴィクシェーパ(多様性)として姿を変えることを知ります。

心はヴィクシェーパによって生じるのです。』

(ラマナ・マハルシとの対話②)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(62) サマーディ②

前回より、ヨーガと呼ばれる修練体系が、最終目標としているある種の意識状態であるサマーディ(超越意識状態)について、ご紹介しています。

 

ヨーガにおいて、サマーディとされているある種の意識状態には、幾つかの種類と違いがあるとされていますが、大きく分けて二通りあるとされています。

 

一つは、僅かながら意識があるサヴィカルパ(有分別三昧)と意識が完全に真我である絶対意識に没入しているニルヴィカルパ(無分別三昧)です。

 

サマーディに関しては、サヴィカルパであろうと、ニルヴィカルパであろうと、それらの意識状態を言葉で表現するには限界があり、それ故、情報として伝わりにくい側面があるのは否めませんが、これらの意識状態は、実際に実体験してこそ、意味のある体験と言えますので、言葉を通しての理解は、全く役に立たないばかりか、イメージが膨らみ過ぎて、却って、体験が起きた時に、その体験への評価や解釈に囚われ過ぎてしまい、体験が示す本質を見誤ることにもつながりかねませんので、詳しく知っている必要はありませんが、ある程度、本質的な基本事項を知っておくことは、誤った道へと踏み込まないためのストッパーとして機能しますので、ヨーガ実践者の必要心得と言えます。

 

基本的な情報という観点から、ヨーガや瞑想実践において、サマーディ体験のどのような点に着目し、注意すると良いのか?

以下、間違った評価や解釈を回避するためにも、先人たちの智慧を通して、サマーディという内的な意識状態の本質について、ご紹介したいと思います。

(それは、誤った評価や解釈は、エゴを尊大にし、その結果、最終目標を見失ってしまうという結果にも結び付くリスクもありますので、正しい判断力を身につけておくことは、とても大切と言えるからです)

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」に書かれたメッセージ、次は、ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介しますが、御二方の御言葉が、異なった時空間で発せられた文言であるにも拘わらず、ほとんど同じことを言っている点に注目して下さい。

 

 

 

完璧なる覚醒、気づきの状態(A Condition of Perfect Awareness)

サマーディは、惰性、健忘、全滅の状態ではない。

それは、記述しようとするすべての試みを失敗させる絶対的な意識の状態である。

それは、すべての最終的な目的である。

それは、解脱(Mukti、Moksha)である。

サマーディは、多くの人びとが想像するような石のような不活性な状態ではない。

霊における生命は、全滅ではない。

真の自己は、経験的な存在に縛られる時、その活動は、充分に働かない。

そして、経験的な存在の限界が超越されると、宇宙的生命が強められ、あなたは自己を高める。

あなたは、豊かな内的生命を持つであろう。

あなたは、拡大した宇宙生命と超宇宙生命をも持つだろう。

サマーディは、惰性の状態ではない。

それは、完全なる覚醒、気づきの状態である。

それは、単なる感情的な興奮や陽気な感覚ではない。

それは、真理、絶対的な意識、究極のリアリティの直接的で唯一の直感的な経験である。

それは、すべての感情、興奮、快感を超えている。

それは、超越的な自己覚醒の強力な状態である。

探求者は、彼の中心で休息し-彼の探究のゴールである-絶対的な自由、独立、完全を実現する。

 

 

The Fourtsh Dimenntion(四つ目の次元)

サマーディの状態は、意思(Sankalpa)や願望が欠如しているため、目覚めている状態ではなく、夢見ている状態でもない。

それは、そこには不活発さが欠如しているため、熟睡でもない。

それは、無限のブラフマンの至福のある四つ目の次元である。

通常、あなたが夢を見ない眠りと呼ぶものを持つ時、それは、二つの内の一つである:あなたは、あなたが夢見たものを想い出せないか、あなたは、仮死、或いは、死の状態である絶対的な無意識の中に陥ってしまったか。

しかし、あなたが絶対的な静寂、不死、あなたの存在の全部分における平和に入り、あなたの意識が、サット(存在)-チット(意識)-アーナンダ(至福)に溶け込む眠りの可能性がある。

あなたは、それを眠りと呼ぶことはできない、何故ならば、完全なる“覚醒”(気づき)があるからである。

その状態の中では、あなたは数分間、或いは、数時間、或いは、数日、留まることができる。

しかし、これらの数分は、通常の何時間かの眠りよりもあなたに更なる休息や活性を与える。

あなたは、偶然に、体験することはできない。

それには、長い訓練が必要である。

 

 

Jada Samadhi and Chaitanya Samadhi(知覚のないサマーディと純粋意識のサマーディ)

サマーディとは、呼吸を完璧に停止して、蓮の蓮華座(パドマ・アーサナ)で絶対的な無意識の状態で坐っていることを意味すると一般的に信じられている。

通常段階の人は、サマーディに確立した人は、彼の周囲への意識がなく、もしナイフが彼の身体に突き刺さっても、絶対に苦痛を感じないだろうと思っている。

このようなサマーディは、確かに存在する。

それらは、みなハタ・ヨーガの行法によって引き起こされる知覚の無いサマーディ(Jada Samadhi)である。

ハタ・ヨーガ行者は、ケチャリ・ムドラー(※)の練習を通して、数カ月、地面の下に埋められた箱の中に閉じ込もることができる。

疑いなく、これは難しいヨーガの行法であるが、真我の智識(Atma-Jnana)を与えることはない。

知覚のないサマーディ(Jada Samadhi)においては、プラーナは、引き上げられ、いくつかのチャクラに固定される。

その人は、当分の間、ほとんど死んでいる。

これは、長くて深い眠りのようなものである。

これらのサマーディは、全く価値が無い。

サンスカーラ(潜在意識の印象)やヴァーサナ(精神的傾向)は、全部燃え尽きていない。

このサマーディの間、完全なる覚醒(気づき)はない。

その人は、同じ束の古いサンスカーラとヴァーサナを持った同じ年取った人として、サマーディから戻って来る。

彼は、超直感的な智識を持っていない。

これは、ある種のアクロバティックな妙技であり、内的な体操である。

このようなサマーディは、解脱(Mukti)や自由を与えることはできない。

世俗的な人びとは、このような妙技に騙される。

真のサマーディは、超感覚的な智識である。

ヨーガ行者は、新しい超感覚的智慧と共に戻って来る。

これは、真の、純粋意識のサマーディ(Chaitanya Sanadhi)である。

純粋意識のサマーディ(Chaitanya Samadhi)においては、完全なる覚醒(気づき)がある。

知覚の無いサマーディ(Jada Samadhi)においては、探求者は無意識である。

純粋意識のサマーディ(Chaitanya Samadhi)は、知覚の無いサマーディ(Jada Samadhi)とは、全く違うものである。

その中では、疑念も迷いも三つの結び目-無知(Avidya)、欲望(Kama)、カルマ(業)―は智識の炎によって破壊される。

それは、絶対的な恐れの無さと心の平穏な状態を与える。

サマーディの状態は、仕事中でさえ維持される。

サマーディの中に確立された彼は、彼の心(マインド)と身体を完全なるバランスに保ち、アートマン・ヴァーヴァ(すべてを真我として見る)を持って、人類への奉仕にそれらを使う。

彼は、ブラフマンに固定されている。

彼は、常にサマーディの中にいる。

いかなる条件下でも彼にとって動揺はない。

彼は、真我の智識のため、堅固無比となる。

真のサマーディは、瞑想と同じくらい行為において、持続されなくてはならない。

これは、内なる強さと実現の真の試みである。

これが、真の純粋意識のサマーディ(Chaiyanya Samadhi)である。

目を閉じ、山の洞窟や森へ入って行くが、仕事中、傷ついたり、くたくたに疲れるようなサマーディは、サマーディなどではない。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

(※長くした舌を口の奥へと巻き込んで、咽頭部の穴を塞いでしまうこと)

 

 

 

『質問者

「ラージャ・ヨーガの第八段階であるサマーディは、あなたが語るサマーディと同じものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「サマーディという言葉は、ヨーガのなかではある種の超越状態を意味し、それにはさまざまな種類のサマーディがある。

だが、私が語るサマーディはそれとは別のものだ。

それはサハジャ・サマーディである。

このなかであなたはサマーダーナ(安定性、不変性)を得る。

そしてたとえ活動中でも、静かな落ち着いた状態のままとどまる。

あなたはより深い内なる真我によって動かされていることを悟る。

あなたには何の心配も、不安も、悩みもない。

なぜなら、何ひとつあなたに属するものはないと悟るからである。

あなたはあなたが意識的に合一した、その何かによってすべてが為されていることを知るのである。」

 

質問者

「このサハジャ・サマーディが最も求められるべき状態であるのなら、ニルヴィカルパ・サマーディは必要ないのでしょうか?」

 

マハルシ

「ラージャ・ヨーガのニルヴィカルパ・サマーディはそれなりに有益だろう。

だが、ジニャーナ・ヨーガにおいては、サハジャ・スティティ(自然の状態)あるいはサハジャ・ニシター(自然の状態にとどまっていること)自体がニルヴィカルパの状態なのである。

この自然な状態のなかで、心は疑いから解き放たれ、もはや可能性と蓋然性の選択に揺れることはない。

心は何のヴィカルパ(違い)も見ず、真理を確信している。

なぜなら、心は真理の実在を感じとっているからである。

たとえ活動しているときでも、それは真理、真我、至高の実在のなかでの活動だということを知っているのである。」

 

質問者

「深い眠りとラヤ(心が一時的に停止した超越状態)とサマーディの違いは何でしょうか?」

 

マハルシ

「深い眠りのなかでは、心は没入しているが破壊されてはいない。

ひとたび没入したものは再び現れてくる。

それは瞑想のなかでも起こりうる。

だが、破壊された心が再び現れることはない。

ヨーギの目的はラヤのなかに沈みこむことではなく、心を破壊することである。

瞑想の平和のなかでラヤは、しばしば起こる。

だが、それではじゅうぶんでない。

心を破壊するために、それは他の修練で補われなければならない。

ある人たちは取るに足らない想念とともにヨーガのサマーディのなかに没入し、長い時が流れたあとで同じ想念とともに目覚めている。

その間、世界では何世代もが過ぎていったのである。

そのようなヨーギの心は破壊されていない。

本当の心の破壊とは、真我を離れて心は存在しないと認識することである。

今でさえ、心は存在していない。

それを認識しなさい。

自動的にすべてが起こっていく日常の活動のなかにこそ、その真実を認識しなければならないのである。

日常の活動を促している心とは実在のものではなく、真我から生じる幻影のようなものにすぎない。

これが心を破壊する方法である。」

 

質問者

「ニルヴィカルパ・サマーディの間、身体的妨害によって瞑想者が影響を受けることもあるのでしょうか?

私はこの点について友人と意見が合わないのです。」

 

マハルシ

「あなたがたの意見はどちらも正しい。

ひとりはケヴァラについて、もうひとりはサハジャ・サマーディについて語っている。

どちらの場合も心は真我の至福のなかに没入している。

ケヴァラの場合、身体的な動きは瞑想者にとって妨害となるだろう。

なぜなら、心が完全に破壊されていないからである。

それはいまだ生きており、ちょうど深い眠りのあとのように、いかなる瞬間にも活動的になりうる。

それは水のなかに完全に沈みこませながらも、まだロープによって引き上げることのできる桶のようなものである。

サハジャの場合、心は完全に真我のなかに沈みこんでいる。

それはちょうどロープの切れた桶が井戸の底深くまで沈みこみ、引き上げようがない状態と同じである。

サハジャにおける人の活動は、眠りながら母乳を飲んでいる赤ん坊が、そのことに気づいてさえいないのと同じ状態だと言えよう。」

 

質問者

「そのような状態で、いったいどうやって世界のなかで機能できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「瞑想を自然な習慣とし、瞑想の至福を楽しむ人は、外的な仕事が何であろうといかなる想念がやってこようと、彼のサマーディを失うことはない。

それがサハジャ・ニルヴィカルパである。

サハジャ・ニルヴィカルバはナーシャ(心の完全な破壊)であり、ケヴァラ・ニリヴィカルパはラヤ(一時的な心の停止)である。

ラヤ・サマーディの状態にいる者は、ときおり心を制御しなければならない。

もしサハジャ・サマーディのように心が破壊されたなら、再び現れることはない。

そのような人によって為された行為は、それが何であろうと重要なことではない。

彼がその崇高な状態から落ちることはけっしてないのである。

ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディの状態にいる者たちは、真我を実現してはいない。

彼らはいまだに探究者である。

サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディの状態にいる人は、無風状態のなかの光、あるいは波のない海のように内面の動きがまったくない。

彼は何も彼自身とは別のものとして見ることがない。

この状態に達していない人にとっては、すべてが自分自身とは別のものとして現れる。」

 

質問者

「ケヴァラ・ニルヴィカルパの状態は相対的な世界に下りてこなければなりませんが、体験そのものはサハジャと同じものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「下りたり上がったりするようなことは何もない。

上がったり下りたりするその人は実在ではない。

ケヴァラ・ニルヴィカルパの状態では、精神的な桶はいまだに水の下に存在している。

そして、それはいつでも引き上げられる。

サハジャは川が大海へと流れ入るように、再び戻ることはない。

なぜあなたはこのような質問をするのか?

あなた自身がその体験を得るまで修練をつづけなさい。』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(61) サマーディ①

これまで「永遠の至福と自己実現(真我実現)」というテーマで、60回に渡り、先達たちの御言葉をご紹介してきましたが、今回は、「永遠の至福」と「自己実現(真我実現)」とは、どのような体験を通して達成可能となるのか?について、具体的なヒントをお伝えしたいと思います。

 

それは、「サマーディ」(日本語では、”三昧”と訳されています)という単語で表現される”ある意識の状態”です。

 

「サマーディ」は、ヨーガにおける修行の目標とも言えるもので、既に、言葉だけはご存知の方も多くいらっしゃることでしょうが、具体的なイメージを掴んでいる人は、それ程多くはいらっしゃらないことでしょう。

 

ヨーガ修行の目標とは、一体、どのような”意識状態”なのでしょうか?

 

体験者の中には、”「サマーディ」を言葉で表現することは、不可能である”とする意見もありますが、具体的なイメージを持つことで、サマーディが起こり難くなるようなことはありませんので、言葉で表現できる範囲という限界はありますが、修行において明確な目標を持つことは、その道を進む上での励みにもなりますので、ご紹介したいと思います。

 

また、「サマーディ」について知ることで、私たち全人類の本質である「絶対意識」「純粋意識」とは、どういうものなのか?についても、知ることができますので、ヨーガと関係が深い「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」についての智識をも持つことにもなります。

 

「サマーディ」とは、どのような状態を指しているのか?を、頭で理解することができれば、実際に、体験が起こった場合、直ぐに、自分に何が起こったのか?理解することができます。

体験そのものと体験が意味するものが一致して初めて、人は包括的に、自分に起こったことを客観的に理解し、解釈できるようになります。

 

そして、更に「サマーディ」には、いくつかの段階がありますので、それらについても、ご紹介したいと思います。

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次に、スワミ・ラーマによる「聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より「サマーディ」に関する解説、そして最後は、ラマナ・マハルシによる「サマーディ」に関する質問者への回答の御言葉をご紹介いたします。

 

 

 

『Samadhi(サマーディ)

サマーディとは、神との合一である。

それは、超越意識的な体験である。

それは、霊的な体験である。

サマーディ、或いは、恍惚は、至福溢れる合一である。

心(マインド)は、水の中の塩や燃える樟脳のように、永遠、或いは、アートマン(真我)に溶ける。

それは、純粋意識の状態である。

サマーディは、あなたをアートマン(真我)の中に落ち着かせる。

サマーディを通して、限定された自己は、無限、或いは、絶対的意識に同化する。

個我と至高の真我との統合は、実現される。

あなたが、サマーディから得られる智識は、神聖な智識である。

それは、理性や推論、証明は役立たない超感覚的で、直感的な智識である。

サマーディは、心(マインド)や言葉の及ぶ範囲を超えた内面的で神聖な体験である。

サマーディの状態は、すべての相対性を超えている。

それを表現する言葉も手段も存在しない。

世俗的な体験においてでさえ、あなたは、味わったことのない人にリンゴの味を説明したり、盲目の人に色の性質を説明することはできない。

サマーディの状態は、すべてが至福であり、喜びであり、平和である。

これが、語ることができる最大である。

誰もが、自分自身で、これを感じなくてはならない。

サマーディにおいては、肉体も精神的な意識も存在しない。

ただ霊的な意識のみが存在する。

存在(サット)のみが存在する。

それは、あなたの真の性質(スヴァルーパ)である。

水がプールで干上がる時、水の中の太陽の反射も、また消滅する。

心(マインド)がブラフマンの中に溶け去ると、心の湖は干上がり、反射した純粋意識(チャイタニヤ)も、また消滅する。

個我、或いは、個人の人格は、消え失せる。

存在だけが残る。

サマーディにおいては、瞑想も瞑想者もいない。

瞑想者と瞑想されるもの、思考者と思考、祭式を行なう者と祭式をされるものは、一つ、或いは、同一である。

心(マインド)は、それ自身の意識を失い、瞑想の対象と同一となる。

瞑想者は、神の海の中に、彼の人格を溶かしてしまい、彼が単に神の道具となるまで、そこで溺れ、忘我となる。

彼が口を開く時、努力や予めの熟慮なく、直接的な直観を通して、神の言葉を語る。

そして、彼が、手を上げると、神は、奇跡を行なうために、再び直接的な直感を通して、流れ出る。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『ブラフマランドラ(頭頂部にある霊穴)は、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。

そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマーディを通して可能です。

サマーディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。

同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。

このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。

これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。

ヤマ(死神)は、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマーディの状態を述べました。

彼は言いました。〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。それが、サマーディの状態である〟

サマーディの最高の状態は、全く死とは似ていません。

死が無知の暗闇における経験である一方で、サマーディは悟りの状態です。

サマーディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。

通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。

魂は、死後、心に執着したままです。

しかし、個人は深い眠りにいます。

自覚はありません。

ヤマは、ナチケータに語りました。

サマーディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〟

関係性の世界においては、魂は3つの異なる状態を経験します。

目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。トゥリーヤとして知られる4つ目の状態においては、アートマンは魂の3つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。

深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥリーヤにおいては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。

超越意識であるトゥリーヤは、サマーディと同意語です。

サマーディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。

深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。

サマーディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。

それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。』

(聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

 

『質問者

「サマーディとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「静かな心によって存在=意識を絶えず体験している状態、それこそがサマーディである。

最高の真我の成就によって得られた静かな心、それこそが神の実在である。

心が暗闇のなかで真我と融合した状態がニドラー(眠り)と呼ばれる。

それは心が無知のなかに没入した状態である。

心が意識のなかに没入した状態がサマーディと呼ばれる。

サマーディとは目覚めの状態で絶えず真我のなかにとどまることである。

ニドラーあるいは眠りもまた真我のなかにとどまる状態ではあるが、それは無意識状態のなかでのことだ。

サハジャ・サマーディのなかでは、つねに真我と一体の状態にある。」

 

質問者

「ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「心が破壊されないまま真我のなかに没入した状態がケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディである。

この状態では、人はヴァーサナーから解放されていない。

それゆえ、解脱も達成されない。

ヴァーサナーが破壊されたあとにだけ自由を得ることができるのである。」

 

質問者

「いつサハジャ・サマーディを修練することができるのでしょうか?」

 

マハルシ

「はじめからそうすることができる。

たとえケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディを何年も修練したとしても、ヴァーサナーを根絶しないかぎり解脱を成就することはできない。」

 

質問者

「サヴィカルパとニルヴィカルパの違いを教えていただけますか?」

 

マハルシ

「至高なる状態をとらえていることがサマーディである。

想念の防げのため、努力とともに至高なる状態をとらえているとき、それはサヴィカルパと呼ばれる。

想念の防げが不在のとき、それはニルヴィカルパと呼ばれる。

根源的な状態に努力なく永久的にとどまっている状態がサハジャである。」

 

質問者

「サハジャの状態に達する前に、ニルヴィカルパ・サマーディは絶対的に必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「サヴィカルパであろうとニルヴィカルパであろうと、サマーディのなかに永久的にとどまっていることがサハジャ(自然な状態)である。

身体感覚とは何だろう?

生命のない身体に意識を加えたものである。

身体と意識は別の意識の上に成り立っている。

その別の意識は絶対的で、つねにあるがままに在り、身体意識があろうとなかろうと影響を受けずにいる。

そのため、もし人がこの純粋意識をとらえていれば、身体意識が保たれようと失われようと問題ではない。

身体感覚の完全な不在はサマーディをより強烈にするという利点はあるが、至高の知識においては何の違いももたらさない。」

 

質問者

「サマーディはトゥリーヤ、第四の状態と同じなのでしょうか?」

 

マハルシ

「サマーディ、トゥリーヤ、ニルヴィカルパはみな同じ意味を示している。

それは真我の目覚めである。

トゥリーヤの文字通りの意味は「第四の状態」であり、第四の状態とは目覚め、夢見、眠りの三つの状態から区別された至高の意識のことである。

第四の状態は永遠であり、他の三つの状態はそのなかで来ては去っていく。

トゥリーヤのなかではいくらかの想念がいまだに侵入し、感覚もある程度活動しているが、心が源のなかで溶け合ったという自覚がある。

ニルヴィカルパのなかでは感覚の活動はなく、想念は完全に不在の状態である。

それゆえ、この状態での純粋意識の体験は強烈で至福に満ちたものである。

トゥリーヤはサヴィカルパ・サマーディのなかで達成することができる。」

 

質問者

「眠りのなかで楽しまれた至福とトゥリーヤのなかで楽しまれた至福の違いとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「至福そのものに違いはない。

ただひとつの至福があるだけであり、それは目覚めの状態のなかで楽しまれる至福、最下位の生物から最高位のブラフマンまでのあらゆる存在の至福も含んでいる。

眠りのなかで無意識のうちに楽しまれている至福が意識的に楽しまれたときトゥリーヤと呼ばれ、両者の違いはそこにしかない。

目覚めの状態のなかで楽しまれる至福は間接的なもので、それは真の至福に付随したものでしかない。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(60)瞑想(ディヤーナ)④

前回まで3回に渡り、「瞑想」について学んできました。

 

瞑想法には、大きく分けて、「ヴィパッサナー瞑想」(観行)と「サマタ瞑想」(止行)という実践方法が異なる瞑想法が、昔より伝えられ、今尚広く実践されていますが、それらのやり方をご紹介するのは、他にお任せすることにし、どのような「瞑想」であろうとも、共通する目的や実践することによって起こる(とされている)結果について、また、実践における注意事項などをご紹介させて頂きたいと思います。

 

今の世界で広く実践されている「マインドフルネス瞑想」は、「ヴィパッサナー瞑想」と言えます。

 

己の(心)の中に、深く潜っていく手段として、「内観」もありますが、「内観」は、主に、「記憶」の軸を辿って、過去の「己」と向き合い、過去に起きた出来事とそれに対する己の心の反応を内省し、改めていろいろな角度から観ることが、己の心の中にあるブロックとして働いている様々な過去に生じたエネルギーの蟠りが、溶けて解消されて行く方向に作用するため、それらのエネルギー的なブロックが取り除かれることで、心の浄化がもたらされるという効果があります。

しかしながら、「内観」は、「瞑想」と並行して実践することは可能ですが、基本的には、「瞑想」とは異なります。

 

「瞑想」の中でも、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)は、過去の自分と向き合うことではなく、今この瞬間の自分と向き合うことです。

身体や心(脳)に起きていることを、ただ眺める(観照)ことであり、それ故、観行(観る行)と言われています。

 

ヨーガにおいては、意識が、プラティヤハーラ(制感)→ダーラナ(集中)→ディアーナ(瞑想)と移行するにつれ、心の安定と静寂が訪れ、その先に、(神の恩寵があれば)サマディ(三昧)に入って行くと説かれています。

 

このサマディ(三昧)状態こそが、自己の意識が、真の自己である真我(アートマン)と一つに溶け合った状態であり、ヨーガにおける修行の最終的な目的とされています。

 

約5年前に翻訳出版しました「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」の中で、スワミ・ラーマは、このように語っています。

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマン(真我)は分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。』

 

長年、ヒマラヤで修行した優れたヨーガ行者であるスワミ・ラーマは、このようにハッキリと私たち人間の(エネルギー的な)構造を、分かり易い言葉で解説してくれていますが、「瞑想」は、この最も粗大な物質的な鞘(食物鞘)である肉体よりも微細な領域であるプラーナ鞘(生気鞘)よりも微細な領域を次々と通り抜け、最終的には、アートマン(真我)を覆っている最奥の鞘である歓喜鞘に至るために、私たち人間が実践できる方法は、唯一「瞑想」である、と結論づけています。

 

「意識」だけが、歓喜鞘に至る唯一の道を通り抜けることができます。

その「意識」は、虫眼鏡で集められ、一点に絞られた光線が、小さな穴を通り抜けていくように作用するのと同じく、超微細でありながら、鋭利な力を持った「意識」と言えます。

自己の「意識」が、真の自己であるアートマン(真我)に触れている「歓喜鞘」に至るためには、「瞑想」で「意識」を鍛錬する必要があるのです。

 

「瞑想」については、今回が最終回となりますが、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」からの抜粋と、ラマナ・マハリシの質問者への御言葉より、ご紹介したいと思います。

特に今回ご紹介しますラマナ・マハリシの御言葉は、探究者であるならば、何度も何度も読み返して頂きたい程の素晴らしい内容です。

 

私たちは、今も、真の自己であるアートマン(真我)を直接体験しています。

その直接体験は、「瞑想」を通さなくても、起きているのですが、私たち(個我である”エゴ”)が、そのことを知り、納得するには、意識が瞑想状態を通り抜けることが必要なのです。

それは、客観的に知る、ということが起きないと、エゴ(自我)は、心底納得しないからと言えます。

 

すでに直接体験している真の自己であるアートマン(真我)は、「瞑想」を通して、間接的に知ることで、その存在についての確証が起こるため、偽我である個我というエゴは、「私は誰か?」の答えに行き着くことができるのです。

 

以前の記事(ヨーガ②)でご紹介しましたが、

『心においては、三つの弱点、マラ(不純)、ヴィクシェパ(混乱)、アバラナ(無知)がある。

不純は、カルマ・ヨーガの実践によって取り除かれるべきである。

混乱は、ウパーサナ(礼拝)によって取り除かれるべきである。

無知は、ジニャーナ・ヨーガの実践によって、破壊されるべきである。

その時だけ、自己実現(Self-Realisation)は、可能である。

もし、あなたが、鏡で自分の顔をはっきりと見たいのであれば、あなたは鏡の汚れを取り除き、その状態を維持し、そして覆いを取り除かなければならない。

あなたは、濁りが取り除かれ、風によって波立たされた水面が静かになり、表面にある苔が取り除かれた時にだけ、湖面にはっきりと自分の顔を見ることができる。

自己実現(Self-Realisation)とは、そういうものである。』

 

この心における三つの弱点を取り除くためには、「瞑想」は必要不可欠であり、「瞑想」状態を通って初めて「意識」は、「歓喜鞘」に至り、真の自己であるアートマン(真我)に接触することができるようになります。

 

こうして、アートマン(真我)の直接体験である「真我実現」は、「瞑想」状態を経て、特殊な意識体験として、偽我である個我である私たちに起こるため、「瞑想」の実践は、真我探究において、非常に重要であり、必要不可欠と言えます。

 

 

 

Experiences in Meditation(瞑想における体験)

いろいろな人たちが、瞑想でいろいろな霊的な体験をしている。

すべての人に共通の体験はあり得ない。

それは、気質、霊的修養(Sadhana)、集中の場所、そしていろいろな他の要因によっている。

中には、耳の中にメロディーのある音を聞く人もいる。

光を見る人もいれば、精神的な至福(Ananda)を得る人もいる。

光輝(Prakasa)と至福(Ananda)両方を得る人もいる。

瞑想中は、あなたは、あなたがあなたの咳から立ち上るということを体験するかもしれない。

彼らが、空を飛ぶという体験もある。

もしあなたが、集中した瞑想中に、真我の一瞥の体験を得るならば、もしあなたが、瞑想中に、光り輝く光を見るならば、もしあなたが、天使や大天使、リシ(聖仙)、ムニ(賢者)、神々(Devatas)のヴィジョンを得るならば、そして、その他の風変わりな霊的な体験を得るならば、恐れに陥ってはならない。

それらを亡霊だと間違えてはならない。

霊的な修練(Sadhana)を諦めてはならない。

コツコツと進みなさい。

一生懸命に励みなさい。

ヴェールの後のヴェールを破りなさい。

探求者は、直ぐに霊的な体験を得たいと熱望する。

彼らがそれらを得るや否や、彼らは恐れる。

彼らが身体的意識を超えると、彼らは恐ろしいほど不安になる。

彼らは、彼らが再び戻れるかどうか、束の間の驚異の念を抱く。        

彼らは、何故、すべてを恐れるのであろうか?

彼らが、身体的な意識に戻るかどうかは、大した問題ではない。

すべての我々の試みは、主に、この身体的な意識を超えることに向けられるている。

我々は、ある限定に慣れている。

これらの限定が、突然に落ちてしまう時、我々は、立つために残された限定された基礎はないと感じる。

それは、我々が身体的な意識を超える時に恐れる理由である。

それは、新しい体験である。

勇気が、必要とされる。

勇敢さは、不可欠な必要条件である。

時々、悪い霊があなたを悩ませる。

彼らは、長い歯を持ち、恐ろしく怖い顔をしているかもしれない。

彼らを、あなたの強い意志力で追い払いなさい。

「出て行け」という命令の言葉を与えなさい。

彼らは、去って行くだろう。

彼らは、吸血鬼である。

彼らは、精霊である。

彼らは、探究者(Sadhakas)には、悪いことをしないであろう。

あなたの勇気は、ここで試されるであろう。

もしあなたが臆病なら、あなたは更に進むことができない。

無尽蔵の源である内なる真我(Atman)から、力と勇気を引き出しなさい。

あなたはまた、非常に良い霊に出会うであろう。

彼らは、あなたが前へ進むのを大いに助けるであろう。

瞑想中は、あなたが見るヴィジョンの中には、あなた自身の物質化した思考もあるし、現実的な外界のヴィジョンもある。

もしあなたの一般的な健康状態が健全なら、もしあなたが、身体的にも精神的にも、快活で、幸せで、力強いなら、もし心(マインド)が平和で平穏であるならば、もしあなたが瞑想で至福(Ananda)を得るならば、もしあなたの意志が、強く、純粋で抵抗がないようになれば、あなたは瞑想において進歩しており、すべては上手く行っていると思いなさい。

 

 

Meditation and Work(瞑想と仕事)

瞑想をする彼は、仕事をすることはできない。

仕事をする彼は、瞑想することはできない。

これは、調和ではない。

これは、心の落ち着きではない。

二つの原理、瞑想と行為は、上手く調和しなければならない。

もしあなたが喜んで神聖な命令に従うならば、あなたはあなたに与えられたどのような仕事であっても従事できなくてはならない。

-途方もない仕事であっても-責任があなたにあるという感覚無しにそれに従事した同じ静けさで、次の日には発たなければならない。

あなたは途方もない力で世界で一生懸命に働くことができなければならない。

そして、仕事が終われば、あなたは、長い間、偉大なる心の平安と共に、絶対的な隠遁者として、洞窟の中に籠ることができなければならない。

それが、調和である。

それが、真の強さである。

 

 

Benefits of Meditation(瞑想の効果)

瞑想は、力溢れる強壮剤として機能する。

聖なるエネルギーは、自由に神の足元から探究者(サーダカ)の異なる組織へと流れ出る。

神聖なるヴァイブレーションは、身体のすべての細胞を貫通し、身体の病を癒やす。

瞑想する人は、医者の薬を減らす。

瞑想は、いろいろな感情や衝動をチェックするのを大いに助ける。

もしあなたが、あなたの感情や気分を整えることができるならば、あなたは愚かなことや悪い行為をしないだろう。

もしあなたが、夜に時計のネジを巻くならば、24時間スムーズに動くだろう。

それと同じで、もしあなたが、ブラフマ・ムフータ(霊的な訓練に最も助けになる早朝の時間帯)で1,2時間瞑想するならば、あなたは、一日中、とても平和に仕事をすることができる。

何も、あなたの心を掻き乱すことはできないだろう。

全組織が、霊的なヴァイブレーション、或いは、神聖なる波で包まれるであろう。

定期的な瞑想は、直感的な智識の通路を開き、心を静かで揺るぎないものとし、忘我の感覚を目覚めさせ、至高の魂の源との接触をヨーギーにもたらす。

もし疑いがあれば、あなたがディアーナ・ヨーガの道を着実に進む時、それらは、それら自身によって取り除かれるであろう。

瞑想は、強く純粋な想いを発展させる。

精神的なイメージは、明確になり、はっきりとする。

良い想念が、充分に根付く。

アイディアの浄化を通して、混乱は消える。

あなたは、霊的な階梯の次の走行上で足跡を置くための道を自分自身で感じるであろう。

神秘的な内なる声が、あなたを導くであろう。

これを注意深く聞きなさい。

瞑想の炎は、罪によるすべての汚点を無効にする。

その時、突然、解脱(Mukti)、或いは、最終的な解放へと直接的に至る知識、或いは、神聖なる智慧が、やって来る。

瞑想しなさい。瞑想しなさい。

一分でさえ無駄にしてはいけない。

瞑想は、人生のすべての惨めさを取り除くことだろう。

それが、ただ一つの方法である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「私はハタ・ヨーガの修練をし、「私はブラフマンである」という瞑想も行っています。

この瞑想を初めてしばらくすると、心は空白となり、脳は熱をもち、死の恐怖が湧き起こってきます。

どうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私はブラフマンである」は単なる想念にすぎない。

誰がそれを言うのだろう?

それ自体がそう言うわけではない。

それがそう言う必要があるだろうか?

真の「私」もそう言うことはできない。

なぜなら、「私」はつねにブラフマンとして在るからである。

それを口に出して言うことは単なる想念にすぎない。

それは誰の想念なのか?

すべての想念は偽りの「私」、つまり「私」という想念から立ち現れる。

考えることなしにとどまりなさい。

想念があるかぎりは恐怖もそこに在るだろう。」

 

質問者

「それを想いつづけていくと、そこには忘れる瞬間があり、脳は熱をもち、私は怖くなるのです。」

 

マハルシ

「そうだ。

思考が脳のなかに集中されたため、そこに熱せられたような感覚をもったのである。

それは「私」という想念のためだ。

「私」という想念が起こるとともに恐怖も起こる。

それから忘却に関してだが、そこに想念があるかぎり忘却もあるだろう。

まず、「私はブラフマンである」という想念があり、つづいて忘却が起こる。

忘却も想念も、ただ「私」という想念がために起こる。

それを掴みなさい。

そうすれば、それは幻のように消え去るだろう。

そのあとに残るもの、それが真の「私」である。

それが真我なのである。

「私はブラフマンである」は、他の想念を払いのける集中のためのひとつの助けである。

ひとつの想念だけが優勢なときに、それが誰の想念なのかを見極めなさい。

それは「私」から起こった想念だと知られるだろう。

その「私」という想念はどこからやってきたのだろうか?

そのなかへと探り入りなさい。

すると「私」という想念は消え去る。

そして至高の真我がそれ自身で輝きはじめるだろう。

それから先は何の努力も必要ない。

一者である真の「私」だけが残ったとき、それが「私はブラフマンである」とは言わないだろう。

人が「私は人である」と繰り返し言いつづけるだろうか?

その正当性を疑われ、説明を要求されるまでは、彼自身が人であると宣言する必要があるだろうか?

自分自身を動物と間違え、「いいえ、私は動物でなく人間です」と言う人がいるだろうか?

同じように、ブラフマンあるいは「私」は唯一存在する実在であり、そこにその実在性を疑う他者は存在せず、それゆえ、「私はブラフマンである」と繰り返す必要もないのである。」

 

質問者

「なぜ思考の及ばない点について考えるという自己催眠を用いるべきなのでしょうか?

どうして光の凝視や呼吸の維持、音楽を聴くことや内なる音に耳を傾けること、オームなどの神聖なマントラの復唱といった他の方法を用いないのでしょうか?」

 

マハルシ

「光の凝視は心を麻痺させ、意志をしばらくの間硬直させるが、その効果は永続しない。

呼吸の抑制もまた一時的に意志を麻痺させるが、永続はしない。

音に聞き入ることも、そのマントラが聖なるものであり、想念を高め、浄化する高次の力の助けに守られたものでないかぎり、結果は同じこととなるだろう。」

 

質問者

「私たちは眉間の上の一点に集中するように勧められたのですが、それは正しいことでしょうか?」

 

マハルシ

「誰もが「私は在る」ということに気づいている。

この自覚を脇にのけて、人は神を探しまわる。

眉間に注意を集中させることが何の役に立つというのだろう?

神が眉間にいると言うことはまったく愚かである。

このようなアドバイスの目的は精神集中を助けることである。

それは心の放逸を助ける効果的な方法のひとつであり、心を強制的にひとつの経路に向かわせる精神集中の助けとなる。

だが、真我実現のための最上の方法は「私は誰か?」と問う真我探究である。

現状の問題は心のものであり、それはただ心だけによって取り除かれなければならない。」

 

質問者

「私はいつも同じセンターに集中するわけではありません。

ときには、あるセンターに集中するほうが易しく、別のときには別のセンターのほうが易しいと感じます。

そして、ときおりひとつのセンターに集中していると、ひとりでに別のセンターに移行して集中していることに気づきます。

なぜでしょうか?」

 

マハルシ

「それは、おそらくあなたの過去の修練によるものかもしれない。

だが、どのセンターにあなたが集中しようと、それは問題ではない。

なぜなら、本当のハートはどのセンターにも、そして身体の外にさえも存在しているからである。

身体のどの部分にあなたが集中しようとも、あるいは外側のいかなる対象物に集中しようとも、ハートはそこに在る。」

 

質問者

「あるときにはひとつのセンターに集中し、別のときには別のセンターに集中することができるのでしょうか?

それともつねに一貫して同じセンターに集中するべきでしょうか?」

 

マハルシ

「今私が言ったように、どこに集中しようとも何の害もない。

なぜなら、集中は単に想念を棄て去る手段にすぎないからである。

どのセンターあるいはどの対象に集中しようとも、集中するその人はつねに同じだからである。」

 

質問者

「ある人たちは、粗大な対象にのみ瞑想すべきだと言っています。

絶えず心を殺そうと追いつづければ悲惨な結果を招きかねません。」

 

マハルシ

「誰にとっての悲惨な結果なのだろう?

真我を離れて悲惨があるだろうか?

完全な「私」は無限の大海である。

自我、「私」という想念は、その上にとどまるはかない泡にすぎない。

そしてそれがジーヴァと呼ばれる個我である。

泡もまた、はじけたときに海と溶け合う水でしかない。

それが泡としてとどまっている間も海の一部分なのである。

この単純な真理に無知なために、ヨーガ、バクティ、カルマなどといったたいそうな技術や難解複雑な無数の方法が、さまざまな宗派のもとに教えられてきた。

それもみな、ただ探究者の注目を誘って彼らの心を混乱させるためだけに。

さまざまな宗教も、宗派も、教義もまた同様である。

それらはみな何のためにあるのだろうか?

ただ真我を知るためだけである。

それらは真我を知るために必要な修練とその補助にすぎない。

感覚器官によって知覚された対象物は直接的知識(プラティヤクシャ)と呼ばれる。

だが、感覚器官の助けもなく、つねに体験される真我ほど直接的なものが他にあるだろうか?

感覚的知覚は間接的知覚でしかなく、直接的知識ではありえない。

自己の覚醒のみが直接的知識であって、それはすべての人に共通した体験である。

自分自身の真我を知るためには、いかなる助けも必要とされないからである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(59) 瞑想(ディヤーナ)③

前回から引き続き、「瞑想」についてのヒント、考察をご紹介したいと思います。

 

「瞑想」は、実践することにより、自分なりに、コツやヒントを掴んで行くものですが、スポーツでも、楽器の習得などにおいても、そうですが、熟練者のアドバイスやヒントは、実習者にとっては、特に初心者にとっては、非常に役に立つものです。

 

今回は、特に、実践者が陥りやすい誤りについて、ご紹介したいと思います。

 

ラマナ・マハルシは、真の自己である真我(アートマン)とは、「無心の心の拡がり」であると述べています。

 

この「無心の心の拡がり」がもたらされる「瞑想」について、実現者である先人たちの智慧に与り、実践しながら、実現のプロセスを短縮することは、誰もが授かることができる”神の恩寵”と言えます。

 

早速、見て行きましょう。

 

最初にご紹介しますのは、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」からの抜粋、次は、ラマナ・マハルシによる探究者からの質問へのご回答です。

 

 

Some Useful Hints(いくつかの有益なヒント)

瞑想では、目を見張ってはいけない。

頭を働かせてはいけない。

心(マインド)と闘う、或いは、取っ組み合いをしてはいけない。

それは、重大な誤りである。

多くの初心者は、この重大な過ちを犯す。

それは、彼らが直ぐに簡単に疲れる理由である。

心(マインド)を制御しようと暴力的な努力をしてはいけない。

しかし、しばらくの間、少しばかりの自由を許し、走り回させ、努力を使い尽させなさい。

心(マインド)は、最初は、訓練されていない猿のように、飛び跳ねるであろう。

次第に、それは落ち着いて来るだろう。

その時、あなたは、心(マインド)をあなたの目的(Lakshya)に固定することができる。

任意に、激しく、邪魔をする思考を排除してはならない。

神聖なる思考に流れるのを優しく許しなさい。

邪悪な思考は、自ら、消滅するであろう。

あなたが、六か月間、閉め切られた部屋を掃除し始めると、数々の汚れが部屋の隅から出て来る。

同様に、瞑想中は、ヨーガの圧力下で、神の恩恵を通して、数々の不純さが心(マインド)の表面上に広がる。

適切な方法と反対の徳によって、一つ一つそれらを勇敢に取り除きなさい。

あなたは、日々、あなたのヴァイラーギャ(離欲)と、辛抱、忍耐、慈悲、愛、許し、純粋さ等というようなサットワな徳が増すようにしなくてはならない。

離欲(Vairagya)と良い性質は、瞑想を助ける。

瞑想は、サットワな性質を増す。

あなたが瞑想をする時、あなたが神聖な、またはサットワな徳を発達させる時、霊的な道が、心の中に構築される。

もしあなたが、瞑想を規則的に行っていないと、もしあなたの平静さが欠けると、もしあなたが不注意で不用心になると、霊的な道は、溢れ出る不純な思考と邪悪なヴァーサナ(Vasana:精神的傾向)によって、流されてしまうであろう。

それ故、あなたの瞑想を規則的に行いなさい。

瞑想における規則正しさは、最も重要である。

 

 

Reasons for Failure in Meditation(瞑想における失敗の理由)

修行者の間では「私は、12年間瞑想をしている。私は少しも改善していない。私は実現していない。」という不満が、常にある。

それは、何故なのか?

何が、理由なのか?

彼らは、彼らのハートの最奥の奥底の中に、深い瞑想へ彼ら自身を沈めることがないのだ。

彼らは、当然のことながら、心(マインド)を神の思考で染み込ませていないのである。

彼らは、規則正しく、定期的に霊的修練(Sadhana)をしていない。

彼らは、完全に感覚知覚器官を鍛錬していない。

彼らは、心(マインド)の外へ向かうすべての光線を集めたことがない。

彼らは、「私は、正にこの瞬間に、これを実現するだろう」と、自己決定をしたことがない。

彼らは、100%の心(マインド)-心のすべてを-神に与えたことがない。

もし瞑想者が、10分間、神聖なる思考を持ち、それから、世俗的な相争う思考を次の10分間持つならば、彼は、神聖なる意識に達するのに失敗するであろう。

あなたは、精神力と力強さ、一点集中だけで、兎の後を追わなくてはならない。

あなたは、必ずそれを捕まえる。

あなたは、いつも、神聖なる思考だけを持たなければならない。

その時、あなたは、直ぐに必ず神を覚る。

あなたが、瞑想に取りかかる時は、あなたは、直ぐに果実を切望するのを急ぎ過ぎてはならない。

若い女性は、子孫を得るために、アスバッチャの木を108回、歩き回り、それから直ちに、子供がいるかどうかを見るために、彼女の腹部に触った。

それは、全く馬鹿げたことである。

彼女は、数カ月待たなくてはならないであろう。

同じように、もしあなたが規則的にしばらくの間、瞑想をするならば、その時、心(マインド)は、熟し、そして、ついにあなたは、真我実現を得るであろう。

急いては事を仕損ずる、である。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「バガヴァーン、いつであれ私が瞑想するとき、頭のなかにたいへんな熱を感じ、それでも瞑想しつづけると、全身が燃えるように感じるのです。

どうすればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「脳のなかで精神集中を行なえば、熱の感覚や頭痛さえ起こることは確実だろう。

集中は冷静でさわやかなハートのなかでされなければならない。

リラックスしなさい

そうすれば瞑想も楽になるだろう。

無理せずに、侵入してくるすべての想念を穏やかにかわしながら、心を安定させなさい。

そうすれば、すぐにうまくいくだろう。」

 

質問者

「瞑想中に眠りこまないようにするにはどうすればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「もし眠りを妨げようとすれば、それは瞑想中に考えごとをすることになる。

それは避けられねばならない。

だが、瞑想中に眠りに入れば、その瞑想は睡眠中も目覚めたあとにもつづくことだろう。

しかしながら、ひとつの想念である眠りからも自由にならねばならない。

なぜなら、最終的な自然な状態は、想念の妨害なく意識的にジャーグラト(目覚めの状態)のなかで得られなければならないからだ。

目覚めも眠りも自然な無心状態のスクリーン上に現れた単なる画像にすぎないのである。」

 

質問者

「何に瞑想すればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「何であれ、あなたが好むものに。」

 

質問者

「シヴァ、ヴィシュヌ、ガーヤトリはどれも同様の効果をもつと言われています。

どれに瞑想するべきでしょうか?」

 

マハルシ

「どれでもあなたが一番良いと想うものに瞑想するがいい。

それらはみな同等の効果をもっている。

だが、あなたはひとつに固執すべきである。」

 

質問者

「どのように瞑想すればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが最も好むものに集中しなさい。

もしひとつの想念が優勢になれば、他のすべての想念は追い払われ、つぃには消え去るだろう。

多様性が優勢であるかぎり、悪い想念は存在する。

愛の対象が優勢であるときは、善い想念だけが意識界を制する。

それゆえ、ひとつの想念だけを心に保ちなさい。

ディヤーナがその主要な修練である。

ディヤーナとは闘いを意味する。

あなたが瞑想を始めるやいなや想念は群がり、あなたが保とうとしていたひとつの想念を滅ぼそうとする。

修練が繰り返されることによって、正しい想念が徐々に力をつけていく。

それが強力になったとき、他の想念との闘いが始まる。

これが瞑想のなかでつねに起こる激闘である。

人は自分の不幸を取り去りたい。

それには心の平和が必要である。

それは想念による混乱のない平和である。

そして心の平和は、ただディヤーナによってのみもたらされるのである。」

 

質問者

「真我はハートのなかに座を置きながら、同時にどのセンターまたはチャクラでも機能することができるとシュリー・バガヴァーン自身言われました。

だとすれば、眉間に瞑想することで、あるいは強烈に集中することで、このセンターが真我の座になることも可能なのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが身体のなかの一箇所に注視を固定させたとすれば、真我の座に関するいかなる意見も理論的なものとなってしまう。

あなたはあなた自身を主体あるいは見る者と見なし、あなたが注意を固定させた場所は見られる対象となる。

これでは単なるバーヴァナー(精神的なイメージ)にすぎない。

だがその反対に、もし見る人自身を見れば、あなたは真我のなかに融合し、それとひとつになる。

それがハートである。」

 

質問者

「眉間に集中する修練は望ましいことでしょうか?」

 

マハルシ

「いかなる類の瞑想も、その最終的な結果は、瞑想者が心を固定させていた対象が、主体とは別の分離した存在ではなくなるということである。

それら主体と客体はひとつの真我となる。

それがハートである。」

 

質問者

「なぜバガヴァーンは、ある特定のセンターあるいはチャクラへの集中を指導されないのでしょうか?」

 

マハルシ

「『ヨーガ・シャーストラ』はサハスラーラ(頭頂にあるチャクラ)あるいは脳が真我の座であると伝えている。『プルシャ・スークタ』はハートが真我の座であると述べている。

探究者が疑いをぬぐい去れるように、『私』(“I”-ness)や「私は在る」(“I am”-ness)を、その源にたどり着くため糸口あるいは手掛かりとするようにと私は説いている。

なぜなら、第一に、誰にとってもこの「私」という観念に疑いを抱くことは不可能だからだ。

第二に、いかなる手段を選択しようとも、最終的な目的は「私」(“I”-ness)の源泉の実現であり、それはあなたの根源的な体験所与だからである。

それゆえ、もし真我探究を実践すれば、あなたは真我であるハートに達するだろう。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

『ある訪問者が尋ねた。

「瞑想は真我探究よりも直接的です。

なぜなら、瞑想は真理をとらえ続けますが、真我探究は非真理から真理へと移行していくからです。」

 

マハルシ

「初心者にとっては形ある対象に瞑想することのほうがよりやさしく、好みに合うでしょう。

瞑想を修練することが、非実在から実在へと移行する真我探究に導くのです。

あなた自身が真理に反する要因に満ちているときに、真理にしがみつくことが何の役に立つと言うのでしょうか?

真我探究は、「真我がいまだに実現されていない」とあなたに考えさせる障害を取り除き、それによって直接実現に導くのです。」

 

質問者

「どんなに努力を重ねても、私の心は落ち着きません。

私には心を落ち着かせることができないのです。」

 

マハルシ

「『心とは何かと絶え間なく探求することは、心の消滅をもたらす。

これが直接の道である。」

 

質問者

「ではどうやって心を探し出すのでしょうか?」

 

マハルシ

「心とは想念の束でしかありません。

すべての想念の根源は「私」という想念にあります。

誰であれ『私』という想念の源を探究するなら、その人の自我は消え去る。

これが真の探究である。」

 

質問者

「この『私』という想念は私から立ち現れます。

しかしそれでも私は真我を知らないのです。」

 

マハルシ

「それはすべて精神的概念にすぎません。

現在のあなたは偽りの『私』、すなわち『私』という想念と自己同一視しています。

この『私』という想念は立ち現れては沈みゆきますが、真の『私』はそのどちらをも超えています。

あなたの存在が途切れるということはありえません。

眠っていたあなたが、今目覚めているのです。

深い眠りの中に不幸はありませんでした。

ところが、現在の目覚めの状態には不幸が存在しています。

今この違いが体験されているのは、何が起こったからでしょうか?

眠りの中に『私』という想念は存在していませんでした。

ところが、今それは存在しています。

真の『私』は明らかでないのに、偽りの『私』が自分を誇示しているのです。

あなたの正しい智慧を防げているのはこの偽りの『私』です。

偽りの『私』がどこから立ち現れてくるのかを見いだしなさい。

そうすれば、それは消え去るでしょう。

そのとき、あなたはただ「あるがままのあなた」、つまり究極的存在として在るのです。」

 

質問者

「どうすればよいのですか?

私は今まで成功せずにきたのです。」

 

マハルシ

「『私』という想念の源を探りなさい。

それが為されるべきすべてです。

宇宙全体は『私』という想念ゆえに存在しているのです。

それが終焉すれば不幸も終焉するでしょう。

偽りの『私』が消え去るのは、源が探究されたときだけなのです。

眠りについていた人が、現在目覚めているのです。

眠りの中には幸福が、目覚めの状態には不幸が存在しています。

眠りの中に『私』という想念は存在していませんでした。

しかし今の目覚めの状態には『私』という想念が存在しています。

『私』という想念の存在しない幸福な状態である眠りの中に、努力はありませんでした。

修練の目的は、目覚めている今にさえ眠りの状態をもたらすことなのです。

そのためには努力が必要なのです。」

 

質問者

「どうして瞑想中でさえ心はハートの中に沈まないのでしょうか?」

 

マハルシ

「水面に浮かぶ身体は、何らかの手段を用いないかぎり簡単には沈まないでしょう。

呼吸制御は心を静めます。

心は注意深くあらねばなりません。

そしてたとえ心が平安なときでさえ、たゆまず瞑想を究めようとするべきです。

そうしたとき、心はハートの中に沈みゆくでしょう。

水面に浮かぶ身体も重みを加えれば沈みます。

それと同じように、賢者との交際(サットサンガ)が心をハートに沈ませるでしょう。

そのような交際は精神的なものと身体的なものの両方です。

はっきりと目に見えるグルが探究者の心を内側へと押し入れます。

グルはまた探究者のハートの中にも存在し、内面に向かう彼の心をハートの中へと引き入れます。

このような質問は、瞑想を始めたばかりで困難を感じたときにだけ問われるものです。

少し呼吸制御を修練すれば、心は清められるでしょう。

心がハートの中に沈まないのは、潜在的傾向(ヴァーサナー)が障害となっているからです。

それは呼吸制御、あるいは賢者との交際(サットサンガ)によって取り除かれます。

実際、心は常にハートの中に在るのですが、潜在的傾向のために落ち着きなくうろつき回るのです。

潜在的傾向が作用しないようにすれば、心は安らぎ平和になるでしょう。

呼吸制御をしても心は一時的な静寂しか得られません。

なぜなら、潜在的傾向はまだそこにあるからです。

もし心が真我へと変容されれば、問題を起こすこともなくなるでしょう。

それは瞑想によって為されるのです。」

 

質問者

「どうすれば自己本来の原初の状態を認識できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「想念から絶対的に解放された状態が、そのような認識をもたらすのです。」

(ラマナ・マハルシとの対話(1))

 

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(58) 瞑想(ディヤーナ)②

前回より、ヨーガにおける「瞑想」(ディヤーナ)について、先人たちの智慧の御言葉を辿りながら、詳細にお伝えしています。

 

「瞑想」(ディヤーナ)へのプロセスは、実践により体得され得るものですが、その真の目的と導かれるとされている結果について知ることは、探究者にとっては、努力のプロセスにおける一つの大きな励みになることでしょう。

 

そのことにより、「瞑想」(ディヤーナ)のプロセスが短縮され、より確実に、究極の真理が顕わになるチャンスに与ることも可能となることでしょう。

 

それは、前回の記事の中でご紹介させて頂きましたラマナ・マハルシの御言葉「この無心の心の広がりが真我である。純粋な心が真我なのである。」ということが、体験(瞑想)を通して明らかになる、ということに他なりません。

 

また、それは、想念として現れる心の波(ヴリッティ、Vrtti)が、絶え間ない瞑想状態の中では、相殺されて現れない、ということを意味しています。

 

その辺りの詳細な仕組みは、初めにご紹介しますSwami  Sivanandaの「Bliss Divine」と次にご紹介しますラマナ・マハルシの御言葉の中に、詳しく語られていますので、瞑想をする際の実践的なアドヴァイスとして、ご紹介させて頂きます。

 

 

 

『What Happens during Meditation(瞑想中に何が起こるか?)

瞑想中、現在の溝が、頭の中で形作られ、心(マインド)は、新しい霊的な溝の中へと上昇する。

心(マインド)が、瞑想に固定すると、瞳もまた固定する。

心が静かになったヨーギーは、固定した瞳を持つだろう。

全く瞬きしないであろう。

眼は、光沢をおび、赤か純白になるであろう。

あなたが、非常に深い静寂な瞑想に入ると、呼吸は鼻から出ないであろう。

時折、肺と腹部のゆっくりとした動きがあるかもしれない。

深い継続した瞑想では、思考は止む。

“我、それなり”(Aham Brahm Asmi)という一つの考えだけがある。

この考えもまた放棄されると、ニルヴィカルパ・サマディ(Nirivikalpa Samadhi)、或いは、サハジャ・アドヴァイタニシュチャ(Sahaja-advaitanishtha)が起こる。

塩が水に溶けるように、サットワ(善性)な心(マインド)は、その根本であるブラフマンの沈黙に溶ける。

 

 

Aids to Meditation(瞑想への助け)

瞑想中、あなたは、静かで、明晰で、純粋で、微細で、鋭利で、安定した一点集中の知性を持たなくてはならない。

ブラフマンは、純粋で微細であるため、ブラフマンに近づくには、あなたには純粋で微細な心(マインド)が必要である。

もしあなたが、緑の森に火を放ったら、それは燃えるだろう。

もしあなたが、乾いた木片に火を放ったら、それは直ぐに、炎を捕らえ、燃えるであろう。

同じように、心を浄化しなかった人々は、瞑想の炎を開始することができないであろう。

彼らが瞑想中に座っている時に、彼らは、眠っているか、夢見ているか――空中に城を建てているであろう。

しかし、神の御名の称名(Japa)や、奉仕、寄付、プラーナヤーマなどで、心の不純さを取り除いた人々は、彼らが瞑想のために坐るや否や、深い瞑想に入るであろう。

純粋で、成熟した心(マインド)は、直ぐに、瞑想の炎で燃えるであろう。

瞑想の目的のために、すべてのモノは、サットワ (Sattvic、善性)でなければならない。

瞑想の場所は、サットワでなければならない。

食べ物は、サットワでなければならない。

衣服は、サットワでなければならない。

仲間も、サットワでなければならない。

話すことも、サットワでなければならない。

あなたが聞く音は、サットワでなければならない。

考えることも、サットワでなければならない。

学びは、サットワでなければならない。

すべてが、サットワでなければならない。

その時だけ、霊性修行において良い進歩が、可能である。

特に、初心者に関しては。

早朝の修練(Brahma Muhurta)で、瞑想を練習しなさい。

これは、瞑想にとって、最も良い時間である。

あなたは、早朝の時間には、鮮明で静かな心(マインド)を持つことができるであろう。

心(マインド)は、空白の紙片、或いは、空の文字盤のようであり、この時には、世俗的な残存印象(Samskaras)、或いは、印象からかなり自由である。

心(マインド)は、あなたが好きなやり方で、非常に簡単にかたどられる。

あなたは、神聖なる思考で、今や容易に心(マインド)を満たすことができる。

その時、霊的な影響や神秘の静寂がある。

すべての聖者やヨーギーは、この期間に瞑想を実践し、彼らの霊的なバイブレーションを全世界に送った。

あなたは、もしあなたが、あなたの祈りやジャパ(神の御名の詠唱)や瞑想を始めるならば、彼らのバイブレーションによって、大いに恩恵を受けるであろう。

あなたは、努力する必要がない。

心(マインド)の瞑想状態は、心(マインド)そのものから生じる。

同じ時間帯に、一定の規則正しい瞑想を実践しなさい。

あなたは、簡単に、瞑想的な状態を獲得するであろう。

瞑想中、脳は熱くなるので、ウッタルカシ、リシケシ、ラークシャマンディール、カンクール、バドリナラヤンのような、霊的な振動状態を持つ人里離れた場所、温暖な気候で涼しくサットワな場所は、心の集中や瞑想には、ぜひとも必要である。

ガンジス河の畔や、ナラマダ、ヒマラヤの風景、美しい花園、聖なる寺院など――これらは、心を集中させ、瞑想を高める場所である。

それらに頼りなさい。

あなたは、心(マインド)が、あらゆる心配を超えている時にだけ、瞑想できる。

すべての身体的な活動は、完全に一時的に休止されるべきである。

もしあなたが、ディヤーナ(瞑想)ヨーガを実践したいのであれば、もしあなたが、心(マインド)の集中を通して神を悟りたいのであれば、すべての(家族への)愛着は、5、6年の間は完全に、情け容赦なく切り離されるべきである。

新聞を読んだり、友人や親戚との手紙のやり取りすることは、心(マインド)を散らし、世俗的な考えを強化するので、完全に止められるべきである。

5、6年の間の隠遁生活は、不可欠である。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「ディヤーナとサマーディの違いは何でしょうか?」

 

マハルシ

「ディヤーナは意図的な精神的努力によって達成される。

サマーディにおいてはそのような努力はない。」

 

質問者

「ディヤーナの最中に心にとどめておくべきこととは何でしょうか?」

 

マハルシ

「真我の内に確立(アートマニシター)された人にとっては、一瞬でさえその忘我状態から動いてはならないことが重要である。

真の本性からそれると、彼は燦然と輝く光を見たり、霊妙な音を耳にしたり、彼の内面あるいは外面に現れる神々の幻想を実在だと見なしたりしてしまう。

彼はけっしてこのようなことに惑わされて自己を見失ったりしてはならない。」

 

質問者

「どのように瞑想を修練すればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「本来の意味においては、瞑想とはアートマニシター(真我の内に確立されること)である。

だが、想念が起こり、それを打ち消そうと努力をするとき、その努力がふつう瞑想と呼ばれている。

アートマニシターはあなたの真の本性なのだ。

あるがままのあなたとしてとどまりなさい。

これがその目的である。」

 

質問者

「それでも想念は起こります。

私たちの努力は消去することだけにあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

ひとつの想念だけに瞑想することで、他の想念は遠ざけられる。

瞑想は想念が遠ざけられるというだけの消極的な効果しかもっていない。」

 

質問者

「アートマ・サンスターム・マナハ・クリドヴァー」(心を真我の内にとどめる)と言われています。

しかし、真我とは思考の及ばないものなのではありませんか?」

 

マハルシ

「いったいなぜ瞑想したいと願うのだろうか?

あなたが瞑想したいから、「アートマ・サンスターム・マナハ・クリトヴァー」と言われたのではないだろうか?

なぜ瞑想なしに、あるがままのあなたとしてとどまらないのかね?

「マナハ」(心)とは何だろうか?

すべての想念が消え去ったとき、それは「アートマ・サンスター」(真我の内にとどまる)となるのである。」

 

質問者

「もし何かの形が与えられたなら、私はそれに瞑想することができます。

そして他の想念は消え去ることでしょう。

しかし、真我は無形なのです。」

 

マハルシ

「形や具体的対象物に瞑想することがディヤーナと呼ばれる。

一方、真我の内に尋ね入ることは、ヴィチャーラあるいはニディディアーサナ(存在への不断の自覚)と呼ばれる。」

 

質問者

「ディヤーナのなかには、感覚的な快楽よりもより深い喜びがあります。

それにもかかわらず、心は快楽のあとを追いかけ、ディヤーナを求めようとはしません。

なぜなのでしょうか?」

 

マハルシ

「快楽や苦痛は心の側面にすぎない。

われわれの本質的な本性は至福である。

だが、われわれは真我を忘れ、身体と心を真の自己だと想像してしまう。

この誤った同一視が不幸をもたらすのだ。

いったいどうするべきだろうか?

この心の潜在的傾向は非常に古いものであり、無数の過去生を通してつづいてきた。

それゆえ、強い影響力をもってしまった。

本来の姿である至福が自然に現れでる前に、それが去らなければならない。」

 

質問者

「ディヤーナはどのように行うのでしょうか、目を開けてでしょうか、閉じてでしょうか?」

 

マハルシ

「どちらの方法でも良いだろう。

要点は、心が内側に向かい、その目的遂行に専心することである。

目を閉じていると、ときおり潜在していた想念が強烈な勢いで湧き起こってくることがある。

目を開いていると、内側に向かうことが困難になることは確かである。

そうするためには精神力が要求される。

心は対象物を取り入れると穢れてしまう。

さもなければ、それは純粋なままである。

ディヤーナにおける要点は、外的な印象を取り入れることなく、他のことを考えることなしに、心が目的追求に打ち込むことにある」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

『風のない所に置いた燈火が

けっしてゆらめくことがないように

心を支配したヨーギーの瞑想は

真我(アートマン)に安定して微動だにしない

ヨーガの実修によって

心の動きを完全に支配し得たところの

無上の境地をサマーディと言う

これは清浄な心をもって自己の本質を知見し

それを味わい楽しむことである

この喜ばしくめでたき境地にあって

人は妙々至楽の歓喜地に住む

霊感覚によって自らを楽しむ

この境地に定着すれば真理より離れることなく

その人は至高最大の宝を得たことを知る

ここに定住すれば

いかなる困難にも動揺せず

一切の苦より脱して

真実の大自由を得るのである』

(バガヴァッド・ギーター 第六章十九)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(57) 瞑想(ディヤーナ)①

近年、日本でも多くの場所で、初心者、熟練者を問わず、ヨーガを学ぶための教室やセミナー、ワークショップなどが開催され、多くの人が、ヨーガを実践する機会に恵まれ、その時代的傾向は、年々強まってきています。

 

ただ、そのようなヨーガ・ブームとも言えるような流れの中でも、「ヨーガ」という言葉が指しているのは、「ヨーガ・アーサナ」(長時間坐るための坐法)であることが多いようです。

プラーナヤーマ(調気法)やマントラ(呪文)を適切に教える(伝授とも言います)ことができる教師(グル)は、日本だけではなく世界においても少なく、瞑想(ディアーナ)に至っては、適切に指導できる教師(グル)は、更に少ないのが、実情でしょう。

 

所謂、覚醒体験(真我実現)に至るヨーガにおける、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマまでの4段階については、詳細な説明がなされている書籍などがありますので、情報を入手し、実践することは、比較的容易ですので、今回からは、次の段階「瞑想」(ディヤーナ)について、詳細にご紹介したいと思います。

 

特に、八段階に分けて提唱されているアシュタンガ・ヨーガなどの古典的ヨーガにおいては、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマは、「瞑想」(ディヤーナ)を実践するための準備段階における実践(サーダナ)と位置付けられています。

 

古来から「ヨーガ」とされてきた実践体系である「ヨーガ」の目的は、難解なポーズ(アーサナ)ができるようになることではありません。

 

ヨーガは、真我の目覚め(真我実現)のために用意された実践プログラムであり、実践者は、「瞑想」(ディヤーナ)を経て、魂の最終目的である「解脱」(サマーディ)へと至る長い長いプロセス(行程)を、飛躍的に短縮するのに役立つようにと、長い年月をかけて、体験者たちによって、考案された叡知の結集の成果と言えます。

 

その中でも、最も重要である「瞑想」(ディヤーナ)について、ヨーガにおいては、どのようにとらえられているか?を見て行きたいと思います。

 

最初にご紹介するのは、Swami  Sivanandaの「Bliss Divine」、次は、ラマナ・マハルシの「瞑想」についての質問者への御言葉です。

 

 

 

MEDITATION(瞑想)

有徳な人生を送ることは、それ自体、神の実現には充分ではない。

心(マインド)の集中は、絶対的に必要である。

良い有徳な人生は、心(マインド)に、適した指導として、集中や瞑想のため準備をするだけである。

やがて、自己実現(Self-Realization)に導くのは、集中と瞑想である。

瞑想の助けなしで、あなたは自己の智識に達することはできない。

その助けなしで、あなたは神聖なる状態へと成長することはできない。

それなしには、あなたは心の束縛からあなた自身を自由にし、不死を獲得することはできない。

瞑想は、救済の獲得、或いは、解脱への唯一の王道である。

それは、地上から天国へ、誤りから真実へ、闇から光へ、苦しみから至福へ、落ち着きのなさから永久的な平和へ、無知から智識へと達する神秘の階段である。

死ぬべき運命から不死へと達する階段である。

 

 

What Is Meditation?(瞑想とは何か?)

瞑想は、神意識の途切れることのない流れを持ち続けることである。

すべての世俗的な思考は、心(マインド)から閉鎖される。

心(マインド)は、神聖なる想い、神聖なる栄光、神聖なる存在で満たされる、或いは、浸される。

瞑想は、ヨーガの階梯では、七番目の段である。

ヨーギーは、これを“ディアーナ”と呼ぶ。

ジニャーナは、これを“ニディディアーサナ“と呼ぶ。

バクティは、これを“バジャーナ“と呼ぶ。

身体を忘れなさい。

環境を忘れなさい。

忘れることは、最も高いサーダナ(霊的修練)である。

それは、瞑想を大いに助ける。

それは、神へと近づくことをより簡単にする。

神を思い出すことによって、あなたは、すべてのこれらのことを忘れることができる。

イエス・キリストは言う「あなたを空にすれば、私はあなたを満たすであろう」

これは、聖仙パタンジャリの「ヨーガは、すべての精神作用の絶滅である」という教えに匹敵する。

この無にするプロセス、或いは、心を空っぽにすることは、間違いなく、骨の折れる訓練である。

しかし、熱情的なタイプの継続的な実践は、成功をもたらすであろう。

これには疑いはない。

大きな都市では、夜の8時に、多大な賑わいや音がある。

9時には、それほど多くない賑わいや音がある。

10時には、更に減少し、11時には、もっと少なくなる。

夜中の1時には、何処でも平和がある。

これと同じで、ヨーガ的な実践の始まりには、心の中に数え切れない波(Vrittis)がある。

心の中に、多くの興奮や動揺がある。

次第に、思考の波は、静まる。

最後には、すべての精神的な緩和が制御される。

ヨーギーは、完全なる平和を楽しむ。

 

 

How to Practice Meditation(瞑想を実践する方法)

パドマ・アーサナ、シッダ・アーサナ、シュクラ・アーサナで人里離れた場所で坐りなさい。

すべての情熱、熱情、刺激からあなた自身を自由にしなさい。

感覚を征服しなさい。

心(マインド)を対象から引き離しなさい。

すると、心(マインド)は、静かになり、一点に集中し、純粋で微細になるであろう。

この修練された心(マインド)という訓練された道具の助けで、一つの不滅の自己について沈思黙想しなさい。

他の何かについて考えてはいけない。

世俗的な思考に、心に入ることを許してはならない。

心(マインド)に、身体や精神的な喜びについて考えることを許してはならない。

これらの考えに耽る時は、それをハンマーで打ちなさい。

その時、それは神へと動くであろう。

ガンジス河が、連続して海に向かって流れて行くように、神についての想いは、神に向かって、切れ目なく流れて行くべきである。

油のように、一つの瓶から別の瓶へ注がれる時、途切れることのない継続した流れで流れる。

ベルの響きから生まれた調和した音が継続した流れとして、耳の上におちるように、同じように、心(マインド)は、一つの継続した流れとなって、神へと流れるべきである。

あなたが瞑想を始める前に、あなたは、神、或いはブラフマンの―具体的、又は、絶対的な-精神的なイメージを持たなくてはならない。

あなたが、瞑想で初心者である時、瞑想のために座ったら直ぐに、10分間は、いくつかの崇高な聖句(Slokas)や、聖歌(Stotoras)を繰り返しなさい。

これは、心(マインド)を高揚させるであろう。

心(マインド)は、簡単に世俗的な事柄から引っ込めることができる。

その時、またこの種の思考を停止し、度重なる奮闘によって、一つの考えのみに固定しなさい。

その時、瞑想(Nishtha)が起こるであろう。

あなたが火を起こす時、あなたは、いくらかの藁や、紙や小さな木片を積み上げる。

火は、素早く消える。

あなたは、口や吹きパイプを通して、何度も吹かなればならない。

何回かの後に、それは、小さな火となる。

あなたは、多くの努力をもってしても、今やそれをなかなか消せない。

そのようにして、瞑想の初心者の初めの段階では、彼らは、瞑想から彼らの古い決まりきった型の中へと落下する。

彼らは、何度も何度も、彼らの心(マインド)を持ち上げ、目的(Lakshya)に固定しなくてはならないであろう。

瞑想が、深く定着するようになると、彼らは、やがては、神に確立する。

その時、瞑想は、自然(Sahaja)となる。

それは、習慣となる。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「瞑想(ディヤーナ)と探求(ヴィチャーラ)にはどのような違いがあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それらはどちらも同じ結果に達する。

探求に適さない人は瞑想を修練すべきである。

瞑想のなかで真理の探究者は、自己を忘れて「私はブラフマンである」、「私はシヴァである」と瞑想し、この方法でブラフマンあるいはシヴァをとらえる。

これが最終的には、存在としてのブラフマンあるいはシヴァという覚醒として残る。

そのとき、彼はこれが純粋な存在、真我であることを悟るのである。

真我を探究する人は、彼自身をとらえる。

そして「私は誰か?」と自分自身に尋ねることによって、真我は明らかにされるのである。

自分自身を存在―意識―至福として輝く至高の実在だと精神的に想像することが瞑想である。

非実在の迷妄の種子が途絶えるように、心を真我の内にしっかりととどめることが真我探究である。

何であれ、バーヴァ(精神的イメージ)を心に描きながら真我に瞑想する者は、そのイメージのなかに現れたものにしか到達できない。

そのようなバーヴァなしに沈黙にとどまる心安らかな者は、形なき真我、崇高な限定されないカイヴァリヤ(解脱)の状態に到達する。」

 

質問者

「瞑想は真我探究よりも直接的です。

なぜなら、瞑想は真理をとらえつづけますが、真我探究は、非真理から真理へと移行していくからです。」

 

マハルシ

「初心者にとっては、形態に瞑想することのほうがよりやさしく、好みに合うだろう。

瞑想を修練することが、非実在から実在へと移行する真理探究に導くのである。

あなた自身が真理に反する要因に満ちているときに、真理にしがみつくことが何の役に立つというのだろうか?

真我探究は、あなたに真我がいまだ実現されていないと考えさせる障害を取り除き、それによって直接実現に導くのである。

瞑想は探究者の熟達の程度にしがたって異なる。

もし適した人なら、彼は直接に思考者をとらえるだろう。

そうすることで、思考者は彼の源である純粋意識のなかへと沈みゆくだろう。

もし思考者を直接とらえることができないとすれば、神に瞑想しなければならない。

そして機が熟したとき彼は思考者を直接とらえるにじゅんぶんなほど純粋になり、絶対なる存在のなかへと沈みゆくだろう。

瞑想は自我が保たれた状態にのみ可能である。

そこには自我があり、瞑想される対象者がある。

そのため、その方法は直接的とは言えない。

瞑想する主体である自我と瞑想の対象が存在するかぎり、それは二元性のなかにあるからだ。

だが、真我はひとつなのである。

自我を探りだすこと、つまりその源を探究することで自我は消滅し、あとにはただ真我だけが残る。

これが直接的方法である。」

 

質問者

「瞑想では内面へ入って行く方法が見つかりません。

 

マハルシ

「いったい他のどこに、今われわれがいるというのかね?

われわれの存在そのものが内面にあるのだ。」

 

質問者

「それにもかかわらず、私たちはそのことに無知なのです。」

 

マハルシ

「何についての無知だろう?

誰の無知だと言うのかね?

もし真我についての無知だと言うなら、そこに二つの自己があると言うのだろうか?」

 

質問者

「二つの自己があるわけではありません。

しかし、限定されているという感覚は否定し難いものです。

限定のために。。。。」

 

マハルシ

「限定は心のなかにしか存在しない。

あなたはそれを深い眠りのなかでも感じるだろうか?

いいや、深い眠りのなかに限定の感覚はない。

あなたは眠りのなかで存在していた。

同じ真我が、今ここで目覚めの状態にも存在しているのだ。

あなたは今、限定があると言っている。

つまり目覚めと眠りの状態の間に違いが現れたのは今である。

その違いは心によって現れた。

つまり限定は心によって現れたのだ。

眠りのなかに、心は存在していなかった。

その反対に、今それは活動している。

だが、心が存在しなくとも真我は存在するのである。」

 

質問者

「それを理解することはできても、真我を実現することができないのです。」

 

マハルシ

「瞑想とともに徐々に明らかにされていくだろう。」

 

質問者

「瞑想は心をともなうものです。

どうしてそれが心を殺せるというのでしょうか?」

 

マハルシ

「瞑想とはひとつの想念だけを想いつづけることだ。

そのひとつの想念が他のすべての想念を遠ざける。

心の散漫は精神力の弱さの兆候である。

たゆみなく瞑想をつづけることによって心は力を得ていく。

つまり、移り変わりやすい心の弱さが、その背後にある恒久的な無心状態に場を明け渡すのだ。

この無心の心の広がりが真我である。

純粋な心が真我なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

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