永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(60)瞑想(ディヤーナ)④

前回まで3回に渡り、「瞑想」について学んできました。

 

瞑想法には、大きく分けて、「ヴィパッサナー瞑想」(観行)と「サマタ瞑想」(止行)という実践方法が異なる瞑想法が、昔より伝えられ、今尚広く実践されていますが、それらのやり方をご紹介するのは、他にお任せすることにし、どのような「瞑想」であろうとも、共通する目的や実践することによって起こる(とされている)結果について、また、実践における注意事項などをご紹介させて頂きたいと思います。

 

今の世界で広く実践されている「マインドフルネス瞑想」は、「ヴィパッサナー瞑想」と言えます。

 

己の(心)の中に、深く潜っていく手段として、「内観」もありますが、「内観」は、主に、「記憶」の軸を辿って、過去の「己」と向き合い、過去に起きた出来事とそれに対する己の心の反応を内省し、改めていろいろな角度から観ることが、己の心の中にあるブロックとして働いている様々な過去に生じたエネルギーの蟠りが、溶けて解消されて行く方向に作用するため、それらのエネルギー的なブロックが取り除かれることで、心の浄化がもたらされるという効果があります。

しかしながら、「内観」は、「瞑想」と並行して実践することは可能ですが、基本的には、「瞑想」とは異なります。

 

「瞑想」の中でも、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)は、過去の自分と向き合うことではなく、今この瞬間の自分と向き合うことです。

身体や心(脳)に起きていることを、ただ眺める(観照)ことであり、それ故、観行(観る行)と言われています。

 

ヨーガにおいては、意識が、プラティヤハーラ(制感)→ダーラナ(集中)→ディアーナ(瞑想)と移行するにつれ、心の安定と静寂が訪れ、その先に、(神の恩寵があれば)サマディ(三昧)に入って行くと説かれています。

 

このサマディ(三昧)状態こそが、自己の意識が、真の自己である真我(アートマン)と一つに溶け合った状態であり、ヨーガにおける修行の最終的な目的とされています。

 

約5年前に翻訳出版しました「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」の中で、スワミ・ラーマは、このように語っています。

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマン(真我)は分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。』

 

長年、ヒマラヤで修行した優れたヨーガ行者であるスワミ・ラーマは、このようにハッキリと私たち人間の(エネルギー的な)構造を、分かり易い言葉で解説してくれていますが、「瞑想」は、この最も粗大な物質的な鞘(食物鞘)である肉体よりも微細な領域であるプラーナ鞘(生気鞘)よりも微細な領域を次々と通り抜け、最終的には、アートマン(真我)を覆っている最奥の鞘である歓喜鞘に至るために、私たち人間が実践できる方法は、唯一「瞑想」である、と結論づけています。

 

「意識」だけが、歓喜鞘に至る唯一の道を通り抜けることができます。

その「意識」は、虫眼鏡で集められ、一点に絞られた光線が、小さな穴を通り抜けていくように作用するのと同じく、超微細でありながら、鋭利な力を持った「意識」と言えます。

自己の「意識」が、真の自己であるアートマン(真我)に触れている「歓喜鞘」に至るためには、「瞑想」で「意識」を鍛錬する必要があるのです。

 

「瞑想」については、今回が最終回となりますが、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」からの抜粋と、ラマナ・マハリシの質問者への御言葉より、ご紹介したいと思います。

特に今回ご紹介しますラマナ・マハリシの御言葉は、探究者であるならば、何度も何度も読み返して頂きたい程の素晴らしい内容です。

 

私たちは、今も、真の自己であるアートマン(真我)を直接体験しています。

その直接体験は、「瞑想」を通さなくても、起きているのですが、私たち(個我である”エゴ”)が、そのことを知り、納得するには、意識が瞑想状態を通り抜けることが必要なのです。

それは、客観的に知る、ということが起きないと、エゴ(自我)は、心底納得しないからと言えます。

 

すでに直接体験している真の自己であるアートマン(真我)は、「瞑想」を通して、間接的に知ることで、その存在についての確証が起こるため、偽我である個我というエゴは、「私は誰か?」の答えに行き着くことができるのです。

 

以前の記事(ヨーガ②)でご紹介しましたが、

『心においては、三つの弱点、マラ(不純)、ヴィクシェパ(混乱)、アバラナ(無知)がある。

不純は、カルマ・ヨーガの実践によって取り除かれるべきである。

混乱は、ウパーサナ(礼拝)によって取り除かれるべきである。

無知は、ジニャーナ・ヨーガの実践によって、破壊されるべきである。

その時だけ、自己実現(Self-Realisation)は、可能である。

もし、あなたが、鏡で自分の顔をはっきりと見たいのであれば、あなたは鏡の汚れを取り除き、その状態を維持し、そして覆いを取り除かなければならない。

あなたは、濁りが取り除かれ、風によって波立たされた水面が静かになり、表面にある苔が取り除かれた時にだけ、湖面にはっきりと自分の顔を見ることができる。

自己実現(Self-Realisation)とは、そういうものである。』

 

この心における三つの弱点を取り除くためには、「瞑想」は必要不可欠であり、「瞑想」状態を通って初めて「意識」は、「歓喜鞘」に至り、真の自己であるアートマン(真我)に接触することができるようになります。

 

こうして、アートマン(真我)の直接体験である「真我実現」は、「瞑想」状態を経て、特殊な意識体験として、偽我である個我である私たちに起こるため、「瞑想」の実践は、真我探究において、非常に重要であり、必要不可欠と言えます。

 

 

 

Experiences in Meditation(瞑想における体験)

いろいろな人たちが、瞑想でいろいろな霊的な体験をしている。

すべての人に共通の体験はあり得ない。

それは、気質、霊的修養(Sadhana)、集中の場所、そしていろいろな他の要因によっている。

中には、耳の中にメロディーのある音を聞く人もいる。

光を見る人もいれば、精神的な至福(Ananda)を得る人もいる。

光輝(Prakasa)と至福(Ananda)両方を得る人もいる。

瞑想中は、あなたは、あなたがあなたの咳から立ち上るということを体験するかもしれない。

彼らが、空を飛ぶという体験もある。

もしあなたが、集中した瞑想中に、真我の一瞥の体験を得るならば、もしあなたが、瞑想中に、光り輝く光を見るならば、もしあなたが、天使や大天使、リシ(聖仙)、ムニ(賢者)、神々(Devatas)のヴィジョンを得るならば、そして、その他の風変わりな霊的な体験を得るならば、恐れに陥ってはならない。

それらを亡霊だと間違えてはならない。

霊的な修練(Sadhana)を諦めてはならない。

コツコツと進みなさい。

一生懸命に励みなさい。

ヴェールの後のヴェールを破りなさい。

探求者は、直ぐに霊的な体験を得たいと熱望する。

彼らがそれらを得るや否や、彼らは恐れる。

彼らが身体的意識を超えると、彼らは恐ろしいほど不安になる。

彼らは、彼らが再び戻れるかどうか、束の間の驚異の念を抱く。        

彼らは、何故、すべてを恐れるのであろうか?

彼らが、身体的な意識に戻るかどうかは、大した問題ではない。

すべての我々の試みは、主に、この身体的な意識を超えることに向けられるている。

我々は、ある限定に慣れている。

これらの限定が、突然に落ちてしまう時、我々は、立つために残された限定された基礎はないと感じる。

それは、我々が身体的な意識を超える時に恐れる理由である。

それは、新しい体験である。

勇気が、必要とされる。

勇敢さは、不可欠な必要条件である。

時々、悪い霊があなたを悩ませる。

彼らは、長い歯を持ち、恐ろしく怖い顔をしているかもしれない。

彼らを、あなたの強い意志力で追い払いなさい。

「出て行け」という命令の言葉を与えなさい。

彼らは、去って行くだろう。

彼らは、吸血鬼である。

彼らは、精霊である。

彼らは、探究者(Sadhakas)には、悪いことをしないであろう。

あなたの勇気は、ここで試されるであろう。

もしあなたが臆病なら、あなたは更に進むことができない。

無尽蔵の源である内なる真我(Atman)から、力と勇気を引き出しなさい。

あなたはまた、非常に良い霊に出会うであろう。

彼らは、あなたが前へ進むのを大いに助けるであろう。

瞑想中は、あなたが見るヴィジョンの中には、あなた自身の物質化した思考もあるし、現実的な外界のヴィジョンもある。

もしあなたの一般的な健康状態が健全なら、もしあなたが、身体的にも精神的にも、快活で、幸せで、力強いなら、もし心(マインド)が平和で平穏であるならば、もしあなたが瞑想で至福(Ananda)を得るならば、もしあなたの意志が、強く、純粋で抵抗がないようになれば、あなたは瞑想において進歩しており、すべては上手く行っていると思いなさい。

 

 

Meditation and Work(瞑想と仕事)

瞑想をする彼は、仕事をすることはできない。

仕事をする彼は、瞑想することはできない。

これは、調和ではない。

これは、心の落ち着きではない。

二つの原理、瞑想と行為は、上手く調和しなければならない。

もしあなたが喜んで神聖な命令に従うならば、あなたはあなたに与えられたどのような仕事であっても従事できなくてはならない。

-途方もない仕事であっても-責任があなたにあるという感覚無しにそれに従事した同じ静けさで、次の日には発たなければならない。

あなたは途方もない力で世界で一生懸命に働くことができなければならない。

そして、仕事が終われば、あなたは、長い間、偉大なる心の平安と共に、絶対的な隠遁者として、洞窟の中に籠ることができなければならない。

それが、調和である。

それが、真の強さである。

 

 

Benefits of Meditation(瞑想の効果)

瞑想は、力溢れる強壮剤として機能する。

聖なるエネルギーは、自由に神の足元から探究者(サーダカ)の異なる組織へと流れ出る。

神聖なるヴァイブレーションは、身体のすべての細胞を貫通し、身体の病を癒やす。

瞑想する人は、医者の薬を減らす。

瞑想は、いろいろな感情や衝動をチェックするのを大いに助ける。

もしあなたが、あなたの感情や気分を整えることができるならば、あなたは愚かなことや悪い行為をしないだろう。

もしあなたが、夜に時計のネジを巻くならば、24時間スムーズに動くだろう。

それと同じで、もしあなたが、ブラフマ・ムフータ(霊的な訓練に最も助けになる早朝の時間帯)で1,2時間瞑想するならば、あなたは、一日中、とても平和に仕事をすることができる。

何も、あなたの心を掻き乱すことはできないだろう。

全組織が、霊的なヴァイブレーション、或いは、神聖なる波で包まれるであろう。

定期的な瞑想は、直感的な智識の通路を開き、心を静かで揺るぎないものとし、忘我の感覚を目覚めさせ、至高の魂の源との接触をヨーギーにもたらす。

もし疑いがあれば、あなたがディアーナ・ヨーガの道を着実に進む時、それらは、それら自身によって取り除かれるであろう。

瞑想は、強く純粋な想いを発展させる。

精神的なイメージは、明確になり、はっきりとする。

良い想念が、充分に根付く。

アイディアの浄化を通して、混乱は消える。

あなたは、霊的な階梯の次の走行上で足跡を置くための道を自分自身で感じるであろう。

神秘的な内なる声が、あなたを導くであろう。

これを注意深く聞きなさい。

瞑想の炎は、罪によるすべての汚点を無効にする。

その時、突然、解脱(Mukti)、或いは、最終的な解放へと直接的に至る知識、或いは、神聖なる智慧が、やって来る。

瞑想しなさい。瞑想しなさい。

一分でさえ無駄にしてはいけない。

瞑想は、人生のすべての惨めさを取り除くことだろう。

それが、ただ一つの方法である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「私はハタ・ヨーガの修練をし、「私はブラフマンである」という瞑想も行っています。

この瞑想を初めてしばらくすると、心は空白となり、脳は熱をもち、死の恐怖が湧き起こってきます。

どうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私はブラフマンである」は単なる想念にすぎない。

誰がそれを言うのだろう?

それ自体がそう言うわけではない。

それがそう言う必要があるだろうか?

真の「私」もそう言うことはできない。

なぜなら、「私」はつねにブラフマンとして在るからである。

それを口に出して言うことは単なる想念にすぎない。

それは誰の想念なのか?

すべての想念は偽りの「私」、つまり「私」という想念から立ち現れる。

考えることなしにとどまりなさい。

想念があるかぎりは恐怖もそこに在るだろう。」

 

質問者

「それを想いつづけていくと、そこには忘れる瞬間があり、脳は熱をもち、私は怖くなるのです。」

 

マハルシ

「そうだ。

思考が脳のなかに集中されたため、そこに熱せられたような感覚をもったのである。

それは「私」という想念のためだ。

「私」という想念が起こるとともに恐怖も起こる。

それから忘却に関してだが、そこに想念があるかぎり忘却もあるだろう。

まず、「私はブラフマンである」という想念があり、つづいて忘却が起こる。

忘却も想念も、ただ「私」という想念がために起こる。

それを掴みなさい。

そうすれば、それは幻のように消え去るだろう。

そのあとに残るもの、それが真の「私」である。

それが真我なのである。

「私はブラフマンである」は、他の想念を払いのける集中のためのひとつの助けである。

ひとつの想念だけが優勢なときに、それが誰の想念なのかを見極めなさい。

それは「私」から起こった想念だと知られるだろう。

その「私」という想念はどこからやってきたのだろうか?

そのなかへと探り入りなさい。

すると「私」という想念は消え去る。

そして至高の真我がそれ自身で輝きはじめるだろう。

それから先は何の努力も必要ない。

一者である真の「私」だけが残ったとき、それが「私はブラフマンである」とは言わないだろう。

人が「私は人である」と繰り返し言いつづけるだろうか?

その正当性を疑われ、説明を要求されるまでは、彼自身が人であると宣言する必要があるだろうか?

自分自身を動物と間違え、「いいえ、私は動物でなく人間です」と言う人がいるだろうか?

同じように、ブラフマンあるいは「私」は唯一存在する実在であり、そこにその実在性を疑う他者は存在せず、それゆえ、「私はブラフマンである」と繰り返す必要もないのである。」

 

質問者

「なぜ思考の及ばない点について考えるという自己催眠を用いるべきなのでしょうか?

どうして光の凝視や呼吸の維持、音楽を聴くことや内なる音に耳を傾けること、オームなどの神聖なマントラの復唱といった他の方法を用いないのでしょうか?」

 

マハルシ

「光の凝視は心を麻痺させ、意志をしばらくの間硬直させるが、その効果は永続しない。

呼吸の抑制もまた一時的に意志を麻痺させるが、永続はしない。

音に聞き入ることも、そのマントラが聖なるものであり、想念を高め、浄化する高次の力の助けに守られたものでないかぎり、結果は同じこととなるだろう。」

 

質問者

「私たちは眉間の上の一点に集中するように勧められたのですが、それは正しいことでしょうか?」

 

マハルシ

「誰もが「私は在る」ということに気づいている。

この自覚を脇にのけて、人は神を探しまわる。

眉間に注意を集中させることが何の役に立つというのだろう?

神が眉間にいると言うことはまったく愚かである。

このようなアドバイスの目的は精神集中を助けることである。

それは心の放逸を助ける効果的な方法のひとつであり、心を強制的にひとつの経路に向かわせる精神集中の助けとなる。

だが、真我実現のための最上の方法は「私は誰か?」と問う真我探究である。

現状の問題は心のものであり、それはただ心だけによって取り除かれなければならない。」

 

質問者

「私はいつも同じセンターに集中するわけではありません。

ときには、あるセンターに集中するほうが易しく、別のときには別のセンターのほうが易しいと感じます。

そして、ときおりひとつのセンターに集中していると、ひとりでに別のセンターに移行して集中していることに気づきます。

なぜでしょうか?」

 

マハルシ

「それは、おそらくあなたの過去の修練によるものかもしれない。

だが、どのセンターにあなたが集中しようと、それは問題ではない。

なぜなら、本当のハートはどのセンターにも、そして身体の外にさえも存在しているからである。

身体のどの部分にあなたが集中しようとも、あるいは外側のいかなる対象物に集中しようとも、ハートはそこに在る。」

 

質問者

「あるときにはひとつのセンターに集中し、別のときには別のセンターに集中することができるのでしょうか?

それともつねに一貫して同じセンターに集中するべきでしょうか?」

 

マハルシ

「今私が言ったように、どこに集中しようとも何の害もない。

なぜなら、集中は単に想念を棄て去る手段にすぎないからである。

どのセンターあるいはどの対象に集中しようとも、集中するその人はつねに同じだからである。」

 

質問者

「ある人たちは、粗大な対象にのみ瞑想すべきだと言っています。

絶えず心を殺そうと追いつづければ悲惨な結果を招きかねません。」

 

マハルシ

「誰にとっての悲惨な結果なのだろう?

真我を離れて悲惨があるだろうか?

完全な「私」は無限の大海である。

自我、「私」という想念は、その上にとどまるはかない泡にすぎない。

そしてそれがジーヴァと呼ばれる個我である。

泡もまた、はじけたときに海と溶け合う水でしかない。

それが泡としてとどまっている間も海の一部分なのである。

この単純な真理に無知なために、ヨーガ、バクティ、カルマなどといったたいそうな技術や難解複雑な無数の方法が、さまざまな宗派のもとに教えられてきた。

それもみな、ただ探究者の注目を誘って彼らの心を混乱させるためだけに。

さまざまな宗教も、宗派も、教義もまた同様である。

それらはみな何のためにあるのだろうか?

ただ真我を知るためだけである。

それらは真我を知るために必要な修練とその補助にすぎない。

感覚器官によって知覚された対象物は直接的知識(プラティヤクシャ)と呼ばれる。

だが、感覚器官の助けもなく、つねに体験される真我ほど直接的なものが他にあるだろうか?

感覚的知覚は間接的知覚でしかなく、直接的知識ではありえない。

自己の覚醒のみが直接的知識であって、それはすべての人に共通した体験である。

自分自身の真我を知るためには、いかなる助けも必要とされないからである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

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