永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(68) クンダリニー④

今回も前回に引き続き、人間の身体に眠っているかのように潜在している神秘の力(シャクティ)である「クンダリニー」について、ご紹介いたします。

 

前回までは、「クンダリニー」とはどのような性質を持った力(シャクティ)なのか?「クンダリニー」が目覚めるとは、どのようなプロセスを辿るのか?また、人間にどのような影響があるのか?など、未体験の方々にもわかりやすい説明を試みましたが、それらの情報を理解した上で、一番興味を引かれるのは、”どのようにしたら「クンダリニー」を目覚めさせることができるのか?”ということでしょう。

 

クンダリニー」の目覚め体験自体は、”Osho講話集”で記されているように、第四身体の「サイキック体」(精神体、メンタル体)で起こる一時的な現象とは言え、「クンダリニー」に代表されるようなアストラル体(サイキック体)が目覚めなくては、次の第五身体である「霊体」(アートマン体)へと至ることは、不可能と言えます。

 

そのことをよくわかっている人々は、クンダリニー・ヨーガなどの修行を通して、アストラル体である「クンダリニー」を目覚めさせようと、努力を重ねる訳ですが、既にその目的を成就した人々は、今、プロセス途上にいる人々に、彼らが有効だと感じる効果的な方法や秘訣を開示しれくれています。

 

自らの体験から、多くの示唆に富んだアドバイスをして下さっている先達の御言葉を、今、「クンダリニー」を目覚めさせるために、何らかの努力をしている方々に、ご紹介したいと思います。

 

その中でも、最も重要なのは、「私」という存在が有しているあらゆる「エネルギー」(身体エネルギー、感情エネルギー、思考エネルギーなど)における「浄化」、これに尽きると思われます。

 

「身・口・意」において、”清い(浄い)(聖い)(潔い)”ことは、エネルギー的に必要不可欠と言え、ヨーガにおける諸々の修行は、この「浄化」を、比較的短時間で、推し進めるために考案された行法と言えます。

 

精神的な階梯を上って行くには、「浄化」が最も大切である理由ですが、それは、「クンダリニー」は、生命全体を司る潜在的な力(シャクティ)ではありますが、その源は、「魂」すなわち、「真我」(アートマン)であり、私たちの真の自己である「真我」(アートマン)は、「純粋意識」とも呼ばれている”何にも影響を受けない(受けていない)「意識」”であるからで、譬えで言うと、個我の意識が、その個人の個性に彩られているとすると、「純粋意識」とは、どのような色にも彩られていない無色透明な「意識」そのものであるからで、この個我の意識の無色透明化のために、ヨーガ行法が編み出され、有効な方法として、今日まで継承されてきた、と言っても過言ではありません。(「バガヴァッド・ギーター」においては、4つのヨーガについて、語られています)

 

クンダリニー」自体は、電気に善悪(浄、不浄)がないように、力(シャクティ)そのものには、浄、不浄はありませんが、その源である「真我」(アートマン)は、「純粋」であるため、「不純」とは相容れないことは、明らかです。

 

この「純粋意識」との「合一」が、「梵我一如」と呼ばれるヨーガの究極の状態である「サマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ)」ですが、生命全体を司るエネルギーが、「純粋」でなければ、「純粋意識」との「合一」は、起こりませんし、「合一」が起こるか、起こらないかのは、ひとえに個人側の「純粋性」に起因している、と言えます。

 

そのような理由から、「クンダリニー」が少しばかり目覚めても、サハスラーラ(シヴァ神が鎮座されていると言わる頭頂のセンター)まで到達せず、より下部のチャクラで止まってしまう、ということが起こります。

 

身体の浄化、心(感情、思考)の浄化は、骨の折れる仕事ですが、それなしには、人智を超えた奇跡的な体験は、起こらないと言えますので、技術的にアーサナやムドラー、クンヴァカができるようになっても、それが直ぐに、「クンダリニー」の光輝状態に結びつくことはない、というのが、厳しいながらも現実と言えます。(中には、知識不足などから、勘違いが起きてしまうことがあり、注意しなくてはなりません)

 

最初にご紹介しますのは、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」より、次は、「Osho講話集」より、「クンダリニー」の目覚めを自ら体験し、その性質に精通している者だけが語ることができる「クンダリニー」覚醒における「短縮の道」をご紹介したいと思います。

 

 

 

A Misinterpretation(誤った解釈)

クンダリニーシャクティの目覚め、シヴァ神との合一は、甘露を楽しむこと、及び、ヨーガ・シャーストラで記述されているクンダリニー・ヨーガの他の機能は、誤って伝えられ、多くの人によって、文字通りの意味で受け取られている。

彼らは、彼らがシヴァ神であり、女性はシャクティであり、単なる性的な結合がクンダリニー・ヨーガの目的であると思っている。

それは、単なる無知である。

彼らは、完全に間違っている。

この種の結合は、すべてのクンダリニー・ヨーガにはない。

愚かな若者の中には、一つか二つのアーサナ、ムドラー、ほんの少しのプラーナヤーマを数日、彼らの好きな方法で練習し、クンダリニーが彼らの首を上がったと想像する。

彼らは、偉大なるヨーギーのようにポーズを取っている。

彼らは、哀れな自己欺瞞の魂である。

 

 

Yogic Kriyas and Inner Purification(クリヤ・ヨーガと内側の浄化)

ヨーガの生徒達の中には、私に尋ねる者がいる。

クンダリニーを目覚めさせるために、どのくらいアーサナクンバカ、マハームドラーを練習すべきでしょうか?この点については、ヨーガのどの教文にも何も書かれていません」

生徒は、彼が過去生で旅立ったステージ(段階)、或いは、地点から、修練を開始する。

つまりそれは、純粋さの度合、進化のステージ(段階)、ナディやプラーナマーヤ・コーシャの浄化、これらに加えて、離欲(ヴァイラーギャ)の度合や、解放への熱望に依っている。

クリヤ・ヨーガだけが、あなたを大いに助けることにはならないだろう。

心の純粋さは、とても必要である。

自己分析をし、あなたの欠点や悪しき癖を根絶しなさい。

あなたの身勝手さや自尊心、羨望、憎悪、などのような欠点を修正しなさい。

あなたのハートを開発しなさい。

あなたが持っているモノを他者と分かち合いなさい。

無私の奉仕をしなさい。

その時だけ、あなたは心の純粋さを得るであろう。

今日では、探求者は、これらの事を無視し、シッディ(神通力)を得ようと、直ちにクリヤ・ヨーガをしようと飛びかかる。

それは、ヒマラヤ的な重大な間違いである。

私の助言は、以下の通りである。

シッディ(神通力)やクンダリニーの目覚めについて、けっして気に掛けるな。

神への献身を持ちなさい。

彼に、完全なる信頼を持ちなさい。

人類への奉仕の精神を持ちなさい。

クンダリニーは、自然と目覚めるであろう。

クンダリニーの目覚めは、あなたが想像するほど簡単ではない。

それは、極めて難しい。

すべての望みが死に絶えた時、心(マインド)が、極限に純粋になった時、すべての感覚が稀薄になった時、あなたが相当な程度、心(マインド)の一点集中を獲得した時、すべての利己的な私のモノという考えが消え去った時、クンダリニーは自然と目覚めるであろう。

その時だけ、クンダリニーの目覚めは、また有益である。

早まった目覚めは、望ましいものではない。

探求者は、たとえ彼が、何らかの方法でクンダリニーを目覚めさせたとしても、もし彼が必要な資格を開発してなかったならば、有益とはならないであろう。

彼が、クンダリニーを目覚めさせるすべての利益を感じ、証明するのは、不可能である。

木で熟すのを許された果実は、とても甘いだろう。

しかし、これには長い時間がかかる。

第一級の樹木は、ゆっくりと成長する木から出て来る。

そうであるからして、長い時間、忍耐、辛抱、熱意を持って、精力的なサーダナ(修養)を行ずる探究者、道にある色々な障害物にも拘わらず、粘り強く霊的な修行をこつこつとやる探究者、欠点や弱点を認め、適切な方法によりそれらを取り除こうと努力する探究者は、クンダリニーを目覚めさせることができ、躍動的で完全なるヨーガ行者になるであろう。

感情的で熱狂的な若い探究者たちよ!

慢性腰痛の背中のリウマチ性の捻じれの動きをクンダリニーの上昇だと思ってはいけない。

辛抱と忍耐をもって、あなたの修行(サーダナ)をしなさい。

ヨーガにおけるすべての段階をマスターしなさい。

完全に低い階段をマスターする前に、より高いコースを上がってはならない。

親愛なる友人たち、兄弟たちよ、悩むな、心配するな。

栄光の日は、あなたがたに訪れようと待っている。

あなた方は、十分な力で輝くであろう。

あなた方は、神自身になるであろう。

すべての困難と障害物を笑い飛ばし、あなたの目を24時間、クンダリニーシャクティに注ぎなさい。

彼女を起き上がらせるために、あなたができることすべてをしなさい。

もし純粋性が定めなら、あなたは浄化しなくてはならない。

他にどのような選択肢があるだろうか?

それ故、あなた自身を浄化しなさい。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『Osho

「普通、クンダリニーをハンマーでたたくには、ふたつの方法しかない。

そして第三の方法は、一風変わっている――それはシャクティパットの道、またはエナジー伝達の道だ。

これはアストラルの方法であり、それには媒介、乗り物が必要となる。

他の人の助けさえあれば、あなたは瞑想において強烈な成就を遂げられる。

他の人は何もする必要はなく、ただ存在しているだけで十分だ。

彼は乗り物に、相手に刺激を与える人となる。

全世界は、無限のエネルギーに満ちている。

要は、単にそれに繋がるかどうかだ。

今、ここの屋根に避雷針を取り付けた。

雷が落ちてきてそれが針を通り、地面に流れ、家が傷つかないようにするためだ。

鉄の棒がなくても、雷が家に落ちることはある。

しかしそれでは、家をすべて破壊してしまう。

鉄の棒は最近の発見だ。

雷は記憶にないほどの昔からあったのだが、シャクティパットという電光は古くから存在していたが、鉄の棒の考えは最近だ。

人は、精神的(スピリチュアル)な成長に役立つ、無限のエネルギーに取り囲まれている。

無限のエネルギーはそこにあり、そのすべては人の精神的(スピリチュアル)な向上に役立てることができる。

そのためには媒介、乗り物が必要だ。

あなたが自分自身の媒体になることもできるが、始めのうちはそれは危険だ。

シャクティパット、エネルギーの下降はあまりにも力強いので、あなたは耐えられないこともある。

体のある繊細な器官が滞ったり、破壊されてしまったりする可能性もある。

どんなエネルギーにも分量と電圧があり、それはあなたの許容量が受け入れられるだけの、正しい割合でなくてはならない。

媒体となる他者は、あなたがそれに耐えうる許容量に応じて、調整しながらエネルギーを送る。

シャクティパットが乗り物として働くには、神聖なエネルギーが、すでに誰かに降りていることが肝要だ。

そうなって初めて、シャクティパットをあなたの許容量に応じて設定し、うまく取り扱うことができる。

これに関して、彼は何をすることも求められていない。

ただ彼がそこにいるだけで、必要なことすべてがなされる。

臨在が、必要なことのすべてだ。

彼の存在が媒体として働く。

媒体それ自体は何もしない。

彼こそがそれを可能にしているのだと言う人がいたら、その人はまったく間違っている。

シャクティパットのできる人など誰もいない。

しかしある人の存在によって、それを媒介し、起こすことができる。

さて、探究者たちが瞑想においてある深みに達すれば、シャクティパットはここに、ものすごい勢いで起こり始めるだろう。

何の困難もない。

まったく何の問題もない。

誰も何もする必要はない。

それは自ずと起こるだろう。

あなたは突然、まったく違った種類のエネルギーが、外側からあなたの中に入って来るのに気づくだろう。

それは内側から来たものではない。

クンダリニーが昇っていくのを経験する時はいつも、あなたの内側から起こっているように思えるだろうが、シャクティパットを経験する時にはいつも、上からやって来るように思えるだろう。

まさにそれはそのようなものになるだろう。

水が上から降ってきたり、下から上がって来たりするのを感じるのと同じくらい、はっきりと感じられるだろう。

 

質問者

シャクティパットの影響は短いものですか、それても長く残るものですか。

一回のシャクティパットの出来事は、旅のゴールへ私たちを導くのに充分なものでしょうか、それとも一回以上必要でしょうか?」

 

Osho

「実のところ、永続する影響は、あなた自身のクンダリニーに由来する。

シャクティパットは、ただの助けだ。

シャクティパットがあなたの土台を形造ることは、まったくありえない。

あなたの基本構造になることは、決してない。

あなたの中で起こることこそ、より重要だ。

それは基礎であり、根本だ。

それがあなたの本当の財産だ。

それだけが、土台となる財産だ。

シャクティパットは、富を増やしはしないだろう。

しかし、それは確実に成長の可能性を高める。

その違いは、正しく理解されるべきだ。

シャクティパットによって、あなたの富が増えることはない。

しかし、いわゆる成長率、発展の度合は、疑いなく高められるだろう。

シャクティパットは、あなた自身の富ではない。

それはこのようなものだ。

あなたが走っている後を、私が銃を手に追いかけている。

私の銃は、あなたの走る力を増すことはない。

でも、それは確かにあなたを早く走らせる。

どのみち走るのはあなたであり、走ることに費やされるのはあなたのエネルギーだ。

しかし銃があるために、あなたは自分の中で使われないまま眠っているエネルギーでさえ使うだろう。

銃はあなたに、余分なエネルギーを与えるわけではない。

そのゲームの中で、銃自体のエネルギーがほんの少しでも失われることはない。

後で銃を調べれば、前と同じだとわかるだろう。

それは何も失っていない。

しかし銃の影響によって、あなたはより力強く、早く走る。

それまでは悠長に歩いていたあなたが、今やスピードを上げて走っていることだろう。

シャクティパットは、あなたのエネルギーをより豊かにするわけではない。

だが、それは確実にエネルギーが成長し、広がっていく可能性を高めてくれる。

 

シャクティパットは、稲妻の一閃として働く。

その閃光は、あなたの道を照らしはしない。

あなたの手許にあるランプのようには手を貸してくれない。

それはただ、閃光を与えるだけだ。

前方の道とその周辺の一瞥だ。

しかし、この単なる一瞥は、たいへん重要だ。

今やあなたの足許がふらつくことはなく、今やあなたの意思は強い。

今や、目的地に到ろうとする決意は固まった。

あなたには道が見えた。

道がそこにあり、目的もなくさまよっているのではないことを知る。

稲妻の一閃で、自分が通らねばならない道の一瞥を、旅の目的地である寺院の一瞥を得る。

たとえあなたが、稲妻が光る前と同じ地点に立っているとしてもだ。

今のあなたは自信に溢れ、先へ進みつつあることを知っている。

今や道がそこにあり、寺院も――目にはまだ見えないが――もう手の届く所にあることを知っている。

あなたは今、確実に感じている。

今や、自分の意思と決意を強固にする自信と信頼に満ちている。

そういうわけで、シャクティパットの効果は間接的なものだ。

だからこそ、それが繰り返し必要となる。

一回では充分でない。

二回目の稲妻の閃光による恩恵はより大きく、三回目となれば、さらにそれ以上のものとなる。

一回目で見逃したものは、二回目、三回目の閃光で見てとれるだろう。

少なくとも、それらはあなたの自信を、意思をいっそう強めてくれる。

シャクティパットによって、究極のゴールへ至ることはできない。

運命への道を歩かねばならないのは、あなただ。

シャィティパットなしでも至ることはできる。

しかし、それではもっと時間がかかるだろう。

たどり着くのが遅れてしまう。

シャクティパットの一瞥がなければ、自信が弱まり、より多くの勇気と強さが必要となるだろう。

疑いと恐怖のために、あなたはあちらこちらで捕らわれ、自分の道と運命について、確信を持てないだろう。

こうしたことすべては起こる。

しかしいずれにせよ、あなたはゴールに至る。

シャクティパットは真に助けとなる。」

 

質問者

「媒介者とのつながりを保ち続けられなかった場合、シャクティパットの効果は消え去りますか?」

 

Osho

「効果は薄れていく。

実際、すべての効果は次第に消え去ってゆく。

効果それ自体が、外部の力によって起こされたことを意味する。

だからそれは減っていくのだ。

しかし内部から高まって来るエネルギーは留まるだろう。

なぜなら、それはあなた自身のものだからだ。

外部から来るエネルギーは減り、消え去っていく。

しかし内部から来るエネルギーは、消え去ることがなく留まるだろう。

また、シャクティパットの衝撃によって上昇したエネルギーは、留まるだろう。

あなたの基本的な源泉は弱まることがない。

しかし、影響は弱まっていく。」

 

質問者

シャクティパットと恩寵の違いはありますか?」

 

Osho

「違いは大きい、実に大きい。

実際シャクティパットと恩寵には、大きな違いがある。

シャクティパットは、計画し管理できる技術の一種だ。

シャクティパットは計画され、操作されねばならない。

いつでも、どこでも、もたらすことのできるものではない。

私の意味することがわかるかね?

シャクティパットが起こるには、探究者がそれを受けるにふさわしい状態であり、媒体になる人もそれに適していることが是非とも必要だ。

これらの条件がともに満たされ、彼らが同調すればシャクティパットは起こる。

これは技術の問題だ。

恩寵は、招くことなくやって来るもの、闇の中からやって来るものだ。

あなたがそれを呼ぶことはできない。

それは頼んで得られるものではない。

それは計画も、操作も、管理もできないものだ。

それは実に稀に起こることであり、ひとりでに起こるものだ。

 

シャクティパットと恩寵との違いは、家庭の電気と空の稲妻との違いと同じだ。

あなたがここでボタンを押すと、あちらにすぐに明かりがつく。

しかし空の稲妻は、まったく違う。

電光はそれ自身で起こる。

電気と稲妻は、基本的には両方とも同じエネルギーが働いているのだが、稲妻は頼んで手に入れられるようなものではない。

家庭の電気は、技術的にコントロールされている――それは機械や技術によってコントロールされている――が、稲妻のコントロールはできない。

恩寵とは、天上の稲妻のようなものだ。

それは、ある予期せぬ瞬間に稀に起こる。

その時、もし探究者がそれにふさわしい受容的な状態にあれば、恩寵はその人に起こりうる。

それは確かにシャクティパットとは違う。

基本的にはシャクティパットと同じだが、恩寵はシャクティパットとは大きく異なる。

もうひとつ違いがある――恩寵を受け取るには、媒体を必要としない。

恩寵はあなたのもとに直接降りてくる。

それは、あなたへの媒介者を必要としない。

真っ直ぐにあなたのもとへ訪れる。

恩寵はいつも突然の出来事だ。

それは稀であり、頻繁には起こらない。

シャクティパットのように前もって企てられることも、操られることもない。

翌日しっかりと準備をしたあと決まった時間に来るなら、シャクティパットは起こるだろうとは言える。

だがこうしたすべては、恩寵の場合には当てはまらない。

恩寵は起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。

それは私たちの手の内にはない。

それはただ管理し、コントロールすることができないだけだ。

この違いはあるが、恩寵はシャクティパットと同じだ。」』

(「奇跡の探究 Osho講話集」)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

 

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