永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(7)

前回と前々回の記事で、シュリ・ラマナ・マハルシとスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉をご紹介して、ライオン(真我)でいらっしゃるグル(導師)により、私たちヒツジライオン(真我であることをすっかり忘れている人間)も、実はヒツジ(人間)ではなくライオン(真我)であるという存在の最奥の奥義に触れることが可能であると、お伝えさせて頂きました。

つまり、それは、魂がこの形で顕れた究極の目的を果たすことができる、ということを示唆します。

 

今回の記事では、ナーナ先生が活動を通して為されていることを、もう少し詳しくご紹介させて頂き、その後で、シュリ・ラマナ・マハルシの「グル」についてのお言葉の続きをご紹介したいと思います。

ここで特にお伝えしたいことは、ナーナ先生から放たれる神の恩寵の力であるシャクティ・プラーナは、自己の本性を悟ることを妨げている障害(エゴ)を消滅させることで、自力では、なかなか魂の目的を果たすことが難しい私たちの変容のプロセスが加速して進むようにと、目には見えない部分で強力な推進力として働く、ということです。

 

ナーナ先生の純粋なプラーナであるシャクティ・プラーナの恩寵のエネルギーによって起こった直接体験を通して、本当は自分が何であり、誰であるのか?を悟った者にとっては、もう二度と自分は誰なのか?と問うことは無くなります。

私たちは、本当は、この肉体でも感情でも思考でもありません。

この世を体験しているのは、心(脳の働き)ですが、実は、その心(脳の働き)自体も虚構の産物です。

それでは、一体、実在するものはあるのか?あるとしたら、それはどんなモノなのか?

これを実体験を通して悟るまで、いろいろな事象を通して、個々の魂の探究(旅)は続いていきます。

 

昔の人々は、霊や魂という言葉を使いましたが、現代的な表現で言うならば、純粋で普遍で不変なエネルギーと言ってもいいかと思いますが、つまり、私たちは誰でも、純粋なプラーナそのものなのですが、そのことを悟った上で、そのことを知らないで生きている人間に、直接体験を通して懇切丁寧に伝えて下さる存在は、この世にはほとんどいらっしゃらないと言っても過言ではないでしょう。

そういう意味では、ナーナ先生に出会えた探究者は、もうそれだけで、神の恩寵に与っているということになります。

 

自分も真我(永遠の実在)そのものであることを思い出した一瞥体験のあった約2年後、初めて訪ねたインドで出会った一冊の本が、スワミ・ラーマの「Sacred Journey - living purposefully and dying gracefully」(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く)でした。

そこには、こう書かれてありました。

ウパニシャッドは私たちに、永遠のものを見つけるために自分の内側を見るようにと言っています。

“人は外にあるものを見、内にあるものを見ない”とウパニシャッドは言っています。

「不死なるものを求める人は稀である。

自分の外にあるものに目を閉ざし、真の自己を見る。

愚か者は肉の欲望に従い、死を取り囲むすべての誘惑に陥る。

しかし、永遠なるものとして自己を知る賢者は過ぎ去るものを求めない」』

 

この文を原文(英語)で読んだ私は、恍惚にも似た至福感に包まれ、あまりの嬉しさに溢れる涙を抑えることができず、その場で、この本を日本語にして、古から現代に至るまで知ることを許された者のみが触れることができた最奥の奥義として伝え継がれて来た存在の究極の真理について説いているウパニシャッドのエッセンスを、ほとんど知らない日本の人々にも読んで欲しいと思い、翻訳本を日本で出版することを決意したのでした。

 

「聖なる旅~」の全頁には、ナーナ先生によってもたらされた直接体験を通して得られた智慧そのものが、聖典からの引用文を元に、ヒマラヤのヨーギーであるスワミ・ラーマによって、理論立てて書かれていました。

「聖なる旅~」を通して、スワミ・ラーマが伝えたかった古から伝わるウパニシャッドのエッセンスを、厳しい修行を続けてきたヨーギーでもない一般人である私のような人間が簡単に理解し得るということは、正に、ナーナ先生(真我)によってもたらされた恩寵の賜物という以外には考えられません。

 

しかし、このことが、一人の人間に起きたということは、他の人間にも起こり得る可能性があるということであり、その可能性は、このブログを読んでいる一人一人の方にも、潜在的に眠っているということに他なりません。

 

 クンダリニー覚醒により真我が目覚め、真我そのものとなっていらっしゃるナーナ先生は、直接体験を通して、わたしたちもまたアートマン(真我)であることを、自然な形で悟れるようにと、使命にも似たお気持ちで、導いて下さっていらっしゃいます。

ナーナ先生のシャクティ・プラーナに触れることは、神の慈悲深い恩寵に与ることができる滅多にないチャンスです。

一人でも多くの探究者が、この神の恩寵に与り、そうそう簡単には辿れないようになっている究極の真理に至る道のりを、出来る限り短縮させることができるようにとの想いで、このブログを綴っています。

 

ウパニシャッドによれば、私たちが内側に探すものは、純粋な自己、アートマン(真我)と呼ばれている私たちの真の本性であり、それは聖書では、神に似ており、神のイメージであると言っています。

真の自己は心や感覚では認識され得ません。

それは魂の中に隠された宝であり、心の最奥の部屋に住んでいるのです。

それは非常に精妙であり、深遠で在り、不滅です。

それは創造の初めに存在し、今も存在し、そして未来においても存在し続けます。」

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

 

『質問者

「真我実現のためには、どれほどの間グルが必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「そこに無知が存在するかぎり、グルは必要だ。

無知が起こったのは、真我に誤った限界を自ら負わせたためである。

神は崇拝を受けることで弟子に揺るぎない帰依心を与え、それが明け渡しへと導いていく。

明け渡した帰依者を見て、神はグルとして姿を現し、慈悲を与える。

神であるグルは帰依者を導き、神が彼の内側にいること、神が真我と変わらないことを教え示す。

これが心を内側へと向かわせ、ついには真我の実現をもたらすのである。」

 

質問者

「もし恩寵がそれほど重要なら、個人の努力の役割とは何なのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我の実現の段階がやってくるまで、努力は必要となる。

たとえそうであっても、真我は自然に明らかになるべきである。

さもなければ、至福は完全なものではないだろう。

その自然な状態が明らかになるまで、何らかの形の努力はつづくだろう。

そこにはわれわれの努力の在る無しを超えた状態がある。

その状態が実現されるまで、努力は必要となる。

そのような至福の状態を一度でも味わえば、人はそれを再び得ようと繰り返し試みるようになるだろう。

ひとたびその平和の至福を味わったなら、誰もがそこから出て何か他の活動に従事しようなど願うこともなくなるだろう。」

 

質問者

「真我の実現を達成するためには神の恩寵が必要なのでしょうか?

それとも個人の誠実な努力だけで、生と死の輪廻に再び戻ることのない状態に到達できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「神の恩寵は真我の実現には欠かせないものである。

それが神の実現をもたらす。

だが、そのような恩寵は真の帰依者あるいは探究者にのみ与えられる。

それは解脱への道をたゆまず懸命に突き進む者にのみ与えられるのである。」

 

質問者

「恩寵にとって距離は問題となるのでしょうか?」

 

マハルシ

「時間や空間はわれわれの内側に存在している。

あなたはつねに真我のなかにいるのである。

どうして時間や空間が問題となろうか?」

 

質問者

「ラジオなら、近くにいる人のほうがより早く聞き取ります。

あなたはヒンドゥーであり、私たちはアメリカ人です

それが何らかの違いをもたらすでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや。」

 

質問者

「思考でさえ他の者によって読み取ることができます。」

 

マハルシ

「それはわれわれがひとつであることを示しているのである。」

 

質問者

「バガヴァーンは私たちのことを憐れみ、恩寵を与えてくださいますか?」

 

マハルシ

「あなたは首まで水のなかに浸かりながら、水を求めて叫んでいる。

それは水に首まで浸かっている人が、喉の渇きを訴えているような、あるいは水中の魚が渇きを感じているような、あるいは水が渇きを感じているようなものである。

恩寵はつねにそこに在る。

「無執着も真理の実現もグルの恩寵がなければ得られない」

しかし、修練もまた必要である。

自分自身の努力によって真我のなかにとどまろうとすることは、気性の荒い牛がさ迷いでないように、おいしい干草で誘って家畜小屋につなぎ止めるようなものである。」

 

質問者

「最近、私はタミル地方の詩を読んだのですが、そのなかで、作者は自分が母親猿をしっかりつかんで放さない子猿のようではなく、花親にくわえられて運ばれなければならない、かぼそい声で泣く子猫のようであると嘆いていました。

作者はそれゆえ、神が彼の面倒を見てくれるように祈っています。

私の場合もまったく同じです。

バガヴァーン、あなたが私に憐れみをかけるべきなのです。

どうか私の首をつかみ、私が落ちたり怪我したりしないように見守ってください。」

 

マハルシ

「それは不可能だ。

グルが救いの手を差しだすには、あなたの努力も必要なのである。」

 

質問者

「グルの恩寵を得るには、どれくらいの時間がかかるのでしょうか?」

 

マハルシ

「なぜ知りたいのかね?」

 

質問者

「希望が欲しいからです。」

 

マハルシ

「たとえそのような欲望でさえも障害となる。

真我はつねに存在し、真我なしには何も存在しない。

真我として在りなさい。

そうすれば欲望や疑いは消え去るだろう。

恩寵は始まりであり、中間であり、終わりである。

恩寵とは真我である。

真我と身体の偽りの同一化のために、グルもまた身体だと見なされてしまう。

ただ、グルの見地からすれば、グルとは真我以外の何ものでもない。

真我はただひとつしかなく、ただ真我のみが存在するとグルは教える。

だとすれば、真我があなたのグルではないだろうか?

それ以外のどこから恩寵が来るというのだろう?

それはただ真我からやってくる。

真我の顕現とは恩寵の現れである。

誤った見解や自分の外側にあるものごとに期待するために、このような疑いが起こるのだ。

真我の外側に存在するものなど何もないのである。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

創造の元始(はじめ)より 次の三つの言葉ーー

オーム タット サットは絶対真理(ブラフマン)を示す

ヴェーダ讃歌を唱え 供犠を行うとき

僧侶たちはこの三語を常に用いてきた

(バガヴァッド・ギーター第17章23)

 

 

 

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真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

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このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

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など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

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http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

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(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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