永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(6)

前回の記事では、五年ほど前のナーナ先生の恩寵のエネルギー、シャクティ・プラーナによって突然起きた真理の一瞥体験について書きましたが、それがどうして起きたのか?について、しばらく経ってから知ることになりました。

その理解を言葉にしたものを、2015年にナーナ先生のブログ「すべては本質の流れのままに」(非二元のエナジーと覚醒(2) | すべては本質の流れのままに)に掲載して頂きました。

その文章を2017年4月に、このブログで再度掲載し、ご紹介させて頂きましたが、

一瞥体験後にやって来たこの智慧も、その体験があったからこその理解であり、今現在における科学や精神世界の一般的認識においては、このような表現方法以外での客観的説明は不可能であることは明らかですので、イメージ的な解釈の域を出ないことを承知の上で、再度ご紹介させて頂こうと思います。

 

先ずは、シュリ・ラマナ・マハルシの遺された御言葉から、グル(師)についてのお話と、次は、わたしにとってのグル(師)でいらっしゃいますナーナ先生についてのお話です。

 

これからご紹介しますこの二つのお話の間に、深い相関性を感じて頂けると幸いです。

 

 

『質問者

「師は霊的な力を弟子に送り、真我を実現させることができると言われています。

それは本当でしょうか?」

 

マハルシ

「本当だ。

グルが真我の実現をもたらすのではなく、彼はただその障害を取り除くだけだ。

真我はつねに実現されているのである。」

 

質問者

「真我の実現を探究する者にとって、グルは絶対的に必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが真我の実現を探究するかぎり、グルは必要だ。

グルとは真我である。

グルを真我として、あなたが自身を個我として見てみなさい。

無知を取り去ることで、この二元性の感覚は消滅する。

あなたのなかで二元性が存在するかぎり、グルは必要となる。

あなたは自分自身を身体と同一視しているため、グルもまたひとつの身体だと思ってしまうのだ。

あなたは身体ではなく、グルもまた身体ではない。

あなたは真我であり、グルもまた真我である。

この知識は真我の実現によって得ることができるのである。」

 

質問者

「ある特定の個人がグルとしてふさわしい人かどうかを、どうやって知るのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼の臨在のもとで見いだされた平和によって、そして彼に対して感じる尊敬の念によってである。」

 

質問者

「もし師が適切な人ではなかった場合、その師に絶対の信頼を寄せている弟子の運命はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「各々の功徳によった結果を得るだろう。」

 

質問者

「グルの恩寵をいただけるでしょうか?」

 

マハルシ

「恩寵はつねにそこにある。」

 

質問者

「しかし、私には感じられません。」

 

マハルシ

「明け渡すことによって、恩寵を理解しはじめるだろう。」

 

質問者

「私は心も魂も明け渡したのです。

私のハートのことは私自身が一番よく知っています。

それでも、恩寵を感じられないのです。」

 

マハルシ

「あなたが明け渡したなら、質問は起こらなかっただろう。」

 

質問者

「私は明け渡しました。

それでも、質問は起こるのです。」

 

マハルシ

「恩寵は変ることなくそこにある。

変わるのはあなたの判断である。

それ以外のどこに誤りがあるだろうか?」

 

質問者

「二人以上の師をもつことはできるのでしょうか?」

 

マハルシ

「師とは誰だろう?

師とは、結局真我なのである。

弟子の心の発達段階に合わせて、真我は師として姿を現す。

かの高名な聖者ダッタートレーヤは、二十四人以上の師をもっていたと言われる。

師とは、人がそこから何かを学ぶことのできる存在である。

ときには、グルは生きた存在ではないかもしれない。

ダッタートレーヤの場合もそうだった。

神、グル、真我は同一のものである。

霊的関心をもった人は神がすべてに遍在すると考え、その神を自分の師とみなす。

のちに、神は彼のもとに人としての師を送り、彼はその師こそがすべてであることを知る。

最後に、師の恩寵によって彼自身の真我こそが実在であると感じとる。

このようにして、彼は真我が師であることを知るのである。」

 

質問者

「『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』は、「純粋な知性によって、グルへの献身的奉仕によって、そして探究によって真我を実現しなさい」と述べています。

これらの違いをどう一致させればいいのでしょうか?」

 

マハルシ

「イーシュワラ神、グル、真我は同一のものである。

あなたのなかで二元性の感覚が存続するかぎり、あなたは師と異なると考えてグルを探しつづけるだろう。

それにもかかわらず、師は真理を教え、あなたは真の洞察を得るのである。

弟子を真我に直面させることで、真我の至高の知識を授ける人、彼こそが真我であり、神の現れとして聖者たちから讃えられる至高のグルである。

グルに近づき、彼に献身的に奉仕することによって弟子は恩寵を受け、誕生と苦しみの原因を学ぶ。

そしてその原因が真我からさ迷いでたことによると知ったとき、真我として揺るぎなくとどまることが最善だと悟るのである。

教えを受け入れ、解脱への道を確固として進む人でも、忘却やその他の理由からヴェーダの道を逸れることがある。

いかなるときにも師の言葉に逆らうべきではないことを知りなさい。

もし神に対して過ちを犯したとしても、それはグルの言葉によって正される。

だが、グルに対して犯された過ちは、神によっても正されることはないと聖者たちは断言している。

強烈なあふれる愛を注ぐことによって師から慈悲深い恩寵の眼差しを受け、完全な信頼をはぐくんだ人に苦しみは存在しない。

彼はこの世界のなかでプルフータ(神々の王、インドラの名前)のように生きるだろう。

唯一、誰もが望んでいる平和は、サッドグルの恩寵を通して心の静寂が得られるまでは、いつであれ、どこであれ、誰であれ、いかなる方法であれ獲得することはできない。

それゆえ、ひたむきな心でつねに恩寵を求めなさい。」

 

質問者

「バガヴァーンの弟子のなかには、何の困難もなく恩寵を受け、真我の実現を達成した人たちがいます。

私もその恩寵を願っています。

ひとりの女性として遠く離れたところで暮らす私には、望むようにマハルシの聖なる仲間に加わることができません。

二度とここに戻ることさえできないかもしれないのです。

バガヴァーンの恩寵を願っています。

私が自国に帰ったとき、バガヴァーンを覚えていたいのです。

どうぞ、私の祈りをかなえてくださいますように。」

 

マハルシ

「あなたはどこに行くというのか?

どこへも行きはしない。

たとえあなたが身体であると考えたとしても、あなたの身体がラクナウからディルヴァンナーマライまで来たのだろうか?

あなたはただ車、あるいは何か他の乗り物に運ばれてきただけである。

そして、ついにあなたはここに到着したと言うのである。

だが事実は、あなたは身体ではない。

真我は動かない。

世界が真我のなかで動くのである。

あなたは、ただあるがままのあなたなのだ。

あなたのなかには何の変化もない。

それゆえ、この場所を離れたあとでも、あなたはここに、そこに、そしてすべての場所に遍在している。

移りゆくのはただ景色だけである。

そして恩寵についてだが、それはあなたの内に在る。

恩寵が外側にあるとすれば、それは無益なものだ。

恩寵とは真我である。

あなたが恩寵から外へ出ることはありえない。

恩寵はつねに存在しているのである。」

 

質問者

「私が言いたかったことは、あなたの姿を想いだすとき私の心が力を得るように、あなたの側からの受け応えも欲しいのです。

私ひとりの努力とともに置き去りにしないでください。

それは結局か弱いものなのです。」

 

マハルシ

「恩寵とは真我である。

私はすでに言ったはずだ。

もしもあなたがバガヴァーンを覚えているなら、それは真我によってそうするように促されているのである。

それゆえ、すでにそこには恩寵があるのではないだろうか?

あなたのなかで恩寵が働いていないときがあるだろうか?

あなたが覚えているということが恩寵をもたらしたのだ。

それが受け応えであり、あなたへの激励である。

そして、それが真我である。

だから心配することなどない。」

 

質問者

「外側からの助けなしに、自分自身の努力だけでより深い真理に達することができるのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが真我への探究心を得たという事実自体が神の恩寵の現れなのである。

それはハート、内なる存在、真我の輝きである。

それは内側からあなたを引きこむ。

あなたは外側から入っていくように試みなければならない。

あなたの試みは真摯な探究の現れであり、深い内奥の動きが恩寵の現れなのである。

それゆえ、私は恩寵なしには本当の探究はありえず、真我を求めない者に恩寵は働かないと言う。

そのどちらもが必要だからである。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

『前回、“本質”とは、“普遍で誰にでもある共通の基盤のようなモノ”と書きました。

そして、私たち人間にもそのようなモノがあるとしたら、それが“本質”ということになります。

それでは、一体全体、そんな“本質”と呼べるものがあるのでしょうか?

そのことを少し詳しく述べている記述がありますので、ご紹介したいと思います。

「インドの哲学者たちによりますと、全宇宙は二つの材料からできています。

その一つを、彼らはアーカーシャと呼んでいます。

それは遍在の、すべてのものに浸透している存在です。

形を持ついっさいのもの、結合の結果であるいっさいのものは、このアーカーシャから展開したのです。

空気に、液体に、固体になるのはアーカーシャです。

太陽に、地球に、月に、星々に、彗星になるのはアーカーシャです。

人間の体、動物の体、われわれが見るいっさいの形、感覚でとらえることのできるいっさいのもの、存在するいっさいのものはアーカーシャです。

それは知覚することはできません。

それは実に精妙なので、すべての普通の知覚の限界をこえています。

それが粗大になったとき、形をとったときにはじめて、見ることができるようになるのです。

創造のはじめには、このアーカーシャだけが存在します。

この周期のおわりには、固体も液体も気体もすべてふたたびアーカーシャに溶け込み、次の創造のときに同じようにこのアーカーシャから出てくるのです。

何の力によってこのアーカーシャが、宇宙につくられるのでしょうか。

プラーナの力によってです。

アーカーシャがこの宇宙の無限、遍在の材料であるのと同様に、このプラーナは、無限かつ普遍的に現れているこの宇宙の力です。

一つの周期のはじめとおわりには、すべてのものはアーカーシャとなり、宇宙間のすべての力はプラーナに還元します。

次の周期には、われわれがエネルギーと呼ぶものすべては、われわれが力と呼ぶものすべては、このプラーナから展開するのです。

動きとして現れているものはプラーナです。

肉体の活動として、神経の流れとして、思いからもっとも低い力にいたるまで、いっさいはプラーナの現われにほかなりません。

心のにせよ肉体のにせよ、宇宙のすべての力の総計は、それらの原始の状態に還元されるとき、プラーナと呼ばれます。

「有も無もなかったとき、闇が闇をおおっていたとき、そのときには何が存在したか、そのアーカーシャが、動かないで存在した」

プラーナの物理的な動きはとまっていましたが、それが存在することに変わりはありませんでした。

一つの周期のおわりには、いままで宇宙に現れていたエネルギーは静まり、潜在的になります。

次の周期のはじめに、それらは動き始め、アーカーシャに働きかけます。

するとアーカーシャからこれらさまざまの形が展開し、アーカーシャが変化するにつれて、このプラーナも、これらすべてのエネルギーの現われに変化します。」

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

 

このような考え方は、インドの古い哲学者たちの考え(サーンキャ哲学)ですが、ヨーガの基本的な考え方であるヴェーダンタ(ヴェーダの教え)に色濃く反映されています。

宇宙には、根源なるただ唯一なる存在が在るのみ、というのは、古くは、アドヴァイタ(不二一元)と呼ばれます。

この宇宙は、アーカーシャというダルマ(法)とプラーナという実在の力で出来ている、ということを、もっと簡単にわかりやすい例で譬えるならば、アーカーシャは、プログラムのような情報であり、プラーナは、プログラムを動かす、具現化する力を持ったエナジー、ということになるでしょう。

パソコンを動かすには、プログラムもそれを動かすエネルギー(電気)も必要です。

そして、このことは、すべての存在に共通したことであり、それがそのモノとしてこの宇宙に存在するには、絶対不可欠な素材(要素)なのです。

それでは、この宇宙を在らしめている根源なるエネルギー(エナジー)とはどういうものか?というところに話を進めて行きたいと思います。

「真の治癒がもたらされるのは、プラーナによってであります。

プラーナを制御したきよらかな人は、それをある種の振動状態にする力を持ち、その振動は他人につたえられて、彼らの内部におなじ振動をおこします。

みなさんは、それを、日々の活動の中に見ておられます。

私はみなさんにはなしています。

何をしようとしているのでしょう。

言ってみれば自分の心をある振動状態に持って行こうとしているのであって、それに成功すればするほどつよく、みなさんは私の言うことの影響をお受けになるでしょう。』

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

 

ナーナ先生が、サットサンガや個人セッションで、“本質のエナジー”と仰っているのは、プラーナのことであり、ナーナ先生から放たれるエナジーは、他の人に伝わり、その人の内部に振動を起こし、その人を変容させます。

このことは、ナーナ先生のエナジーを受けた多くの人から、個人的体験が感想文として寄せられていて、その一部が、ナーナ先生のブログに掲載されていますが、どれをとっても、身体に起きた変容、気持ちに起きた変容、意識に起きた変容についての報告です。

これは、ナーナ先生のエナジーが変容を起こすことが出来るパワーを秘めたエナジー(シャクティ)である、という証拠でしょう。

この現象を更に詳しく述べるならば、ある振動が、他の者の内部に振動を起こすことを、“共鳴”と言います。

ナーナ先生から放たれるエナジーとは、他のモノの振動数を高めることが出来る振動状態になったプラーナのことだということがわかります。

そして、このプラーナは、宇宙遍在のエナジーですから、私たちひとりひとりもこのプラーナなのですが、ただそのプラーナが高い振動状態になっていないのです。

エネルギーは高い方から低い方へ流れます。

そうやって、低い振動は、高い振動に共鳴していくので、ナーナ先生のエナジーを受けると、ナーナ先生の超微細振動に共鳴した私たちの内部の低い(粗い)振動のプラーナが活性化されていくのです。

このエナジーの共鳴により、私たちの内部の粗い振動は、純粋で超微細な振動となっていく、という現象が起こるのです。

そして、宇宙に遍在するエナジーは、この純粋で超微細なエナジー、プラーナなので、この共鳴現象を体験することで、私たちは、自分の“本質”が何なのか?を識り、そして、最終的には、自分が誰であるのか?何であるのか?を思い出すことになるのです。

この直接体験を可能にするエナジー共鳴を起こすことが出来る“プラーナを制御した”きよらかな人”は、世界でもそれほど多くはいないでしょう。

いえ、むしろ、滅多にいない、と言えると思います。

非二元を語る人は多くいるかもしれませんが、それを直接体験により識らしめる力を持った存在が、どれほど稀有な存在であるかは、ここで申し上げるまでもないでしょう。

変容させ得る力こそが、ホンモノです。

私たちは、目に見えない宇宙根源のエナジーを、共鳴によって起こる直接体験を通して、識っていくことが出来ます。

それを起こすことができる存在は、もうすでに、存在の秘密に対する答えを得ているので、その答えそのものとなって、私たちを究極の答えに導くことが出来るのです。

私たちがすることといったら、本質のエナジーを認め、信じ、心を開いて、それに委ねるだけです。

それだけで、共鳴が起こり、私たちは、私とは誰なのか?何なのか?という究極の答え、存在の実相、この宇宙で唯一の実在に出会っていくことが出来るのです。

そして、自分が本当は誰であったのか?何であったのか?を身を以って識ることは、この宇宙に実在する唯一の存在を識ることにつながります。

そして、個としての“我”が、“本当のわたし”(真我)を思い出すことを、覚醒、目覚め、悟りと呼んでいるのです。

真に覚醒状態にある人のみが、他の人を覚醒に導くことが出来ます。

“それ”そのものになっている存在だけが、他の存在を“それ”に誘えるのです。

ナーナ先生は、そのような存在であり、この地上で彼女のような存在に出会うことは、正に奇跡なのだと感じます。

最後に、直接体験のみが、唯一の答えである、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダ著「ラージャ・ヨーガ」の一文をご紹介して、この長い文を終わりにしたいと思います。

 

『経験は、われわれが持つ唯一の教師です。

たとえ一生涯しゃべって推理しても、それを自分で経験するまでは、われわれは真理のひとことをも、理解することはできないでしょう。

人に数冊の書物をあたえただけでは、彼が外科医になることを期待するわけにはいかないのです。

私に地図を見せるだけで、ある国を見たいという私の好奇心を満足させることはできません。

私は実際に経験しなければならないのです。

地図はわれわれの内部に、もっと安全な知識を得たいという好奇心をよびさますだけなのです。

それ以上には何の価値も持ってはいません。

書物にばかりしがみついていると、人間の心は堕落するだけです。

神の知識のすべてがこの書物、またはあの書物の中にふくまれている、という宣言よりおそろしい冒涜があったでしょうか。

神は無限であると言いながらどうしてあえて、彼を一冊の小さな書物の表紙の中などにおしこめようとするでしょうか!』

 

経験こそすべて!

ナーナ先生は、超微細なエネルギー共鳴により、“それ”を私たちに体験させてくれます。

このことにより、私たちの目覚めのプロセスは格段と進化し、スピードアップするのです。』

 

2015年に書いた感想文と、今、このブログでお伝えしようとしていることは、本質的には、同じことです。

 

今でも、ナーナ先生は、シャクティプラーナを通して、私たちが、私たちの”真の自己”を覚れるようにと、導いて下さっています。

 

それは、ひとえに、アートマン(真我)を覚る以外は、人類にとって、真の自由へ至る道はないとわかっていらっしゃるので、

人びとを救うため、人びとを真理へと導き、生まれ変わりの繰り返しから人びとを解放するために、いまここで、神の御力であるシャクティプラーナを使って下さっているのです。』

 

☆ナーナ先生から放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナ先生の公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

 

 

適正な時に 適正な場所で

それに価する相手に対して

何の報いも考えずに 自分の義務だと心得て

行う寄付はサットワである

 

報いを期待してする寄付行為

将来の見返りを望んでする贈りもの

また 惜しがりながら出す寄付

こうした布施はラジャスである

 

不適当な場所で 不適当な時に

それに価しない相手に贈る金品

相手を尊敬せず 無礼な態度でする寄付

これはタマスの行為である

(バガヴァッド・ギーター第17章20-22)

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

 

☆新企画2019年1月より「自宅に居ながらマインドフルネス瞑想会に参加」できるようになりました!

(詳細は、 http://pranahna.com/(真我が目覚めるとき)の「2019年1月の開催予定」の欄にて、ご確認下さい)

 

日本国内ばかりでなく、地球上のどこに居ても、関谷ニルヴァーナ瞑想センターで開催されますマインドフルネス瞑想会の恩寵のエネルギーフィールドに入ることができ、深い瞑想を体験することができます。

真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡