永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(57) 瞑想(ディアーナ)①

近年、日本でも多くの場所で、初心者、熟練者を問わず、ヨーガを学ぶための教室やセミナー、ワークショップなどが開催され、多くの人が、ヨーガを実践する機会に恵まれ、その時代的傾向は、年々強まってきています。

 

ただ、そのようなヨーガ・ブームとも言えるような流れの中でも、「ヨーガ」という言葉が指しているのは、「ヨーガ・アーサナ」(長時間坐るための坐法)であることが多いようです。

プラーナヤーマ(調気法)やマントラ(呪文)を適切に教える(伝授とも言います)ことができる教師(グル)は、日本だけではなく世界においても少なく、瞑想(ディアーナ)に至っては、適切に指導できる教師(グル)は、更に少ないのが、実情でしょう。

 

所謂、覚醒体験(真我実現)に至るヨーガにおける、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマまでの4段階については、詳細な説明がなされている書籍などがありますので、情報を入手し、実践することは、比較的容易ですので、今回からは、次の段階「瞑想」(ディアーナ)について、詳細にご紹介したいと思います。

 

特に、八段階に分けて提唱されているアシュタンガ・ヨーガなどの古典的ヨーガにおいては、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナヤーマは、「瞑想」(ディアーナ)を実践するための準備段階における実践(サーダナ)と位置付けられています。

 

古来から「ヨーガ」とされてきた実践体系である「ヨーガ」の目的は、難解なポーズ(アーサナ)ができるようになることではありません。

 

ヨーガは、真我の目覚め(真我実現)のために用意された実践プログラムであり、実践者は、「瞑想」(ディアーナ)を経て、魂の最終目的である「解脱」(サマーディ)へと至る長い長いプロセス(行程)を、飛躍的に短縮するのに役立つようにと、長い年月をかけて、体験者たちによって、考案された叡知の結集の成果と言えます。

 

その中でも、最も重要である「瞑想」(ディアーナ)について、ヨーガにおいては、どのようにとらえられているか?を見て行きたいと思います。

 

最初にご紹介するのは、Swami  Sivanandaの「Bliss Divine」、次は、ラマナ・マハルシの「瞑想」についての質問者への御言葉です。

 

 

 

MEDITATION(瞑想)

有徳な人生を送ることは、それ自体、神の実現には充分ではない。

心(マインド)の集中は、絶対的に必要である。

良い有徳な人生は、心(マインド)に、適した指導として、集中や瞑想のため準備をするだけである。

やがて、自己実現(Self-Realization)に導くのは、集中と瞑想である。

瞑想の助けなしで、あなたは自己の智識に達することはできない。

その助けなしで、あなたは神聖なる状態へと成長することはできない。

それなしには、あなたは心の束縛からあなた自身を自由にし、不死を獲得することはできない。

瞑想は、救済の獲得、或いは、解脱への唯一の王道である。

それは、地上から天国へ、誤りから真実へ、闇から光へ、苦しみから至福へ、落ち着きのなさから永久的な平和へ、無知から智識へと達する神秘の階段である。

死ぬべき運命から不死へと達する階段である。

 

 

What Is Meditation?(瞑想とは何か?)

瞑想は、神意識の途切れることのない流れを持ち続けることである。

すべての世俗的な思考は、心(マインド)から閉鎖される。

心(マインド)は、神聖なる想い、神聖なる栄光、神聖なる存在で満たされる、或いは、浸される。

瞑想は、ヨーガの階梯では、七番目の段である。

ヨーギーは、これを“ディアーナ”と呼ぶ。

ジニャーナは、これを“ニディディアーサナ“と呼ぶ。

バクティは、これを“バジャーナ“と呼ぶ。

身体を忘れなさい。

環境を忘れなさい。

忘れることは、最も高いサーダナ(霊的修練)である。

それは、瞑想を大いに助ける。

それは、神へと近づくことをより簡単にする。

神を思い出すことによって、あなたは、すべてのこれらのことを忘れることができる。

イエス・キリストは言う「あなたを空にすれば、私はあなたを満たすであろう」

これは、聖仙パタンジャリの「ヨーガは、すべての精神作用の絶滅である」という教えに匹敵する。

この無にするプロセス、或いは、心を空っぽにすることは、間違いなく、骨の折れる訓練である。

しかし、熱情的なタイプの継続的な実践は、成功をもたらすであろう。

これには疑いはない。

大きな都市では、夜の8時に、多大な賑わいや音がある。

9時には、それほど多くない賑わいや音がある。

10時には、更に減少し、11時には、もっと少なくなる。

夜中の1時には、何処でも平和がある。

これと同じで、ヨーガ的な実践の始まりには、心の中に数え切れない波(Vrittis)がある。

心の中に、多くの興奮や動揺がある。

次第に、思考の波は、静まる。

最後には、すべての精神的な緩和が制御される。

ヨーギーは、完全なる平和を楽しむ。

 

 

How to Practice Meditation(瞑想を実践する方法)

パドマ・アーサナ、シッダ・アーサナ、シュクラ・アーサナで人里離れた場所で坐りなさい。

すべての情熱、熱情、刺激からあなた自身を自由にしなさい。

感覚を征服しなさい。

心(マインド)を対象から引き離しなさい。

すると、心(マインド)は、静かになり、一点に集中し、純粋で微細になるであろう。

この修練された心(マインド)という訓練された道具の助けで、一つの不滅の自己について沈思黙想しなさい。

他の何かについて考えてはいけない。

世俗的な思考に、心に入ることを許してはならない。

心(マインド)に、身体や精神的な喜びについて考えることを許してはならない。

これらの考えに耽る時は、それをハンマーで打ちなさい。

その時、それは神へと動くであろう。

ガンジス河が、連続して海に向かって流れて行くように、神についての想いは、神に向かって、切れ目なく流れて行くべきである。

油のように、一つの瓶から別の瓶へ注がれる時、途切れることのない継続した流れで流れる。

ベルの響きから生まれた調和した音が継続した流れとして、耳の上におちるように、同じように、心(マインド)は、一つの継続した流れとなって、神へと流れるべきである。

あなたが瞑想を始める前に、あなたは、神、或いはブラフマンの―具体的、又は、絶対的な-精神的なイメージを持たなくてはならない。

あなたが、瞑想で初心者である時、瞑想のために座ったら直ぐに、10分間は、いくつかの崇高な聖句(Slokas)や、聖歌(Stotoras)を繰り返しなさい。

これは、心(マインド)を高揚させるであろう。

心(マインド)は、簡単に世俗的な事柄から引っ込めることができる。

その時、またこの種の思考を停止し、度重なる奮闘によって、一つの考えのみに固定しなさい。

その時、瞑想(Nishtha)が起こるであろう。

あなたが火を起こす時、あなたは、いくらかの藁や、紙や小さな木片を積み上げる。

火は、素早く消える。

あなたは、口や吹きパイプを通して、何度も吹かなればならない。

何回かの後に、それは、小さな火となる。

あなたは、多くの努力をもってしても、今やそれをなかなか消せない。

そのようにして、瞑想の初心者の初めの段階では、彼らは、瞑想から彼らの古い決まりきった型の中へと落下する。

彼らは、何度も何度も、彼らの心(マインド)を持ち上げ、目的(Lakshya)に固定しなくてはならないであろう。

瞑想が、深く定着するようになると、彼らは、やがては、神に確立する。

その時、瞑想は、自然(Sahaja)となる。

それは、習慣となる。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「瞑想(ディヤーナ)と探求(ヴィチャーラ)にはどのような違いがあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それらはどちらも同じ結果に達する。

探求に適さない人は瞑想を修練すべきである。

瞑想のなかで真理の探究者は、自己を忘れて「私はブラフマンである」、「私はシヴァである」と瞑想し、この方法でブラフマンあるいはシヴァをとらえる。

これが最終的には、存在としてのブラフマンあるいはシヴァという覚醒として残る。

そのとき、彼はこれが純粋な存在、真我であることを悟るのである。

真我を探究する人は、彼自身をとらえる。

そして「私は誰か?」と自分自身に尋ねることによって、真我は明らかにされるのである。

自分自身を存在―意識―至福として輝く至高の実在だと精神的に想像することが瞑想である。

非実在の迷妄の種子が途絶えるように、心を真我の内にしっかりととどめることが真我探究である。

何であれ、バーヴァ(精神的イメージ)を心に描きながら真我に瞑想する者は、そのイメージのなかに現れたものにしか到達できない。

そのようなバーヴァなしに沈黙にとどまる心安らかな者は、形なき真我、崇高な限定されないカイヴァリヤ(解脱)の状態に到達する。」

 

質問者

「瞑想は真我探究よりも直接的です。

なぜなら、瞑想は真理をとらえつづけますが、真我探究は、非真理から真理へと移行していくからです。」

 

マハルシ

「初心者にとっては、形態に瞑想することのほうがよりやさしく、好みに合うだろう。

瞑想を修練することが、非実在から実在へと移行する真理探究に導くのである。

あなた自身が真理に反する要因に満ちているときに、真理にしがみつくことが何の役に立つというのだろうか?

真我探究は、あなたに真我がいまだ実現されていないと考えさせる障害を取り除き、それによって直接実現に導くのである。

瞑想は探究者の熟達の程度にしがたって異なる。

もし適した人なら、彼は直接に思考者をとらえるだろう。

そうすることで、思考者は彼の源である純粋意識のなかへと沈みゆくだろう。

もし思考者を直接とらえることができないとすれば、神に瞑想しなければならない。

そして機が熟したとき彼は思考者を直接とらえるにじゅんぶんなほど純粋になり、絶対なる存在のなかへと沈みゆくだろう。

瞑想は自我が保たれた状態にのみ可能である。

そこには自我があり、瞑想される対象者がある。

そのため、その方法は直接的とは言えない。

瞑想する主体である自我と瞑想の対象が存在するかぎり、それは二元性のなかにあるからだ。

だが、真我はひとつなのである。

自我を探りだすこと、つまりその源を探究することで自我は消滅し、あとにはただ真我だけが残る。

これが直接的方法である。」

 

質問者

「瞑想では内面へ入って行く方法が見つかりません。

 

マハルシ

「いったい他のどこに、今われわれがいるというのかね?

われわれの存在そのものが内面にあるのだ。」

 

質問者

「それにもかかわらず、私たちはそのことに無知なのです。」

 

マハルシ

「何についての無知だろう?

誰の無知だと言うのかね?

もし真我についての無知だと言うなら、そこに二つの自己があると言うのだろうか?」

 

質問者

「二つの自己があるわけではありません。

しかし、限定されているという感覚は否定し難いものです。

限定のために。。。。」

 

マハルシ

「限定は心のなかにしか存在しない。

あなたはそれを深い眠りのなかでも感じるだろうか?

いいや、深い眠りのなかに限定の感覚はない。

あなたは眠りのなかで存在していた。

同じ真我が、今ここで目覚めの状態にも存在しているのだ。

あなたは今、限定があると言っている。

つまり目覚めと眠りの状態の間に違いが現れたのは今である。

その違いは心によって現れた。

つまり限定は心によって現れたのだ。

眠りのなかに、心は存在していなかった。

その反対に、今それは活動している。

だが、心が存在しなくとも真我は存在するのである。」

 

質問者

「それを理解することはできても、真我を実現することができないのです。」

 

マハルシ

「瞑想とともに徐々に明らかにされていくだろう。」

 

質問者

「瞑想は心をともなうものです。

どうしてそれが心を殺せるというのでしょうか?」

 

マハルシ

「瞑想とはひとつの想念だけを想いつづけることだ。

そのひとつの想念が他のすべての想念を遠ざける。

心の散漫は精神力の弱さの兆候である。

たゆみなく瞑想をつづけることによって心は力を得ていく。

つまり、移り変わりやすい心の弱さが、その背後にある恒久的な無心状態に場を明け渡すのだ。

この無心の心の広がりが真我である。

純粋な心が真我なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(56)ヨーガ④

これまで55回に渡り、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、テーマ毎に抜粋して、ご紹介してきましたが、今回は、スワミ・シヴァナンダご自身の肉声によるメッセージをご紹介したいと思います。

 

スワミ・シヴァナンダは、このメッセージを通して、人間が人間として生きる目的、一個人としてヨーガを実践する目的、そして、ヨーガの実践を通して、最終的に到達する目的地について、語られています。

 

次にご紹介するのは、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」の抜粋で、前回からの続きです。

その中で語れている「サーンキャ哲学」は、私たち日本人にはあまり馴染みのない物質の二元論が土台となっている考え方ですが、最後にご紹介しますラマナ・マハルシが語るアドヴァイタ(一元論、非二元論)とは、両者が語っている視点が異なるために、相容れないような感覚をもたれるかもしれませんが、それは、異なる次元について語っているためで、どちらかが間違っている、ということではありません。

 

アドヴァイタ(一元・非二元)は、二元世界の中で人間として在る私たちには、簡単には理解できない非論理的な世界観・自己認識とも言える”究極の真理”でもあるため、生きている間に目覚め体験が起こり、非二元のカラクリが明らかになる、というような展開が起こらない限りは、スワミ・シヴァナンダ、及び、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの御言葉にもあるように、プルシャーチャ※(生きる目的)として「自己探求」という目標を掲げ、諦めずに、一歩一歩確実に歩を進めることが、最終的な目的達成のためには、必要不可欠と言えます。

 

(※ヒンドゥーにおいては、①ダルマ(道徳、倫理)、②アルタ(富、財産、生計)、③カーマ(欲望、性欲、情熱、憧れ、感覚への喜び、耽美的生き方、愛など)、④モクシャ(輪廻からの解放)の四つが、人生の目標とされている。

これら四つの目標はプルシャーチャ(Puruṣārtha)と呼ばれている)

 

www.youtube.com

 

「勇気は、生得のものであるが、恐れはそうではない。

平和は、あなたの神聖なる遺産であるが、しかし、落ち着きのなさは、そうではない。

不死は、生まれ持ったものであるが、死はそうではない。

強さは生得のものであるが、弱さは違う。

健康は、生得のものであるが、病は違う。

至福は、生まれ持ったものであるが、悲しみは違う。

智慧は、生得のものであるが、無知は違う。

痛み、悲しみ、無知は、幻想であるが、これらは、生き長らえることはできない。

至福、喜び、智慧が真実であり、これらは死ぬことがない。

あなたは、あなた自身の宿命の建築家である。

あなたは、あなた自身の運命の主である。

あなたは、することができるし、やらないことができる。

あなたは、行為を蒔き、性癖を刈り取る。

あなたは、性癖を蒔き、習慣を刈り取る。

あなたは、習慣を蒔き、あなたの性格を刈り取る。

あなたは、性格を蒔き、あなたの運命を刈り取る。

それ故、運命は、あなた自身の創造なのである。

あなたは、あなたが望むならば、それをしないことができる-運命とは習慣の束である。

プルシャーチャ(人間的な追及目的)とは、自己努力である。

プルシャーチャは、あなたに何かを与えることができる。

あなたの習慣を変えなさい。

思考方法を変えなさい。

あなたは、運命を克服することができる。

あなたは、今、「私は身体である」と考えている。

逆の流れを霊的に始め、「私は、不滅であり、冒されることのない、性別の無い真我(アートマン)である」と考えなさい。

あなたは、死を克服し、最高の光輝の不死の座に到達することができる。

徳のある行いと正しい思考により、あなたは運命を和らげることができる。

あなたは、行動する自由意志を持っている。

自己努力により、ラトナカは、ヴァルミキーになった。

自己努力によって、マルカンディヤは死を克服した。

自己努力によってのみ、ウッダーラカは、ニルヴィカルパ・サマディ(より高い自己実現)に到達した。

自己努力によって、サヴィトリは彼女の夫(サッチャヴァン)を生き返らせた。

それ故、あなた自身を粘り強く、神への信愛、真我探究、瞑想に従事させなさい。

注意を怠らず、励みなさい。

想いや望みを絶ちなさい。

明日の悪魔を、今日の自己努力によって克服しなさい。

不浄な願望(不純な精神的傾向)を神聖なる願望を通して、破壊しなさい。

神聖なる想いによって不浄な想いを殺し、あなたの運命を超えた勝利を手にしなさい。

運命論者に屈するな。

無気力になるな。

ライオンのように立ちなさい。

努力し、自立、魂の自由(Atma Svarajya)を手に入れなさい。

あなたの内側に、力の弾倉がある。

あなたの内側に、広大なる智識の大海がある。

すべての能力は、あなたの中に潜んでいる。

それらを開き、生前解脱者(解放された魂)になりなさい。

肯定は、否定に打ち勝つ。

これは、自然の不変の法則である。

プルシャーチャ(自己努力)は、より強い力である。

プルシャーチャは、ライオン、或いは、象である。

プララーブダ(運命)は、猫、或いは、ジャッカルである。

神は、自らを助ける者を助ける。

ヴァーシシュタは、ラーマにプルシャーチャをするように求めた。

運命論者は、確かに、惰性やものぐさを生む。

それ故、あなたの気を引き締め、最大限の努力をしなさい。信愛なる友よ。

あなたがたがみな、今生で、自己実現(真我実現)、ブラフマンの智識に到達できますように!

あなたがたがみな、明知の状態で、至福の大海に浸って、生きますように!

あなたが、解放された聖者として輝きますように! 」

(スワミ・シヴァナンダ ”あなたは、あなた自身の運命の主人である”)

 

 

『話をさらにすすめる前に、サーンキャ哲学について少しばかりお話しましょう。

ラージャ・ヨーガの全体が、それを根拠としているのです。

サーンキャ哲学によると、知覚は次の通りに生まれます。

外の世界の対象の影響が、外部にある道具(目、耳など)によって、脳にあるそれぞれの中枢、すなわち器官に運ばれます。

器官はそれらの影響を心に、心は判断力に運び、判断力から、プルシャ(魂)がそれらを受け、そのときに知覚が生じるのです。

次に、プルシャはいわば、必要なことをせよという命令を運動神経の中心に与え返します。

プルシャ以外のこれらのすべては物質ですが、心は外部の道具よりはるかに精妙な物質です。

心を形成している、その物質はまた、タンマートラスという精妙な要素を作ることもします。

これらが粗大になって、外界の物質を作るのです。

これが、サーンキャの心理学です。

それゆえ知能と外部のより粗大な物質との間には、ただ程度の違いがあるだけなのです。

プルシャが、物質ではない唯一のものです。

心は、いわば、魂の手中の道具であって、それによって魂は、外界の対象を捉えるのです。

心はたえず変化し動揺していて、完成されたときには、それ自身をいくつかの器官につけることも一つの器官につけることも、またどれにもつけないでいることもできます。

たとえば、もし私が深い注意を込めて時計の音を聞くなら、私は多分、目はあいているのに何も見ず、心は聞く器官につながっていたけれど見る器官にはつながっていなかった、ということを、示すでしょう。

しかし、完成された心は、同時にすべての器官につながることができるのです。

それは、ふりかえって自分みずからの深みを覗き込む、内省の力を持っています。

この内省力が、ヨーギーが得たいと欲するものなのです。

心の力を集中し、それらを内に向けることによって、彼は内部で起こっていることを知ろうとします。

ここには、単なる信仰などということはあり得ません。

それは、ある哲学者たちが成し遂げた分析なのです。

現代の生理学者たちは、目は視覚の器官ではない、器官は大脳の神経中枢の一つの中にある、他のすべての感覚の場合もそうである、と言います。

彼らはまた、これらの中枢は、脳それ自体と同じ物質で作られている、と言います。

サーンキャ派の人びともやはり、同じことを言っています。

前者は肉体の側に立っての声明、後者は心理学に立脚しての声明ですが、両者は同じです。

われわれの研究分野は、これを超えたものです。

ヨーギーは、さまざまの心の状態のすべてを認識することのできる、あの精妙な知覚の状態を得ようとします。

それらすべてを感知する内面的知覚があるに違いありません。

人は、感覚がどのように伝わるのか、心がどのようにしてそれを受けるか、どのようにしてそれが判断力まで行くか、そしてどうしてこれが、それをプルシャに与えるか、を知覚することができます。

それぞれの科学が一定の準備を必要とし、また、たとえ理由はわからなくても従わなければならない、それ自身の方法を持っていますが、ラージャ・ヨーガの場合も正にそうです。

食物に関する、ある制限が必要です。

われわれは、心を最も清らかにする食物を摂らねばなりません。

動物園に行けばすぐに、このことが実証されているのが見られるでしょう。

ゾウがいます。

巨大な動物ですが、静かで柔和です。

そしてライオンやトラの檻の方に行けば、彼らの様子を見て、食物によってどんなに大きな違いが生まれているか、おわかりになるでしょう。

この肉体の中で働いているすべての力は、食物から生まれました。

われわれは毎日、それを見ています。

もしみなさんが断食を始められるなら、第一に肉体の力が弱くなり、それから、数日の後に、心の力も影響を被るでしょう。

まず、記憶力が減退します。

それから、考えることができなくなり、推理の過程を辿ることなどは一層難しくなる時が来ます。

ですからわれわれは、最初はどのような食物を摂るべきか、気をつけなければなりません。

そして十分な力を得たら、修行が進んだら、このことにはそれほど気をつかう必要はありません。

植物が若いうちは、囲いを作ってやらなければなりません。

しかしそれが樹木になったら、囲いは取り払われます。

すべての攻撃に耐えられるほど、それは強くなるのです。

ヨーギーは、贅沢と苦行の二つの極端は避けなければなりません。

彼は断食してはならないし、自分の肉体を酷く苦しめてはなりません。

それをする人はヨーギーにはなれないとギーターは言います。

「断食をする人、眠らない人、眠り過ぎる人、働き過ぎる人、働かない人、このような人びとは誰も、ヨーギーにはなれない」(ギーター六章十六節)』

(ラージャ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

『質問者

アーサナ(坐位)とは何でしょうか?

それらは必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「多くのアーサナとそれらの効果がヨーガの聖典のなかに述べられている。

座はトラの毛皮、干し草など。

坐位は蓮華坐、半跏趺坐など。

ただ自己を知るだけのために、なぜこのようなことが必要なのだろうか?

真実は、真我から自我が立ち現れ、それ自身を身体と混同し、世界を実在だと誤解し、そして利己的な慢心から夢中になってアーサナを探し求めるのである。

このような人は彼自身がすべての中心であり、すべての現れの土台をつくり出していることを理解しないのである。

アーサナは安定した坐りをつくるためにある。

真我以外のどこに、どのように、揺るぎなく住まうことができるというのだろうか?

これこそが真のアーサナである。

全世界がその上に揺るぎなく収まっている土台(アーサナ)、それが真我である。

それは真の知識の空間、輝かしい基盤、この知識から逸脱することのない安定を達成すること、それが優れたサマーディのためのアーサナである。」

 

質問者

「バガヴァーンはふだんどのようなアーサナで坐るのでしょうか?」

 

マハルシ

「どのアーサナか?

ハートのアーサナである。

どこであれ心地よく自然であれば、それが私のアーサナである。

ハートのアーサナは平和であり、幸福をもたらす。

真我のなかに坐す者にとって他のアーサナは必要ない。」

 

質問者

「『ギーター』はカルマ・ヨーガを強調しているようです。

なぜならアルジュナは戦うように説得されたからです。

シュリー・クリシュナ自身も英雄的行為で活動的な人生の手本を示されたのです。」

 

マハルシ

「『ギーター』は、「あなたは身体ではない。

それゆえ、あなたはカルタ(行為者)ではない」という言葉で始まっている。」

 

質問者

「それはどういう意味でしょうか?」

 

マハルシ

「つまり、人は自分が行為者だという想いなしに行為をすべきだということである。

無我の状態でさえ行為はつづいていくだろう。

各人がある決められた目的を果たすために、この顕現のなかに現れたのである。

そして、その目的はその人が自分自身を行為者だと考えようと考えまいと達成されるだろう。」

 

質問者

「それは行為の結果への無執着なのではありませんか?」

 

マハルシ

「そこに行為者が存在するときにのみ、その質問は起こる。

あなた自身を行為者だと見なしてはならないとすべての聖典は述べている。」

 

質問者

「では、カルマ・ヨーガとは行為者であるという感覚なしに行われる行為のことなのですね。」

 

マハルシ

「そのとおりだ。」

 

質問者

「『ギーター』は、初めから終わりまで活動的な人生を送るように説いています。」

 

マハルシ

「そうだ。それが行為者なしの行為である。」

 

質問者

「もし静寂のなかにとどまるなら、どのようにして行為は起こりつづけるでしょうか?

どこにカルマ・ヨーガの場があるのでしょうか?」

 

マハルシ

「まず何がカルマであり、それは誰のカルマで、行為する人は誰なのかを理解しようではないか。

それを調べ、その真理のなかへと探索していくと、人は静寂のなかで真我としてとどまっている自分を見いだす。

だが、たとえそのような状態のなかにあろうとも、行為は起こりつづけていくだろう。」

 

質問者

「私が行為しなければ、どのように行為がつづいていくというのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰がこの質問を尋ねているのだろうか?

真我だろうか、あるいは何か他のものだろうか?

真我は行為に関心をもっているのだろうか?」

 

質問者

「いいえ、真我ではありません。

それは真我とは別の何かです。」

 

マハルシ

「それゆえ、真我が行為に関わらないことは明らかである。

そのため、その質問は起こらないのである。」

 

質問者

「私はカルマ・ヨーガをしたいと思っています。

どうすれば他の人びとを助けられるでしょうか?」

 

マハルシ

「誰を助けるというのかね?

他者を助けたいというその「私」とはいったい誰だろうか?

まず、その問題を解決しなさい。

そうすればすべてはひとりでに落ち着くことだろう。」

 

質問者

「それは真我を実現しなさいということです。

私が真我を実現すれば他者の助けになるのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん。

それは可能なかぎり最高の助けである。

だが、そこに助けられるべき他者は存在しない。

なぜなら、金細工師がさまざまな宝飾品のなかの金を見積もるとき、ただ金だけをみているように、真我を実現した人はただ真我だけを見ているからである。

あなたが自分を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。

だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。

真我を実現した人は、世界を彼自身と異なったものとして見ないのである。」

 

質問者

「賢者が他の人びとと交わったほうが、より彼らの助けとなるのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「交わるべき他の人びとなど存在しない。

ただ真我だけが実在しているのである。

賢者はただ真我として在ることによって世界を助ける。

世界に奉仕する最上の方法は、無我の状態を勝ち取ることである。

もしあなたが世界を助けたいと願いながらも、無我を達成することでは世界を助けられないと考えるなら、あなた自身の問題も含めた世界の問題すべてを神に任せるがいい。」

 

質問者

「私は世界を苦しみから救おうとするべきではないでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたを創造したその力が世界をも創造したのである。

その力があなたの世話をすることができるのなら、同じように世界の世話もすることができるだろう。

神が世界を創造したのであれば、その世話をするのは神の仕事であり、あなたの仕事ではない。」

 

質問者

「スワラージ(インドの政治的独立)に向けての願望は正しいものでしょうか?」

 

マハルシ

「そのような欲望は、疑いなく利己的な関心から生まれたものである。

それでも、その目的に向かった実質的な仕事はしだいに視野を広めていき、個人は国家のなかに溶け合っていく。

そのような個我の融合は望ましく、それに係わるカルマ(行為)はニシカーマ(非利己的)なものである。」

 

質問者

「もし悲惨な犠牲と長い闘争の後にスワラージが得られたとすれば、そのことで個人が喜びを感じ、得意となることはじゅうぶん正当なのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼は仕事を遂行する間、高次の力に彼自身を明け渡し、そのことをつねに心に刻み込んで、けっして忘れてはならない。

そうするなら、いったいどうやって得意になることができようか?

彼は行為の結果を心配するべきでさえない。

そうしたときのみに、カルマは非利己的となるのである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(55)ヨーガ③

今回も、前回に続き、「ヨーガ」についてご紹介します。

 

「ヨーガ」(合一)とは、「ヴィヨーガ」(分離)が前提となっていることは、すでにお伝えしました。

何からの分離か?ということを理解していないと、「ヨーガ」(合一)の最終目標を見誤る恐れがあるという指摘もご紹介しました。

 

それは、何度もお伝えしていますように、ヨーガにおいては、「分離」(ヴィヨーガ)とは、被造物である「私」と創造主である「神」との「分離」(ヴィヨーガ)を指しています。

 

この「分離」についてですが、更にわかりやすく表現するならば、自分自身が、紛れもなく「神である(”神”と”私”は分離せず、同一である)」という理解や確信を持っているか、ということが、試金石となります。

それがなければ、それは、「神」と「私」との間の「分離感」は、消滅したことがない、或いは、消滅していない、という「ヴィヨーガ」(分離)の状態にあることを意味し、それは、同時に、「ヨーガ」(合一)の可能性や必然性が潜在している、ということを意味していることになるのです。

 

意識していなくとも、多くの人は、「ヴィヨーガ」(分離)の状態にあります。

 

ヨーガの世界では、「神と自分は、分離せず、”一つ”である」という理解(アドヴァイタ=非二元)は、「真我の智識」(Atman Jnana)、或いは、「ブラフマンの智識」(Brahma Jnana)と呼ばれており、その完全なる理解が、ヨーガの最終的な目的、目標とされています。

 

このことを踏まえた上で、今も尚、多くの示唆に富む言葉で、これまでに世界中の人々に多くのインスピレーションを与え、「グル」(指導者)として仰がれた彼らが、ヴィヨーガ」(分離)から「ヨーガ」(合一)へと向かう途上にいる探究者に遺された数々の有益なヒントに満ちた御言葉をご紹介したいと思います。

 

前回の続きですが、最初は、Swami  Sivanandaの「Bliss Divine」から、次は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの講演集「ラージャ・ヨーガ」から、最後は、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「ヨーガ」についてです。

 

 

Benefits of Yoga Practice(ヨーガの実践の恩恵)

今日の生活は、ストレスと緊張、神経の苛立ち、熱情と慌ただしさで満ちている。

もし、人が少しでもヨーガの初歩的な訓練を実践するならば、彼は複雑な存在と上手くやって行く能力を、はるかにより良く養えるだろう。

ヨーガは、完全性、平和、そして持続する幸福をもたらす。

あなたは、ヨーガの実践により、いつでも心の穏やかさを持つことができる。

あなたは、安らかな眠りにつくことができる。

あなたは、エネルギー、活力、生命力、寿命、そして高水準の健康を増進することができる。

あなたは、短い期間に、効率的な仕事をなすことができる。

あなたは、人生のすべての歩みで、成功することができる。

ヨーガは、あなたに、新しい力、自信、独立心を吹き込む。

体と心は、あなたの言いなりになるだろう。

ヨーガは、あなたの感情を制御された状態にする。

それは、仕事中あなたの集中力を増強する。

ヨーガの訓練は、平静や落ち着きを与え、奇跡的に人生を建て直す。

ヨーガ的な生活方法は、人の理解を深め、人に、神や人間と神との関係を知らしめる。

ヨーガは、無知から智慧へ、弱さから力強さへ、不調和から調和へ、憎しみから愛へ、欠乏から満足へ、有限から無限へ、分離から単一へ、不完全から完全へと至る。

ヨーガは、哀しむ人や惨めな人には希望を、弱い人には力を、病気の人には健康を、無知な人には智慧を与える。

ヨーガ的な訓練を通して、心、体、そして話す器官は調和して一緒に働く。

ヨーガ実践者にとって、新しい前途、新しい健康、新しい気づき、新しい哲学が流れ込み、活き活きと彼の人生を変容させる。

力への切望、物質的な貪欲、官能的な興奮、利己心、富への情熱、低い欲望は、霊性において彼の真の人生から物質的な人生へと人を引き寄せる。

もし彼が、真剣にヨーガの原則を実践するならば、彼は、彼の失った神聖なる栄光を取り戻すことができる。

ヨーガは、動物的な性質を神聖なる性質に変え、彼を神の栄光と光輝の頂点へと引き揚げる。

 

Spiritual Growth Is Gradual(霊的な成長はゆるやかである)

ヨーガにおいて、成功に達することは、すべての人の力量の範囲内である。

必要とされていることは、誠実な献身、不断で着実な実践(アヴィヤーサ)である。

霊的な成長は、ゆるやかである。

進歩的な進展がある。

あなたは、偉大なるヨーガ行者(ヨーギー)の偉業を達成するのに、ニルヴィカルパ・サマディ(無分別三昧)に入るのに、熱狂的に急ぐべきではない。

感覚は、完全に服従されなくてはならない。

神聖なる徳が、養われなくてはならない。

悪い性質は、根絶されなくてはならない。

心は、完全に抑制されなくてはならない。

仕事は、途方もないものである。

それは、骨の折れる仕事である。

あなたは、厳格な苦行(タパス)と瞑想を実践し、結果を我慢強く待たなければならないだろう。

あなたは、ヨーガの階段を、一段ずつ昇っていかなくてはならない。

あなたは、霊的な道を、一段階ずつ進んで行かなくてはならない。

 

A Note of Caution(注意事項)

ヨーガにおいて完成に到達した後、もし人が、世界の好ましくない不適切な風潮に少しも影響されないならば、俗世(世界)に入ることができる。

多くの人々は、世界の向上のための仕事の名の下で、名声を求めて、彼らの低い力を実演するために、ヨーガの完成の前に、世界に入る。

彼らは、世間的な人間のレベルよりも更に悪いレベルにまで引き下げられてしまう。

もしヨーギが注意深くなければ、もしヨーギがヤマ、ニヤマ、の初歩的な実践において充分に確立していなければ、彼は、無意識に誘惑-悪魔によって彼の理想から押し流されてしまうだろう。

彼は、利己的な目的のために彼の力を使い、希望のない転落を被るだろう。

彼の知性は、盲目的になり、邪道に陥り、酔ったものとなる。

彼の理解は、混乱したものになる。

彼は、もはや神聖なるヨーギではない。

彼は、黒魔術師かヨーガの山師である。

彼は、ヨーギ達の群れの中の黒い羊である。

彼は、社会全体に対する脅威である。

多くの人は、体へのヒーリングやテレパシー、読心術やその他の偉大なる神通力(超能力)が得られるのは、ヨーガを通してなので、プラーナヤーマや他のヨーガの訓練に惹きつけられる。

もし彼らが成功に達すると、彼らはそこだけに留まるべきではない。

人生の最終目的は、“ヒーリング”や“超能力”ではない。

彼らは、最高の高みに達することに、彼らのエネルギーを使うべきである。

ヨーガは、超能力を獲得するためのものではない。

もしヨーガの生徒が超能力を獲得する気になっているならば、彼の更なる進歩はひどく遅れるであろう。

彼は、道を見失うであろう。

最も高いサマーディを得ることに懸命なヨーギは、超能力がやって来る度に、それらを拒絶しなければならない。

超能力は、神からの誘惑である。

これらの超能力を拒絶することによってのみ、人はヨーガにおいて成功に達する。

あなたは、少しの一瞥や体験を得た時に、サーダナ(実践)を止めてはいけない。

あなたが完成に達するまで、実践を続けなさい。

実践を止め、世界の中で動き回ってはいけない。

例には、事欠かない。

数多くの人々が、破滅した。

一瞥は、あなたに安全を与えることはできない。

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『これで、このラージャ・ヨーガの研究には信仰も信念も必要ではない、ということがわかりました。

自分でそれを見いだすまでは、何も信じるな、それが、ラージャ・ヨーガがわれわれに教えるところです。

真理には、支えは必要ではありません。

みなさんは、われわれの目覚めている状態の中で起こるもろもろの事実を、夢や想像に証明させる必要があると思いますか?

まったくありません。

ラージャ・ヨーガのこの研究には、長い時と不断の忍耐が必要です。

それの実習の、一部は肉体のものですが、主要な部分は心の実習です。

話を進めて行く内に、わかってくるでしょう。

もしわれわれが、心は単に肉体の一部である、ということを、そして心は肉体に反応する、ということを信じるなら、肉体は心に反応する、ということは当然です。

肉体が病むと心も病気になります。

肉体が健康であると、心も常に強く健康です。

人が怒ると、彼の心は乱されます。

同様に、心が乱されると、肉体もまた乱されます。

人類の大部分の場合、心はごくわずかしか発達していないので、それは大きく、肉体の支配下にあります。

人間の大半は、獣たちからごく僅かしか、隔たってはいません。

そればかりでなく、多くの場合、心を制御する力は、低い獣たちとあまり違いません。

自分の心に命令をする力を、ほとんど持っていないのです。

ですから、この支配力を得るために、肉体と心を制御する力を得るために、われわれはある種の肉体の助けを得なければなりません。

肉体が十分に制御されたら、われわれは、心の操作を試みることができます。

心を操作することによって、われわれはそれを自分の支配下におき、自分の好きなように働かせ、自分の浴する通りにその力を集中させることができるのです。

ラージャ・ヨーガによりますと、外の世界は内なる、つまり精妙なる世界の、粗大な形であるに過ぎません。

より精妙なものは常に原因であり、より粗大なものは、結果です。

従って、外の世界は結果、内なる世界は原因です。

同様に、外界の力は単に、ある力の粗大の部分であり、それの内なる力はもっと精妙なのです。

内なる力を発見し、それらをどのように操作するかを学んだ人は、自然界の全部を自分の支配下に置くでありましょう。

ヨーギーが自らに課するのは実に、全宇宙を支配するという、自然界全体を制御するという仕事です。

彼は、われわれが「自然の法則」と呼ぶものが彼に影響を与えない境地、彼がそれらすべてを超越することのできる境地、に達したいと欲するのです。

彼は、内外の自然全体の主となるでありましょう。

人類の進歩と文明は要するに、この自然を制御することなのです。

 

すべての科学の究極目的は、単一性、それから多様なものが作り出される一者、多者として存在する一つなるもの、を見いだすことです。

ラージャ・ヨーガは内なる自然を研究し、それを通じて全体――内外両方の――を制御しようとします。

それは非常に古くからの試みです。

インドは、それの特別の中心地でしたが、それはまた、他の民族にとっても試みられました。

西洋の国々ではそれは神秘主義とみなされ、それを実践しようと欲した人々は魔女や魔法使いと見なされて焼かれたり殺されたりしました。

インドでは、さまざまの理由からそれは、その知識の90パーセントを破壊し、残りを大きな秘術にしようとするような、人々の手中に落ちました。

現代になって、インドのそれらよりもっと悪い自称教師たちが、西洋に生まれました。

インドのは何かを知っていましたが、この現代の解説者たちは何も知ってはいないのです。

これらのヨーガの体系の中で、秘密で神秘的なものは何であれ、ただちに捨て去られなければなりません。

人生における最善のガイドは、強さです。

宗教においても、他のすべてのことにおけると同様、みなさんを弱くするものはことごとく、お捨てなさい。

それに係わってはなりません。

神秘を売り物にすることは、人間の頭脳を弱くします。

それは、科学の中の最も偉大なものの一つであるヨーガを、ほとんど破壊してしまいました。

四千年以上前、それが発見されたときから、ヨーガはインドで、完全に輪郭を描かれ、組織だてて説明され、教えられていたのです。

古代に遡るほど、それの著者は論理的であり、近代になるほど、注釈者がより大きな誤りを犯している、というのは、著しい事実です。

近代の著者たちの多くは、あらゆる種類の神秘を語っています。

このようにしてヨーガはごく僅かの人々の手中に落ち、彼らがそれを日の光と理性の十分な輝きの元に晒す代わりに、一個の秘密としてしまいました。

彼らは、力を自分たちのものにしたくて、そうしたのです。

まず第一に、私が教えることには何の神秘もありません。

私が知っているわずかのことは全部、みなさんにお話しましょう。

私に論証できる限りのことは、論証しましょう。

しかし私が知らないことは、ただ書物に書いてあることだけをお話しましょう。

盲目的に信じるのは間違いです。

みなさんは、理性と判断力を働かせなければなりません。

実践して、そのようなことが起こるかどうか、確かめなければなりません。

他のすべての科学を取り上げる場合とまったく同じ態度で、この科学を取り上げ研究なさるべきです。

そこには神秘もなければ危険もありません。

真理である限り、それは街頭、白日のもとで説かれるべきです。

これらを神秘化しようとする試みはすべて、大きな危険をもたらします。』

(ラージャ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

 

『質問者

「どのようにナーディ(霊的神経)を撹拌し、クンダリニーを目覚めさせてスシュムナーまで登らせるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ヨーギはこの目的のために呼吸の制御法をするだろうが、ジニャーニには探求の方法しかない。

探求によって心が真我に溶け去ったとき、真我と異ならないクンダリニーあるいはシャクティは自動的に目覚めるだろう。

ヨーギたちはクンダリニーを目覚めさせ、サハスラーラ、頭頂点の霊的センターもしくは千の花弁の蓮に送り上げることを最も重要なこととしている。

彼らは聖典のなかにある「生命の気の流れは頭の泉門から身体に入る」という言葉を指摘し、ヴィヨーガ(分離)がそのようにして起こるため、ヨーガ(合一)は逆の経路から起こるのだと主張している。

それゆえ、ヨーガの成就のためには修練によってプラーナを集め、泉門に到達しなければならないと彼らは言う。

その反対にジニャーナは、ヨーガが身体の存在を認め、身体が真我から分離していると仮定していることを指摘する。

この分離という見解が受け入れられて、はじめてヨーギはヨーガの修練によって再び合一するための努力を推奨できるのである。

だが真実は、身体は心の中に存在し、脳をその中枢としている。

脳が別の源から借りた光によって機能していることは、ヨーギ自身も泉門の理論のなかで認めている。

ジニャーニはさらに一歩進めて議論する。

もし光が借り物であれば、それはそれが生じた源から来たに違いない。

それゆえ、その源に直接行きなさい。

借り物に依存してはならない。

その源こそがハート、真我なのである。

真我がどこか他のところからやってきて、頭頂から身体のなかに入るわけではない。

真我はただあるがままに在る。

それは永遠に輝き、永遠に不動であり、揺らぐことも変わることもない。

個人ははかなく変化する身体や心の限界に閉じこめられている。

その身体と心も、不変の真我からその存在を得ているのである。

ただこの誤った自己同一視が放棄されなければならない。

それさえできれば、永遠に輝く真我は単一の非二元性の真理として見られるだろう。

もしサハスラーラに精神を集中すれば、サマーディの歓喜が得られることは疑いない。

だが、それでもヴァーサナー、心の潜在的傾向が破壊されることはない。

それゆえ、ヨーギはサマーディから目覚めざるをえない。

なぜなら、束縛からの解放がまだ達成されていないからである。

彼はまだ生来のヴァーサナーを根絶しなければならない。

そうでなければヴァーサナーは彼のサマーディを防げるだろう。

そのため、クンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラに達し、サハスラーラからジーヴァナーディを通ってハートへと降りていく。

スシュムナーは曲線を描く。

それは最も低いチャクラから始まり、脊椎を通って脳に昇りつめ、そこから曲がって降りていき、ハートのなかに到達する。

ヨーギがハートに到達したとき、サマーディは永久的なものとなるのである。

これでハートこそが最終のセンターであることが理解できるだろう。」

 

質問者

「ハタ・ヨーガは効果的に病気を払いのけます。

そのため、それはジニャーナ・ヨーガの必要な準備段階だと唱道されています。」

 

マハルシ

「それを唱道する者たちにそれをさせればいい。

それはここでの体験ではない。

すべての病気は絶え間ない真我探究によって効果的に絶滅されるだろう。

心の健康のためには身体の健康が欠かせないという考えに沿って進めていくなら、身体の世話にはきりがないだろう。

身体そのものがひとつの大きな病気なのである。

この病気に打ち勝つためにわれわれがすべきことは、ただ静かにあることだけである。」

 

質問者

「ハタ・ヨーガは真我を探究するためには必要ではありませんか?」

 

マハルシ

「各人がそれぞれにふさわしい何らかの方法を見いだす。

それは潜在的傾向(プールヴァ・サンスカーラ)のためである。」

 

質問者

「私の年齢でもハタ・ヨーガをやり遂げることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「なぜそのようなことを考えるのだろうか?

なぜなら、あなたは真我があなたの外側に存在すると考えるため、それを求めて努力するのである。

だが、あなたはつねに存在しているのではないだろうか?

なぜあなた自身を離れて、外側にある何かを追い求めるのだろうか?」

 

質問者

「『アパロクシャ・アヌプーティ』のなかに、ハタ・ヨーガは真我の探究に必要な補助であると述べられています。」

 

マハルシ

「探究が障害なく効果的に行われるためには、身体が健康でなければならないとハタ・ヨーギは言う。

また探究が成就されるには、寿命を長引かせなければならないとも言っている。

さらにその目的のために薬(カーヤカルパ)を用いる者たちもいる。

絵を描きはじめる前にキャンパスは完全でなければならないというのが、彼らが好んで使う比喩である。

確かにそうだろう。

だが、いったい何がキャンパスで、何が絵なのだろうか?

彼らによれば、身体がキャンパスで、真我への探究が絵だという。

ところが、実際は身体自身がキャンパス上の絵なのではないだろうか?」

 

質問者

「しかし、ハタ・ヨーガは助けになるとよく言われるのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

ヴァーダンタに精通した学者でさえ、その修練を続けている。

さもなければ、彼らの心は静まらないからである。

それゆえ、ハタ・ヨーガをしないかぎり心を静めることができない者たちにとって、それは役に立つと言えよう。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(54)ヨーガ②

前回より、ヨーガについて、その中でも特に、ヨーガの目的について、ご紹介させて頂きました。

私たちは、通常、何かをする時、目的を明確にすることによって、その行動によってもたらされるだろう結果を想像して、頑張ろうという気持ちになるものですが、ヨーガの実践により、心身の健康、健やかさがもたらされることは、よく知られていますが、本来は、心身の健やかさは、ヨーガの副産物的な結果であって、ヨーガ本来の目的ではありません。

 

それは、前回の記事の中でもご紹介しました通り、ヨーガが、アーサナ(身体的浄化法)に留まらず、日常生活における継続的なヤマ(やってはいけないこと)・ニヤマ(やった方が良いこと)の実践により、より善い人間的な在り方へのアプローチ、及び、直接的、具体的な修練的なアプローチ、すなわち、アーサナだけでなく、プラーナヤーマ(調気法)そして瞑想へと続く一連の訓練体系を基に、人間が体験でき得る究極の真理のための直接体験の好機を、それを求める実践者、探究者に与することができる最も効果的な実践の道であると、多くの成就者が語っていることからも明らかです。

 

最終的なヨーガの目的は、このヨーガ(合一)という言葉が示すように、正に「神との合一」ですが、これは、言葉を換えると、「(神と私との間の)分離(感)の消滅」ということになります。

 

ヨーガにおける「分離(感)の消滅」とは、この宇宙の唯一絶対なる実在である「神」とこの「私」とは、分離せず、本質的には、”一つ”であり、ソレ以外には、実在していない、ということを意味しています。(サルヴァン・カルヴィダン・ブラフマン--すべてはブラフマンである)

 

これが、アドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元論)の最も重要な要点であり、究極の真理とされているものです。

 

このことを、体験を通して識ること、それが、ヨーガ(合一)の最終的な目的なのです。

(言い換えると、「ヨーガ」(合一)の道とは、人間にとっての「解脱」への道ということになります)

 

この目的のために、ヨーガは、長い年月をかけて、多くの成就者の経験の蓄積によって、一つの理論体系として纏められたものであり、これまで多くの人々が、このヨーガの道を通って、神との合一を成就し、究極の真理を体得しました。

 

今回も、グルとして人々にヨーガの道を説き、お手本を示して下さったスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、スワミ・ヴィヴェーカーナンダによる各国で開催された講演会における講話、そして、最後は、ラマナ・マハルシのアシュラムにおけるサット・サンガでの質問者への回答から、「ヨーガ」について、わかりやすくそのエッセンスを説いて下さっている御言葉をご紹介したいと思います。

 

 

Prerequisites for Yoga Life(ヨーガ的生活のための必要条件)

道徳的な純粋さと霊的な熱望は、ヨーガの道における最初の一歩である。

静かな心を持つ人、グルの言葉を信頼する人、食事と睡眠において適度な人、サムサーラ・チャクラ(生と死のサイクル)からの解放を熱心に求めている人は、ヨーガを実践する資格のある人である。

ヨーガの道における熱望は、信頼、エネルギー、快活さ、勇気、忍耐、正直さ、純粋さ、心の意気消沈の欠如、冷静さ、熱意、集中力、落ち着き、自制心、誠実、非暴力、無欲、などを持つべきである。

禁欲的で質素な生活が、ヨーガにとっては不可欠である。

ヨーガの基本は、自己制御である。

訓練は、身体の訓練だけでなく、心の訓練が、ヨーガの本質である。

ヨーガの実践においては、心の通常の外的な活動の破棄がある。

心の固定は、心の外的活動の破棄にとって、必須である。

心がまず第一に固定され、完全にコントロールされないと、反対側へとコースを変えることはできないだろう。

 

 

The Four Paths (四つの道)

神を悟るための四つの主な道は、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、そしてジニャーナ・ヨーガである。

カルマ・ヨーガは、活動的な気質の人に適している。

バクティ・ヨーガは、献身的な気質の人に適している。

ラージャ・ヨーガは、神秘主義的な気質の人に適している。

ジニューナ・ヨーガは、論理的で哲学的な気質の人に適している。

カルマ・ヨーガは、無私の奉仕の道である。

バクティ・ヨーガは、神に専念された献身の道である。

ラージャ・ヨーガは、自己抑制の道である。

ジニャーナ・ヨーガは、智慧の道である。

カルマ・ヨーガは、意志の訓練である。

ジニャーナ・ヨーガは、知性と理性の訓練である。

バクティ・ヨーガは、感情の訓練である。

意思は、神への完全なる帰依を通して、すべての行為を清める。

知性は、神の栄光と威厳を悟る。

感情は、神聖なる歓喜という至福を経験する。

三つの永遠なる道は、ジニャーナ、カルマ、バクティである。

神は、愛であり、善であり、真理である。

神は、愛として、帰依者に経験される。

神は、カルマ・ヨーギーによって善として経験される。

神は、ジニャーナには、真理として経験される。

ある人は、カルマ・ヨーガの実践だけが救済への手段であると主張する。

ある人は、神への帰依が、神を悟るための唯一の方法だと考える。

ある人は、智慧の道が、最終的な至福へ到達する唯一の道だと信じている。

また、ある人は、三つのすべての道は、等しく完成と自由をもたらすのに充分に有効であると考えている。

 

 

The Yoga of Synthesis(統合のヨーガ)

一方に偏した開発は、感心しない。

宗教は、人間全体を、ハートも知性も手をも教育し、開発しなくてはならない。

その時だけ、彼は完成に達するであろう。

人は、意志、感情、思考の奇妙で複雑な混合物である。

彼は、自分の望みの目的物を所有することを望む。

彼は、感情を持ち、それで彼は感じる。

彼は、理性を持ち、それで彼は考え、推論する。

人によっては、感情的な要素が優るかもしれないが、中には、理性的な要素が優勢な人もいる。

意志や感情や思考が、はっきりと分かれていないように、また、仕事、献身、知識も互いに限定されていない。

心においては、三つの弱点、マラ(不純)、ヴィクシェパ(混乱)、アバラナ(無知)がある。

不純は、カルマ・ヨーガの実践によって取り除かれるべきである。

混乱は、ウパーサナ(礼拝)によって取り除かれるべきである。

無知は、ジニャーナ・ヨーガの実践によって、破壊されるべきである。

その時だけ、自己実現(Self-Realisation)は、可能である。

もし、あなたが、鏡で自分の顔をはっきりと見たいのであれば、あなたは鏡の汚れを取り除き、その状態を維持し、そして覆いを取り除かなければならない。

あなたは、濁りが取り除かれ、風によって波立たされた水面が静かになり、表面にある苔が取り除かれた時にだけ、湖面にはっきりと自分の顔を見ることができる。

自己実現(Self-Realisation)とは、そういうものである。

行為、感情、知性は、この身体という馬車につながれた三頭の馬である。

それらは、完全に調和して働き、その時だけ、馬車はスムーズに走る。

統合的な開発がなければならない。

あなたは、シャンカラ(註①)の頭脳、ブッダ(註②)のハート、ジャナカ王(註③)の手を持たなくてはならない。

統合のヨーガだけが、完全なる開発をもたらす。

統合のヨーガだけが、頭脳、ハート、手を開発し、人を完成に導く。

あらゆる方向に調和してバランスを取ることは、宗教の理想であり、統合のヨーガの実践により達成されることができる。

すべての存在の中に、一つの真の自己を見ることは、ジニャーナ、智慧である。

真の自己を愛することは、バクティ、献身である。

真の自己に仕えることは、カルマ、行為である。

ジニャーナ・ヨーギーが智慧に達する時、彼は献身と無私の行為を賦与される。

彼がすべての中に、ひとつなる真の自己を見る時、カルマ・ヨーガは、彼にとっては、彼の霊的な性質の自発的な表現である。

献身者が、献身において完成に達する時、彼は智慧と行動を持つ。

彼にとってはまた、カルマ・ヨーガは、彼がどこにでも一つなる神を見る時、彼の神聖なる性質の表現である。

カルマ・ヨーギーは、彼の行為が完全に無私である時、智慧と献身に達する。

三つの道は、実際には、一つであり、その中で、三つの異なる気質が一つ、或いは、分離し難い他の構成要素を強調している。

ヨーガは、真の自己が見出され、愛され、奉仕され得る方法を提供している。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

註①(8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二一元論(アドヴァイタ)を提唱した。)

註②(紀元前5世紀前後の北インドの哲学者で、仏教の開祖。)

註③(インドの叙事詩ラーマーヤナ」の登場人物で、インド神話最大の英雄の一人ラーマの妃シータの父。戦いにおいて勝つ望みがなくなった時、神々に祈りを捧げると、神々はジャナカに勝利を与えた。)

 

 

 

『ラージャ・ヨーガという科学はまず第一に、心の状態を観察するそのような方法を与えようとするものです。

道具は心それ自体です。

注意力は、正しく導かれ、内なる世界に向けられると、心を分析し、われわれのために事実を照らして見せるでしょう。

心の力は、分散された光線のようなもの、集中されると、それらは光輝きます。

これが、われわれが知識を得るための唯一の手段です。

外界でも内なる世界でも、あらゆる人がそれを用いています。

しかし心理学者の場合には、科学的な人が外界に向けるのと同じ精密な観察が、内なる世界に向けられなければなりません。

そしてこれは、膨大な修練が必要です。

子供のとき以来われわれは、内なる世界の事実は無視して外界の事物だけに注意を向けるよう教えられてきましたので、われわれの大部分は、内面のメカニズムを観察する能力をほとんど失ってしまいました。

心をいわば内側に向け、それが外に向かうのを止め、それからそのすべての力を集中し、それ自身の性質を知ることができるようにそれらを心自体の上になげかけ、それ自身を分析する、というのは、非常に骨の折れる仕事です。

それでも、それが、この主題への科学的なアプローチと言えるものへの唯一の道なのです。

何がこのような知識の用途なのでしょうか?

まず第一に、知識それ自体が、智識の最高の報いです。

そして第二に、それの中に効用もあります。

それは、われわれの不幸を全部取り除くでしょう。

彼自身の心を分析することによって、人が言わば、決して破壊されることのないあるものに、本来永遠に清らかな、そして永遠に完全なあるものに直面するとき、彼はもう、惨めではないし、不幸でもないでしょう。

すべての不幸は恐怖から、満たされない欲望から生まれます。

人は、自分は決して死なない、ということを知るでしょう。

そのとき彼はもう、死の恐怖は持たないでしょう。

自分は完全であると知るとき、彼はもう、むなしい欲望は持たないでしょう。

そしてこれらの原因が二つともなくなれば、そこにはもう不幸はないでしょう――すでに肉体の中にいる間から、そこには完全な至福があるでしょう。

この知識を得させるたった一つの方法があります。

集中という方法です。

化学者は彼の研究室で心のエネルギーのすべてを一点に集中し、それらを、彼が分析しつつある物質の上に投げかけ、それらの秘密を見いだします。

天文学者は、個人のエネルギーのすべてを集中し、それらを望遠鏡を通して天空に放射します。

すると星々や月や太陽は、彼らの秘密を彼に向かって明かすのです。

私が自分の想いをいまお話している事柄に集中することができればできるほど、私より大きな光を、みなさんの上に投げかけることができます。

みなさんは私の言葉に耳を傾けておられます。

自分の思いを集中なさればなさるほど、よりはっきりと、私の言おうとしていることを把握なさるでしょう。

心の力の集中によるのでなければ、世界中の知識はどうして得ることができたでしょう?

われわれがどのようにしてノックするかを、どのようにしてそれに必要な打撃を与えるべきかを知りさえすれば、世界はその秘密を明かそうと待ち構えているのです。

打撃の強さと力は、集中から来ます。

人間の心の力には際限がありません。

集中されればされるほど、大きな力が一点に押し迫ります。

それが秘密なのです。

心を外界のものに集中することは容易い。

心は自ずと外の方に向いて行きます。

しかし、主体と対象とが同一である、宗教、心理学、または形而上学の場合には、そうは行きません。

対象は内にあり、心自体が対象であって、心自体を研究しなければなりません--心が心を研究しているのです。

われわれは、内省という、心の力があることを知っています。

私はみなさんに話しています。

同時に、自分が話しているのを知り、かつ聞きながら、まるで第二の人物のように脇に立っています

みなさんの心の一部はかたわに立って、みなさんが思っていることを見ているのですから、みなさんは同時に、働き、かつ思っているわけです。

心の力は集中され、それ自身の方に向けかえられなければなりません。

そうすると、太陽の刺し貫くような光線の前には真っ暗な場所もその秘密を明かすように、この集中された心は、それ自身の最奥の秘密を洞察するでしょう。

このようにしてわれわれは、信仰の根底、真の純粋な宗教に到達するでありましょう。

自分たちは魂を持っているのか、いないのか、生命は束の間のものか、永遠のものであるのか、宇宙に神はおられるのか、おられないのか、自分で知覚するでしょう。

それはことごとく、われわれの前に示されるでしょう。

これが、ラージャ・ヨーガが教えようとしていることです。

それの教えすべての目標は、どのようにして心を集中するのか、それからどのようにして自分たちの心の奥底を知るのか、それからどのようにしてその内容を総合し、そしてそれらから自分たちの結論を引き出すのか、ということです。

ですからそれは決して、われわれの宗教が何であるか、われわれは理神論者であるか、それとも無神論者であるか、キリスト教徒か、ユダヤ教徒か、それとも仏教徒か、というようなことは、問いません。

われわれは人間です。

それで十分です。

あらゆる人間は、宗教を求める権利と力を持っているのです。

あらゆる人間は、なぜ、と理由を尋ねる権利と、もし彼が面倒を厭いさえしないなら、自分でその問いに答えを与える権利とを持っているのです。』

(ラージャ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

 

『質問者

「プラーナヤーマには吸気、呼気、維持の三つの段階があります。

それらはどのように調整されるのでしょうか?」

 

マハルシ

「身体の自己同一化を完全に放棄することこそが呼気(レチャカ)であり、「私は誰か?」という探求を通して内側に消え去ることこそが吸気(プーラカ)である。

唯一の実在である「私はそれである」(I AM THAT)としてとどまることこそが維持(クンバカ)である。

これこそが真のプラーナヤーマである。」

 

質問者

「瞑想の初期においては呼吸、つまり呼気と吸気に注意を払い、ある程度の心の静寂さが得られたあとに心の源を求めてハートのなかへ潜ることができると『マハー・ヨーガ』に述べられていました。

私はこのような実践的な指導を切望していたのです。

この方法に従ってもよいでしょうか?

それは正しいでしょうか?」

 

マハルシ

「重要なことは、いかにして心を消し去るかということである。

真我探究に従うだけの力をもたない者には、心を制御する助けとしてプラーナヤーマを選ぶことが勧められる。

プラーナヤーマには二つの種類がある。

呼吸を制御し調整する方法、そしてただ自然な呼吸を見守る方法である。」

 

質問者

「呼吸を制御するためには、吸気が一、維持が四、呼気が二という割合が最もよいのではありませんか?」

 

マハルシ

「このような割合や、数を数えるのではなくマントラを口に出しながら呼吸を調整する方法は、みな心を制御する助けとなる。ただそれだけである。

呼吸を見守ることもプラーナヤーマの形式のひとつである。

吸気、維持、呼気の形式はより暴力的であり、各段階を追って正しい師が指導していなければ、危険をともなうこともあるだろう。

だが、単に自然な呼吸を見守る方法はやさしく、危険を含むことはない。」

 

質問者

クンダリニーシャクティクンダリニーの力)はシャクティ(力)を得るヨーガの道に従う者だけに現れるのでしょうか。

それとも帰依や愛の道に従う者にとっても現れるのでしょうか?」

 

マハルシ

クンダリニーシャクティをもたない人がいるだろうか?

シャクティの真の本性が知られたとき、それはアカンダーカーラ・ヴリッティ(純粋意識)あるいはアハム・スプーラナ(「私」の光輝)と呼ばれる。

いかなる道に従おうとも、クンダリニーシャクティはすべての人にとって存在している。

ただ名前が異なっているだけである。」

 

質問者

シャクティは五つの相、十の相、百の相、千の相に現れると言われています。

五と十と百と千、いったいどれが本当なのでしょうか?」

 

マハルシ

シャクティにはひとつの相しかない。

もしシャクティがそれ自体をいくつかの層に現すと言われているならば、それはただの表現の仕方にすぎない。

シャクティはただひとつである。」

 

質問者

「ジニャーニは彼の道に従う者たちばかりではなく、ヨーガのような他の道に従う者たちも助けることができるのでしょうか?」

 

マハルシ

「疑うまでもない。

人々がどんな道を選ぼうとも、彼は助けることができる。

それはちょうどこのようなものだ。

ひとつの山がある。

それに登るにはたくさんの道があるだろう。

もし彼が自分の登ってきた道を人びとに勧めたとしても、ある人はそれを好み、ある人は好まないだろう。

好きになれない道、ただその道だけを登れと言われても、登ることはできないだろう。

それゆえ、ジニャーニは人びとが選んだ道が何であろうとただ助けるのである。

中間地点にいる人は他の道の長所や短所を知らない。

だが、頂上に登り、そこから昇ってくる他の人びとを観察する人は、すべての道を見ることが可能だ。

それゆえ、彼は昇ってくる人びとに少しこちら側に寄るようにとか、穴や崖を避けるようにと忠告することができるのである。

目的地はすべての人にとって同じものである。」

 

質問者

「『シュリー・ラマナ・ギーター』のなかに述べれたエイルチット・ジャダ・グランティ(身体と意識との結び目)を断ち切るために、プラーナ(生気)をスシュムナー・ナーディ(脊柱のなかにある霊的神経)に送りこむにはどうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」と探求することによってである。

確かにヨーギはクンダリニーを目覚めさせ、スシュムナーまで送り上げようとしているかもしれない。

一方、ジニャーニにとってはこれが彼の目的ではないかもしれない。

だが、どちらもプラーナをスシュムナーに送り上げてチット・ジャダ・グランティを断ち切るという同じ結果に到達するのである。

クンダリニーアートマン、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。

われわれはクンダリニーを身体のなかにあるように語る。

なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在と見なしているからである。

だが、実際クンダリニーは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(53)ヨーガ①

今回から、実践的なテーマである「ヨーガ」について、比較的近代のインドにおいて、グル(導き手)としてその一生を捧げて下さった先達たちの御言葉をご紹介したいと思います。

 

これまでに、多くの人びとにより、ただ一つの真実に至る方法(道)が、いろいろなやり方で提唱されてきましたが、古代インドより現代に至るまで途切れることなく継承されてきた方法(道)の代表として、ヨーガを挙げることができます。

 

「ヨーガ」と聞くと、アーサナに代表される健康体操的なヨーガを思い浮かべることもあるかと思いますが、それは、本来のヨーガとされている修行体系の一部でしかありません。

(伝統的なラージャ・ヨーガ、或いは、アシュタンガ・ヨーガと呼ばれる体系では、八段階に分かれており、アーサナは、ヤマ、ニヤマに次ぐ第三段階目となり、その後、プラーナヤーマとなり、プラティヤハーラからの一連の修練は、坐して黙する「瞑想」(ディアーナ)へとつながって行きます。

そして、最終的には、サマーディ(三昧)と呼ばれる境地に意識が没入して行くことで、修行の目的であるヨーガ(合一)は達成されるとされており、サマーディが、最終目的となっています)

 

ここではっきりしておきたいことは、ヨーガ(合一)の目的は、何との合一(ヨーガ)なのか?ということです。

 

それが明確でない状態で、ヨーガを実践しても、ヨーガ(合一)の実践に集中することは難しいでしょう。

実践においては、明確な目的を持って、集中して取り組むことが、最も効果的なやり方であると言えます。

 

「わたしは誰か?」

 

この問いへの答えは、瞑想によるサマーディによってもたらされたり、クンダリニーが目覚めることでもたらされることもあります。

 

実践するヨーガにより、体験としての顕れ方は異なりますが、結論としては、同じ一つの真実が明らかになります。

 

古代より開示されているヨーガの道は、誰もが辿ることができますが、ある段階では、良い導き手は必要です。

しかし、生徒に準備ができると、自然と、導き手が現れることもありますので、良い教師に出会えていないからと言って、実践を躊躇う必要はありません。

 

最初は、導き手がいなくても、明確な志を持ち、できる限り開示されている道を辿り、最終目的であるヨーガ(合一)を目指すならば、必ずや、適切な時に、適切な導き手が現れて、ヨーガ(合一)の達成へと向けて、一直線に歩んで行かれるように、事は起きて行くことでしょう。

 

先ずは、知られているようで、実は、あまりきちんとした形では知られていない「ヨーガ」とは、本来、どのようなものであるのか?という基本的な定義から、ご紹介したいと思います。

最初にご紹介するのは、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、そして次は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より、そして最後は、ラマナ・マハルシが語った「ヨーガ」についての質問者への御言葉です。

 

 

YOGA(ヨーガ)      

神の中で生きること、神と親しく交わることが、ヨーガである。

神の中における人生は、永遠の至福をもたらす。

ヨーガは、あなたに道を示す。

ヨーガは、あなたと神を結びつける。

ヨーガは、あなたを不死にする。

ヨーガは、完成した人生である。

ヨーガは、人間的な人格のあらゆる面を徹底的に見直す方法である。

ヨーガは、体と心や知性ばかりでなく、内的な霊性の不可欠な学習体験である。

ヨーガは、あなたに悪から善へ、善から神性へ、それから永遠の神聖なる光輝へと上昇する素晴らしい方法を示している。

ヨーガは、正しく生きる技術である。

正しく生きる技術を学んだヨーギー(ヨーガ行者)は、幸福であり、調和が取れており、平和である。

彼は、緊張からは自由である。

ヨーガは、インドの、或いは、インドだけでなく、全体として人類の古代の預言者によって完成された科学である。

それは、正しく科学である。

それは、完璧な自己訓練の実践的体系である。

 

 

A Way of Life (生きる方法)

ヨーガは、人生から掛け離れた方向転換を望んではいないが、人生が霊的になることを要求している。

ヨーガは、主に、生き方であり、人生から離別するものではない。

ヨーガは、行為の放棄ではなく、正しい精神で効果的に実行することである。

ヨーガは、家庭や人間の生態圏から逃れることではなく、新しい理解で、家庭と社会に対する個人の態度を創り上げるプロセスである。

 

 

Yoga is Universal(ヨーガは、普遍的である)

ヨーガは、すべてのためにある。

ヨーガは、普遍的である。

それは、派閥事項ではない。

それは、神への道であって、宗教的な教義ではない。

ヨーガの実践はいかなる宗教にも、いかなる神聖な教会にも対立していない。

それは、純粋に霊的であり普遍的である。

それは、いかなる人の誠実な信仰をも否定しない。

ヨーガは、宗教ではないが、すべての宗教における基本的な霊的な真理の実践への助けである。

ヨーガは、キリスト教や仏教、パルシー教(ゾロアスター教)、イスラム教、スーフィーイスラム神秘主義者)や無神論者によって実践されることができる。

ヨーギーになることは、神の中に切れ目なく留まり、人々と共に平和に生きることを意味する。

ヨーガは、神との結合である。

ヨーガは、すべてとの結合である。

神は、すべての中に住まわれている。

 

 

Yoga Is not Physical Exercise(ヨーガは体操ではない)

ヨーガが体操、或いはただのアーサナ(身体浄化法)やプラーナヤーマ(調気法)などであるという初心者の考えは、恐ろしい過ちである。

ヨーガアーサナ、プラーナヤーマ、バンダ、ムドラー、そしてクリヤは、真のヨーガとは全く関係がない。

それらは、ヨーガの実践における助けとなると見做されている。

大抵の人は、体操レベルを超えたヨーガに近づいていない、何故ならば、真のヨーガは、有能な教師の指導の元で、集中した思考と結合した集中した個人的な訓練を必要とするからである。

ヨーガは、肉体を超えた霊的な天恵を約束している。

それは、即座の成果と世俗的な富をやかましく要求する一般人には、魅力のないものである。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『世界のさまざまな宗教のすべてを分析すると、みなさんはそれぞれが二組に分けられることを発見なさるでしょう。

書物を持つものと、それを持たないものとです。

書物を持つものはもっとも強く、信者の数ももっとも多いでしょう。

書物を持たないものは大方は滅びてしまい、ごく少数の新しいものは、ごくわずかの信者しか持ってはいません。

しかし、それらすべての中に、われわれは一つの意見の一致を見いだします。

彼らが教える真理は、特定の人びとの経験の結果だ、というものです。

キリスト教徒はみなさんに、彼の宗教を信じることを、キリストを信じ、彼を神の化身と信じることを、神を、魂を、そしてその魂のよりよき状態を信じることを求めます。

もし私が理由をたずねるなら、彼は、自分はそれを信じる、と言います。

しかし、もしみなさんがキリスト教の源泉にまで行くなら、それは経験に立脚しているのだ、ということを見いだされることでしょう。

キリストは、彼は神を見る、と言いました。

弟子たちは、彼らは神を感じる、と言いました。

その他いろいろの例があります。

仏教においても同様、それはブッダの経験です。

彼は、ある真理を経験しました。

それらを見、それらに接し、世にそれらを説いたのです。

ヒンドゥたちの場合も同様です。

彼らの書物の中に、リシまたは賢者たちとか呼ばれているその著者たちは、自分たちはある真理を経験したと断言しています。

そして彼らはそれらを説いているのです。

このように、世界のすべての宗教は、すべてのわれわれの知識のある普遍で堅固な土台――直接経験の上に築かれているのだ、ということは明らかです。

教師たちはすべて、神を見ました。

彼らはすべて、彼らみずからの魂を見ました。

彼らは彼らの未来を見ました。

彼らは彼らの永遠性を見ました。

そして彼らが見たものを、彼らは説いたのです。

ただそこにはこの違いがあります。

すなわちこれらの宗教の大部分によって、特に現代は、ひとつの奇妙な主張がなされているのです。

それは、これらの経験は現代の人びとには不可能だ、その名が宗派の名となっているような、宗教の創始者たちだけに可能なものだったのだ、と言うのです。

現代ではこのような経験は廃れてしまった、それだからいまはわれわれは、信念によって宗教を捉えなければならない、と言うのです。

これを私は全面的に否定します。

この世界の知識のどの特定の分野においてであれ、もし一つの経験があったのなら、その経験は前に幾百万回もあったものに違いないし、また永遠に繰り替えされるはずである、というのは当然の結論です。

斉一性は自然の法則です。

ひとたび起こったことは、常に起こるのです。

それですからヨーガの教師たちは、宗教は古代の経験に基づいているだけでなく、人は彼自身がそれと同じ知覚を得るまでは、宗教的であると呼ばれることはできない、と断言しています。

ヨーガは、どうしたらこれらの知覚が得られるか、をわれわれに教える科学です。

人はそれを感得するまでは、宗教を語ってもあまり役には立ちません。

なぜこんなに多くの混乱が、こんなに多くの闘いや争いが、宗教の名のもとに存在するのか?他の原因より神の御名のもとに、もっと多くの血が流された、それは人びとが決して源泉まで行かなかったからです。

彼らは先祖のたちの習慣に頭の中で同意するだけで満足し、他の人びとに同じことをするよう求めました。

人がもし魂を感じないなら、自分はそれを持っているなどと言う、何の権利がありましょう?

また彼が神を見ていないなら、彼は存在するなどと言う、何の権利がありますか?

もし神がおられるなら、われわれは彼を見なければなりません。

もし魂があるなら、われわれはそれを知覚しなければなりません。

そうでないなら、信じない方がましです。

偽善者であるよりは、率直な無神論者である方がよろしい。

一方で、「学識のある」現代人の考えは、宗教や形而上学をはじめとする、至高の存在を探究するすべての努力は無駄である、というもの、他方で、生半可の教育を受けた人びとの考えは、このようなことに実際はなんの根拠もない、それらの唯一の価値は、それらが世間に善をなすための強い動機力を与えているという事実だ、というもののようです。

もし人びとが神を信じるなら、彼らは善良になり道徳的になり、従って善い市民になるだろう、というのです。

このような人びとが受けている教えはすべて、背後に何の実質もない、永遠の無意味な長談義を信じよということに過ぎないのを見れば、このような考えを抱いているからとて、彼らを責めるわけにはいかないでしょう。

彼らは言葉を食べて生きよ、と求められているのです。

そんなことが彼らにできますか?

もしできたとしたら、私はまったく、人間性を尊重しないでしょう。

人は真理を欲します。

自分で真理を経験することを欲します。

彼がそれを把握したとき、それを悟ったとき、それを彼のハートの奥の奥で感じたとき、そのときに初めて、すべての疑いは消え、すべての闇は消散し、すべての不正は正されるであろう、とヴェーダは断言しています。

「おんみら、不死の子たち、最高の領域にすむ者たちも、道は見いだされたぞ、この暗闇から完全に脱出する道がある。

それは、すべての闇を超越している彼を、見いだすことである。

ほかに道はない」と。

ラージャ・ヨーガという科学は、この真理に到達するための、実際的な、科学的に考えられた一つの方法を、人類に提供します。』

(ラージャ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

『質問者

「ヨーガとは合一を意味しています。

いったい何と何の合一なのかと不思議に思ってしまいます」

 

マハルシ

「まさにそのとおりだ。

ヨーガは、以前に区別があって、のちにひとつのものが別のものと合一するということを意味している。

だが、いったい誰が誰とひとつになるというのであろう?

あなたは探究者であり、何かと合一されることを探し求めている。

もしあなたがそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければならない。

しかし真我はあなたに最も近いものである。

そして、あなたはつねにそれに気づいている。

それを探し求め、それとして在るがいい。

そうすれば、それは果てしなく永遠に広がっていく。

そしてヨーガ(合一)という問題もなくなるだろう。

いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)だというのだろうか?」

 

質問者

「私にはわかりません。

一体分離(ヴィヨーガ)があるのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰にとってのヴィヨーガだろうか。

それを見いだしなさい。

これがヨーガ(合一)である。

ヨーガはどのみちにもつながっている。

実際ヨーガとは、他でもない真我あるいは真理があなたとは異なっているという考えをやめることにすぎない。

カルマ、ジニャーナ、バクティ、ラージャといったすべてのヨーガは、さまざまな様式で成長してきた。

さまざまな気質の人びとに合うようにデザインされた、さまざまな道にすぎない。

それは人びとが長い間心に抱いてきた、自分は真我と異なっているという概念を消し去ることを目的としている。

あなたはとは異なる何かと合一するという意味でのヨーガ(合一)などありえない。

なぜなら、あなたは真我から離れたことなどなく、離れることなどできないからである。」

 

質問者

「ヨーガと探求の違いとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「ヨーガはチッタ・ヴリッティ・ニローダ(想念の抑制)を説く。

その反対に、私はアートマン・ヴェシャーナ(真我の探究)を説く。

後者の方法のほうがより実際的である。

気絶あるいは断食の影響で心は抑制される。

だが、原因が消えると同時に心は命を吹き返す。

つまり、以前と同じように想念は湧き起こるのである。

心を抑制するには二つの方法しかない。

心の源を探りあてるか、あるいは至高なる力によって打ち砕かれるようにと、心を自ら明け渡すことである。

明け渡しとは、すべてを支配する高次の力が存在すると認めることである。

もし源を探究することを心が拒んだなら、かまわずにいなさい。

それが戻って来るのを待って、それから内側へと向かうがいい。

不屈の忍耐力なくして成功する者は誰もいない。」

 

質問者

「呼吸を制御することは必要でしょうか?」

 

マハルシ

「呼吸の制御は自己のなかに深く潜るための唯一の助けである。

心を制御することによっても潜ることはできる。

心が制御されたとき、呼吸も自動的に制御される。

呼吸の制御をする必要はない。

心の制御でじゅうぶんである。

呼吸の制御は、直接心を制御できない者にとってのみ勧められるものである。」

 

質問者

「プラーナヤーマはいつすべきでしょうか?

また、どうしてそれは効果があるのでしょうか?」

 

マハルシ

「探究や明け渡しが行われていないなら、自然で静かなプラーナヤーマ(調息)を試みることができるだろう

これはヨーガ・マールガ(ヨーガの道)と呼ばれる。

もし生命が危険にさらされれば、その生命の救出の一点にすべての関心が集まるだろう。

もし呼吸が止められれば、心はゆとりを失い、外的な対象物に飛びつくこともないだろう。

このようにして呼吸を制御している間は心も落ち着いている。

すべての注意は呼吸とその調整に向けられ、他への興味は失われるのである。

呼吸の源と心の源は同じである。

それゆえ、一方が静められれば他方も自然と静められるのである。」

 

質問者

「チャクラに精神集中すれば心は静められるでしょうか?」

 

マハルシ

「サハスラーラ(頭頂にある千枚の花弁をもつ蓮のチャクラ)のような霊的センターに心を固定させることによって、ヨーギはどんなに長い間でも身体の自覚なしにとどまることができる。

この状態がつづくかぎり、彼らはある種の喜びのなかに浸っているように見える。

だが、静められた心が再び現れ活動しはじめると、また世俗的な想念を取り戻すのである。

それゆえ、心が外面的になるなりディヤーナ(瞑想)の助けを借りて内面にとどめる必要がある。

そうすることによって、心を沈みゆくとも、立ち現れることもないような状態に到達するだろう。」

 

質問者

「プラーナヤーマによって引き起こされた心の制御も一時的なものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「心の静寂は呼吸が制御されているかぎりはつづく。

だが、それは一時的なものにすぎないため、プラーナヤーマが目標ではないということは明らかだ。

それはプラティヤーハーラ(制感)、ダーラナー(執持)、ディヤーナ(禅定)、サマーディ(三昧)にまで展開する。

これらの段階は心の制御を扱っている。

プラーナヤーマの修練をすでにすませた人にとっては、そこでの制御はより容易なものとなるだろう。

プラーナヤーマは人をよい高い段階へと導く。

それゆえ、心の制御がヨーガの目的と言ってもいいだろう。

より熟達した人は、呼吸の制御に時間を費やすことなく、自然に直接心の制御へと向かうだろう。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

『仕事の結果に執着することなく

ただそれを義務として行う人は

供犠の火を燃やさず祭典を行なわずとも

真の出家者(サンニャーシン)であり ヨーギーである。

 

真の離欲(サンニャース)とヨーガは同じもの--そして

ヨーガとは至上主(かみ)と結合することだ

感覚を満足させたいという欲望を

放棄しなければヨーギーにはなれない

 

八段階のヨーガを登り始めた初心者は

行為すること(体による修行)が定法であり

すでにヨーガの頂上に達した人は

一切の行為を止めるのが定法である

 

すべての事物に対する欲望を棄て去り

感覚を喜ばせるための行動をせず

報果(むくい)を求めずに仕事をする人こそ

ヨーガの完成者というべきである』

(バガヴァッド・ギーター 第6章1ー4)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(52) カルマ④

今回で四回目となります「カルマ」について、ヨーガの視点から、正しい理解を深めるために、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、スワミ・ラーマによる「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より前回の続き、そして最後に、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「カルマ」についての御言葉をご紹介したいと思います。

 

カルマの法則とは、因果の法則のことです。

森羅万象は、原因と結果の世界です。

それは、この世の性質なのです。

 

この世にある限りは、どんなモノでも、因果の法則の影響下にあり、その「因果の法則」の影響を受けている(と感じている)”「私」とは、何なのか?”という問いへの答えが、「カルマ」を超えて行く際の重要な「ヒント」となるため、ヨーガにおいては、この答えが明らかにならない限り、その答えを得るまで、「原因と結果の法則」の働きにより、「カルマ」によって束縛された「わたし」は、世界に現れ続け、それが「輪廻転生」と呼ばれる生と死の繰り返しの原因である、と説かれています。

 

自己探求とは、最終的には、「私は誰か?」の答えを掴むためのものであり、この問いへの答えは、「カルマ」を超えて行くためには、必要不可欠と言えます。

 

この答えだけが、個人に真の解放をもたらすため、「私は誰か?」への明確な答えが明らかになると、「カルマ」による束縛も、マーヤー(幻妄力)による幻想も、やがては、消滅することでしょう。

 

究極的には、実在するのは、真我(アートマン)だけであり、「カルマ」によって束縛され、運命に翻弄される「個人のわたし」は、いないのです。

 

そのことを体験を通して識ることが、「真我実現」と呼ばれているもので、「私は誰か?」の答えなのです。

 

 

 

Man Is Master of His Destiny (人は、運命の支配者である)

あなたは、環境や境遇の創造物ではない。

あなたは、あなた自身の運命の支配者である。

あなたは、あなた自身の富の建築家である。

あなたは、あなたが経験することに対して責任がある。

あなたは、あなた自身の現在の状態に責任がある。

もしあなたが不幸ならば、それはあなた自身が創ったモノである。

もしあなたが惨めならば、それもまた、あなた自身が創ったモノである。

すべての行為は、早かれ遅かれ、実を結ぶ。

徳のある行為は、その結果として、喜びを産み出す。

悪い行いは、苦しみをもたらす。

あなたの過去生における慈愛は、現在の人生において、あなたに豊かさを与える。

あなたの過去生の強い想いが、現在の人生におけるあなたの性格を作っている。

あなたの過去生の傾向は、現在におけるあなたの能力となる。

あなたの過去生の徳のある行いは、現在の人生において、あなたに良い環境を与える。

あなたの過去生の経験は、現在の人生におけるあなたの意識を作っている。

あなたの過去生の利己的でない行為は、現在の人生において、神の恩寵を通して、あなたに識別力、冷静さ、大望を与える。

もし、あなたが人を圧迫するならば、あなたは、別の人生で圧迫を被り、あなたがこの人生で蒔く種子の果実を収穫するであろう。

もし、あなたが人の眼を痛めるならば、あなたの眼は、別の人生で傷つけられるであろう。

もし、あなたが人の足を折るならば、あなたの足は、別の人生で折られるであろう。

もし、あなたが貧しい人たちに食べ物を与えるならば、あなたは、別の人生で、沢山の食べ物を持つであろう。

もし、あなたが、旅人のための宿泊所を建てるならば、あなたは、別の人生で、多くの家を持つであろう。

作用、反作用は、平等であり反対である。

この地球では、行為が結果を生むのを止めさせることができる力はない。

カルマの法則とは、このようなものである。

誕生と死の法則とは、このようなものである。

あなたが途中で通過しなくてはならない循環は、このようなものである。

 

 

Three Kinds of Action(三種類の行為)

行為には、良い、悪い、そして混合という三種類がある。

良いカルマは、あなたを天国における神、或いは、天使にする。

悪いカルマは、低い子宮にあなたを投げ込む。

混合の行為は、あなたに人間の誕生を与える。

もし、あなたが人から盗み、貧しい人々に食べ物を与えるならば、それは、混合の行為である。

もし、あなたが、非合法的な手段によってお金を稼ぎ、寺院や病院を建てるならば、これは、混合の行為である。

もし、あなたが、人を騙すことでお金を得て、出家者のための修行の場を建設するならば、これもまた、混合の行為である。

すべての仕事は、善と悪の混合である。

この世界では、絶対的に良い仕事も、絶対的に悪い仕事もあり得ない。

この物質的宇宙は、相対的な場所である。

もしあなたが、何かの行為をすると、それは、一面ではいくらか良くて、ある面では、いくらか悪いことをするであろう。

あなたは、最大限の善と最小限の悪をもたらすような行為をするように心掛けなさい。

 

 

Veracity of the Law of Karma(カルマの法則の真実性)

カルマの法則は、ヴェーダンタのなくてはならない部分を形作る。

カルマの法則は、ヒンドゥー教だけの基本的な教義ではなく、仏教やジャイナ教の教義でもある。

人は種子を蒔くように、彼は収穫するだろう。

これは、カルマの法則である。

それは、人生の謎と宇宙の謎を解説する。

それは、慰め、満足、安楽を個人とすべての人々にもたらす。

それは、自明の真実である。

幸運にも、西洋人もまた、今や、その重要性と真実性を理解し始めている。

アメリカ人は、今や、この教義を全面的に信じている。

すべての感覚的な人間は、それを受け入れなくてはならないであろう。

他は上手く行かない。

この法則の 学びは、希望のない人や絶望している人や病んでいる人に、勇気を与える。

運命は、人の思考、習慣、性格によって創造される。

彼の思考や習慣を変えることによって、修正や改善のためのあらゆるチャンスがある。

ならず者が、聖者になることができる。

売春婦が、貞節な女性になることができる。

乞食が、王になることができる。

強力な法則が、このすべてを規定する。

カルマの法則だけが、この世における善悪の神秘的な問題を説明することができる。

カルマの法則だけが、苦しむ人、絶望する人に、慰めと満足、平和と力をもたらすことができる。

それは、人生の困難や問題を解決する。

それは、失望している人や惨めな人に、勇気を与える。

それは、人に、正しい考えや正しい演説、正しい行為へと後押しする。

それは、この宇宙の法則に従って生きる人のために、輝かしい未来をもたらす。

もし、すべての人々が、この法則を正しく理解し、彼らの日々の義務を注意をもって果たすならば、彼らは、霊的な梯子を崇高な高さまで上がるであろう。

彼らは、道徳的で徳のある人になり、幸せで平和な満足した人生を持つであろう。

彼らは、忍耐と辛抱強さ、心の力で、サムサーラの重荷に耐えることができる。

彼らが、誕生や資産、知性、能力などの中に、不平等を見る時、不平の余地はないであろう。

すべては、苦しんでいる時でさえ、喜ぶであろう。

貪欲、羨望、嫌悪、怒り、情熱は、消えるであろう。

徳が、至る所に、行き渡るであろう。

われわれは、すべての所で、平和と十分なものと共に、栄光あるサティヤ・ユガ(神性が優位を占める時期)を持つであろう。

法則を理解し、法則の中に生きる人は、祝福されている。

何故ならば、彼は、直ぐに神意識に到達し、法則を与えた者と一つになるからである。

その時、法則は、もはや、彼には作用しないであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『カルマは神のなされることではありません。

カルマは、各個人によってなされます。

それぞれの特定な個人が対処し、理解し、完遂しなくてはならないものです。

カルマは、各人自身の行動であり、考えであり、願望です。

他の誰もそれに責任はありません。絶対的に正確です。偶然はありません。

すべては、まったく見事に調和がとれています。

短い視点では、人生は、少しも完全にも公平にも思えません。

なぜ、人は他人よりももっと苦しんでいるように思うのでしょうか? 

例えば、なぜ、病気の人がいて、他の人は健康なのでしょうか? 

お金持ちがいて、貧乏な人がいるのでしょうか? 

カルマの正確さの優位から見ると、人生は完全に公平です。

人生は、進化において人々を操縦する絶妙に完璧な方法です。

もし、人の人生を10万光年の何万倍も離れたところにある親指サイズの的に対して、無限に近い時間と果てしない空間を通して進んでいく有機的な宇宙船として見るならば、航海においてごく僅かな見込み違いは、宇宙船を航路からはずして遠くに行かせてしまうでしょう。

カルマは、航海の正確さのために備わった装置なのです。

それは人をコースに戻します。

人がどんなにコースから外れて遠くに離れても、カルマは完全に調整をするでしょう。

それらは厳しいかもしれませんが、小さな的に向かって最も狭い針路に人を導きます。

カルマは、3つの部分に分けることができます。

過去に形成されたカルマ、現在形成されているカルマ、未来に形成されるカルマです。

インド人は、「もし、あなたが人の過去のカルマや過去の行為を知りたいと思うならば、彼の現在の人生を見なさい」と言います。

過去になされたカルマについて今できることは何もありません。

それらはすでに放たれた矢です。

何本かはすでに到達し、何本かはまだ到達していません。

それらの過去のカルマの結果を受け入れ、それらから学びなさい。

自由意志はないと考えることは間違いです。

しかし、全宇宙と誰かとすべての人に起こることは、カルマと呼ばれるものによって前もって決められています。

それでも、自由意志はあります。

それがカルマのポイントです。

まだ放たれていないそれらの矢は、まだ私たちの意志の矢筒の中にあります。

私たちは、どの矢をいつ放つべきかを選びます。

私たちは決定し行動します。

私たちがそうするやり方が未来を決定します。

私たちから離れている何かや誰かが、私たちの運命を決めるのではありません。

未来は細部まで、良くても悪くても、悲しくても楽しくても、私たち自身のデザインなのです。

私たちは、私たちがしたこと、言ったこと、考えたこと、願ったことによって、過去に生き方を選択しました。

私たちは今現在において選択をしています。

カルマは、原因と結果の法則ですが、自由意志は、私たちが法則の束縛をやがては超越することを可能にします。

これは安心を与え、権限を与えます。

人生の環境に対する非難を神や運命や他のものに置く代わりに、人は完全な責任をとります。

成長の力はその中にあります。

生から生へ、環境から環境へ、人は創造し、悟りに向かう長い展開における与えられた瞬間に、成長にとって必要とされることを選択します。

それぞれの魂は、自由へ向かう道における前進のための完全なる機会を提供してくれる、自分が必要とする両親や家族状況、社会における役割、安楽と不快の混ざったものを選択します。

このカルマのプロセスは、再び折り重なり、絡みつき、そして未来は、個人が現在をどのように手掛けたかによって形作られます。

確かに、カルマが展開し燃え尽きるのに幾生か、かかるかもしれません。

結果は、神や他のものや運によるのではなく、自分のカルマへの自分自身の対応にあるのです。

人は、自分の環境を落ち着いて受け入れることを学ぶにつれ、快適であろうと不快であろうと、喜びと勇気をもって未来を待ち望むことができるようになります。

彼らはカルマを超越します。

もし、苦しみや哀しみが過去の行為の結果であるなら、未来の存在において苦しむことを避けるために、賢者は苦しみにつながる行為をそれ以上犯すことを止めるでしょう。

カルマの法則は妥協のないものであり、すべてはそれに束縛されています。

しかしながら、カルマのロープを断ち切り、死に打ち勝つ方法はあります。

その方法は、巧みに目的をもって生きることです。

私たちが打ち勝とうとしながら人生を費やす、苦痛と哀しみの源を理解するにつれ、目的にかない巧みに生きる方法を見つけることが、徐々にできるようになります。

次第に、私たちが生まれながらに恐れている死の性質を理解するようになります。

不運にも、人々は、しばしばこの恐れから自分の人生を指図します。

人々が恐れから行動するとき、彼らは、恐れから生まれるカルマとサンスカーラを作り出します。

これらのサンスカーラが処理されないと、さらなる恐れに遭遇します。

もし、人が体を自分だと同一視すると、彼らは病気を恐れ、年を取ることを恐れ、事故を恐れ、道を横切ることを恐れ、見知らぬ人に遭うことを恐れ、可能な限りのあらゆる悪いことを恐れます。

結果として、必然的に、日常生活は彼らが恐れる悪いことに引きつけられます。

これらの恐れは習慣となり、それは人を危険や病に引き寄せます。

もし、人が自分を仕事と同一視して信じているなら、その仕事への変化は彼らにとって脅威となるでしょう。

もし、彼らが仕事を失ったら、彼らは自分と同一視していたものを失います。

もし、両親と同一視しているなら、その同一視は、子どもが成長し家を離れたときに、試練を迎えます。

人の行動はこれらの恐れに基づいています。

行動は恐れの周りに形成されます。

彼らの恐れに満ちた行動と思考は、恐れそのものを強化し、未来に対する新しくて強力な恐れの種子を蒔きます。

強力な閉じ込めるサイクルが回ります。

ただ人の選択のみがそのサイクルを変えることができるのです。

カルマの束縛は、破壊されなくてはなりません。

それは個人の責任です。それは強さと勇気を必要とします。

生と死の秘密は、私たちの真の自己は何であるかを知ろうとする探求だけを含んでいるわけではありません。

この神秘を解明することは、私たちの行動、言葉、考え、そして、どのように、またどうして、私たちがこれらの行動をとり、ある言葉を発し、特別な考えを考えるのか、をも含んでいます。

ある方法がとられると、私たちの行動は、地球的な人生や誕生と死の終わりのないサイクルに私たちを束縛することができます。

別の方法がとられると、行動は、人生における喜びと死を超えた勝利を創造します。

あなたがこの人生を選択したことを思い出しなさい。

あなたは、あなたの旅においてこの発見の瞬間に向かって移動してきました。

これは最も霊的な前進を遂げるためのあなたが世界に住む完璧なる時間です。

あなたの人生における人々、あなたの両親、子どもたち、伴侶、友人たち、同僚たちは、あなたの成長にとっては完璧なのです。

外的世界と内的世界における私たちの全人生は、私たちのサンスカーラである私たちの思考、行動、そして選択によって残された印象により動機づけられています。

誰も私たちに良い行いか、悪い行いかを罰することはしませんが、私たちのサンスカーラは、私たちの現在の行動を動機づけます。

私たちは収穫するものを蒔くのです。

私たちが、私たちの中のこの動機づけの力を理解するとき、私たちは、私たちが過ごす人生のために、他人や自然や神を責めることはできません。

私たちの人生は、私たち自身の創造物なのです。

私たちの問題は私たち自身です。

私たちはこれらの問題を超えて、自分自身と闘うべきではありませんが、それらを理解しようとしなさい。

私たちは私たちと他人との人間関係を理解すべきです。

私たちの人生で正しくないことのために他人を責めることは、助けにはなりません。

私たちが、人間関係にもたらしてきたものは何ですか? 

なぜ、私たちはそれを選んだのですか? 

これらの問いは、状況の広い視野や愛情や無私につながります。

より大きな霊的な領域なしには、この世界は完全ではありません。

それはその性質なのです。

それは変化し、死滅し、滅びる世界です。

この世界においては、究極的な幸福を掴むことができるものは何もありません。

なぜなら、それは過ぎ去り、崩壊し、変化するからです。

あなたは、幸せのためにこの世界や対象物、人間関係に頼ることはできません。

なぜなら、それらは頼りにならないからです。

それらは永続することができず、永遠に同じであることができないため、頼ることができません。

それは、この実在の性質ではありません。

この世は、練習場であり、学校であり、演劇です。

それは不完全の中の完全です。

学び成長するための場所として、この世の次元は矛盾しています。

それは、あなたの個人的な行いにより形作られ、あなたの個人的な必要に適応したあなたの完全なる創造なのです。』

(聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

『質問者

「ジニャーニには、「私は身体だ」という観念(デーハートマ・ブッディ)がないのでしょうか?

たとえば、もしシュリー・バガヴァーンが虫に刺された場合、何の感覚もないのでしょうか?」

 

マハルシ

「そこには感覚があり、「私は身体だ」という観念もあります。

「私は身体だ」という観念はジニャーニにもアジニャーニにも共通していますが、唯一の違いは、アジャーニは「身体だけが私である」(デーハイヴァ・アートマ)と考えますが、ジニャーニにとってはすべてが自己(アートママヤン・サルヴァム)なのです。

あるいはすべてがブラフマン(サルヴァン・カルヴィダン・プラフマ)です。

痛みがあるなら、そうあらしめればいいのです。

それもまた真我の一部です。

真我はプールナ(完全、全体)だからです。

さて、ジニャーニの行為についてですが、それはただそう呼ばれているだけです。

なぜなら、それは効力を持たないからです。

一般には、行為は個人の中にサンスカーラとして植え込まれています。

それはアジニャーニの心が肥沃な土壌である場合にかぎります。

ジニャーニの場合、彼の心の存在は推測されたものでしかありません。

彼はすでに心を超越しています。

それでも、見た目には活動をしているように見えるので、彼の心は存在すると推測されるのです。

ジニャーニの心はアジニャーニのように肥沃ではありません。

だからこそ、「ジニャーニの心はブラフマンである」と言われるのです。

ブラフマンとはジニャーニの心に他なりません。

その土壌でヴァーサナー(精神的傾向)が実を結ぶことはありえません。

彼の心はヴァーサナーから解放された不毛の土地なのです。

それでも、ジニャーニにはプラーラブダ(過去に形成されたカルマ)があると見なされているため、ヴァーサナーもまた存在すると考えられています。

もしヴァーサナーが存在するとすれば、それは喜びをもたらすもの(ボーガ・ヘートゥ)だけです。

行為は二種類の業果をもたらします。

一つは喜びをもたらすもの。

もう一つはサンスカーラという形で心に印象を残し、未来の誕生をもたらすものです。

不毛の土地であるジニャーニの心は、カルマの種子を植えつけても生長しません。

彼のヴァーサナーは、結果的に喜びだけをもたらす活動を通しておのずと尽き果てるのです。

しかし実際は、彼のカルマはアジニャーニの視点からのみ見られるものであって、ジニャーニは無為のままとどまります。

彼は身体が真我から離れたものであるとは見ていません。

だとすれば、どうして彼に束縛や解放がありえるでしょうか?

彼はその両方を超越しているため、現在も、未来においてもカルマに束縛されません。

それゆえ、彼にとっては生きながら解脱した人(ジーヴァン・ムクタ)も死後に解脱した人(ヴィデーハ・ムクタ)も存在しないのです。」

 

質問者

「今言われたことによれば、どうやらジニャーニはすべてのヴァーサナーを焼き尽くした人が一番で、彼は石か棒切れのように無活動のままとどまるということです。」

 

マハルシ

「いいえ、そうある必要はありません。

ヴァーサナーは彼に影響を与えないのです。

石や棒切れのように留まること自体がヴァーサナーではないでしょうか?

サハジャ(自然)が彼の境地なのです。」

 

会話の焦点はヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)に当てられた。

マハルシ

「善い精神的傾向と悪い精神的傾向は共存します。

一方はもう一方なしには存在できません。

一方だけが優先的になることはあるでしょう。

善い精神的傾向は培われなければならず、それもまた最終的にはジニャーナ(真我の知識)によって破壊されなければならないのです。」

 

一人の若い天才についての話がもち上がった。

シュリー・バガヴァーンは、「彼の中にある前世の潜在的印象(プールヴァ・ジャンマ・サンスカーラ)が強かったからです」と語った。

 

質問者

「高名な聖者の言葉を自由に引用する能力は、どのようにして現れるのでしょうか?

それも種子という形をとったヴァーサナーにすぎないのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうです。

サンスカーラ(精神の潜在的傾向)は過去世で得られた知識が蓄積されたものです。

ふさわしい状況や環境のもとでそれは現れます。

強いサンスカーラを持った人は、弱いサンスカーラを持った人やまったくサンスカーラのない人よりも提示された物事を早く理解するのです。」

 

質問者

「発明家にとっても同じことが言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「この世に新しいものは何一つないと言われるように、発明や発見と呼ばれるものは、考察していた物事に対する強いサンスカーラを備えた有能な人による再発見にすぎないのです。」

 

質問者

ニュートンアインシュタインなどもそうなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんです。

しかしどんなにサンスカーラが強くとも、静かで穏やかな心にならないかぎり、それが現れることはないでしょう。

どんなに想い出そうとしても想い出せないことが、静かで穏やかな心になったときに突然想い出されるのは誰もが体験することです。

忘れたことを想い出そうとすることにさえ、精神の静寂が必要となります。

天才と呼ばれる人たちは、過去世で努力を重ねて知識を得、それをサンスカーラとして蓄積した人たちなのです。

彼は現世において、自分が取り組んでいる主題に心が融け入るまで集中します。

その静寂の中で、それまで沈潜していたアイデアが湧き上がってくるのです。

それにはまた有利となる条件や環境も必要とされるでしょう。」

(ラマナ・マハルシとの対話)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(51)「カルマ」③

前々回より、ヨーガやウパニシャッドで述べられている「カルマ」についての正しい智識と詳しい解説をご紹介していますが、先人たちの智慧を理解することで、「カルマ」への理解が深まり、その正しい理解が、やがては、個人に課せられた「カルマ」を乗り越えて行く種子となって、魂の真の解放へとつながって行くため、真の智識(ジニャーナ)に至るプロセスにおいては、「カルマ」とは何なのか?「カルマ」から解放されるためには、何をしたら良いのか?を知っておくことは、真我実現、魂の解放(解脱)には必要不可欠と言えます。

 

前回の記事でもご紹介しましたが、個々人の人生は、過去世で生じたプララーブダ・カルマの結果である、と言うのが、ヨーガ、ヴェーダンタの基本的な考えです。

 

しかし、そうであっても、プララーブダ・カルマ(所謂、運命)を超えて行くことは可能である、とも述べられています。

 

この世に起こる現象に、永遠に変わらないモノは、存在しません。

 

よって、私たち人間も、永遠に「カルマ」によって束縛されたままである訳ではありません。

 

先ずは、「カルマ」について正しい智識を持つこと。

そして、その上で、自分が乗り越えていくべき「カルマ」を把握し、その「カルマ」を乗り越えようと努力することが、真の解放へとつながって行くのです。

(これについては、以下でご紹介しますスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」からご紹介します文が、非常に詳しく解説してくれています。)

 

「カルマ」を人生における課題と見做し、その課題に取り組むことは、完全に、個人の世界の中で起こることであるために、他者や世界ではなく、「自分」と向き合うことが求められます。

 

「自己」(偽の自己)の消滅が起こることで、「カルマ」からの解放が起こります。

これが起こると、魂は、束縛から解放された分、自由を感じることができるようになり、それまで味わったことのない歓びに満たされることでしょう。(束縛されている「自己」は、「幻想」なのだということが、明らかになると、「束縛」は、「偽の自己」に生じている「錯覚」となりますが、これが起こるには、先ずは、「カルマ」という課題を自分で解決するために、自己努力をする必要があります。)

 

それを為すことができるのは、最終的には、創造物としての「自分」を創った「創造主」である「神」ですが、この「創造主」である「神」が、「真の自己」であるという真の理解が起こるまでは、「カルマ」を背負っているのは、個人性である「偽の自己」であり、この「偽の自己」の正体が明らかにならない限り、「偽の自己」は、「カルマ」に束縛されたまま、苦しみや悲しみを味わい、現実というマーヤー(幻妄の力)によって創造された夢の世界の中で、悪戦苦闘の人生を味わうことになります。

この構図がわかっても、背負っている「カルマ」が足枷となってしまうために、個々人は、「カルマ」に囚われてしまい、なかなかその束縛から抜け出すことができずに、悪戦苦闘の中で、また新たな「カルマ」を生み出すという終わりのない悪循環(輪廻)にハマってしまいます。

 

この悪循環を断ち切る方法は、既に私たち人間に示されていますので、今生でその方法を学び、実践することで、輪廻からの解放へと向かう方向にダルマ(因果の法則)が働くようになり、やがて、蒔かれた種子は、悪循環の環を断ち切る強力な力を有する萌芽として、芽生えて行くことでしょう。

 

中には、「カルマ」について正しく知ることで、自分の人生の全容や目的が、明確になる人もいることでしょう。

 

その人が解決するために取り組むことになっている一番重要な「カルマ」は、そんなに多くはありません。

(特に、自分ではどうしようもなく、無力感を感じるコト、苦しみの原因となっていると感じるコトや、それから逃れたいと感じるモノなど、人間関係や環境や人生における様々な苦悩や悩みなどを形作っている原因となっているモノが、今生で解決され、解きほぐされるべき「カルマ」であることが多いです。)

 

人は、「カルマ」という課題に取り組むことで、自然と、心の浄化が促されるように運命づけられています。

 

エゴは、「偽の自己」そのものです。

 

「偽の自己」が、「偽の自己」を乗り越えることはできませんが、心の浄化が進むと、「偽の自己」と「真の自己」とを隔てる厚い障壁が薄くなり、「真の自己」が、「偽の自己」に顕わになるのです。

 

これが、「真我実現」です。

 

真我(アートマン)だけが、実在なのです。

 

今回も、初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次にスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「カルマ」について、そして最後は、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「カルマ」についての究極の智識(Jnana)です。

 

これらを読んで、自分の人生の課題である「カルマ」に取り組む気持ちが少しでも起きるならば、その後の人生は、きっと、これまでとは違った展開となり、このリーラ(神の戯れ)であるこの世で悪戦苦闘しながらも、自分の力で何とか「カルマ」を乗り越えようと自己努力する個人に、神の恩寵が働き、真の智識(叡智)である「Atman Jnana」(真我の智識)が明らかになることでしょう。

 

 

 

『Destiny and Self-effort(運命と自己努力)

カルマの法則が容赦のないものであろうと、神聖なる恩寵が働く余地はある。

恩寵は、悔恨、禁欲、献身を通してやって来る。

悔恨は、カルマの法則を変えることはない。

それは、他の行為のような結実を持つ行為である。

人が、収穫しなければならないモノは、個人によっては変えることはできないが、しかし、その再発は、自己努力によって、確実に阻止することができる。

自己努力は、プルシャーチャ(人生の目的)(※1)である。

運命は、プララーブダ(前世で積まれたカルマの中で、現世で清算されなければならないもの)である。

プララーブダは、過去の誕生で為された単なるプルシャーチャである。

今日の自己努力は、明日の運命となる。

自己努力と運命は、一つであり同じモノである。

プララーブダとプルシャーチャは、一つである。

それらは、一つのモノを示唆する二つの名前である。

現在が過去になり、未来が現在になるように、現在だけがあるように、それと同じで、ただプルシャーチャだけがあるのである。

神が、人を通して働く時、それは、プルシャーチャである。

恩寵は、プルシャーチャとなる。

降雨などは、人間のコントロール下ではない。

農夫は、彼の農場を耕す。

彼は、プルシャーチャ、自己努力を実践する。

収穫物は、雨がないために、実らないかもしれない。

しかし尚、人は、意気消沈しない。

彼は、雨を得ようと祭式を執り行い、善い収穫物を収穫する。

同様に、ヨーガの実践は、真我実現を妨害する悪いプララーブダを無効にするための自己努力である。

もしプララーブダが、橋梁であるならば、ヨーガは、プララーブダよりも更に強力である。

すべての魂は、小区画の地面を持っている農夫のようである。

面積、土の性質、天気の条件は、すべて前もって決められている。

しかし、農夫は、地球が肥料を施し、良い穀物を手に入れるまで、或いは、荒れ地として留まることを許すまで、完全に自由である。

プララーブダは、過去だけに関係している。

未来は、あなたの手の中にある。

あなたは、あなたの運命を変えることができる。

あなたは、行動する自由な意志を持っている。

新しい角度の視野を持ちなさい。

あなた自身を、識別力、上機嫌、洞察力、敏速、臆しない精神で、身を固めなさい。

栄光ある輝く未来は、あなたを待っている。

過去を、葬り去らせなさい。

あなたは、奇跡を引き起こすことができる。

あなたは、奇跡を行なうことができる。

希望を捨ててはいけない。

あなたは、あなたの意志の力を通して、好ましくない惑星の有害な出来事を破壊することができる。

あなたは、あなたが悪い影響の出来事や、あなたに対峙して作用するかもしれない敵対する暗い力を中和することができる。

あなたは、好ましくない環境を、最も良い可能なものに変えることができる。

あなたは、運命を無効にすることができる。

運命は、あなた自身の創造である。

あなたは、考えや行動を通して、あなたの運命を創造してきた。

あなたは、正しい考えと正しい行動によって、同じことをしないことができる。

邪悪、或いは、あなたを攻撃する暗い敵対的な力があっても、あなたは、断固としてそれからあなたの心を背けることで、その力を減少させることができる。

そうして、あなたは運命を和らげることができる。

「カルマ、カルマ。私のカルマが、このように私を運んだ」と言ってはならない。

努力しなさい。努力しなさい。自己努力をしなさい。

タパス(苦行)をしなさい。集中しなさい。浄化しなさい。瞑想しなさい。

運命論者になってはいけない。

無気力になってはいけない。

子羊のようにメェメェ啼いてはいけない。

ヴェーダンタのライオンのように、オーム、オームと吠えなさい(※2)

16歳で死ぬことになっていたマルカンデーヤ(※3)は、彼の苦行(タパス)のお陰で、16歳の不死の少年、チランジビ(※4)になった。

また、サヴィトリ(※5)は、どのようにして、彼女のタパスによって、彼女の死んだ夫を生き返らせたのか?

ベンジャミン・フランクリンマドラス高等裁判所の故シュリ・ムチュウスワミアイヤーは、どのように彼ら自身を高めたか?を忘れないでいなさい。

友よ、人は、彼の運命の主人であることを覚えていなさい。

クシャトリア(戦士、王族の階級)の王であるヴァシヴァ-ミトラ聖仙(※6)は、ヴァシシュタ聖仙(※7)のようなバラモン(祭祀階級)になって、彼のタパスの力によって、トリサンク(※8)のために、第三世界を創造した。

ロジュ・ラトナカーは、タパス(苦行)により、聖者ヴァールミーキ(※9)になった。

ジャガニとベンガルのマダイは、高度に発達した聖者になった。

彼らはゴーランガ-ニッチャナンダ神(※10)の弟子になった。

他者が為したことは何でも、あなたもすることができる。

これに関して、疑いはない。』

 

(※1)ヒンドゥー教においては、①ダルマ(道徳、倫理)、②アルタ(富、財産、生計)、③カーマ(欲望、性欲、情熱、憧れ、感覚への喜び、耽美的生き方、愛など)、④モクシャ(輪廻からの解放)の四つが、人生の目標とされている。

これら四つの目標はプルシャーチャ(Puruṣārtha)と呼ばれている。

(※2)ヒツジ(人間)だと思っているライオン(神)のお話し - 永遠の人

(※3)バーガヴァタプラーナ(インド神話)に出て来る、クランで生まれた古代のリシ(聖者)。彼と彼の妻は、シヴァ神を崇拝し、彼に息子を生む恩恵を求め、その結果、義の息子であるが地球上での寿命が短いか、知性が低いが寿命が長い子どもであるかの選択を与えられたため、父のムルカンデュは、前者を選び、16歳で死ぬ運命となる模範的な息子マルカンデーヤに恵まれた。

マルカンデーヤは、シヴァの偉大な信者に成長し、彼の運命の死の日、彼はシヴァリンガム(シヴァ神を象徴した形の石)という象徴的な形のシヴァ神の崇拝を続けたために、死の神であるヤマの死者は、彼の多大な献身とシヴァへの絶え間ない崇拝のために彼の命を奪うことができなかった。

その後、ヤマはマルカンデーヤの命を奪うために直接やって来て、若い賢人の首に縄をかけたが、偶然に、または誤って縄がシヴァリンガムに巻き付いたため、それを知ったシヴァは怒り、現れて戦いでヤマを倒した後、敬虔な若者が永遠に生きるという条件の下で、彼を復活させた。

(※4)チラン(永続的)とジビ(生きた)から、チランビジとは、不死の人を指す。

(※5)マハーバーラタの中の挿話。サーヴィトリーは、自分が選んだサティヤヴァッドという王子を夫に選んだが、彼は、一年後に命を落とすことになっていた。日々は過ぎ、その時まであと四日となり、サーヴィトリーは三夜続く苦行を行い、昼も夜も立ったままでいた。そしてその日が来て、死神ヤマは、サティヤヴァットの体から、親指ほどの大きさの霊魂を輪縄で縛って引き抜いたため、サティヤヴァットの体は死んだが、その後、諦めずに、サーヴィトリーは、ヤマとの問答を続ける中で、サティヤヴァッドの霊魂をヤマから取り戻すことができ、サティヤヴァッドは、生き返る。

(※6)ヴィシュヴァーミトラは、インド神話に登場する聖者(リシ)である。ヴェーダ詩人の1人で、『リグ・ヴェーダ』第3巻はヴィシュヴァーミトラの作と伝えられる。 (人類に、ガヤトリーマントラを授けた)。もともとはクシャトリア(戦士、王族の階級)の出身で、カニヤクブジャの王ガーディの子として生まれた。しかし聖仙ヴァシシュタと戦って敗北し、武人の無力さを嘆いて聖仙となることを志し、(千年間の)苦行の末にバラモン(祭祀階級)になったとされる。叙事詩マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』にはヴィシュヴァーミトラとヴァシシュタが反目し続けたことが述べられているが、この物語はクシャトリヤバラモンの対立を物語るとともに、バラモンクシャトリヤに対する優位性を説くものであるとされる。

(※7)七聖賢の一人に数えられ、ラーマ神に教えを説いた偉大な聖者として崇められる。

(※8)トリサンク王は、聖仙ヴァシュシタに、人間として天国へ行かれるように願ったが、ヴァシュシタは、それでは天国へは行かれないと突っぱねた。トリサンク王は、王国を追われたが、聖仙ヴィシュヴァーミトラに出会い、同じことを願うと、ヴィシュヴァーミトラは、トリサンク王のために祭式を行い、トリサンク王が天国へと行くことができるように神々に祈ったが、願いを叶えてくれる神々はいなかった。そこで、彼はヨーガの神通力で、トリサンク王を天国へと上げたが、インドラ神によって、引き下ろされてしまう。そのため、ヴィシュヴァーミトラは、トリサンク王のために、新たに世界を創造したが、トリサンク王は、その世界を通って完全に天国へ上ることができず、上に行くことも、下に下がることもない空の星座(南十字星)となった。

(※9)古代インドの聖仙。古代インドの大長編叙事詩ラーマーヤナ)の編纂者。彼は王家に生まれたが、まもなく幼子の時に森に捨てられ、そこにたまたまいた盗賊たちは彼を拾い上げ、名を与えたうえ育てた。それから幾多の年月を経て青年になっていた彼は一人前の盗賊として活躍し、道行く人々を襲い身ぐるみをはいでいた。ある日、偶然にも森林をさまよい小径を通りかかった聖仙ナーラダを彼は見つけ、いつものような調子で襲おうとするも却って諭され、問いからついに人生の真実を理解し始め、ナーラダに許しを請う。それからナーラダからあまねく垂教を受け、我が身を想い、瞑想にふけ続ける。いつしか彼のまわりを蟻の巣の丘が覆っていた。そのことからサンスクリット語の蟻の丘を意味するヴァールミーキと呼ばれるようになった。

(※10)ヴィシュヌ神の化身クリシュナへのバクティを説いた16世紀の聖者。「ハレ クリシュナ」のマントラを唱えながら踊る儀式で知られ、その後、ベンガル地域で彼が唱えたゴーディヤ・ヴァイシャニズム(ヴィジュヌ神を最上神とする考え)の教えは、現代のクリシュナ意識国際協会に引き継がれている。

 

 

How Destiny Is Built Up(どのように運命は創り上げられるのか?)

想いは、カルマ(行為)である。

考えることは、真のカルマ(行為)である。

思考は、あなたの性格を形成する。

思考は、物質化し、行為となる。

もしあなたが、心に善良で精神を高める想いを思案させるならば、あなたは、高貴な人格を発達させるであろう。

あなたは、善良で称賛するに足る行為を自然に行うであろう。

もしあなたが、悪い想いを抱くならば、あなたは、卑しい人格を発展させるであろう。

これは、自然の不変の法則である。

それ故、あなたは、潜在的な想いを養うことによって、あなたの人格を計画的に形成することができる。

あなたは、行為を蒔き、習慣を収穫する。

あなたは、習慣を蒔き、性格を収穫する。

あなたは、性格を蒔き、あなたの運命を収穫する。

こうして、運命は、あなた自身の組み立てである。

あなたは、それを構築する。

あなたは、高貴な想いを抱き、有徳な行為をし、あなたの思考方法を変えることによって、結び目を解くことができる。

小さな行為と大きな行為の印象は、共に合体し、傾向を形成する。

傾向は、性格に発達する。

性格は、意志を産み出す。

もし人が、強い性格を持つならば、彼は、強い意志を持っている。

カルマは、性格を産み出し、同様に、性格は意志を産み出す。

巨大な意志の人は、彼らの意志を数え切れない誕生で為されたカルマを通して、発達させたのである。

人が、強力な意志を発達させるのは、一つの誕生においてではない。

彼は、数々の良い行為を、数々の誕生で為している。

これらの行為の有効性は、共に集まり、一つの誕生で、苦闘する人は、ブッダイエス・キリストシャンカラのように、巨人として突発する。

どんな行為も、無駄ではない。

あなたは、あらゆる想い、言葉、行為を見なくてはならないであろう。

人の意志は、永遠に自由である。

利己心を通して、彼の意志は、不純になってしまった。

彼は、彼の卑しい願望や好き嫌いを取り除くことによって、彼の意志を純粋で、強く、ダイナミックにすることができる。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『個人的な哲学を確立し、自分の人生を再生し、自分のダルマや霊的な道を見つけた後は、霊的な旅には2つの準備の段階があります。

あなたは自分自身の人生に責任を持つことになります。

このポイントは、現代社会では特に重要だと思われます。

あまりに多くの人々が、自分の不運な状況を他人のせいにするという習慣にあるからです。

彼らの両親は、彼らを虐待したかもしれませんし、無視し、あるいは、何かしら彼らの真価を認め理解するのに失敗したかもしれません。

彼らは、結果は彼ら自身の不幸な結婚や、子どもとの難しい親子関係や仕事の失敗にあると言います。

おそらく、両親は虐待し、放棄し、無理解でしたが、彼らが知っている限りの最善を尽くしました。

疑いなく、ひとつの世代から別の世代への関連性があります。

もし、両親が子どもに虐待的なら、影響はあります。

しかしながら、子どもが原因と結果をよく理解すると、そのとき、それは、非難と責任から両親を解放し始めるときとなります。

それが起こるまで、子どもは進むことができません。

そのときまで、彼らは過去に束縛されます。

同じ種類の非難は、兄弟、伴侶、子どもたちに向けられます。

政府や教育制度、文化、歴史に向けられます。

人生で悪いことは何でも、不公平な兄弟関係や無関心な伴侶、貧乏な子ども、税金、不完全な学校、悪いときに生まれてしまったことなどのせいにします。

自分の人間関係、政府、歴史を理解し、非難することを手放しなさい。

あなたの人生であなたの選択でないもの、あなたがしたことではないこと、あなたのカルマでないものはありません。

それは厳しく聞こえるかもしれませんが、しかし、それが解放のための現実です。

もし、すべてはあなた自身がしたことであり、あなたの選択であるなら、そして、すべては霊的な成長にとって正しいなら、そのとき、本当に悪いものは何もありません。

すべての人は、成長のための機会を持っています。

恐れるべきものは何もありません。

カルマという言葉は、西洋文化においては主流の用法となっています。

しかしながら、残念なことに、その言葉は、しばしば西洋では正確に使われていません。

その意味はたびたび曲解されています。

現代の西洋社会の新しい語彙では、カルマという言葉は、非常に頻繁に使われるようになり、間違って運命論を意味するようになり、完全に人の手に負えないものを意味するようになっています。

人々は言います〝おお、それはカルマだ。あなたができることは何もない〟あるいは〝あなたの過ちではない。それは悪いカルマだ〟と。

カルマという言葉のこの解釈は、起こることは何であれ、人がしていることではない、という信念を暗にほのめかしています。

すべては宿命的なカルマのせいだとなります。

この見方は、個人の人生や環境に対する責任を手に取り、それをカルマと呼ばれる抽象概念に置きます。

まるで、それがあなたに影響を押し付けて吹き抜ける悪い風であるかのように。

これは、カルマが意味することではありません。

カルマは、あなたを窮地から救うために東洋から来た人の心をとらえる言葉ではありません。

カルマは、責任をあなたの環境や経験に置きます。

カルマは、あなたに責任があることを意味し、あなたはあなたの環境を決定します。

あなたは、あなたの現状、過去、未来の建築家です。

それは、罪を作り出すことを意味してはいません。

あなたの人生に対する責任を受け入れることは、行動し、変化し、成長する力をあなたに与えます。

それは、あなたが独立した存在であることを意味します。

あなたの人生は、他人がしたり考えたりすることに依存してはいません。

あなたは、環境や、両親、利己的な伴侶、思いやりのない子どもたち、暴君のような上司、経済的不況、世界の政治の犠牲者ではありません。

ヴェーダンタ哲学では、〝環境の犠牲〟というフレーズはあり得ません。

私たちが自分自身の中に見つけるこれらの環境は、自分自身のデザインであり意志なのです。

ヴェーダンタによると、これらの環境は、私たちがそれらに良いか悪いか、楽しいか不快かのラベルを貼ろうとも、私たちが自分の成長のために造り出した機会なのです。

最も純粋な意味で、それは、学び成長するための絶え間ない次から次へと続く機会があるだけのことなのです。

それは、カルマを理解し、私たちが、完全に私たちの人生に責任があるということを知ることから始まります。

これを理解するもうひとつの方法は、私たちが、自分の夢を見るように人生を理解することです。

私たちの夢は、私たち自身の創造物だということは受け入れられます。

それらは、私たちの潜在意識の心から、私たちの思考、願望、恐れから生じます。

これらの夢は、私たちに有益となり得ます。

それらは、感情や満たされない願望がうまく働くのを助ける自然な方法です。

目覚めている状態と少しも違いません。

目覚めている人生の環境は、私たちの神聖な性質の認識に向かって成長する機会を提供するために、私たちによって作り出されます。

成長への鍵は、私たちに最も不快なものを与える人間関係や状況にあります。

これらの人間関係や状況は、不運、あるいは〝悪いカルマ〟からそれらを繰り返すのではなく、不快な状況や人間関係が、私たちの自由への障壁を意味するからです。

自由は、私たちが自分で作り出したこれらの障壁を克服したときにやって来ます。

これらの障壁は、有効でも有害でもないということは、繰り返して言うのも憚ります。

西洋文化は、これらの障壁は罪と呼び、人々を欠陥者と呼びます。

西洋圏では、罪の観念ゆえに苦しんでいる、とここで述べることは重要です。

ヨーガの科学とヴェーダンタは、これらの障壁を障害物と呼んでいます。

これらの哲学的な制度では、戒律はなく、ただ適切な展望のもとに理解されるべき約束だけがあります。

罪の概念は、自信や目的の感覚を起こしません。

それは永遠に不完全な人間という認識を強固にし、人間という存在への宿命的なアプローチを助長します。

この視点から、もし、持たれるべき自由があるなら、それは個人にではなく、創造主の手の中にあるのです。

これは、人生に対するヴェーダンタの視点ではありません。

球根から生長する花を思いなさい。

花が十分に華麗に咲くということをある条件が可能にし、その条件は確かに必要です。

必要とされる条件の中には、球根、泥、水分、ある一定期間維持されるべき温度があります。

球根は、汚く、水浸しで、雑菌だらけの環境で生育する皮の部分が硬くて厚く、しなびた、みすぼらしいものだと言う人もいるかもしれません。

それがユニークな美しさで開花するとき、神がそうなされたのです。

ある西洋の宗教的な態度は、不純なものとして人の生を記述し、どんな美しさも外側の神から生じます。

ヴェーダンタは、それはただの性質であると言います。

球根はただそうであるだけです。

そして、その素晴らしく完璧な性質の十分な表現に至るには、ある条件が必要とされます。

同様に、人間は、ただ完璧なる自己の表現に向かう自然な道のりにあります。

それぞれの人は、起こるべき完璧さに向かう成長のために、正に正しい条件の下にあるのです。

カルマは、これらの条件を表現する方法です。

行為、あるいは、カルマから自由な人はいません。

何かをし、何かを言い、何かを考えることが、カルマなのです。

また、この言葉は、種子を蒔かれたものは、刈られなくてはならない、ということを意味しています。

この2つの定義は関連しています。

すべての行為は、反応をもたらします。

すべての原因は結果を持ちます。

すべての考え、言葉、行いは、特定の結果をもたらします。

過去に私たちがどんな行為を行おうとも、それらの結実は、現在そして未来に生み出され、それが私たちの苦しみや哀しみの本当の原因です。

ひとたび矢が放たれると、それは目的へと向かわなくてはなりません。

矢が私たちの手の中にある限り、私たちはそのコースを選ぶことができます。

過去に私たちが無知で犯したすべての悪い行いは、不運な結果を生み出します。

私たちは、同じ過ちを再び犯すことには気をつけるべきなのです。

この哲学は、彼らが以前に犯したすべての過ちの結果を見込んで、人々を震えさせるというものではありません。

非常に自然で論理的なものを記述するという立場から、カルマの概念を展開のプロセスにおける段階として再考してみてください。

ヴェーダンタは、プロセスの長い視点をとり、この視点は、ナチケータが説明したいと思った神秘である死の秘密を説明します。

ナチケータは、もし、彼が死の神秘を理解できるなら、生の意味は明らかになるだろうと知っていました。

ヴェーダンタによると、神秘とは、今も在り、過去にも在り、これからも在るだろうすべてを構成している単一なる知的な意識が在る、ということです。

私たちが認識し、それで宇宙の部分を名付けるすべての名前と形は、純粋意識の断片であり、陰であり、反射であり、かすかな光なのです。

私たちが、この世の存在と呼ぶこの停車駅における人生の目的は、その実在を完全に発見することです。

この世の存在は、個人にとって実在へ至るための道を作るための外見上の建築であるだけなのです。

カルマは、私たちが創造する建築に私たちをつないでおく生と呼ばれるロープのようなものです。

私たちは、カルマは惨めさの源であると言うことができます。

私たちは、行為の結果をこうむるので、カルマに集中することができます。

カルマは、この世界とすべての苦痛を与える不完全さに私たちを縛り付けるものである、と言うことができます。

より高い視点であるもうひとつ別の考え方があります。

私たちは、カルマを私たちが純粋意識の明晰さを獲得するために取らなくてはならないカリキュラムとして見ることができます。

それ以上のものではありません。

私たちが人生と呼ぶ迷宮を通してカルマというロープに従い、絶対的な実在を見つけなさい。

実在が見つけられるまで、私たちは、この世の人生のこの停車駅に戻って、迷宮をあちこち動き続けます。

これらの隠喩をあまりに働かせてしまうことを承知の上で言うなら、カルマとして私たちが言及する自ら課した課題を終了するまで何度も何度も、私たちはひとつの人生の一連のコースをとり、さらなるコースのためにまた別の生に帰ります。

死は単に1学期の終わり、あるいは、長い文章の点に過ぎません。

カルマは重荷として見られるかもしれませんが、別のやり方は、カルマを自然の導き手、指導者、必然的なものとして見ることです。

ヤマは、ナチケータに無知の闇に住み、富や財産により惑わされる人々は、死の罠に捕らえられると言いました。

これらの存在は、死から死へとあちこちに旅をします。

カルマは、人をあちこちに運ぶボートなのです。

旅が終了するまで必要な乗り物です。

カルマの法則は、逃れられないものであり、それはこの世の人生で終わりません。

人は死ぬと、自分と共にカルマの法則の種子を運びます。

死はそれを変えません。

死はただ、人生の外側の面、肉体という外観、骨や血が捨てられることを意味するだけです。

より微細な人間の中身である思考、感情、カルマは続きます。

人のすべての思考、感情、カルマは、微細な心の中に蓄積されます。

チッタ(潜在意識)のベッドの中に、行動や思考から彼らの道を見つける印象は、サンスカーラ(過去の残存印象)と呼ばれます。

今度はサンスカーラが引き起こす行動、彼らが形作る個人的な特徴、それぞれの人が自分自身を見つける習慣や好みは、ヴァーサナ(精神的傾向)と呼ばれます。

私たちは、今、個人の生涯から生涯への外側の動きであるカルマの車輪について話しています。

私たちは行動し、考え、願い、特殊な記憶として、溝が心に深く刻み付けられます。

溝はサンスカーラです。

私たちがある方法で行動すればするほど、考えれば考えるほど、望めば望むほど、溝はより深く刻み付けられます。

記憶から湧き出る傾向は、ヴァーサナなのです。

溝が深ければ深いほど、傾向は大きくなります。

例えば、怒りに対して強い傾向を持つ人は、深い怒りの溝を持っています。

より多くの怒りは、溝を深くし、カルマの傾向の影響を強めることを意味します。』 

(次回に続きます)

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

『質問者

「現在の状態は過去のカルマによると言われています。

私たちは今、自由意志によって過去のカルマを超えることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「現在とは何なのか?

それを見てみなさい。

もしそうするなら、何が過去や未来をもち、それらに影響されるのか、何が永遠に存在し、何がつねに自由なのか、そして何が過去や未来やカルマからの影響を受けずにとどまるものかを、あなたは理解するだろう。」

 

質問者

「自由意志というものは存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰の意志だろうか?

行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。

だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探究)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。

ジニャーナによって運命は克服される。

真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。」

 

質問者

「人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足りないことまで、すでに決定されているのでしょうか?

例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置きました。

それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、すでに決定されているということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんだ。

何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在したときにすでに決定されているのである。」

 

質問者

「それでは、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーニを得ることである。

それが彼と身体との同一化を断ち切る。

身体はプララーブダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっているのである。」

 

質問者

「それでは、自由意志とは作り話なのでしょうか?」

 

マハルシ

「自由意志は個人性にかかわる領域で維持される。

個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。

すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向けるように勧めている。

誰にとっての自由意志や運命が問題となるのか見いだしなさい。

それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。

もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。

それがこの質問について論議をする唯一の目的なのである。

誰にとってこの質問が起こったのか?

それを見いだして、心やすらかになりなさい。」

 

質問者

「もし、起こる運命にあることは起こるというなら、祈りや努力が何の役に立つというのでしょう。

あるいは私たちはただ怠惰に、無為のままでいるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つある。

ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探究し、そして運命に束縛されているのは、真我でなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。

もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです。」とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。

帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全なものになりえない。

真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのためにある。

解脱のためでさえない。

言葉を換えれば、真我探究の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハリシの教え)

 

 

 

『活動(カルマ)とは また無活動(在カルマ)とは何か

賢明な者でも これを定義するのに迷う

今わたしはここで活動(カルマ)とは何なのかを説明する

これを知って君はあらゆる罪から離れよ

 

活動(カルマ)の諸相は まことに複雑 神秘であり

これを理解することは難しい だが

人は活動(カルマ) 誤活動(ヴィカルマ) 無活動(アカルマ)について

正しく学ばなければならない

 

活動のなかに 無活動を見

無活動のなかに 活動を見る人は

たとえどんな種類の仕事をしていても

相対世界を超越した覚者である

 

すべて欲望を持たずに行動する者は

完全智を得た人と心得よ

賢者たちは そのような人々を

大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ

 

仕事の結果に全く執着しない人は

常に楽しく 自由自在である

あらゆる種類の活動をして

しかも無活動 無業報である

 

このような英智の人は精神を完全に統御して

”我所有”の観念が全く無い

肉体を維持するに足るだけ働き

したがって悪行報を全く受けない

 

無理なく入ってくるもので満足し

我・他(あれ) 彼・此(これ)を比較して悩み羨むことなく

成功にも失敗にも心を動かさぬ者は

どんな仕事をしても束縛されない

 

物質界(このよ)の利害得失を超越して

無執着の活動をする

自由な人のする仕事は

ことごとく至上者(かみ)への供犠(ささげもの)となる

 

聖なる意識(ブラフマンの意識)で活動すれば

必ず聖なる領域(くに)に達する

聖なる意識で捧げた供物も 供物者(そのひと)も

ことごとく永遠の大実在(ブラフマン)である

 

種々様々な 天神地祇(かみがみ)に

それぞれ異なった形式で供養する修行者(ヨーギー)もあり

ブラフマンの火のなかに

捧げものをする修行者もいる

 

聴覚その他の感覚を

抑制の火に投じて供えものとし

また 音その他の感覚対象を

供犠の火壇に供える者たちもいる

 

真我実現を熱望している人々は

心と感覚をすべて制御し

五官の機能と呼吸までも供犠として

精神統一の火に投じる

 

激しい誓いをたてて

ある者は財産を捧げ ある者は苦行をする

またヨーガの八秘法を行う者もあり

またある者は無上の智識を求めてヴェーダを学ぶ

 

恍惚境に入るため呼吸を支配する者もいる

呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気(アパーナ)を呼気(プラーナ)に捧げ

ついに呼吸を全く止めて恍惚境に入る

また食を制し 呼気を呼気に捧げて供物とする者もいる

 

供犠の真意を知って行う者は

罪障の業報を逃れ 身心を清めて

その供物の残余(のこり)である甘露を味わいつつ

永遠の楽土に入って行くのだ

 

クル王朝のなかで最も優れた人よ

以上話した供犠を行わない者たちは

この生涯で決して幸福にはなれず

まして次の世では どんな目にあうことか

 

このような様々な形の供犠は

ことごとくヴェーダの是認するもの

そしてこれは様々な活動(カルマ)によってできる

この理を知れば 君は自由自在だ

 

敵を撃滅する者よ 物品の供犠より

智識の供犠は はるかに勝る

プリターの息子よ すべての活動は

究極には超越智識(ブラフマンの智識)に通じる

 

導師に近づいて真理を学び

うやうやしく問い 教えに従って師に仕えよ

自己の本性を覚った見真の人は

弟子に智識を授けることができるのである

 

このようにして真理を悟ったならば

君は再び幻影に迷うことなく

全宇宙の生物はすべて わたしの一部であり

わたしの内にあり わたしの所有だと知るのだ

 

たとえば君が極重の罪人だとしても

この大智の舟に乗ったならば

あらゆる苦痛と不幸の大海を

難なく渡り超えて行くことができよう

 

アルジュナよ 燃えさかる炎が

薪を焼き尽くして灰にするように

あらゆる行為の業報はことごとく

智慧の火によって燃え尽き灰となる

 

この大いなる智識こそ

この世における無上の浄化力

ヨーガによって それを完成した人は

ただ内なる真我を楽しむ

 

堅く熱心な信仰を持つ人

感覚の欲望を制御する人は

この無上の智識を得て

速やかに究極の平安に到る

 

無知にして信なき者たち

神の啓示による聖典を疑う者たちは

この世においても来世においても

平安を得られず常に不幸である

 

果報を求めずに働く人

正智によって疑いを切り捨てた人

自己の本性に徹して 自由自在となり

カルマに縛られないのだ 富の征服者(グナーンジャヤ)よ

 

バラタ王の子孫よ 心の迷いと疑いは

君の無知が原因で生ずるのだ

さあ 智慧の剣でそれを斬り捨て

ヨーガで武装し 立ち上って戦え』

(バガヴァッド・ギーター 第4章16ー42)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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