永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

真我(アートマン)を理解するためのヒント(Atman Jnana)⑦タンマートラ(微細元素)、アンタハカラナ(内的心理器官)、スークシュマ・シャリーラ(微細身)の関係

前回の記事では、すべての物質的な存在の源である「プラクルティ」(物質原理)についての理解を深めるために、「バガヴァッド・ギータ―」において、クリシュナ神が人間アルジュナに語った内容をもとに、「プラクルティ」とは何であるのか?どのような概念であるのか?について解説しましたが、その際に引用した一文について、補足の解説をさせていただきます。

 

今回の記事で取り上げる内容は、私たち日本人には、あまり馴染みのない考え方ではありますが、古インド哲学のサーンキャ学派とヨーガ学派の考え方(サーンキャ学派そのものの文献などは後世に殆ど遺されていないため、その理論の全貌は、不明な部分もあるようですが、二十四の原理などの考え方は、今現在広く知られているヨーガの理論に組み込まれているとされています)が色濃く反映されていることもあり、日本語には訳し難いサンスクリット語の単語が数多く出てきますので、わかりにくい部分もあるかもしれませんが、極力、わかりやすい形で、ご紹介したいと思います。

 

「地 水 火 風 空 心 知性 そして自我(アハンカーラ)

――わたし自身であるプラクルティ(物質原理)は、

これら八つで構成されている」(第七章4)

 

前回の記事の中でご紹介しましたこの一文ですが、ここで述べられている「地水火風空」についてですが、インド哲学においては、サンスクリット語では、タットヴァ(実在原理、元素)と言われ、この宇宙(この世)を構成する五大元素とされているものです。

 

この五大元素は、自然界で、私たち人間が、地、水、火、風、空(エーテル)と捉えている物質に特徴的なそれぞれの特性を、全ての物質が特性としてそれぞれが内包しており、地元素のものは、水元素、火元素、風元素、空元素を内包しており、水元素のものは、火元素、風元素、空元素を内包しており、火元素のものは、風元素、空元素を内包しており、風元素のものは、空元素を内包している、とされています。

 

例えば、水は、太陽熱などで蒸発しますが、液体(水元素)に熱エネルギー(火元素)が加わると、水元素内の運動が激しくなり(火元素が反応)、蒸発という気体へ状態変化する気化作用(風元素→空元素)が生じます。

つまり、水が、水元素だけでなく、火元素、風元素、空元素を内包しているからこそ、このような自然現象が起こる、と考えることができるのです。

 

この五つのタットヴァ(元素)は、プラクルティ(物質原理)に属するものですが、粗雑元素であり、現代科学で例えるならば、分子レベルの元素と言えます。

それ故、この地球上でも、存在するあらゆる物質を「地水火風空」の五つの元素に分類することは、かなり容易であり、その特性を改めてここでご紹介する必要もないでしょう。

 

もちろん、私たち人間の肉体にも、このタットヴァ(元素)が働いており、タットヴァ(元素)は、粗雑次元の私たち人間の肉体を創り上げています。

例えば、骨や筋肉、各臓器などは、「地」元素が、血液やリンパ液、精液などは、「水」元素が、消化、体温などは、「火」元素が、神経伝達網や脳の情報処理器官などでは「風」元素が、呼吸や生気、肉体全体には、「空」元素が働いているとされています。

 

ヨーガでは、この粗雑元素であるタットヴァ(元素)が物質化する前の精妙な形のものをタンマートラ(微細元素)と呼びますが、今回の記事のテーマは、このタンマートラ(微細元素)についてです。

 

「心、知性、そして自我(アハンカーラ)もプラクルティである」と、クリシュナ神は語っていますが、私たち人間の観点では、心(マナス)、知性(ブッディ)、自我(アハンカーラ)などの精神的な活動や心理作用に関係するこれらの内的心理器官(アンタハカラナ)が、プラクリティ(物質原理)より生じる、ということは、殆ど知られていない考え方と言え、初めて知った方もいらっしゃることと思いますので、この理論を真に理解するために、シュリ・ラマナ・マハルシの講話集より、詳細な説明がなされていますので、ご紹介したいと思います。

 

『T・K・Sアイヤール氏がある本からアンタハカラナ(内的器官)の五つの異なった部分についての記述を読み上げた。

それらは①ウラム(意識)②マナス(心)③ブッディ(知性)④チッタ(記憶)⑤アハンカーラ(自我)である。

 

マハルシ

「②から⑤までの四つがアンタハカラナの一般的な区分です。

①のウラムは五つのタットヴァ(五大元素)と相応させるために挙げられています。

 

①ウラム(意識)は頭蓋から眉間までのアーカーシャ(空間、虚空)・タットヴァ

②マナス(思考機能)は眉間から喉までのヴァーユ(空気)・タットヴァ

③ブッディ(知性)は喉からハートまでのアグニ(光)・タットヴァ

④チッタ(記憶)はハートから臍までのジャラ(水)・タットヴァ

⑤アハンカーラ(自我)は臍から尾骶骨までのプリトヴィー(土)・タットヴァ

 

ウラムとは純粋な心、あるいは純粋な存在状態にある心、つまりすべての想念を取り去った心です。

それは想念に覆われない広大な虚空の心と相応しています。

人が眠りから目を覚ますと、頭は起き上がり、そこに気づきの光が現れます。

この光はすでにハートの中にあり、それが後に脳に反映されて意識として現れるのです。

しかしアハンカーラが入り込んで来るまでは、それは特定化されません。

区別される前の(未分化の)状態では、それは普遍的(普遍的心あるいは宇宙意識)です。

この目覚めの瞬間の状態は通常一分ほど続き、気づかれないまま過ぎていきます。

それが特定化あるいは区別化されるのは、自我が入り込んで、個人が「私」という時です。

それは常に身体という実体と結びついています。

それゆえ、まず身体と「私」が同一視され、それからそれ以外のすべてが続くのです。

ウラム(意識)は反映された光でしかないため、それは月だと言われています。

源の光はハートの中にあるため、それは太陽と言われています。

(対話510)

 

ヨーガにおいては、私たち人間にとっては、物質的とは思えない、精神的な活動、心理作用を支える各内的心理器官(アンタハカラナ)が、プラクルティ(物質原理)から生じたものであるという考え方は、殆ど馴染みのない考え方であると言えますが、プラクルティ(物質原理)という概念に内包される主要素は、物質そのものではなく、粗雑な物質宇宙(この世)を構成している各物質に潜在する微細元素(タンマートラ)と呼ばれるものであり、このタンマートラ(微細元素)が、粗大な物質を創り出し、また、私たち人間の内的心理器官を構成し、機能させているということになります。

 

つまり、プラクルティ(物質原理)から直接、物質が生じる訳ではなく、プラクルティ(物質原理)の中に内包されているタンマートラ(微細元素)が、物質が生まれ出てくる創造の過程において、重要な役割を果たしている、ということになります。

 

ちなみに、分かりやすく表現するならば、タンマートラ(微細元素)は、分子レベルのタットヴァ(元素)に比べると、現代科学で例えれば、量子レベルと言える存在ですので、通常の人間の感覚器官で捉えることは困難ですが、タンマートラ(微細元素)について、更に詳しく知りたい方は、“魂の科学”(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)に詳細な説明が記されていますので、ご参考になさって下さい。

 

このあまり知られていないタンマートラ(微細元素)について、シュリ・ラマナ・マハルシが、更に詳しく語って下さっていますので、ご紹介いたしますが、その前に、サーンキャ学派の理論では、プラクルティ(物質原理)には、3つ(トリ)の特性(グナ)があり(トリグナ)、それらは、それぞれ①サットヴァ(純粋性)、②ラジャス(活動性)、③タマス(不活発性、暗性)と呼ばれています。

(この3つのグナ(トリグナ)については、今回の記事ではご紹介いたしませんが、またの機会にご紹介したいと思います。)

 

マハルシ

『五つの感覚作用とは、聞くこと、触れること、見ること、味わうこと、嗅ぐことという精妙な機能(タンマートラ)を意味します。

それらの変容したものが全宇宙を形作っているのです。

それらは三つのグナにしたがって以下のように異なります。

タマス(不活発性)によって、粗大な元素が生じ、

ラジャス(活動性)によって、対象物を知る手段が生じ、

サットヴァ(純粋性)によって、感覚を通して得るさまざまな種類の知識が生ずる。

また、

タマス(不活発性)によって、粗大な対象、つまり世界が生じ、

ラジャス(活動性)によって、生気と行動器官(カルメーンドリヤ)が生ずる。

サットヴァ(純粋性)によって、感覚器官(ジニャーネンドリア)が生ずる。

行動器官とは、つかむ、歩く、話す、排せつする、生殖するための器官です。

ではここで、鈴の音について考えてみなさい。

音は聞くことと関連しています。

鈴は物体であり、タモーグナ(タマス)が変化して現れたものです。

ラージャシック(ラジャス)な要素(タンマートラ)は音の振動として変化して、鈴の周辺へと拡張していきます。

それから、音として感じられるように空を通して耳へと届くのです。

それを音として認識する知識がサットヴァな要素です。

それは他の感覚についても同じことです。

触感――風(ヴァーユ)の元素、視覚――火(テージャス)の元素、味覚――水(アープ)の元素、嗅覚――土(プリトヴィ)の元素となります。

元素(タンマートラ)を物質の最も微細な粒子として理解するのは正しいとは言えません。

その理解は不完全なものです。

それらは単に聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚の精妙な形態であり、それらが宇宙のすべての構成要素を形作ります。

世界創造はこのようにして起こるのです。

学術的な専門用語に欠けるため、これらの概念を正確に外国語で表現することは不可能です。

(対話567)

 

このように、タンマートラ(微細元素)の働きのおかげで、この物質世界(この世)で、私たち人間は、見たり(火の微細元素)、聞いたり(空の微細元素)、触ったり(風の微細元素)、嗅いだり(土の微細元素)、味わったり(水の微細元素)という感覚的経験を得ることができると言うわけです。

このタンマートラ(微細元素)が、内的心理器官(アンタハカラナ)に働きかけて、私たち人間の粗雑元素の塊である肉体を駆使して、地球上(この世)における「体験」という生命活動において、重要な役割を果たしている、という事実は、ほとんど知られていないと言えるでしょう。

 

客観的な視点から見るならば、各種感覚器官(目、耳、鼻、口、皮膚)は、それぞれの機能に特化した形で、私たち人間の生命活動を支えてくれていますが、そのプロセスは、ある意味、至極機械的なプロセスと言えます。

 

肉体にある各種感覚器官が取得した情報は、速やかに電気信号に変換され、それぞれの感覚器官専用の神経伝達路を通って、脳に伝えられ(この一連のプロセスは、マナスの働きです)、脳という優れた情報処理機能を備えた情報処理器官が、各情報ごとの専用のプログラムを用いて、届けられた情報を素早く情報処理をする(このような一連の情報分析におけるプロセスには、ブッディが関わっています)、というスーパーコンピュータ顔負けの働きの結果、私たち人間は、生命活動を維持しながら、この世を体験している訳ですが、これら一連の肉体における人間の生命活動の流れは、誰にでも日常的に起こっている現象であるため、私たち自身は、それらが全自動的に起こっているため、特段の注意を払うことは稀ですが、そこには、ダルマ(永遠の真理)が働いており、このタンマートラ(微細元素)の働きも、その内の一つであり、生命活動の根源を支える最も重要な働きである、と言えます。

 

更に、シュリ・ラマナ・マハルシは、以下のように語っています。

 

質問者

「タンマートラ」(微細な要素)は夢の中で作用する要素なのでしょうか?

 

マハルシ

「いいえ。

タンマートラは夢よりも精妙なものです。

目覚めの状態の粗大な世界と比べれば、夢見の世界は精妙なものですが、タンマートラと比べれば、夢見の世界のほうがより粗大です。

五大要素と組み合わさった後、タンマートラは内的器官すなわち心(アンタハカラナ)を生じさせます。

それもまた異なった作用要因の組み合わせによって異なります。

空間(エーテル)が支配する純質(サットヴァ)の影響を受けると、それは叡智(ジニャーナ)を生じさせます。

空気(ヴァーユ)は心(マナス)を生み出し、

光(テージャス)は知性(ブッディ)を生み出し、

水(ジャラ)は記憶など(チッタ)を生み出し、

大地(プリトヴィ)は自我(アハンカーラ)を生み出します。

それはどの感覚や器官に対しても個別に作用でき、または全体に対しても集合体(サマシュティ)として作用できるようになっています。

激質(ラジョーグナ、ラジャス)と組み合わせたとき、それは個人(ビィヤシュティ)の中で知識器官(ジニャーネーンドリヤ)に変化し、暗質(タモーグナ、タマス)と組み合わせたとき、それは個人の中で行動器官(カルメーンドリヤ)に変化します。

外界と個人の関係が調和するのは、タンマートラ(微細な要素)がそれらに共通した要素だからです。

タンマートラは物質的原理(プラクリティ)から生じます。

創造の理論にはそれぞれに大きな違いがあります。

同時創造(ユガパト・スリシュティ)と段階的創造(クラマ・スリシュティ)が知られていますが、その意義は創造にではなく、創造の起こる起源に重きがあるのです。

(対話292)

 

尚、補足ではありますが、このタンマートラ(微細元素)が働く次元は、私たち人間が体験している粗雑な物質次元(肉体レベル)ではなく、私たち人間を覆うように存在するエネルギー相(層)で言うならば、微細身(スークシュマ・シャリーラ)を生じさせるより精妙なエネルギーの次元です。

 

スークシュマ・シャリーラ(微細身)への理解は、真我実現へのプロセスにおいて、非常に重要なキーポイントとなりますが、このスークシュマ・シャリーラ(微細身)については、あまり多くの情報が発信されていないこともあり、殆ど知られていないというのが現状でしょう。

 

ちなみに、現代ヨーガでよく語られるチャクラ(エネルギー中枢)やナディ―(生気を通す微細次元の導管)、スシュムナー(脊髄中にある微細次元の太い導管)などは、粗雑次元の肉体よりも精妙なものですが、ヨーガでは、アンナ―マヤ・コーシャ(食物鞘)に属するものとされています。

精神修養の過程で、チャクラやナディー、スシュムナーを体験を通して識ることは、人間という存在をエネルギー体として捉える良いきっかけとなりますので、そういう意味では、重要ですが、ヨーガでは、スークシュマ・シャリーラ(微細身)は、それらよりも更に微細なものとして定義されています。

 

このことについて、シュリ・ラマナ・マハルシは、以下のように語っています。

 

質問者

「真我実現の前にクンダリニーが上昇しなければならず、その覚醒は身体に熱をもたらすと言われています。

そうなのでしょうか?」

 

マハルシ

「ヨーギーはそれをクンダリニー・シャクティと呼んでいます。

帰依の道を歩む者にとっての「神の姿への黙想」(バーガヴァタカーラ・ヴァリッティ)と、知識の道を歩む者にとっての「ブラフマンの姿への黙想」(ブラフマカーラ・ヴァリッティ)、その両者の心の状態とクンダリニー・シャクティは同じものです。

それは実現が起こる前に起こらなければなりません。

それによって起こる感覚は、熱をともなうものと言われています。」

 

質問者

「クンダリニーは蛇の形をしていると言われていますが、心の様態(ヴァリッティ)がそうあるとは考えられません。」

 

マハルシ

「知識の道(ジニャーナ・マールガ)にとってのクンダリニーは、ハートであると言われています。

それには霊的神経経路(ナディー)の網状組織(ネットワーク)、蛇の姿、蓮の花のつぼみなどさまざまな描写が与えられています。」

 

質問者

「このハートは生理学的なハートと同じものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「いいえ。『シュリー・ラマナ・ギータ―』はそれを『私』という概念の源だと定義しています。

 

質問者

「しかしそれは胸の右側にあると書いてありました。」

 

マハルシ

「それはただ想像を助けるための描写です。

六つのチャクラ、内的や外的などの多くのセンターについて書かれた本があります。

ハートの描写は数あるセンターの一つであって、必要不可欠なものではありません。

それは『私』という想念の源にすぎないのです。

それが究極的な真理です。」

 

質問者

「ハートをアンタハカラナ(内的器官、思考機能)の源と見なしていいのでしょうか?」

 

マハルシ

「アンタハカラナは五つに分類されます。

(1)知識―ジニャーナ、(2)心―マナス、(3)知性―ブッディ、(4)記憶―チッタ、(5)自我―アハンカーラ。

ある人は最後の四つだけであると言い、ある人はマナスとアハンカーラの二つだけだと言います。

さらに別の人はアンタハカラナだけが異なった機能を異なった形で表すため、アンタハカラナだけでいいと言います。

それゆえ、ハートがアンタハカラナの源なのです。

一方には、生命意識を持たない身体が存在し、もう一方には、自ら輝く永遠の真我が存在します。

その二つの間に現れた一つの現象、それが自我です。

それは心(マナス)、知性(ブッディ)、記憶(チッタ)、自我(アハンカーラ)力(シャクティ)、生気(プラーナ)などの異なった名前で知られています。

あなた自身の源を見いだしなさい。

そうすれば、その探求は自動的にハートへと導くでしょう。

アンタハカラナとは微細身(スークシュマ・シャリーラ)を説明するための概念にすぎません。

物理的身体は、土、火、水、空気、空間(エーテル)という元素から成り立ち、生命意識を持っていません。

真我は純粋で、自ら輝き、自ら明らかです。

身体と真我の関係は、一方には五大元素の微細な相によって構成された微細身、もう一方には反映された真我の光を仮定することで説明されます。

このように微細身すなわち心は、生命意識のあるものでもあり、生命意識のないものでもあるのです。

サットヴァ(純粋性)の質が五大元素に働きかけると、その輝きは心(マナス)や感覚(ジニャ―ネンドリヤ)として現れます。

ラジャス(活動性)が働きかけると、ラジャス(活動)の相が生気(プラーナ)や活動器官(カルメーンドリヤ)として現れ、タマス(不活発性)が働きかけると、タマ(暗質)の相が身体という粗大な現象として現れるのです。」

(対話392)

 

上記のシュリ・ラマナ・マハルシが語って下さった内容は、私たち人間が体験している表面上の世界(三次元世界)についてではありませんので、直ぐに理解することは難しいかもしれませんが、この微細次元への真の理解が、真我実現やその先の「解脱」へのプロセスにおいては、非常に重要な要素となりますので、このような人間という存在におけるエネルギー的な多層構造への理解が進むにつれて、Atman Jnana(真我の智識)への理解も、次第に強固なものとなっていくことでしょう。

 

今回の記事は、内容が量、質と共に、非常に盛沢山でしたが、最後に、ヨーガを実践し、ヨーガの理論もある程度知っている方々にはよく知られているパンチャ・コーシャ(五つの鞘)について、シュリ・ラマナ・マハルシが語って下さっていますので、ご紹介いたします。

ちなみに、パンチャ・コーシャ(五つの鞘)という概念は、①粗雑な肉体=アンナ―マヤ・コーシャ(食物鞘)、②プラーナマヤ・コーシャ(生気鞘)、③マノーマヤ・コーシャ(意思鞘)、④ヴィジニャーナマヤ・コーシャ(理智鞘)⑤アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)で、人間を構成する五つのエネルギーの相(層)とされているものです。

 

私たち人間の魂であるアートマン(真我)は、この最も微細なエネルギーの相(層)であるアーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)の更に奥に、鎮座していらっしゃいます。

 

コーエン氏

「意思とは何でしょうか?

それは何に属するのでしょうか?

五つの鞘(パンチャ・コーシャ)にでしょうか?」

 

マハルシ

「「私」という想念が初めて立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。

それらが心というものを構成します。

心は対象であり、「私」は主体です。

「私」なしに意志がありえるでしょうか?

意思は「私」の中に含まれています。

「私」という想念はヴィジニャーナマヤ・コーシャ(知性の鞘、理智鞘)であり、意思はその一部なのです。

アンナ―マヤ・コーシャ(食物鞘)は粗大な身体の鞘です。

感覚と生気(プラーナ)と行為器官(カルメーンドリヤ)がプラーナマヤ・コーシャ(生気鞘)を形作り、感覚と心がマノーマヤ・コーシャ(意思鞘)をつくります。

それらは知覚器官(ジニャ―ネンドリヤ)です。

心は想念だけで形作られており、「これ」(イダム)が対象で、「私」(アハム)が主体です。

この二つがヴィジニャーナマヤ・コーシャ(理智鞘)を構成するのです。」

(対話277)

 

 

今回の記事は、私たち人間が通常「世界」と呼んでいる粗雑な物質次元よりも微細なエネルギーの次元である神秘の領域に(少しとは言え)踏み込んだ内容であるため、多少、理解するのが難しい内容であったかもしれませんが、真我探求のプロセスにおいては、微細次元への理解は、不可欠ですので、次回も、ヨーガにおける微細次元から視た宇宙観をご紹介したいと思います。

 

次回は、「プラクルティ」から展開した「トリグナ」(三性質)であるサットヴァ(純粋性)、ラジャス(活動性)、タマス(不活発性、暗性)について、解説したいと思います。

 

 

物質世界(このよ)の生物に内在(やど)る不滅の霊魂は

わたし自身の極小部分である――かれは

心をふくむ六つの感覚を用いて

苦労しながら肉体を操っているのだ

 

霊魂(かれ)は風が芳香を運ぶように

自らの意思感情を次の体に運ぶ

このようにしてかれは或る種の体をとって生き

またそれを捨てて他の体をまとう

 

不滅の霊魂はこのようにして

耳 眼 舌 鼻 触覚と

また心意(こころ)をもった物質体(にくたい)をとって誕生し

それらに相応した対象を味わい経験する

(バガヴァッド・ギータ― 第十五章7-9 田中嫺玉訳)

 

 

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真我(アートマン)を理解するためのヒント(Atman Jnana)⑥プラクルティとは?

前回までの記事でご紹介しました「人間馬車説」ですが、「人間」の構造を多層構造として捉え、各階層について理解を深めていくプロセスにおいて、頭の中にイメージ化しやすい方便として解説しましたが、今回からは、「人間」を含む「大宇宙」(この世)の構造について、同じように、「バガヴァッド・ギーター」で述べられているクリシュナ神(至上者、バガヴァ―ン)の言葉から、ウパニシャッドの奥義でもあるため、非常に難解な内容ではありますが、神によるこの宇宙(この世)の創造のプロセスについて、絵画を見るような鮮明なイメージが、頭の中に自然と浮かび上がるように、解説を試みたいと思います。

 

これからご紹介しますウパニシャッドや「バガヴァッド・ギータ―」などで説かれている宇宙観、世界観ですが、これまで地球上で広く信奉されてきた他の宗教的な教えの中で(私の知っている限りでは)、殆ど説かれたことのない、ある意味、特異な宇宙観であり、日本人の私たちには、あまり馴染みのない考え方と言えます。

 

ウパニシャッドは、人間の構造を「人間馬車説」のような比喩的な表現を通して、理解し易い形にイメージ化することで、人間を多層的な構造物として捉え、客観的な視点から人間を分析し、創造物(被造物)としての特性を説きましたが、その延長として、ウパニシャッドは、大宇宙(この世)を、同じく、多層的な構造として捉えることで、人間の能力の制限により、大宇宙を体験することのない人間の頭の中に、言葉ではありますが、私たちが理解しやすい形に表現することで、形而上の宇宙像を明らかにしています。

 

この宇宙観、世界観は、人間的な常識や観念、日常的な感覚からは、直ぐには理解が難しいかもしれませんが、たとえ多くの謎や疑問が生じたとしても、それも、「真我の内に確立」されるまでのことですので、今の段階で、個人的なマインドがどのように反応しても、ウパニシャッドでは、このように考えられていると、頭の隅に留めておくだけであっても、探求の段階では、十分と言えます。

ひとたび「真我の内に確立」されれば、智識は実を結びますので、最終的には、すべてが明らかになり、疑問や謎は、完全に消滅することでしょう。

 

それでは、ウパニシャッドが説く奥義中の奥義の内容を見ていきましょう。

 

バガヴァ―ンは言った

「わたしは、もう一度、最高の智識を詳しく説明しよう。

全智識の中でも最善の智識を

それは、最も高い完成を達成した聖者が獲得したものであり 

これを知って、彼らは、この現世的な存在から自由になったのである

 

この智識を体得することにより

わたしとの同化を達成した人々は 

宇宙の始まりに生まれることなく

宇宙の壊滅の間にさえ乱されることはない

 

わたしの本源的な自然は、偉大なるブラフマンとして知られており、

すべての創造物の子宮である

その子宮の中に、わたしは全生命の種を植える

バラタの子孫よ

すると、あらゆるものが生まれ出てくる

 

クンティ―の息子よ

全ての子宮から生まれた物が何であれ、

プラクルティ(物質自然)が彼らの子宮であり

わたしが種をまく父である

(第十四章1-4)

 

ここでクリシュナ神が言及された「プラクルティ」とは、一体、何でしょうか?

「プラクルティ」とは、私たち人間をも含む物質宇宙(この世)の源であり、それは、すなわち、至上者であるバガヴァ―ン(ブラフマン)の内に広がっている創造物を生み出す「子宮」のようなものであると、至上者(バガヴァ―ン)自らが語っています。

 

これは、現代の物理学で説かれている、物質を構成したり、相互作用を媒介する最小単位の粒子(素粒子)や、自然界でその働きが確認されている四つの力(強い力、弱い力、電磁気力、重力)が働く「量子場」(quantum field)のような概念と言えます。

 

クリシュナ神は、「宇宙」の創造において、そのような全存在が生まれ出てくる「場」(field)を「わたしの子宮」(プラクルティ、物質原理)と呼んでおり、「プラクルティ」は、一言で言えば、“全存在の源”と言えます。

 

「地 水 火 風 空 心 知性 そして自我(アハンカーラ)

――わたし自身であるプラクルティ(物質自然)は、

これら八つで構成されている

 

これは、確かに、わたしの下位の(物質的な)性質であるが

アルジュナよ

この他に別に、わたしのより高い(霊的な)性質が

生命原理の形をとり

全宇宙が維持されていることを知りなさい

 

アルジュナよ すべての存在は、(感覚があるものも、無いものも)

この二層(低位と高位)から展開している

そして、わたしが全生物の源であり、

わたしの中に再び分解することを理解しなさい

 

わたしよりも高位のものは、他に無い 

アルジュナよ

糸に通された真珠のように

すべては、わたしに連なっている

(第七章4―7)

 

この世に存在する全てのモノは、この「プラクルティ」から生じ、この「プラクルティ」は、大ブラフマン、すなわち、至上者、バガヴァ―ンの内に存在すると説かれています。

 

クリシュナ神がアルジュナに語ったこの部分を理解するために、特に「プラクルティ」という私たち日本人には、殆ど馴染みのない観念を理解するために、補足の智識をご紹介したいと思います。

 

以前の記事でご紹介しました「人間馬車説」に関して、「カタ・ウパニシャッド」において、死神ヤマと探求者ナチケータスの対話の中で、死神ヤマは、「諸々の感官の上に感官の対象があり、これらの対象の上に意志は位する。意志の上に理性があり、理性の上に偉大なるアートマンがある。」と述べていますが、実は、この対話には続きがあります。

 

(死神ヤマ)「偉大なるもの(アートマン)の上に未開展のもの(プラクルティ)があり、プルシャは未開展(プラクルティ)のものより更に上にある。

プルシャの上にはなにもなく、それは頂点であり、最高の拠りどころである。」

(カタ・ウパニシャッド第三章11)

 

死神ヤマがナチケータスに語った言葉から推察できることは、アートマンは、人間の魂として、人間の最奥に座している実在ではありますが、「プラクルティ」と「プルシャ」は、「アートマン」(魂、真我)を超えて、全宇宙を構成する二大要素であり、この宇宙の創造の始まりには、先ず「プルシャ」があり、その次に「プラクルティ」が生じ、それから、全ての存在が生まれ出てきた、ということになります。

 

「プラクルティ」「プルシャ」は、宇宙(この世)の二大構成要素ではありますが、「人間」という多層構造の最奥の存在である「アートマン」(魂、真我)でさえ感得することは、私たち人間には、非常に困難ですので、「プラクルティ」や「プルシャ」に至っては、そのものを感得するのは不可能と言えます。

 

しかしながら、「プルシャ」と「プラクルティ」自体を体験することは不可能ですが、私たち人間がこの宇宙の中に存在するという紛れもない事実から、「プルシャ」「プラクルティ」は、「人間」が創造される際に、当然、深く関わっており、両者の役割や人間の中で果たしている機能などは、「人間」という創造物(被造物)を理解する際には、非常に多くの智識をもたらしてくれますので、「バガヴァッド・ギータ―」の中で、これら宇宙の二大構成要素がどのように定義され、語られているのか?について、次回から詳しくご紹介したいと思います。

 

 

質問者

「『バガヴァッド・ギーター』は行為のために説かれました」

マハルシ

「『ギータ―』は何と述べていますか?

アルジュナは戦うことを拒んだのです。

クリシュナはこう語りました。

『戦いを拒否するかぎり、あなたは行為者という感覚を持っているのだ。

行為する者あるいは拒否する者とは誰なのか?

行為者という感覚を手放しなさい。

その感覚が消え去らないかぎり、あなたは行為に束縛されることになる。

あなたは高次の力に操られているのである。

その力にしたがうのを拒否することは、行為に束縛されているのを認めることになる。

それよりも、その力を認めて自分自身を道具として差し出しなさい。

別の言い方をすれば、もしも拒めばあなたは強制的にそれをさせられることになるだろう。

不本意に行為するよりも、進んで行為する人になりなさい。

真我に心をとどめ、行為者という感覚なしに、自然に行為しなさい。

そうすれば、行為の結果があなたに影響することはないだろう。

それが雄々しさであり、英雄というものだ』と。

「真我の内に在る」ことが『ギータ―』の教えの大要であり、精髄なのです。

真我の内に確立されれば、このような疑問は起こりません。

疑問が起こるのも、確立されるまでのことです。」

質問者

「それでは探求者にとってこのような答えが何の役に立つと言うのでしょう?」

マハルシ

「それでも言葉は力を持ち、やがて必ず実を結ぶのです。」

(ラマナ・マハルシとの対話(1)より)

 

 

ご参考までに、記事の中で引用しましたバガヴァッド・ギーターの同箇所を、田中嫺玉さんが流麗な日本語に訳されている翻訳文がありますので、ご紹介いたします。

 

 

至上者(バガヴァ―ン)語る 

「わたしはもう一度

君に最高の知識を話して聞かせよう

これを知って聖者(ムニ)たちはことごとく

完成の域に達したのだ

 

この知識を体得することによって

人はわたしの性質と同化して

物質宇宙の創始期に生まれることなく

壊滅の時にも何のかかわりもない

 

バラタの子孫 アルジュナよ

全物質源は大ブラフマンとも呼ばれ

わたしはこのなかに種をまく

すると あらゆる生物が湧き出てくる

 

クンティーの息子よ

多種多様な生命体はすべて

わたしの子宮であるプラクルティから生まれ

また わたしが種をまく父である

(第十四章1-4)

 

地 水 火 風 エーテル

心 知性 我念(アハンカーラ)――

わたしから分離散開した物質自然(プラクルティ)は

この八つで形成されている

 

この低位エネルギーのほかに アルジュナよ

わたしは高位のエネルギーをもっている

これが生命エネルギーであり

宇宙万有を支えているのだ

 

宇宙における物質的なものすべて

また精神的なものの全ては

わたしを起源として生じ また

これを消滅させるのもわたしである

 

富の征服者 アルジュナよ

わたしより高いものは何一つ存在しない

糸に通され連なった真珠のように

あらゆるものは わたしが支えている

(第七章4―7)

 

 

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真我(アートマン)を理解するためのヒント(Atman Jnana)⑤アートマン(真我)とは?

前回の記事では、人間の構造について、ヴェーダ聖典における「人間馬車説」を参考に、解説しました。

 

この「人間馬車説」では、馬車全体が、一人の人間であると仮定し、その場合、「わたし」は、その馬車全体(一人の人間)を御する“御者”として、馬場(この世)を走り回る(生きる)馬車(一人の人間)を引く五頭の馬である“五つの感覚器官(聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚)”を、手綱“意思(マナス)”を使って制御し、馬場(この世)を体験しながら、馬車を前進させ(人生を展開)てはいますが、実は、この”御者“の背後にある客車の中に、姿形は見えないかもしれませんが、「アートマン」(真我)が座しており、この「アートマン」(真我)こそが、この馬車全体(一人の人間)の本当の「主」(あるじ)であり、この「アートマン」(真我)なしには、馬車を操縦する“御者”としての「わたし」は、その役割を果たすことはできず、更には、馬車全体(一人の人間)も存在することができない、ということを解説しました。

 

この「人間馬車説」で説かれている人間に関する構図(見取り図)は、時代が変わっても、永遠に変わることのないダルマ(Sanatanadharma、宇宙の理)ですので、是非、頭の中に置いておいていただきたいと思います。

 

今回の記事は、「バガヴァッド・ギータ―」より、この「人間馬車説」を裏付けるクリシュナ神の御言葉をご紹介いたします。

 

『アルジュナよ わたしはすべての存在の胸に住む真我(アートマン)である

そして、わたしだけが、すべての存在の初めであり、

中間であり、また終わりである』

(第十章20)

 

『感覚は肉体よりも優れているが、心は感覚よりも優れている。

知性は心よりも優れており、彼、真我は、知性よりも優れている。

 

それ故、アルジュナよ

知性よりも上位にあるアートマンを識り、理性によって心を制御し、

克服し難き欲望の形をしたこの敵を消滅せよ。』

(第三章42-43)

 

ここでは、一番粗雑であるのは、物質である「肉体」であり、「肉体」よりも、「五つの感覚器官」(聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚)の方が微細であり、更に、これらの「五つの感覚器官」よりも微細であるのは「心」(マナス)であり、この「心」(マナス)よりも、「知性」(ブッディ)は、更に微細であると語られており、「知性」(ブッディ)が、人間が自覚できる自身に備わっている備品(装備)の中では、最も微細な器官ということになります。

 

「人間馬車説」による構図では、一番粗雑な存在であるのは、馬、次に手綱、次に手綱を操る“御者”、そして、その“御者”よりも、更に奥に最も微細な存在である「アートマン」(真我)が配置されているということになります。

このように、「バガヴァッド・ギータ―」においても、「カタ・ウパニシャッド」で、死神ヤマが、探求者ナチスケータスに語ったことと、同じ内容のことが、クリシュナ神よりアルジュナに語られています。

 

この微細であるということは、電磁波の周波数のように、電磁エネルギーが微細であるほど、エネルギーは強いことになります。

紫外線よりも赤外線の方が、人間には感知しやすいのと同様(紫外線の影響は、後から確認できますが、直接的には、直ぐには、感知できません)、微細エネルギーは、人間には、なかなか直接には感知(認識)し難いということもあり、「知性」(ブッディ)の座よりも奥に座している「アートマン」(真我)となると、殆どの人が、その存在すら知らない場合が多いことは、姿形のある物質次元に慣れてしまっている私たち人間にとっては、ある意味、仕方のないことと言えます。

 

つまり、客車の中に座している「アートマン」(真我)以外は、すべて人間自身が、実際に使っている自覚があり、その機能を確認することができるものですので、その存在を疑う人は、皆無と言えますが、「アートマン」(真我)となると、すべての人間が、その存在を知っているとは限らず、また、「アートマン」(真我)について明らかになっている情報が少なすぎるため、(体験者以外)実体を掴むことが困難であると言えます。

(しかしながら、クンダリニー覚醒が起きた場合、その時は、微細エネルギーが目覚めることになりますので、結果、微細次元の諸々を感知する能力が高まり、微細次元の「アートマン」がどのような存在であるのか?が、明らかになる可能性が高まるでしょう。

また、非常に深い瞑想を続ける中で、微細次元への感度が高くなり、結果として、「アートマン」(真我)を感得することも可能となり、「アートマン」を実在の存在として識ることにつながる場合もあることでしょう)

 

この最も微細で、人間にとっては、不可解な存在である「アートマン」(真我)について、クリシュナ神は、「アートマン」(真我)を未だ知らない人間アルジュナにこのように語ります。

 

『この肉体の不滅の個の魂は、わたし自身の断片である

そして、心と五つの感覚器官を周りに集め

物質界(プラクルティ)に留まる。    

 

風が香りを運ぶように

この(肉体という)集合体の主である個の魂は、

体から心と感覚器官を連れ

体を後に残して

次に獲得する体に直ちに移動する』

(第十五章7-8)

 

ここでは、クリシュナ神は、人間の死後の「魂」の行方を語っていますが、一つ留意する必要があるのは、「わたし」が「輪廻転生」するとは言っていない、ということです。(つまり、個人が「輪廻転生」するとは言っていない、ということになります)

「人間馬車説」で言うならば、“御者”は、客車の中の主である「アートマン」(真我)と連動して、肉体から肉体へ移動する訳ではない、ということになります。

 

もう一つ留意すべきことは、客車の中に座する「アートマン」(真我)は、どの馬車の客車の中に座していても、同一の同じ「アートマン」(真我)であり、不変であり、“一つ”であるということです。

馬車を走らせる時に必要な“御者”は、その馬車により変化しますが、馬車の主である「アートマン」(真我)は、同一であり、変化することはありません。

これは、生きている人間は、千差万別ですが、「魂」である「アートマン」(真我)は、”一つ“である、ということを意味します。

 

厳密に言うならば、私たち人間は、「わたしの魂」とか「自分の魂」という表現をしますが、“御者”を雇っているのは「魂」である「アートマン」(真我)であって、私たち人間が、「魂」である「アートマン」(真我)の雇い主であったり、馬車(一人の人間)の所有者である訳ではありません。

そして、最も重要なのは、この「魂」である「アートマン」(真我)は、密接に、私たち一人一人の人間と深く関わっているということです。

 

背後に馬車の本当のオーナー(あるじ)である「魂」である「アートマン」(真我)が座していることを知らない“御者”は、自分の考えで、馬が走る方向や速度など調整しているつもりでいるかもしれませんが、実は、背後に座している「魂」である「アートマン」(真我)こそが、馬車(一人の人間)全体をコントロールしており、”御者“である「わたし」は、実際には、馬車に関しては、何もしていない、ということなのです。

 

『すべての行動は、プラクルティ(物質自然)のグナ(性質)によって為されているのだが

心が利己心によって惑わされている愚かな者は、「自分が行為者である」と思っている』

(第三章27)

 

更に、クリシュナ神は、客観的な視点から、人間の生命活動に関して、以下のように人間アルジュナに語ります。

 

『この個の魂が、感覚の対象物を楽しむのは、

聴力、視力、味覚、嗅覚、触覚と心を統括する間だけである

 

無知なる者は、魂が体に住んだり、体から離れたり、

または、感覚の対象物を楽しむのは、

(プラクルティ、物質自然の)グナ(性質)の三性質(トリグナ)に結びついている時だけであることを知らない

賢者の眼を持つ人々だけが、そのことを気づくことができる』

(第十五章9-10)

 

ここで、クリシュナ神は、プラクルティ(物質自然)の性質(グナ)の三性質(トリグナ)に関して、とても重要なことを語っています。

 

プラクルティ(物質自然)の性質(グナ)の三性質(トリグナ)とは、一体、何でしょうか?どのようなものなのでしょうか?

 

次回は、このプラクルティ(物質自然)、プラクルティ(物質自然)の三性質(トリグナ)ついて、詳細に見ていきたいと思います。

 

プラクルティ(物質自然)、プラクルティ(物質自然)の三性質(トリグナ)、プルシャ(精神原理)についての理解を深めることで、馬車全体(一人の人間)における「アートマン」(真我)と「わたし」との関係、そして、大宇宙の主である至高者「ブラフマン」への理解が、より一層深まり、それが永遠に繰り返されてきた「輪廻転生」の無限ループを断ち切る数少ない方法であることは、言うまでもありません。

 

これまでの解説も、かなり難しい内容であったかもしれませんが、ここまでの内容が「中級」とすると、次回からは、更に難解な「上級」クラスの内容となります。

アドヴァイタ(一元論)・ヴェーダンタで説かれる「最奥の奥義」(ウパニシャッド)を理解するとなると、かなりハードルが高くなると思いますが、なるべく平易な解説に努めたいと思います。

 

「わたしは今ここで 五官で認知できる現象と

認識不可能な神霊的領域についての

完全な知識を 君に与えよう

これ以上に知るべきものは何一つない

 

全き智識を求めて努力する者は

おそらく幾千人の中の ただ一人

その優れた求道者たち数千人のなかで

わたしの実相を知るものは ただ一人

(第七章2-3 田中嫺玉訳

 

 

ご参考までに、記事の中で引用しましたバガヴァッド・ギーターの同箇所を、田中嫺玉さんが流麗な日本語に訳されている翻訳文がありますので、ご紹介いたします。

 

「アルジュナよ わたしは真我(たましい)として

一切生類の胸に住んでいる――また

わたしは万物万象の初めであり

中間であり そして終わりである」

(第十章20)

 

「物質世界(このよ)の生物に内在する不滅の霊魂は

わたし自身の極小部分である――かれは

心をふくむ六つの感覚を用いて

苦労しながら肉体を操っているのだ」

 

「霊魂は風が芳香を運ぶように

自らの意想感情を次の体に運ぶ

このようにしてかれは或る種の体をとって生き

またそれを捨てて他の体をまとう」

(第十五7-8)

 

「物質自然(プラクルティ)の三性質(トリグナ)による活動を

我執の雲におおわれた魂は

自分自身が活動しているものと錯覚し

「私が為している」と思いこむ」

(第三章27)

 

「不滅の霊魂はこのようにして

耳 眼 舌 鼻 感覚と

また心意(こころ)をもった物質体(にくたい)をとって誕生し

それらに相応した対象を味わい経験する」

 

「霊魂(かれ)は物質自然(プラクルティ)の三性質(トリグナ)の支配下で

自己の心性に相応した体で様々な経験をし

時期が来ればその体を離れていく

迷える者にはこの事実が見えないが智慧の眼をもつ者には見える」

(第十五章9-10)

 

 

 

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真我(アートマン)を理解するためのヒント(Atman Jnana)④「わたし」と「アートマン」の関係

前回の記事では、「不滅の魂」と「必滅の肉体」との関係を解説しましたが、その上で、一つの問、疑問を提示いたしました。

その問とは、「不滅の魂」と「必滅の肉体」、そして、この記事を書いている、もしくは、読んでいる「わたし」(一人の人間、一個人)との関係とは、一体、どのようなものであるのか?ということです。

 

〇〇××という個人の「わたし」は、「不滅の魂」なのでしょうか?それとも、「必滅の肉体」なのでしょうか?

それとも、「不滅の魂」であり、「必滅の肉体」でもあるのでしょうか?

それとも、「不滅の魂」でもなければ、「必滅の肉体」でもないのでしょうか?

 

実は、この他にもう一つ考え得る想定があります。

それは、生きている間は、「肉体」ですが、「肉体」の消滅後は、「魂」が残り、その「魂」が「わたし」、すなわち、「自分」であるという想定です。

確かに、この想定の場合、「わたし」という個人には、「肉体」の消滅による「存在」の消滅は起こりません。

しかしながら、この場合、「魂」の再誕、つまり、「肉体」の消滅→「魂」の再誕→「肉体」の消滅→「魂」の再誕→「肉体」の消滅」→。。。。。。と永遠に繰り返し、時間軸に沿って続いていく「輪廻転生」からは逃れられないことになります。(つまりは、人間は、「輪廻転生」を繰り返す己自身の宿命からは逃れることはできず、永遠に「輪廻転生」を繰り返す、ということになります。)

 

かくして、これまで何世紀にも渡り、人間として生まれてきた人々の中には、「輪廻転生」からの「解脱」を望む人々が、一定数現れ、それらの人々により、「輪廻転生」からの「解脱」を達成するための行法、方法、理論などが、多くの努力と試行錯誤の試みを経て、編み出され、体系化され、後世に伝えられ、それが世界的に広まり、現在に至っています。

 

これから書き記すことは、特に目新しいことではありませんが、「解脱」を望む人々においては、必ずや乗り越えなくてはならない大きなハードルと言え、頭の中を整理する際に、非常に役立ちますので、一読するだけでなく、この智識(Atman Jnana)の意味するところを、真に理解しようと努めることが、ヨーガの最終的な目標である「輪廻転生」からの「解脱」への強力な手がかりとなる、と言えます。

 

さて、そこで今回の記事は、正しい智識(Atman Jnana)を以って、今生、人間として生れて来た以上、逃れることのできない宿命とも言える「生誕」と「死」という人類共通の最大の謎を解明するために、「不滅の魂」「必滅の肉体」「わたし」(〇〇××という個人)この三者の関係について、わかりやすく解説したいと思います。

 

今回は、これまで参考にしてきました「バガヴァッド・ギーター」ではなく、「カタ・ウパニシャッド」からの一文を参考に、解説したいと思います。

(カタ・ウパニシャッドは、少年ナチケータスの父が全財産を布施として喜捨した際に、役に立たなくなった牝牛の代わりに、自分自身を布施として喜捨するように、父に頼み、彼の希望通り、供物として神に捧げられたナチケータスは死の国に赴きます。

ナチケータスの望みは、死の国で死神ヤマに出会い、死神ヤマから人間の死の秘密を聞き出すことでした。

全編が、死神ヤマと探求者ナチケータスとの間で交わされる会話からなり、死神ヤマだけが知っている死の秘密が、ナチケータスに語られる形となっています)

 

以下は、死神ヤマが、死の秘密について、ナチケータスに語った言葉です。

 

「アートマンは車に乗る者であり、肉身は実に車であると知れ。

理性は御者であり、そして意思はまさに手綱であると知れ。

諸々の感官を人々は馬と呼び、感官の対象を馬に関して馬場と呼ぶ。

アートマンと感官と意思との結合を享受者と、賢者は呼ぶ。」

(カタ・ウパニシャッド第三章2-4)

 

「諸々の感官の上に感官の対象があり、これらの対象の上に意思は存在する。

意思の上に理性があり、理性の上に偉大なるアートマンがある。」

(カタ・ウパニシャッド第三章10)

 

「かのアートマンはこの世に存在する一切のものの中に隠れひそみ、姿を現わすことはない。

しかし、明敏な観察者たちによって、鋭く明敏な理性により、観察される。」

(カタ・ウパニシャッド第三章11)

 

ここで説かれているのは、ヨーガの世界では、所謂、「人間馬車説」と呼ばれているものですが、この「人間馬車説」と呼ばれているものについては、過去の記事の中で、詳細に説明していますので、こちらをご覧下さい。

https://santanadharma.hatenablog.com/entry/2017/03/16/003945

(2017年3月16日「人間の構造について(人間馬車説)」

 

このような「人間馬車説」が描く人間における構造から推察できることは、少なくとも「わたし」は、馬車全体(〇〇××という人間)の持ち主(主体)ではない、ということです。

言い換えると、「わたし」は、真の馬車そのものの持ち主からの命令によって、馬を操るために手綱を任されている雇われた“御者”に過ぎない、ということになります。

この馬車全体の持ち主は、客車の中に居る“主人”、すなわち、「アートマン」言い換えると、「魂」である、ということになります。

カタ・ウパニシャッドにおいて述べられている「アートマン」は、比喩的に、馬車に見立てられた「人間」の背後、つまり、一人一人の背後に居て、馬車を走らせている“御者”である「人間」を、背後から操っている馬車の本当の持ち主(主体)であり、その力により、“御者“を通して、手綱(意思)、馬(感官)を自由自在に動かし、馬場である「この世」を体験している真の主体は、実は、「アートマン」(魂)である、ということを、わかりやすく説いています。

 

私たち人間の肉体という物質を動かす生命力は、不滅の魂である「アートマン」を源としており、それ故、「アートマン」(魂)無くしては、“御者”である「わたし」は、“御者”としての役目は果たせず、よって、手綱(意思)、馬(感官)は動かせず、それ故、馬車(一人の人間)は動きませんので、馬車は馬場(この世)を走り回ることはできません。

 

この構図を、真に理解している人は、稀ですが、理解するだけならば、そんなに難しくはないでしょう。

このことを理解する上で、大きなハードルがある、と書いたのは、殆どの人は、「わたし」すなわち、自分自身に自分の人生を操る主導権があると勘違いしているからです。

真の主体(馬車全体を動かす力のある者)は、「アートマン」(魂)であり、”御者“である理性(ブッディ)は、自分が主人(主体)だと勘違いしているだけの存在であり、背後の「アートマン」(魂)という存在に気づいてもいません。

このことを心の底から理解することは、非常にハードルが高いと書いたのは、それが理由ですが、理解することは、不可能ではありません。

 

“御者”である「わたし」は、「アートマン」からのエネルギーを受けて、生命体として、この世で活動していますが、背後に居る真の主体である「アートマン」(魂)無くしては、「わたし」は存在することはできないのです。

 

「創造者は孔を外側にあけた。

従って、人は外を見るが、内部にあるアートマンに眼を向けることはない。

ある賢者は、不死をもとめて、反対側を向いた眼で、アートマンを振りかえって観察する。

愚かな者たちは諸々の外的な快楽のあとを追う。

かれらは死の神が拡げた鎖にひっかかる。

かくて、賢者は不死を知り、この世においては非実在のものの中に現実のものをもとめない。」

(カタ・ウパニシャッド第四章1-2)

 

「この肉身をもつ者の中に住して肉体を有する者が分散するとき、すなわち肉体から離されるとき、そこに何が残るであろうか。

それこそ実にそれである。」

(カタ・ウパニシャッド第四章1)

 

今回の記事は、かなり衝撃的な内容であったかもしれませんが、これが、「輪廻転生」から「解脱」する最重要ポイントですので、敢えて、書くことにしました。

このアートマンの智識(Atman Jnana)への理解無くしては、これまで途切れることなく繰り返されてきた人間の宿命は、これからも繰り返されることでしょう。

 

ヨーガの真の目的は、非日常的な神秘体験をしたり、シッディ(超能力)を得たり、超人になることではありません。(それらを体験しても、「輪廻転生」からの「解脱」は達成されないでしょう)

ヨーガは、人間としての宿命である「輪廻転生」からの「解脱」を達成するために、生み出された優れた技法であり、特別な目的のために、智慧を絞って編み出された手法であると言えますので、目的達成のために活用するのは、もちろんですが、目的を誤っては、有限な時間を無駄にしてしまうことでしょう。

 

「吸う息によっても、吐く息によっても、人間は決して生きているのではない。

この二者が拠りどころとする、かの別のものによって、人間は生きるのだ。

さて、この神秘で永遠のブラフマンを余は汝に語ろう。

死に達したとき、アートマンがどのようになるかを教えよう。

ガウタマ仙の息子よ。

あるものは、かれらの業により、胎内に入って、肉身をもつものとなり、再びこの世に生まれる。

あるものは、かれらの智識により、不変の創造と合一する。」

(カタ・ウパニシャッド第五章5-7)

 

「一切のこの世に存在する者に内在するアートマンは、一つの姿を種々に顕現する唯一の支配者である。

賢者たちはそれが自身の中にあると観じて、かれらみずからの永遠の安寧を享受するが、他の者たちにとってはそうではない。」

(カタ・ウパニシャッド第五章12)

 

今回の記事で、ある程度、「わたし」という存在の真の姿が明らかになりましたが、このカタ・ウパニシャッドで語られた内容と同じような内容が、バガヴァッド・ギーターにも書かれています。

 

次回は、バガヴァッド・ギータ―を参考に、更に、「不滅の魂(アートマン)」と「必滅の肉体(物質)」、「わたし」そして、神(ブラフマン)との関係について、解説したいと思います。

 

 

「拇指の大きさのプルシャ、すなわち内在するアートマンは、常に人間の心の中に入りこんでいる。

ムンジャ草から茎を引き出すように、人は確固たる心で自分の肉体よりそれを引き出すべきである。

人はそれが輝いており不死であることを知るべきである。

それが輝いていることを知るべきである」

(カタ・ウパニシャッド第六章17)

 

 

 

 

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真我(アートマン)を理解するためのヒント(Atman Jnana)③不滅の魂と必滅の肉体の関係

前回の記事では、バガヴァッド・ギーターに書かれているクリシュナ神(バガヴァン・クリシュナ)と人間アルジュナとの対話を通して明らかにされた真理(ダルマ)について、解説いたしました。

 

今にも命運を分ける戦いが始まろうとしている瞬間、敵の大群を前にして、戦士として戦うことを放棄したアルジュナに向かって、クリシュナ神は、「魂は不滅であり、滅びるのは肉体だけである」と語り、アルジュナにクシャトリア(戦士)としての義務を果たすように語り、「恐れることなく戦え」と鼓舞したクリシュナ神ですが、ここで、このクリシュナ神の言葉の中に、根本的な疑問が浮かぶ方もいらっしゃることでしょう。

それは、何を以って「魂は不滅である」とクリシュナ神は断言したのか?ということです。

私たち人間は、「肉体は必滅、必ず滅びる」ということは、経験上、事実として知っていますが、「魂」については、殆ど(体験を通しては)知りませんので、「魂」がどういうものか?について理解をしている人は少なく、また、「魂が不滅である」と確信している人も、それ程多くはいないことでしょう。

この疑問への答えは、この後の章で、(クリシュナ神によって)明確に説かれることになるのですが、その答えは、一般的な常識では、簡単には理解し難いこの宇宙の最奥の秘密とも言える奥義ですので、誤解が生じないように、順を追って、解説していきたいと考えています。

 

そしてまた、もし「魂」の存在を否定するならば、私たちは、「肉体」の消滅と共に、一個人として、一存在として、完全に消滅してしまうことになりますが、神は、人間をそのような一過性の存在として創造したのでしょうか?

この人間の創造に関しては、クリシュナ神は、私たち人間を「魂」と「肉体」という二つのパート(部分)に分けて説いていますので、ここでは、私たち「人間」という存在を客観的に理解するために、しばらくの間、便宜上、二つのパート「肉体」と「魂」を分けて考え、人間存在に対する根本的理解を深めていきたいと思います。

 

「肉体は滅びるが、魂は不滅である」として、「肉体の消滅を嘆き悲しむ必要はない」ということを語っているクリシュナ神ですが、更に両者について、次のように語っています。

 

「人が、使い古した衣服を脱ぎ捨てた後に

新しい衣服を着るように

肉体を纏った魂は、使い古した肉体を脱ぎ捨てた後に

次の新しい肉体の中に入る

 

武器も魂を傷つけることはできず

火で焼くこともできず

水も濡らすことはできず 

風も干乾びさせることができない

 

この魂は傷つけられることなく

火にも焼かれず 水に溶けることなく

また空気によって乾くこともない

この魂は永遠で、遍在し、不動で、常在で、原始のものである」

(バガヴァッド・ギータ―第二章22-24)

 

クリシュナ神は、私たち人間を、滅びることが必然である「肉体」と永遠不滅である「魂」という二つのパートに分け、その上で、アルジュナ(人間)に、「魂は、人間の肉体の中に住んでおり、人間に死が訪れると、その肉体を捨てて、新しい肉体の中に移り住む」ということを語っています。

更に、クリシュナ神は、続けます。

 

「アルジュナよ

この魂は絶えず誕生と死を繰り返すと

もし、あなたが考えたとしても

あなたはこのことを嘆き悲しむべきではない

 

何故なら、誕生した者にとっては、死は確実に訪れ、

再誕は、死者にとっては必然であるから

それ故、あなたは不可避のことを嘆き悲しむべきではない」

(バガヴァッド・ギータ―第二章26-27)

 

「バラタの子孫よ 

すべての肉体の中に住む肉体を纏った魂は、

けっして殺されることはない

それ故 あなたは誰のためにも嘆き悲しむべきではない」

(バガヴァッド・ギータ―第二章30)

 

これらのクリシュナ神が語る言葉を理解する際に、人間一個人として、少し複雑な想いが芽生えるかもしれません。

それは、まるで、あたかもクリシュナ神が、人間の肉体という覆いを纏った「魂」が、何度も生まれ変わる、所謂「輪廻転生」について、語っているかのように受け取ることもできるからです。

確かに、文字だけを追っていくと、そのような意味になりますが、しかしながら、クリシュナ神は、この後、更に深いこの宇宙の秘密、神秘であるダルマ(法、理)について語り、その中で、新たな真理(ダルマ)が明らかになります。

その時、初めて、クリシュナ神は、人間アルジュナに、人が何度も生まれ変わりをするという「輪廻転生」は、私たち人間にとって、長い間の誤った解釈によってもたらされた誤謬であることを示唆するのです。

 

先ほど、私たち人間を「魂」と「肉体」という二つのパートに分けて考えてみることを提案しました。

第二章では、クリシュナ神は、「肉体は必滅であり、魂は不滅である」という両者の本質的な性質を述べ、両者は相反する存在であることを明らかにしています。

つまり、一個人の「わたし」は、このような相反する両極のパートによって成り立っているということになり、その点については、異論はないにせよ、この「肉体」と「魂」について語ってはいますが、その一方で、「わたし」については、殆ど言及されていない、ということに注目してみて下さい。

 

通常、私たち人間が、「わたし」という言葉を聞いて、頭に思い浮かぶのは、多くの人は、いつも使い慣れていて、よく知っている自分の「肉体」を思い浮かべるのではないでしょうか。

確かに、その「肉体」を通して、私たちは、生まれてからこれまで、数々のことを経験してきましたし、今も経験していますし、また、自分の想いや願望を実現するために使ってきましたし、これからも使っていくことでしょう。

そう考えると、「肉体」は、この世を体験するためのある種の道具である、ということも言えるかと思います。

 

クリシュナ神は、そのこの世を体験するための道具である「肉体」の中には、〇〇××という一個人ではなく、「魂」が住んでいる、と言うのです。

ここで注意したいのは、クリシュナ神が語ったのは、「人間」という一存在における二つの構成要素「肉体」と「魂」に関してであって、「わたし」という一存在についてではない、という点です。

ここは、きちんと理解しないと、齟齬が生じ、この先、更に一歩進んだ理解が必要となる際に、完全にわからなくなってしまいますので、今一度、整理してみましょう。

 

道具としての「肉体」とその「肉体」の中に住むとされる「魂」、そして、この両者と切っても切れない関係がある(筈である)一個人の「わたし」との関係は、明らかになっているようで、実は、完全には明らかにされてはいないのです。

 

最終的には、この「肉体」「魂」「わたし」という三者の関係が、クリシュナ神が語る「魂」の「輪廻転生」を理解する上で、非常に重要であり、“「わたし」とは、一体全体、何者なのか?何なのか?”ということへの理解が、この宇宙のダルマ(sanatanadharma)に対する完全智(プラジャナー)を得るためには、必要不可欠であると言えます。

 

そこで、次回は、「わたし」「肉体」「魂」この三者について、きちんと整理し、理解を深めていきたいと思います。

 

結論から言えば、輪廻転生するのは「魂」であって、〇〇××とという一個人である「わたし」ではない、ということなのですが、「魂」≠「わたし」(「魂」は「わたし」ではない)ということを一般人が理解することは、かなりハードルが高いと言えますので、バガヴァッド・ギーターだけでなく、他のウパニシャッド文献も参照して、理解を深めていきたいと思います。

 

この「わたし」は、一体全体、誰なのでしょうか?何なのでしょうか?

消滅する「肉体」なのでしょうか?

それとも、永遠不滅の「魂」なのでしょうか?

それとも、「肉体」であり、「魂」でもあるのでしょうか?

それとも、「肉体」でも、「魂」でもないでしょうか?

 

「わたし」が「肉体」であるならば、肉体の消滅とともに、「わたし」は消滅し、「わたし」は「輪廻転生」はしないことになりますが、「わたし」が「魂」であるなら、「魂」は永遠不滅の存在ですので、クリシュナ神の言葉通り、「わたし」は、肉体が滅びた後も、新しい肉体に宿り、再び、「わたし」としてこの世に誕生する、という「わたし」が「輪廻転生」するということが、繰り返されることになります。

 

これは、アルジュナだけでなく、私たち人間という存在の根本原因に関わることであり、この点からも、このクリシュナ神と人間アルジュナとの対話は、自分という存在と無関係とは言えない「わたし」という一個人の存在に関する真理に触れていますので、更に読み解いて、神が説く真理(sanatanadharma)の真意を明らかにしていきたいと思います。

 

ご参考までに、流麗な日本語に訳されている田中嫺玉さんのバガヴァッド・ギーターの引用した同箇所の翻訳文をご紹介いたします。

 

「人が古くなった衣服を捨てて

新しい別の衣服に着替えるように

魂は使い古した肉体を脱ぎ捨て

次々に新しい肉体を着るのだ

 

どのような武器を用いても

魂を切ったり破壊したりすることはできない

火にも焼けず 水にもぬれず

風にも干涸びることはない

 

個々の魂は壊れず 溶けず

燃えることなく 乾くことなく

何処でも いつでも

不変 不動 常住の実在である

(バガヴァッド・ギータ―第二章22-24)

 

また若しこれが誕生と死を 

絶え間なく くりかえすものと

君がたとえ考えていたとしても

悲しむ理由は何もない おお豪勇の士よ

 

生まれたものは必ず死に

死んだものは必ず生まれる

必然 不可避のことを嘆かずに

自分の義務を遂行しなさい

(バガヴァッド・ギータ―第二章26-27)

 

おおバラタの子孫よ

肉体のなかに住むそれ

永遠不滅にして殺すことなど不可能だ

故に全ての生物について悲しむな

(バガヴァッド・ギータ―第二章30)

(神の詩 バガヴァッド・ギータ― 田中 嫺玉 訳)

 

 

 

この世で真理体得するには 二種の道がある

哲学的思索を好む者には 智識の道(ジニャーナ・ヨーガ)

活動を好む者には 奉仕の道(カルマ・ヨーガ)

(バガヴァッド・ギータ―第三章3)

(神の詩 バガヴァッド・ギータ― 田中 嫺玉 訳)

 

 

 

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真我(アートマン)を理解するためのヒント(Atman Jnana)②不滅の魂

前回の記事の中で、真我(アートマン)を理解する際のヒントとなるものとして、「魂」という単語を用いましたが、今回の記事は、この「魂」について、ウパニシャッド聖典やヴェーダ聖典などインドで発展したインド哲学を基本とした世界観、宇宙観においては、どのように定義されているのか、見ていきたいと思います。

 

早速ですが、「魂」と聞いて、パッと頭にどのようなイメージが浮かびますか?

 

宗教的な観点から、「魂」については、古今東西、いろいろな解説が試みられてきており、例えば、キリスト教や仏教の教えが広まっている地域では、所謂、死後、肉体の消滅後の「魂」の在り方や、「魂」の逝く先など、多くの点で異なって語られたり、信じられたりしているようですが(そもそも仏教の経典には、「魂」に関する具体的な記述はありませんが、所謂、”輪廻転生”という死生観の中では、「魂」が重要な役割を果たしていると考えられます)そうした中でも、辛うじて、いろいろな宗教的な世界観を元に、多くの人々が抱いているイメージに共通すると思われる点は、「魂」は、どうやら、肉体の消滅後も、何らかの形、方法で、“存在している”と、考えられていることです。

 

それでは、ウパニシャッド聖典を中心としたインド哲学やヒンドゥー教では、どのように「魂」は捉えられているでしょうか。

 

ヴェーダなどのウパニシャッド聖典ではありませんが、ウパニシャッド聖典の神髄を端的にわかりやすく説いているとされ、ヒンドゥー教の教えに多大な影響を与えてきたインドで生まれた叙事詩「マハーバーラタ」に収められている「バガヴァッド・ギータ―」(サンスクリット語で、バガヴァンは至上者、神という意味であり、ギータ―は詩という意味)の中では、「魂」はこのように説かれています。

(生死を分ける戦を目前にして、戦者アルジュナは、義兄として師として敬愛するクリシュナ(バガヴァン・クリシュナ)と共に敵に立ち向かおうと戦いに臨んでいましたが、突然、戦う無意味さを嘆き、武器を投げ捨て、戦いを放棄してしまい、その場に座り込んでしまいます。敵を殺すべきか、それとも、自分が善と見做す道義のために、自分が殺されることを厭わぬべきか、戦争という人生最大の試練の中で、アルジュナは、義兄として、師として慕っていたクリシュナに、自分はどうすべきか?問いかける場面で、クリシュナは、クリシュナ神(バガヴァン・クリシュナ)として、苦悩するアルジュナに以下のように答えます。)

 

それでは、早速、生と死の狭間で、展開される二者(神と人間)のやり取りの中から、核心部分を読み解いていきましょう。

 

その時、クリシュナは、バガヴァン(神)として、”永遠の真理”(sanatanadharma)を語り始めます。

 

『非実在(アサット)においては、真に存在するものはなく、実在(サット)においては、真に存在していないものは無い。

それ故、双方の真実性は、永遠の真理を見る者達により感得されている。

 

この宇宙に浸透する“それ”だけが不滅であることを知りなさい。

何故なら、この破壊することができないものを破壊できる力を持つ者はいないからである。

 

不滅であり表現しがたく永遠である魂に付随するこれらの肉体は全て滅びるものとして語られる。

それ故、アルジュナよ、戦え。

 

魂を殺すことができると考えたり、殺され得ると見做す者は、無知である。

何故ならば、魂は殺すことも、殺されることもないからである。

 

魂はけっして生まれることなく、死ぬこともない。

これまで生まれてきたこともなく、存在しなくなることもない。

何故ならば、それは生まれるものではなく、永遠であり、不朽であり、原初のものであるからである。

身体が殺されても、魂は殺されない。』

(バガヴァッド・ギータ―第二章16―20)

 

 

これが、人間(アルジュナ)に語られた神(バガヴァン・クリシュナ)の言葉です。

 

つまり、はっきりと、クリシュナ神は、「破壊されたり、殺されたり、消滅するのは、肉体だけであり、魂は永遠の存在である」と語っています。

 

肉体が、物質元素から成り立っているのは、現在の科学的な見地からも実証されていることは、言うまでもありませんが、その物質元素の塊である肉体が動くには、神経を通して、脳から出された動作指令が身体に届き、その通りに身体が動くことで、生命活動が生み出されます。

また、私たち人間は、知覚感覚器官で捉えた外界の情報を即座に電気信号に変換し、神経を経由して、脳にその情報が伝達され、脳が瞬時にその受け取った情報を解析して、外界を認識する、という作業が行われることで、生物としての営み、生命活動が維持されています。

 

しかし、それらの生命活動は、肉体(脳を含む)がすべての機能を停止した瞬間に、失われてしまい、私たちは、そのような現象を「死」と呼んでいますが、クリシュナ神は、「滅びるのは肉体だけで、魂は不滅である」と説きます。

 

クリシュナ神は、この部分で、サーンキャ哲学(学派)※で説かれる「魂」について語っているのですが、サーンキャ哲学(学派)では、この「肉体」は、物質原理(プラクルティ)から成り、「魂」は「肉体」とは別の存在であり、精神原理(プルシャ)から成る、と説いており、アドヴァイタ(一元論)ではなく、二元論ではありますが、その後、このサーンキャ哲学(学派)の考え方は、ヨーガ学派に取り入れられ、今でも、ヨーガの(学問的な面での)基本的な考え方の中に取り入れられています。

(※サーンキャ哲学(学派)について詳細に記述されている文献は現存しませんが、その諸概念は、紀元前数世紀頃の文献とされているバガヴァッド・ギータ―の中に少し記されています)

 

このように、クリシュナ神は、バガヴァッド・ギータ―の中で、最初にサーンキャ哲学を説きましたが、一般的には理解し難い”真我(アートマン)“の概念や”アドヴァイタ(一元論)“の理論と比較した場合、ドヴァイタ(二元論)は、比較的脳内に明確なイメージを想起させやすいため、究極の真理である”アドヴァイタ(梵我一如、一元論)“についての理解を深めるためには、前段階における必要な智識として、頭に留めておくことが重要です。

 

この場面でのクリシュナ神の言葉は、「魂」についての本質的な本性を言い表しているのですが、次回は、更に詳しく、今回ご紹介したバガヴァッド・ギータ―の文章を詳細に見ていきたいと思います。

 

『非実在(アサット)においては、真に存在するものはなく、実在(サット)においては、真に存在しないものは無い。』

 

ここは、文字だけを追っていくと、「非実在は、存在しておらず、実在は、いつでも存在している」というようなことを言っているかのような感じを受けるかもしれませんが、「在るものは在って、無いものは無い」というような、一見当たり前のことが書かれていよるようでいて、実は、そうではありません。

それは、具体的に、「何」が実在(サット)で、「何」が非実在(アサット)であるのかが、明らかに語られていないため、非常にわかりにくく、一般常識で考えると、誤解が起こりやすいとも言え、アドヴァイタ(一元論)を正確に理解することが難しいとされる一因と言えます。

 

この「何」が実在(サット)で、「何」が非実在(アサット)であるのか?は、バガヴァッド・ギータ―の全文の中で、”究極の真理”(sanatanadharma)であるアドヴァイタ(一元論)を理解する上での重要な鍵となる一文です。

何が実在で、何が非実在であるか?の詳しい説明は、アルジュナ(人間)とクリシュナ(神)との対話の中で、次第に明らかになっていきますので、順次、ご紹介していきたいと思います。

 

また『この宇宙に浸透する“それ”だけが不滅であることを知りなさい。』の“それ”とは、一体、何でしょうか?

 

第二章の段階では、アルジュナ(人間)とクリシュナ(神)との間で交わされた会話には、明確に説明されていない「謎」が多いですが、最終章までには、クリシュナ(神)は、アルジュナ(人間)に全てを明らかにしますので、詳細は、今後の記事の中で明らかにしていきたいと思います。

 

ご参考まで、今回ご紹介したバガヴァッド・ギータ―の翻訳文は、直訳文ですので、分かりにくい部分がありましたら、お詫び申し上げます。

 

以下、ご参考までに、流麗な日本語に訳されている「バガヴァッド・ギータ―」同箇所の訳文をご紹介させていただきます。

 

 

『物質と霊の本性を学んで

真理を徹見した人びとは

非実在は一時的に現象(あらわれ)ても持続せず

実在は永遠に存在することを知る

 

一切万有にあまねく充満しているものは

決して傷つかず 破壊されもしない

たとえ如何なる人でも 方法でも

不滅の魂を破壊することはできない

 

全ての生物(いきもの)は永遠不滅であり

その実相は人智によっては測り難い

破壊され得るのは物質体(にくたい)だけである

故にアルジュナよ 勇ましく戦え!

 

生物が他を殺す また殺されると思うのは

彼らが生者の実相を知らないからだ

知識ある者は自己の本体が

殺しも殺されもしないことを知っている

 

魂にとっては誕生もなく死もなく

元初より存在して永遠に在りつづけ

肉体は殺され朽ち滅びるとも

かれは常住にして不壊不滅である』

(神の詩 バガヴァッド・ギータ― 田中 嫺玉 訳)

 

 

アートマンは、肉身の中にあって肉身がなく、不安定なものの中にあって安定しており、偉大で、あまねく浸透していると考えて、賢者は悲しまない。

このアートマンは解説によっても理解されることなく、天分によっても、はたまた多方向にわたる学殖(学問的知識)によっても、得られない。それは、その選ぶ人のみに得られ、その人だけにかのアートマンは自己の姿を現わす。

(カタ・ウパニシャッド第2章22-23)

 

 

 

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真我(アートマン)を理解するためのヒント(Atman Jnana) ①

しばらくブログの更新をお休みしておりましたが、もう少し補足のための追加記事を書き記しておこうという気持ちが湧き、再開することにいたしました。

 

その補足のための追加記事というのは、真我(アートマン)、つまり、私たち人間の実相(サンスクリット語でサット、sat)についてです。

 

真我(アートマン)という独特な響きを持つ単語はサンスクリット語で、世界最古の哲学とも言われている古代インド哲学であるウパニシャッド(聖典)の中において初めて言及された言葉であるため、私たち日本人には、あまり馴染みのない言葉ですが、ヨーガを実践している方々、インド哲学(特にウパニシャッド)に関心のある方々においては、若干の知識をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。

 

このブログでは、真我(アートマン)について、もっと深く知りたい、理解したいというお気持ちのある方々に、真我(アートマン)という言葉(概念)を排出した古代インド哲学において定義されている真我(アートマン)について、平易な解説を試みていきたいと考えています。

 

これは、古代インドから現代に至るまで、“アートマンの知識(Atman Jnana)”と呼ばれているウパニシャッド(哲学)の中心的なテーマですが、ヨーガ実践者やヒンドゥー教徒が、ヒンドゥー教の聖典、経典を正しく理解する上で欠かせない主要なテーマである反面、日本においては、殆ど浸透していないことは、非常に残念だと感じています。

 

ヨーガのいろいろな座法(瞑想を含む)を実践している方々が(それぞれの実践者の実践の目的はそれぞれではあるとは思いますが)、元来ヨーガの究極の目標であり目的であるサマディ(三昧)が示唆するところの究極の真理(sanatanadharma)が、この真我(アートマン)の感得(体験)によって明らかになるため、ヨーガは古来から、細々とではありますが、口伝により、聖典、経典により、人から人へと継承されてきました。

 

各自のヨーガの実践とは別に、”真我(アートマン)の知識(Atman Jnana)”を理解することは、ヨーガ実践者のみならず、精神世界に興味のある方々にとっても、新たな視点、可能性を開き、それにより、究極のゴール、すなわち究極の真理(sanatanadharma)への道が短縮されるものと感じています。

 

真我(アートマン)という言葉を初めて聞いた人、初めて知った人であっても、少しでも理解が広がるように、 “真我(アートマン)って何?”“それは、私にも関係あるものなの?”というような疑問にもお答えできるように、難しい表現ではなく、平易な言葉による解説に努めたいと思います。

 

それは、一人でも多くの人に、真我(アートマン)について知って頂き、正しい知識(Atman Jnana)を得ていただきたいからです。

 

というのは、真我(アートマン)は一般的な常識や感覚によっては捉えることはできないため、一般的には、真我(アートマン)について具体的な記述をすることは、かなり困難であり、それ故、巷に流布している情報がかなり少ないこともあって、真我(アートマン)への理解が広まっているとは言えない状況の中で、誤った解釈やイメージが固定観念化され、それが私たち自身に対する評価を左右してしまっているからです。

 

ウパニシャッド聖典の中で説かれている真我(アートマン)についての記述は、難解な言葉遣いや文章であることは否めず、表面的に読むことはできても、具体的に何が書いてあるのか?を把握することは、ある程度の補助的な解説や説明があっても、そう簡単ではないでしょう。

 

このように、真我(アートマン)を理解する上で障害となっている理由は、いろいろと考えられますが、私たち人間に備わっている通常の聴覚、視覚、触覚などの感覚知覚器官では、真我(アートマン)の実体(実相)を認識できないため、よって、脳内に具体的な像(イメージ)を想起することができないというのも一つの理由でしょう。

 

つまり、「レモン」という言葉を聞いて、脳内に具体的に「レモン」を思い浮かべる電気信号の脳内回路が無いと、自動的に「レモン」を具体的に思い浮かべることができないのと同じように、「真我(アートマン)」と聞いても、「真我(アートマン)」を具体的に想起させるために働く脳内回路が無いため、「真我(アートマン」)を自動的に思い浮かべることができず、「???」となってしまうということになります。

 

そのため、真我(アートマン)についての深い理解が起こらず、探求者にとっては、真我探求は、何をどう探求したら良いのか?まるで雲を掴むような話になってしまうのです。

 

そこで、真我(アートマン)について、より深く理解する際のヒントとなるような事柄を書き記しておきたいと思います。

 

真我(アートマン)の直接体験が起こることはかなり稀なため、真我(アートマン)についての具体的なイメージが一般的に広まっていないこともあり、真我(アートマン)は、実際には、今の自分と、今の自分の人生とはあまり関係がないように感じていらっしゃる方も多いと思われますが、ここで一つ提案したいのは、私たちが日常でよく使い、知っている日本語である「魂」がこの真我(アートマン)であり、真我(アートマン)について知ることは、自分の「魂」について知ることであるということであれば、真我(アートマン)と聞いてイメージが湧かない場合であっても、「魂」と聞くと、ある種、ある程度のイメージが湧く方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 

但し、日常的に使われることが多い「魂」、或いは、一般的に「魂」と聞いて、脳に想起される「魂」(のイメージ)と、ヨーガやウパニシャッド関連の聖典、経典の中で言及されている真我(アートマン)と同一である「魂」(の実相)とは、必ずしも一致しませんので、そのことは、今後の記事の中で明らかにしていきたいと考えています。

 

“真我(アートマン)の知識(Atman Jnana)”を得て、この一般的にイメージされる「魂」と真我(アートマン)である「魂」との違いを知ることは、同じ世界を眺めるにしても、より深く世界を、物質や生命を、そして宇宙、何よりも「自分」という存在を、これまでとは違った視点から眺めることができるようになるため、真の意味で、そして、霊的な観点からも、とても重要です。

 

あなたの肉体の最奥に“今”もひっそりと内在する真我(アートマン)について知ることは、わたしたちの本当の「魂」(存在の実相、sat)を知ることであり、「本当のわたし」を知ることであり、それはまた、「神」(ブラフマン)を識ることでもあります。

 

それは、言い換えれば、紀元前の時代から今に至るまでに、既に明らかにされているにも拘わらず、実際には殆ど語られることのない、この宇宙における最奥の奥義(永遠の理、sanatanadharma)を知ることでもあるのです。

 

次回からは、この「魂」=真我(アートマン)=存在の実相(sat)について、なるべく簡単な言葉で分かりやすく解説していきたいと思います。

 

 

『身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識をもち、その知識が身体はアートマンであるという(一般の人々がもっている)観念とおなじほどに(強固な)人は、望まなくても解脱する。』

(シャンカラ著 ウパデーシャ・サーハスリー(千の詩編からなる教説)より抜粋)

※8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二一元論(アドヴァイタ)を提唱した。

“ウパデーシャ・サーハスリー(千の詩編からなる教説)”は、シャンカラが遺した数少ない著書の中の一つ

 

 

真理世 Sanatanadharma

 

 

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