永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(52) カルマ④

今回で四回目となります「カルマ」について、ヨーガの視点から、正しい理解を深めるために、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、スワミ・ラーマによる「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より前回の続き、そして最後に、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「カルマ」についての御言葉をご紹介したいと思います。

 

カルマの法則とは、因果の法則のことです。

森羅万象は、原因と結果の世界です。

それは、この世の性質なのです。

 

この世にある限りは、どんなモノでも、因果の法則の影響下にあり、その「因果の法則」の影響を受けている(と感じている)”「私」とは、何なのか?”という問いへの答えが、「カルマ」を超えて行く際の重要な「ヒント」となるため、ヨーガにおいては、この答えが明らかにならない限り、その答えを得るまで、「原因と結果の法則」の働きにより、「カルマ」によって束縛された「わたし」は、世界に現れ続け、それが「輪廻転生」と呼ばれる生と死の繰り返しの原因である、と説かれています。

 

自己探求とは、最終的には、「私は誰か?」の答えを掴むためのものであり、この問いへの答えは、「カルマ」を超えて行くためには、必要不可欠と言えます。

 

この答えだけが、個人に真の解放をもたらすため、「私は誰か?」への明確な答えが明らかになると、「カルマ」による束縛も、マーヤー(幻妄力)による幻想も、やがては、消滅することでしょう。

 

究極的には、実在するのは、真我(アートマン)だけであり、「カルマ」によって束縛され、運命に翻弄される「個人のわたし」は、いないのです。

 

そのことを体験を通して識ることが、「真我実現」と呼ばれているもので、「私は誰か?」の答えなのです。

 

 

 

Man Is Master of His Destiny (人は、運命の支配者である)

あなたは、環境や境遇の創造物ではない。

あなたは、あなた自身の運命の支配者である。

あなたは、あなた自身の富の建築家である。

あなたは、あなたが経験することに対して責任がある。

あなたは、あなた自身の現在の状態に責任がある。

もしあなたが不幸ならば、それはあなた自身が創ったモノである。

もしあなたが惨めならば、それもまた、あなた自身が創ったモノである。

すべての行為は、早かれ遅かれ、実を結ぶ。

徳のある行為は、その結果として、喜びを産み出す。

悪い行いは、苦しみをもたらす。

あなたの過去生における慈愛は、現在の人生において、あなたに豊かさを与える。

あなたの過去生の強い想いが、現在の人生におけるあなたの性格を作っている。

あなたの過去生の傾向は、現在におけるあなたの能力となる。

あなたの過去生の徳のある行いは、現在の人生において、あなたに良い環境を与える。

あなたの過去生の経験は、現在の人生におけるあなたの意識を作っている。

あなたの過去生の利己的でない行為は、現在の人生において、神の恩寵を通して、あなたに識別力、冷静さ、大望を与える。

もし、あなたが人を圧迫するならば、あなたは、別の人生で圧迫を被り、あなたがこの人生で蒔く種子の果実を収穫するであろう。

もし、あなたが人の眼を痛めるならば、あなたの眼は、別の人生で傷つけられるであろう。

もし、あなたが人の足を折るならば、あなたの足は、別の人生で折られるであろう。

もし、あなたが貧しい人たちに食べ物を与えるならば、あなたは、別の人生で、沢山の食べ物を持つであろう。

もし、あなたが、旅人のための宿泊所を建てるならば、あなたは、別の人生で、多くの家を持つであろう。

作用、反作用は、平等であり反対である。

この地球では、行為が結果を生むのを止めさせることができる力はない。

カルマの法則とは、このようなものである。

誕生と死の法則とは、このようなものである。

あなたが途中で通過しなくてはならない循環は、このようなものである。

 

 

Three Kinds of Action(三種類の行為)

行為には、良い、悪い、そして混合という三種類がある。

良いカルマは、あなたを天国における神、或いは、天使にする。

悪いカルマは、低い子宮にあなたを投げ込む。

混合の行為は、あなたに人間の誕生を与える。

もし、あなたが人から盗み、貧しい人々に食べ物を与えるならば、それは、混合の行為である。

もし、あなたが、非合法的な手段によってお金を稼ぎ、寺院や病院を建てるならば、これは、混合の行為である。

もし、あなたが、人を騙すことでお金を得て、出家者のための修行の場を建設するならば、これもまた、混合の行為である。

すべての仕事は、善と悪の混合である。

この世界では、絶対的に良い仕事も、絶対的に悪い仕事もあり得ない。

この物質的宇宙は、相対的な場所である。

もしあなたが、何かの行為をすると、それは、一面ではいくらか良くて、ある面では、いくらか悪いことをするであろう。

あなたは、最大限の善と最小限の悪をもたらすような行為をするように心掛けなさい。

 

 

Veracity of the Law of Karma(カルマの法則の真実性)

カルマの法則は、ヴェーダンタのなくてはならない部分を形作る。

カルマの法則は、ヒンドゥー教だけの基本的な教義ではなく、仏教やジャイナ教の教義でもある。

人は種子を蒔くように、彼は収穫するだろう。

これは、カルマの法則である。

それは、人生の謎と宇宙の謎を解説する。

それは、慰め、満足、安楽を個人とすべての人々にもたらす。

それは、自明の真実である。

幸運にも、西洋人もまた、今や、その重要性と真実性を理解し始めている。

アメリカ人は、今や、この教義を全面的に信じている。

すべての感覚的な人間は、それを受け入れなくてはならないであろう。

他は上手く行かない。

この法則の 学びは、希望のない人や絶望している人や病んでいる人に、勇気を与える。

運命は、人の思考、習慣、性格によって創造される。

彼の思考や習慣を変えることによって、修正や改善のためのあらゆるチャンスがある。

ならず者が、聖者になることができる。

売春婦が、貞節な女性になることができる。

乞食が、王になることができる。

強力な法則が、このすべてを規定する。

カルマの法則だけが、この世における善悪の神秘的な問題を説明することができる。

カルマの法則だけが、苦しむ人、絶望する人に、慰めと満足、平和と力をもたらすことができる。

それは、人生の困難や問題を解決する。

それは、失望している人や惨めな人に、勇気を与える。

それは、人に、正しい考えや正しい演説、正しい行為へと後押しする。

それは、この宇宙の法則に従って生きる人のために、輝かしい未来をもたらす。

もし、すべての人々が、この法則を正しく理解し、彼らの日々の義務を注意をもって果たすならば、彼らは、霊的な梯子を崇高な高さまで上がるであろう。

彼らは、道徳的で徳のある人になり、幸せで平和な満足した人生を持つであろう。

彼らは、忍耐と辛抱強さ、心の力で、サムサーラの重荷に耐えることができる。

彼らが、誕生や資産、知性、能力などの中に、不平等を見る時、不平の余地はないであろう。

すべては、苦しんでいる時でさえ、喜ぶであろう。

貪欲、羨望、嫌悪、怒り、情熱は、消えるであろう。

徳が、至る所に、行き渡るであろう。

われわれは、すべての所で、平和と十分なものと共に、栄光あるサティヤ・ユガ(神性が優位を占める時期)を持つであろう。

法則を理解し、法則の中に生きる人は、祝福されている。

何故ならば、彼は、直ぐに神意識に到達し、法則を与えた者と一つになるからである。

その時、法則は、もはや、彼には作用しないであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『カルマは神のなされることではありません。

カルマは、各個人によってなされます。

それぞれの特定な個人が対処し、理解し、完遂しなくてはならないものです。

カルマは、各人自身の行動であり、考えであり、願望です。

他の誰もそれに責任はありません。絶対的に正確です。偶然はありません。

すべては、まったく見事に調和がとれています。

短い視点では、人生は、少しも完全にも公平にも思えません。

なぜ、人は他人よりももっと苦しんでいるように思うのでしょうか? 

例えば、なぜ、病気の人がいて、他の人は健康なのでしょうか? 

お金持ちがいて、貧乏な人がいるのでしょうか? 

カルマの正確さの優位から見ると、人生は完全に公平です。

人生は、進化において人々を操縦する絶妙に完璧な方法です。

もし、人の人生を10万光年の何万倍も離れたところにある親指サイズの的に対して、無限に近い時間と果てしない空間を通して進んでいく有機的な宇宙船として見るならば、航海においてごく僅かな見込み違いは、宇宙船を航路からはずして遠くに行かせてしまうでしょう。

カルマは、航海の正確さのために備わった装置なのです。

それは人をコースに戻します。

人がどんなにコースから外れて遠くに離れても、カルマは完全に調整をするでしょう。

それらは厳しいかもしれませんが、小さな的に向かって最も狭い針路に人を導きます。

カルマは、3つの部分に分けることができます。

過去に形成されたカルマ、現在形成されているカルマ、未来に形成されるカルマです。

インド人は、「もし、あなたが人の過去のカルマや過去の行為を知りたいと思うならば、彼の現在の人生を見なさい」と言います。

過去になされたカルマについて今できることは何もありません。

それらはすでに放たれた矢です。

何本かはすでに到達し、何本かはまだ到達していません。

それらの過去のカルマの結果を受け入れ、それらから学びなさい。

自由意志はないと考えることは間違いです。

しかし、全宇宙と誰かとすべての人に起こることは、カルマと呼ばれるものによって前もって決められています。

それでも、自由意志はあります。

それがカルマのポイントです。

まだ放たれていないそれらの矢は、まだ私たちの意志の矢筒の中にあります。

私たちは、どの矢をいつ放つべきかを選びます。

私たちは決定し行動します。

私たちがそうするやり方が未来を決定します。

私たちから離れている何かや誰かが、私たちの運命を決めるのではありません。

未来は細部まで、良くても悪くても、悲しくても楽しくても、私たち自身のデザインなのです。

私たちは、私たちがしたこと、言ったこと、考えたこと、願ったことによって、過去に生き方を選択しました。

私たちは今現在において選択をしています。

カルマは、原因と結果の法則ですが、自由意志は、私たちが法則の束縛をやがては超越することを可能にします。

これは安心を与え、権限を与えます。

人生の環境に対する非難を神や運命や他のものに置く代わりに、人は完全な責任をとります。

成長の力はその中にあります。

生から生へ、環境から環境へ、人は創造し、悟りに向かう長い展開における与えられた瞬間に、成長にとって必要とされることを選択します。

それぞれの魂は、自由へ向かう道における前進のための完全なる機会を提供してくれる、自分が必要とする両親や家族状況、社会における役割、安楽と不快の混ざったものを選択します。

このカルマのプロセスは、再び折り重なり、絡みつき、そして未来は、個人が現在をどのように手掛けたかによって形作られます。

確かに、カルマが展開し燃え尽きるのに幾生か、かかるかもしれません。

結果は、神や他のものや運によるのではなく、自分のカルマへの自分自身の対応にあるのです。

人は、自分の環境を落ち着いて受け入れることを学ぶにつれ、快適であろうと不快であろうと、喜びと勇気をもって未来を待ち望むことができるようになります。

彼らはカルマを超越します。

もし、苦しみや哀しみが過去の行為の結果であるなら、未来の存在において苦しむことを避けるために、賢者は苦しみにつながる行為をそれ以上犯すことを止めるでしょう。

カルマの法則は妥協のないものであり、すべてはそれに束縛されています。

しかしながら、カルマのロープを断ち切り、死に打ち勝つ方法はあります。

その方法は、巧みに目的をもって生きることです。

私たちが打ち勝とうとしながら人生を費やす、苦痛と哀しみの源を理解するにつれ、目的にかない巧みに生きる方法を見つけることが、徐々にできるようになります。

次第に、私たちが生まれながらに恐れている死の性質を理解するようになります。

不運にも、人々は、しばしばこの恐れから自分の人生を指図します。

人々が恐れから行動するとき、彼らは、恐れから生まれるカルマとサンスカーラを作り出します。

これらのサンスカーラが処理されないと、さらなる恐れに遭遇します。

もし、人が体を自分だと同一視すると、彼らは病気を恐れ、年を取ることを恐れ、事故を恐れ、道を横切ることを恐れ、見知らぬ人に遭うことを恐れ、可能な限りのあらゆる悪いことを恐れます。

結果として、必然的に、日常生活は彼らが恐れる悪いことに引きつけられます。

これらの恐れは習慣となり、それは人を危険や病に引き寄せます。

もし、人が自分を仕事と同一視して信じているなら、その仕事への変化は彼らにとって脅威となるでしょう。

もし、彼らが仕事を失ったら、彼らは自分と同一視していたものを失います。

もし、両親と同一視しているなら、その同一視は、子どもが成長し家を離れたときに、試練を迎えます。

人の行動はこれらの恐れに基づいています。

行動は恐れの周りに形成されます。

彼らの恐れに満ちた行動と思考は、恐れそのものを強化し、未来に対する新しくて強力な恐れの種子を蒔きます。

強力な閉じ込めるサイクルが回ります。

ただ人の選択のみがそのサイクルを変えることができるのです。

カルマの束縛は、破壊されなくてはなりません。

それは個人の責任です。それは強さと勇気を必要とします。

生と死の秘密は、私たちの真の自己は何であるかを知ろうとする探求だけを含んでいるわけではありません。

この神秘を解明することは、私たちの行動、言葉、考え、そして、どのように、またどうして、私たちがこれらの行動をとり、ある言葉を発し、特別な考えを考えるのか、をも含んでいます。

ある方法がとられると、私たちの行動は、地球的な人生や誕生と死の終わりのないサイクルに私たちを束縛することができます。

別の方法がとられると、行動は、人生における喜びと死を超えた勝利を創造します。

あなたがこの人生を選択したことを思い出しなさい。

あなたは、あなたの旅においてこの発見の瞬間に向かって移動してきました。

これは最も霊的な前進を遂げるためのあなたが世界に住む完璧なる時間です。

あなたの人生における人々、あなたの両親、子どもたち、伴侶、友人たち、同僚たちは、あなたの成長にとっては完璧なのです。

外的世界と内的世界における私たちの全人生は、私たちのサンスカーラである私たちの思考、行動、そして選択によって残された印象により動機づけられています。

誰も私たちに良い行いか、悪い行いかを罰することはしませんが、私たちのサンスカーラは、私たちの現在の行動を動機づけます。

私たちは収穫するものを蒔くのです。

私たちが、私たちの中のこの動機づけの力を理解するとき、私たちは、私たちが過ごす人生のために、他人や自然や神を責めることはできません。

私たちの人生は、私たち自身の創造物なのです。

私たちの問題は私たち自身です。

私たちはこれらの問題を超えて、自分自身と闘うべきではありませんが、それらを理解しようとしなさい。

私たちは私たちと他人との人間関係を理解すべきです。

私たちの人生で正しくないことのために他人を責めることは、助けにはなりません。

私たちが、人間関係にもたらしてきたものは何ですか? 

なぜ、私たちはそれを選んだのですか? 

これらの問いは、状況の広い視野や愛情や無私につながります。

より大きな霊的な領域なしには、この世界は完全ではありません。

それはその性質なのです。

それは変化し、死滅し、滅びる世界です。

この世界においては、究極的な幸福を掴むことができるものは何もありません。

なぜなら、それは過ぎ去り、崩壊し、変化するからです。

あなたは、幸せのためにこの世界や対象物、人間関係に頼ることはできません。

なぜなら、それらは頼りにならないからです。

それらは永続することができず、永遠に同じであることができないため、頼ることができません。

それは、この実在の性質ではありません。

この世は、練習場であり、学校であり、演劇です。

それは不完全の中の完全です。

学び成長するための場所として、この世の次元は矛盾しています。

それは、あなたの個人的な行いにより形作られ、あなたの個人的な必要に適応したあなたの完全なる創造なのです。』

(聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

『質問者

「ジニャーニには、「私は身体だ」という観念(デーハートマ・ブッディ)がないのでしょうか?

たとえば、もしシュリー・バガヴァーンが虫に刺された場合、何の感覚もないのでしょうか?」

 

マハルシ

「そこには感覚があり、「私は身体だ」という観念もあります。

「私は身体だ」という観念はジニャーニにもアジニャーニにも共通していますが、唯一の違いは、アジャーニは「身体だけが私である」(デーハイヴァ・アートマ)と考えますが、ジニャーニにとってはすべてが自己(アートママヤン・サルヴァム)なのです。

あるいはすべてがブラフマン(サルヴァン・カルヴィダン・プラフマ)です。

痛みがあるなら、そうあらしめればいいのです。

それもまた真我の一部です。

真我はプールナ(完全、全体)だからです。

さて、ジニャーニの行為についてですが、それはただそう呼ばれているだけです。

なぜなら、それは効力を持たないからです。

一般には、行為は個人の中にサンスカーラとして植え込まれています。

それはアジニャーニの心が肥沃な土壌である場合にかぎります。

ジニャーニの場合、彼の心の存在は推測されたものでしかありません。

彼はすでに心を超越しています。

それでも、見た目には活動をしているように見えるので、彼の心は存在すると推測されるのです。

ジニャーニの心はアジニャーニのように肥沃ではありません。

だからこそ、「ジニャーニの心はブラフマンである」と言われるのです。

ブラフマンとはジニャーニの心に他なりません。

その土壌でヴァーサナー(精神的傾向)が実を結ぶことはありえません。

彼の心はヴァーサナーから解放された不毛の土地なのです。

それでも、ジニャーニにはプラーラブダ(過去に形成されたカルマ)があると見なされているため、ヴァーサナーもまた存在すると考えられています。

もしヴァーサナーが存在するとすれば、それは喜びをもたらすもの(ボーガ・ヘートゥ)だけです。

行為は二種類の業果をもたらします。

一つは喜びをもたらすもの。

もう一つはサンスカーラという形で心に印象を残し、未来の誕生をもたらすものです。

不毛の土地であるジニャーニの心は、カルマの種子を植えつけても生長しません。

彼のヴァーサナーは、結果的に喜びだけをもたらす活動を通しておのずと尽き果てるのです。

しかし実際は、彼のカルマはアジニャーニの視点からのみ見られるものであって、ジニャーニは無為のままとどまります。

彼は身体が真我から離れたものであるとは見ていません。

だとすれば、どうして彼に束縛や解放がありえるでしょうか?

彼はその両方を超越しているため、現在も、未来においてもカルマに束縛されません。

それゆえ、彼にとっては生きながら解脱した人(ジーヴァン・ムクタ)も死後に解脱した人(ヴィデーハ・ムクタ)も存在しないのです。」

 

質問者

「今言われたことによれば、どうやらジニャーニはすべてのヴァーサナーを焼き尽くした人が一番で、彼は石か棒切れのように無活動のままとどまるということです。」

 

マハルシ

「いいえ、そうある必要はありません。

ヴァーサナーは彼に影響を与えないのです。

石や棒切れのように留まること自体がヴァーサナーではないでしょうか?

サハジャ(自然)が彼の境地なのです。」

 

会話の焦点はヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)に当てられた。

マハルシ

「善い精神的傾向と悪い精神的傾向は共存します。

一方はもう一方なしには存在できません。

一方だけが優先的になることはあるでしょう。

善い精神的傾向は培われなければならず、それもまた最終的にはジニャーナ(真我の知識)によって破壊されなければならないのです。」

 

一人の若い天才についての話がもち上がった。

シュリー・バガヴァーンは、「彼の中にある前世の潜在的印象(プールヴァ・ジャンマ・サンスカーラ)が強かったからです」と語った。

 

質問者

「高名な聖者の言葉を自由に引用する能力は、どのようにして現れるのでしょうか?

それも種子という形をとったヴァーサナーにすぎないのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうです。

サンスカーラ(精神の潜在的傾向)は過去世で得られた知識が蓄積されたものです。

ふさわしい状況や環境のもとでそれは現れます。

強いサンスカーラを持った人は、弱いサンスカーラを持った人やまったくサンスカーラのない人よりも提示された物事を早く理解するのです。」

 

質問者

「発明家にとっても同じことが言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「この世に新しいものは何一つないと言われるように、発明や発見と呼ばれるものは、考察していた物事に対する強いサンスカーラを備えた有能な人による再発見にすぎないのです。」

 

質問者

ニュートンアインシュタインなどもそうなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんです。

しかしどんなにサンスカーラが強くとも、静かで穏やかな心にならないかぎり、それが現れることはないでしょう。

どんなに想い出そうとしても想い出せないことが、静かで穏やかな心になったときに突然想い出されるのは誰もが体験することです。

忘れたことを想い出そうとすることにさえ、精神の静寂が必要となります。

天才と呼ばれる人たちは、過去世で努力を重ねて知識を得、それをサンスカーラとして蓄積した人たちなのです。

彼は現世において、自分が取り組んでいる主題に心が融け入るまで集中します。

その静寂の中で、それまで沈潜していたアイデアが湧き上がってくるのです。

それにはまた有利となる条件や環境も必要とされるでしょう。」

(ラマナ・マハルシとの対話)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(51)「カルマ」③

前々回より、ヨーガやウパニシャッドで述べられている「カルマ」についての正しい智識と詳しい解説をご紹介していますが、先人たちの智慧を理解することで、「カルマ」への理解が深まり、その正しい理解が、やがては、個人に課せられた「カルマ」を乗り越えて行く種子となって、魂の真の解放へとつながって行くため、真の智識(ジニャーナ)に至るプロセスにおいては、「カルマ」とは何なのか?「カルマ」から解放されるためには、何をしたら良いのか?を知っておくことは、真我実現、魂の解放(解脱)には必要不可欠と言えます。

 

前回の記事でもご紹介しましたが、個々人の人生は、過去世で生じたプララーブダ・カルマの結果である、と言うのが、ヨーガ、ヴェーダンタの基本的な考えです。

 

しかし、そうであっても、プララーブダ・カルマ(所謂、運命)を超えて行くことは可能である、とも述べられています。

 

この世に起こる現象に、永遠に変わらないモノは、存在しません。

 

よって、私たち人間も、永遠に「カルマ」によって束縛されたままである訳ではありません。

 

先ずは、「カルマ」について正しい智識を持つこと。

そして、その上で、自分が乗り越えていくべき「カルマ」を把握し、その「カルマ」を乗り越えようと努力することが、真の解放へとつながって行くのです。

(これについては、以下でご紹介しますスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」からご紹介します文が、非常に詳しく解説してくれています。)

 

「カルマ」を人生における課題と見做し、その課題に取り組むことは、完全に、個人の世界の中で起こることであるために、他者や世界ではなく、「自分」と向き合うことが求められます。

 

「自己」(偽の自己)の消滅が起こることで、「カルマ」からの解放が起こります。

これが起こると、魂は、束縛から解放された分、自由を感じることができるようになり、それまで味わったことのない歓びに満たされることでしょう。(束縛されている「自己」は、「幻想」なのだということが、明らかになると、「束縛」は、「偽の自己」に生じている「錯覚」となりますが、これが起こるには、先ずは、「カルマ」という課題を自分で解決するために、自己努力をする必要があります。)

 

それを為すことができるのは、最終的には、創造物としての「自分」を創った「創造主」である「神」ですが、この「創造主」である「神」が、「真の自己」であるという真の理解が起こるまでは、「カルマ」を背負っているのは、個人性である「偽の自己」であり、この「偽の自己」の正体が明らかにならない限り、「偽の自己」は、「カルマ」に束縛されたまま、苦しみや悲しみを味わい、現実というマーヤー(幻妄の力)によって創造された夢の世界の中で、悪戦苦闘の人生を味わうことになります。

この構図がわかっても、背負っている「カルマ」が足枷となってしまうために、個々人は、「カルマ」に囚われてしまい、なかなかその束縛から抜け出すことができずに、悪戦苦闘の中で、また新たな「カルマ」を生み出すという終わりのない悪循環(輪廻)にハマってしまいます。

 

この悪循環を断ち切る方法は、既に私たち人間に示されていますので、今生でその方法を学び、実践することで、輪廻からの解放へと向かう方向にダルマ(因果の法則)が働くようになり、やがて、蒔かれた種子は、悪循環の環を断ち切る強力な力を有する萌芽として、芽生えて行くことでしょう。

 

中には、「カルマ」について正しく知ることで、自分の人生の全容や目的が、明確になる人もいることでしょう。

 

その人が解決するために取り組むことになっている一番重要な「カルマ」は、そんなに多くはありません。

(特に、自分ではどうしようもなく、無力感を感じるコト、苦しみの原因となっていると感じるコトや、それから逃れたいと感じるモノなど、人間関係や環境や人生における様々な苦悩や悩みなどを形作っている原因となっているモノが、今生で解決され、解きほぐされるべき「カルマ」であることが多いです。)

 

人は、「カルマ」という課題に取り組むことで、自然と、心の浄化が促されるように運命づけられています。

 

エゴは、「偽の自己」そのものです。

 

「偽の自己」が、「偽の自己」を乗り越えることはできませんが、心の浄化が進むと、「偽の自己」と「真の自己」とを隔てる厚い障壁が薄くなり、「真の自己」が、「偽の自己」に顕わになるのです。

 

これが、「真我実現」です。

 

真我(アートマン)だけが、実在なのです。

 

今回も、初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次にスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「カルマ」について、そして最後は、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「カルマ」についての究極の智識(Jnana)です。

 

これらを読んで、自分の人生の課題である「カルマ」に取り組む気持ちが少しでも起きるならば、その後の人生は、きっと、これまでとは違った展開となり、このリーラ(神の戯れ)であるこの世で悪戦苦闘しながらも、自分の力で何とか「カルマ」を乗り越えようと自己努力する個人に、神の恩寵が働き、真の智識(叡智)である「Atman Jnana」(真我の智識)が明らかになることでしょう。

 

 

 

『Destiny and Self-effort(運命と自己努力)

カルマの法則が容赦のないものであろうと、神聖なる恩寵が働く余地はある。

恩寵は、悔恨、禁欲、献身を通してやって来る。

悔恨は、カルマの法則を変えることはない。

それは、他の行為のような結実を持つ行為である。

人が、収穫しなければならないモノは、個人によっては変えることはできないが、しかし、その再発は、自己努力によって、確実に阻止することができる。

自己努力は、プルシャーチャ(人生の目的)(※1)である。

運命は、プララーブダ(前世で積まれたカルマの中で、現世で清算されなければならないもの)である。

プララーブダは、過去の誕生で為された単なるプルシャーチャである。

今日の自己努力は、明日の運命となる。

自己努力と運命は、一つであり同じモノである。

プララーブダとプルシャーチャは、一つである。

それらは、一つのモノを示唆する二つの名前である。

現在が過去になり、未来が現在になるように、現在だけがあるように、それと同じで、ただプルシャーチャだけがあるのである。

神が、人を通して働く時、それは、プルシャーチャである。

恩寵は、プルシャーチャとなる。

降雨などは、人間のコントロール下ではない。

農夫は、彼の農場を耕す。

彼は、プルシャーチャ、自己努力を実践する。

収穫物は、雨がないために、実らないかもしれない。

しかし尚、人は、意気消沈しない。

彼は、雨を得ようと祭式を執り行い、善い収穫物を収穫する。

同様に、ヨーガの実践は、真我実現を妨害する悪いプララーブダを無効にするための自己努力である。

もしプララーブダが、橋梁であるならば、ヨーガは、プララーブダよりも更に強力である。

すべての魂は、小区画の地面を持っている農夫のようである。

面積、土の性質、天気の条件は、すべて前もって決められている。

しかし、農夫は、地球が肥料を施し、良い穀物を手に入れるまで、或いは、荒れ地として留まることを許すまで、完全に自由である。

プララーブダは、過去だけに関係している。

未来は、あなたの手の中にある。

あなたは、あなたの運命を変えることができる。

あなたは、行動する自由な意志を持っている。

新しい角度の視野を持ちなさい。

あなた自身を、識別力、上機嫌、洞察力、敏速、臆しない精神で、身を固めなさい。

栄光ある輝く未来は、あなたを待っている。

過去を、葬り去らせなさい。

あなたは、奇跡を引き起こすことができる。

あなたは、奇跡を行なうことができる。

希望を捨ててはいけない。

あなたは、あなたの意志の力を通して、好ましくない惑星の有害な出来事を破壊することができる。

あなたは、あなたが悪い影響の出来事や、あなたに対峙して作用するかもしれない敵対する暗い力を中和することができる。

あなたは、好ましくない環境を、最も良い可能なものに変えることができる。

あなたは、運命を無効にすることができる。

運命は、あなた自身の創造である。

あなたは、考えや行動を通して、あなたの運命を創造してきた。

あなたは、正しい考えと正しい行動によって、同じことをしないことができる。

邪悪、或いは、あなたを攻撃する暗い敵対的な力があっても、あなたは、断固としてそれからあなたの心を背けることで、その力を減少させることができる。

そうして、あなたは運命を和らげることができる。

「カルマ、カルマ。私のカルマが、このように私を運んだ」と言ってはならない。

努力しなさい。努力しなさい。自己努力をしなさい。

タパス(苦行)をしなさい。集中しなさい。浄化しなさい。瞑想しなさい。

運命論者になってはいけない。

無気力になってはいけない。

子羊のようにメェメェ啼いてはいけない。

ヴェーダンタのライオンのように、オーム、オームと吠えなさい(※2)

16歳で死ぬことになっていたマルカンデーヤ(※3)は、彼の苦行(タパス)のお陰で、16歳の不死の少年、チランジビ(※4)になった。

また、サヴィトリ(※5)は、どのようにして、彼女のタパスによって、彼女の死んだ夫を生き返らせたのか?

ベンジャミン・フランクリンマドラス高等裁判所の故シュリ・ムチュウスワミアイヤーは、どのように彼ら自身を高めたか?を忘れないでいなさい。

友よ、人は、彼の運命の主人であることを覚えていなさい。

クシャトリア(戦士、王族の階級)の王であるヴァシヴァ-ミトラ聖仙(※6)は、ヴァシシュタ聖仙(※7)のようなバラモン(祭祀階級)になって、彼のタパスの力によって、トリサンク(※8)のために、第三世界を創造した。

ロジュ・ラトナカーは、タパス(苦行)により、聖者ヴァールミーキ(※9)になった。

ジャガニとベンガルのマダイは、高度に発達した聖者になった。

彼らはゴーランガ-ニッチャナンダ神(※10)の弟子になった。

他者が為したことは何でも、あなたもすることができる。

これに関して、疑いはない。』

 

(※1)ヒンドゥー教においては、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱、憧れ、感覚への喜び、耽美的生き方、愛など)、モークシャ(輪廻からの解放)の四つが、人生の目標とされている。

これら四つの目標はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている。

(※2)ヒツジ(人間)だと思っているライオン(神)のお話し - 永遠の人

(※3)バーガヴァタプラーナ(インド神話)に出て来る、クランで生まれた古代のリシ(聖者)。彼と彼の妻は、シヴァ神を崇拝し、彼に息子を生む恩恵を求め、その結果、義の息子であるが地球上での寿命が短いか、知性が低いが寿命が長い子どもであるかの選択を与えられたため、父のムルカンデュは、前者を選び、16歳で死ぬ運命となる模範的な息子マルカンデーヤに恵まれた。

マルカンデーヤは、シヴァの偉大な信者に成長し、彼の運命の死の日、彼はシヴァリンガム(シヴァ神を象徴した形の石)という象徴的な形のシヴァ神の崇拝を続けたために、死の神であるヤマの死者は、彼の多大な献身とシヴァへの絶え間ない崇拝のために彼の命を奪うことができなかった。

その後、ヤマはマルカンデーヤの命を奪うために直接やって来て、若い賢人の首に縄をかけたが、偶然に、または誤って縄がシヴァリンガムに巻き付いたため、それを知ったシヴァは怒り、現れて戦いでヤマを倒した後、敬虔な若者が永遠に生きるという条件の下で、彼を復活させた。

(※4)チラン(永続的)とジビ(生きた)から、チランビジとは、不死の人を指す。

(※5)マハーバーラタの中の挿話。サーヴィトリーは、自分が選んだサティヤヴァッドという王子を夫に選んだが、彼は、一年後に命を落とすことになっていた。日々は過ぎ、その時まであと四日となり、サーヴィトリーは三夜続く苦行を行い、昼も夜も立ったままでいた。そしてその日が来て、死神ヤマは、サティヤヴァットの体から、親指ほどの大きさの霊魂を輪縄で縛って引き抜いたため、サティヤヴァットの体は死んだが、その後、諦めずに、サーヴィトリーは、ヤマとの問答を続ける中で、サティヤヴァッドの霊魂をヤマから取り戻すことができ、サティヤヴァッドは、生き返る。

(※6)ヴィシュヴァーミトラは、インド神話に登場する聖者(リシ)である。ヴェーダ詩人の1人で、『リグ・ヴェーダ』第3巻はヴィシュヴァーミトラの作と伝えられる。 (人類に、ガヤトリーマントラを授けた)。もともとはクシャトリア(戦士、王族の階級)の出身で、カニヤクブジャの王ガーディの子として生まれた。しかし聖仙ヴァシシュタと戦って敗北し、武人の無力さを嘆いて聖仙となることを志し、(千年間の)苦行の末にバラモン(祭祀階級)になったとされる。叙事詩マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』にはヴィシュヴァーミトラとヴァシシュタが反目し続けたことが述べられているが、この物語はクシャトリヤバラモンの対立を物語るとともに、バラモンクシャトリヤに対する優位性を説くものであるとされる。

(※7)七聖賢の一人に数えられ、ラーマ神に教えを説いた偉大な聖者として崇められる。

(※8)トリサンク王は、聖仙ヴァシュシタに、人間として天国へ行かれるように願ったが、ヴァシュシタは、それでは天国へは行かれないと突っぱねた。トリサンク王は、王国を追われたが、聖仙ヴィシュヴァーミトラに出会い、同じことを願うと、ヴィシュヴァーミトラは、トリサンク王のために祭式を行い、トリサンク王が天国へと行くことができるように神々に祈ったが、願いを叶えてくれる神々はいなかった。そこで、彼はヨーガの神通力で、トリサンク王を天国へと上げたが、インドラ神によって、引き下ろされてしまう。そのため、ヴィシュヴァーミトラは、トリサンク王のために、新たに世界を創造したが、トリサンク王は、その世界を通って完全に天国へ上ることができず、上に行くことも、下に下がることもない空の星座(南十字星)となった。

(※9)古代インドの聖仙。古代インドの大長編叙事詩ラーマーヤナ)の編纂者。彼は王家に生まれたが、まもなく幼子の時に森に捨てられ、そこにたまたまいた盗賊たちは彼を拾い上げ、名を与えたうえ育てた。それから幾多の年月を経て青年になっていた彼は一人前の盗賊として活躍し、道行く人々を襲い身ぐるみをはいでいた。ある日、偶然にも森林をさまよい小径を通りかかった聖仙ナーラダを彼は見つけ、いつものような調子で襲おうとするも却って諭され、問いからついに人生の真実を理解し始め、ナーラダに許しを請う。それからナーラダからあまねく垂教を受け、我が身を想い、瞑想にふけ続ける。いつしか彼のまわりを蟻の巣の丘が覆っていた。そのことからサンスクリット語の蟻の丘を意味するヴァールミーキと呼ばれるようになった。

(※10)ヴィシュヌ神の化身クリシュナへのバクティを説いた16世紀の聖者。「ハレ クリシュナ」のマントラを唱えながら踊る儀式で知られ、その後、ベンガル地域で彼が唱えたゴーディヤ・ヴァイシャニズム(ヴィジュヌ神を最上神とする考え)の教えは、現代のクリシュナ意識国際協会に引き継がれている。

 

 

How Destiny Is Built Up(どのように運命は創り上げられるのか?)

想いは、カルマ(行為)である。

考えることは、真のカルマ(行為)である。

思考は、あなたの性格を形成する。

思考は、物質化し、行為となる。

もしあなたが、心に善良で精神を高める想いを思案させるならば、あなたは、高貴な人格を発達させるであろう。

あなたは、善良で称賛するに足る行為を自然に行うであろう。

もしあなたが、悪い想いを抱くならば、あなたは、卑しい人格を発展させるであろう。

これは、自然の不変の法則である。

それ故、あなたは、潜在的な想いを養うことによって、あなたの人格を計画的に形成することができる。

あなたは、行為を蒔き、習慣を収穫する。

あなたは、習慣を蒔き、性格を収穫する。

あなたは、性格を蒔き、あなたの運命を収穫する。

こうして、運命は、あなた自身の組み立てである。

あなたは、それを構築する。

あなたは、高貴な想いを抱き、有徳な行為をし、あなたの思考方法を変えることによって、結び目を解くことができる。

小さな行為と大きな行為の印象は、共に合体し、傾向を形成する。

傾向は、性格に発達する。

性格は、意志を産み出す。

もし人が、強い性格を持つならば、彼は、強い意志を持っている。

カルマは、性格を産み出し、同様に、性格は意志を産み出す。

巨大な意志の人は、彼らの意志を数え切れない誕生で為されたカルマを通して、発達させたのである。

人が、強力な意志を発達させるのは、一つの誕生においてではない。

彼は、数々の良い行為を、数々の誕生で為している。

これらの行為の有効性は、共に集まり、一つの誕生で、苦闘する人は、ブッダイエス・キリストシャンカラのように、巨人として突発する。

どんな行為も、無駄ではない。

あなたは、あらゆる想い、言葉、行為を見なくてはならないであろう。

人の意志は、永遠に自由である。

利己心を通して、彼の意志は、不純になってしまった。

彼は、彼の卑しい願望や好き嫌いを取り除くことによって、彼の意志を純粋で、強く、ダイナミックにすることができる。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『個人的な哲学を確立し、自分の人生を再生し、自分のダルマや霊的な道を見つけた後は、霊的な旅には2つの準備の段階があります。

あなたは自分自身の人生に責任を持つことになります。

このポイントは、現代社会では特に重要だと思われます。

あまりに多くの人々が、自分の不運な状況を他人のせいにするという習慣にあるからです。

彼らの両親は、彼らを虐待したかもしれませんし、無視し、あるいは、何かしら彼らの真価を認め理解するのに失敗したかもしれません。

彼らは、結果は彼ら自身の不幸な結婚や、子どもとの難しい親子関係や仕事の失敗にあると言います。

おそらく、両親は虐待し、放棄し、無理解でしたが、彼らが知っている限りの最善を尽くしました。

疑いなく、ひとつの世代から別の世代への関連性があります。

もし、両親が子どもに虐待的なら、影響はあります。

しかしながら、子どもが原因と結果をよく理解すると、そのとき、それは、非難と責任から両親を解放し始めるときとなります。

それが起こるまで、子どもは進むことができません。

そのときまで、彼らは過去に束縛されます。

同じ種類の非難は、兄弟、伴侶、子どもたちに向けられます。

政府や教育制度、文化、歴史に向けられます。

人生で悪いことは何でも、不公平な兄弟関係や無関心な伴侶、貧乏な子ども、税金、不完全な学校、悪いときに生まれてしまったことなどのせいにします。

自分の人間関係、政府、歴史を理解し、非難することを手放しなさい。

あなたの人生であなたの選択でないもの、あなたがしたことではないこと、あなたのカルマでないものはありません。

それは厳しく聞こえるかもしれませんが、しかし、それが解放のための現実です。

もし、すべてはあなた自身がしたことであり、あなたの選択であるなら、そして、すべては霊的な成長にとって正しいなら、そのとき、本当に悪いものは何もありません。

すべての人は、成長のための機会を持っています。

恐れるべきものは何もありません。

カルマという言葉は、西洋文化においては主流の用法となっています。

しかしながら、残念なことに、その言葉は、しばしば西洋では正確に使われていません。

その意味はたびたび曲解されています。

現代の西洋社会の新しい語彙では、カルマという言葉は、非常に頻繁に使われるようになり、間違って運命論を意味するようになり、完全に人の手に負えないものを意味するようになっています。

人々は言います〝おお、それはカルマだ。あなたができることは何もない〟あるいは〝あなたの過ちではない。それは悪いカルマだ〟と。

カルマという言葉のこの解釈は、起こることは何であれ、人がしていることではない、という信念を暗にほのめかしています。

すべては宿命的なカルマのせいだとなります。

この見方は、個人の人生や環境に対する責任を手に取り、それをカルマと呼ばれる抽象概念に置きます。

まるで、それがあなたに影響を押し付けて吹き抜ける悪い風であるかのように。

これは、カルマが意味することではありません。

カルマは、あなたを窮地から救うために東洋から来た人の心をとらえる言葉ではありません。

カルマは、責任をあなたの環境や経験に置きます。

カルマは、あなたに責任があることを意味し、あなたはあなたの環境を決定します。

あなたは、あなたの現状、過去、未来の建築家です。

それは、罪を作り出すことを意味してはいません。

あなたの人生に対する責任を受け入れることは、行動し、変化し、成長する力をあなたに与えます。

それは、あなたが独立した存在であることを意味します。

あなたの人生は、他人がしたり考えたりすることに依存してはいません。

あなたは、環境や、両親、利己的な伴侶、思いやりのない子どもたち、暴君のような上司、経済的不況、世界の政治の犠牲者ではありません。

ヴェーダンタ哲学では、〝環境の犠牲〟というフレーズはあり得ません。

私たちが自分自身の中に見つけるこれらの環境は、自分自身のデザインであり意志なのです。

ヴェーダンタによると、これらの環境は、私たちがそれらに良いか悪いか、楽しいか不快かのラベルを貼ろうとも、私たちが自分の成長のために造り出した機会なのです。

最も純粋な意味で、それは、学び成長するための絶え間ない次から次へと続く機会があるだけのことなのです。

それは、カルマを理解し、私たちが、完全に私たちの人生に責任があるということを知ることから始まります。

これを理解するもうひとつの方法は、私たちが、自分の夢を見るように人生を理解することです。

私たちの夢は、私たち自身の創造物だということは受け入れられます。

それらは、私たちの潜在意識の心から、私たちの思考、願望、恐れから生じます。

これらの夢は、私たちに有益となり得ます。

それらは、感情や満たされない願望がうまく働くのを助ける自然な方法です。

目覚めている状態と少しも違いません。

目覚めている人生の環境は、私たちの神聖な性質の認識に向かって成長する機会を提供するために、私たちによって作り出されます。

成長への鍵は、私たちに最も不快なものを与える人間関係や状況にあります。

これらの人間関係や状況は、不運、あるいは〝悪いカルマ〟からそれらを繰り返すのではなく、不快な状況や人間関係が、私たちの自由への障壁を意味するからです。

自由は、私たちが自分で作り出したこれらの障壁を克服したときにやって来ます。

これらの障壁は、有効でも有害でもないということは、繰り返して言うのも憚ります。

西洋文化は、これらの障壁は罪と呼び、人々を欠陥者と呼びます。

西洋圏では、罪の観念ゆえに苦しんでいる、とここで述べることは重要です。

ヨーガの科学とヴェーダンタは、これらの障壁を障害物と呼んでいます。

これらの哲学的な制度では、戒律はなく、ただ適切な展望のもとに理解されるべき約束だけがあります。

罪の概念は、自信や目的の感覚を起こしません。

それは永遠に不完全な人間という認識を強固にし、人間という存在への宿命的なアプローチを助長します。

この視点から、もし、持たれるべき自由があるなら、それは個人にではなく、創造主の手の中にあるのです。

これは、人生に対するヴェーダンタの視点ではありません。

球根から生長する花を思いなさい。

花が十分に華麗に咲くということをある条件が可能にし、その条件は確かに必要です。

必要とされる条件の中には、球根、泥、水分、ある一定期間維持されるべき温度があります。

球根は、汚く、水浸しで、雑菌だらけの環境で生育する皮の部分が硬くて厚く、しなびた、みすぼらしいものだと言う人もいるかもしれません。

それがユニークな美しさで開花するとき、神がそうなされたのです。

ある西洋の宗教的な態度は、不純なものとして人の生を記述し、どんな美しさも外側の神から生じます。

ヴェーダンタは、それはただの性質であると言います。

球根はただそうであるだけです。

そして、その素晴らしく完璧な性質の十分な表現に至るには、ある条件が必要とされます。

同様に、人間は、ただ完璧なる自己の表現に向かう自然な道のりにあります。

それぞれの人は、起こるべき完璧さに向かう成長のために、正に正しい条件の下にあるのです。

カルマは、これらの条件を表現する方法です。

行為、あるいは、カルマから自由な人はいません。

何かをし、何かを言い、何かを考えることが、カルマなのです。

また、この言葉は、種子を蒔かれたものは、刈られなくてはならない、ということを意味しています。

この2つの定義は関連しています。

すべての行為は、反応をもたらします。

すべての原因は結果を持ちます。

すべての考え、言葉、行いは、特定の結果をもたらします。

過去に私たちがどんな行為を行おうとも、それらの結実は、現在そして未来に生み出され、それが私たちの苦しみや哀しみの本当の原因です。

ひとたび矢が放たれると、それは目的へと向かわなくてはなりません。

矢が私たちの手の中にある限り、私たちはそのコースを選ぶことができます。

過去に私たちが無知で犯したすべての悪い行いは、不運な結果を生み出します。

私たちは、同じ過ちを再び犯すことには気をつけるべきなのです。

この哲学は、彼らが以前に犯したすべての過ちの結果を見込んで、人々を震えさせるというものではありません。

非常に自然で論理的なものを記述するという立場から、カルマの概念を展開のプロセスにおける段階として再考してみてください。

ヴェーダンタは、プロセスの長い視点をとり、この視点は、ナチケータが説明したいと思った神秘である死の秘密を説明します。

ナチケータは、もし、彼が死の神秘を理解できるなら、生の意味は明らかになるだろうと知っていました。

ヴェーダンタによると、神秘とは、今も在り、過去にも在り、これからも在るだろうすべてを構成している単一なる知的な意識が在る、ということです。

私たちが認識し、それで宇宙の部分を名付けるすべての名前と形は、純粋意識の断片であり、陰であり、反射であり、かすかな光なのです。

私たちが、この世の存在と呼ぶこの停車駅における人生の目的は、その実在を完全に発見することです。

この世の存在は、個人にとって実在へ至るための道を作るための外見上の建築であるだけなのです。

カルマは、私たちが創造する建築に私たちをつないでおく生と呼ばれるロープのようなものです。

私たちは、カルマは惨めさの源であると言うことができます。

私たちは、行為の結果をこうむるので、カルマに集中することができます。

カルマは、この世界とすべての苦痛を与える不完全さに私たちを縛り付けるものである、と言うことができます。

より高い視点であるもうひとつ別の考え方があります。

私たちは、カルマを私たちが純粋意識の明晰さを獲得するために取らなくてはならないカリキュラムとして見ることができます。

それ以上のものではありません。

私たちが人生と呼ぶ迷宮を通してカルマというロープに従い、絶対的な実在を見つけなさい。

実在が見つけられるまで、私たちは、この世の人生のこの停車駅に戻って、迷宮をあちこち動き続けます。

これらの隠喩をあまりに働かせてしまうことを承知の上で言うなら、カルマとして私たちが言及する自ら課した課題を終了するまで何度も何度も、私たちはひとつの人生の一連のコースをとり、さらなるコースのためにまた別の生に帰ります。

死は単に1学期の終わり、あるいは、長い文章の点に過ぎません。

カルマは重荷として見られるかもしれませんが、別のやり方は、カルマを自然の導き手、指導者、必然的なものとして見ることです。

ヤマは、ナチケータに無知の闇に住み、富や財産により惑わされる人々は、死の罠に捕らえられると言いました。

これらの存在は、死から死へとあちこちに旅をします。

カルマは、人をあちこちに運ぶボートなのです。

旅が終了するまで必要な乗り物です。

カルマの法則は、逃れられないものであり、それはこの世の人生で終わりません。

人は死ぬと、自分と共にカルマの法則の種子を運びます。

死はそれを変えません。

死はただ、人生の外側の面、肉体という外観、骨や血が捨てられることを意味するだけです。

より微細な人間の中身である思考、感情、カルマは続きます。

人のすべての思考、感情、カルマは、微細な心の中に蓄積されます。

チッタ(潜在意識)のベッドの中に、行動や思考から彼らの道を見つける印象は、サンスカーラ(過去の残存印象)と呼ばれます。

今度はサンスカーラが引き起こす行動、彼らが形作る個人的な特徴、それぞれの人が自分自身を見つける習慣や好みは、ヴァーサナ(精神的傾向)と呼ばれます。

私たちは、今、個人の生涯から生涯への外側の動きであるカルマの車輪について話しています。

私たちは行動し、考え、願い、特殊な記憶として、溝が心に深く刻み付けられます。

溝はサンスカーラです。

私たちがある方法で行動すればするほど、考えれば考えるほど、望めば望むほど、溝はより深く刻み付けられます。

記憶から湧き出る傾向は、ヴァーサナなのです。

溝が深ければ深いほど、傾向は大きくなります。

例えば、怒りに対して強い傾向を持つ人は、深い怒りの溝を持っています。

より多くの怒りは、溝を深くし、カルマの傾向の影響を強めることを意味します。』 

(次回に続きます)

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

『質問者

「現在の状態は過去のカルマによると言われています。

私たちは今、自由意志によって過去のカルマを超えることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「現在とは何なのか?

それを見てみなさい。

もしそうするなら、何が過去や未来をもち、それらに影響されるのか、何が永遠に存在し、何がつねに自由なのか、そして何が過去や未来やカルマからの影響を受けずにとどまるものかを、あなたは理解するだろう。」

 

質問者

「自由意志というものは存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰の意志だろうか?

行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。

だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探究)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。

ジニャーナによって運命は克服される。

真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。」

 

質問者

「人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足りないことまで、すでに決定されているのでしょうか?

例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置きました。

それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、すでに決定されているということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんだ。

何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在したときにすでに決定されているのである。」

 

質問者

「それでは、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーニを得ることである。

それが彼と身体との同一化を断ち切る。

身体はプララーブダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっているのである。」

 

質問者

「それでは、自由意志とは作り話なのでしょうか?」

 

マハルシ

「自由意志は個人性にかかわる領域で維持される。

個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。

すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向けるように勧めている。

誰にとっての自由意志や運命が問題となるのか見いだしなさい。

それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。

もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。

それがこの質問について論議をする唯一の目的なのである。

誰にとってこの質問が起こったのか?

それを見いだして、心やすらかになりなさい。」

 

質問者

「もし、起こる運命にあることは起こるというなら、祈りや努力が何の役に立つというのでしょう。

あるいは私たちはただ怠惰に、無為のままでいるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つある。

ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探究し、そして運命に束縛されているのは、真我でなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。

もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです。」とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。

帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全なものになりえない。

真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのためにある。

解脱のためでさえない。

言葉を換えれば、真我探究の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハリシの教え)

 

 

 

『活動(カルマ)とは また無活動(在カルマ)とは何か

賢明な者でも これを定義するのに迷う

今わたしはここで活動(カルマ)とは何なのかを説明する

これを知って君はあらゆる罪から離れよ

 

活動(カルマ)の諸相は まことに複雑 神秘であり

これを理解することは難しい だが

人は活動(カルマ) 誤活動(ヴィカルマ) 無活動(アカルマ)について

正しく学ばなければならない

 

活動のなかに 無活動を見

無活動のなかに 活動を見る人は

たとえどんな種類の仕事をしていても

相対世界を超越した覚者である

 

すべて欲望を持たずに行動する者は

完全智を得た人と心得よ

賢者たちは そのような人々を

大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ

 

仕事の結果に全く執着しない人は

常に楽しく 自由自在である

あらゆる種類の活動をして

しかも無活動 無業報である

 

このような英智の人は精神を完全に統御して

”我所有”の観念が全く無い

肉体を維持するに足るだけ働き

したがって悪行報を全く受けない

 

無理なく入ってくるもので満足し

我・他(あれ) 彼・此(これ)を比較して悩み羨むことなく

成功にも失敗にも心を動かさぬ者は

どんな仕事をしても束縛されない

 

物質界(このよ)の利害得失を超越して

無執着の活動をする

自由な人のする仕事は

ことごとく至上者(かみ)への供犠(ささげもの)となる

 

聖なる意識(ブラフマンの意識)で活動すれば

必ず聖なる領域(くに)に達する

聖なる意識で捧げた供物も 供物者(そのひと)も

ことごとく永遠の大実在(ブラフマン)である

 

種々様々な 天神地祇(かみがみ)に

それぞれ異なった形式で供養する修行者(ヨーギー)もあり

ブラフマンの火のなかに

捧げものをする修行者もいる

 

聴覚その他の感覚を

抑制の火に投じて供えものとし

また 音その他の感覚対象を

供犠の火壇に供える者たちもいる

 

真我実現を熱望している人々は

心と感覚をすべて制御し

五官の機能と呼吸までも供犠として

精神統一の火に投じる

 

激しい誓いをたてて

ある者は財産を捧げ ある者は苦行をする

またヨーガの八秘法を行う者もあり

またある者は無上の智識を求めてヴェーダを学ぶ

 

恍惚境に入るため呼吸を支配する者もいる

呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気(アパーナ)を呼気(プラーナ)に捧げ

ついに呼吸を全く止めて恍惚境に入る

また食を制し 呼気を呼気に捧げて供物とする者もいる

 

供犠の真意を知って行う者は

罪障の業報を逃れ 身心を清めて

その供物の残余(のこり)である甘露を味わいつつ

永遠の楽土に入って行くのだ

 

クル王朝のなかで最も優れた人よ

以上話した供犠を行わない者たちは

この生涯で決して幸福にはなれず

まして次の世では どんな目にあうことか

 

このような様々な形の供犠は

ことごとくヴェーダの是認するもの

そしてこれは様々な活動(カルマ)によってできる

この理を知れば 君は自由自在だ

 

敵を撃滅する者よ 物品の供犠より

智識の供犠は はるかに勝る

プリターの息子よ すべての活動は

究極には超越智識(ブラフマンの智識)に通じる

 

導師に近づいて真理を学び

うやうやしく問い 教えに従って師に仕えよ

自己の本性を覚った見真の人は

弟子に智識を授けることができるのである

 

このようにして真理を悟ったならば

君は再び幻影に迷うことなく

全宇宙の生物はすべて わたしの一部であり

わたしの内にあり わたしの所有だと知るのだ

 

たとえば君が極重の罪人だとしても

この大智の舟に乗ったならば

あらゆる苦痛と不幸の大海を

難なく渡り超えて行くことができよう

 

アルジュナよ 燃えさかる炎が

薪を焼き尽くして灰にするように

あらゆる行為の業報はことごとく

智慧の火によって燃え尽き灰となる

 

この大いなる智識こそ

この世における無上の浄化力

ヨーガによって それを完成した人は

ただ内なる真我を楽しむ

 

堅く熱心な信仰を持つ人

感覚の欲望を制御する人は

この無上の智識を得て

速やかに究極の平安に到る

 

無知にして信なき者たち

神の啓示による聖典を疑う者たちは

この世においても来世においても

平安を得られず常に不幸である

 

果報を求めずに働く人

正智によって疑いを切り捨てた人

自己の本性に徹して 自由自在となり

カルマに縛られないのだ 富の征服者(グナーンジャヤ)よ

 

バラタ王の子孫よ 心の迷いと疑いは

君の無知が原因で生ずるのだ

さあ 智慧の剣でそれを斬り捨て

ヨーガで武装し 立ち上って戦え』

(バガヴァッド・ギーター 第4章16ー42)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(50)「カルマ」②

前回より、「カルマ」について、ご紹介しています。

前回の記事では、ヨーガやヴェーダンタの考え方においては、「カルマ」は、”「因果の法則」により起きている行為”とみなされていることをお伝えしました。

 

ここで重要なのは、「カルマ」は、”「因果の法則」により起きている行為”であって、その行為の主体としての「わたし」が行っている行為ではない、ということです。

 

「カルマ」は、「因果の法則」の結果であるだけで、究極の視点からは、「カルマ」を背負っている「わたし」も、「因果の法則」によって起きた結果に影響を受ける「わたし」も、「カルマ」によって行為を為す「わたし」もいません。

 

その視点からすると、「カルマ」は、自然法則(ダルマ)により生じた結果なのですが、私たち人間は、主体なる「わたし」がいて、その「わたし」が行為していると感じている(思い込んでいる)ために、「カルマ」を自分の「カルマ」と見做してしまい、「カルマ」に束縛され、「カルマ」に翻弄される「わたし」が、この世において、苦しみ(生、病、老、死、その他)に囚われている、と想定してしまいがちですが、究極の真理においては、(自分を含む)この世に起こることは、ただ自然法則(ダルマ)に則って起きている現象であるだけであり、その現象には、「わたし」に起きる現象も含まれている、ということなのです。

 

つまり、「カルマ」は、実は、「ダルマ」である、ということになります。

 

今回は、その「カルマ」である「ダルマ(自然法則)」について、少し詳しく見て行きたいと思います。

 

初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、前回の続きである「カルマ(ダルマ)の法則」についての詳しい説明と、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、「ダルマ」について、そして最後は、ラマナ・マハルシのアシュラムで、探究者よりなされた「カルマ」についての質問に対してお答えになった究極の視点からの御言葉です。

 

 

The Law of Retribution(応報の法則)

すべての悪い行為、或いは、罪は、応報の法則に従い、それ自体の罰をもたらす。

因果関係の法則、作用と反作用の法則、代償の法則、応報の法則—すべては共に作用する。

他者を略奪する人間は、初めに、彼自身を奪うのである。

他者を傷つける人間は、初めに、彼自身を傷つけるのである。

他者を嘲笑う人間は、初めに、彼自身を嘲笑うのである。

神は、依怙贔屓もしないし、不公平でもないことを覚えておきなさい。

神は、人間の富や他者の貧困に責任はないことを覚えておきなさい。

あなたは、あなた自身の悪い行為のために、苦しんでいるのである。

この世界には、混沌とした気まぐれなものはない。

物事は、偶然によって、或いは、無秩序な方法で、この宇宙に起こるのではない。

それらは、規則的に連続して起こる。

それらは、規則的な秩序をもって、互いに従う。

あなたによって今なされていることと、将来起こることの間には、ある明確なつながりがある。

常に、好ましい果実をもたらすことになる種子や、ここかしこであなたを幸せにすることになる種子を蒔きなさい。

 

 

How Karma Is Fashioned (カルマは、どのようにして形づくられるのか?)

人は、彼の性質において、三つの部分がある。

彼は、Ichha(意思)、Jnana(知性)、Kriya(行為)から成り立っている。

イッチャ(Ichha)とは、願望、或いは、感覚である。

ジニャーナ(Jnana)とは、知ること。

クリヤ(Kriya)とは、意志の力で行動することである。

これらの三つが、彼のカルマを形づくっている。

彼は、椅子や木などのような対象物を知っている。

彼は、喜びや悲しみを感じる。

彼は、これをしたい、あれはしたくないと、意図する。

行為の背後には、願望や思考がある。

対象物に対する願望が、心の中で湧き起こる。

その時、あなたは、それを獲得する方法を考える。

その時、あなたは、それを所有しようと努力する。

願望、思考、そして行為、これらは常に相伴う。

それらは、今までそうであったように、カルマの紐の中に編まれている三本の糸である。

願望は、カルマを産み出す。

あなたは、働き、あなたの望む対象物を獲得しようと努力する。

カルマは、苦しみや喜びとして、その果実を産み出す。

あなたは、あなたのカルマの果実を収穫するために、誕生の後に、新たな誕生を手にしなければならないであろう。

これが、カルマの法則である。

 

 

Sanchita, Prarabdha and Kriyamana(サンチッタ、プラーラブダ、クリヤマナ)

カルマとは、三種類の、サンチッタ(蓄積された仕事)、プラーラブダ(実が結んだ仕事)、クリヤマナ(現在の仕事)から成っている。

サンチッタは、過去のすべての蓄積された仕事である。

その一部は、人間の人格、彼の傾向や才能、能力、好み、願望に見られる。

プラーラブダは、現在の身体に責任がある過去のカルマの部分である。

それは、結実するための機が熟している。

それは、避ける、或いは、変更されることはできない。

それは、経験されることで、使い尽されるだけである。

あなたは、あなたの過去の負債を支払う。

クリヤマナは、未来のために今為されているカルマである。

それは、アガミ(Agami:現在の行為、来世で楽しまれるために、今、生み出されるカルマ)、或いは、Vartamana(現在に関係していること)と呼ばれている。

ヴェーダンタ哲学では、美しい例え話がある。

弓矢を放つ人は、すでに矢を放ってしまっている。

それは、彼の手を離れてしまっている。

彼は、それを呼び戻すことはできない。

彼は、別の矢を射ろうとしているところである。

彼の背中の矢筒の中の矢の束が、サンチッタである。

彼が放った矢は、プラーラブダである。

そして、彼が放とうとしている矢が、アガミである。

これらの内、彼は、サンチッタとアガミを完全にコントロールしているが、しかし、彼は、彼のプラーラブダを確実に仕上げなくてはならない。

効力を発し始めた過去を、彼は経験しなければならない。

プラーラブダは、神や創造神でさえ、防ぐことはできない。

偉大な力や智慧を持ったナラ(※1)やラーマ(※2)やユディシュティラ(※3)でさえ、このプラーラブダを経験しなくてはならなかった。

ナラは、森に行きたくはなかった。

それでも、彼は行かなくてはならなかった。

彼のカルマが、彼を強いたのである。

ラーマ神だけが、アヨーディアの王に就任されることになっていた。

彼は、森に入るように強いられた。

ガンジー(※4)は、120年間、生きたかった。

彼は、撃ち殺されたくなかった。

それでも、プラーラブダ・カルマは、この出来事をもたらした。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

(※1)絶世の美女ダマヤンティー姫は婿選びの式でかねて恋こがれていた美貌の貴公子ナラ王を夫に選ぶが、幸せの日々は短かかった。嫉妬に狂う魔神カリ王にとりつかれたナラ王は狂気のようにサイコロ賭博を賭けつづけ、ついには王国までも失ってしまい、夫婦共々、森を彷徨うことになる。『マハーバーラタ』の中の物語。

(※2)インドの叙事詩ラーマーヤナ』の主人公。 コ―サラ国の都アヨーダヤーのダシャラタ王と妃カルサリヤーとの間に長子として生を受け、異母兄弟にバラタ、ラクシュマナ、シャトルグナがいる。『ラーマーヤナ』によると、彼ら4兄弟はいずれもラークシャサの王ラーヴァナを倒すために生まれたヴィシュヌ神の4分身であるという。大聖ヴィシュヴァーミトラの導きによって、ミティラーの王ジャナカを尋ね、そこで王の娘シーターと出会い、結婚する。しかしバラタ王子の母カイケーイー妃によって、14年の間アヨーディヤを追放された。ダンダカの森でラーヴァナによってシーターを略奪され、これをきっかけにラークシャサ族との間に大戦争が勃発する。

(※3)ヒンドゥー教聖典の1つである叙事詩マハーバーラタ』に登場する英雄で主人公の一人。 パーンダヴァ五兄弟の長兄。パーンダヴァ五王子が王都で人々の衆望を集めていることに嫉妬を募らせたドゥルヨーダナは、サイコロを自在に操る達人シャクニの献策を元に、父のドリタラーシュトラにユディシュティラをサイコロ賭博の場に呼び出させる。申し込まれた勝負を断ることはクシャトリヤ(古代インドのバラモン教社会におけるヴァルナ(身分)制度の第2位である王族・武人階級)の恥として、勝負に望んだユディシュティラは、シャクニのイカサマにより敗北し、全財産、弟と自分自身、そして妻ドラウパディーまでも奪われてしまい、更には王国を十三年間追放される。

(※4)宗教理由から分かれた1947年8月のインド・パキスタン分離独立に前後して、ヒンドゥー教徒ムスリムイスラーム教徒)による宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとしたが、状況は好転しなかった。同年10月には、カシミール地方の帰属をめぐってムスリム住民が暴動を起こし、第一次印パ戦争が勃発。それでもガンディーは両宗教の融和を目指し、戦争相手のパキスタンに協調しようとする態度を貫いた。そのため、「ガンディーはムスリムに対して譲歩し過ぎる」としてヒンドゥー原理主義者から敵対視され、もはや我慢ならぬと怒りで血が沸騰した有志メンバーが暴走してしまい、印パ戦争さなかの1948年1月30日、ニューデリー滞在場所であるビルラー邸の中庭で射殺される。享年、78歳。

 

 

 

『人生に目的があるときにのみ、恐れは取り去られ、人生は楽しむことができます。

もし、人生が目的を持っているなら、私たちは自分自身に尋ねる必要があります。

人生の意味とは何でしょうか? 

通常、私たちは、財産や人間関係の損失を被った後、大きな痛みを経験したときに、この問いを尋ね始めます。

私たちは、さらに多くの物質的な富や名声、力を得ることに虚しさを見てきました。

私たちは、それらの喜びがどのように素早く過ぎ去るかを見てきました。

私たちは〝もし、富や名声や力が幸福を与えてくれないなら、それでは何が幸福を与えてくれるだろうか?〟と言い始めます。

痛みから私たちは、人生にはもっと何かがあり、人生は私たちの感覚が経験することに限定されない、ということに徐々に気づき始めます。

私たちはうすうす気づくだけかもしれません。

私たちが見たり聞いたりする形ある世界を超えたものについての私たちの知識は、まだかろうじて私たちの奥深くの囁きであるだけかもしれませんが、可能性は探求する価値があります。

探求は、人生にはもっと何かがあるかもしれないという哲学を確立することによって始まります。

最初その哲学は方向を与えます。

哲学を持つと、人生はさらに多くの意味を持つようになり、直ちに違った形をとり始めます。

さらに多くのことを学ぼうという意図が集中し、集中はエネルギーを集めます。

ただそれだけのことに歓びがあります。

ゴールや私たちの動機の曖昧さだけでは、囁きは静かなままですが、私たちは人生における対象物や人間関係を以前とは異なる見方で眺め始めます。

それらはもはや私たちの人生の中心ではなくなります。

痛みはそれらを失うことにあり、あるいはそれらを失う恐れにあるのであって、それほど強烈なものではありません。

所有したり保持したりすることよりも、多くの意味を示唆するこのような哲学を持つことは、人生の雰囲気を変えます。

自由の感覚が育ちます。

次第に私たちは、重要なのは、この世の物を所有したり保持することではなく、何か他の――多分、与えたり手放すことだということに気づき始めます。

それでもこれらの考えは、ただの私たちの内部の微かな音のままです。

特に私たちはそれまであまりに声高にはっきりと、財産や富、力を獲得することや感覚的喜びを持つことは、良い人生にとって優先順位が最上位である、と聞いてきたのですから。

それにもかかわらず、微かな内部の音は続きます。

2番目のステップは、自分の人生を改革することです。

古い習慣を変え、心のあらゆる大きな変化と共に、個人的な理解力が許可し、成長するにつれ、2番目のステップは徐々に遂行されます。

例えば、物を獲得するという哲学からより大きな目的のある哲学へとシフトが起こるので、私たちの必要は減少します。

物質的には、人生はよりシンプルになり、より障害が少なくなります。

人生がより大きな意味を持っているかもしれないという哲学に従っていると、私たちはこれまでと同じやり方で、他者との人間関係を必要としていないことがわかり始めます。

私たちは私たちに何かを与えてくれる他者を必要としていません。

私たちは彼らから得られるもののための人間関係に依存しなくなります。

私たちは人間関係において、より自由であることができ、人間関係において必要とし、手にすることから――夫婦として、親として、子として、あるいは他の何かとして――与えることに重点が変わります。

感情的には、人生はより軽くなります。

哲学と改革は、常に私たちのライフスタイルが以前より華やかなものでなくなり、気晴らしをそれほど必要としなくなることを意味しています。

人により多くのものを与えるようになります。

必要なものは少なくなります。

健康に対する関心が変化します。

皮肉なことに、ご馳走を食べ、多量のアルコールを摂取し、喫煙することで、プロセスを早めるために多くのことをする人々は、死を最も怖がっている人々であるように思われます。

彼らの死に対する恐れは、より早く死をもたらす感覚的快楽に彼らを引き付けます。

人生にはそれ以上のものがあるという哲学があれば、私たちは自然により健康な食事をし、より多くの運動をするようになります。

他の変化も出てきます。

人生における優先順位が物質的で感覚的な豊かさであるという狭い視点から、霊的な目的をもった人生のより大きな視点へと広がるにつれ、その時、私たちはライフスタイルにおける習慣や人間関係において変わるだけでなく、世界を異なって見ます。

もし、私たちが得られるすべてを得るために、この惑星に偶然にどうにかして落とされたなどと、もはや考えないならば、そのとき、私たちは、それはまた他のすべての人にも真実であるとわかります。

もし、私たちが、より大きな目的のためにここにいるのなら、その時、50億人強の地球の住人すべてがそうであるのです。

私たちのコミュニティーの感覚は変わります。

私たちの家族は成長します。

私たちは、異なった道ではありますが、長い旅の途中にいるすべての兄弟姉妹である世界コミュニティーの一部であるということがわかります。

もはや、私たちは他の人々を害するような、あるいは私たちすべてが生きている世界を害するような仕事をすることはできません。

もし、私たちが環境を汚染する仕事を持てば、あるいは他の人々にとって困難を作り出すなら、私たちは他の仕事を見つけざるを得ないと感じることでしょう。

同時に、私たちは、もはや他の人々における違いに怯えることはありません。

もし、地球上の50億の人々が、より高い霊的な目的のためにここにいるのなら、そのときは、人種、肌の色、そして信条の違いは、究極的には表面上のことになります。

これらの違いは、地球上で起こる他のすべてのことと一緒に、より高い霊的な目的に役に立っています。

人種、肌の色、宗教上の信条は、同じゴールに向かっている異なった道の一部なのです。

これらの多種多様な人種や肌の色、宗教上の信条の違いがかつて抱えていた、少しばかり異なる人々は所有されたものへの脅威であるという恐れは、消えます。

東洋哲学においては、人生のこの広い角度の改革は、ダルマと呼ばれています。

ダルマという単語のひとつの意味は、個人的な行動は対人関係や地域や世界のコミュニティーと協調している、というようなやり方で、人生を体系づけることです。

それは、道徳、正義、善行を意味します。

個人的な人間関係や、より大きな世界的なコミュニティーや地球自身に対して、利己的でなく、害することなく、愛情をもって、所有せず、強欲でなく送られる人生は、霊的に健全な人生です。

しかしながら、もし、人が利己的で、他者を害し、何らかの方法でコミュニティーに害をもたらすなら、そして物や人を所有する感覚を感じるなら、そのような人の人生は眉をしかめられるものであり、霊的な進歩は妨げられます。

ダルマの別の解釈は、運命という考えです。

ダルマは人生における個人の義務なのです。

言い換えると、ダルマは最も効果的に人生のゴールに到達するために、この人生を有効に使うために個人が辿る道です。

個人のダルマは、個人的なカルマとサンスカーラに関係しています。

霊的な人生において前進するために、個人が学び、燃やし、捨て去る必要のあるものは、何でしょうか? 

学びと燃焼に影響を与えることができるダルマとは何でしょうか? 

ダルマが、大工であろうと、労働者であろうと、消防士であろうと、看護婦であろうと、コンピューター技術者であろうと、父、母であろうと、カリフォルニア人であろうと、イタリア人であろうと、関係ありません。

一般的な視点から言うと、ダルマは他より良いということはありません。

霊的な進歩という視点からすると、小さな野菜を作る農家であるか、道を掃除する掃除人であるかは、社長であり教父であることと同じくらい有能であり正当なことなのです。

それぞれの人々は、その人自身の霊的な必要に最も適したダルマを持っています。

従い発展させ、個人的な成長のプロセスにおいて助けとなるそれらの義務を認識するために、個人的な価値を提供する個人的なダルマを探し出し、確立することは極めて重大なことです。

この世俗的な人生を超えたものの探求においては、霊的な道を見つけることが必要です。

私たちは、みな心の地図の中にガイドブックを必要としています。

私たちはみな、自分たちの真の神聖な本性への聖なる旅をしているのです。

その神聖なる本性は、私たちに非常に身近で、よく知られているのですが、またそれは、私たちの思考や願望の混乱した心の奥深くに隠されています。

すべての宗教と世界の霊的な組織は、私たちの実在の自己認識についての真理を知りたいという人間的な熱望から生じています。

これらの各組織の内部には、すべての人により共有される真理への地図があります。

いくつかの地図は、サンスクリット語ラテン語ヘブライ語アラビア語、中国語で書かれています。

地図の中には、海のルートや他の陸路や空路をとっているものもあります。

山の道をガイドするものや、他の道をガイドするものもいくつかあります。

しかしながら、それらはすべて、真理の同じ頂点に行きます。

私たちは、いつも私たちの文化を代表するそれらの組織に自分自身を見出します。

宗教は、彼らのライフスタイルや環境、歴史の内容において、人々の霊的な必要に仕えるために文化から展開します。

イスラム教は特殊な文化、歴史、コミュニティーの必要から生まれました。

同じことが仏教やキリスト教ユダヤ教、そしてすべての世界の宗教組織に言えます。

他より優れたものはありません。

それらは、ただ文化、時代、必要を反映しているだけです。

ヒンドゥー教も、実際には生き方であり、人生哲学です。

それは宗教ではありません。

世界が、洗練されたコミュニケーションシステムで小さくなるにつれ、他の文化を持った宗教組織の知識を共有することは、より簡単になりました。

世界中の人々に恩恵をもたらすアイディアと技術が混合されてきました。

アメリカ合衆国ヨーロッパ大陸での今世紀の2分の1における東洋哲学の大きな動きは、この共有の見本です。

しかしながら、宗教組織となった霊的な修養が再解釈されているということを思い出すことは大切です。

制度を起こさせる霊的な義務よりも、何か他のものになった制度が現れてきました。

エスは、彼は新しい宗教を生み出してはいないと言いました。

彼は、ただ真理を語っていただけでした。

宗教制度は、発展し、イエスによって語られた真理を隠してしまいました。

真理は今まで通りそこにありますが、しかし、その周りには、この新しい制度と真理の解釈があります。

例えば、イエスは、〝わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません〟と言いました。

彼は、永遠の命、あるいはブラフマンへの道は、すべてによって体現された純粋な自己であるアートマンを知ることによる、ということを意味したのです。

形作られた組織は、述べたことを捕まえ、それを制度上の棍棒として使い、人々が、その制度に参加し、その教義をもつようになるか、あるいは、運命づけられるように要求しました。

それは、イスラム教の場合も同じです。

イスラム教の内部の探求は、スーフィーによりなされてきました。

スーフィーは、イスラム聖典に深く潜り込み、珠玉の智慧と共に浮かび上がってきました。

私は、すべての宗教はコミュニティーで共有されるべきひとつの同じ真理を持っていることを知っています。

この真理を認識している幸運な少数の人は、混乱を作り出してきたのは、聖職者の智慧と教会主義であることを知っています。

同じ現象が、すべての霊的な制度で起きました。

制度は真理を保護するものですが、それらは成長し、コミュニティーを縛りつけます。

それが宗教の意味なのです。

それは、ラテン語のligareから来ており、文化や類似の信念の人々を縛りつける、という意味です。

しかしながら、しばしば、制度はそれが教えようと意図している真理を無視し、それ自身の生気を帯びたものになります。

制度とその指導者たちは、真理そのものよりも生気に満ちたものとなります。

これは、常に、政治、偏見、独断主義、派閥主義、そして時には、お互いに争う宗教集団との流血の惨事に至ります。

精神性は、〝私たちは真理を持っている、あなたがたは持っていない。神はあなたがたではなく、我らと共にある〟ということを進展させます。

宗教の名の下の不正と、有害のあらゆる方法は、この態度から生じます。

宗教的な指導者のエゴは、彼らの追従者が彼らを礼拝する状況を作り出し、彼らを恐れさせ、そして道の目的は忘れ去られます。

望ましい道は、組織の要求や組織の指導者の気まぐれではなく、個人の真の霊的な必要に応えるものです。

真に霊的な組織においては、組織も指導者も、彼らのメンバーや追従者の霊的な必要に仕えるためにのみ存在します。』

(『聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』by Swami Rama)

 

 

 

『質問者

マントラやジャバを修練することによって、悪業の報いをぬぐい去ることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「もし「私がジャパをしている」という感覚がなければ、犯した罪も彼から離れていくだろう。

もし「私がジャパをしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼につきまとうだろう。」

 

質問者

「プンニャ(徳行の報い)はパーパ(罪業の報い)を消し去るのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「「私がこれをしている」という感覚があるかぎり、人は良いものでも悪いものでも行為の結果を経験しなければならない。

どうしてひとつの行為で別の行為をぬぐい去ることが可能だろうか?

「私がこれをしている」という感覚がなくなったとき、何もその人に影響を与えるものはない。

真我が実現されないかぎり、「私がこれをしている」という感覚が消え去ることはないだろう。

真我を実現した人にとって、ジャパをする必要があるだろうか?

タパス(苦行)の必要がどこにあるだろうか?

プラーラブダの力によって、人生はつづいていく。

だが、真我を実現した人にとって望むものは何ひとつないのである。

プラーラブダ・カルマには三つの種類がある。

イッチャー、アニッチャー、パレッチャー(個人的な欲望、無欲、他者のための欲望)である。

真我を実現した人にとってイッチャー・プラーラブダは存在しないが、他の二つは残る。

何であれジニャーニがすることは、他者のためだけに為される。

他者のためにすることがあれば、彼はそれをする。

だが、その結果が彼に影響を与えることはない。

そのような人が為す行為には、どんな徳も罪もともなわない。

ただ、彼らは世間に受け入れられた基準にしたがって正しいことだけを為すのである。

それだけである。

現世で体験されることが、プラーラブダによってすでに決定されていることを知っている人は、何を体験しようとけっしてとまどわない。

すべての体験は、それを望もうと望むまいと避けることのできないものだと知りなさい。」

 

質問者

「真我を実現した人にはこれ以上のカルマもなく、カルマに束縛されることもありません。

それならば、どうして彼は身体のなかにとどまっているのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰がこの質問をしているのか?

実現した人か、それともアジャーニか?

どうしてあなたは、ジニャーニが何をなぜするのかということに頭を悩ますのだろうか?

それよりもあなた自身の面倒を見なさい。

あなたは自分が身体だと信じているため、ジニャーニも身体なのだと思いこんでいる。

ジニャーニ自身が身体をもっていると言ったかね?

あなたの目には、彼が身体をもち、他の人のようにその身体でものごとを為しているように見えるかもしれない。

だが、彼自身は身体をもっていないことを知っているのである。

燃え尽きたロープは、いまだロープのように見えるかもしれない。

だがそれで何かを結ぼうとしても、ロープとして使うことはできない。

ジニャーニも同じで、彼は他の人たちと同じように見えるかもしれないが、それは外見だけのことなのだ。

人が身体と同一化しているかぎり、これを理解することは困難かもしれない。

そのため、このような質問に対しては、「ジニャーニの身体はプラーラブダの力が尽きるまでつづき、それが尽き果てたときに身体は死ぬ」と、ときには答えられてきたのでる。

これに関連して、「すでに解き放たれた矢は的を射るまで突き進む」という説明もある。

だが真実は、ジニャーニはプラーラブダも含めたすべてのカルマを超越しており、彼は身体にも、そのカルマによっても束縛されることはない。

「私は在る」として広がり輝く無限の意識空間に絶えず注意を集中している人には、わずかなプラーラブダさえ存在しない。

そのような人だけが、「天国に達した人は運命に支配されない」という古の言葉を理解することができるのである。」

 

質問者

「もし予期もせずに自分のもとにやってきたものごとを楽しんだ場合、それによって何か悪い結果が訪れることはあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは避けられない。

もしあなたがやってきたものを受け入れ、それ以上を望まず、再び起こることを求めなければ、それ以上の誕生をもたらすような害をあなたに与えることはないだろう。

その反対に、もしあなたがそれに執着し、より多くを求めるなら、より多くの誕生をもたらすことはまぬがれない。」

 

質問者

「占星学によると、星の影響を考慮することで未来に起こる出来事が予測されると言われています。

それは真実なのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが自己中心感覚をもっているかぎり、それはみな真実である。

利己主義が破壊されれば、それはみな偽りとなる。」

 

質問者

「つまり利己主義が破壊された人にとっては、占星術は真実ではないという意味なのでしょうか?」

 

マハルシ

「「それは真実ではない」と言う人が、そこにはもう存在しないのである。

そこに見る人がいるのなら、見るということもあるだろう。

利己主義が破壊された人の場合、たとえ彼らが見ているように見えても、本当は何も見ていないのである。

運命は過去の行為の結果であり、それは身体に関連している。

身体にはそれに適したように行為させればいい。

なぜあなたがそれを気にするのか?

なぜあなたはそれに注意を払うのか?

何かが起こるべきなら、それは過去の行為の結果として、神の意志として、そして他の要因によって起こるのである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(49)「カルマ」①

前回まで数回にわたり、ヨーガやウパニシャッドで説かれている「輪廻転生」について、ご紹介しました。

 

今回からは、まだ日本人の私たちには、あまり馴染みのない「輪廻転生」からの解放(解脱)に至るプロセスにおいて、また、生きていく上での智慧としても、非常に重要である(誰もが避けては通れない、という意味において)「カルマ」について、ご紹介いたします。

 

「カルマ」とは、”「原因と結果の法則」を通して働く行為”のことを指しています。

(日本語では、「業」と訳され、仏教などでも説かれることがありますが、ここでは、ヨーガ、ウパニシャッドの視点からの解説となります。)

 

今回は、「カルマ」の概要、仕組みや働きについて、見て行きたいと思います。

 

ヨーガやウパニシャッドでは、「カルマ」には、三種類あるとされていますので、先ず、その三種類の「カルマ」からご紹介いたします。

 

①サンチタ・カルマ(前世から積まれてきたカルマの蓄え)

 

②プラーラブダ・カルマ(サンチタ・カルマの一部で、現世で清算されなければならないもの。カルマの法則は人間の活動における決定論を意味するため、プラーラブダはしばしば運命と訳されている)

 

③アーガーミ・カルマ(現世で積まれた新しいカルマ。この一部が来生に持ちこまれる)

 

私たちの人生を植物に例えるならば、私たちは、今、種子から芽が出て、枝葉が伸び、蕾がついて花が咲き、実がなるという一連の流れの中にいる、と見ることができます。

そして、沢山ある種子の中から、一粒の種子が芽吹き、"わたし"となり、今、"わたし"は、世界にたった一つの花として咲いている、ということになりますが、この一連の流れのすべて(人生)が、「原因と結果の法則」に従って展開しており、また、その”わたし”を決定する因子としての種子も、「原因と結果の法則」によって生じた種子である、ということになり、現在の私たちの人生は、過去に蒔いた種が結実する過程(プロセス)と見ることができます。

また同時に、今に生きながら、未来に結実することになる種子を育んでいる、ということにもなります。

 

このような現象が繰り返し起きている、というのが、所謂「輪廻転生」と言われているものですが、ヨーガやウパニシャッドでは、「カルマ」(原因と結果の法則)からの脱却(解放=解脱)について、種子は燃やして消滅させる(根絶やしにする)ことで、次の結果(人間としての再誕)を生じさせない方法(解脱)がある、と説いています。
(仕組みとしては、種子が消滅すると、次に芽吹くことが起きませんので、輪廻転生からの解放(解脱)となります)

 

この三種の「カルマ」の知識を元に、これからご紹介しますSwami Sivanandaの「Bliss Divine」から「カルマ」に関するメッセージとラマナ・マハルシの御言葉をご紹介したいと思います。

 

 

Karma(カルマ)

カルマは、行動、或いは、行為を意味するサンスクリット語である。

いかなる身体的、或いは、精神的な行為も、カルマである。

考えることは、精神的なカルマである。

カルマは、現在の人生と前の誕生におけるわれわれの行動の総合計である。

カルマは、行為だけでなく、行為の結果をも意味している。

行為の結果は、実際には離れたものではない。

それは、行為の一部分であり、それから分けられることはできない。

カルマの法則は、因果の法則である。

原因があるところでは、結果が生み出されなければならない。

種子は、木にとっては原因であり、木は結果である。

原因は、結果の中に見出され、結果は、原因の中に見出される。

結果は、原因に似ている。

これは、終わりのない原因と結果の宇宙的な繋がりである。

いかなる連鎖における繋がりも、不要なものではない。

この世は、この基本的な生命の法則に基づいて動いている。

この法則は、容赦のないものであり、不変である。

この総括的な法則は、身体的で精神的な次元のどこでも作用する。

いかなる現象も、この強力な法則の作用からは逃れられない。

自然のすべての他の法則は、この基本的な法則よりも下位にある。

その背後で、肯定的で、明確で、否定し難い原因を持たない出来事は、起こらない。

戦争の勃発や彗星の出現、地震や火山噴火の発生、伝染病、嵐、雷、洪水、身体の病、運、不運の発生などすべては、それらの背後に明確な原因がある。

原因の総括的な法則は、行為と反応の法則、償いの法則、報いの法則を含んでいる。

これらすべての法則は、一般的な、すべてを包括する見出し、すなわち、カルマの法則の部類に入る。

 

 

The Law of Action and Reaction(作用と反作用の法則)

もし作用があるならば、反作用がなくてはならない。

反作用は、等しい力と同じ性質であるだろう。

すべての考え、願望、想像、感情は、反作用を引き起こす。

徳は、それ自身の報いをもたらし、悪は、それ自身の罰をもたらす。

これは、反作用の法則の働きである。

神は、邪悪な者に罰を与えないし、善人に報いることもない。

報酬や罰をもたらすのは、それら自身のカルマである。

果実をもたらすのは、作用と反作用の法則である。

終りのない精密さと科学的な正確さをもって、法則はあらゆる処で、作用する。

作用と反作用の法則は、物理的な次元においても、精神的な次元においても、作用する。

 

 

The Law o Compensation(代償の法則)

代償の法則は、自然現象において至る処で、作用する。

種子は、破れて、大きな木が種子から芽を出す。

種子の破壊においては、失われるものはない。

代償の法則に従って、木が芽を出す。

燃料は、燃える。

燃料は、破壊される。

しかし、代償の法則に従って、熱がある。

多くの物品が、熱に従って、火で調理される。

もしヴィジャヤワーダに灼熱があるならば、ヒマラヤのカイラス山、或いは、ウッタルカーシには、極寒があるだろう。

これは、代償の法則である。

もしある場所に、十人のならず者がいるならば、代償をもたらすために、二つの純粋な魂があるだろう。

もしプリで上げ潮があれば、ワルタイヤ―では、引き潮がある。

これは、代償の法則である。

もしインドが昼ならば、アメリカは夜だろう。

平和は、戦争の後に来るし、その反対も然りである。

これは、代償の法則である。

代償の法則は、また精神的な次元でも作用する。

代償の法則は、バランスを維持し続け、平和と和合、釣り合い、調和、公平を構築する。

深く考えなさい。

熟考しなさい。

よく考えなさい。

あなたは、この代償の法則が自然現象において至る処で美しく作用しているのを見ることだろう。

それは、曲げられない不変のものである。

誰も、この情け容赦のない抵抗できない法則を無視することはできない。

もしあなたが悪い行いをするならば、あなたは代償で、悪い実を収穫するだろう。

もしあなたが、物質的身体の誕生と共に始まり、死と共に終わる孤立した出来事として個人の人生を送るならば、あなたは人生の出来事に対して、正しい説明や解答を見つけることはできない。

あなたは暗闇と絶望の中で暗中模索することであろう。

全魂の生命と比べれば、あなたの現在の人生は、無いに等しい。

それは、束の間のものである。

それは、単なる断片である。

あなたが、原因、或いは、何かの以前の出来事を見つけ出したい時はいつでも、あなたは、永遠の魂という生命の出来事の中に深く入って行かなくてはならないだろう。

その時だけ、原因と結果、以前の出来事と成り行きの完全なる調和があるであろう。

あなたは、永遠の魂という生命の幅広い視点から、判断しなくてはならないであろう。

代償の法則は、広範囲な全魂の生命を包含している。

生命は、この物質的な身体だけの崩壊と共に終わらない。

輪廻転生がある。

数え切れない過去生もあったのである。

あなたは、最も広範囲な魂の生命を考慮しなくてはならないであろう。

その時、道筋は、極めてはっきりする。

その時、あなたは、人生の入り組んだ複雑な出来事に対する完全で満足できる解答を見つけるであろう。

その時、ぶつぶつ不平を言ったり、悲嘆や思い違いをする余地はないであろう』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマを、身体が存在する間にも克服することができるでしょうか?」

 

マハルシ

「できる。

カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。

自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマも生き残ることはできない。

それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。」

 

質問者

「プラーラブダ・カルマは前世から積まれたカルマの小さなひとかけらにすぎないと言われています。

これは本当なのでしょうか?」

 

マハルシ

「人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。

そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、人はその結実を現世で味わうことになる。

それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーに出すスライドだけを選びとり、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなものである。

これらのカルマはすべて、真我の知識を得ることによって破壊される。

過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。

その投影機が破壊されなければならない。

そうすればこれ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。」

 

質問者

「誰が投影するのですか?

サンチタ・カルマのなかからわずかな部分を選びとり、それをプラーラブダ・カルマとして体験させることを決定するその構造は、どういう仕組みになっているのでしょうか?」

 

マハルシ

「個人はそれらのカルマに耐えなければならない。

だが、イーシュワラ(創造)神は彼の目的にしたがってそれらのカルマを最善の状態に管理している。

カルマの報いを操っているのは神だが、彼はそれにつけ加えたり、それから取り去ったりするのではない。

人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。

イーシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちたものであれ、それぞれの人にとって、その時々の霊的進化のためにもっともふさわしいものを選択するのである。

それゆえ、何ひとつ任意のものはない。」

 

質問者

「『ウパデーシャ・サーラム』のなかで、あなたは「カルマは神(カルタ)の定めによって結果を生じる」と述べられています。

つまり私たちは、すべて神の意志によってカルマの報いを受けるという意味なのでしょうか?」

 

マハルシ

「この説のなかの「カルタ」とはイーシュワラ神を意味している。

カルマにしたがって各人は行為の報いをイーシュワラ神から割り当てられる。

それはつまり、イーシュワラとはブラフマンが人格神として姿を現したものだということだ。

真のブラフマンは非顕現であり、不動である。

現れとしてのブラフマンがイーシュワラ神と名づけられただけである。

彼がカルマにしたがって各人に行為の報いを与える。

つまり彼はただの周旋人でしかなく、為された仕事に応じた賃金を支払っているだけである。

ただそれだけのことだ。

このイーシュワラ神のシャクティ(力)なしではカルマも起こり得ない。

それゆえ、それ自体ではカルマは作用しないと言われるのである。」

 

質問者

「現在私たちが体験していることは、過去のカルマの結果です。

もし私たちが以前に犯した過ちを知れば、それらを正すことができるはずです。」

 

マハルシ

「たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたは数限りない誕生を与えるサンチタ・カルマ全体が残っている。

それゆえ、それは正しい方法ではない。

草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。

あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。

それゆえ、カルマの根本を見いだし、それを断ち切りなさい。」

 

質問者

「カルマの理論は世界が作用と反作用の結果であることを意味しているのでしょうか?

もしそうであれば、何の作用と反作用でしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現するまでは、作用と反作用であるカルマは存在するだろう。

実現後には、カルマも世界もないだろう。」

 

質問者

「もし私が身体でないなら、どうして私の善業と悪業の結果の責任が、私にあるというのでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが身体でないなら、そして「私が行為者である」という観念をもたないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることはないだろう。

なぜあなたは身体が為した行為について「私がこれをした」、「私があれをした」と言うのか?

身体と同一化するかぎり、あなたは行為の結果に影響されるだろう。

つまり身体と同一化しているかぎり、あなたは善と悪のカルマを積んでいるのである。」

 

質問者

「しかし、私は身体ではないのですから、善業と悪業の結果の責任は私にはないはずです。」

 

マハルシ

「もしあなたに責任がないのなら、なぜこの質問を気にするのかね?」

 

質問者

「ある聖典には、人の努力はすべての力の源であり、それはカルマさえ超えられると述べられ、別の聖典では、すべては神の恩寵によると述べられています。

どちらが正しいのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

ある哲学の学派は、前世のカルマ以外に神というものは存在しないと言う。

その聖典によれば、現世で為されたカルマはブルシャカーラ(人間の努力)として知られ、前世と現世のカルマは雄羊の角どうしが真っ向から衝突するように出合い、弱いほうが消し去られるのである。

そのために、これらの人びとは努力を強化しなさいと言うのである。

もしあなたがたこれらの人びとに「カルマの原因は何か」と尋ねれば、永遠の問いである「種子と木のどちらが先か?」のような質問はするものではない」と彼は言うだろう。

このような論争は、けっして最終的な真理に行き着くことのない単なる議論にすぎない。

だからこそ私は、まずあなたが誰なのかを見いだしなさいと言うのである。

「私は誰か?」、「どうして私はこの生の過ちを手にしたのか?」と尋ねれば、「私」は静まり、真我を実現するだろう。

もしこの探究を正しく行えば、過ちという観念は消え去り、平和が得られるだろう。

なぜ得る必要さえあろうか?

真我はあるがままに在るのである。

「行為者である私とは誰か?誰がカルマを始めたのか?」と問うことで、自己の真理を知ること、それがカルマの本質である。

カルマを為す自我が探究によって消去されるまでは、カルマ・ヨーガの報いである至福の平和を達成することはできない。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

(至上者バガヴァーン・クリシュナ語る)

活動(カルマ)とは また無活動(アカルマ)とは何か

賢明な者でも これを定義するのに迷う

今わたしはここで活動(カルマ)とは何かを説明する

これを知って君はあらゆる罪から離れよ

 

活動(カルマ)の諸相は、まことに複雑 神秘である

これを理解することは難しい だが

人は活動(カルマ) 誤活動(ヴィカルマ) 無活動(アカルマ)について

正しく学ばなければならない

 

活動のなかに 無活動を見

無活動のなかに 活動を見る人は

たとえどんな種類の仕事をしていても

相対世界を超越した覚者である

 

すべて欲望を持たずに行動する者は

完全智を得た人と心得よ

賢者たちは そのような人々を

大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ

 

仕事の結果に全く執着しない人は

常に楽しく 自由自在である

あらゆる種類の活動をして

しかも無活動 無業報である

 

このような英智の人は精神を完全に統制して

”我所有”(わがもの)の観念が全く無い

肉体を維持するに足るだけ働き

したがって悪業報を全く受けない

 

無理なく入ってくるもので満足し

我・他(あれ)彼・此(これ)を比較して悩み羨むことなく

成功にも失敗にも心を動かさぬ者は

どんな仕事をしても束縛されない

(バガヴァッド・ギーター第4章16ー22)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(48)「輪廻転生」④

これまで数回に渡り、「輪廻転生」について、ヨーガ的な視点から、その仕組みや現象的展開について、詳しく見て来ました。

 

肉体が消滅した後の死後のことは、生と言う現象世界の中では、これまで一度たりとも人類に明白な形で明らかにされたことがない秘密事項であるために、古今東西、いろいろな説が想像され、語られて来ました。

 

ここでご紹介していますのは、ヨーガにおける死生観であり、それは、「魂の輪廻転生」説を抜きにしては語ることができませんが、同時に、ヨーガにおいては、「輪廻転生からの解脱」も明らかにされているため、この宇宙では、「輪廻転生」は、終わりなく繰り返される現象ではなく、その繰り返しは終焉させることが可能であり、そのための方法があり、また、その方法についての詳細も、多くの聖者の方々の御言葉や、聖典とされている多くの書物の随所に、見出すことができます。

 

このテーマに関しましては、今回が最終回となりますが、最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次にラマナ・マハルシと質問者との間で交わされた会話からの抜粋、そして、最後に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、「輪廻転生」についてわかりやすく説明してくれていると感じる箇所をご紹介したいと思います。

 

これまでの過去記事では、聖者の方々の遺された御言葉を、その時取り上げたテーマに沿ってご紹介して来ましたが、それらに基づいて導き出される「唯一の真実」を思い出して頂けると、「輪廻転生」について、更に理解が深まることでしょう。

 

それは、「輪廻転生するのは、誰なのか?何なのか?」と言うことと、「私は、本当は誰なのか?何なのか?」ということに集約されます。

 

ジーヴァ(個のわたし)において、この二つの疑問に対する答えが、明確に真理に基づいた形で明らかになっているならば、「輪廻転生」するジーヴァ(個のわたし)は存在しない、という真実が、「輪廻転生」を消滅させることでしょう。

 

 

 

Birth in Lower Yonis(低い子宮の中の誕生)

 

ルシファー(悪魔)の化身である人は、一人もいない。

ある善い性質や善い性質によって促された行為は、悪い性質や彼らの行為よりも、常に優っている。

そして、人間は、次の誕生、低いか、高いかのどちらであっても、同じ種子から、魂の未来の進化へと進むのである。

一般的に、人は上向きに進化する。

より低い方への退化ではなく、より高い方への進化は、一般的には、自然の法則である。

しかし、例外もある。

もし人が、生まれながら悪魔的な特徴を帯びていて、高度に残忍な行為をするならば、もし彼が動物よりも悪いことを行うならば、もし彼が犬や猿のように行動するならば、彼は、確実に、次の生で人間として誕生するに値しない。

彼は、動物の子宮に誕生するであろう。

彼は、犬や猿、ロバとして生まれるであろう。

しかし、このような場合は、実際には稀である。

人が、凶悪な罪を犯しても、彼はこの身体に居住している間は、最大の罰を得ることができる。

そうなれば、彼が動物として誕生する必要はない。

人は、動物として誕生するよりも、人間の体でいる間に、彼の罪ゆえにより多く苦しむ。

人は、この世での厳しく苦しい経験を通して、学習する。

人が、いかに罪深く、残忍で、狂暴であろうと、彼は、苦しみ、痛み、後悔、トラブル、困難、病気、財産の喪失、貧困、愛する近しい親族の死を通して、彼自身を正し、教育する。

神は、神秘的なやり方で、罪人達を型に入れて、正す。

苦しみと痛みは、効果的な学習の力として働く。

それらは、逆戻りから彼らをくい止め、彼らを上向きへと引き上げる。

かつての罪人は、良い行いを始め、聖者の集まりを求め始める。

 

 

Cut the Knot of Birth and Deaths (生と死の結び目を切り離しなさい)

 

われわれが、どのような身体を纏っているかは、それほど問題ではない。

何がわれわれの想いであるのかが、大変重要である。

高い地位にある人間が、野獣の想いを持つかもしれない。

彼が、渇望や怒りへの犠牲になると、彼は、動物よりも悪い。

識別力がなく、卑猥な楽しみに溺れる、些細なことに癇癪を起すような人間よりも、牛の方が千倍も良い。

あなたが、将来どのような人生を受けるかについては、心配してはいけない。

現在の人生を有効に利用し、誕生と死からあなた自身を自由にしなさい。

神への献身を発揮しなさい。

さもしい願望を放棄しなさい。

他者に対して善いことをすることに一心になりなさい。

親切で良い人になりなさい。

ビシュヌ神は、三界の守護者である。

彼の創造のすべてのモノを彼の不滅の住居へと連れて行くという責任は、彼にかかっている。

彼に、彼の好きな道を通って、あなたを連れて行かせなさい。

彼に、あなたが人間、野獣、悪魔の身体である時に、あなたに解脱を与えさせなさい。

あなたの心(マインド)を、彼に集中させ続けなさい。

満開の蓮の花に吸い付く蜂のように、彼の蓮の花の足元にしがみついていなさい。

誕生と死のこの繰り返しにあなたを縛っている鎖は、あなたの願望である。

あなたがこの世の対象物を願望する限り、あなたはそれらを所有し、楽しむためにこの世に戻って来なくてはならない。

しかし、あなたの現世の対象物を求めるすべての願望が止むと、その時、鎖は壊れ、あなたは自由になる。

あなたは、もはや誕生する必要はない。

あなたは、解脱(Moksha)、或いは、最終的な解放に達する。

あなたは、あなたは神とは異なると思っているので、このサムサーラ(輪廻転生)で迷っているのだ。

もしあなたが瞑想やヨーガを通して、彼とあなた自身とを合一させるなら、あなたは不死と永遠の至福を手に入れるであろう。

永遠の智識を通して、カルマの束縛を断ち切り、最奥の真我であり、内なる支配者、アートマンの至高の平和を楽しみなさい。

あなたは、誕生と死の繰り返しから自由になるだろう。

罪から解放され、熱情から解放され、あなたは生前解脱者(Jivanmukta)、或いは、解放された賢者になるであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

質問者

「ウッダーラカは、(深い眠りの説明のように)すべてがサット(存在)から現れ出すと説明しました。

身体は食物を取り、食物は水を必要とします。

食物を消化するために、水は火を必要とします。

「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」によると、「光の輝きの源を探ること」(テージョ―・ムーラマンヴィッチャ)、それが「存在の中に融け入ること」(サット・パラスヤーン・デーヴァターヤーン)です。

もし私たちが「存在の中に融け入った」(サット・サンパンナハ)のなら、なぜ私たちはそれを悟らないのでしょう?」

 

マハルシ

「異なった花々から集められた蜜がハチの巣の中で塊となるように、そしてその一滴一滴がどこから集められたのかわかならいように、深い眠りの中や死におけるサット・サンパンナハでも、人々は自分の個としての存在を認識しません。

彼らは気づかぬうちにその状態に陥り、目を覚ましたときに以前の彼らの個人的特性を取り戻すのです。」

 

質問者

「たとえ異なった花々から集められた蜜でも、一塊となれば一滴一滴の特質を失ってしまいますが、蜜にはもともと個的な部分は存在しませんし、その源に戻ることはありません。

一方、深い眠りに入った後で目覚めた個人は、以前と同じ個人として目覚めます。

どうしてでしょう?」

 

マハルシ

「ちょうど海に流れ入った川がその個としての存在を失い、蒸発して雨水となって丘に降り注ぎ、やがて川となって海へと流れ着くように、眠りについた個人もその個としての存在を失いますが、過去の心の潜在的傾向(ヴァーサナー)によって、目覚めの世界にまた個人として戻ってきます。

このように死においてさえ存在(サット)は失われないのです。」

 

質問者

「どうしてそのようなことがありえるでしょう?」

 

マハルシ

「見てごらんなさい。

木は枝を切られても再び生えてきます。

生命の源が影響を受けないかぎり、それは生長し続けます。

同様に、死においてハートの中に沈み込んだ過去世の潜在的印象(サンスカーラ)も死に絶えることはありません。

それは機が熟せばハートから芽生え始めます。

ジーヴァはこうして生まれ変わるのです。」

 

質問者

「ハートの中に沈み込んだ微細なサンスカーラから、どうしてこの広大な宇宙が芽生えると言うのでしょうか?」

 

マハルシ

バンヤンの大木が小さな種子から芽生えたように、名称と形態をともなうこの広大な宇宙もハートから芽生えるのです。」

 

質問者

「もしその起源がサットであるなら、どうしてそれを感じられないのでしょう?」

 

マハルシ

「塩の山は目に見えても、水に溶けてしまえば見えなくなります。

それでもその存在は味によって知られるのです。

同様にサットは知性によって認識されなくとも、異なった方法、つまり超越的な方法で実現されるのです。」

 

質問者

「どのようにでしょうか?」

 

マハルシ

「密林で強盗に目隠しをされて置き去りにされた人が、道を尋ねて家に帰り着くように、無知で盲目になった人も、眼の開いた人に尋ね、自己の源にたどり着くのです。」

グルーパデーシャ(師の教え)-

ヴァーング・マナシ・サンパディヤテー、マナハ・プラーネー、プラーナステージャシ、テージャハ・プラスヤーン・デーヴァターヤーン・イティ。

死の瞬間、話す力は心の中に融け入り、心はプラーナ(生気)の中に融け入る。

プラーナはテージャス(光輝)の中に融け入り、テージャスはパラマートマン(至高の真我)の中に融け入る。(チャーンドギャ・ウパニシャッド)」

 

質問者

「もしそうなら、ジニャーニ(真我実現した人)もアジニャーニ(真我実現していない人)も同じように死ぬはずです。

なぜアジニャーニは転生し、ジニャーニはそうならないのでしょうか?」

 

マハルシ

「サッティヤービサンダ、つまり無罪の人は罪人とは違い、熱せられた鉄球に触れても焼かれないように、サッドブラフマ・サッティヤービサンダ、つまりジニャーニはサット(存在、真理)の中に意識的に融け入りますが、他の人は気づかぬうちにサットの中に入り、気付かぬうちに放り出されるのです。」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

質問者

「神智学は、タンハー、つまり再誕生への渇望について語ります。

タンハーの原因とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「再誕生への渇望は、輪廻転生を終焉させるために生まれ変わろうとする願望から起こります。

死を迎えようとしている霊魂は、現在の表面的な死の後で生まれ変わらなければなりません。

現在の死とは自己の真の本性を忘れることであり、それを思い出すことが再誕生です。

それは輪廻転生を終焉させます。

それが永遠の生なのです。」

 

質問者

「私はタンハーという言葉の意味を「生にしがみつくこと」と受け取っています。

それは永遠の生への欲望なのです。」

 

マハルシ

「間違いなくそのとおりです。

その欲望はどうして現れるのでしょうか?

なぜなら、現在の人生が耐え難いものだからです。

なぜでしょうか?

なぜなら、それはあなたの真の本性ではないからです。

もしそれがあなたの真の本性であるなら、どんな欲望もあなたを困らすことはないでしょう。

現在のあなたの状態があなたの真の本性とどのように異なると言うのでしょう?

真実のあなたは、霊性です。

しかしこの霊性は誤って自身を身体と同一視しています。

身体は心によって投影されたものです。

心そのものは霊性から生まれました。

それゆえ、誤った自己同一視が終焉すれば、言葉では言い表せない永遠の至福と平和が訪れるのです。」

 

質問者

「生命は身体に属し、転生とは別の身体に生まれ変わることを意味しています。」

 

マハルシ

「単に身体を変えるだけでは意味はありません。

この身体に結びついている自我が別の身体に移し替えられるのです。

どうしてそれで満足できるでしょうか?

しかも生命とは何でしょうか?

生命とは存在であり、あなたの真我です。

それが永遠の生命というものです。

さもなければ、あなたが存在しないときなど想像できるでしょうか?

その生命は現在身体に条件付けられています。

あなたは自己の存在と身体とを誤って同一視したのです。

あなたは条件付けのない生命です。

心の投影である身体があなたに取りついたため、今のあなたは「私は身体だ」という観念に苦しめられています。

もしこの観念が消え去れば、あなたは真我として在るのです。

誕生する前のあなたは、どこでどのようにしていたのでしょうか?

あなたは眠りの中にいたのでしょうか?

どうしていたのでしょうか?

あなたは誕生する前も身体なしで存在していたのです。

それからそこに自我が立ち現れ、そして心が身体を投影しました。

「私は身体だ」という観念はその結果です。

身体が存在するため、あなたは「身体は生まれ、そして死ぬ」と言います。

そしてその考えを自己に置き換え、生まれるのは自分で、死ぬのも自分だと考えるのです。

実際、眠りの中のあなたは身体なしで存在していました。

しかし今は身体とともに在ります。

真我は身体なしでも存在できますが、真我なしに身体が存在することはできません。

「私は身体だ」という考えは単なる無知であり、身体は真我から分離していないという考えが知識なのです。

それが知識と無知との違いです。

身体とは心の投影でしかありません。

心とは自我であり、自我は真我から生まれます。

身体という観念はあなたを真我から逸脱させ心惑わせます。

身体や誕生は誰に起こるのでしょうか?

真我、霊性にではありません。

それは真我から分離していると想像する非真我に起こるのです。

分離の感覚がそこにあるかぎり、苦悩をもたらす想念は起こり続けるでしょう。

しかし存在の源に戻ることができれば、分離の感覚は消え去り、心の平安が訪れるのです。

石を真上に放り投げたときのことを考えてごらんなさい。

それは源を去って上昇し、それから下降し始め、ついに源に戻るまで動きの中にいます。

源には休息があります。

同じように、海の水は蒸発し、雲となって風に吹かれ、水滴となって雨として落ち、水流となって丘を下り、ついには川となって源である海に帰り着きます。

源にたどり着いたとき、初めてそれは安らぐのです。

ですから、わかるでしょうか。

源から分離しているという感覚があるかぎり、そこには不安と動揺があり、分離の感覚が失われるまで動きはやみません。

あなたもまた同じです。

現在のあなたは霊性である真我から分離して自分を身体と同一視しています。

偽りの同一性が消え去る前に、源に戻らなければなりません。

そうして初めて、あなたは幸福になるのです。

金は宝飾品ではありません。

しかし宝飾品は金以外の何ものでもありません。

宝飾品がどのような形を取ろうとも、その本質はただ一つ、金です。

身体と真我についても同じことが言えます。

唯一の真理は真我です。

自身を身体と同一視しながら幸福を探そうとすることは、ワニの背中に乗って河を渡ろうとするようなものです。

身体との自己同一化をもたらすのは、外に向かってさ迷う心です。

そのような状態にとどまるなら、混乱は際限なく続き、心の安らぎはありえません。

あなたの源を探し出しなさい。

そして真我に融け入り、「一なるもの」として在りなさい。

再誕生は現状への不満と、不満のないところに生まれたいという欲望を示しています。

誕生は身体のものでしかないため、真我に影響を与えることはできません。

身体が消滅した後でも真我は在り続けます。

永遠の真我とはかなく消え去る身体との誤った自己同一化、それが現状への不満の正体です。

身体とは自我の必要付属物です。

自我が殺されれば、真我はその栄光とともにあきらかになるでしょう。」

 

質問者

「恐れとは存在を失うという可能性の結果です。

それは身体に根づいたものです。

眠りの中では、人は身体に気づいていません。

人は恐れることなく喜んで眠りにつくというのに、死ぬことは恐れるのです。

どうしてこのような違いが起こるのでしょうか?」

 

マハルシ

「眠りを求めたり死を恐れたりすることは、心が活動しているときだけで、眠りの状態や死の状態の中では起こりません。

心は「身体を持つ実体が眠りの間も存続し、眠りの後に再び現れる」ということを知っています。

それゆえ、眠りに恐れは起こらず、その代わりに身体的存在がなくなることの喜びが求められるのです。

一方、心は死が起こった後、再び現れるかどうかに確信がないため、それを恐れるのです。」

(ラマナ・マハルシとの対話より)

 

 

 

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。

感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。 

死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触するようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。

これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマン接触するにはどうしたら可能でしょうか? 

もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。

智慧と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟らされることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。

無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰ってきます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。

生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何度も何度も生まれます。

この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

科学的なアプローチは、原因と結果の法則に一致しているもっともらしい理論として取り扱うことができるだけです。

それが、物質的な宇宙の正に基本なのです。

ウパニシャッドの師たちは、天国か地獄における永遠の生まれ変わりの理論には感銘を受けませんでした。

なぜなら、このような仮説は、原因と結果の不釣り合いな関係に基礎を置いているからです。

地球上の人生は短くて、誘惑に満ちています。

魂に数年の、あるいは全生涯であろうと、その過ちのために永遠の罰を与えることは、物事のあらゆる釣り合いを捨て去ることです。

古代の預言者たちは、魂の体現をもたらすのは、満たされない願望であると示して、合理的な基準で、生まれ変わりの理論を発展させました。

別の体を手に入れる前に、魂が死の移行期で過ごさなくてはならない時間の長さは、ただ、願望の強さに依存しています。

自然に設定された厳しくて固定した法則はありません。

信じる、信じないは、人の霊的な向上にとって重要な考えではありません。

事実は、もし、全能の神が親切で慈悲深く、人間の運命を決定するのなら、彼の創造において不平等はないということになります。

平等は絶対の法則であり、不平等は人間が作ったものなのです。

生まれ変わりの理論によると、私たちはみんな自分の今生とあの世の生に完全に責任があります。

各人は、自分の過去の個人的なカルマを通して形作られた世界に生まれます。

魂は、体の現れを通して、願望を満たした後、体を脱ぎ捨て、新鮮な形を身につけます。

私たちの願望と傾向に応じて、私たちは、微妙な点でいろいろな段階や浄化や微細な鞘のレベルを構成しているより高い、あるいはより低い次元に生まれます。

私たちは、私たちが想いと行いを通して、自分の未来の運命の創造者であることを忘れてはいけません。

神は邪悪な者を罰し、善行者に報いると考えることは愚かなことです。

私たちは、次の生まれ変わりの要因を意識的に選んではいません。

それらは、私たちの以前の行動、想い、願望によって、決定され、あるいは選択されます。

人を表面的に人格として決定する、この決まりきった型である溝の蓄積、あるいはサンスカーラは、ある誕生から次の誕生へと旅をします。

溝は砂漠の砂丘のように、人の経験と意志に応じて、移ります。

それらは、異なる人格と異なる姿を創造しながら、しかしすべては究極の自由に向かって動きながら、形を変え、大きな時間の広がりに影響を与えます。

溝は、姿の特徴を決定します。

男性か女性か、どんな親か兄弟か、どんな身分か、どのくらいの苦しみ、どのくらいの喜びか、等々。

それについて任意のものはありません。

誕生は、展開している個人の魂の霊的な必要性に完全に釣り合っています。

地球、あるいは天国における生の一時的な性質を悟った人々は、生と死の終わりのない繰り返しを避けることを求めます。

彼らは、けっして戻らない天国を超えた最高の実在であるブラフマロカを熱望します。

悟った個人は、完全にすべての状態で、人間の体で生きている間も、死の状態の間も、気づいています。

ブラフマンを知る者は、どんな領域にも、あるいは天国にも行くことはありませんし、常にそうであるもの――すべての自己であるアートマン以外の何かになることもありません。

物質的な外観を落とした後は、悟った魂は、永遠の至福と幸福、無限の愛と智慧の状態にあります。

アートマンを知った者は、眠りから目覚め、もはや夢を見ない人のようです。

視覚を取り戻した目の見えない人のようです。

アートマンの直接体験を持つ解放された魂は、他人に仕えるために戻る選択をしないならば、物質的な次元には戻りません。

このようなジーヴァ・ムクタ(生前解脱者)は、もはや束縛対解放のような二元に身を投げることはありません。

悟った魂は、他の人間を盲目にしているカルマのすべての撚糸(よりいと)を燃やします。

このような人は、自由の意志をふるい、生まれ変わるべきか、絶対と融合すべきかを選択します。

もし選択が生まれ変わりなら、その誕生の環境は、また意識的に選択されます。

仏教によると、このような魂は、アルハット(阿羅漢)と呼ばれます。

死の王(ヤマ)によって明らかにされた秘密は、死後、どこに生きるのかを知りたいと思うすべての人間にとって、すべての秘密の中の最も大きな秘密です。

通常の人間の場合には、これは来たる多くの誕生にとっては秘密のままです。

生と死の神秘やあの世の生は、ごく少数の幸運な人々にのみ知られているのです。

人間は、物質世界や、いかに自然を凌(しの)ぐかについて、非常に多くのことを学びます。

彼らは、誕生の秘密を知るために一生懸命に働き、誕生のプロセスをより楽に苦痛が少なくなるようにする方法を見つけました。

しかしながら、彼らは死に対し適切に準備することを学んでいません。

死は恐ろしいものではありませんが、恐ろしいのは、死の恐れです。

死は、ほとんど中身のない、まったく喉の渇きを癒さないカスを噛んでいるようなものであり、この世を楽しむことに彼らの時間とエネルギーを浪費した人々に慰めを与える母親のようなものです。

死は、点であって、終止符ではありません。

死はただの体験であり、誰も逃れることができない変化でしかありません。

その準備をしない人は愚か者です。

真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。

 

魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。

話す、掴む、動く、妊娠する、排泄するという行為の5つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と5つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。

仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されていません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。

生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの2つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディを達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

 (聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く byスワミ・ラーマ)

 

 

 

 

アルジュナ問う

「信仰を持っていたが 持続できなかった人

はじめ真我実現の道を進んだが 俗心に負けて

ヨーガを完成できなかった人々は

その後いかなる運命をたどるのですか?

 

大力無双のクリシュナよ そのような人は

至上者(ブラフマン)への道をふみ外して

どの領域にも立場がなくなり

ちぎれ雲のように消滅するのですか?

 

クリシュナよ これが私の疑問です

ぜひこの不安をとり除いて下さい

私の疑惑を打ちくだくことのできるのは

あなたをおいて ほかにありません」

 

至上者(バガヴァーン)答える

「プリターの息子よ 真理を求めて

めでたき行いをした人々は

この世でも霊界(あのよ)でも破滅することはない

友よ 善を為した者は決して悪道に堕ちない

 

挫折したヨーギーは次生において

純真清浄な者たちの住む星界に往き

長い間そこの生活を楽しんだ後で

地上の徳高き豊かな貴族の家庭に生まれる

 

または大いなる智識をそなえた

ヨーギーの家庭に生まれてくる

地球上(このよ)において このような誕生は

まことにまことに稀なのである

 

アルジュナよ そのような家庭に生まれて

彼は前世における神聖な意識を

よみがえらせて その力を一新し

再び最高の目的に向かって努力するのだ

 

前世で聖なる意識をもっていた徳により

彼は我知らずヨーガの思想に魅かれる

探求心の強い求道者は常に

宗教儀礼を励行する者よりも勝れている

 

幾多の誕生をくりかえして修行を重ね

誠実に努力して霊的向上に励み

すべての汚濁(よごれ)を洗い清めたヨーギーは

ついに至上の目的地に着くのである

 

ヨーギーは苦行者よりも偉大である

ヨーギーは哲学者よりも偉大である

ヨーギーは有益な働き手よりも偉大である

故にアルジュナよ ぜひヨーギーになりなさい。

 

だが全てのヨーギーのなかで最勝の人は

大いなる信をもって わたしに帰命し

常に信愛を捧げて礼拝奉仕する人だ

彼はわたしの最も親しい身内なのだ」

(バガヴァッド・ギーター 第6章37ー47)

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(47)「輪廻転生」③

ここ数回に渡り、ヨーガの視点から語られている「輪廻転生」について、ご紹介しています。

 

私たちのほとんどは、”一人の人間として生きている”という感覚や認識があるために(それらが生じていない人はいないことでしょう)、死後、自分はどうなるのだろう?とか、この生きている現世(この世)があるように、死後は、死後に生きる来世(あの世)があるのだろうか?などと、まことしやかにこの世に流布しているごく僅かな情報を元に、可能な限りの空想・想像をふくらませ、「死」に対するイメージを抱き、中には、その時を迎えるための心の準備をしている人も、いるかもしれません。

 

所謂「真我の智識(Atman-Jnana)」である「真我だけが実在であり、個我はただの想念に過ぎず、実体のない非実在である」ということが明らかになると、この世に死んだり、誕生したりする「個」と言う存在は存在せず、それまで想像していた「個人の死」は、肉体との誤った同一視によって生じている単なる想念の中で起きている幻想(迷妄)であるという理解が起こり、”個別の魂が輪廻転生する”という誤った想念は、消滅します。

 

肉体が、個々人によって異なることから、その肉体に宿る「魂」までもが、個別であろうという思い込みは、完全に誤りであり、それは、私たちが、”自分とは何であるのか?”を知らないため(明知でないため)に起こること(無知)であるという理解が生まれます。

 

「魂」には、個別性はありませんし、違いはありません。

わかりやすい例えで言うならば、肉体に宿る「魂」とは、源である大きな宇宙発電所から電気(エネルギー)を供給してもらっている個々の変電所のような存在だとイメージすれば、理解しやすいでしょう。

変電所で変圧された電気(エネルギー)が、私たち一人一人の生命エネルギーとして私たちを動かす動力として働いています。

「魂」からの生命エネルギーが供給されなくなると、身体も心も働くことができなくなります。(人間は、この現象を「死」と呼んでいます)

 

本当の自分(真の自己)とは、肉体ではなく、心でもなく、永遠不滅の「魂」であり、その永遠不滅の「魂」は、個別のものではなく、この宇宙を在らしめ動かしている唯一の源である大霊(真の実在)と同じである、ということがわかれば、「個別の魂が輪廻転生する」という幻想(想念)は、消滅することでしょう。

 

この誤った想念が消滅しない限り、誤った想念は顕れ続けますので、誤った想念と共に顕れ続ける「わたし」は、「輪廻転生」という誤った想念と共にいることになります。

 

この自動反応的な結びつきを断ち切るには、「真我の智識(Atman-Jnana)」の実現が、必要不可欠であり、「真我の智識(Atman-Jnana)」が明らかになると、自然と、「個という幻想」が消滅するため、個が生と死を繰り返すという「輪廻転生」という誤った想念も消滅します。

それまで変化する肉体と同化していた「魂」ですが、「真我実現」がなされた後では、常に変化する変化変容のこの世にありながらも、この世の変化に影響を受けない「真我」に留まることで、この世という夢の世界との結びつきが断たれた状態である「解脱」が、自然ともたらされることでしょう。

 

それまでは、個人は、夢の中にいますので(その自覚がなくとも)、夢の中では、個人は、生と死を繰り返す「輪廻転生」を繰り返すことになります。

しかし、ひとたび「真我実現」がもたらされれば、本当に実在するのは、真我である「魂」だけであり、「個としてのわたし」は幻想であることが明らかになるために、「個人の死」という概念は消滅します。

よって、”輪廻転生する「個人のわたし」はいない”、ことになります。

 

それ故、「私は誰か?」この問への答えである「真我の智識(Atman-Jnana)」だけが、個に生じている輪廻転生の束縛を断ち切ることができると言えるでしょう。

 

前回同様、最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」、次は、ラマナ・マハルシが真我探究者に読むことを推奨したとされている「ヨーガ・ヴァーシシュタ」から「解脱」について、そして、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介したいと思います。

また、今回は、最後に、ヒンドゥー教聖典とされている「バガヴァッド・ギーター」から、主クリシュナが、探究者アルジュナを諭す御言葉の中から、「私は誰か?」という問いへの答えとして、明確に述べられている真理をご紹介いたします。

 

この理解に至れば、「輪廻転生」とは人間にとって何であるのか?ということが明白になり、「個のわたし」と「輪廻転生」とを結びつける束縛の糸を断ち切ることができることでしょう。

(真我である「魂」は、肉体(物質体)ばかりでなく、心(アストラル体)とも同化していますので、束縛の糸は、一本ではありませんが、肉体と心は固く結びついているので、真我である「魂」と肉体との同化が断たれると、心との同化も断たれるために、一太刀で一刀両断できることになります。

このことについては、後々の記事の中で、解説する予定でいます)

 

 

 

Real-Life Instances that Prove Rebirth(再誕を証明する現実の人生の例)

 

これは、輪廻転生のヒンドゥー教の理論を信じない人々への異議である。

最近、サンティ・デヴィという少女が、デリーにおける彼女の過去生を活き活きと詳しく描写した。

デリーやマトラでは、いや、ウッタルプラデーシュ州中で、大きな物騒ぎとなった。

彼女の記述を聞くために、大勢の群衆が集まった。

彼女は、マトラに住んでいる彼女の過去生の子供や夫を認識した。

彼女は、お金が保管されている場所や、今は表面を覆われている家の中の古い井戸を指摘した。

すべての彼女の供述は、正当に確かめられ、ちゃんとした目撃者達により確証されている。

このような幾つかのケースは、ラングーン、シタプール、その他の場所で起きている。

彼らは、今では、極めて一般的である。

このような場合には、個の魂は、古いアストラル体、或いは、微細身(Linga Sarira)

を伴って直ぐに再誕する。

それは、過去生の記憶がやって来る理由である。

彼は、彼の数々の世界の体験に従い、新しい心とアストラル体を再構築するために、長い時間、精神(メンタル)世界に留まらなかったのである。

 

 

 

Karma and Rebirth(カルマと再誕)

 

再誕の教義は、カルマの法則に対する必然的に引き出せる結論である。

一人の個人と他の個人の間に見出された気質の違いは、彼らの個々の過去の行為に因るものでなければならない。

過去の行為は、過去の誕生を暗示する。

更に、すべてのあなたのカルマは、今生で必ずしも身を結ぶことができない。

それ故、残っている行為を楽しむためにもう一つの誕生がなければならない。

それぞれの魂は、一連の誕生と死を持っている。

誕生と死は、あなたが不死の智識に到達するまで、続くであろう。

善いカルマは、より高い領域への転生へと導き、悪いカルマは、より低い領域への転生へと導く。

徳により、より高い次元への上昇を得、悪により、より低い次元への下降を得る。

至福は、智慧に起因し、束縛は反対である。

カルマが使い尽されない限りは、―良くても、悪くても-人は、数百カルパ(1カルパは432,00,00.000年)の時間を経ても、解脱(Moksha)、或いは、最終的な解放に達することはない。

善いカルマと悪いカルマは、共に、彼らの鎖で個の魂を固く縛っている。

一つは、金の鎖、もう一つは、鉄の鎖である。

解脱(Moksha)は、永遠の智識が獲得されない限り、人によって達成されることはできない。

 

 

 

Christian Theory Contradicted(相反するキリスト教的理論)

 

輪廻転生の目的は、改善と完成である。

それは、生と死の繰り返しから彼を自由にする究極の実現を人間に準備させる。

人は、一つの生で完成に達することは、ほとんどできない。

彼は、彼のハート、知性、手を開発しなくてはならない。

彼は、完璧な方法で、彼の人格を形成しなくてはならない。

彼は、慈悲、寛容、愛、赦し、平等感、勇気など、数々の徳性を開発しなければならない。

彼は、多くの練習と経験をこの大いなる世界という学校で学ばなければならない。

それ故、彼は、多くの人生を経験しなくてはならない。

輪廻転生は、真実である。

一つの小さな生は、あなたの後ろとあなたの前に広がる長い連続の一部分である。

それは、全く些細である。

人は、少しの経験だけを得る。

彼は、ほとんど進化しない。

一つの人生のコースの間、人は、多くの悪い行いをする。

彼は、ほとんど善い行いはしない。

善い人間として死ぬ人は、極僅かである。

キリスト教徒は、一つの人生が、すべてを決定し清算すると信じている。

後の誕生で、彼自身を清めるために、罪人に与えられる機会はない。

彼の限定的な罪は、もし少しも清められなければ、死んでいる彼を終わりのない惨めさに突き落とす。

これは、どうあることができるだろうか?

人の永続する未来は、一つの小さなほとんど意味のない人生に頼るために、どのように作られることができるだろうか?

もし、あの人生で、彼がキリストを信じるなら、彼は天国で永遠の平和を得るだろう。

もし彼が、その人生で不信心なら、彼は永遠の天罰を受けるだろう。

彼は、火の湖か恐ろしい地獄に永遠に投げ込まれるだろう。

これは、最も不合理な教義ではないだろうか?

彼は、修正や改善のためのチャンスを得るべきではないのだろうか?

輪廻転生の教義は、極めて合理的である。

それは、人の矯正、成長、徐々なる進化のための十分なチャンスを与える。

ヴェーダンタは、極悪人のためにでさえ、救済の希望があると言っている。

罪人は、限定された期間、彼の悪行の報いを収穫しなければならない。

彼が、彼の罪から洗い清められた後、彼は再び理性のある存在として生まれ、それと同時に、正しい道と誤った道を選択する意志の自由と共に、そして他のモノから一つを識別する智識と共に、彼の解放を成就するための新しい機会を与えられる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『ナチケータの父も、供物を施した後にブラフマン智慧が当然の結果として生じるという確信を持っていたにもかかわらず、彼の富を手放すことができませんでした。

カタ・ウパニシャッドは、彼が供物の一部として引き渡すために牛を連れてきたと語っています。

しかし年老いて、乳が出ない盲目で病気の、ほとんど、いえ、全く役に立たない牛だけでした。

ヴァージャシュラヴァサは、良い牛は自分のために取っておいたのでした。

ナチケータは、父が供物のために連れてきた年老いて役に立たない牛を見て、このような価値のない贈り物は父に不幸をもたらすだろうということがわかりました。

父を助けたいと熱望し、ナチケータは父に、息子として彼もまた父の財産であり、分配のための供物に含めるべきだということを思い出させました。

「お父さん、あなたは私を誰に捧げるのでしょうか?」ナチケータは尋ねました。

ヴァージャシュラヴァサは、これらの供物が心無いものだという考えに絶えず付きまとわれていたので、自分の否定的な感情を息子に向け、ナチケータの申し出を生意気な言葉として解釈することを選びました。

三度、ナチケータは父に自分は誰に捧げられるのかを尋ねました。

三度目の後、ヴァージャシュラヴァサは怒って言い返しました。

「わしは、おまえを死の支配者であるヤマにくれてやる」

ナチケータは、純粋な心の持ち主で信仰心にも溢れていたので、陽気に父の言葉をその通りに受け取りました。

「死には何もない」とナチケータは言いました。

「すべての存在は穀物の種のように実り、そして再び死ぬ。

今私は真理を発見し、そして死の神秘を覆うヴェールを取り除く最初の人間となろう」

ナチケータがヤマの住居に行くと、死の支配者は留守でした。

ヤマが戻るまでに三晩が過ぎました。

留守で客人を歓迎できなかったことを穴埋めするために、ヤマはナチケータに、適切なもてなしもせず独り待たせた一晩ごとに一つ、合計三つの願いをかなえることにしました。

最初の願いとして、ナチケータは、彼が父に対して持っている敬意を再び証明するもので、ヤマに今自分は家から離れているので、ヴァージャシュラヴァサの心をなだめ、怒りを鎮め、父が持っているかもしれない心配事を取り除くように頼みました。

ヤマは願いを聞き入れ言いました。

「おお、ナチケータ、おまえの父は幸運にもおまえを認めるだろう、そしておまえを大いなる愛と優しさをもって扱ってくれるだろう」

二番目の願いとして、ナチケータはヤマに火の供物、それに伴うすべての儀式、祭典を見せて欲しいと頼みました。

「天国では」と二番目の願いの要求の中でナチケータは言いました。

「恐れもなく死もなく、年を取ることもなく、滅びることもなく、飢えもなく、渇きもなく、痛みもなく、苦しみもありません。永遠の至福があります。死の支配者であるあなただけが、供物を催行することにより、死に至る者がどのようにこの至福の天国に至ることができるのかを知っています。

これが、私の二番目の願いです。

私は死者を天国に導く供物の性質を知りたいのです」

ヤマはそれをかなえ、ナチケータに火の供物を教えました。

ヤマはそのとき、ナチケータに三番目の願いを選ぶように言いました。

自分の気持ちを検討し、心を静めた後、ナチケータはヤマに言いました。

「人は世界から離れた後、永遠に去ってしまうと信じられています。

一方で、再び生まれるという別の視点もあります。

死の後でさえ、人は真の意味で死ぬのではなく、精妙なる体を持った精妙なる段階にとどまっていて、外の物質的な外観だけが捨てられ、それを死と呼ぶというものです。

死んだ人が生きるというさらに別の視点もあります。

これらのうちどれが本当ですか? 死の後は何が存在するのですか? 

私に説明してください。

死の神秘に関する真理、これが私の三番目の要求です」

ヤマは、彼の若い弟子の熱意と正直さを試すことなく、ナチケータに死の神秘について説明したくありませんでした。

ヤマは、ナチケータに神々でさえこの神秘について理解することは困難であると語りました。

「把握することは誰にとっても大変難しい」とヤマは言いました。

「違う願いを言いなさい。そうすればわしは大いに喜んでそれをかなえよう」

ナチケータの気持ちは揺らぎませんでした。

彼はヤマに、神々が死の神秘に一度は惑わされても、主題を理解するのが難しくても、それを説明するのにヤマよりも良い教師はいない、と言いました。

「おお、死の王よ」とヤマは言いました。

「わしは他のどんな要求もさせまい。これに匹敵する願いはないし、わしは秘密を知らなくてはならない」

ヤマは他の道を試し、神と富、過ぎ去っていく物質的な喜びと永遠の歓び、幻影と真実との間の選択という、すべての人類が直面する誘惑でナチケータを試しました。

ヤマは、ナチケータに天国にあるすべての喜びと共に、彼が望むだけ何年も生きられることを申し出ました。

ヤマはナチケータの子ども、ひ孫、そして玄孫、立派な馬や象、金、宝飾品、珍しい宝石を保証しようと言いました。

彼はナチケータに地球の王国を与え支配させようと言いました。

彼はナチケータの要求する三番目の願いをかなえたくなかったのです。

「求めた三番目の願いの代わりに、この富と力をすべて受け取りなさい」とヤマはナチケータに言いました。

「これ以外のおまえのすべての願いをかなえてあげよう」とヤマは続けました。

「なぜなら、それは、生の最も偉大なる秘密だからである。

普通の人間が持つことはないような天界のすべての乙女たちは、もしおまえが望むならば、おまえものとなろう。

再びあの問いをわしに尋ねるな。わしは生と死の秘密を漏らしたくないのだ」

そのとき、ナチケータは、生と死の関係や人生の目的について知りたいという信念と決意の深さを見せました。

彼はヤマが申し出た誘惑には興味がありませんでした。

彼はヤマに躊躇わずに答えました。

彼は死の支配者に言いました。

「これらすべての一時的で消滅する事物をどうしろというのです? 

感覚によって知覚されたすべては一時的なものです。

そしてこの次元の生命は死によって変化し、滅びます。

天国における生でさえ、自由の知識を獲得しないでは生きる価値はありません。

あなたのすべての踊り子たちや世俗的な誘惑はただ感覚的な喜びであるだけです。

おお、死の王よ、それらはご自分で持っていてください。

誰も世俗的な富によって幸福を得ることはできません。

この世界の物質的な楽しみと天国での生は変化することになっています。

この世界がすぐに過ぎ去るという性質を知った後で、誰が長寿だけを願うでしょうか? 

私は千年も生きたいとは思いません。

もし私が最高の智慧を得て、至高の智慧に達せないのなら、私はこんなに長い人生で何をすべきでしょうか?」 

ヤマがナチケータの明晰さと決意を見た時、彼は喜んで三番目の願いかなえることを申し出ました。

今やカタ・ウパニシャッドは本気で、不死の秘密、生と死の意味を明らかにし始めます。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

 

 

『 解脱の第二の門番である真我探究は、綿密な聖典の研究を通して浄化された知性によって為されるべきだ。

この探究が途切れるようなことがあってはならない。

そのような探求を通して知性は鋭敏になり、「至高なるもの」の実現を可能にする。

それゆえ、ただ真我探究だけがこのサンサーラという長く続く病の最高の治療法なのだ。

賢明な人は、力、知性、能率、時宜を得た行為を真我探究の成果と見なす。

実際に、王国、繁栄、快楽、そして最終的な解脱でさえ、すべては探求の結果なのだ。

軽率な愚か者に襲いかかる災難でさえ、この探究精神が守ってくれる。

探求の欠如で心が愚鈍になると、月の涼しい光でさえ恐ろしい武器となる。

そして、未熟な想像力が暗闇のいたる所に悪鬼を撒き散らすのだ。

それゆえ、探求しない愚か者はまさに不幸の倉庫だ。

探求の不在は、自分自身や他者に害や無数の心身の病気をもたらす行為を生み出す。

そのため、そのような軽率で愚かな人々とともにいることは避けなければならない。

絶えず探求精神に目覚めている人は、出会う人すべてに啓示を与え、無知な心によって生み出された亡霊を追い払い、感覚的快楽とその対象という虚偽を見破る。

ラーマよ。

永久不変の真理は探究の光の中で実現される。

これが「至高なるもの」だ。

それさえあれば、人は何か他のものを得ようとすることも避けようとすることもなくなる。

妄想や執着から自由になり、無為に浸ることも行為に溺れることもない。

彼は世界の中で生き、働く。

そして自然な寿命を全うしたとき、完全に自由な至福の状態に達するのである。

霊的探求の眼は、あらゆる活動の只中にあっても、その視野を失うことはない。

この眼を持たない者は、実に哀れだ。

この眼がないなら、泥の中のカエル、糞の中のウジ虫、穴の中の蛇に生まれたほうがましだ。

真我探究とは何か?

それは「私は誰か?このサンサーラという悪はどうして生まれたのか?」と尋ねることだ。

真理の知識はこのような探求から生まれる。

そのような知識から自己の内に静寂があふれ出す。

そして、そこに理解を超えた至高の平和とすべての哀しみの終焉が訪れるのだ。

 

もう一人の解脱の門番は、「満足すること」である。

満足の甘露を飲み干した人は、感覚的快楽を求めるようなことはしない。

この世のいかなる喜びも、すべての罪を拭い去る「満足」ほど快いものではない。

満足とは何か?

求めても得られないものへの願望を放棄し、求めずして得たものに満足すること、そのために得意がることも憂鬱になることもない――それが満足である。

自己に満足しないかぎり、人は悲しみに支配されてしまう。

満足が生まれると、清らかなハートが花開く。

何も所有せずに満足する人は、世界を所有するのだ。

もう一人の解脱の門番は、サットサンガ(賢者との交際)だ。

サットサンガは人の知性を広げ、無知と心理的苦悩を破壊する。

どんな犠牲を払っても、どんなに困難であろうとも、道を防げる障害が何であろうとも、けっしてサットサンガを軽んじてはならない。

なぜなら、ただサットサンガだけが人生の道を照らすからだ。

慈善、禁欲生活、巡礼や宗教儀式のような他の修練をするよりも、サットサンガは遥かに優れている。

人はハートの無知の暗闇を照らし、真理を実現した聖者を讃え、力の限りをつくして奉仕するべきだ。

その反対に、そのような聖者に無礼を働く者は、間違いなく苦難を招くことになる。

これら四つ――自己制御、探求精神、満足、サットサンガ(賢者との交際)は、サンサーラの海に溺れる人たちを確実に救うことのできる手段である。

満足は最大の報酬だ。

サットサンガは目的地までの旅路の最高の同伴者だ。

探求精神はそれ自体が偉大な叡智であり、自己制御は無上の幸福なのだ。

もしあなたがこれら四つすべてにたずさわれないなら、一つだけでも実行しなさい。

それらの内の一つを誠実に修練すれば、他の三つもあなたの内に見いだされるだろう。

そして、自然とあなたの内に最高の叡智が湧き起こるだろう。

これらの高尚な特質の助けを借りて、心という野生の象を飼いならすまでは、たとえあなたが神や半神半人になったとしても、「至高なるもの」に近づくことはできない。

それゆえ、ラーマよ。

これらの高尚な特質が培われるよう努力しなさい。

ここで挙げたような特質に恵まれた人は、私が今から明らかにすることを聞くにふさわしい。

ラーマよ。

あなたはまさにそれにふさわしい人なのだ。』

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

 

『心とは真我と身体の同一化にすぎません。

それによって偽りの自我が生み出され、それがまた偽りの現象を生みだし、あたかもその中で活動するかのように見えるのです。

しかし、これらすべて偽りです。

真我だけが唯一の実在なのです。

偽りの同一化が消え去れば、常在の実在は明らかになるでしょう。

実在が今ここに存在しないということではないのです。

それは常に存在し、永遠に変わりません。

それはまた誰もが体験していることです。

なぜなら、誰もが「自分は存在している」ということを知っているからです。

「自分は誰か?」とは、主観的には「私は誰か?」です。

偽りの自我は対象と関わっています。

この自我自身もその対象なのです。

対象であるなら、それは偽りだということです。

主体だけが実在だからです。

対象、つまり身体とあなた自身を混同してはいけません。

これが偽りの自我を生み出し、その結果、世界とその中で活動するというあなたに不幸が現れ出すのです。

あなた自身をあれこれ、誰それなどと考えてはいけません。

ただ偽りを払い去りなさい。

そうすれば、実在はおのずと明らかになるでしょう。

聖典は「真我はニディア・シッダ、すなわち永遠の存在である」と述べながら、無知を取り除くことについて語っています。

もし真我が永遠の存在なら、どうしてそこに無知がありえるでしょう?

誰にとっての無知だというのでしょうか?

これは矛盾しています。

しかしそのような言葉は誠実な探究者を正しい道に導くためのものなのです。

「私が存在しなかったことは一度もない。あなたも、ここにいる王たちも。。。。」このような平易な言葉で述べたなら、探究者は唯一の真理を理解できないでしょう。

シュリー・クリシュナは真理を説きましたが、アルジュナは理解できませんでした。

後にクリシュナは「人々は私を身体と同一視するが、真理においては、私は生まれもせず、死にもしない」とわかりやすく語っています。

それでもアルジュナにとって真理が明らかになるには『バガヴァッド・ギーター』のすべてを必要としたのです。

真我とはただ「在る」ことであり、あれやこれとして在ることではありません。

それはシンプルな存在なのです。

在りなさい-そうすれば無知は終焉するでしょう。』

(ラマナ・マハルシとの対話(1))

 

 

 

 至上者(バガヴァーン)クリシュナの言葉

『君は博識なことを話すが

悲しむ値打ちのないことを嘆いている

真理を学んだ賢い人は

君のためにも死者のためにも悲しまない

 

わたしも 君も ここにいる全ての人々も

かつて存在しなかったことはなく

将来 存在しなくなることもない

始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ

 

肉体をまとった魂は

幼年 青壮年を過ごして老年に達し

捨身して直ぐ他の体に移るが

自性を知る魂はこの変化を平然と見る

 

クンディーの息子よ 寒暑 苦楽は

夏冬のめぐる如く去来するが

すべて感覚の一時的作用にすぎない

アルジュナよ それに乱されず耐えることを学べ

 

アルジュナよ 人類の中で最も秀れた男よ

幸福と不幸に心を乱さず

常に泰然として動かぬ者こそ

大いなる自由*を得るにうさわしい

(*解脱)

 

物質と霊の本性を学んで

真理を徹見した人びとは

非実在は一時的に現象(あらわれ)ても持続せず

実在は永遠に存在することを知る

 

一切万有にあまねく充満しているものは

決して傷つかず 壊されもしない

たとえ如何なる人でも 方法でも

不滅の魂を破壊することはできない

 

全ての生物は永遠不滅であり

その実相は人智によっては計り難い

破壊され得るのは物質体(にくたい)だけである

故にアルジュナよ 勇ましく戦え!

 

生物が他を殺す また殺されると思うのは

彼らが生者の実相を知らないからだ

知識ある者は自己の本体が

殺しも殺されもしないことを知っている

 

魂にとっては誕生もなく死もなく

元初より存在して永遠に在りつづけ

肉体は殺されても滅びるとも

かれは常住にして不壊不滅である。

 

プリターの息子 アルジュナ

このように魂は不生不滅 不壊不変である

どうして誰かを殺し

また誰かに殺されることがあり得ようか

 

人が古くなった衣服を捨てて

新しい別の衣類に着替えるように

魂は使い古した肉体を脱ぎ捨て

次々に新しい肉体を着るのだ』

(バガヴァッド・ギーター 第二章12ー22)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(46)「輪廻転生」②

前回より「輪廻転生」をテーマに、ヨーガの見地からの仕組みや微細領域におけるプロセスなどについてご紹介し、それを踏まえた上で、「解脱」への理解を深めることで、いつか必ずや起こることになっている「死」のプロセスと、それに伴う「輪廻転生」を超えた「解脱」へのプロセスを、数回に渡り、ご紹介する予定です。

 

死後の肉体の消滅は、誰もが認めるところですが、その後、どうなるのか?というのは、漠然ではあっても、誰もが、想像を巡らせる事柄ではあるかと思います。

肉体の消滅後、個人は、完全に無に帰するのではなく、何らかの形で(「魂」として)残り、それがまた物質次元に、何らかの形をもった存在として誕生するというのが、「輪廻転生」(サンサーラ)の考えですが、「魂」が存在するとしたら、肉体の消滅後、それは、どのような形で存在し、そして再誕の時に、どのような方法で、物質次元の存在になるのでしょうか?

 

そして、重要なのは、ヨーガにおいては、「生」と「死」は、セットで起こることなので、生まれたモノは死に、死んだモノは生まれる、という考えが基本にあります。

これは、「因果の法則」でもあり、この宇宙の自然法則(ダルマ)でもあります。

「輪廻転生」は、「因果の法則」とも密接に結びついており、切り離しては考えられない、ある意味で、生と死における「因果の法則」と言えます。

 

つまり、言い換えると、「今のわたし」は、「過去のわたし」の結果である、ということになり、そして、更に、「未来のわたし」は、「今のわたし」の結果である、ということになります。

 

この生と死の連鎖である「輪廻転生」を断ち切る方法は、あるのでしょうか?

 

または、人によっては、この人生を、一回限りの人生であると割り切って(輪廻転生はないという前提にたって)、今の人生をできる限り謳歌し、肉体の消滅と共に、永遠に消滅するか、または、天国のような所に行って、そこで、地上では謳歌しきれなかった夢のような楽しい人生を送ることを期待して、この地上での人生を終えよう、という死生観、人生観を抱きつつ、死の時を迎えることも可能でしょうし、または、何も考えないで(死のことを考えるのは恐ろしいために)、その結果、何も準備しないで、その時を迎えよう、というような選択肢も十分に可能ですので、死後の自分自身の在り方は、(あくまで想像の範囲ではありますが)それぞれでしょう。

 

ここでは、生と死という現象に「因果の法則」が働くことを前提として、人間である限りは例外なく、死後に、「魂」は何らかの形で存在し、そしてやがては、「輪廻転生」を経て、再誕するという現象が、自然現象として起こる、という理論を土台にして、その生と死の繰り返しから脱却する方法「解脱」について、ヨーガで説かれている仕組みや理論、及び方法をご紹介したいと思います。

 

最初は、以前より連続してご紹介しておりますスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、次は、ラマナ・マハルシが真我探究者に読むことを推奨したとされている「ヨーガ・ヴァーシシュタ」から「解脱」について、そして、最後にラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介したいと思います。

 

これらの四人の聖者の方々が、指し示していることは、同じ一つのことであり、「輪廻転生」はあるが、同時に、それを乗り越える方法もある、ということです。

 

今、私たちに多くの情報が遺されていますので、それらに感謝しつつ、それらを智慧の言葉としてよく熟考し、実践を推奨されている修練を実践するならば、今生において、良い種子(因)を蒔くことになりますので、やがては、良い実(果)がもたらされることでしょう。

 

種子を蒔かないことには、どんな実もなりません。

 

また、裏返して、この法則を応用すれば、「輪廻転生」を生む種子を蒔かないことで、次の生という実をもたらさないようにすることも、充分可能なのです。

 

この「輪廻転生」をもたらす「種子」とは何なのか?

 

そして、この「種子」を消滅するための方法は、あるのか?

あるとしたら、どのような方法なのか?

 

早速、聖者の方々が遺された御言葉を、見て行きましょう。

 

 

 

Proofs for Rebirth(再誕の証拠)

 

輪廻転生にとっての重要な議論の一つは、ヒンドゥー教徒によって、直感的な感覚がもとに構築された。

直感は、過去の経験の結果である。

赤ん坊は、指しゃぶりをする。

若いアヒルは、泳ぐ。

これは、誰が教えたのか?

彼らは、サンスカ―ラ、或いは、以前の誕生の傾向である。

一目ぼれの愛は、完全に過去生におけるある感覚である。

以前に、これらの魂たちは、愛していた。

彼らは、それを憶えていて、まるで彼らがお互いに会ったことがあるかのように実際に感じる。

このような魂は、性的な事柄ではなく、しばしば壊れる。

ブッダは、彼の妻に、過去の誕生における彼女の彼に対する優しさを語り、何度か、他の人々の過去生の詳細を与えた。

すべての子どもは、過去の意識的な行為によって引き起こされたある傾向や先入的愛好を持って生まれる。

空っぽの心や心に清浄で真っ白な空白の頁を持って生まれる子どもはいない。

われわれは、過去生を持っている。

天才少年もいる。

五歳の少年は、ピアノやヴァイオリンで達人となる。

シュリ・ジニャーナ・デヴィは、彼が14歳の時に、バガヴァッド・ギーターの解説を書いた。

数学の天才少年もいた。

マドラスには、8歳の時、宗教的な講話を行なったバーガヴァター(神の栄光について講演する人)がいた。

この奇妙な現象を、どのように説明することができようか?

これは、自然の気まぐれではない。

輪廻転生の理論だけが、これらすべてのことを説明できるであろう。

もし一人の人が、今生で、音楽や数学を学ぶことに深い楽しさを感じるなら、彼は、次の生にこれらの印象を運び、彼が少年の時にでさえ、これらの科学で神童となる。

遺伝は、これらすべての不平等や多様性―天才の場合を説明できない。

これらの神童の両親や兄弟、姉妹は、極めて普通の人々である。

傾向は、過去の行為の結果である。

それらは、遺伝を通してはやって来ない。

天才は、彼らの過去生で、彼らの才能を獲得したのである。

人は、幾つかの誕生で、傾向や才能を開発し、ある誕生で天才になる。

ブッダは、幾つかの誕生で経験を獲得した。

彼は、彼の最後の誕生でのみ、ブッダとなった。

一つの誕生において、すべての徳が開発されることはできない。

人は、段階的な進化によってのみ、徳を磨く。

聖者は、すべての徳において卓越性を所有する。

聖者や達人の存在は、再誕があることを示唆している。

 

               

 

Why Do We not Remember Our Past?(われわれは何故、過去を覚えていないのか?)

 

輪廻転生の理論に反対の議論が、起こされる。

その反論とは「われわれは、何故、過去を憶えていないのか?」というものである。

あなたは、子供の頃、あなたが何をしたのかを覚えているだろうか?

あなたは、その時、思い出せないからと言って、存在していなかったと言うだろうか?

とんでもない。

もしあなたの存在が、あなたの記憶に依存しているならば、その時、この議論は、あなたが子供の時には存在していなかったということを証明する。

何故ならば、あなたは、あなたの子供時代を覚えていないのだから。

詳細は、あなたの記憶から去ってしまったが、あなたが、あなたの経験を通して獲得した知識は、あなたの存在の重要部分である。

それらの経験は、いまだに印象として、あなたの潜在意識(Chitta)の中にある。

そのように、過去の経験は、あなたの現在の人生に影響を与えている。

われわれが、肉体で生きている限り、われわれは、脳を通して記憶の機能を働かせる。

一つの転生から別の転生を過ぎて行く中で、魂は、新しい身体に過去の頭脳を持ち運んだりはしない。

 

 

 

Knowledge of the Past(過去の智識)

 

あなたが、数々の誕生で得たすべての経験は、潜在意識(Chitta)の中に、残存印象の形で残る。

それらは、音がレコードの中に微細な形で残るように、非常に非常に微細な形で残る。

ヨーギーは、これらの印象に集中して、過去生を思い出すことができる。

彼は、あなたの潜在意識に入っているサンスカーラ、或いは印象に集中することで、あなたの過去生についてもあなたに語ることができる。

母なる自然は、あなたから過去を隠している。

過去を思い出すことは、好ましいことではない。

しばし、あなたが過去を知っていると、考えてみなさい。

あなたは、過去生であなたが罪の行為を犯し、あなたはそのことを苦しんでいることを知っている。

あなたは、常に、このことを考えてしまうだろう。

あなたは、絶えずあなた自身を心配するだろう。

あなたは、健全な眠りに就けなくなるだろう。

あなたは、食べ物を賞味できなくなるだろう。

もしあなたが、あなたの過去を思い出すならば、あなたは現在を有効に活用できないかもしれない。

過去生におけるあなたの執念深い敵は、今生では、あなたの息子として生まれるかもしれない。

もしあなたが過去を覚えているのなら、あなたは彼を殺すために剣を抜くかもしれない。

敵意の感情が、即座にあなたのハートに起こるだろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『ヤマはナチケータに生を理解するには、死を理解することが大切だと教えました。

そして同様に、生は死を理解するために理解されなくてはならないと。

ナチケータは、死は生の終わりではなく、継続する物語における単なる一時的な休止だと学びました。

死は単に、ニューヨーク市のグランドセントラル駅のような駅――ちょうど特別な列車を降りて別の列車に乗る準備をする場所――での停車です。

これは、生または死の意義を減らすことではありません。

どのようにして生は導かれるのか、言い方を換えると、グランドセントラルへ行く途中で選ぶ列車は、私たちが到着するとき、私たちがどんな心の状態であるか、そして、私たちの旅における次の移り変わりのために、私たちがどれくらい用意できるかを決定します。

私たちは散らかった貧しい列車を拾うこともできるでしょうし、きちんとしたきれいな列車を拾うこともできるでしょう。

私たちはあらゆる種類の誘惑と娯楽、踊り子たちやビデオゲーム、そして富と名声の列車を拾うこともできます。

ひとたび私たちが、あらゆる娯楽と肉体的感覚の満足に釘付けにされると、その列車を降りるのは困難になることでしょう。

または、私たちがグランドセントラルで列車を降りる時間がやって来ると、努力なしに喜んでそうすることができるように、私たちは道に沿った自然の光景を楽しむことを学ぶ列車を拾うこともできるでしょう。

ナチケータは、正しい列車を拾った人の一例です。

彼は知識の列車以外にどんな列車も持とうとしませんでした。

何も彼に興味を持たせられませんでした。

長寿、富、反対の性別、子供たちは、彼の実在の知識と生と死の秘密への願望に対して見劣りがしました。

ナチケータにとっては、生と死の秘密だけが持つに値するものだったのです。

内側に居住するアートマンの永遠の本質は、ウパニシャッドの中心的なテーマです。

これは死の神秘の秘密であり、生を理解するための鍵です。

神はすべてに浸透し、私たちの生命の命である魂に生命力を吹き込んでいるアートマンです。

アートマンは永遠に存続し、不変であり、故に死ぬことはありません。

滅びるものだけが死なねばなりません。

滅びるものは、不滅なるものの発見における道具として仕えるためだけにそこにあります。

死ぬのは、この世の次元を訪問する際に、魂の覆いを提供している外観である体です。

内側の自己は影響を受けないままです。

それは永遠なる存在なので、死にませんし、死ぬことができません。

バガヴァッド・ギーターは述べています。

〝彼は非顕現であり、思考の対象ではない、そして不朽だと言われている。それ故、彼を知れば、あなたは誰かのことを嘆き悲しむことはない〟

もし、人にとって重要なことが死んでいくことであるなら、死は恐ろしいものとして大きく立ちはだかります。

死はその人にとって中心的で意味のあったものに対する終わりを意味します。

その哲学における苦痛は深遠です。

しかし、もし、人が死するものを手放すために、物、あるいは人間関係を手放すことを学び、そして永遠であるものだけを求めるなら、死は恐ろしいものではありません。

それは単に方向転換、服を換えることなのです。』

(聖なる旅 目的を持って生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

 

『ラーマよ。

疑いのない純粋なハートと受容的な心で、解脱の本性とそれに達するための修練に関する教えに耳を傾けなさい。

なぜなら、「至高の実在」が実現されるまでは、誕生と死という恐るべき苦難が終わることはないからだ。

今ここで、この無知なる生という恐ろしい毒蛇に打ち勝たなければ、いつ果てるとも知れぬ苦しみは、今生ばかりか数限りない来世にまで起こり続けるだろう。

この苦しみを無視することはできない。

それゆえ、私が授ける叡智という手段を用いて、苦しみを克服しなさい。

ラーマよ、もしこの繰り返されるサンサーラ(輪廻転生)を克服すれば、あなたはこの地上でブラフマー神やヴィシュヌ神のごとく生きるだろう!

なぜなら、妄想が消え去り、真我探究によって真理が実現され、心が平和になってハートが至高の真理に達し、心の中のあらゆる騒がしい想念の波が静まって永遠の安らぎに満ち、ハートが絶対の至福にあふれたとき、つまりハートの中に真理を見いだしたとき、そのときこそ、この世界そのものが至福の住処となるからだ。

そのような人に、得るべきものや避けるべきものは何もない。

彼は生の欠点に穢されず、その哀しみに触れられることもない。

傍観者の目には、彼は来ては去っていくように見える。

だが、彼は存在を現わすこともなければ消え去ることもないのだ。

彼には宗教的な勤めさえ必要ない。

すでに慣性を失った過去の潜在的傾向の影響を受けることもない。

心は不安や疑いを棄て去り、彼は自己の本性である至福の内に安らいでいる。

そのような至福は、他の方法ではなく、真我の知識によってしか得られない。

それゆえ、人は絶えず真我の知識に心を向けなければならない。

ただこれだけが人としての義務なのだ。

聖典や聖者を無視する者が、真我の知識に達することはない。

そのような愚かさは、この世のすべての病気よりも有害だ。

それゆえ、人は真我の知識に導くこの聖典に誠実に聞き入るべきである。

この聖典を得た人が、無知という盲目の井戸にふたたび落ちることはあり得ない。

ラーマよ。

もしもサンサーラの哀しみから解放されたいなら、私のような聖者の有益な教えを受けて自由になりなさい。

ラーマよ。

この恐るべきサンサーラ(輪廻転生)の大海を渡るためには、永遠不滅なるものに頼らなければならない。

永遠なるものの内に心を休め、完全に自己を制御した心安らかな人、ただ彼だけが最上の人なのだ。

彼は快楽と苦痛が互いのあとを追い、打ち消し合うことを理解している。

それゆえ、その叡智の中には自己制御と平和がある。

このことを理解しない人は、燃え盛る家の中で眠っているのと変わらない。

永遠の叡智を得た人は、サンサーラから解放され、ふたたび無知の中に生まれることはない。

人はそのような不変の真理が存在することを疑うかもしれない!

もし存在しないとしても、永遠なるものを求めて生の本性を探究することは、人生の変転で生じる苦痛を和らげるだろう。

だが、もし存在するとすれば、それを知ることで人は自由になるのだ。

儀式や、巡礼や、富によって「永遠なるもの」に到達することはできない。

それはただ自己の心を克服し、叡智を培うことによってのみ達せられるのだ。

それゆえ、神々や、半神半人や、人間は、歩いていようと、眠っていようと、座っていようと、常に叡知の成果である心の克服と自己制御を求めるべきだ。

心が安らぎ、純粋で、平静で、妄想や幻想や渇望から自由であれば、何を求めることも拒むこともなくなる。

これが自己制御、つまり心の克服であり、以前に私が語った四人の解脱の門番の一人である。

あらゆる善や幸運は自己制御からあふれ出す。

あらゆる悪は自己制御によって追い散らされる。

この世の喜びもあの世の喜びも、自己制御の喜びには比べようもない。

自己制御で体験された喜びは、類なきものだ。

誰もが自己制御された人を自然に信頼するようになる。

誰もかれを憎むものはいなくなる。

鬼や悪魔でさえも。

ラーマよ。

自己制御はすべての身体的または精神的な病気の最高の治療法だ。

自己を制御すれば、食べ物はさらに美味しくなる。

自己制御の鎧を着る者は、悲しみに悩まされることもない。

彼は快いものや不快なものを聞くときも、触れるときも、見るときも、嗅ぐときも、味わうときも、意気高揚したり、意気消沈したりすることはない。

彼は自己制御されている。

すべての生きとし生けるものを等しい目で見、快楽と苦痛の感覚を制御した人が自己制御された人だ。

人々とともに生きながら、人々に影響されない人、得意がることも憎むこともない人。

それが自己制御された人だ。』

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

 

『ある人たちは真我の智識に異なった段階があると信じています。
真我はあなたが知っていようがいまいが、常に実現されているのです。
彼らは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は直接的知識であり、間接的知識ではないと議論します。
真我の知識(Atman-Jnana)は不幸を消し去りますが、真理を聞くことだけではそれを起こりません。
ですから、たとえ直接的であっても、その知識は不動のものではないということです。
知識が確立されない原因は、心の潜在的傾向(ヴァーサナ)が現れることにあります。
ヴァーサナが取り除かれたとき、真我の知識(Atman-Jnana)は揺るぎないものとなって実を結ぶのです。
別の人たちは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は、間接的知識だと言います。
真理についての沈思黙想(マナナ)によって、真我の知識は断続的ながらも直接的なものになります。
それを断続的にさせるのはヴァーサナなのです。
ヴァーサナはマナナの修練の後も、さらに強烈な勢いで湧き上がってきます。
そのため、それは抑制されなければなりません。
「私は身体ではない」ことを油断なく覚えていることと、マナナにおいて得られた直接的体験を固守することによってヴァーサナは抑制されます。
そのような修練はニディディアーサナ(真理の一点に心を集中させること)と呼ばれ、それがヴァーサナを消し去ります。
そうして初めてサハジャ(自然)の境地が開かれるのです。
それが確実な真我の知識(Atman-Jnana)です。
マナナによる直接的体験では、不幸の破壊も束縛からの解放(モークシャ)も得られません。
なぜなら、ヴァーサナが周期的に現れ、真我の知識を制圧するからです。
それゆえ、それはまだ弱いものですが、ニディディアーサナによってヴァーサナが根絶されたとき、初めて真我の知識(Atman-Jnana)は確立されるのです。

(ラマナ・マハルシとの対話より)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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