前回の記事では、人間の構造について、ヴェーダ聖典における「人間馬車説」を参考に、解説しました。
この「人間馬車説」では、馬車全体が、一人の人間であると仮定し、その場合、「わたし」は、その馬車全体(一人の人間)を御する“御者”として、馬場(この世)を走り回る(生きる)馬車(一人の人間)を引く五頭の馬である“五つの感覚器官(聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚)”を、手綱“意思(マナス)”を使って制御し、馬場(この世)を体験しながら、馬車を前進させ(人生を展開)てはいますが、実は、この”御者“の背後にある客車の中に、姿形は見えないかもしれませんが、「アートマン」(真我)が座しており、この「アートマン」(真我)こそが、この馬車全体(一人の人間)の本当の「主」(あるじ)であり、この「アートマン」(真我)なしには、馬車を操縦する“御者”としての「わたし」は、その役割を果たすことはできず、更には、馬車全体(一人の人間)も存在することができない、ということを解説しました。
この「人間馬車説」で説かれている人間に関する構図(見取り図)は、時代が変わっても、永遠に変わることのないダルマ(Sanatanadharma、宇宙の理)ですので、是非、頭の中に置いておいていただきたいと思います。
今回の記事は、「バガヴァッド・ギータ―」より、この「人間馬車説」を裏付けるクリシュナ神の御言葉をご紹介いたします。
『アルジュナよ わたしはすべての存在の胸に住む真我(アートマン)である
そして、わたしだけが、すべての存在の初めであり、
中間であり、また終わりである』
(第十章20)
『感覚は肉体よりも優れているが、心は感覚よりも優れている。
知性は心よりも優れており、彼、真我は、知性よりも優れている。
それ故、アルジュナよ
知性よりも上位にあるアートマンを識り、理性によって心を制御し、
克服し難き欲望の形をしたこの敵を消滅せよ。』
(第三章42-43)
ここでは、一番粗雑であるのは、物質である「肉体」であり、「肉体」よりも、「五つの感覚器官」(聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚)の方が微細であり、更に、これらの「五つの感覚器官」よりも微細であるのは「心」(マナス)であり、この「心」(マナス)よりも、「知性」(ブッディ)は、更に微細であると語られており、「知性」(ブッディ)が、人間が自覚できる自身に備わっている備品(装備)の中では、最も微細な器官ということになります。
「人間馬車説」による構図では、一番粗雑な存在であるのは、馬、次に手綱、次に手綱を操る“御者”、そして、その“御者”よりも、更に奥に最も微細な存在である「アートマン」(真我)が配置されているということになります。
このように、「バガヴァッド・ギータ―」においても、「カタ・ウパニシャッド」で、死神ヤマが、探求者ナチスケータスに語ったことと、同じ内容のことが、クリシュナ神よりアルジュナに語られています。
この微細であるということは、電磁波の周波数のように、電磁エネルギーが微細であるほど、エネルギーは強いことになります。
紫外線よりも赤外線の方が、人間には感知しやすいのと同様(紫外線の影響は、後から確認できますが、直接的には、直ぐには、感知できません)、微細エネルギーは、人間には、なかなか直接には感知(認識)し難いということもあり、「知性」(ブッディ)の座よりも奥に座している「アートマン」(真我)となると、殆どの人が、その存在すら知らない場合が多いことは、姿形のある物質次元に慣れてしまっている私たち人間にとっては、ある意味、仕方のないことと言えます。
つまり、客車の中に座している「アートマン」(真我)以外は、すべて人間自身が、実際に使っている自覚があり、その機能を確認することができるものですので、その存在を疑う人は、皆無と言えますが、「アートマン」(真我)となると、すべての人間が、その存在を知っているとは限らず、また、「アートマン」(真我)について明らかになっている情報が少なすぎるため、(体験者以外)実体を掴むことが困難であると言えます。
(しかしながら、クンダリニー覚醒が起きた場合、その時は、微細エネルギーが目覚めることになりますので、結果、微細次元の諸々を感知する能力が高まり、微細次元の「アートマン」がどのような存在であるのか?が、明らかになる可能性が高まるでしょう。
また、非常に深い瞑想を続ける中で、微細次元への感度が高くなり、結果として、「アートマン」(真我)を感得することも可能となり、「アートマン」を実在の存在として識ることにつながる場合もあることでしょう)
この最も微細で、人間にとっては、不可解な存在である「アートマン」(真我)について、クリシュナ神は、「アートマン」(真我)を未だ知らない人間アルジュナにこのように語ります。
『この肉体の不滅の個の魂は、わたし自身の断片である
そして、心と五つの感覚器官を周りに集め
物質界(プラクルティ)に留まる。
風が香りを運ぶように
この(肉体という)集合体の主である個の魂は、
体から心と感覚器官を連れ
体を後に残して
次に獲得する体に直ちに移動する』
(第十五章7-8)
ここでは、クリシュナ神は、人間の死後の「魂」の行方を語っていますが、一つ留意する必要があるのは、「わたし」が「輪廻転生」するとは言っていない、ということです。(つまり、個人が「輪廻転生」するとは言っていない、ということになります)
「人間馬車説」で言うならば、“御者”は、客車の中の主である「アートマン」(真我)と連動して、肉体から肉体へ移動する訳ではない、ということになります。
もう一つ留意すべきことは、客車の中に座する「アートマン」(真我)は、どの馬車の客車の中に座していても、同一の同じ「アートマン」(真我)であり、不変であり、“一つ”であるということです。
馬車を走らせる時に必要な“御者”は、その馬車により変化しますが、馬車の主である「アートマン」(真我)は、同一であり、変化することはありません。
これは、生きている人間は、千差万別ですが、「魂」である「アートマン」(真我)は、”一つ“である、ということを意味します。
厳密に言うならば、私たち人間は、「わたしの魂」とか「自分の魂」という表現をしますが、“御者”を雇っているのは「魂」である「アートマン」(真我)であって、私たち人間が、「魂」である「アートマン」(真我)の雇い主であったり、馬車(一人の人間)の所有者である訳ではありません。
そして、最も重要なのは、この「魂」である「アートマン」(真我)は、密接に、私たち一人一人の人間と深く関わっているということです。
背後に馬車の本当のオーナー(あるじ)である「魂」である「アートマン」(真我)が座していることを知らない“御者”は、自分の考えで、馬が走る方向や速度など調整しているつもりでいるかもしれませんが、実は、背後に座している「魂」である「アートマン」(真我)こそが、馬車(一人の人間)全体をコントロールしており、”御者“である「わたし」は、実際には、馬車に関しては、何もしていない、ということなのです。
『すべての行動は、プラクルティ(物質自然)のグナ(性質)によって為されているのだが
心が利己心によって惑わされている愚かな者は、「自分が行為者である」と思っている』
(第三章27)
更に、クリシュナ神は、客観的な視点から、人間の生命活動に関して、以下のように人間アルジュナに語ります。
『この個の魂が、感覚の対象物を楽しむのは、
聴力、視力、味覚、嗅覚、触覚と心を統括する間だけである
無知なる者は、魂が体に住んだり、体から離れたり、
または、感覚の対象物を楽しむのは、
(プラクルティ、物質自然の)グナ(性質)の三性質(トリグナ)に結びついている時だけであることを知らない
賢者の眼を持つ人々だけが、そのことを気づくことができる』
(第十五章9-10)
ここで、クリシュナ神は、プラクルティ(物質自然)の性質(グナ)の三性質(トリグナ)に関して、とても重要なことを語っています。
プラクルティ(物質自然)の性質(グナ)の三性質(トリグナ)とは、一体、何でしょうか?どのようなものなのでしょうか?
次回は、このプラクルティ(物質自然)、プラクルティ(物質自然)の三性質(トリグナ)ついて、詳細に見ていきたいと思います。
プラクルティ(物質自然)、プラクルティ(物質自然)の三性質(トリグナ)、プルシャ(精神原理)についての理解を深めることで、馬車全体(一人の人間)における「アートマン」(真我)と「わたし」との関係、そして、大宇宙の主である至高者「ブラフマン」への理解が、より一層深まり、それが永遠に繰り返されてきた「輪廻転生」の無限ループを断ち切る数少ない方法であることは、言うまでもありません。
これまでの解説も、かなり難しい内容であったかもしれませんが、ここまでの内容が「中級」とすると、次回からは、更に難解な「上級」クラスの内容となります。
アドヴァイタ(一元論)・ヴェーダンタで説かれる「最奥の奥義」(ウパニシャッド)を理解するとなると、かなりハードルが高くなると思いますが、なるべく平易な解説に努めたいと思います。
「わたしは今ここで 五官で認知できる現象と
認識不可能な神霊的領域についての
完全な知識を 君に与えよう
これ以上に知るべきものは何一つない
全き智識を求めて努力する者は
おそらく幾千人の中の ただ一人
その優れた求道者たち数千人のなかで
わたしの実相を知るものは ただ一人
(第七章2-3 田中嫺玉訳)
ご参考までに、記事の中で引用しましたバガヴァッド・ギーターの同箇所を、田中嫺玉さんが流麗な日本語に訳されている翻訳文がありますので、ご紹介いたします。
「アルジュナよ わたしは真我(たましい)として
一切生類の胸に住んでいる――また
わたしは万物万象の初めであり
中間であり そして終わりである」
(第十章20)
「物質世界(このよ)の生物に内在する不滅の霊魂は
わたし自身の極小部分である――かれは
心をふくむ六つの感覚を用いて
苦労しながら肉体を操っているのだ」
「霊魂は風が芳香を運ぶように
自らの意想感情を次の体に運ぶ
このようにしてかれは或る種の体をとって生き
またそれを捨てて他の体をまとう」
(第十五7-8)
「物質自然(プラクルティ)の三性質(トリグナ)による活動を
我執の雲におおわれた魂は
自分自身が活動しているものと錯覚し
「私が為している」と思いこむ」
(第三章27)
「不滅の霊魂はこのようにして
耳 眼 舌 鼻 感覚と
また心意(こころ)をもった物質体(にくたい)をとって誕生し
それらに相応した対象を味わい経験する」
「霊魂(かれ)は物質自然(プラクルティ)の三性質(トリグナ)の支配下で
自己の心性に相応した体で様々な経験をし
時期が来ればその体を離れていく
迷える者にはこの事実が見えないが智慧の眼をもつ者には見える」
(第十五章9-10)
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