永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(69) クンダリニー⑤
前回まで4回に渡り、「クンダリニー」についてご紹介してきましたが、今回は、「クンダリニー」について、更に詳細に見て行き、多くの探究者にとっては、未だ未知なる存在である「クンダリニー」について、ご紹介したいと思います。
バガワン・シュリ・ラジニーシことOshoが、彼のアシュラムに集まった探究者たちに語った言葉として記録され、編集された本(講和集)の中に記されている文章と、今から40年以上も前に起きた突然の「クンダリニー」覚醒体験と、その体験から導かれた智慧(究極の真理)とが、見事に合致し、Oshoの言葉に100%の理解と共感が起きたため、クンダリニー覚醒の未体験者には、少々難解かもしれませんが、敢えて、ご紹介させて頂きたいと思います。
「クンダリニー」覚醒体験を通してやって来た智慧として、以下でご紹介しますOshoが述べている「クンダ」が、ラマナ・マハルシが語っている「真我(アートマン)」であると理解し確信しておりますし、真に実在しているのは、私たち一人一人の人間ではなく、実は、「クンダ」である「真我(アートマン)」である、ということを理解し確信しております。
私たちの最奥には、この「クンダ」、つまり「真我(アートマン)」が内在し、私たちの生命エネルギーを生み出しています。
つまり、この「クンダ」が、私たちの命の「源(源泉)」であり、「真我(アートマン)」なのです。(実在は、”一つ”しか存在しませんので、「クンダ」と「真我(アートマン)は、同じ”一つ”の存在の別称と言えます)
この宇宙において、この「クンダ」=「真我(アートマン)」以外には、真の実在は存在していません。
「クンダ」は、物質次元における個々の存在に内在していますが、けっして個別の存在ではなく、普遍的な領域の存在です。(それは、”ニルヴィカルパ・サマーディ”が起こると、明らかになります)
私たち人間は、海の表面に生じる一つ一つの「波」に譬えられることがありますが、「クンダ」は、「無限の大海」そのものであり、この世(のすべて)を在らしめている唯一実在するあらゆる存在の「源(源泉)」なのです。
あらゆる創造が起こる「源(源泉)」という意味では、「創造主」「創造神」とも言えますが、真に実在しているのは、この「クンダ」だけであり、「クンダ」以外のすべての創造物は、「クンダ」からのエネルギーを受けて存在しているだけで、真の実在ではありません。
すべては、この「クンダ」から生じるエネルギーによって存在している、ということが、「クンダリニー」覚醒が起こることで、真実として明らかになることでしょう。
己の内側における「クンダ」の発見は、私たちが知っていても、知らなくても、辿ることになっている”人生”という”探求の旅”における終着点でもあります。
「クンダ」という「無限の大海」である全存在の「源(源泉)」に溶け去ることで、”探求の旅”は終わることでしょう。(ニルヴィカルパ・サマーディ)
この直接体験が、真の自己である「真我(アートマン)」の発見と言えます。
「クンダリニー」が目覚めることで、その「クンダリニー」が生じる己の「源(源泉)」を探ることが可能となります。(”クンダリニー覚醒”=”真我実現”と言えますが、その先、更に「クンダ」に溶け去るというニルヴィカルパ・サマーディのような深い体験が起こることで、「梵我一如」(神と自分は一つである)の理解が起こることでしょう。(アドヴァイタ(不二一元)、或いは、ノン・デュアルティ(非二元))
ヨーガの修行などを通して、己の内側に内在する「真我」(アートマン)を発見することは、遅い早いの違いはあるかもしれませんが、誰にでも可能であることは、言うまでもありません。
それでは、Osho講和集「奇跡の探究」から、特に知っておくと有益であり、探求する上で、非常に重要だと思われる部分をご紹介いたします。
『質問者
「最近行われた瞑想キャンプで、サーダナつまりクンダリニーの修行は肉体を準備する方法だと言われましたが、それについて説明していただけますか?」
Osho
「まず第一に、肉体と魂はその深みにおいて、別々のものではない。
違いはまったく表面上のものだ。
その一切の真実が明らかになる時、もはや体と魂は別々のものには見えない。
真に同じひとつのものに見える。
実際、肉体とは感覚で捉えられる魂の一部であり、魂は感覚で捉えられるものを超えた肉体の一部だ。
つまり魂とは肉体の不可視の一端であり、肉体は魂の可視の一端だ。
しかし、これは真理を極めて初めて明らかになることだ。
皮肉にも普通私たちはみな、体と魂を同一のものと信じている。
だが、この一般に信じられていることは偽りだ。
私たちは、魂とは何かを本当には知らないのだから。
それどころか、体を魂だと思い込んでいる。
だが、この実態のない一般的な信じ込みさえも、同じ根本的な真理から生じている――その背後には、この<一体性>についての同じ認識がある。
目には見えない存在の奥深い部分で、体と魂は一体だと私たちは知っている。
けれどもこの<一体性>の認識が、二つの偽りを生んだ――一方には魂のみが存在し、肉体などないと訴える唯神論者がおり、一方には肉体のみが存在し、魂などないと言明するチャルバックやエピキュラスのような唯物論者がいる。
このふたつの相容れない誤った概念は、肉体と魂は別々のものではないという、共通の深い認識から生じている。
そして唯物論者同様、普通の人は誰でも――いわゆる無知な人間のことだが――自分は単なる肉体だと考えている。
だが内面への旅が始めると、肉体と魂は同じだという思い込みは粉々に打ち砕かれ、それぞれ別であることに気づくようになる。
魂を知るのと同時に、肉体は別個のものであり、魂もまた別のものであることを知るからだ。
しかし、これは旅の半場で起こることだ。
もっと深く、さらに深く進み、究極の体験に達すれば、それらが別々でないと知るだろう。
本当は同じひとつのもの――同じ実体の異なった形なのだ。
旅はふたつの地点のどちらからでも――肉体からでも、魂からでも始められる。
もし肉体から始め、そしてだんだんと深まって行けば、究極的には魂に達するだろう。
誰かが私の右手を掴んで上へとたどっていくと、遅かれ早かれ左手に届くというようなものだ。
同様に、ある人にとっては直接魂から始め、最後に肉体に至ることも可能だ。
しかし魂から始めるのはとても難しい。
それは魂が私たちにとって、まったく未知のものだからだ。
たいていの人は肉体のレベルで存在しているため、その旅を体からしか始められない。
しかし、直接魂から始める技法もあるにはある。
ただ一般に、それが役に立つのはほんのわずかの人だけだ。
稀に魂から始める技法を使える人もいるが、大多数の人は体から始めなければならないだろう。
旅は、その人がいる地点からしか始められない。
肉体から始める旅においては、クンダリニーが準備の働きをする。
クンダリニーは、体のもっとも深い体験の踏み台となる所だ。
実のところ肉体は、私たち、あるいは生理学者が知るどころのものではない。
遥かにそれ以上のものだ。
たとえば扇風機が回っているとする。
扇風機を解体し、部品をひとつひとつ取り外して調べてみても、電気はどこにも見当たらないだろう。
すると非常に聡明な人であっても、調べた結果をもとに、扇風機には電気のようなものは何もないと言うかもしれない。
扇風機のどの部分をとっても、そこに電気は見出せない。
だが回っていた時、電気で動かされていたのは事実だ。
そして電気がとだえた途端、扇風機は動かなくなる。
生理学者が肉体を解剖して調べても、クンダリニーはどこにも見当たらない。
彼らには、決して見つけられないだろう。
にも拘わらず、扇風機が電気で動くように、体全体はクンダリニーという電気的エネルギーで動いている。
クンダリニーの電気的エネルギーは、外側から分析しても理解できない。
エネルギーは分析の過程で崩壊し、消えてしまうからだ。
唯一、内的に体験することで理解できる。
体を知るにはふたつの方法がある。
生理学者の解剖のように外側から知る――これがひとつの方法だ。
もうひとつは、内側から知ることだ。
内側深くに入りそこを生き抜く人は、それを内側から知る。
自分の体を内部から知り始める者は。。。。覚えておきなさい。
私たちは自分の体を、単に外側から知っているに過ぎない。
自分自身の体でさえも、外面的にしか知らない。
自分の左手を認識するにも、実際には目で見て認識する。
とすると、左手に関する私の認識はまさに生理学者のそれだ。
だが、もし目を閉じて左手を感じるなら、左手に対するこの内なる感覚は自分自身のものとなるだろう。
だから自分の体を内側から知ろうとすると、やがて体のエネルギーのすべての源泉であるクンダ、貯水池に行きあたる。
このクンダ、池に眠ったままでいるエネルギーこそ、クンダリニーとよばれているものだ。
すべてはそこから生じており、体全体に広がっていることを、人は自ら知るだろう。
それは、火の灯ったひとつのランプが部屋全体を照らしているようなものだ。
部屋全体に溢れている光の源を探していけば、あなたはランプにたどり着き、すべての光がひとつの源から発しているのに気づくだろう。
そして、光を遠く部屋の隅々まで投げかけながらも、ランプは依然として光源であり続けていることがわかるだろう。
ここで私たちは、生命エネルギーが生じて体全体にみなぎっていく、まさにその地点を探ることに関わっている。
生命エネルギーには、中心(センター)があるはずだ。
源泉なしにはどんなエネルギーも存在できない。
太陽は私たちから一億マイルも離れているが、それでもなお私たちはその光を受け取っている、
そこには中心が、光が生じ、地上にみなぎる源泉があるに違いない。
実際に中心なくしては、どのようなエネルギーも決してありえない。
エネルギーが存在するのなら、中心があるはずだ。
どうして中心なくして円や円周がありえるだろう?
円周がありかぎり確実に中心はある。
説明するまでもなく、あなたの体がエネルギーの塊だというのは明らかだ。
それは立ち昇っては座り、動いては停止し、そして眠りにつく多量のエネルギーだ。
そのエネルギーは常に一様に機能しているものではなく、活発で活気に満ちている時もあれば、沈滞して弱々しく、活気のない状態の時もある。
怒った時には、普通ではまず動かせない大きな岩を誰かに投げつけたりもする。
激しい恐怖に襲われると、オリンピック競技のランナーも羨むほどのスピードで走る。
このように、あなたのエネルギーはいつも同じ状態にあるのではなく、内面や周りの状況に応じて絶えず変化している。
私たちひとりひとりの内側には、この全エネルギーが眠ったまま潜んでいる中枢がある。
それは種子のように――すっぽり包まれ潜伏していると言われているが、その真の姿を確認することも可能だ。
だからこそ、それはクンダ、池あるは貯水池と呼ばれている。
「クンダ」という言葉は、実に興味深い。
それには多くの意味がある。
そのひとつは、さざ波がひとつも立たない、静かで穏やかな池という意味だ。
もしほんのわずかでもさざ波が立ったとしたら、それはエネルギーが活発になったということだ。
クンダとは、その中身であるエネルギーがわずかな動きもなく、完全に不動で穏やかに休息していることを言う。
もうひとつの意味は、不動で眠っているが、どんな瞬間にも目覚めて活発になり、動き出せるというものだ。
それは枯渇した死んだ池ではない。
それは溢れんばかりだ。
そしていかなる瞬間にも、活発に活動的になれる。
今のところは活動せず、眠った状態だが。
だから人々は、自分の内側で眠っているものが何であるかを知らずにいる。
目覚め、活動的になったものしかわからない。
エネルギーの活動的な部分だけが意識に昇り、その不動の部分は無意識下に眠ったままでいる。
そのためもっとも偉大な人でさえ、卓越した域に達しないかぎりこのエネルギーには気づかない。
マハヴィーラ、仏陀、クリシュナ、イエスでさえ、自分の潜在能力を現実のものとし、その卓越の極みに到達するまでは、誰ひとりとしてそれに気づかなかった。
同じように私たちも、自分のエネルギーの真の源泉を知らずにいる。
しかしそれが目覚めないかぎり、それを知る手だてはない。
それが自分にあるものなのか、またどの程度のものなのかも知ることができない。
この眠っているエネルギー(クンダ)の目覚めた部分は、クンダリニーと呼ばれている。
クンダ自体は無意識だ。
それは眠っている。
だがクンダリニーには意識があり、目覚めている。
目を覚まして、クンダから出て来たエネルギーのその部分だけが、クンダリニーとして知られている。
クンダリニーはその全体ではなく、池から生じるさざ波にすぎない。」』
(「奇跡の探究 Osho講話集」)
次回に続きます。
Hari Om Tat Sat!
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