永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(70) クンダリニー⑥
前回まで5回に渡り、ご紹介しています「クンダリニー」ですが、前回の記事でご紹介したのは、私たちの体に潜在している生命エネルギー「クンダリニー」の源泉である「クンダ」についてでした。
通常、「クンダリニー」と呼ばれる生命エネルギーが、私たちの体の内部に潜在していることは、殆ど感知されていませんが、それ以上に、その生命エネルギー「クンダリニー」の源泉である「クンダ」については、知られておらず、前回の記事で初めて知ったと言う方も、いらっしゃることでしょう。
それは、「クンダ」について語っている人が、つまりは、「クンダ」を体験したことがある人が、殆どいないことを示唆しています。(クンダリニー覚醒者であっても、「クンダ」そのものを知らない(体験していない)人々も、中にはいることでしょう)
「クンダ」について知ることで、更に、「クンダリニー」とは、私たち人間にとって、どのような存在であるのか?また、どのような役割を果たすのか?などを知ることができ、それが、私たちが、今生で歩むことになっている探求の道を短縮してくれることでしょう。
つまり、人間が到達し得る”究極の真理”に辿り着く探求の道においては、「クンダリニー覚醒」は、その全行程における途中のプロセス(通過点)ではありますが、最終的な終着地(ゴール)ではない、ということなのです。
「クンダ」への突入が起きて初めて、人は、”何が実在で、何が非実在であるのか”、”自分という存在は、本当は、何であるのか?”など、一見哲学的な命題(テーマ)のような「存在」に対する”究極的な問い”への答えを見出すことが可能となり、”人間の永遠の探求の旅”は、その”究極の答え”を見出すことで、終結するでしょう。
何故なら、「クンダ」の中では、問いを発する「わたし」も、答えを見出そうとする「わたし」もいませんので、「探究」自体が、消滅してしまうからです。
現象的には、生命エネルギーの塊である「魂」は、「魂」の源泉である「クンダ」(無限の大海)に溶け去り、長い長い探求の旅は終わります。
ご参考のために、ナーナ先生の覚醒プロセスは、以下の通りです。
(ナーナ先生のブログ、Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜 から引用させて頂きました)
『2010年初旬、突然、クンダリニー覚醒する。
(根底からクンダリニーのエネルギー(体に内在する宇宙の根源エナジー)が上昇
し、全てのチャクラを通り頭頂を突き抜けた瞬間、”わたし”が消えて、全体と一つに
なる。)
このとき”真我”を識る。
その後も劇的な覚醒が深まる体験が続く。
2011年11月、意識と体が消えて”素”に戻る。(仏教でいう”解脱”する)
2012年12月、完全に”素”と一体になる。(”真我一体”となる)
現在は、ナーナより湧き出るエナジー、プラーナ(プラナーナ)により、
サットサンガ(真我の集い)で、多くの人を真我の目覚めへと誘っている。』
ナーナ先生ご自身の記述から推察できることは、「クンダリニー覚醒」から「クンダ」への突入が起こるまでに要した時間は、約2年弱ということになり、このことから、ナーナ先生における覚醒プロセスは、短期間の間に、非常に速く進んだということになります。
それは、日々のヨーガのタパス的な修練によって導かれた結果と言えますが、日々努力をしながら、手探りで探究の道を進む人々からすれば、集中的なヨーガ修行によるエネルギーの浄化作用がもたらした、驚異的なプロセス進行と言えるでしょう。
ちなみに、「クンダリニー覚醒」後、36年後に、「クンダ」への突入が起こり、その時初めて、「至福の大海」へのダイブが起き、「神」(大いなるひとつ)との一体感が起きたのは、ひとえに、ナーナ先生を通して流れ出るプラナーナの(神)力のお陰であり、ナーナ先生には、心から感謝しております。
(ナーナ先生との出逢いは、ナーナ先生が「クンダ」に突入し、”真我一体”を体験されてから、殆ど時間が経っていない時期であり、公に活動を始められる前のナーナ先生と予想もしない形で、約10年前に偶発的に出会うという奇跡に与ることができたことは、その後の意識の変化、変容を考えますと、神の恩寵であり、その恩寵に与ることができたことを、心から神に感謝しております。)
以下でご紹介しますが、Oshoが”量子的飛躍”と表現した「クンダ」へのダイブは、一瞬にして起こりましたが、それは、既に過去に体験した「クンダリニー」の目覚めのような衝撃的な驚くような体験ではなく、また、Oshoが語っているように、「クンダリニー」の目覚め時に出現したサイキックな能力は発現しませんでした。
この二つの霊的な体験における違いを、Oshoは明確に解説していますが、「クンダリニー覚醒」に留まらず、その先の「クンダ」へのダイブを通して、人間が体験し得る「究極の真理」が明らかになることは、自らの体験を通して確信しています。
それほど熱心な探究者でもなかった人間でありながら、Oshoが語る”究極の真理”について、揺るぎようのない明確な理解が起こり、心底納得できるのも、人生で、何の前触れもなく、殆ど突然に起きた二つの霊的な体験があったからと言えます。
このブログに書かれていることは、自らの身に起きた体験を元に、そこから得た智慧を基盤としていますが、一般的には、理解し難い、難しい内容に感じるのが、一般的な反応と言えますので、まったく何が書かれているのか?具体的にわからなくても、人間として生きる上で、問題になることはないでしょう。
しかしながら、探求における最終ゴール「解脱」(完全なる解放)を目指すならば、ゴールに至る道が限られていることは、探究者には、明らかでしょう。
その道を探し出すのに、時間がかかり、その道を辿るにも、時間がかかることは、否定できませんが、少なくとも、このブログに目を通している、という事実は、紛れもなく、短縮の道を歩んでいることを示しています。
探求の道には、必ず、終着地(ゴール)があります。
その道を辿るプロセスにおいて、何らかの有益情報、サポートとなるような情報を、記事の中から汲み取って頂ければ、幸いです。
今回、ご紹介しますのは、前回の続き、Oshoの「奇跡の探究」からの一文です。
Osho
『この旅は、ふた通りの探究となる。
クンダリニー、その目覚めたエネルギーは、計り知れない可能性を持つ大いなる源泉が、あなたの内に隠されていることを教えてくれる。
太陽からの一条の光は、来たるべき無限の光への可能性を開く。
ひとつめの道は、体の持つ最大限の能力に気づかせてくれるクンダリニーの覚醒にある。
エネルギーの目覚めによって中枢に、体の内なる扉にたどり着き、いわゆる魂と呼ばれる不可視の一端へ、たやすく進めるようになる。
これははっきりと、理解する必要がある。
何をするにしろ、実際に行うのはエネルギーであり、ある開口部、あるいは中枢を通して行っているからだ。
たとえば耳はそういう開口部のひとつだが、それを通して私たちは聞く。
しかし耳が病気になれば、何も聞くことはできない。
耳へのエネルギーが防げられ、源泉に戻ってしまうためだ。
やがてエネルギーは、耳に向かおうとしなくなる。
というのも、それはあくまでも活動できる見込みのある場所へと動くからだ。
そしてエネルギーは、もはや耳には届かなくなる。
その逆もまた起こりうる。
もしも耳が聞こえなくなった人が指で聴きたいと強く望めば、指が聴き始めることもできる。
この地上には、耳以外の器官で聴く人々が存在している。
また、眼以外の器官で見る人々もいる。
さて、クンダリニーが目覚め上昇し始めると、いつものあなたの体にはない、まったく新しい扉を叩く。
並はずれた感覚により――クンダリニーのエネルギーで刺激されると、普通の感覚では知り得ない物事を知り始める。
正確に言えば、クンダリニーがあなたの内部にある感覚器官を打ち、目覚めさせ始めるのだ。
現在において、通常の目や耳や他の感覚器官が機能しているのは、クンダリニーのエネルギーによる。
だが外側の器官を機能させるのには、ごくわずかな量のクンダリニー・エネルギーしか必要ではない。
この量が少し増えるだけで、他の中枢を同じように活性化させるぐらいの余分なエネルギーが好きなだけ得られるだろう。
たとえばこの床に水を少し流せば、ごく細い水の筋ができ、その後を伝ってどんどんと水が流れて来るような水の筋の跡が残るだろう。
だが、もし流される水の量がどっと増えれば、新しい水の筋が、そこからたくさん分岐していく。
古い道筋そのままでは、すべてを受け入れられないからだ。
体のより深い感覚におけるクンダリニーの目覚めとは、あなたが得るあまりにも多くのエネルギーが古い通路に入りきれず、否応なく新しい道や新しい扉を探すことを意味する。
その結果、内側でたくさんの新しい微細な感覚が目覚め、活発になり、これらの超感覚的な中枢によって、テレパシーや千里眼を持つようになる。
通常の目や耳では見聞きできないものを見たり、聞いたりし始める。
普通の感覚とは一切関わりのない、ある物事を経験する。
まったく新しい感覚器官が、あなたの内で活性化し始める。
新たな感覚が強められることによって起こるもっとも深遠なことは、いわゆるアートマンあるいは魂と呼ばれている不可視の世界を知り始めることだ。
それは体の内に隠されており、もっとも微妙で知覚しがたい部分だ。
だがその修行は、まず体から始めなければならない。
これまで話したことはないが、もうひとつの道がある。
クンダリニーの目覚めのために一般化されていることを説明してきたが、クンダリニーはクンダ、つまり池全体のことではない。
これは個々に話さなければならないものだが、もうひとつ別の道がある。
世界でもごく少数の人しかこの道をとらなかったが、それは私たちがよく知っているクンダリニーを目覚めさせる道ではなく、クンダ自体の中に突入していくものだ。
それはエネルギーの一部を目覚めさせ、それを成長のために用いるようなものではなく、クンダつまりは原子のエネルギーの貯水池に、自分の意識をそっくりそのまま溶け込ませてしまうのだ。
その場合には、どんな新しい感覚も目覚めないばかりかいかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸する。
その場合人は直接、神あるいは至高なるものに遭遇し、それを体験する。
クンダリニーの目覚めを通じて起こる最初の体験は、魂のものだ。
それとともにあなたは、自分の魂が他の人の魂とは別個であることを知る。
クンダリニーの覚醒によって成就した人々は、普通、複数の魂の存在を信じる。
彼らは、この地上における存在と同じだけの魂があり、すべての人は別々の魂を持っていると言う。
だがクンダの中に直接投入した人々は、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もないと言う。
多くのものではなく、一なるものだけが存在すると言う。
なぜならクンダに身を没入することで、自分自身のクンダと溶け合うばかりでなく、すべてのクンダ、集合的な宇宙的なクンダと溶け合うからだ。
クンダはひとつだ。
それは個別の存在としての私のクンダであったり、あなたのクンダであったり、彼のクンダであったりするものではない。
同じひとつのものだ。
だからこそ、クンダのエネルギーは果てしなく無限なのだ。
あなたがどれほどたくさんのエネルギーを引き出そうとも、その中身は少しも減ることはない。
それは依然として、満ち満ちた完全なもののままだ。
自分が使うために際限なくエネルギーを引き出したところで、中身に変わりはない。
それは常に満ち溢れ、無尽蔵だ。
だが、そこから引き出したものを自分自身のものだと思いがちだ。
それは海から水を汲み上げ、それぞれ自分の小さな器に入れておくようなものだ。
そして自分の器の中身は、それぞれ他の人のものとは違っていると考える。
だがもし海全体と溶け合えば、その人は海はひとつだと言うだろう。
器はそれぞれに異なっていても、その水は同じ海の一部であり、やがて再びその根源へと還っていくものだと。
あなたはそれを、長い間海から切り離したままにしておくことはできない。
やがて器の水は太陽の熱のもとで蒸発し、雲になり、雨となって海へと戻って行く。
実際には、水がその根源から切り離されることはない。
それはありえない。
クンダリニーの目覚めを通して修行する探究者たちは、超感覚的な体験をする。
それはまったく並外れた、粗い稀な超常的(サイキック)な経験だ。
まったく、幻想的(サイケデリック)な体験だ。
彼らは神あるいは至高なるものの、ほんの一部である魂を自覚するようになる。
このようにして、彼らは部分から全体を知ろうとしている。
それはちょうど、いろいろな人が遠く離れた別々の岸辺から、広大無辺の大洋に触れているようなものだ。
私はある岸辺からその大洋に触れているのだろうが、あなたもまた私がいる岸辺から、数百万マイルも離れた別の岸辺から、その同じ大洋に触れているのかもしれない。
だが、私と同じ大洋にあなたもたどり着いたと、どうして私に信じられよう?
私はある岸に触れ、それは自分の海の岸だと思い――あなたはあなたで別の岸に触れ、それは自分の海の岸だと思っている。
それは、私がインド洋を私のものと思い、あなたが大西洋をあなたのものと思い、また三人目の人が太平洋を自分のものと思っているようなものだ。
だが実際は、すべての大洋はひとつに繋がっている。
それは実に広大な、地球的規模の大海原だ。
しかし、私たちが断片的にそれに触れる場合は、それをそういったものとして認識するのは難しい。
私たちが広大なひとつの海を知ることはないだろう。
それどころか、自分の限界に応じてそれを分割し、境界を定めてしまうだろう。
大洋だけでなく、私たちはその岸辺までをも分けてしまうことになる。
魂の体験とは、片隅から大洋に触れているようなものだ。
これは広大なエネルギーのうちの、ほんのわずかなエネルギーの目覚めだけで起こりうる。
そのため、この道で成就した探究者には、魂を失う用意ができ、さらにはそれを超越し、彼方へと進んで行くことが必要とされる。
さもなければ、その旅がまだ不完全であるにも拘わらず、旅はそこで終わってしまう。
魂の理解が旅のすべてではない。
さらに魂を手放し、クンダに突入していく必要がある。
そうなれば旅は容易な、より簡単なものとなる。
遠回りの道ほどたやすく、結局は近道がもっとも困難になることが多い。
それには訳があり、それはこの件に関してもまさに当てはまる。
長い道程は常に、より容易な道だ。
そうだ、もし私が自分自身に近づくとしても、他の人を媒体にしなくてはならない。
自分の姿を見たければ、鏡が必要になる。
まず自分の姿が鏡に入り、それが反射して自分に戻り、そして初めて自分の顔を見ることができる。
これは不必要に長く、まわりくどい道のようだ。
「なぜそんな長い回り道をするのか?」と聞くかもしれない。
これより他に手だてはない。
自分の顔は自分にもっとも近いが、だからこそ、じかに見るのがもっとも難しくなる。
クンダリニー・エネルギーの一部を目覚めさせる道は、確かに長い道程となる。
しかし、避けていくことは、まずできない。
それは内なる感覚の全世界が開き、そして私たちが自己に、あるいは魂に到達するという方法だ。
しかしそこからは、量子的飛躍が絶対的に必要となる。
その量子的飛躍を円滑に、容易にするものこそが、まさにその長い回り道だ。
なぜならそれは、自分自身を知ったという自己実現の大いなる喜びが、人をさらなる至福の極みへと駆り立てて初めて起こるからだ。
確かに自分自身を知り、自己を実現することには、大いなる喜びがある。
だが自分自身を失うことの喜びは、その最たるものだ。
それは最高の至福だ。
自分自身を知った後でも、たったひとつ、ある痛みが残っている。
自我の苦痛、あなたがいるということを知る苦痛だ。
自己認識の達成とともに、あらゆる痛みは消えるだろう。
しかし依然として、ひとつの痛みがあなたにつきまとう。
それは存在することの痛みだ。
その時には、自らに問うだろう「私はなぜ在るのだろう?」
あなたはその時、存在することもまた不必要であり、痛みに満ちていることを知る。
すると存在から<非-存在>へのジャンプが起こる。
ある日あなたは言うだろう。
「存在することを知ったのだから、存在しないこともまた知りたい。今や私は光を知った以上、何としても闇を知りたい」と。
いかに光が広大であろうと、それには限界がある。
しかし闇は無限だ。
確かに、存在することには何の疑いもなく大いなる意味がある。
だがそれにも限界がある。
<非-存在>は果てしなく無限大だ。
まさにこのために、人々は仏陀を理解し損ねている。
ある人がブッダに「解脱つまり解放の境地において、私は生き残り続けるのでしょうか?」と尋ねると、
仏陀は「いや、生き続けることはない。あなた自身から本当に解放されるべき者、それはあなただ」と言った。
そこで彼はさらに問い直した。「解脱において、欲望や苦しみや罪業など、他のあらゆることはなくなるでしょう。でも、私の存在はどうなるのでしょう?私は本来の無垢な姿で生きることはできないのですか?」
仏陀は答えて言った「どうしてあなたが生きられるだろう?欲望や痛みや罪業は消えるだろうが、あるひとつの痛みは残るだろう――存在することの痛みだ。そうなれば、あなたの存在それ自体が、あなたを傷つけ始める」
興味深いことに、欲望が消え去ると、まさにあなたの存在そのものがあなたを悩ませ、あなたの傷つけ始める。
欲望がある間は、存在することが自分を悩ませようとはまったく思われない。
自分の存在を、何やかやでいっぱいにし続けているからだ。
お金を求めていれば、あなたの存在は稼ぐことに精一杯だし、栄光や名声を欲していれば、その存在は自分の評判や名声を得ることに余念がない。
だが金銭への欲望が消え去り、地位や栄光への憧れは無くなり、セックスに対する欲望さえもなく、何ひとつとしてすることがなくなり、行為そのものが消えてしまったら、いったい自分の存在をどうするというのかね?
自分の存在に直接悩まされ始めるのはそれからだ。
その時存在することが防げになり、存在は必要でないと思うようになる。
仏陀が「そこにはまったく何も残されていない。明かりが消えてしまったら、炎はどこへ行くだろう?」と言うのは、この局面についてだ。
なぜ人は、自分自身を失うことをこれほど恐れるのか?
人々にはやり終えるべきあまりに多くの物事が常にあり、自分自身を失うとすべてが未完成で、不完全なままになるからだ。
たとえば、私に自分で建てている建築中の家があるとする。
そしてこの家を完成させた後なら、自分自身を失うことができると考えている。
だがこの家が完成する頃には、何か他の未完成の計画や、仕事があることだろう。
したいという欲望は、本当は何かを完成したいという欲望であり、それこそが私たちを駆り立て続ける。
だから、今すぐ自分の魂を失くすことが一番の近道となる。
しかし欲望があれば魂を失くすことなどできない。
欲望がそっくりそのまま残っている人に、どうして魂を失くすことができよう?
もちろん欲望が消滅した時には、魂を失くす用意もできている。
その時、魂は無用のものとなるからだ。
たとえば、今現在苦悩を持ち運んでいる人に至福を捨てるように言ったとしても、とんでもないと言うだけだ。
だが、もし苦悩が消え去り至福だけがあるのなら、至福をも手放す用意ができる。
欲望が去ってしまったのに、至福をどうしようというのかね?
大いなる出来事は、至福をもまた捨てる用意がある時にだけ起こる。
悲しみなら誰にでもすぐ捨てられる。
だが生に継ぐ生において、至福そのものを喜んで手放す用意ができた時、時は訪れる。
それこそが、究極の存在との融合に導く。
これは、電光石火のごとく起こることもありえる。
つまり一挙にクンダに入ることもできる。
しかし、徐々に準備するほうがやりやすい。
突然その準備をすることがきわめて難しいからだ。
欲望が消え、思考や病み、行為が終止し、生きる支えすべてがなくなる時、最後にどんな基盤も支えもないままに、ただあなただけが残る。
その時こそ、自分にこう言いきれる。
「今やこの自我を救っても仕方がない。今ならば、それも手放せる」。
その時あなたはクンダに身を投じ、それと溶け合う。
このクンダとの融合を涅槃(ニルヴァーナ)、あるいは解脱と呼ぶ。
もし直接クンダに飛び込みたい人がいるなら、クンダリニーはその人の道ではない。
それゆえ霊的な道のいくつかは、クンダリニーについて語らなかったのだ。
それは必要なかった。
クンダと直接溶け合うことを教えた人たちは、クンダリニーを目覚めさせる技法について語る必要はないと考えたのだ。
しかし私自身の経験から言えば、直接的な道はうまくいかない。
稀にひとりふたりに有効に働いたかもしれないが、それでは充分だとは言えない。
たったひとつの花が咲いても、春はもたらせられない。
だから人々は、遠回りしていく必要がある。
要点は、エネルギーを蓄えることにあるのではない。
内側で眠ったままの、大いなるエネルギーを目覚めさせることにある。
このエネルギーは計り知れないほど無限で、まったくの無尽蔵だ。
ひとたびそれが目覚め始めれば、目覚めに従い、いよいよさらなる覚醒の可能性は増し、開花し続ける。
一度目覚めれば、エネルギーの流れは決して使い尽せないほど膨大で無限のものとなる。
言い換えれば、生における目覚めの限界など決してない。
目覚めの可能性は無限にあり、この限りなき貯水池からは、いくらでもエネルギーを汲み出すことができる。
エネルギーを得れば得るほど、大いなるエネルギーをもっと強烈に目覚めさせられるようになる。
この豊かな内なるエネルギーがあなたの自由になった時にしか、未知なるものへの探究にそれを用いることはできない。
そこで初めて、未知なる道、道なき道に進むことができる。』
(「奇跡の探究 Osho講話集」)
次回に続きます。
Hari Om Tat Sat!
So ham!
♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡
☆ 【聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】
(Parade books) - スワミ ラーマ著
(翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美)
単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)
Amazonで購入できます。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜
オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会
[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレット、スマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。