永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(65) クンダリニー①
今回からは、今般、ヨーガを実践している方々の中には、耳にし、知っている方もいらっしゃるかと思いますが、実体験がないために、具体的なイメージを掴んでいる人は、まだ少数と思われます「クンダリニー」について、ご紹介したいと思います。
「クンダリニー(シャクティ)」については、クンダリニー覚醒を体験し、グル(教師)として、多くの求道者達を導いて下さった方々が、いろいろな角度から情報を発信して下さっていますので、それらの情報に触れるだけであっても、「クンダリニー」という、私たち人間を生かしている生命力であるエネルギーの源泉が、この身体に、見えない形で眠っているかの如く、潜在している、ということは、大まかには、理解することができるでしょう。
多くのヨーギー達は、潜在する「クンダリニー」をプラーナヤーマの実践で、目覚めさせ、完全にアストラル体となって、多くのシッディや超常的な体験を得ますが、これは、「クンダリニー・ヨーガ」と呼ばれることもあり、その修養体系を教えることができるグル(教師)は、今現在、それほど多くはいらっしゃらないようです。
最初にご紹介しますのは、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次は、Osho(バグワン・ラジニーシ)の講話集から、非常に参考になると思われる抜粋文と、最後は、以前にもご紹介しましたが、今から13年前に、「クンダリニー覚醒」を体験された当時のナーナ先生の鮮明な体験談です。(ナーナ先生は、当時、アシュタンガ・ヨーガを精力的に実践されていたそうです)
ヨーガの修行中に、「クンダリニー覚醒」が起こることは、確率として見ると、そう多くは起こらないため、世間的には、その存在は、殆ど知られていませんが、生命力の源として、生命エネルギーが発生する源泉のようなセンターは、確かに、お尻の基底部に、人体と重なるように、潜在しています。
この潜在するエネルギーが目覚めると、意識は、霊的な次元へと踏み込むため、必然的に、人間という存在に秘められた構造的な秘密が、露わになることでしょう。
KUNDALINI(クンダリニー)
すべての行動の背後には、静的な背景がある。
エネルギーの背後には、意識がある。
シャクティ(力)の背後には、シヴァがいる。
シャクティそれ自体は、二つの正反対の静的と動的な面を持っている。
あなたは、磁石の極のように、静的な形でそれを持ちながら、同時に動的な形でシャクティを持つことはできない。
宇宙シャクティは、クンダリニーとプラーナとして、人間の肉体に現れている。
クンダリニーは、動くプラーナの力のための静的な支えである。
人は、小宇宙である。
外的宇宙に存在するモノは何でも、彼の中に存在する。
宇宙、山々、川、要素などに見られるすべてのモノは、身体にも存在する。
すべての元素(Tattvas)と次元(Lokas)は、身体の中にあり、それらはまた、至高のシヴァ・シャクティである。
人間の身体の中に、シヴァは、頭頂のサハスラーラ・チャクラに住まわれ、クンダリニーは、脊柱の基底部のムーラーダーラ・チャクラに住んでいる。
“ムーラーダーラ”とは、“根の支え”という意味である。
クンダリニーは、全身体の静的な力であり、すべての動いているプラーナの力である。
Tha Nature of Kundalini(クンダリニーの性質)
クンダリニーは、ムーラーダーラ・チャクラに、眠っている潜在的な状態におかれている根源的なエネルギーである。
それは、個人の身体における宇宙的な力である。
それは、電気的で、燃えるような超自然的な力であり、有機的で無機的なすべての事柄を強調する強力な原初の力である。
“クンダ”とは、“とぐろを巻いた”という意味である。
彼女の形は、とぐろを巻いた蛇のようである。
それ故、“クンダリニー”という名前なのである。
クンダリニーは、電気や磁気のような物理的な力ではない。
現実に、それはどんな形も持っていない。
粗大な知性と心(マインド)は、最初の段階では、特別な形を追う必要がある。
この粗大な形から、人は容易に、微細な無形のクンダリニーを理解することができる。
クンダリニーは、また、自分の中に力を開発しているヨーギーの身体で働いている蛇の力と呼ばれている。
それが目覚めると、それは笞で打たれた蛇のように、シューという音をたて、スシュムナー内のブラフマ・ナディを通って上昇し始める。
クンダリニー・ヨーガは、全身の創造し維持する力(シャクティ)が、実際に本当にシヴァ神と結合する。
ヨーギーは、彼を彼女の神に紹介させるために、彼女を扇動する。
クンダリニー・シャクティの目覚めと、サハスラーラにおける彼女のシヴァ神との結合は、サマーディの状態と霊的な体験をもたらす。
ヨーガの生徒は、不死の妙薬を飲む。
クンダリニー・ヨーガは、精密な科学である。
これはまた、ラヤ・ヨーガとして知られている。
Nadis and Chakras(ナディとチャクラ)
ナディとチャクラの詳細な知識は、クンダリニー・ヨーガの全生徒たちにとっては、最も重要である。
肉体は、アストラル体の性質に従って、形作られる。
肉体は、水に似たものである。
それは、粗大な形である。
アストラル体は、流体、或いは、気体に呼応している。
それは、微細な形である。
同じく、アストラル体、或いは、微細体(スークシュマ・シャリーラ)は、粗大、或いは、物質的な身体の中にある。
粗大な体は、アストラル体なしには、何もできない。
身体のあらゆる粗大なセンターは、アストラル(微細)なセンターを持っている。
ナディは、プラーナを運ぶ霊的な神経、或いは、アストラル管である。
それらは、霊的な流れを運ぶアストラル的なモノからできている。
生命力が動く、或いは、流れるのは、これらの微細な通路を通してである。
ナディが、微細なモノからできているので、それらは、肉眼では見ることができず、あなたは、物質次元では、いかなる管の体験もすることはできない。
これらのヨーガのナディは、医学者たちに知られている通常の神経ではなく、動脈でも血管でもない。
ヨーガのナディは、これらとは、全く異なる。
身体は、数え切れない無数のナディで満ちている。
アスバッチャの木の葉っぱが、微細な線維で覆われているように、同じように、身体にも何千というナディが行き渡っている。
身体のあらゆるナディは、カンダ(*1)から湧いている。
カンダとは、バルブを意味する。
カンダは、すべてのナディの源である。
肛門の上の二本の指と生殖器の下の二本の指が、カンダである。
形は鳥の卵に似ており、大きさは、四本の指の幅である。
72,000のナディが、カンダから出ている。
カンダは、アストラル体の中心である。
このセンターに相当して、あなたは、粗大な肉体に“馬の尻尾”(cauda equina)を持つ。
カンダから湧き出でるすべてのナディの中で、イダー、ピンガラ、スシュムナーが最も重要である。
そして、スシュムナーが主管である。
スシュムナーは、ムーラーダーラ・チャクラからブラフマランドラ(頭頂にある霊穴)まで伸びている。
それは、最も重要であり、ヨーギーによって探し求められている。
他のナディは、この下位にある。
西洋の解剖学は、脊髄には、灰色と白色の脳髄からできている中央導管(canalis centralis)と呼ばれている導管があることを認めている。
脊髄自体は、脊柱の穴の中で、落とされたり、つるされたりする。
同じように、スシュムナーも脊柱内で、落とされ、微細な部分を持つ。
それは、炎のような赤い色である。
スシュムナー内では、ラジャス的な性質をもった太陽として輝くバジュラ(金剛杵と呼ばれる法具)と名付けられたナディがある。
このバジュラ・ナディ内では、チトラと名付けられたもう一つのナディがある。
それは、サットワな性質の青白い色である。
このチトラ内で、非常に繊細で細かい管がある。
この管は、クンダリニーが目覚めた時、ムーラーダーラからサハスラーラ・チャクラまで通り抜けるブラフマ・ナディとして知られている。
このナディには、すべての六つのチャクラ、或いは、蓮の花が存在している。
チャクラは、神経叢、或いは、スシュムナー・ナディにおける微細生気(スークシュマ・プラーナ)のセンターである。
身体のすべての機能は、これらのセンターのコントロール下にある。
チャクラは、生命力の微細なセンターである。
これらは、魂、或いは、意識のセンターである。
チャクラは、死の際の肉体の機能の崩壊後でさえ、アストラル体にある。
これらのチャクラ、或いは、微細なセンターは、脊髄のセンターや粗大な肉体の神経叢に一致するセンターを持っている。
例えば、アナハタ・チャクラは、心臓神経叢で肉体に一致するセンターを有する。
それぞれのチャクラは、粗大な体に特別なセンターを覆う制御や機能を有する。
粗大な神経や神経叢は、微細なものと密接な関係をもっている。
肉体のセンターは、アストラルのセンターと密接な関係を持っているため、定められた方法によって、肉体のセンターで生産された振動は、アストラルなセンターやアストラルなセンターで望んだ効果を持つ。
クンダリニー・ヨーガの部分での最初の試みは、すべての世俗的な心理状態の人びとにおいては、大抵は閉じているスシュムナーを開口へと導くナディの浄化である。』
(Bliss Divine by Swami Sivananda)
(※1:ショウロ茸、微細次元の楕円球。72,000あるという導管は、すべてここから出てきているとされる)
『生命力が蓄えられている所は、クンダ、池のようなもので、セックスセンターの近くにある--そのエネルギーがクンダリーニとして知られているのはそのためだ--それはあたかもクンダ、つまり池のようだ。
また、クンダリーニと呼ばれるもうひとつの理由は、それがとぐろを巻いて眠っている蛇のようにも見えるからだ。
大蛇の眠っている姿を見たことがあれば、どのように鎌首をのせ、とぐろを巻いているのかわかるだろう。
だがその大蛇の眠りを防げると、目を覚ますや否や、とぐろを解きその鎌首をもたける。
このエネルギーがクンダリーニと呼ばれているのは、生命力の池、すなわち生命の根源がちょうどセックスセンターの近くにあり、そこから生命があらゆる方向に拡がっていくからである。
覚えておくといいだろう。
セックスから得る些細な快感は、それそのものの快感ではなく、セックスにともなって湧き起こる生命エネルギーの池の波動によって得られる、というのが本当だ。
眠れる大蛇がセックスによってわずかに動く。
そして、私たちはそれを人生最大の悦びだと思っている。
大蛇が完全に目覚め、体じゅうをかけ巡り、脳にある究極の中枢に達した時、何が起こるのかまったくわかっていない。
そのことについてはまったくの無知だ。
私たちは、生という梯子の第一段目で生きている。
そこにはまだ他の段階が、より高い段階があり、それは神へと通じている。
体の中の二、三フィートというわずかな隔たりも、別の意味では非常に大きな隔たりといえる。
それは自然と神との、物質と魂との、眠りと目覚めとの隔たり、死と不滅との隔たりだ。
その隔たりはとても大きい。
だが、人間という存在の中ではわずかな隔たりでもあり、それは瞑想によって超えられるものだ。
あなたの中で眠っているエネルギーを目覚めさせようと思うなら、それは大蛇の眠りを妨げて起こしてしまうのと同じくらい危険だということを、しっかりとふまえておかねばならない。
実際には、大蛇を起こすのはそれほど危険ではない。
第一に97%の蛇にはまったく毒がない。
だから百匹の蛇のうち九十七匹とは、何の心配もなく戯れることができる。
それらが危害を及ぼすことはないのだから。
もし蛇に咬まれて死ぬ人がいるとしたら、実は咬まれたせいではなく、蛇に咬まれたという想いから死ぬのだ。
普通の蛇には毒はない。
百匹の蛇のうち九十七匹は人を殺すことなどないのだが、蛇に咬まれて大勢の人が死ぬ。
そうなってしまうのは、人は蛇に噛まれたら必ず死ぬものだという思い込みがあるからだ。
思い込みにとらわれると、それが現実のものとなってしまう。
本物の毒蛇と戯れることもそれほど危険ではない。
というのも、せいぜい毒蛇はこの肉体を奪うことくらいだからだ。
だが、私が話しているクンダリーニのエネルギーと戯れることは実に危険だ。
これ以上危険なものはない。
どんな危険も、これ以上大きなものにはなりえない。
だが、何が危険だと思うかね?
これもまたある種の死だ。
内なるエネルギーが目覚めたら今現在のあなたは死ぬ。
そしてまったく新しいひとりの人間が生まれる――目覚める前のあなたとはまったく異なるひとりの人間が。
しかしながら、この恐れは人々が宗教的になるのを拒んでいる。
もし、この同じ恐れが種にあったら、樹にはなれないだろう。
この時種子は土の中に埋められ、水と肥料を施され、種子として死んでいくという最大の危機に直面する。
卵が成熟しその殻が破られる時も、この同じ危険が卵に訪れる。
その時、卵としては鳥になるために死なねばならない。
同じように、私たちはまだ生まれる前の段階にいる。
鳥になろうとしている卵のようなものだ。
しかし、私たちは卵がすべてだと考え、その中で腰を落ち着かせてしまっている。
このエネルギーが上昇すると、もはや、あなたはいなくなるだろう。
あなたが生き延びる道はない。
もし怖がっていたら、あなたの運命は、カビールが美しい詩句の中で描写しているようになってしまったのだ。
カビールが言ったことは美しい。
彼は言った。「海深く潜りて、探し求めた者のみが、それを見つけた。
だが愚かにも我は海に留まり探し続けていた」
誰かがカビールに、なぜあなたは留まったままでいたのかと尋ねると、彼は「海深く潜りて探し求めた者のみが、それを見出した。
だが、愚かにも我は溺れることを恐れ、海辺に留まり続けていたのだ」と言った。
それを見出したものはみな、深く入って探し求めることでそれを達成してきた。
絶対必要なのは、溺れる用意ができていること、消える用意ができていることだ。
もし一言で言えば――聞こえはよくないが――それは死だ。
死ぬ用意ができていることだ。
そして溺れることを恐れている者は、もちろん死にはしないだろう。
だが、卵のまま生きながらえるだけだ。
けっして鳥となってはばたくことはない。
溺れることを恐れる者は、もちろん死にはしないだろうが、ただ種子のまま、生きながらえていくだけだ。
大木となり、その木陰で無数の旅人たちにくつろぎを与えることは、決してない。
けれども種子のまま生き続けることに、何の価値があるのか?
このように、危険は大いにある。
昨日までの<私>という人間が終わってしまう危険性だ。
エネルギーが目覚めると、<私>というものが全面的に変容される。
新たなセンターが目覚め、新たな個性が現れ、新たな体験が起こる――何もかもが新しくなる。
新しいものを受け入れる準備ができているなら、古いものを手放す勇気を奮いたたせなくてはならない。
ところが古いものはあらゆる点で私たちをがんじがらめにし、あまりにも強く縛ってきた。
そのために、生命エネルギーはその頭をもたげられず、上昇できなくなってしまっている。
「クンダリーニを目覚めさせるのは、危険なことなのでしょか?
もしそうであれば、どのように危険なのでしょうか。
また、危険があるのなら、どうしてクンダリーニを目覚めさせなければならないのでしょうか」
クンダリーニの目覚めには、多大な危険がともなう。
実のところ、自分にとって人生と思えるものはすべてが失われてしまう危険性がある。
クンダリーニが目覚めると、人はそれまでとは異なった人間となる。
すべてが変化する。
すべてがだ!
関係性、感情、世界といった、昨日まで馴染みのあったもののすべてが変わってしまう。
変化をもたらすものは、すべて危険だ。
石炭がダイヤモンドになるには、石炭としての生命を断たねばならない。
だから危険性は非常に高い。
がそれは石炭としての危険にすぎない。
石炭がダイヤモンドになるのは、それが石炭として消え去って初めて可能だ。
おそらくあなたがたは、ダイヤモンドと石炭とは、本質的にはまったく違わないことを知らないだろう。
もともと、両方とも同じ元素に属している。
ダイヤモンドは非常に長い歳月を経るうちに、石炭が変化したものだ。
化学的にいえば、石炭とダイヤモンドは基本的に何ら違いはない。
しかし石炭がダイヤモンドになりたかったら、石炭のままではいられない。
非常に危険な状態に直面することになる。
同じように、神を求めて道を歩んでいく人も、危険に直面する。
その人は、人間として死ぬことになる。
河も海へ合流する時には、大きな危険に直面する。
その時、河は消え去る。
それを避けることはできない。
だが「危険」とはどういうことなのか?
それは消滅だ。
消え去る覚悟、死にゆく覚悟のある者だけが、神へと至る旅へと向かうことができる。
死は、瞑想のように私たちを完全に消滅させることはない。
なぜなら死とは、人がある体から離れ、別の体に入ることにすぎないからだ。
死においては、あなたが変わることはない。
あなたが外側にまとっている衣だけが変わる。
あなたは、依然として同じままだ。
なぜなら、死には人々が考えているほど大きな危険はない。
瞑想は、死よりもはるかに危険だ。
なぜなら、死があなたから服を奪い取るだけなのに対して、瞑想はあなたから、あなたそのものを奪いとってしまうからだ。
危険はある。
それゆえに魅力があるのだ。
だからこそ、それに向かって進まねばならない。
危険に直面するのは、ダイヤモンドではなく石炭だ。
危険にさらされるのは、海ではなく河だ。
危険にぶつかるのは、あなたの内なる神ではなく、あなただ。
だから今、このことを自分でよく考えてみなさい。
もし身の安全を図れば、あなたは神を失うことになる。
もし、神を見出したかったら、あなたは自分というものを捨てなくてはならない。
ある晩、ある者がイエスに質問した、「あなたがいつも話している神を見出すには、何をすべきなのでしょうか?」。
イエスは「自分を捨てる以外、何もする必要はない。わが身を守ってはならない」と答えた。
その男は「何をおっしゃるのですか?私が死んだら、何を得るというのですか」と言った。
イエスは答えた「自らを失う者は真の自己を見出し、自らを守る者は、永遠に真の自己を失う」と。』
(奇跡の探究 Osho講和録)
次にご紹介しますのは、ナーナ先生のクンダリニー覚醒時の鮮明な体験談です。
『2010年の1月から、アシュタンガヨガセンターに行き始め、クンダリニーが覚醒したのは、その2ヶ月くらい後です。
その間に既に、毎回始まりのマントラとスタンディングポーズだけで、天と地が一本の柱のように通って、全身が太いエナジーの柱になり、体がグルグル回転して静止できないことが多々ありました。
ヨガセンターには、気づいたら真我一体になっていた2012年12月の少し前まで通い、アーサナを実践していました。
毎日早朝に排泄を済ませて、必ず朝風呂に入って全身を洗い身体を清めてから、スーリャ・ナマスカーラAからできるところまでを行いました。
アシュタンがヨガセンターへ行くことはさかのぼって5〜6年前からの目標でした。
そのために身体を整える準備をしていました。
元々子供の頃から柔軟、バランス、深層筋、持久力(精神力)を要する運動が好きで、そのための必要なストレッチは毎朝20年以上続けていました。
2010年、春の訪れを感じて間もないある日のことでした。
帰宅するため電車に乗って席に座っていました。
すると突然、体の中の根底辺りに何か物凄い力のエナジーの活動を感じました。
ゥアー!!これは何??
それは暴発した火の玉のようでした。
高速回転している光のようにも感じました。
間もなく脊椎に沿って下腹部へ上がってきました。
このとき目前に体の細胞が大きく拡大されて映り、生々しい体内の長い長いトンネルのような管の中を光の玉が超高速スピードで昇っていくのが見えると同時に体で感じていました。
そのトンネルの距離は時間のようでした。
光の高速エレベーターがとてつもない距離と年月を超高速スピードで一気に昇っていく感覚です。
更に上へ、胃の辺りから胸まで達するときには圧力を感じていたので、このままこの強力なエナジーが頭頂に昇り詰めたら!脳や血管も頭もろとも破裂して、と、一瞬よぎりましたが、恐怖感はありませんでした。
このとき既に首から顔の半分まで達していて、今起こっているがまま次の瞬間!
頭頂のてっぺんの大きな蓋が 勢いよく「ポン!!」っと、大きな音を響かせて吹っ飛びました。
その様も音もシャンパンのコルクが飛ぶ音に似ていて、それは白っぽく平たい丸皿に似た頭頂の蓋に圧が掛かって勢いよく音を響かせて飛んだ瞬間、体の一部であるその蓋を眼で追いかけていました。
と同時に体がスーッと軽くなり、椅子からお尻が数センチ浮き上がっていて、重さや重力も感じられなくなっていました。
この感覚は何?何が起きているの?いったい何か起こっているの?と自分に問いかけました。
この間一駅から二駅くらいの間でした。
降りる駅に着き、この感覚のまま立ち上がりドアに向かって一歩二歩と歩き出すと、足の裏の床を踏む感覚がまるで感じられないのです。
足の裏が靴を感じることも、靴の底が床を踏む感覚もありません。
更に確かめるように前へと進みましたが、確実に体が宙に浮いてしまっていて重さも全く感じられません。
反対側のホームの改札へ向かうため階段を下りはじめると、周りの空気全体がほわ~~んとほんわりしてきて、柔らかく温かくなり、それに優しく包まれてとてもいい気持ちになりました。
連絡路を歩き階段を上がりはじめる頃には、わたしを包む周りの空気の一つ一つの微細な粒子が 愛 愛 愛……全て愛でできているように感じました。
超微細なのに、それは目前に拡大されて見えていてはっきりとわかるのです。
とても幸せな気持ちになり、幸せの中に漂っていて、何か大きな愛に包まれていて、守られていて、心地よくて温か~いのです。
この時わたしは既に体も無くなっていて同化した中に、意識と感覚だけが“そこ”にありました。
ここは別の世界、別の次元、天界です。
まるで母なる宇宙の子宮の中にいるような、地球上では味わうことのできない至福の感覚のなかでわたしは漂っています。
その微細な粒子のエナジーは密度が濃くて柔らかいのですがしっかりはっきりしています。
これだ!!と実感したと同時に、人間が暮らす地球上は泥沼に映りました。
柔らか~な薄い膜で覆われた愛の風船のようなものが、ときより触れてきて気持ちよ~いのです。
気が付くと階段を上がりきったところで改札に向かって歩いていました。
体の重さが全く感じられないので手や腕を見てみると、形の枠だけあって中は透明に近い状態で透けていて背景が見えました。
子供の頃テレビ映画で観た透明人間が、輪郭(線)だけのボディーで動いていたのを思い出しました。
この状態のまま改札を出て住まいに向かいました。
帰宅後も宙に浮いた状態で重さも感じられないまま、いつもの家事を済ませました。
それでも尚、現象は続いていました。
突然起きたこの体験に予備知識もなく、聞いたこともなく、わたしはこのまま天に昇ってしまうのではないか?と少し不安もよぎりました。
今起こっていることに頭では理解できないまま夜も更けてベッドに入ることにしました。
眠りについた後どうなってしまうのかはわかりませんが、全てお任せする他にわたしの選択の余地などありません。
至福のエナジーに包まれてリラックスしていたので直ぐに眠りにつきました。
目が覚めると朝になっていて、体は元に戻っていました。
その後も短期間に連続して数回、同じ様な体験が起こりました。
後にクンダリニーの覚醒だとわかりました。』 (ナーナ)
次回に続きます。
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