永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

クンダリニーについて(10)

前回の記事では、ナーナ先生の実際のクンダリニー覚醒体験をご紹介させて頂きましたが、このクンダリニーとは一体何なのでしょうか?

 

人の体の仙骨辺りにあるムーラダーラ・チャクラに眠っていると言われている「蛇の力」とは、一体何なのでしょうか?

 

ジニャーナ(智慧の道)を説く聖者として、日本でもよく知られていらっしゃいますラマナ・マハルシが、このクンダリニーについて明確に説明して下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

質問者

クンダリニーシャクティクンダリニーの力)はシャクティ(力)を得るヨーガの道にしたがう者だけに現れるのでしょうか、それとも帰依や愛の道にしたがう者にとっても現れるのでしょうか?」

 

マハルシ

クンダリニーシャクティをもたない人がいるだろうか?

シャクティの真の本性が知られたとき、それはアカンダーカーラ・ヴリッティ(純粋意識)あるいはアハム・スプーラナ(「私」の光輝)と呼ばれる。

いかなる道にしたがおうとも、クンダリニーシャクティはすべての人にとって存在している。

ただ名前が異なっているだけである。」

 

質問者

「『シュリー・ラマナ・ギーター』のなかに述べられているチット・ジャダ・グランティ(身体と意識との結び目)を断ち切るために、プラーナ(生気)をスシュムナー・ナーディ(脊柱のなかにある霊的神経)に送りこむにはどうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」と探求することによってである。

確かにヨーギはクンダリニーを目覚めさせ、スシュムナーまで送り上げようとしているかもしれない。

一方、ジニャーニにとってはこれが彼の目的ではないかもしれない。

だが、どちらもプラーナをスシュムナーに送り上げてチット・ジャダ・グランティを断ち切るという同じ結果に到達するのである。

クンダリニーとはアートマ、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。

われわれはクンダリニーを身体のなかにあるように語る。

なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在と見なしているからである。

だが、実際クンダリニーは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。」

 

質問者

「どのようにナーディ(霊的神経)を撹拌し、クンダリニーを目覚めさせてスシュムナーまで昇らせるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ヨーギはこの目的のために呼吸の制御法をするだろうが、ジニャーニには探求の方法しかない。

探求によって心が真我に溶け去ったとき、真我と異ならないクンダリニーあるいはシャクティは自動的に目覚めるだろう。

ヨーギたちはクンダリニーを目覚めさせ、サハスラーラ、頭頂点の霊的センターもしくは千の花弁の蓮に送り上げることを最も重要なこととしている。

彼らは聖典のなかにある「生命の気の流れは頭の泉門から身体に入る」という言葉を指摘し、ヴィヨーガ(分離)がそのようにして起こるため、ヨーガ(合一)は逆の経路から起こるのだと主張している。

それゆえ、ヨーガの成就のためには修練によってプラーナを集め、泉門に到達しなければならないと彼らは言う。

その反対にジニャーニは、ヨーギが身体の存在を認め、身体が真我から分離していると仮定していることを指摘する。

この分離という見解が受け入れられて、はじめてヨーギはヨーガの修練によって再び合一するための努力を推奨できるのである。

だが真実は、身体は心のなかに存在し、脳をその中枢としている。

脳が別の源から借りた光によって機能していることは、ヨーギ自身も泉門の理論のなかで認めている。

ジニャーニはさらに一歩進めて議論する。

もし光が借り物であれば、それはそれが生じた源から来たに違いない。

それゆえ、その源に直接行きなさい。

借り物に依存してはならない。

その源こそがハート、真我なのである。

真我がどこか他のところからやってきて、頭頂から身体のなかに入るわけではない。

真我はただあるがままに在る。

それは永遠に輝き、永遠に不動であり、揺らぐことも変わることもない。

個人ははかなく変化する身体や心の限界に閉じこめられている。

その身体と心も、不変の真我からその存在を得ているのである。

ただこの誤った自己同一化が放棄されなければならない。

それさえできれば、永遠に輝く真我は単一の非二元性の真理として見られるだろう。

もしサハスラーラに精神を集中すれば、サマーディの歓喜が得られることは疑いない。

だが、それでもヴァーサナー、心の潜在的傾向が破壊されることはない。

それゆえ、ヨーギはサマーディから目覚めざるをえない。

なぜなら、束縛からの解放がまだ達成されていないからである。

彼はまだ生来のヴァーサナーを根絶しなければならない。

そうでなければヴァーサナーは彼のサマーディを防げるだろう。

そのため、クンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラに達し、サハスラーラからジーヴァナーディを通ってハート(真我)へ降りていく。

スシュムナーは曲線を描く。

それは最も低いチャクラから始まり、脊髄を通って脳に昇りつめ、そこから曲がって降りていき、ハートのなかに到達する。

ヨーギがハートに到達したとき、サマーディは永久的なものとなるのである。

これでハートこそが最終のセンターであることが理解できるだろう。」

 

 

質問者

「自由意志というものは存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰の意志だろうか?

行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。

だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。

ジニャーナ(真我の知識)によって運命は克服される。

真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。」

 

質問者

「人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らないことまで、すでに決定されているのでしょうか?

例えば、今私は手の中の扇を床の上に置きました。

それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、すでに決定されているということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんだ。

何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現わしたときにすでに決定されているのである。」

 

質問者

「それでは、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーナを得ることである。

それが彼と身体との同一化を断ち切る。

身体はプラーラブダ(前世に作られたカルマ)によって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっているのである。」

 

質問者

「それでは、自由意志とは作り話なのでしょうか?」

 

マハルシ

「自由意志は個人性に関わる領域で維持される。

個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。

すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向けるように努めている。

誰にとって自由意志が問題となるのか見いだしなさい。

それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。

もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。

それがこの質問について議論する唯一の目的なのである。

誰にとってこの質問が起こったのか?

それを見いだして、心やすらかになりなさい。」

 

質問者

「もし、起こる運命にあることは起こるというなら、祈りや努力が何の役に立つというのでしょう、あるいは私たちはただ怠惰に、無為のままでいるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つだけある。

ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探求し、そして運命に束縛されているのは、真我でなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。

もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。

帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全なものになりえない。

真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのためにある。

解脱のためでさえない。

言葉を換えれば、真我探求の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

神の恩寵の力の働きによって、自己の本性を悟る「真我探求」の道は、短縮することが可能です。

 

 

「真我の目覚め」にご興味のある方、もっと詳しく知りたい方は、前回の記事で、自らのクンダリニー覚醒体験を公開して下さいましたナーナ先生が主催されますサット・サンガやマインドフルネス瞑想会にご参加下さい。

 

 http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

 

 「クリシュナよ 聖典の教えには従わないが

自分たち独得の信仰をもって

神を礼拝する人びとは

サットワ ラジャス タマスのどれに属しますか?」

 

「肉体をもった者たちの信仰には三種あり

それは生まれつきの性質によって決まる

三種とはサットワ ラジャス タマスーー

これからその説明をしよう

 

アルジュナよ 人は生まれつきの性格によって

異なった相(かたち)の信仰をもつようになる

信仰はその人の性質を表し

信仰はその人自身のすがたである 

 (バガヴァッド・ギーター第17章1-3)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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