永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(8)

前回まで3回に渡り、「グル」(師)について、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介することにより、「グル」(師)とはどのような存在か?また、その役割や働きなどについて理解を深めてきました。

 

釈迦やイエス・キリストやその他多くの「聖人」と言われた存在には、肉体を持った「グル」はいませんでしたが、シュリ・ラマナ・マハルシが質問者に答えられたように、”「グル」とは「真我」(アートマン)そのものである”ため、肉体を持った存在ばかりが「グル」(師)であるとは限らない、と言うことになります。

 

また一方で、時として、真我(アートマン)が、わたしたちもまた同じ真我(アートマン)であるということが、真実として明らかになるようにと、わたしたちの目の前に「グル」(師)という形(肉体)を持った存在として現れるということも、この世という神の創造の世界では起こり得ることなのです。

 

しかし、世の中には、自称「グル」を語り、人々を惑わすことに長けた人々が現れることもあるため、多くの人々に、「グル」という存在に違和感や不信感を感じることが起きてしまいがちですが、そうした状況があるが故に、真の「グル」を見分ける方法は、とても重要になってきます。

そのために、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉などから学ぶことで、ホンモノかニセモノかを見分ける審美眼を養うことは、わたしたちが「本当は、自分は誰であるのか?」という究極の真理に達するために、超えなければならないひとつの重要な試金石であると言えるでしょう。

 

物事の真贋を見分ける識別力を持つことも、また、神の恩寵のひとつと言えるのですが、その確かな識別力を養うためにも、もう少し、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉から、「グル」とはどのような存在なのか?について、更に理解を深めることが、わたしたちが自分の努力でできる準備のひとつであると言えます。

 

「グル」(導師)と言うからには、何よりも、自分の本性である真我(アートマン)を自力では悟ることができないわたしたちに、神の恩寵である神秘の力により悟らさせることができる存在こそが、真の「グル」であるということになりますが、この「悟る」とは、頭で理解することではありません。

 

「悟る」とは、己の本性である真我(アートマン)を知ることであり、それは知識によってもたらされるものではなく、真我(アートマン)そのものを体験することなのです。

それは、エゴの消滅によって起こりますが、このエゴの消滅は、エゴ自身が引き起こせるものではないため、準備は自分でできても、最終的には、神が微笑まなくては、何も起こらず、結局は、究極の真理を体得することはできません。

この最後の一押し、己の本性を覆っているヴェールを取り去り、それまで全く気づかないでいた真実が明らかになるようにと導いて下さる存在が、グル(真我)であり、それは通常の人間には不可能であるが故に、真のグル(真我)に出会うことは、個人にとっては、探究の終りに向けての最終段階であると言えます。

 

真我(アートマン)は、ブラフマン(在って在るモノ)であり、すべての存在の源であり、所謂「神」という概念で理解される究極の絶対的な存在でもあります。

 

この人類の究極の目的に達した存在のみが、まだゴールに達していないわたしたちを牽引するが如く、神の恩寵の力で導いて下さることができるのです。

 

それでは、一体、グル(師)は、どのような方法でわたしたちを導くのでしょうか?

 

幾人かの人々を究極の真理へと導いたことで「グル」(師)として知られるようになったシュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

 

『質問者

「なぜバガヴァーンは広く人びとに真理を説いてまわらないのでしょうか?」

 

マハルシ

「なぜ私がそうしていないと思うのかね?

真理を説くことは、教壇に上がって人びとに向かい、熱弁をふるうことだろうか?

真理を説くこととは、ただ知識を伝授することである。

本当の意味においてそれがなされるのは、ただ沈黙によってだけである。

一時間もの説教を聞いたあとで、人生を変えるほどの感銘も受けずに立ち去っていく人のことを考えてもみなさい。

その人と、賢者の神聖な臨在のなかに坐り、人生に対する見地が完全に変わってしまった人とを比べてみるがいい。

何の効果もなく、大声で説教するのと、沈黙の内に坐り、内なる力を送るのとどちらが優れているだろうか?

いったいどのようにして話す言葉が起こるのだろうか?

まず、そこには抽象的知識がある。

そこから自我が現れ、その自我から想念が起こる。

そしてその想念を話す言葉として現れるのである。

つまり、言葉は本来の源泉のひ孫にあたる。

言葉がいくらかの効果を生みだせるとすれば、沈黙から真理を説くことがどれだけ強力であるか、自分で判断してみるがいい。」

 

質問者

「どうして沈黙がそれほど強力でありうるのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現した賢者は霊的な波動を送り、それが多くの人びとを彼のもとに引き寄せるのである。

彼は洞窟に坐り、完全な沈黙を保っているかもしれない。

われわれは真理についての講話を聞き、たいした理解もできないままその場を立ち去るかもしれない。

だが、真我を実現した賢者との接触をもてば、たとえ彼が何も話さなくても、真理についてのより深い洞察を得ることだろう。

賢者が公共の場に出ていく必要などまったくない。

必要とあれば、彼は他の者たちを媒介者として使うこともできるのである。

グルは実在からあふれる自己知識の光を啓示して、沈黙を与える者である。

グルの眼差しが弟子の瞳にであえば、いかなる言葉もその意味を失うだろう。」

 

質問者

「バガヴァーンはディークシャー(イニシエーション)を授けるのでしょうか?」

 

マハルシ

「マウナ(沈黙)は最高の、そして最強のディークシャーである。

これはダクシナームールティによって実践されてきた。

触れること、見ることなどによるイニシエーションは順位の低いものである。

沈黙による伝授はすべての者のハートを変えてしまう。

ダクシナームールティは弟子たちがやってきたとき、沈黙を守った。

これがイニシエーションの最高の形態である。

それは他のすべての形態を含んでいる。

他のディークシャーは主体―客体という二元性の関係に基づいていなければならない。

まず、主体が伝授するものを発し、それを受け取る客体がいなければならない。

二人がそこにいないかぎり、どうやってひとりが他を見たり、他に触れたりできるだろうか?

沈黙のディークシャーは最も完全なものである。

それは見ること、触れること、教えることを含んでいる。

それはあらゆる方法で個人を浄化し、彼を実在のなかに確立させるだろう。」

 

質問者

「霊的な師は弟子に霊性を移入させることができる、とスワミ・ヴィヴェーカーナンダは言っています。」

 

マハルシ

「そこに何か移入されるような実体があるだろうか?

霊性を移入するとは、自分は弟子であるという感覚の消滅を意味するのである。

それが師のすることである。

あるとき何かであった人が、のちに何か別のものに変化するということではない。」

 

質問者

「恩寵はグルからの贈り物ではないでしょうか?」

 

マハルシ

「神、恩寵、グルはみな同義語である。

それらは内在する、永遠なるものである。

真我はすでにわれわれの内側に存在しているのではないだろうか?

それはグルの眼差しによって与えられるようなものだろうか?

もしもグル自身がそう考えていたとしたら、彼はグルと呼ばれるに値しない。

ディークシャーには手で触れる、目で見るといった数多くの伝授の種類があると聖典は述べている。

聖典はまた、グルが火、水、ジャパマントラを用いた儀式を執り行い、そのような奇妙な行動がディークシャーだと定義している。

あたかも、グルによって行われるそのような過程を通り抜けて、はじめて弟子が成就するとでも言うように。

グルの臨在の内にあるときに個人という実態を探し出そうとすると、どこにも見いだせない。

グルとはそのような存在である。

ダクシナームールティとはそのような存在である。

彼は何をしたのだろうか?

弟子たちが現われたとき、彼は沈黙を守っていた。

彼は沈黙の内にとどまり、弟子の疑いは一掃された。

それはつまり、彼らが個人としてのアイデンティティを失ったからである。

これこそがジニャーナであり、通常それにまつわる冗漫な儀式のことを言うのではない。

沈黙は最も影響力をもっている。

いかに聖典が広大で力強いものであっても、その効力は無に等しい。

グルは静寂の内にあり、周囲のすべてを平和で包みこむ。

彼の沈黙はすべての聖典をひとつにしてものよりもさらに広大で、さらに力強い。

こういった質問が起こるのは、あなたがここに長く滞在し、多くを聞き、多大な努力を重ねたにもかかわらず、何も得ていないと感じているからである。

内側で進行している成長をはっきりと知ることはできない。

ただ事実は、グルはつねにあなたの内に座しているのである。」

 

質問者

「グルの沈黙が霊的な覚醒のより高次の状態をもたらすというのは本当でしょうか?」

 

マハルシ

「グルの沈黙の力を証明する、古くから伝わる話がある。

タットヴァラヤは彼のグルであるスワルーパーナンダを讃えるために、タミル語でバーラニと呼ばれる詩的形式の作品を創作した。

そして高名な学者たちを呼び集めてその作品を聞いてもらい、評価を下してもらうことにした。

学者たちは、バーラニは戦いで千頭の象をも殺すほどの力をもった偉大な勇者を讃えるためにのみ創作されるべきであり、苦行者のための賛歌ではないと口々に異議を唱えた。

「我がグルのもとへ今すぐ行きましょう。

そこでこの問題を解決させましょう」とすぐさまタットヴァラヤが言った。

彼らがグルのもとに着き、座についたあとで、彼はグルに訪問の目的を伝えたのだった。

グルは沈黙して坐り、皆もまた沈黙の内にとどまった。

一日が過ぎ、夜になった。

そしてさらに何日かの昼と夜が過ぎていった。

それでも皆は沈黙して坐り、想念の起こった者はひとりもいなかった。

考えることも、なぜここにやってきたのかを口にする者さえいなかった。

このようにして何日かが過ぎたあと、グルがほんのわずかに心を動かした。

すると、そこにいた者は皆、直ちに思考の活動を取り戻したのだった。

彼らは驚きとともに言った。

千頭の象に打ち勝つことなど、われわれの自我すべてを合わせた獰猛な象に打ち勝つこととは比べものになりません。

あなたこそまさしくバーラニによって讃えられるに値する人です!」

 

質問者

「この沈黙の力はどのように作用するのでしょうか?」

 

マハルシ

「言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。

それは想念が現われたあとにのみ呼び起こされる。

「私」という想念が立ち現れたあとに、他の想念はつづく。

それゆえ、「私」という想念がすべての会話の根源と言えよう。

思考のない状態にとどまるとき、人は沈黙という普遍の言語によって他者を理解するのである。

沈黙は絶えず語っている。

沈黙は話すことによって防げられてきた絶え間ない言葉の流れである。

私が今こうして話しているこれらの言葉が、その沈黙の言語を防げている。

たとえで言えば、ここに電流が電線を伝わって流れている。

その経路に抵抗を与えることによって、それは電灯として輝き、扇風機として回る。

電線のなかでは、それは電気のエネルギーとしてとどまっている。

同じように、沈黙も永遠に流れる言語であり、言葉によって防げられているのである。

何年にもおよぶ会話でも知ることができなかったことさえ、沈黙のなかでは一瞬にして知られ得る。

ダクシナームールティとその四人の弟子たちの物語はこの良い例である。

これが最高の、そして最も効果的な言語である。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

故にブラフマンを知る人は

供犠 寄進 苦行をおこなうとき

聖典の規則にしたがって

必ずはじめにオームを唱える

 

物質界を解脱して真の自由を願う者は

物質次元の報果(むくい)を期待することなく

聖語”タット”を唱えて

供犠 修行 布施を行え

 

聖なる言葉 ”サット”は

実在と至善の意味に用いる

また プリターの息子よ

サットは善行の意味にも用いられる

(バガヴァッド・ギーター第17章24-26)

 

 

 

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☆真理を体得したい人

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クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

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(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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