永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(62) サマーディ②

前回より、ヨーガと呼ばれる修練体系が、最終目標としているある種の意識状態であるサマーディ(超越意識状態)について、ご紹介しています。

 

ヨーガにおいて、サマーディとされているある種の意識状態には、幾つかの種類と違いがあるとされていますが、大きく分けて二通りあるとされています。

 

一つは、僅かながら意識があるサヴィカルパ(有分別三昧)と意識が完全に真我である絶対意識に没入しているニルヴィカルパ(無分別三昧)です。

 

サマーディに関しては、サヴィカルパであろうと、ニルヴィカルパであろうと、それらの意識状態を言葉で表現するには限界があり、それ故、情報として伝わりにくい側面があるのは否めませんが、これらの意識状態は、実際に実体験してこそ、意味のある体験と言えますので、言葉を通しての理解は、全く役に立たないばかりか、イメージが膨らみ過ぎて、却って、体験が起きた時に、その体験への評価や解釈に囚われ過ぎてしまい、体験が示す本質を見誤ることにもつながりかねませんので、詳しく知っている必要はありませんが、ある程度、本質的な基本事項を知っておくことは、誤った道へと踏み込まないためのストッパーとして機能しますので、ヨーガ実践者の必要心得と言えます。

 

基本的な情報という観点から、ヨーガや瞑想実践において、サマーディ体験のどのような点に着目し、注意すると良いのか?

以下、間違った評価や解釈を回避するためにも、先人たちの智慧を通して、サマーディという内的な意識状態の本質について、ご紹介したいと思います。

(それは、誤った評価や解釈は、エゴを尊大にし、その結果、最終目標を見失ってしまうという結果にも結び付くリスクもありますので、正しい判断力を身につけておくことは、とても大切と言えるからです)

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」に書かれたメッセージ、次は、ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介しますが、御二方の御言葉が、異なった時空間で発せられた文言であるにも拘わらず、ほとんど同じことを言っている点に注目して下さい。

 

 

 

完璧なる覚醒、気づきの状態(A Condition of Perfect Awareness)

サマーディは、惰性、健忘、全滅の状態ではない。

それは、記述しようとするすべての試みを失敗させる絶対的な意識の状態である。

それは、すべての最終的な目的である。

それは、解脱(Mukti、Moksha)である。

サマーディは、多くの人びとが想像するような石のような不活性な状態ではない。

霊における生命は、全滅ではない。

真の自己は、経験的な存在に縛られる時、その活動は、充分に働かない。

そして、経験的な存在の限界が超越されると、宇宙的生命が強められ、あなたは自己を高める。

あなたは、豊かな内的生命を持つであろう。

あなたは、拡大した宇宙生命と超宇宙生命をも持つだろう。

サマーディは、惰性の状態ではない。

それは、完全なる覚醒、気づきの状態である。

それは、単なる感情的な興奮や陽気な感覚ではない。

それは、真理、絶対的な意識、究極のリアリティの直接的で唯一の直感的な経験である。

それは、すべての感情、興奮、快感を超えている。

それは、超越的な自己覚醒の強力な状態である。

探求者は、彼の中心で休息し-彼の探究のゴールである-絶対的な自由、独立、完全を実現する。

 

 

The Fourtsh Dimenntion(四つ目の次元)

サマーディの状態は、意思(Sankalpa)や願望が欠如しているため、目覚めている状態ではなく、夢見ている状態でもない。

それは、そこには不活発さが欠如しているため、熟睡でもない。

それは、無限のブラフマンの至福のある四つ目の次元である。

通常、あなたが夢を見ない眠りと呼ぶものを持つ時、それは、二つの内の一つである:あなたは、あなたが夢見たものを想い出せないか、あなたは、仮死、或いは、死の状態である絶対的な無意識の中に陥ってしまったか。

しかし、あなたが絶対的な静寂、不死、あなたの存在の全部分における平和に入り、あなたの意識が、サット(存在)-チット(意識)-アーナンダ(至福)に溶け込む眠りの可能性がある。

あなたは、それを眠りと呼ぶことはできない、何故ならば、完全なる“覚醒”(気づき)があるからである。

その状態の中では、あなたは数分間、或いは、数時間、或いは、数日、留まることができる。

しかし、これらの数分は、通常の何時間かの眠りよりもあなたに更なる休息や活性を与える。

あなたは、偶然に、体験することはできない。

それには、長い訓練が必要である。

 

 

Jada Samadhi and Chaitanya Samadhi(知覚のないサマーディと純粋意識のサマーディ)

サマーディとは、呼吸を完璧に停止して、蓮の蓮華座(パドマ・アーサナ)で絶対的な無意識の状態で坐っていることを意味すると一般的に信じられている。

通常段階の人は、サマーディに確立した人は、彼の周囲への意識がなく、もしナイフが彼の身体に突き刺さっても、絶対に苦痛を感じないだろうと思っている。

このようなサマーディは、確かに存在する。

それらは、みなハタ・ヨーガの行法によって引き起こされる知覚の無いサマーディ(Jada Samadhi)である。

ハタ・ヨーガ行者は、ケチャリ・ムドラー(※)の練習を通して、数カ月、地面の下に埋められた箱の中に閉じ込もることができる。

疑いなく、これは難しいヨーガの行法であるが、真我の智識(Atma-Jnana)を与えることはない。

知覚のないサマーディ(Jada Samadhi)においては、プラーナは、引き上げられ、いくつかのチャクラに固定される。

その人は、当分の間、ほとんど死んでいる。

これは、長くて深い眠りのようなものである。

これらのサマーディは、全く価値が無い。

サンスカーラ(潜在意識の印象)やヴァーサナ(精神的傾向)は、全部燃え尽きていない。

このサマーディの間、完全なる覚醒(気づき)はない。

その人は、同じ束の古いサンスカーラとヴァーサナを持った同じ年取った人として、サマーディから戻って来る。

彼は、超直感的な智識を持っていない。

これは、ある種のアクロバティックな妙技であり、内的な体操である。

このようなサマーディは、解脱(Mukti)や自由を与えることはできない。

世俗的な人びとは、このような妙技に騙される。

真のサマーディは、超感覚的な智識である。

ヨーガ行者は、新しい超感覚的智慧と共に戻って来る。

これは、真の、純粋意識のサマーディ(Chaitanya Sanadhi)である。

純粋意識のサマーディ(Chaitanya Samadhi)においては、完全なる覚醒(気づき)がある。

知覚の無いサマーディ(Jada Samadhi)においては、探求者は無意識である。

純粋意識のサマーディ(Chaitanya Samadhi)は、知覚の無いサマーディ(Jada Samadhi)とは、全く違うものである。

その中では、疑念も迷いも三つの結び目-無知(Avidya)、欲望(Kama)、カルマ(業)―は智識の炎によって破壊される。

それは、絶対的な恐れの無さと心の平穏な状態を与える。

サマーディの状態は、仕事中でさえ維持される。

サマーディの中に確立された彼は、彼の心(マインド)と身体を完全なるバランスに保ち、アートマン・ヴァーヴァ(すべてを真我として見る)を持って、人類への奉仕にそれらを使う。

彼は、ブラフマンに固定されている。

彼は、常にサマーディの中にいる。

いかなる条件下でも彼にとって動揺はない。

彼は、真我の智識のため、堅固無比となる。

真のサマーディは、瞑想と同じくらい行為において、持続されなくてはならない。

これは、内なる強さと実現の真の試みである。

これが、真の純粋意識のサマーディ(Chaiyanya Samadhi)である。

目を閉じ、山の洞窟や森へ入って行くが、仕事中、傷ついたり、くたくたに疲れるようなサマーディは、サマーディなどではない。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

(※長くした舌を口の奥へと巻き込んで、咽頭部の穴を塞いでしまうこと)

 

 

 

『質問者

「ラージャ・ヨーガの第八段階であるサマーディは、あなたが語るサマーディと同じものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「サマーディという言葉は、ヨーガのなかではある種の超越状態を意味し、それにはさまざまな種類のサマーディがある。

だが、私が語るサマーディはそれとは別のものだ。

それはサハジャ・サマーディである。

このなかであなたはサマーダーナ(安定性、不変性)を得る。

そしてたとえ活動中でも、静かな落ち着いた状態のままとどまる。

あなたはより深い内なる真我によって動かされていることを悟る。

あなたには何の心配も、不安も、悩みもない。

なぜなら、何ひとつあなたに属するものはないと悟るからである。

あなたはあなたが意識的に合一した、その何かによってすべてが為されていることを知るのである。」

 

質問者

「このサハジャ・サマーディが最も求められるべき状態であるのなら、ニルヴィカルパ・サマーディは必要ないのでしょうか?」

 

マハルシ

「ラージャ・ヨーガのニルヴィカルパ・サマーディはそれなりに有益だろう。

だが、ジニャーナ・ヨーガにおいては、サハジャ・スティティ(自然の状態)あるいはサハジャ・ニシター(自然の状態にとどまっていること)自体がニルヴィカルパの状態なのである。

この自然な状態のなかで、心は疑いから解き放たれ、もはや可能性と蓋然性の選択に揺れることはない。

心は何のヴィカルパ(違い)も見ず、真理を確信している。

なぜなら、心は真理の実在を感じとっているからである。

たとえ活動しているときでも、それは真理、真我、至高の実在のなかでの活動だということを知っているのである。」

 

質問者

「深い眠りとラヤ(心が一時的に停止した超越状態)とサマーディの違いは何でしょうか?」

 

マハルシ

「深い眠りのなかでは、心は没入しているが破壊されてはいない。

ひとたび没入したものは再び現れてくる。

それは瞑想のなかでも起こりうる。

だが、破壊された心が再び現れることはない。

ヨーギの目的はラヤのなかに沈みこむことではなく、心を破壊することである。

瞑想の平和のなかでラヤは、しばしば起こる。

だが、それではじゅうぶんでない。

心を破壊するために、それは他の修練で補われなければならない。

ある人たちは取るに足らない想念とともにヨーガのサマーディのなかに没入し、長い時が流れたあとで同じ想念とともに目覚めている。

その間、世界では何世代もが過ぎていったのである。

そのようなヨーギの心は破壊されていない。

本当の心の破壊とは、真我を離れて心は存在しないと認識することである。

今でさえ、心は存在していない。

それを認識しなさい。

自動的にすべてが起こっていく日常の活動のなかにこそ、その真実を認識しなければならないのである。

日常の活動を促している心とは実在のものではなく、真我から生じる幻影のようなものにすぎない。

これが心を破壊する方法である。」

 

質問者

「ニルヴィカルパ・サマーディの間、身体的妨害によって瞑想者が影響を受けることもあるのでしょうか?

私はこの点について友人と意見が合わないのです。」

 

マハルシ

「あなたがたの意見はどちらも正しい。

ひとりはケヴァラについて、もうひとりはサハジャ・サマーディについて語っている。

どちらの場合も心は真我の至福のなかに没入している。

ケヴァラの場合、身体的な動きは瞑想者にとって妨害となるだろう。

なぜなら、心が完全に破壊されていないからである。

それはいまだ生きており、ちょうど深い眠りのあとのように、いかなる瞬間にも活動的になりうる。

それは水のなかに完全に沈みこませながらも、まだロープによって引き上げることのできる桶のようなものである。

サハジャの場合、心は完全に真我のなかに沈みこんでいる。

それはちょうどロープの切れた桶が井戸の底深くまで沈みこみ、引き上げようがない状態と同じである。

サハジャにおける人の活動は、眠りながら母乳を飲んでいる赤ん坊が、そのことに気づいてさえいないのと同じ状態だと言えよう。」

 

質問者

「そのような状態で、いったいどうやって世界のなかで機能できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「瞑想を自然な習慣とし、瞑想の至福を楽しむ人は、外的な仕事が何であろうといかなる想念がやってこようと、彼のサマーディを失うことはない。

それがサハジャ・ニルヴィカルパである。

サハジャ・ニルヴィカルバはナーシャ(心の完全な破壊)であり、ケヴァラ・ニリヴィカルパはラヤ(一時的な心の停止)である。

ラヤ・サマーディの状態にいる者は、ときおり心を制御しなければならない。

もしサハジャ・サマーディのように心が破壊されたなら、再び現れることはない。

そのような人によって為された行為は、それが何であろうと重要なことではない。

彼がその崇高な状態から落ちることはけっしてないのである。

ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディの状態にいる者たちは、真我を実現してはいない。

彼らはいまだに探究者である。

サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディの状態にいる人は、無風状態のなかの光、あるいは波のない海のように内面の動きがまったくない。

彼は何も彼自身とは別のものとして見ることがない。

この状態に達していない人にとっては、すべてが自分自身とは別のものとして現れる。」

 

質問者

「ケヴァラ・ニルヴィカルパの状態は相対的な世界に下りてこなければなりませんが、体験そのものはサハジャと同じものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「下りたり上がったりするようなことは何もない。

上がったり下りたりするその人は実在ではない。

ケヴァラ・ニルヴィカルパの状態では、精神的な桶はいまだに水の下に存在している。

そして、それはいつでも引き上げられる。

サハジャは川が大海へと流れ入るように、再び戻ることはない。

なぜあなたはこのような質問をするのか?

あなた自身がその体験を得るまで修練をつづけなさい。』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************