永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(58) 瞑想(ディヤーナ)②

前回より、ヨーガにおける「瞑想」(ディヤーナ)について、先人たちの智慧の御言葉を辿りながら、詳細にお伝えしています。

 

「瞑想」(ディヤーナ)へのプロセスは、実践により体得され得るものですが、その真の目的と導かれるとされている結果について知ることは、探究者にとっては、努力のプロセスにおける一つの大きな励みになることでしょう。

 

そのことにより、「瞑想」(ディヤーナ)のプロセスが短縮され、より確実に、究極の真理が顕わになるチャンスに与ることも可能となることでしょう。

 

それは、前回の記事の中でご紹介させて頂きましたラマナ・マハルシの御言葉「この無心の心の広がりが真我である。純粋な心が真我なのである。」ということが、体験(瞑想)を通して明らかになる、ということに他なりません。

 

また、それは、想念として現れる心の波(ヴリッティ、Vrtti)が、絶え間ない瞑想状態の中では、相殺されて現れない、ということを意味しています。

 

その辺りの詳細な仕組みは、初めにご紹介しますSwami  Sivanandaの「Bliss Divine」と次にご紹介しますラマナ・マハルシの御言葉の中に、詳しく語られていますので、瞑想をする際の実践的なアドヴァイスとして、ご紹介させて頂きます。

 

 

 

『What Happens during Meditation(瞑想中に何が起こるか?)

瞑想中、現在の溝が、頭の中で形作られ、心(マインド)は、新しい霊的な溝の中へと上昇する。

心(マインド)が、瞑想に固定すると、瞳もまた固定する。

心が静かになったヨーギーは、固定した瞳を持つだろう。

全く瞬きしないであろう。

眼は、光沢をおび、赤か純白になるであろう。

あなたが、非常に深い静寂な瞑想に入ると、呼吸は鼻から出ないであろう。

時折、肺と腹部のゆっくりとした動きがあるかもしれない。

深い継続した瞑想では、思考は止む。

“我、それなり”(Aham Brahm Asmi)という一つの考えだけがある。

この考えもまた放棄されると、ニルヴィカルパ・サマディ(Nirivikalpa Samadhi)、或いは、サハジャ・アドヴァイタニシュチャ(Sahaja-advaitanishtha)が起こる。

塩が水に溶けるように、サットワ(善性)な心(マインド)は、その根本であるブラフマンの沈黙に溶ける。

 

 

Aids to Meditation(瞑想への助け)

瞑想中、あなたは、静かで、明晰で、純粋で、微細で、鋭利で、安定した一点集中の知性を持たなくてはならない。

ブラフマンは、純粋で微細であるため、ブラフマンに近づくには、あなたには純粋で微細な心(マインド)が必要である。

もしあなたが、緑の森に火を放ったら、それは燃えるだろう。

もしあなたが、乾いた木片に火を放ったら、それは直ぐに、炎を捕らえ、燃えるであろう。

同じように、心を浄化しなかった人々は、瞑想の炎を開始することができないであろう。

彼らが瞑想中に座っている時に、彼らは、眠っているか、夢見ているか――空中に城を建てているであろう。

しかし、神の御名の称名(Japa)や、奉仕、寄付、プラーナヤーマなどで、心の不純さを取り除いた人々は、彼らが瞑想のために坐るや否や、深い瞑想に入るであろう。

純粋で、成熟した心(マインド)は、直ぐに、瞑想の炎で燃えるであろう。

瞑想の目的のために、すべてのモノは、サットワ (Sattvic、善性)でなければならない。

瞑想の場所は、サットワでなければならない。

食べ物は、サットワでなければならない。

衣服は、サットワでなければならない。

仲間も、サットワでなければならない。

話すことも、サットワでなければならない。

あなたが聞く音は、サットワでなければならない。

考えることも、サットワでなければならない。

学びは、サットワでなければならない。

すべてが、サットワでなければならない。

その時だけ、霊性修行において良い進歩が、可能である。

特に、初心者に関しては。

早朝の修練(Brahma Muhurta)で、瞑想を練習しなさい。

これは、瞑想にとって、最も良い時間である。

あなたは、早朝の時間には、鮮明で静かな心(マインド)を持つことができるであろう。

心(マインド)は、空白の紙片、或いは、空の文字盤のようであり、この時には、世俗的な残存印象(Samskaras)、或いは、印象からかなり自由である。

心(マインド)は、あなたが好きなやり方で、非常に簡単にかたどられる。

あなたは、神聖なる思考で、今や容易に心(マインド)を満たすことができる。

その時、霊的な影響や神秘の静寂がある。

すべての聖者やヨーギーは、この期間に瞑想を実践し、彼らの霊的なバイブレーションを全世界に送った。

あなたは、もしあなたが、あなたの祈りやジャパ(神の御名の詠唱)や瞑想を始めるならば、彼らのバイブレーションによって、大いに恩恵を受けるであろう。

あなたは、努力する必要がない。

心(マインド)の瞑想状態は、心(マインド)そのものから生じる。

同じ時間帯に、一定の規則正しい瞑想を実践しなさい。

あなたは、簡単に、瞑想的な状態を獲得するであろう。

瞑想中、脳は熱くなるので、ウッタルカシ、リシケシ、ラークシャマンディール、カンクール、バドリナラヤンのような、霊的な振動状態を持つ人里離れた場所、温暖な気候で涼しくサットワな場所は、心の集中や瞑想には、ぜひとも必要である。

ガンジス河の畔や、ナラマダ、ヒマラヤの風景、美しい花園、聖なる寺院など――これらは、心を集中させ、瞑想を高める場所である。

それらに頼りなさい。

あなたは、心(マインド)が、あらゆる心配を超えている時にだけ、瞑想できる。

すべての身体的な活動は、完全に一時的に休止されるべきである。

もしあなたが、ディヤーナ(瞑想)ヨーガを実践したいのであれば、もしあなたが、心(マインド)の集中を通して神を悟りたいのであれば、すべての(家族への)愛着は、5、6年の間は完全に、情け容赦なく切り離されるべきである。

新聞を読んだり、友人や親戚との手紙のやり取りすることは、心(マインド)を散らし、世俗的な考えを強化するので、完全に止められるべきである。

5、6年の間の隠遁生活は、不可欠である。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「ディヤーナとサマーディの違いは何でしょうか?」

 

マハルシ

「ディヤーナは意図的な精神的努力によって達成される。

サマーディにおいてはそのような努力はない。」

 

質問者

「ディヤーナの最中に心にとどめておくべきこととは何でしょうか?」

 

マハルシ

「真我の内に確立(アートマニシター)された人にとっては、一瞬でさえその忘我状態から動いてはならないことが重要である。

真の本性からそれると、彼は燦然と輝く光を見たり、霊妙な音を耳にしたり、彼の内面あるいは外面に現れる神々の幻想を実在だと見なしたりしてしまう。

彼はけっしてこのようなことに惑わされて自己を見失ったりしてはならない。」

 

質問者

「どのように瞑想を修練すればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「本来の意味においては、瞑想とはアートマニシター(真我の内に確立されること)である。

だが、想念が起こり、それを打ち消そうと努力をするとき、その努力がふつう瞑想と呼ばれている。

アートマニシターはあなたの真の本性なのだ。

あるがままのあなたとしてとどまりなさい。

これがその目的である。」

 

質問者

「それでも想念は起こります。

私たちの努力は消去することだけにあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

ひとつの想念だけに瞑想することで、他の想念は遠ざけられる。

瞑想は想念が遠ざけられるというだけの消極的な効果しかもっていない。」

 

質問者

「アートマ・サンスターム・マナハ・クリドヴァー」(心を真我の内にとどめる)と言われています。

しかし、真我とは思考の及ばないものなのではありませんか?」

 

マハルシ

「いったいなぜ瞑想したいと願うのだろうか?

あなたが瞑想したいから、「アートマ・サンスターム・マナハ・クリトヴァー」と言われたのではないだろうか?

なぜ瞑想なしに、あるがままのあなたとしてとどまらないのかね?

「マナハ」(心)とは何だろうか?

すべての想念が消え去ったとき、それは「アートマ・サンスター」(真我の内にとどまる)となるのである。」

 

質問者

「もし何かの形が与えられたなら、私はそれに瞑想することができます。

そして他の想念は消え去ることでしょう。

しかし、真我は無形なのです。」

 

マハルシ

「形や具体的対象物に瞑想することがディヤーナと呼ばれる。

一方、真我の内に尋ね入ることは、ヴィチャーラあるいはニディディアーサナ(存在への不断の自覚)と呼ばれる。」

 

質問者

「ディヤーナのなかには、感覚的な快楽よりもより深い喜びがあります。

それにもかかわらず、心は快楽のあとを追いかけ、ディヤーナを求めようとはしません。

なぜなのでしょうか?」

 

マハルシ

「快楽や苦痛は心の側面にすぎない。

われわれの本質的な本性は至福である。

だが、われわれは真我を忘れ、身体と心を真の自己だと想像してしまう。

この誤った同一視が不幸をもたらすのだ。

いったいどうするべきだろうか?

この心の潜在的傾向は非常に古いものであり、無数の過去生を通してつづいてきた。

それゆえ、強い影響力をもってしまった。

本来の姿である至福が自然に現れでる前に、それが去らなければならない。」

 

質問者

「ディヤーナはどのように行うのでしょうか、目を開けてでしょうか、閉じてでしょうか?」

 

マハルシ

「どちらの方法でも良いだろう。

要点は、心が内側に向かい、その目的遂行に専心することである。

目を閉じていると、ときおり潜在していた想念が強烈な勢いで湧き起こってくることがある。

目を開いていると、内側に向かうことが困難になることは確かである。

そうするためには精神力が要求される。

心は対象物を取り入れると穢れてしまう。

さもなければ、それは純粋なままである。

ディヤーナにおける要点は、外的な印象を取り入れることなく、他のことを考えることなしに、心が目的追求に打ち込むことにある」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

『風のない所に置いた燈火が

けっしてゆらめくことがないように

心を支配したヨーギーの瞑想は

真我(アートマン)に安定して微動だにしない

ヨーガの実修によって

心の動きを完全に支配し得たところの

無上の境地をサマーディと言う

これは清浄な心をもって自己の本質を知見し

それを味わい楽しむことである

この喜ばしくめでたき境地にあって

人は妙々至楽の歓喜地に住む

霊感覚によって自らを楽しむ

この境地に定着すれば真理より離れることなく

その人は至高最大の宝を得たことを知る

ここに定住すれば

いかなる困難にも動揺せず

一切の苦より脱して

真実の大自由を得るのである』

(バガヴァッド・ギーター 第六章十九)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

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