永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(59) 瞑想(ディヤーナ)③

前回から引き続き、「瞑想」についてのヒント、考察をご紹介したいと思います。

 

「瞑想」は、実践することにより、自分なりに、コツやヒントを掴んで行くものですが、スポーツでも、楽器の習得などにおいても、そうですが、熟練者のアドバイスやヒントは、実習者にとっては、特に初心者にとっては、非常に役に立つものです。

 

今回は、特に、実践者が陥りやすい誤りについて、ご紹介したいと思います。

 

ラマナ・マハルシは、真の自己である真我(アートマン)とは、「無心の心の拡がり」であると述べています。

 

この「無心の心の拡がり」がもたらされる「瞑想」について、実現者である先人たちの智慧に与り、実践しながら、実現のプロセスを短縮することは、誰もが授かることができる”神の恩寵”と言えます。

 

早速、見て行きましょう。

 

最初にご紹介しますのは、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」からの抜粋、次は、ラマナ・マハルシによる探究者からの質問へのご回答です。

 

 

Some Useful Hints(いくつかの有益なヒント)

瞑想では、目を見張ってはいけない。

頭を働かせてはいけない。

心(マインド)と闘う、或いは、取っ組み合いをしてはいけない。

それは、重大な誤りである。

多くの初心者は、この重大な過ちを犯す。

それは、彼らが直ぐに簡単に疲れる理由である。

心(マインド)を制御しようと暴力的な努力をしてはいけない。

しかし、しばらくの間、少しばかりの自由を許し、走り回させ、努力を使い尽させなさい。

心(マインド)は、最初は、訓練されていない猿のように、飛び跳ねるであろう。

次第に、それは落ち着いて来るだろう。

その時、あなたは、心(マインド)をあなたの目的(Lakshya)に固定することができる。

任意に、激しく、邪魔をする思考を排除してはならない。

神聖なる思考に流れるのを優しく許しなさい。

邪悪な思考は、自ら、消滅するであろう。

あなたが、六か月間、閉め切られた部屋を掃除し始めると、数々の汚れが部屋の隅から出て来る。

同様に、瞑想中は、ヨーガの圧力下で、神の恩恵を通して、数々の不純さが心(マインド)の表面上に広がる。

適切な方法と反対の徳によって、一つ一つそれらを勇敢に取り除きなさい。

あなたは、日々、あなたのヴァイラーギャ(離欲)と、辛抱、忍耐、慈悲、愛、許し、純粋さ等というようなサットワな徳が増すようにしなくてはならない。

離欲(Vairagya)と良い性質は、瞑想を助ける。

瞑想は、サットワな性質を増す。

あなたが瞑想をする時、あなたが神聖な、またはサットワな徳を発達させる時、霊的な道が、心の中に構築される。

もしあなたが、瞑想を規則的に行っていないと、もしあなたの平静さが欠けると、もしあなたが不注意で不用心になると、霊的な道は、溢れ出る不純な思考と邪悪なヴァーサナ(Vasana:精神的傾向)によって、流されてしまうであろう。

それ故、あなたの瞑想を規則的に行いなさい。

瞑想における規則正しさは、最も重要である。

 

 

Reasons for Failure in Meditation(瞑想における失敗の理由)

修行者の間では「私は、12年間瞑想をしている。私は少しも改善していない。私は実現していない。」という不満が、常にある。

それは、何故なのか?

何が、理由なのか?

彼らは、彼らのハートの最奥の奥底の中に、深い瞑想へ彼ら自身を沈めることがないのだ。

彼らは、当然のことながら、心(マインド)を神の思考で染み込ませていないのである。

彼らは、規則正しく、定期的に霊的修練(Sadhana)をしていない。

彼らは、完全に感覚知覚器官を鍛錬していない。

彼らは、心(マインド)の外へ向かうすべての光線を集めたことがない。

彼らは、「私は、正にこの瞬間に、これを実現するだろう」と、自己決定をしたことがない。

彼らは、100%の心(マインド)-心のすべてを-神に与えたことがない。

もし瞑想者が、10分間、神聖なる思考を持ち、それから、世俗的な相争う思考を次の10分間持つならば、彼は、神聖なる意識に達するのに失敗するであろう。

あなたは、精神力と力強さ、一点集中だけで、兎の後を追わなくてはならない。

あなたは、必ずそれを捕まえる。

あなたは、いつも、神聖なる思考だけを持たなければならない。

その時、あなたは、直ぐに必ず神を覚る。

あなたが、瞑想に取りかかる時は、あなたは、直ぐに果実を切望するのを急ぎ過ぎてはならない。

若い女性は、子孫を得るために、アスバッチャの木を108回、歩き回り、それから直ちに、子供がいるかどうかを見るために、彼女の腹部に触った。

それは、全く馬鹿げたことである。

彼女は、数カ月待たなくてはならないであろう。

同じように、もしあなたが規則的にしばらくの間、瞑想をするならば、その時、心(マインド)は、熟し、そして、ついにあなたは、真我実現を得るであろう。

急いては事を仕損ずる、である。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「バガヴァーン、いつであれ私が瞑想するとき、頭のなかにたいへんな熱を感じ、それでも瞑想しつづけると、全身が燃えるように感じるのです。

どうすればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「脳のなかで精神集中を行なえば、熱の感覚や頭痛さえ起こることは確実だろう。

集中は冷静でさわやかなハートのなかでされなければならない。

リラックスしなさい

そうすれば瞑想も楽になるだろう。

無理せずに、侵入してくるすべての想念を穏やかにかわしながら、心を安定させなさい。

そうすれば、すぐにうまくいくだろう。」

 

質問者

「瞑想中に眠りこまないようにするにはどうすればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「もし眠りを妨げようとすれば、それは瞑想中に考えごとをすることになる。

それは避けられねばならない。

だが、瞑想中に眠りに入れば、その瞑想は睡眠中も目覚めたあとにもつづくことだろう。

しかしながら、ひとつの想念である眠りからも自由にならねばならない。

なぜなら、最終的な自然な状態は、想念の妨害なく意識的にジャーグラト(目覚めの状態)のなかで得られなければならないからだ。

目覚めも眠りも自然な無心状態のスクリーン上に現れた単なる画像にすぎないのである。」

 

質問者

「何に瞑想すればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「何であれ、あなたが好むものに。」

 

質問者

「シヴァ、ヴィシュヌ、ガーヤトリはどれも同様の効果をもつと言われています。

どれに瞑想するべきでしょうか?」

 

マハルシ

「どれでもあなたが一番良いと想うものに瞑想するがいい。

それらはみな同等の効果をもっている。

だが、あなたはひとつに固執すべきである。」

 

質問者

「どのように瞑想すればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが最も好むものに集中しなさい。

もしひとつの想念が優勢になれば、他のすべての想念は追い払われ、つぃには消え去るだろう。

多様性が優勢であるかぎり、悪い想念は存在する。

愛の対象が優勢であるときは、善い想念だけが意識界を制する。

それゆえ、ひとつの想念だけを心に保ちなさい。

ディヤーナがその主要な修練である。

ディヤーナとは闘いを意味する。

あなたが瞑想を始めるやいなや想念は群がり、あなたが保とうとしていたひとつの想念を滅ぼそうとする。

修練が繰り返されることによって、正しい想念が徐々に力をつけていく。

それが強力になったとき、他の想念との闘いが始まる。

これが瞑想のなかでつねに起こる激闘である。

人は自分の不幸を取り去りたい。

それには心の平和が必要である。

それは想念による混乱のない平和である。

そして心の平和は、ただディヤーナによってのみもたらされるのである。」

 

質問者

「真我はハートのなかに座を置きながら、同時にどのセンターまたはチャクラでも機能することができるとシュリー・バガヴァーン自身言われました。

だとすれば、眉間に瞑想することで、あるいは強烈に集中することで、このセンターが真我の座になることも可能なのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが身体のなかの一箇所に注視を固定させたとすれば、真我の座に関するいかなる意見も理論的なものとなってしまう。

あなたはあなた自身を主体あるいは見る者と見なし、あなたが注意を固定させた場所は見られる対象となる。

これでは単なるバーヴァナー(精神的なイメージ)にすぎない。

だがその反対に、もし見る人自身を見れば、あなたは真我のなかに融合し、それとひとつになる。

それがハートである。」

 

質問者

「眉間に集中する修練は望ましいことでしょうか?」

 

マハルシ

「いかなる類の瞑想も、その最終的な結果は、瞑想者が心を固定させていた対象が、主体とは別の分離した存在ではなくなるということである。

それら主体と客体はひとつの真我となる。

それがハートである。」

 

質問者

「なぜバガヴァーンは、ある特定のセンターあるいはチャクラへの集中を指導されないのでしょうか?」

 

マハルシ

「『ヨーガ・シャーストラ』はサハスラーラ(頭頂にあるチャクラ)あるいは脳が真我の座であると伝えている。『プルシャ・スークタ』はハートが真我の座であると述べている。

探究者が疑いをぬぐい去れるように、『私』(“I”-ness)や「私は在る」(“I am”-ness)を、その源にたどり着くため糸口あるいは手掛かりとするようにと私は説いている。

なぜなら、第一に、誰にとってもこの「私」という観念に疑いを抱くことは不可能だからだ。

第二に、いかなる手段を選択しようとも、最終的な目的は「私」(“I”-ness)の源泉の実現であり、それはあなたの根源的な体験所与だからである。

それゆえ、もし真我探究を実践すれば、あなたは真我であるハートに達するだろう。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

『ある訪問者が尋ねた。

「瞑想は真我探究よりも直接的です。

なぜなら、瞑想は真理をとらえ続けますが、真我探究は非真理から真理へと移行していくからです。」

 

マハルシ

「初心者にとっては形ある対象に瞑想することのほうがよりやさしく、好みに合うでしょう。

瞑想を修練することが、非実在から実在へと移行する真我探究に導くのです。

あなた自身が真理に反する要因に満ちているときに、真理にしがみつくことが何の役に立つと言うのでしょうか?

真我探究は、「真我がいまだに実現されていない」とあなたに考えさせる障害を取り除き、それによって直接実現に導くのです。」

 

質問者

「どんなに努力を重ねても、私の心は落ち着きません。

私には心を落ち着かせることができないのです。」

 

マハルシ

「『心とは何かと絶え間なく探求することは、心の消滅をもたらす。

これが直接の道である。」

 

質問者

「ではどうやって心を探し出すのでしょうか?」

 

マハルシ

「心とは想念の束でしかありません。

すべての想念の根源は「私」という想念にあります。

誰であれ『私』という想念の源を探究するなら、その人の自我は消え去る。

これが真の探究である。」

 

質問者

「この『私』という想念は私から立ち現れます。

しかしそれでも私は真我を知らないのです。」

 

マハルシ

「それはすべて精神的概念にすぎません。

現在のあなたは偽りの『私』、すなわち『私』という想念と自己同一視しています。

この『私』という想念は立ち現れては沈みゆきますが、真の『私』はそのどちらをも超えています。

あなたの存在が途切れるということはありえません。

眠っていたあなたが、今目覚めているのです。

深い眠りの中に不幸はありませんでした。

ところが、現在の目覚めの状態には不幸が存在しています。

今この違いが体験されているのは、何が起こったからでしょうか?

眠りの中に『私』という想念は存在していませんでした。

ところが、今それは存在しています。

真の『私』は明らかでないのに、偽りの『私』が自分を誇示しているのです。

あなたの正しい智慧を防げているのはこの偽りの『私』です。

偽りの『私』がどこから立ち現れてくるのかを見いだしなさい。

そうすれば、それは消え去るでしょう。

そのとき、あなたはただ「あるがままのあなた」、つまり究極的存在として在るのです。」

 

質問者

「どうすればよいのですか?

私は今まで成功せずにきたのです。」

 

マハルシ

「『私』という想念の源を探りなさい。

それが為されるべきすべてです。

宇宙全体は『私』という想念ゆえに存在しているのです。

それが終焉すれば不幸も終焉するでしょう。

偽りの『私』が消え去るのは、源が探究されたときだけなのです。

眠りについていた人が、現在目覚めているのです。

眠りの中には幸福が、目覚めの状態には不幸が存在しています。

眠りの中に『私』という想念は存在していませんでした。

しかし今の目覚めの状態には『私』という想念が存在しています。

『私』という想念の存在しない幸福な状態である眠りの中に、努力はありませんでした。

修練の目的は、目覚めている今にさえ眠りの状態をもたらすことなのです。

そのためには努力が必要なのです。」

 

質問者

「どうして瞑想中でさえ心はハートの中に沈まないのでしょうか?」

 

マハルシ

「水面に浮かぶ身体は、何らかの手段を用いないかぎり簡単には沈まないでしょう。

呼吸制御は心を静めます。

心は注意深くあらねばなりません。

そしてたとえ心が平安なときでさえ、たゆまず瞑想を究めようとするべきです。

そうしたとき、心はハートの中に沈みゆくでしょう。

水面に浮かぶ身体も重みを加えれば沈みます。

それと同じように、賢者との交際(サットサンガ)が心をハートに沈ませるでしょう。

そのような交際は精神的なものと身体的なものの両方です。

はっきりと目に見えるグルが探究者の心を内側へと押し入れます。

グルはまた探究者のハートの中にも存在し、内面に向かう彼の心をハートの中へと引き入れます。

このような質問は、瞑想を始めたばかりで困難を感じたときにだけ問われるものです。

少し呼吸制御を修練すれば、心は清められるでしょう。

心がハートの中に沈まないのは、潜在的傾向(ヴァーサナー)が障害となっているからです。

それは呼吸制御、あるいは賢者との交際(サットサンガ)によって取り除かれます。

実際、心は常にハートの中に在るのですが、潜在的傾向のために落ち着きなくうろつき回るのです。

潜在的傾向が作用しないようにすれば、心は安らぎ平和になるでしょう。

呼吸制御をしても心は一時的な静寂しか得られません。

なぜなら、潜在的傾向はまだそこにあるからです。

もし心が真我へと変容されれば、問題を起こすこともなくなるでしょう。

それは瞑想によって為されるのです。」

 

質問者

「どうすれば自己本来の原初の状態を認識できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「想念から絶対的に解放された状態が、そのような認識をもたらすのです。」

(ラマナ・マハルシとの対話(1))

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

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