永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(61) サマーディ①
これまで「永遠の至福と自己実現(真我実現)」というテーマで、60回に渡り、先達たちの御言葉をご紹介してきましたが、今回は、「永遠の至福」と「自己実現(真我実現)」とは、どのような体験を通して達成可能となるのか?について、具体的なヒントをお伝えしたいと思います。
それは、「サマーディ」(日本語では、”三昧”と訳されています)という単語で表現される”ある意識の状態”です。
「サマーディ」は、ヨーガにおける修行の目標とも言えるもので、既に、言葉だけはご存知の方も多くいらっしゃることでしょうが、具体的なイメージを掴んでいる人は、それ程多くはいらっしゃらないことでしょう。
ヨーガ修行の目標とは、一体、どのような”意識状態”なのでしょうか?
体験者の中には、”「サマーディ」を言葉で表現することは、不可能である”とする意見もありますが、具体的なイメージを持つことで、サマーディが起こり難くなるようなことはありませんので、言葉で表現できる範囲という限界はありますが、修行において明確な目標を持つことは、その道を進む上での励みにもなりますので、ご紹介したいと思います。
また、「サマーディ」について知ることで、私たち全人類の本質である「絶対意識」「純粋意識」とは、どういうものなのか?についても、知ることができますので、ヨーガと関係が深い「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」についての智識をも持つことにもなります。
「サマーディ」とは、どのような状態を指しているのか?を、頭で理解することができれば、実際に、体験が起こった場合、直ぐに、自分に何が起こったのか?理解することができます。
体験そのものと体験が意味するものが一致して初めて、人は包括的に、自分に起こったことを客観的に理解し、解釈できるようになります。
そして、更に「サマーディ」には、いくつかの段階がありますので、それらについても、ご紹介したいと思います。
最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次に、スワミ・ラーマによる「聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より「サマーディ」に関する解説、そして最後は、ラマナ・マハルシによる「サマーディ」に関する質問者への回答の御言葉をご紹介いたします。
『Samadhi(サマーディ)
サマーディとは、神との合一である。
それは、超越意識的な体験である。
それは、霊的な体験である。
サマーディ、或いは、恍惚は、至福溢れる合一である。
心(マインド)は、水の中の塩や燃える樟脳のように、永遠、或いは、アートマン(真我)に溶ける。
それは、純粋意識の状態である。
サマーディは、あなたをアートマン(真我)の中に落ち着かせる。
サマーディを通して、限定された自己は、無限、或いは、絶対的意識に同化する。
個我と至高の真我との統合は、実現される。
あなたが、サマーディから得られる智識は、神聖な智識である。
それは、理性や推論、証明は役立たない超感覚的で、直感的な智識である。
サマーディは、心(マインド)や言葉の及ぶ範囲を超えた内面的で神聖な体験である。
サマーディの状態は、すべての相対性を超えている。
それを表現する言葉も手段も存在しない。
世俗的な体験においてでさえ、あなたは、味わったことのない人にリンゴの味を説明したり、盲目の人に色の性質を説明することはできない。
サマーディの状態は、すべてが至福であり、喜びであり、平和である。
これが、語ることができる最大である。
誰もが、自分自身で、これを感じなくてはならない。
サマーディにおいては、肉体も精神的な意識も存在しない。
ただ霊的な意識のみが存在する。
存在(サット)のみが存在する。
それは、あなたの真の性質(スヴァルーパ)である。
水がプールで干上がる時、水の中の太陽の反射も、また消滅する。
心(マインド)がブラフマンの中に溶け去ると、心の湖は干上がり、反射した純粋意識(チャイタニヤ)も、また消滅する。
個我、或いは、個人の人格は、消え失せる。
存在だけが残る。
サマーディにおいては、瞑想も瞑想者もいない。
瞑想者と瞑想されるもの、思考者と思考、祭式を行なう者と祭式をされるものは、一つ、或いは、同一である。
心(マインド)は、それ自身の意識を失い、瞑想の対象と同一となる。
瞑想者は、神の海の中に、彼の人格を溶かしてしまい、彼が単に神の道具となるまで、そこで溺れ、忘我となる。
彼が口を開く時、努力や予めの熟慮なく、直接的な直観を通して、神の言葉を語る。
そして、彼が、手を上げると、神は、奇跡を行なうために、再び直接的な直感を通して、流れ出る。』
(Bliss Divine by Swami Sivananda)
『ブラフマランドラ(頭頂部にある霊穴)は、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。
そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマーディを通して可能です。
サマーディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。
同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。
このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。
これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。
ヤマ(死神)は、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマーディの状態を述べました。
彼は言いました。〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。それが、サマーディの状態である〟
サマーディの最高の状態は、全く死とは似ていません。
死が無知の暗闇における経験である一方で、サマーディは悟りの状態です。
サマーディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。
通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。
魂は、死後、心に執着したままです。
しかし、個人は深い眠りにいます。
自覚はありません。
ヤマは、ナチケータに語りました。
サマーディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〟
関係性の世界においては、魂は3つの異なる状態を経験します。
目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。トゥリーヤとして知られる4つ目の状態においては、アートマンは魂の3つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。
深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥリーヤにおいては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。
超越意識であるトゥリーヤは、サマーディと同意語です。
サマーディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。
深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。
サマーディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。
それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。』
(聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)
『質問者
「サマーディとは何でしょうか?」
マハルシ
「静かな心によって存在=意識を絶えず体験している状態、それこそがサマーディである。
最高の真我の成就によって得られた静かな心、それこそが神の実在である。
心が暗闇のなかで真我と融合した状態がニドラー(眠り)と呼ばれる。
それは心が無知のなかに没入した状態である。
心が意識のなかに没入した状態がサマーディと呼ばれる。
サマーディとは目覚めの状態で絶えず真我のなかにとどまることである。
ニドラーあるいは眠りもまた真我のなかにとどまる状態ではあるが、それは無意識状態のなかでのことだ。
サハジャ・サマーディのなかでは、つねに真我と一体の状態にある。」
質問者
「ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディとサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディとは何でしょうか?」
マハルシ
「心が破壊されないまま真我のなかに没入した状態がケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディである。
この状態では、人はヴァーサナーから解放されていない。
それゆえ、解脱も達成されない。
ヴァーサナーが破壊されたあとにだけ自由を得ることができるのである。」
質問者
「いつサハジャ・サマーディを修練することができるのでしょうか?」
マハルシ
「はじめからそうすることができる。
たとえケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディを何年も修練したとしても、ヴァーサナーを根絶しないかぎり解脱を成就することはできない。」
質問者
「サヴィカルパとニルヴィカルパの違いを教えていただけますか?」
マハルシ
「至高なる状態をとらえていることがサマーディである。
想念の防げのため、努力とともに至高なる状態をとらえているとき、それはサヴィカルパと呼ばれる。
想念の防げが不在のとき、それはニルヴィカルパと呼ばれる。
根源的な状態に努力なく永久的にとどまっている状態がサハジャである。」
質問者
「サハジャの状態に達する前に、ニルヴィカルパ・サマーディは絶対的に必要なのでしょうか?」
マハルシ
「サヴィカルパであろうとニルヴィカルパであろうと、サマーディのなかに永久的にとどまっていることがサハジャ(自然な状態)である。
身体感覚とは何だろう?
生命のない身体に意識を加えたものである。
身体と意識は別の意識の上に成り立っている。
その別の意識は絶対的で、つねにあるがままに在り、身体意識があろうとなかろうと影響を受けずにいる。
そのため、もし人がこの純粋意識をとらえていれば、身体意識が保たれようと失われようと問題ではない。
身体感覚の完全な不在はサマーディをより強烈にするという利点はあるが、至高の知識においては何の違いももたらさない。」
質問者
「サマーディはトゥリーヤ、第四の状態と同じなのでしょうか?」
マハルシ
「サマーディ、トゥリーヤ、ニルヴィカルパはみな同じ意味を示している。
それは真我の目覚めである。
トゥリーヤの文字通りの意味は「第四の状態」であり、第四の状態とは目覚め、夢見、眠りの三つの状態から区別された至高の意識のことである。
第四の状態は永遠であり、他の三つの状態はそのなかで来ては去っていく。
トゥリーヤのなかではいくらかの想念がいまだに侵入し、感覚もある程度活動しているが、心が源のなかで溶け合ったという自覚がある。
ニルヴィカルパのなかでは感覚の活動はなく、想念は完全に不在の状態である。
それゆえ、この状態での純粋意識の体験は強烈で至福に満ちたものである。
トゥリーヤはサヴィカルパ・サマーディのなかで達成することができる。」
質問者
「眠りのなかで楽しまれた至福とトゥリーヤのなかで楽しまれた至福の違いとは何でしょうか?」
マハルシ
「至福そのものに違いはない。
ただひとつの至福があるだけであり、それは目覚めの状態のなかで楽しまれる至福、最下位の生物から最高位のブラフマンまでのあらゆる存在の至福も含んでいる。
眠りのなかで無意識のうちに楽しまれている至福が意識的に楽しまれたときトゥリーヤと呼ばれ、両者の違いはそこにしかない。
目覚めの状態のなかで楽しまれる至福は間接的なもので、それは真の至福に付随したものでしかない。」
(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)
次回に続きます。
Hari Om Tat Sat!
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