永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(64) サマーディ④
これまで3回にわたり、ヨーガの最終目的である「サマーディ」についてご紹介してきましたが、今回は、最終回ですので、智識としてではありますが、「サマーディ」について、もう少し詳しい説明を見て行きましょう。
最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、次は、ラマナ・マハリシが遺された御言葉、そして、今回は、初めてとなりますが、Osho(バグワン・ラジニーシ)の講話集より、「サマーディ」について、非常に興味深い内容の説明がなされている箇所を、抜粋してご紹介したいと思います。
アシュタンガ(第八段階)・ヨーガにおいて、「サマーディ」は、探究者が昇って行くことを求められている最後の階梯ですが、その前の段階である第七番目の「ディヤーナ」(瞑想)と、混同されがちであることを留意する必要があります。
現代では、「マインドフルネス」(仏教の”八正道”では、”正見”)と言われることもある「瞑想」(ディヤーナ)ですが、ラマナ・マハリシは、「サマーディ」が、「真我実現」であり、その前の段階として、「心の希薄」状態が起こると指摘しています。
「瞑想」(ディヤーナ)は、この「心の希薄」状態であると言えます。
これまでのご自分の「瞑想」実践においてもたらされた状態を客観的に分析して、「サマーディ」成就(真我実現)へのプロセスにおいて、成就者たちが言葉で表現して下さった情報を指標として当てはめてみることで、自分自身の状態が、今、どの段階にあるか?を把握することは、最終目標に至るまでの時間を短縮するのに、役に立つことでしょう。
言葉では表現し難い「サマーディ」を、わかりやすい形で伝えようと試みて下さった多くの聖者の方々に、心から感謝したいと思います。
Who Could Enter into Samadhi?(どのような人が、サマーディに入れるのか?)
サマーディは、実践を少ししたからと言って、達成され得る体験ではない。
誰もが偉大なる純化された魂となるまでは、サマーディに入ることはできない。
サマーディを達成するには、人は厳格なブラフマチャリア(純潔)と栄養的な制限(食べ物の禁忌)を遵守すべきであり、心の純粋さを持たなくてはならない。
心は、完全に純粋化されなくてはならない。
その時だけ、機能、或いは、器は神聖なる光の下降を受けるに十分相応しくなるだろう。
突然の意識、或いは、宇宙的なビジョンの拡大の圧力に耐えるほど十分に強くなくてはならない。
それは、心を超えており、一撃で全存在を覆いつくす。
もしあなたが、第一級の探究者である四つの方法、或いは技術で装備し、極度の冷静さと解放に対する強い願望に恵まれたウッタマ・アディーカリであるなら、そして、もしあなたがヴェーダ聖典とウパニシャッド哲学の知識を持つ聖シャンカラや、あなたを背後から護るクリシュナ神のように、ブラフマンの智識を持つなら、あなたは一瞬にして、真の自己を悟るであろう。
指で花を握るのに必要な時間で、あなたは真の自己を悟ることができる。
アシュターバクラを通して、ジャナカ王は、一瞬にして悟った。
マハラシュトラのムクンダ・ライは、彼が馬の背に乗っている時に、一秒で皇帝をサマーディに委ねた。
多くの例がある。
燃える家の最中から逃げる方法を必死に探す人のように、修行者はサムサーラ(輪廻転生)の炎から、自分自身を自由にする強烈な願望を持つべきである。
その時、彼は深い瞑想やサマーディに入ることができるであろう。
How to Attain Samadhi(サマーディを達成する方法)
深い瞑想が、サマーディ、神との合一に通じる。
心(マインド)は、真我(アートマン)、或いは、神で満ちる。
心(マインド)は、それ自体の意識を失い、瞑想の対象と同化する。
塩でできた人形が、水に溶け去るように、ちょうど同じように、心(マインド)は、ニルヴィカルパ・サマーディの中で、ブラフマンに溶け去る。
突然の神秘的な啓蒙の一撃が、同時に、すべての経験的な存在に終止符を打つ。
そして、この世や、この世における霊の狭義の個人性というような観念や記憶が、完全に自己から去る。
瞑想中、心(マインド)に起こる三段階を銘記しなさい。
それらは、集中、充満、同一化である。
これらの三つの言葉のイメージを覚えていなさい。
修行をする間、精神的にそれらを唱えなさい。
それは、あなたを真に助けるであろう。
真我(アートマン)について熟考しなさい。
心(マインド)を真我(アートマン)で満たしなさい。
その時、心(マインド)は、ブラフマンと同一化する。
あなたが考えるように、あなたはなる。
あなたはブラフマンである、と考えなさい。
あなたは、ブラフマンになるであろう。
静寂でいなさい。
あなた自身を知りなさい。
ソレを知りなさい。
ソレの中に、心(マインド)を溶け去らせなさい。
真理は、極めて純粋であり、単純である。』
(Bliss Divine by Swami Sivananda)
『質問者
「ローメイン・ローランドによるラーマクリシュナに関して書かれた本のなかには、ニルヴィカルパ・サマーディはひどく恐ろしい体験だと述べられています。
本当にニルヴィカルパ・サマーディは恐ろしいものなのでしょうか?
それでは、私たちは最終的にそのひどく恐ろしい状態を体験するために瞑想や浄化や戒律といった長く退屈な過程を耐え忍ばなければならないのでしょうか?
私たちは生ける屍となってしまうのでしょうか?」
マハルシ
「人びとはニルヴィカルパに関してあらゆる類の考えを抱いている。
なぜローメイン・ローランドについて話すのかね?
『ウパニシャッド』やヴェーダンタ教義の伝統を代表する人たちさえニルヴィカルパについて奇妙な根拠のない意見をもっているとき、ひとりの西洋人が同じような考えをもっているからといって、誰が責めることができるだろうか?
あるヨーギたちは呼吸の修練によって、夢のない眠りよりもさらに深い強硬症のような状態に自ら陥っている。
彼らはその状態のなかではまったく何にも気づいていない。
それは絶対的な無自覚の状態である。
そして彼らはそれをニルヴィカルパ・サマーディだとして讃えているのである。
他のある者たちは、ひとたびニルヴィカルパに入れば完全に違った存在になると考えている。
さらに他の者たちは気絶や失神の発作のように世界の意識が完全に消し去られる超越状態を通してのみ、ニルヴィカルパに到達することができると見なしている。
これらすべては彼らの知的見解の違いによるものにすぎない。
ニルヴィカルパとは努力を要しない無形のチット(意識)である。
いったいどこに恐れることがあろうか?
自分自身として在ることに何の神秘があるというのだろうか?
過去に長い修練を経て、心が成熟した何人かの人たちにとっては、ニルヴィカルパはあたかも洪水のように突然現れる。
だが他の者たちにとっては、ゆっくり時間をかけて、障害である想念を打ち勝っていくという地道な修練をつづけ、「私-私」という純粋な覚醒のストーリーを徐々に露わにしていくことでニルヴィカルパは起こる。
修練をさらに進めていくことでスクリーンは永久的に露わにされる。
これが真我の実現、ムクティ、サハジャ・サマーディ、自然な努力を要せぬ状態である。
単なる外界の区別(ヴィカルパ)を知覚しないことがニルヴィカルパの真の本性ではない。
ただ、心が死に絶えた、区別が起こることのない状態だけが真のニルヴィカルパであると悟りなさい。」
質問者
「心が真我のなかに沈みつつあるとき、しばしば私は恐怖を感じるのです。」
マハルシ
「サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と身体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。
だが、自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広がる純粋な意識の空間にとどまる。
そして震えも消え去るのである。」
質問者
「サマーディは至福に満ちた恍惚状態なのでしょうか?」
マハルシ
「サマーディそのもののなかにはただ完全な平和だけがある。
サマーディが終わろうとするとき、心は息を吹きかえす。
そしてサマーディのなかの平和を思い出したときに、至福が訪れるのである。
帰依や献身のなかでは至福がはじめに現れる。
それは歓喜の涙、毛が逆立った状態、声が上ずった状態として表れる。
そしてついに自我が死に絶え、サハジャが起こるときには、これらの兆候も恍惚状態も消え去るのである。」
質問者
「サマーディが実現したとき、人はシッディ(超能力)も得るのではありませんか?」
マハルシ
「シッディを見せびらかすには、それを認めてくれる他の人たちがいなければならない。
それはつまり、シッディを誇示する人にジニャーナ(真理の知識)はないということである。
それゆえ、シッディには価値がない。
ただジニャーナを得ることだけを目的とすべきである。」
質問者
「いかに多くの瞑想(ディヤーナ)や身体的苦行(タパス)を積んだとしても、ヨーガの最終段階であるサマーディが体験されないかぎり解脱(モクシャ)はありえない、と『マーンドキャ・ウパニシャッド』のなかに述べられています。
それは本当でしょうか?」
マハルシ
「もし正しく理解されるなら、それらは同じことである。
瞑想、苦行、専心、何と呼ぼうと違いはない。
確固として、油の流れのように途切れることなくつづくもの、それが苦行、瞑想、専心である。
自分自身の真我として在ること、それがサマーディである。」
質問者
「しかし、サマーディは解脱の前に体験されなければならないと『マーンドキャ・ウパニシャッド』のなかには述べられています。
マハルシ
「誰がそうではないと言ったかね?
そのことは『マーンドキャ・ウパニシャッド』だけではなく、古来の聖典すべてがそう言及している。
だが、あなたが真我を知ってこそ、それが真のサマーディだと言えるのである。
生命のない物体のように、いくらかの時間静止して坐っていることが何の役に立つというのだろう?
たとえばあなたの手に腫れ物ができ、麻酔をかけられて手術を受けたとしよう。
その間、あなたは何の痛みも感じない。
だが、それがサマーディのなかにいることと同じだと言えようか?
それと同じことである。
人はサマーディが何であるか知らなければならない。
そしてあなたの真我を知らずして、どうしてサマーディを知ることができるだろうか?
真我が知られれば、サマーディもまたおのずと知られるのである。
サマーディは人の自然な状態である。
それは目覚め、夢見、眠りの三つの状態すべての底辺に流れている。
真我はそれらの状態ではないが、それらの状態は真我のなかに在る。
もしわれわれが目覚めの状態でサマーディに入ったら、それは深い眠りのなかでもつづいていくだろう。
意識と無意識という区別は心の範疇に属している。
そしてそれらは真我の状態のなかで超越されるのである。」
質問者
「それでは、私たちはつねにサマーディに達するように試みるべきでしょうか?」
マハルシ
「自我のない静寂だけが真理の知識の頂点。
マウナ・サマーディ(沈黙のサマーディ)だと賢者たちは言う。
無我の状態であるマウナ・サマーディに達するまでは、「私」を消滅させることだけをあなたの目的として探求しなさい。」
(あるがままに ラマナ・マハリシの教え)
『質問者
「あなたがサマーディとおっしゃるものは、どの身体で得られたのですか?」
OSHO
「実のところ、サマーディにはいろいろなタイプがある。
あるサマーディは、第四(※1”七つの身体”参照)と第五身体の間で起こる。
覚えておきなさい。
サマーディは、ひとつの次元の中での出来事ではない。
それはいつもふたつの次元の狭間、黄昏時に起こる。
黄昏は昼に属するのか、夜に属するのかと尋ねるのももっともだが、黄昏は昼にも夜にも属さぬ、その狭間の出来事だ。
サマーディも同じだ。
最初のサマーディは、第四と第五の次元の間で起こる。
このサマーディは自己実現、アートマン・ギャン(ジニャーナ)へと導く。
あるサマーディは、第五と第六の次元の間で起き、今度はブラフマン・ギャン(ジニャーナ)、宇宙的叡智へと導く。
第六と第七の次元の間で起こるサマーディは、涅槃(ニルヴァーナ)へと導く。
だから一般的に、三つのサマーディが起こるのは、最後の三つのシャリール――最後の三つの身体――の間だ。
理解しておくべき、見せかけのサマーディもひとつある。
それは第四身体で起こり、サマーディのように見えるが、そうではない。
日本の禅僧の言葉によると、それは「さとり」だ。
これは見せかけのサマーディだ。
それは、画家や彫刻家や音楽家が、完全に芸術の中に没頭している時に到達する状態だ。
彼らは大いなる至福を体験する。
これは第四身体――サイキックな次元――で起こる。
朝の太陽を眺めたり、メロディーに耳傾けたり、ダンスを見たり、花が咲くのを眺めたりしている時、マインドが完全に出来事の中に引き込まれると、見せかけのサマーディが起こる。
こうした見せかけのサマーディは、睡眠や偽りのシャクティパットによっても、引き起こされる。
アルコールや、マリファナ、LSD,メスカリン、ハッシシなどのなどの麻薬によっても引き起こされる。
だから、四種類のサマーディがある。
実のところ、三つの真正なサマーディがあり、それは段階を経て起こる。
四つ目はサマーディのように見えるが、まったく見せかけの体験だ。
その中には、実際に起こった体験がまったくない――ただ、誤って導かれたサマーディの感覚があるだけだ。
多くの人々が、「さとり」によって惑わされている。
この見せかけのサマーディは、第四身体――サイキックな次元――で起こる。
それは、第四と第五の次元の間の、過渡的な作用ではない――第四身体の中でよく起こることだ。
三つの真正なサマーディは、ある次元から次の次元へと移行していく過渡期に、第四身体にも属さぬ所で起こる。
サマーディは扉であり、通路だ。
第四と第五身体の間で、最初の真正なサマーディが起こる。
人は自己のくつろぎを得る。
ここで行き詰ることもあり得る。
ふつう、人は第四身体の見せかけのサマーディで、立ち止まる。
それはとても簡単だからだ。
エネルギーをほんの少ししか費やせずに、まったく努力をしなくても、それらしきものが得られる。
このため、大多数の瞑想者が、ここで停滞する。
最初の本物のサマーディを得るのは、第四から第五身体への旅の途中に起こるが、これを得るのはとても難しい。
しかしもっとも難しいのは、第六から第七身体への過程で起こる、第三のサマーディだ。
第三のサマーディに付けられた名前はヴァジラブド――耳をつんざくような落雷だ。
これはもっとも難しい。
なぜなら、それは実在から非実在への移行であり、生から死へのジャンプであり、存在から非在へ飛び込むことだからだ。
実際には、三つのサマーディがある。
最初のものはアートマ・サマーディ、二つ目はブラフマ・サマーディ、最後のものはニルヴァーナ・サマーディと呼んでもいいだろう。
ごく最初の見せかけのサマーディは、さとりと呼んでもいいだろう。
それはとても簡単に達成できるがゆえに、用心すべきものだ。
他にも、サマーディの真正性を試す方法もある。
それは、もしある次元の中で起こったのなら、それは偽りだ。
サマーディは、ある次元とある次元の間で起こるはずだ。
それはドアであり、部屋の中にあっても何の用もなさない。
それは部屋の外にあり、次の部屋に結びつながっていなくてはならないものだ。』
(※1:(タントラ・ヨーガによる考え方)
人は七つの身体に分けることができる。
最初の身体は、誰もが知っている肉体(フィジカル)だ。
二番目は生気体(エーテル)で、三番目は--この二番目を超えたところにあるのだが--星気体(アストラル)だ。
四番目は精神体(メンタル体)またはサイキック体だ。(クンダリニーはここで体験される)
そして五番目は--ふたたびその向こうなのだが--霊体(スピリチュアル)だ。
六番目は五番目の彼方にあり、宇宙体(コズミック)と呼ばれる。
そして七番目であり、最後のものがニルヴァーナ・シャリール、または涅槃体(ニルヴァーナ)、身体なき体だ。
この七つの身体についてもう少し情報が得られれば、クンダリニーをよく理解することができるようになるだろう)
(奇跡の探究 Osho講和録)
次回に続きます。
Hari Om Tat Sat!
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