永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(63) サマーディ③
ヨーガにおける習熟度を表す八段階(アシュタンガ)の最終段階は、「サマーディ」とされていますが、古今東西、これまでに開示されている文献にも、「サマーディ」に関する情報は、それほど多くなくないため、(その理由は、サマーディ体験者が少ないから、と言えますが)、また、サマーディ体験者であっても、既存の言葉で言い表すことは、非常に難しいと言及する体験者も多いようで、情報化時代の今般においてでさえ、「サマーディ」は、一般的人には、イメージすることすら難しい神秘に閉ざされた体験となっています。
しかしながら、そうであっても、「サマーディ」は、探求の最終目標であり、探求への最終的な答えを与えてくれる唯一、最大の可能性を秘めた「神秘の扉」を開ける鍵とも言える体験ですので、最大限の誠意をもって、智識としてであっても、一般人にも理解可能な情報をお伝えしたいと思います。
もちろん、「サマーディ」についての情報を得たり、頭で理解するだけでは、Moksha(モクシャ、解脱、解放)は、達成され得ないことは言うまでもありませんが、正しいイメージを持つことは、道の短縮につながりますので、有益な情報に触れることは、探求のプロセスにおいては、プラスとして働くことはあっても、マイナスとして働くことはないでしょう。
それ故、今回、最後にご紹介いたしますラマナ・マハルシの「ラマナ・マハルシとの対話②」から抜粋したラマナの御言葉が、サマーディ未体験者が「サマーディ」を理解する上で、非常に役立つと思われますので、文章をただ単にサラッと読み流すのではなく、ラマナが詳細に語って下さっている内容を、自分の身体と心に当てはめて、深く理解しようとすることで、”「サマーディ」とは、どのような状態を指しているのか?””「サマーディ」とは何なのか?”など、「サマーディ」について、正しく理解することにつながり、それに依り、これまで漠然としていた「サマーディ」のイメージが、より具体的に浮かび上がって来ることと思います。
そして、最終的には、「サマーディ」とは、私たちにとって、何ら特別な状態ではなく、私たちに内在する原初の状態であり、この現象界という、生まれる前から存在し、死んだ後も在り続ける永遠、無限の全宇宙における「存在ー意識の根本的な基本状態」であると結論づけることができるようになれば、「サマーディ」体験に一歩近づいたと言えるでしょう。
先ずは、スワミ・シヴァナンダの日本未翻訳本「Bliss Divine」からの抜粋と、次にラマナ・マハルシの御言葉をご紹介いたします。
The Mind in Samadhi(サマーディにおける心)
サマーディは、心(マインド)の消滅、或いは、没頭を意味している。
心(マインド)は、サマーディにおいては、全く機能していない。
それは、ブラフマンに没入した状態である。
もしあなたが、意識的に深い眠りのような状態を引き起こすことができるならば、それは、もはや深い眠りではなく、サマーディである。
それは、眠りの無い眠りである。
そこでは、感覚や心(マインド)は、完全に機能を止めており、無知の覆いは、智識の炎によって破壊される。
探求者は、自由の完全なる喜びを楽しむ。
彼は、不死の至高の静寂を楽しむ。
サマーディにおいては、精神的な緊張はない。
完全なる静寂、或いは、完全なる平静がある。
全体的な精神的抑制がある。
サマーディにおいては、純化された心(マインド)は、その源である真我(アートマン)に溶解し、真我(アートマン)そのものになる。
それは、まるで樟脳が炎になるように、真我(アートマン)の形を取る。
心(マインド)が、清められ、サマーディの状態になる時、ブラフマンそのものになる。
心(マインド)がブラフマンになる時、この世界、それは心(マインド)の創造であるが、もまた、ブラフマンに溶け去り、ブラフマンそのものになる。
The Samadhi Experience(サマーディ体験)
この体験においては、暗闇も虚空もない。
それは、すべて光である。
ここにおいては、音も、接触も、形もない。
それは、統合、或いは、一つ(ワンネス)の度量の大きな体験である。
ここにおいては、時間も、因果もない。
ただ永遠だけがある。
あなたは、全知全能となる。
あなたは、全知者となる。
あなたは、すべてを知る。
あなたは、創造の全神秘を知る。
あなたは、不死を得、より高い智識と永遠の至福を得る。
すべての二元性は、ここでは消滅する。
主体も客体もない。
形あるモノも、形なきモノもない。
瞑想も、サマーディもない。
二元も一元もない。
心の動揺も、一点集中もない。
瞑想者も、瞑想されるモノもない。
昼も夜もない。
あなたが、最も高いニルヴィカルパ・サマーディに落ちつくと、あなたは、何も見ず、何も聞かず、何も嗅がず、何も感じない。
あなたは、身体感覚がなくなる。
あなたは、最高のブラフマンの意識を持つ。
真我以外は、何もない。
それは、崇高な体験である。
あなたは、驚きと不思議に感銘する。
この体験は、エゴ(自我)と心(マインド)が分解されると、起こる。
それは、自身の努力によって達成された状態である。
それは、制限のない、分割不可能な、永遠の、在るという純粋意識の体験である。
この体験が実現されると、心(マインド)や願望、行為、喜びや悲しみの感覚は、虚空の中に消滅する。
個人性は、今や行ってしまった。
小さな“私”は、溶け去ってしまった。
分裂し識別する心(マインド)は、消滅してしまった。
Samadhi Gives Moksha(サマーディは解放を与える)
サマーディは、独尊(カイヴァリヤ)、或いは、絶対的な独立をもたらす。
サマーディは、解放(モクシャ)※を与える。
これは、ヨーガの最高点、頂点である。
真我の智識の降臨と共に、無知は消滅する。
原因の根の消滅と共に、無知、利己心、等もまた消える。
ヨーガ行者は、同時に起こる智識を持つ。
過去と未来は、現在と調和している。
すべては、“いま”である。
すべては、“ここ”である。
彼は、時間と空間を超越する。
人が、未知なるモノを知り、見えないモノを見て、アクセスできないモノにアクセスできるのは、サマーディを通してのみである。
世俗の科学や三次元世界のすべての智識の全量は、サマーディという最も高い状態を達成した聖者の永遠の智識に比べると、無か、ただの粕でしかない。
サマーディから戻って来た人は、以前と全く同じようにありふれた方法で動き回り、生きるかもしれない。
そして、彼の人生と行いにおいて、行きすがりの見る人にとっては、目立った明確な変化はないかもしれない。
しかし、それでもやはり、彼の意識における変化は、否定できないものである。
単なる変化を何と言ったら良いだろう?
人格におけるポジティブな変容があるであろう。』
(Bliss Divine by Swami Sivananda)
※Moksha=解脱、解放、霊的な自由
『質問者
「サマーディは何の役に立つのでしょうか?
それが起こるとき、想念は存在しつづけるのでしょうか?」
マハルシ
「ただサマーディだけが真理を顕わにすることができる。
想念は真理の上にヴェールを覆いかぶせる。
そのため、サマーディ以外に真理を実現する術はない。
サマーディのなかには「私は在る」という感覚だけがあり、想念はない。
「私は在る」という体験は「静かに在る」ことである。」
質問者
「あなたの臨在のなかで体験した静寂あるいはサマーディの体験を再び得るにはどうすればよいのでしょうか?」
マハルシ
「現在のあなたの体験は、あなた自身が見出したこの場の影響によるものだ。
この場の外でもそれを体験することができるだろうか?
その体験は断続的なものである。
それが永久的になるまでは、修練が必要となるだろう。」
質問者
「サマーディは静けさと平和の体験なのでしょうか?」
マハルシ
「心が揺らぐことのない透明な静けさこそがサマーディであり、解脱のための確固たる土台である。
心の動揺を断ち、澄みきった内なる平和の意識としてのサマーディを体験しなさい。」
質問者
「外的と内的なサマーディの違いは何でしょうか?」
マハルシ
「外的サマーディとは世界を目撃している間も、内面ではそれに反応することなく実在をとらえていることだ。
そこには波のない海の静寂がある。
内的サマーディは身体意識を失った状態である。」
質問者
「私の心はそのような状態に一瞬でさえも入ったことはありません。」
マハルシ
「『私は心と世界という現象を超越した真我である』という強烈な確信が必要である。」
質問者
「それにもかかわらず、心は真我のなかへ突入しようとするどんな試みも防げる頑固な障害物なのだということがわかりました。」
マハルシ
「心が活動的であろうと、それが何だというのかね?
心はただ真我という土台の上で活動しているだけである。
たとえ心が活動的であろうとも真我をとらえなさい。」
(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)
『シュリー・バガヴァーンは「アルナーチャラ・アシュタカム」※(アルナーチャラを讃える八連の詩)の第五、第六頌を説明した。
第五頌
宝石を繋ぎ合わせるネックレスのように、
あらゆる生き物とさまざまな宗教のすべてを貫き通し、
一つにまとめているのは、「あなた」である。
磨かれた宝石のように、純粋な心という砥石で不純な心が研ぎ澄まされれば、
欠陥や瑕(きず)は消え去り、外側の事物に影響されずとも輝くルビーのように、
心はあなたの恩寵の光を映し出すだろう。
ひとたび陽の光に露出された感光板に像(イメージ)を映すことが可能だろうか。
ああ、眩く輝く慈悲深きアルナの丘よ!
あなたから離れて存在するものなどあるだろうか。
第六頌
あなたは自ら輝くハートとして永遠に気づき続ける一なる実在。
あなたの内には神秘の力(シャクティ)が宿る。
その力から、潜在していた微細な安徳の霧を放つ小さな点(自我)が現れ出す。
それはあなたの意識の光に照らされて、
内面でプラーラブダ(運命)の渦の中を旋回するかのように霧の上に反映される。
後にそれは精神的世界へと展開し、それから外面に物理的世界として投影され、外向的な感覚器官によって拡大されて、映画のように活動する現実の物事へと姿を変えるのだ。
ああ、恩寵の丘よ、あなたなしではそれらも無に等しい。
(※「アルナーチャラ・アシュタカム」は、マハルシ作のアルナーチャラ(インドのタミルナードゥ州にある丘の名前で、南インドの五つの主要なシヴァ派の聖地の一つ)に捧げられた賛歌。マハルシはこの詩の中で、グルであるアルナーチャラに対して「あなた」と呼びかけている。)
最初の言葉では「あなたは自ら輝くハートとして永遠に気づき続ける唯一の実在」であると答えています。
そして、「唯一の実在ではあるが、それはその驚くべき力によって、(無知あるいは潜在的傾向の集まりとしても知られる)「私」という小さな点(自我)の上に反映される。この反映された光とは相対的知識のことである」という言葉が続きます。
この反映された光は、プラーラブダ(現世で実を結んだ過去のカルマ)にしたがって、内なる潜在的傾向を粗大な世界として外側に現し、再びその粗大な外的世界を精妙な潜在的傾向として内側に引き入れます。
そのような力は、精妙な次元では心と呼ばれ、物理的な次元では脳と呼ばれています。
この心あるいは脳は、「永遠の一なる存在」の拡大鏡として働き、その力を「拡大された宇宙」として見せるのです。
心は目覚めと夢見の状態では外向的で、眠りの状態では内向的です。
「一なる至高の存在」は、目覚めと夢見の状態では心を媒介として多様化され、眠りや気絶では内側に引き込まれるかのように見えます。
しかしあなたは「それ」であり、「それ」以外の何ものでもないのです。
たとえいかなる変化が起ころうとも、唯一の存在はあなた自身として在り続けます。
あなたの真我以外に存在するものなど何もないからです。
第五頌では、「ひとたび陽の光に露出された感光板に像(イメージ)を映すことは不可能だ」と述べています。
同じように、(感光板である)心も「あなたの光」に照らし出された後で、世界を投影させることはもはやできません。
その太陽とは「あなた」に他なりません。
太陽光線が像の形成を阻むほど強力なものなら、「あなたの光」はいったいどれほど強力でしょう?
それゆえ、唯一の存在である「あなた」以外に存在するものはないと言われるのです。
第六頌にある「小さな点」とは自我(暗闇でできた小さな点)のことです。
自我は心の潜在的傾向(ヴァーサナー)と主体である「見る者」で構成されています。
その自我は立ち現れるとともにそれ自体を見られるもの、対象、あるいはアンタハカラナ(内的器官、思考機能)として拡大させます。
自我が立ち現れるためには、薄暗い光を必要とします。
日中の溢れる光の中では、ロープが蛇のように見えることはありません。
真っ暗闇の中では、ロープ自体が目に見えないため、それを蛇と見間違えることもありません。
夕暮れの薄暗い光の中、あるいは光が翳りを見せたとき、あるいは暗闇の中をほのかな光が照らしたときにだけ、ロープを蛇と見間違える可能性があるのです。
それと同じように、「純粋な輝く存在」が自我として立ち現れるのは、その光が暗闇の中に拡散されたときにのみ可能です。
この暗闇は原初の無知(原罪)として知られています。
この暗闇を通り抜ける光は「投射された光」と呼ばれます。
投射された光はその美徳ゆえに「純粋な心」、あるいはイーシュヴァラ(創造神)、あるいは神として知られています。
イーシュヴァラが「マーヤー」と一つであることは周知の事実です。
つまり「投射された光」とはイーシュヴァラのことなのです。
もう一つの「純粋な心」という名前は、そこに不純な心もあるということを暗示しています。
不純な心とは活動的な心(ラージャシック)、あるいは自我のことです。
これももう一つの反映を通して「純粋な心(サートヴィック)から投影されたものでしかありません。
それゆえ、自我は第二の暗闇である無知の産物です。
それからアンタハカラナ(内的器官)という形のターマシック(不活発)な心が立ち現れ、それが世界として現れます。
粗大な身体の視点からすれば「投射された光」は脳という媒介によって世界として外的に輝くものと言えるでしょう。
しかし粗大な身体は心でできたものでしかありません。
心とは四つの内的器官、あるいは想念から成る基本原理、あるいは第六感、あるいは自我と知性を組み合わせたもの、または記憶機能と思考機能を組み合わせたものと言えるでしょう。
あるいは自我と心という二つの部分で構成されているとも言えるでしょう。
後者の場合、ヴィジニャーナートマン(知的自己)、あるいは自我、あるは「見る者」が主体を成し、精神的な鞘、あるいは「見られるもの」が対象を成しています。
目覚め、夢見、眠りの状態は、原初の暗闇(ムーラ・アヴィディヤー)をその起源としています。
心は目覚めと夢見の状態では外側へと向かって体験を得、眠りの状態では内側へと引き込まれます。
このように心は個人と宇宙のすべての活動を司る類なき力、マーヤー(幻影)を体験するのです。
しかしこれらすべては真我という輝く存在の基盤の上に投影された、移り過ぎゆく現象でしかありません。
日中の溢れる光の中では、ロープが蛇に見えることはなく、真っ暗闇の中では、ロープ自体が目に見えないように、輝く真我である純粋な存在というサマーディの境地では世界は現れず、深い眠りや気絶でも世界は現れません。
光と闇が同時に存在している、あるいは知識が無知によって汚されている状態が反映された光です。
その反映された光の中でのみ、世界は現れ、拡大し、消え去るかのように見えます。
世界はその源から独立してはいません。
そしてその多様性も、原初の源である実在から分離して存在することはできないのです。
ここでは「一なる存在」が多様化し、対象化され、そして内側へと引き込まれてゆくという劇(ドラマ)が起こり続けています。
そこにはそれを可能にするシャクティ(力)があります。
そしてそれは素晴らしい力です!
彼女(シャクティ)もまた彼女が生まれ出た源から独立して存在することはできません。
輝く真我という純粋な存在の中では、このシャクティは目に見えません。
それにもかかわらず、彼女の活動はあまりにもよく知られています。
何と崇高な働きでしょう!
彼女(シャクティ)の崇高な原初の活動(力の波動)から、サットヴァに満ちた繁栄が現れます。
それからラージャシックな自我が現れ、それから拡大鏡のレンズに相当する光、あるいは一般には知識として知られるターマシックな想念形態が現れます。
映写機の光がレンズを通してスクリーンに投射されるように、投射された光は想念(拡大鏡)を通して世界として展開します。
種子の状態にあった世界という想念が、外的な世界として現れるのです。
これが彼女(シャクティ)の驚くべき力です!
このように、イーシュワラ神(創造神)、個人、世界は、真我として輝く「一なる存在」を根底にし、その上に反映された光でしかないのです。
では、この「私」という想念(自我)とはいったい何なのでしょうか?
それはその成り立ちにおいて主体なのでしょうか、対象なのでしょうか?
目覚めと夢見の状態の中であらゆる対象物を観照するという事実からすれば、「私」という想念は主体と見なされるに違いありません。
しかしながら、純粋な真我に目覚めたとき、それは対象でしかないことがわかるのです。
この「私」という想念(自我)はいったい誰の想念なのでしょうか?
ヴィチャーラはこの探究をもとに成り立っています。
「私」という想念も「これ」という想念も、ともに同じ光から放たれたものです。
それらはそれぞれラジョー・グナとタモー・グナに関連しています。
ラジャスとタマスから自由になったサットヴァ(純粋性)である「投射された光」を得るためには、「これ」という想念に防げられない「私-私」が輝き出さなければなりません。
この純粋な状態は、眠りと目覚めの状態の間に一時的に現れます。
もしこの状態が長引けば、それは宇宙意識、イーシュヴァラ神(創造神)として認識されます。
それが至高の存在として輝く真我を実現する唯一の道です。
目覚めてから、「私は幸せに眠った。まったく何にも気づかなかった」と言って想い返す深い眠りの状態には二つの体験があります。
それは幸福の体験と無知の体験です。
このことから、私たちは「力」(シャクティ)が①アーヴァラナ(真我を覆い隠すもの)と②ヴィクシェーパ(多様性)として姿を変えることを知ります。
心はヴィクシェーパによって生じるのです。』
(ラマナ・マハルシとの対話②)
次回に続きます。
Hari Om Tat Sat!
So ham!
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