永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(50)「カルマ」②

前回より、「カルマ」について、ご紹介しています。

前回の記事では、ヨーガやヴェーダンタの考え方においては、「カルマ」は、”「因果の法則」により起きている行為”とみなされていることをお伝えしました。

 

ここで重要なのは、「カルマ」は、”「因果の法則」により起きている行為”であって、その行為の主体としての「わたし」が行っている行為ではない、ということです。

 

「カルマ」は、「因果の法則」の結果であるだけで、究極の視点からは、「カルマ」を背負っている「わたし」も、「因果の法則」によって起きた結果に影響を受ける「わたし」も、「カルマ」によって行為を為す「わたし」もいません。

 

その視点からすると、「カルマ」は、自然法則(ダルマ)により生じた結果なのですが、私たち人間は、主体なる「わたし」がいて、その「わたし」が行為していると感じている(思い込んでいる)ために、「カルマ」を自分の「カルマ」と見做してしまい、「カルマ」に束縛され、「カルマ」に翻弄される「わたし」が、この世において、苦しみ(生、病、老、死、その他)に囚われている、と想定してしまいがちですが、究極の真理においては、(自分を含む)この世に起こることは、ただ自然法則(ダルマ)に則って起きている現象であるだけであり、その現象には、「わたし」に起きる現象も含まれている、ということなのです。

 

つまり、「カルマ」は、実は、「ダルマ」である、ということになります。

 

今回は、その「カルマ」である「ダルマ(自然法則)」について、少し詳しく見て行きたいと思います。

 

初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、前回の続きである「カルマ(ダルマ)の法則」についての詳しい説明と、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、「ダルマ」について、そして最後は、ラマナ・マハルシのアシュラムで、探究者よりなされた「カルマ」についての質問に対してお答えになった究極の視点からの御言葉です。

 

 

The Law of Retribution(応報の法則)

すべての悪い行為、或いは、罪は、応報の法則に従い、それ自体の罰をもたらす。

因果関係の法則、作用と反作用の法則、代償の法則、応報の法則—すべては共に作用する。

他者を略奪する人間は、初めに、彼自身を奪うのである。

他者を傷つける人間は、初めに、彼自身を傷つけるのである。

他者を嘲笑う人間は、初めに、彼自身を嘲笑うのである。

神は、依怙贔屓もしないし、不公平でもないことを覚えておきなさい。

神は、人間の富や他者の貧困に責任はないことを覚えておきなさい。

あなたは、あなた自身の悪い行為のために、苦しんでいるのである。

この世界には、混沌とした気まぐれなものはない。

物事は、偶然によって、或いは、無秩序な方法で、この宇宙に起こるのではない。

それらは、規則的に連続して起こる。

それらは、規則的な秩序をもって、互いに従う。

あなたによって今なされていることと、将来起こることの間には、ある明確なつながりがある。

常に、好ましい果実をもたらすことになる種子や、ここかしこであなたを幸せにすることになる種子を蒔きなさい。

 

 

How Karma Is Fashioned (カルマは、どのようにして形づくられるのか?)

人は、彼の性質において、三つの部分がある。

彼は、Ichha(意思)、Jnana(知性)、Kriya(行為)から成り立っている。

イッチャ(Ichha)とは、願望、或いは、感覚である。

ジニャーナ(Jnana)とは、知ること。

クリヤ(Kriya)とは、意志の力で行動することである。

これらの三つが、彼のカルマを形づくっている。

彼は、椅子や木などのような対象物を知っている。

彼は、喜びや悲しみを感じる。

彼は、これをしたい、あれはしたくないと、意図する。

行為の背後には、願望や思考がある。

対象物に対する願望が、心の中で湧き起こる。

その時、あなたは、それを獲得する方法を考える。

その時、あなたは、それを所有しようと努力する。

願望、思考、そして行為、これらは常に相伴う。

それらは、今までそうであったように、カルマの紐の中に編まれている三本の糸である。

願望は、カルマを産み出す。

あなたは、働き、あなたの望む対象物を獲得しようと努力する。

カルマは、苦しみや喜びとして、その果実を産み出す。

あなたは、あなたのカルマの果実を収穫するために、誕生の後に、新たな誕生を手にしなければならないであろう。

これが、カルマの法則である。

 

 

Sanchita, Prarabdha and Kriyamana(サンチッタ、プラーラブダ、クリヤマナ)

カルマとは、三種類の、サンチッタ(蓄積された仕事)、プラーラブダ(実が結んだ仕事)、クリヤマナ(現在の仕事)から成っている。

サンチッタは、過去のすべての蓄積された仕事である。

その一部は、人間の人格、彼の傾向や才能、能力、好み、願望に見られる。

プラーラブダは、現在の身体に責任がある過去のカルマの部分である。

それは、結実するための機が熟している。

それは、避ける、或いは、変更されることはできない。

それは、経験されることで、使い尽されるだけである。

あなたは、あなたの過去の負債を支払う。

クリヤマナは、未来のために今為されているカルマである。

それは、アガミ(Agami:現在の行為、来世で楽しまれるために、今、生み出されるカルマ)、或いは、Vartamana(現在に関係していること)と呼ばれている。

ヴェーダンタ哲学では、美しい例え話がある。

弓矢を放つ人は、すでに矢を放ってしまっている。

それは、彼の手を離れてしまっている。

彼は、それを呼び戻すことはできない。

彼は、別の矢を射ろうとしているところである。

彼の背中の矢筒の中の矢の束が、サンチッタである。

彼が放った矢は、プラーラブダである。

そして、彼が放とうとしている矢が、アガミである。

これらの内、彼は、サンチッタとアガミを完全にコントロールしているが、しかし、彼は、彼のプラーラブダを確実に仕上げなくてはならない。

効力を発し始めた過去を、彼は経験しなければならない。

プラーラブダは、神や創造神でさえ、防ぐことはできない。

偉大な力や智慧を持ったナラ(※1)やラーマ(※2)やユディシュティラ(※3)でさえ、このプラーラブダを経験しなくてはならなかった。

ナラは、森に行きたくはなかった。

それでも、彼は行かなくてはならなかった。

彼のカルマが、彼を強いたのである。

ラーマ神だけが、アヨーディアの王に就任されることになっていた。

彼は、森に入るように強いられた。

ガンジー(※4)は、120年間、生きたかった。

彼は、撃ち殺されたくなかった。

それでも、プラーラブダ・カルマは、この出来事をもたらした。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

(※1)絶世の美女ダマヤンティー姫は婿選びの式でかねて恋こがれていた美貌の貴公子ナラ王を夫に選ぶが、幸せの日々は短かかった。嫉妬に狂う魔神カリ王にとりつかれたナラ王は狂気のようにサイコロ賭博を賭けつづけ、ついには王国までも失ってしまい、夫婦共々、森を彷徨うことになる。『マハーバーラタ』の中の物語。

(※2)インドの叙事詩ラーマーヤナ』の主人公。 コ―サラ国の都アヨーダヤーのダシャラタ王と妃カルサリヤーとの間に長子として生を受け、異母兄弟にバラタ、ラクシュマナ、シャトルグナがいる。『ラーマーヤナ』によると、彼ら4兄弟はいずれもラークシャサの王ラーヴァナを倒すために生まれたヴィシュヌ神の4分身であるという。大聖ヴィシュヴァーミトラの導きによって、ミティラーの王ジャナカを尋ね、そこで王の娘シーターと出会い、結婚する。しかしバラタ王子の母カイケーイー妃によって、14年の間アヨーディヤを追放された。ダンダカの森でラーヴァナによってシーターを略奪され、これをきっかけにラークシャサ族との間に大戦争が勃発する。

(※3)ヒンドゥー教聖典の1つである叙事詩マハーバーラタ』に登場する英雄で主人公の一人。 パーンダヴァ五兄弟の長兄。パーンダヴァ五王子が王都で人々の衆望を集めていることに嫉妬を募らせたドゥルヨーダナは、サイコロを自在に操る達人シャクニの献策を元に、父のドリタラーシュトラにユディシュティラをサイコロ賭博の場に呼び出させる。申し込まれた勝負を断ることはクシャトリヤ(古代インドのバラモン教社会におけるヴァルナ(身分)制度の第2位である王族・武人階級)の恥として、勝負に望んだユディシュティラは、シャクニのイカサマにより敗北し、全財産、弟と自分自身、そして妻ドラウパディーまでも奪われてしまい、更には王国を十三年間追放される。

(※4)宗教理由から分かれた1947年8月のインド・パキスタン分離独立に前後して、ヒンドゥー教徒ムスリムイスラーム教徒)による宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとしたが、状況は好転しなかった。同年10月には、カシミール地方の帰属をめぐってムスリム住民が暴動を起こし、第一次印パ戦争が勃発。それでもガンディーは両宗教の融和を目指し、戦争相手のパキスタンに協調しようとする態度を貫いた。そのため、「ガンディーはムスリムに対して譲歩し過ぎる」としてヒンドゥー原理主義者から敵対視され、もはや我慢ならぬと怒りで血が沸騰した有志メンバーが暴走してしまい、印パ戦争さなかの1948年1月30日、ニューデリー滞在場所であるビルラー邸の中庭で射殺される。享年、78歳。

 

 

 

『人生に目的があるときにのみ、恐れは取り去られ、人生は楽しむことができます。

もし、人生が目的を持っているなら、私たちは自分自身に尋ねる必要があります。

人生の意味とは何でしょうか? 

通常、私たちは、財産や人間関係の損失を被った後、大きな痛みを経験したときに、この問いを尋ね始めます。

私たちは、さらに多くの物質的な富や名声、力を得ることに虚しさを見てきました。

私たちは、それらの喜びがどのように素早く過ぎ去るかを見てきました。

私たちは〝もし、富や名声や力が幸福を与えてくれないなら、それでは何が幸福を与えてくれるだろうか?〟と言い始めます。

痛みから私たちは、人生にはもっと何かがあり、人生は私たちの感覚が経験することに限定されない、ということに徐々に気づき始めます。

私たちはうすうす気づくだけかもしれません。

私たちが見たり聞いたりする形ある世界を超えたものについての私たちの知識は、まだかろうじて私たちの奥深くの囁きであるだけかもしれませんが、可能性は探求する価値があります。

探求は、人生にはもっと何かがあるかもしれないという哲学を確立することによって始まります。

最初その哲学は方向を与えます。

哲学を持つと、人生はさらに多くの意味を持つようになり、直ちに違った形をとり始めます。

さらに多くのことを学ぼうという意図が集中し、集中はエネルギーを集めます。

ただそれだけのことに歓びがあります。

ゴールや私たちの動機の曖昧さだけでは、囁きは静かなままですが、私たちは人生における対象物や人間関係を以前とは異なる見方で眺め始めます。

それらはもはや私たちの人生の中心ではなくなります。

痛みはそれらを失うことにあり、あるいはそれらを失う恐れにあるのであって、それほど強烈なものではありません。

所有したり保持したりすることよりも、多くの意味を示唆するこのような哲学を持つことは、人生の雰囲気を変えます。

自由の感覚が育ちます。

次第に私たちは、重要なのは、この世の物を所有したり保持することではなく、何か他の――多分、与えたり手放すことだということに気づき始めます。

それでもこれらの考えは、ただの私たちの内部の微かな音のままです。

特に私たちはそれまであまりに声高にはっきりと、財産や富、力を獲得することや感覚的喜びを持つことは、良い人生にとって優先順位が最上位である、と聞いてきたのですから。

それにもかかわらず、微かな内部の音は続きます。

2番目のステップは、自分の人生を改革することです。

古い習慣を変え、心のあらゆる大きな変化と共に、個人的な理解力が許可し、成長するにつれ、2番目のステップは徐々に遂行されます。

例えば、物を獲得するという哲学からより大きな目的のある哲学へとシフトが起こるので、私たちの必要は減少します。

物質的には、人生はよりシンプルになり、より障害が少なくなります。

人生がより大きな意味を持っているかもしれないという哲学に従っていると、私たちはこれまでと同じやり方で、他者との人間関係を必要としていないことがわかり始めます。

私たちは私たちに何かを与えてくれる他者を必要としていません。

私たちは彼らから得られるもののための人間関係に依存しなくなります。

私たちは人間関係において、より自由であることができ、人間関係において必要とし、手にすることから――夫婦として、親として、子として、あるいは他の何かとして――与えることに重点が変わります。

感情的には、人生はより軽くなります。

哲学と改革は、常に私たちのライフスタイルが以前より華やかなものでなくなり、気晴らしをそれほど必要としなくなることを意味しています。

人により多くのものを与えるようになります。

必要なものは少なくなります。

健康に対する関心が変化します。

皮肉なことに、ご馳走を食べ、多量のアルコールを摂取し、喫煙することで、プロセスを早めるために多くのことをする人々は、死を最も怖がっている人々であるように思われます。

彼らの死に対する恐れは、より早く死をもたらす感覚的快楽に彼らを引き付けます。

人生にはそれ以上のものがあるという哲学があれば、私たちは自然により健康な食事をし、より多くの運動をするようになります。

他の変化も出てきます。

人生における優先順位が物質的で感覚的な豊かさであるという狭い視点から、霊的な目的をもった人生のより大きな視点へと広がるにつれ、その時、私たちはライフスタイルにおける習慣や人間関係において変わるだけでなく、世界を異なって見ます。

もし、私たちが得られるすべてを得るために、この惑星に偶然にどうにかして落とされたなどと、もはや考えないならば、そのとき、私たちは、それはまた他のすべての人にも真実であるとわかります。

もし、私たちが、より大きな目的のためにここにいるのなら、その時、50億人強の地球の住人すべてがそうであるのです。

私たちのコミュニティーの感覚は変わります。

私たちの家族は成長します。

私たちは、異なった道ではありますが、長い旅の途中にいるすべての兄弟姉妹である世界コミュニティーの一部であるということがわかります。

もはや、私たちは他の人々を害するような、あるいは私たちすべてが生きている世界を害するような仕事をすることはできません。

もし、私たちが環境を汚染する仕事を持てば、あるいは他の人々にとって困難を作り出すなら、私たちは他の仕事を見つけざるを得ないと感じることでしょう。

同時に、私たちは、もはや他の人々における違いに怯えることはありません。

もし、地球上の50億の人々が、より高い霊的な目的のためにここにいるのなら、そのときは、人種、肌の色、そして信条の違いは、究極的には表面上のことになります。

これらの違いは、地球上で起こる他のすべてのことと一緒に、より高い霊的な目的に役に立っています。

人種、肌の色、宗教上の信条は、同じゴールに向かっている異なった道の一部なのです。

これらの多種多様な人種や肌の色、宗教上の信条の違いがかつて抱えていた、少しばかり異なる人々は所有されたものへの脅威であるという恐れは、消えます。

東洋哲学においては、人生のこの広い角度の改革は、ダルマと呼ばれています。

ダルマという単語のひとつの意味は、個人的な行動は対人関係や地域や世界のコミュニティーと協調している、というようなやり方で、人生を体系づけることです。

それは、道徳、正義、善行を意味します。

個人的な人間関係や、より大きな世界的なコミュニティーや地球自身に対して、利己的でなく、害することなく、愛情をもって、所有せず、強欲でなく送られる人生は、霊的に健全な人生です。

しかしながら、もし、人が利己的で、他者を害し、何らかの方法でコミュニティーに害をもたらすなら、そして物や人を所有する感覚を感じるなら、そのような人の人生は眉をしかめられるものであり、霊的な進歩は妨げられます。

ダルマの別の解釈は、運命という考えです。

ダルマは人生における個人の義務なのです。

言い換えると、ダルマは最も効果的に人生のゴールに到達するために、この人生を有効に使うために個人が辿る道です。

個人のダルマは、個人的なカルマとサンスカーラに関係しています。

霊的な人生において前進するために、個人が学び、燃やし、捨て去る必要のあるものは、何でしょうか? 

学びと燃焼に影響を与えることができるダルマとは何でしょうか? 

ダルマが、大工であろうと、労働者であろうと、消防士であろうと、看護婦であろうと、コンピューター技術者であろうと、父、母であろうと、カリフォルニア人であろうと、イタリア人であろうと、関係ありません。

一般的な視点から言うと、ダルマは他より良いということはありません。

霊的な進歩という視点からすると、小さな野菜を作る農家であるか、道を掃除する掃除人であるかは、社長であり教父であることと同じくらい有能であり正当なことなのです。

それぞれの人々は、その人自身の霊的な必要に最も適したダルマを持っています。

従い発展させ、個人的な成長のプロセスにおいて助けとなるそれらの義務を認識するために、個人的な価値を提供する個人的なダルマを探し出し、確立することは極めて重大なことです。

この世俗的な人生を超えたものの探求においては、霊的な道を見つけることが必要です。

私たちは、みな心の地図の中にガイドブックを必要としています。

私たちはみな、自分たちの真の神聖な本性への聖なる旅をしているのです。

その神聖なる本性は、私たちに非常に身近で、よく知られているのですが、またそれは、私たちの思考や願望の混乱した心の奥深くに隠されています。

すべての宗教と世界の霊的な組織は、私たちの実在の自己認識についての真理を知りたいという人間的な熱望から生じています。

これらの各組織の内部には、すべての人により共有される真理への地図があります。

いくつかの地図は、サンスクリット語ラテン語ヘブライ語アラビア語、中国語で書かれています。

地図の中には、海のルートや他の陸路や空路をとっているものもあります。

山の道をガイドするものや、他の道をガイドするものもいくつかあります。

しかしながら、それらはすべて、真理の同じ頂点に行きます。

私たちは、いつも私たちの文化を代表するそれらの組織に自分自身を見出します。

宗教は、彼らのライフスタイルや環境、歴史の内容において、人々の霊的な必要に仕えるために文化から展開します。

イスラム教は特殊な文化、歴史、コミュニティーの必要から生まれました。

同じことが仏教やキリスト教ユダヤ教、そしてすべての世界の宗教組織に言えます。

他より優れたものはありません。

それらは、ただ文化、時代、必要を反映しているだけです。

ヒンドゥー教も、実際には生き方であり、人生哲学です。

それは宗教ではありません。

世界が、洗練されたコミュニケーションシステムで小さくなるにつれ、他の文化を持った宗教組織の知識を共有することは、より簡単になりました。

世界中の人々に恩恵をもたらすアイディアと技術が混合されてきました。

アメリカ合衆国ヨーロッパ大陸での今世紀の2分の1における東洋哲学の大きな動きは、この共有の見本です。

しかしながら、宗教組織となった霊的な修養が再解釈されているということを思い出すことは大切です。

制度を起こさせる霊的な義務よりも、何か他のものになった制度が現れてきました。

エスは、彼は新しい宗教を生み出してはいないと言いました。

彼は、ただ真理を語っていただけでした。

宗教制度は、発展し、イエスによって語られた真理を隠してしまいました。

真理は今まで通りそこにありますが、しかし、その周りには、この新しい制度と真理の解釈があります。

例えば、イエスは、〝わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません〟と言いました。

彼は、永遠の命、あるいはブラフマンへの道は、すべてによって体現された純粋な自己であるアートマンを知ることによる、ということを意味したのです。

形作られた組織は、述べたことを捕まえ、それを制度上の棍棒として使い、人々が、その制度に参加し、その教義をもつようになるか、あるいは、運命づけられるように要求しました。

それは、イスラム教の場合も同じです。

イスラム教の内部の探求は、スーフィーによりなされてきました。

スーフィーは、イスラム聖典に深く潜り込み、珠玉の智慧と共に浮かび上がってきました。

私は、すべての宗教はコミュニティーで共有されるべきひとつの同じ真理を持っていることを知っています。

この真理を認識している幸運な少数の人は、混乱を作り出してきたのは、聖職者の智慧と教会主義であることを知っています。

同じ現象が、すべての霊的な制度で起きました。

制度は真理を保護するものですが、それらは成長し、コミュニティーを縛りつけます。

それが宗教の意味なのです。

それは、ラテン語のligareから来ており、文化や類似の信念の人々を縛りつける、という意味です。

しかしながら、しばしば、制度はそれが教えようと意図している真理を無視し、それ自身の生気を帯びたものになります。

制度とその指導者たちは、真理そのものよりも生気に満ちたものとなります。

これは、常に、政治、偏見、独断主義、派閥主義、そして時には、お互いに争う宗教集団との流血の惨事に至ります。

精神性は、〝私たちは真理を持っている、あなたがたは持っていない。神はあなたがたではなく、我らと共にある〟ということを進展させます。

宗教の名の下の不正と、有害のあらゆる方法は、この態度から生じます。

宗教的な指導者のエゴは、彼らの追従者が彼らを礼拝する状況を作り出し、彼らを恐れさせ、そして道の目的は忘れ去られます。

望ましい道は、組織の要求や組織の指導者の気まぐれではなく、個人の真の霊的な必要に応えるものです。

真に霊的な組織においては、組織も指導者も、彼らのメンバーや追従者の霊的な必要に仕えるためにのみ存在します。』

(『聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』by Swami Rama)

 

 

 

『質問者

マントラやジャバを修練することによって、悪業の報いをぬぐい去ることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「もし「私がジャパをしている」という感覚がなければ、犯した罪も彼から離れていくだろう。

もし「私がジャパをしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼につきまとうだろう。」

 

質問者

「プンニャ(徳行の報い)はパーパ(罪業の報い)を消し去るのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「「私がこれをしている」という感覚があるかぎり、人は良いものでも悪いものでも行為の結果を経験しなければならない。

どうしてひとつの行為で別の行為をぬぐい去ることが可能だろうか?

「私がこれをしている」という感覚がなくなったとき、何もその人に影響を与えるものはない。

真我が実現されないかぎり、「私がこれをしている」という感覚が消え去ることはないだろう。

真我を実現した人にとって、ジャパをする必要があるだろうか?

タパス(苦行)の必要がどこにあるだろうか?

プラーラブダの力によって、人生はつづいていく。

だが、真我を実現した人にとって望むものは何ひとつないのである。

プラーラブダ・カルマには三つの種類がある。

イッチャー、アニッチャー、パレッチャー(個人的な欲望、無欲、他者のための欲望)である。

真我を実現した人にとってイッチャー・プラーラブダは存在しないが、他の二つは残る。

何であれジニャーニがすることは、他者のためだけに為される。

他者のためにすることがあれば、彼はそれをする。

だが、その結果が彼に影響を与えることはない。

そのような人が為す行為には、どんな徳も罪もともなわない。

ただ、彼らは世間に受け入れられた基準にしたがって正しいことだけを為すのである。

それだけである。

現世で体験されることが、プラーラブダによってすでに決定されていることを知っている人は、何を体験しようとけっしてとまどわない。

すべての体験は、それを望もうと望むまいと避けることのできないものだと知りなさい。」

 

質問者

「真我を実現した人にはこれ以上のカルマもなく、カルマに束縛されることもありません。

それならば、どうして彼は身体のなかにとどまっているのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰がこの質問をしているのか?

実現した人か、それともアジャーニか?

どうしてあなたは、ジニャーニが何をなぜするのかということに頭を悩ますのだろうか?

それよりもあなた自身の面倒を見なさい。

あなたは自分が身体だと信じているため、ジニャーニも身体なのだと思いこんでいる。

ジニャーニ自身が身体をもっていると言ったかね?

あなたの目には、彼が身体をもち、他の人のようにその身体でものごとを為しているように見えるかもしれない。

だが、彼自身は身体をもっていないことを知っているのである。

燃え尽きたロープは、いまだロープのように見えるかもしれない。

だがそれで何かを結ぼうとしても、ロープとして使うことはできない。

ジニャーニも同じで、彼は他の人たちと同じように見えるかもしれないが、それは外見だけのことなのだ。

人が身体と同一化しているかぎり、これを理解することは困難かもしれない。

そのため、このような質問に対しては、「ジニャーニの身体はプラーラブダの力が尽きるまでつづき、それが尽き果てたときに身体は死ぬ」と、ときには答えられてきたのでる。

これに関連して、「すでに解き放たれた矢は的を射るまで突き進む」という説明もある。

だが真実は、ジニャーニはプラーラブダも含めたすべてのカルマを超越しており、彼は身体にも、そのカルマによっても束縛されることはない。

「私は在る」として広がり輝く無限の意識空間に絶えず注意を集中している人には、わずかなプラーラブダさえ存在しない。

そのような人だけが、「天国に達した人は運命に支配されない」という古の言葉を理解することができるのである。」

 

質問者

「もし予期もせずに自分のもとにやってきたものごとを楽しんだ場合、それによって何か悪い結果が訪れることはあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは避けられない。

もしあなたがやってきたものを受け入れ、それ以上を望まず、再び起こることを求めなければ、それ以上の誕生をもたらすような害をあなたに与えることはないだろう。

その反対に、もしあなたがそれに執着し、より多くを求めるなら、より多くの誕生をもたらすことはまぬがれない。」

 

質問者

「占星学によると、星の影響を考慮することで未来に起こる出来事が予測されると言われています。

それは真実なのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが自己中心感覚をもっているかぎり、それはみな真実である。

利己主義が破壊されれば、それはみな偽りとなる。」

 

質問者

「つまり利己主義が破壊された人にとっては、占星術は真実ではないという意味なのでしょうか?」

 

マハルシ

「「それは真実ではない」と言う人が、そこにはもう存在しないのである。

そこに見る人がいるのなら、見るということもあるだろう。

利己主義が破壊された人の場合、たとえ彼らが見ているように見えても、本当は何も見ていないのである。

運命は過去の行為の結果であり、それは身体に関連している。

身体にはそれに適したように行為させればいい。

なぜあなたがそれを気にするのか?

なぜあなたはそれに注意を払うのか?

何かが起こるべきなら、それは過去の行為の結果として、神の意志として、そして他の要因によって起こるのである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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