永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(47)「輪廻転生」③

ここ数回に渡り、ヨーガの視点から語られている「輪廻転生」について、ご紹介しています。

 

私たちのほとんどは、”一人の人間として生きている”という感覚や認識があるために(それらが生じていない人はいないことでしょう)、死後、自分はどうなるのだろう?とか、この生きている現世(この世)があるように、死後は、死後に生きる来世(あの世)があるのだろうか?などと、まことしやかにこの世に流布しているごく僅かな情報を元に、可能な限りの空想・想像をふくらませ、「死」に対するイメージを抱き、中には、その時を迎えるための心の準備をしている人も、いるかもしれません。

 

所謂「真我の智識(Atman-Jnana)」である「真我だけが実在であり、個我はただの想念に過ぎず、実体のない非実在である」ということが明らかになると、この世に死んだり、誕生したりする「個」と言う存在は存在せず、それまで想像していた「個人の死」は、肉体との誤った同一視によって生じている単なる想念の中で起きている幻想(迷妄)であるという理解が起こり、”個別の魂が輪廻転生する”という誤った想念は、消滅します。

 

肉体が、個々人によって異なることから、その肉体に宿る「魂」までもが、個別であろうという思い込みは、完全に誤りであり、それは、私たちが、”自分とは何であるのか?”を知らないため(明知でないため)に起こること(無知)であるという理解が生まれます。

 

「魂」には、個別性はありませんし、違いはありません。

わかりやすい例えで言うならば、肉体に宿る「魂」とは、源である大きな宇宙発電所から電気(エネルギー)を供給してもらっている個々の変電所のような存在だとイメージすれば、理解しやすいでしょう。

変電所で変圧された電気(エネルギー)が、私たち一人一人の生命エネルギーとして私たちを動かす動力として働いています。

「魂」からの生命エネルギーが供給されなくなると、身体も心も働くことができなくなります。(人間は、この現象を「死」と呼んでいます)

 

本当の自分(真の自己)とは、肉体ではなく、心でもなく、永遠不滅の「魂」であり、その永遠不滅の「魂」は、個別のものではなく、この宇宙を在らしめ動かしている唯一の源である大霊(真の実在)と同じである、ということがわかれば、「個別の魂が輪廻転生する」という幻想(想念)は、消滅することでしょう。

 

この誤った想念が消滅しない限り、誤った想念は顕れ続けますので、誤った想念と共に顕れ続ける「わたし」は、「輪廻転生」という誤った想念と共にいることになります。

 

この自動反応的な結びつきを断ち切るには、「真我の智識(Atman-Jnana)」の実現が、必要不可欠であり、「真我の智識(Atman-Jnana)」が明らかになると、自然と、「個という幻想」が消滅するため、個が生と死を繰り返すという「輪廻転生」という誤った想念も消滅します。

それまで変化する肉体と同化していた「魂」ですが、「真我実現」がなされた後では、常に変化する変化変容のこの世にありながらも、この世の変化に影響を受けない「真我」に留まることで、この世という夢の世界との結びつきが断たれた状態である「解脱」が、自然ともたらされることでしょう。

 

それまでは、個人は、夢の中にいますので(その自覚がなくとも)、夢の中では、個人は、生と死を繰り返す「輪廻転生」を繰り返すことになります。

しかし、ひとたび「真我実現」がもたらされれば、本当に実在するのは、真我である「魂」だけであり、「個としてのわたし」は幻想であることが明らかになるために、「個人の死」という概念は消滅します。

よって、”輪廻転生する「個人のわたし」はいない”、ことになります。

 

それ故、「私は誰か?」この問への答えである「真我の智識(Atman-Jnana)」だけが、個に生じている輪廻転生の束縛を断ち切ることができると言えるでしょう。

 

前回同様、最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」、次は、ラマナ・マハルシが真我探究者に読むことを推奨したとされている「ヨーガ・ヴァーシシュタ」から「解脱」について、そして、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介したいと思います。

また、今回は、最後に、ヒンドゥー教聖典とされている「バガヴァッド・ギーター」から、主クリシュナが、探究者アルジュナを諭す御言葉の中から、「私は誰か?」という問いへの答えとして、明確に述べられている真理をご紹介いたします。

 

この理解に至れば、「輪廻転生」とは人間にとって何であるのか?ということが明白になり、「個のわたし」と「輪廻転生」とを結びつける束縛の糸を断ち切ることができることでしょう。

(真我である「魂」は、肉体(物質体)ばかりでなく、心(アストラル体)とも同化していますので、束縛の糸は、一本ではありませんが、肉体と心は固く結びついているので、真我である「魂」と肉体との同化が断たれると、心との同化も断たれるために、一太刀で一刀両断できることになります。

このことについては、後々の記事の中で、解説する予定でいます)

 

 

 

Real-Life Instances that Prove Rebirth(再誕を証明する現実の人生の例)

 

これは、輪廻転生のヒンドゥー教の理論を信じない人々への異議である。

最近、サンティ・デヴィという少女が、デリーにおける彼女の過去生を活き活きと詳しく描写した。

デリーやマトラでは、いや、ウッタルプラデーシュ州中で、大きな物騒ぎとなった。

彼女の記述を聞くために、大勢の群衆が集まった。

彼女は、マトラに住んでいる彼女の過去生の子供や夫を認識した。

彼女は、お金が保管されている場所や、今は表面を覆われている家の中の古い井戸を指摘した。

すべての彼女の供述は、正当に確かめられ、ちゃんとした目撃者達により確証されている。

このような幾つかのケースは、ラングーン、シタプール、その他の場所で起きている。

彼らは、今では、極めて一般的である。

このような場合には、個の魂は、古いアストラル体、或いは、微細身(Linga Sarira)

を伴って直ぐに再誕する。

それは、過去生の記憶がやって来る理由である。

彼は、彼の数々の世界の体験に従い、新しい心とアストラル体を再構築するために、長い時間、精神(メンタル)世界に留まらなかったのである。

 

 

 

Karma and Rebirth(カルマと再誕)

 

再誕の教義は、カルマの法則に対する必然的に引き出せる結論である。

一人の個人と他の個人の間に見出された気質の違いは、彼らの個々の過去の行為に因るものでなければならない。

過去の行為は、過去の誕生を暗示する。

更に、すべてのあなたのカルマは、今生で必ずしも身を結ぶことができない。

それ故、残っている行為を楽しむためにもう一つの誕生がなければならない。

それぞれの魂は、一連の誕生と死を持っている。

誕生と死は、あなたが不死の智識に到達するまで、続くであろう。

善いカルマは、より高い領域への転生へと導き、悪いカルマは、より低い領域への転生へと導く。

徳により、より高い次元への上昇を得、悪により、より低い次元への下降を得る。

至福は、智慧に起因し、束縛は反対である。

カルマが使い尽されない限りは、―良くても、悪くても-人は、数百カルパ(1カルパは432,00,00.000年)の時間を経ても、解脱(Moksha)、或いは、最終的な解放に達することはない。

善いカルマと悪いカルマは、共に、彼らの鎖で個の魂を固く縛っている。

一つは、金の鎖、もう一つは、鉄の鎖である。

解脱(Moksha)は、永遠の智識が獲得されない限り、人によって達成されることはできない。

 

 

 

Christian Theory Contradicted(相反するキリスト教的理論)

 

輪廻転生の目的は、改善と完成である。

それは、生と死の繰り返しから彼を自由にする究極の実現を人間に準備させる。

人は、一つの生で完成に達することは、ほとんどできない。

彼は、彼のハート、知性、手を開発しなくてはならない。

彼は、完璧な方法で、彼の人格を形成しなくてはならない。

彼は、慈悲、寛容、愛、赦し、平等感、勇気など、数々の徳性を開発しなければならない。

彼は、多くの練習と経験をこの大いなる世界という学校で学ばなければならない。

それ故、彼は、多くの人生を経験しなくてはならない。

輪廻転生は、真実である。

一つの小さな生は、あなたの後ろとあなたの前に広がる長い連続の一部分である。

それは、全く些細である。

人は、少しの経験だけを得る。

彼は、ほとんど進化しない。

一つの人生のコースの間、人は、多くの悪い行いをする。

彼は、ほとんど善い行いはしない。

善い人間として死ぬ人は、極僅かである。

キリスト教徒は、一つの人生が、すべてを決定し清算すると信じている。

後の誕生で、彼自身を清めるために、罪人に与えられる機会はない。

彼の限定的な罪は、もし少しも清められなければ、死んでいる彼を終わりのない惨めさに突き落とす。

これは、どうあることができるだろうか?

人の永続する未来は、一つの小さなほとんど意味のない人生に頼るために、どのように作られることができるだろうか?

もし、あの人生で、彼がキリストを信じるなら、彼は天国で永遠の平和を得るだろう。

もし彼が、その人生で不信心なら、彼は永遠の天罰を受けるだろう。

彼は、火の湖か恐ろしい地獄に永遠に投げ込まれるだろう。

これは、最も不合理な教義ではないだろうか?

彼は、修正や改善のためのチャンスを得るべきではないのだろうか?

輪廻転生の教義は、極めて合理的である。

それは、人の矯正、成長、徐々なる進化のための十分なチャンスを与える。

ヴェーダンタは、極悪人のためにでさえ、救済の希望があると言っている。

罪人は、限定された期間、彼の悪行の報いを収穫しなければならない。

彼が、彼の罪から洗い清められた後、彼は再び理性のある存在として生まれ、それと同時に、正しい道と誤った道を選択する意志の自由と共に、そして他のモノから一つを識別する智識と共に、彼の解放を成就するための新しい機会を与えられる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『ナチケータの父も、供物を施した後にブラフマン智慧が当然の結果として生じるという確信を持っていたにもかかわらず、彼の富を手放すことができませんでした。

カタ・ウパニシャッドは、彼が供物の一部として引き渡すために牛を連れてきたと語っています。

しかし年老いて、乳が出ない盲目で病気の、ほとんど、いえ、全く役に立たない牛だけでした。

ヴァージャシュラヴァサは、良い牛は自分のために取っておいたのでした。

ナチケータは、父が供物のために連れてきた年老いて役に立たない牛を見て、このような価値のない贈り物は父に不幸をもたらすだろうということがわかりました。

父を助けたいと熱望し、ナチケータは父に、息子として彼もまた父の財産であり、分配のための供物に含めるべきだということを思い出させました。

「お父さん、あなたは私を誰に捧げるのでしょうか?」ナチケータは尋ねました。

ヴァージャシュラヴァサは、これらの供物が心無いものだという考えに絶えず付きまとわれていたので、自分の否定的な感情を息子に向け、ナチケータの申し出を生意気な言葉として解釈することを選びました。

三度、ナチケータは父に自分は誰に捧げられるのかを尋ねました。

三度目の後、ヴァージャシュラヴァサは怒って言い返しました。

「わしは、おまえを死の支配者であるヤマにくれてやる」

ナチケータは、純粋な心の持ち主で信仰心にも溢れていたので、陽気に父の言葉をその通りに受け取りました。

「死には何もない」とナチケータは言いました。

「すべての存在は穀物の種のように実り、そして再び死ぬ。

今私は真理を発見し、そして死の神秘を覆うヴェールを取り除く最初の人間となろう」

ナチケータがヤマの住居に行くと、死の支配者は留守でした。

ヤマが戻るまでに三晩が過ぎました。

留守で客人を歓迎できなかったことを穴埋めするために、ヤマはナチケータに、適切なもてなしもせず独り待たせた一晩ごとに一つ、合計三つの願いをかなえることにしました。

最初の願いとして、ナチケータは、彼が父に対して持っている敬意を再び証明するもので、ヤマに今自分は家から離れているので、ヴァージャシュラヴァサの心をなだめ、怒りを鎮め、父が持っているかもしれない心配事を取り除くように頼みました。

ヤマは願いを聞き入れ言いました。

「おお、ナチケータ、おまえの父は幸運にもおまえを認めるだろう、そしておまえを大いなる愛と優しさをもって扱ってくれるだろう」

二番目の願いとして、ナチケータはヤマに火の供物、それに伴うすべての儀式、祭典を見せて欲しいと頼みました。

「天国では」と二番目の願いの要求の中でナチケータは言いました。

「恐れもなく死もなく、年を取ることもなく、滅びることもなく、飢えもなく、渇きもなく、痛みもなく、苦しみもありません。永遠の至福があります。死の支配者であるあなただけが、供物を催行することにより、死に至る者がどのようにこの至福の天国に至ることができるのかを知っています。

これが、私の二番目の願いです。

私は死者を天国に導く供物の性質を知りたいのです」

ヤマはそれをかなえ、ナチケータに火の供物を教えました。

ヤマはそのとき、ナチケータに三番目の願いを選ぶように言いました。

自分の気持ちを検討し、心を静めた後、ナチケータはヤマに言いました。

「人は世界から離れた後、永遠に去ってしまうと信じられています。

一方で、再び生まれるという別の視点もあります。

死の後でさえ、人は真の意味で死ぬのではなく、精妙なる体を持った精妙なる段階にとどまっていて、外の物質的な外観だけが捨てられ、それを死と呼ぶというものです。

死んだ人が生きるというさらに別の視点もあります。

これらのうちどれが本当ですか? 死の後は何が存在するのですか? 

私に説明してください。

死の神秘に関する真理、これが私の三番目の要求です」

ヤマは、彼の若い弟子の熱意と正直さを試すことなく、ナチケータに死の神秘について説明したくありませんでした。

ヤマは、ナチケータに神々でさえこの神秘について理解することは困難であると語りました。

「把握することは誰にとっても大変難しい」とヤマは言いました。

「違う願いを言いなさい。そうすればわしは大いに喜んでそれをかなえよう」

ナチケータの気持ちは揺らぎませんでした。

彼はヤマに、神々が死の神秘に一度は惑わされても、主題を理解するのが難しくても、それを説明するのにヤマよりも良い教師はいない、と言いました。

「おお、死の王よ」とヤマは言いました。

「わしは他のどんな要求もさせまい。これに匹敵する願いはないし、わしは秘密を知らなくてはならない」

ヤマは他の道を試し、神と富、過ぎ去っていく物質的な喜びと永遠の歓び、幻影と真実との間の選択という、すべての人類が直面する誘惑でナチケータを試しました。

ヤマは、ナチケータに天国にあるすべての喜びと共に、彼が望むだけ何年も生きられることを申し出ました。

ヤマはナチケータの子ども、ひ孫、そして玄孫、立派な馬や象、金、宝飾品、珍しい宝石を保証しようと言いました。

彼はナチケータに地球の王国を与え支配させようと言いました。

彼はナチケータの要求する三番目の願いをかなえたくなかったのです。

「求めた三番目の願いの代わりに、この富と力をすべて受け取りなさい」とヤマはナチケータに言いました。

「これ以外のおまえのすべての願いをかなえてあげよう」とヤマは続けました。

「なぜなら、それは、生の最も偉大なる秘密だからである。

普通の人間が持つことはないような天界のすべての乙女たちは、もしおまえが望むならば、おまえものとなろう。

再びあの問いをわしに尋ねるな。わしは生と死の秘密を漏らしたくないのだ」

そのとき、ナチケータは、生と死の関係や人生の目的について知りたいという信念と決意の深さを見せました。

彼はヤマが申し出た誘惑には興味がありませんでした。

彼はヤマに躊躇わずに答えました。

彼は死の支配者に言いました。

「これらすべての一時的で消滅する事物をどうしろというのです? 

感覚によって知覚されたすべては一時的なものです。

そしてこの次元の生命は死によって変化し、滅びます。

天国における生でさえ、自由の知識を獲得しないでは生きる価値はありません。

あなたのすべての踊り子たちや世俗的な誘惑はただ感覚的な喜びであるだけです。

おお、死の王よ、それらはご自分で持っていてください。

誰も世俗的な富によって幸福を得ることはできません。

この世界の物質的な楽しみと天国での生は変化することになっています。

この世界がすぐに過ぎ去るという性質を知った後で、誰が長寿だけを願うでしょうか? 

私は千年も生きたいとは思いません。

もし私が最高の智慧を得て、至高の智慧に達せないのなら、私はこんなに長い人生で何をすべきでしょうか?」 

ヤマがナチケータの明晰さと決意を見た時、彼は喜んで三番目の願いかなえることを申し出ました。

今やカタ・ウパニシャッドは本気で、不死の秘密、生と死の意味を明らかにし始めます。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

 

 

『 解脱の第二の門番である真我探究は、綿密な聖典の研究を通して浄化された知性によって為されるべきだ。

この探究が途切れるようなことがあってはならない。

そのような探求を通して知性は鋭敏になり、「至高なるもの」の実現を可能にする。

それゆえ、ただ真我探究だけがこのサンサーラという長く続く病の最高の治療法なのだ。

賢明な人は、力、知性、能率、時宜を得た行為を真我探究の成果と見なす。

実際に、王国、繁栄、快楽、そして最終的な解脱でさえ、すべては探求の結果なのだ。

軽率な愚か者に襲いかかる災難でさえ、この探究精神が守ってくれる。

探求の欠如で心が愚鈍になると、月の涼しい光でさえ恐ろしい武器となる。

そして、未熟な想像力が暗闇のいたる所に悪鬼を撒き散らすのだ。

それゆえ、探求しない愚か者はまさに不幸の倉庫だ。

探求の不在は、自分自身や他者に害や無数の心身の病気をもたらす行為を生み出す。

そのため、そのような軽率で愚かな人々とともにいることは避けなければならない。

絶えず探求精神に目覚めている人は、出会う人すべてに啓示を与え、無知な心によって生み出された亡霊を追い払い、感覚的快楽とその対象という虚偽を見破る。

ラーマよ。

永久不変の真理は探究の光の中で実現される。

これが「至高なるもの」だ。

それさえあれば、人は何か他のものを得ようとすることも避けようとすることもなくなる。

妄想や執着から自由になり、無為に浸ることも行為に溺れることもない。

彼は世界の中で生き、働く。

そして自然な寿命を全うしたとき、完全に自由な至福の状態に達するのである。

霊的探求の眼は、あらゆる活動の只中にあっても、その視野を失うことはない。

この眼を持たない者は、実に哀れだ。

この眼がないなら、泥の中のカエル、糞の中のウジ虫、穴の中の蛇に生まれたほうがましだ。

真我探究とは何か?

それは「私は誰か?このサンサーラという悪はどうして生まれたのか?」と尋ねることだ。

真理の知識はこのような探求から生まれる。

そのような知識から自己の内に静寂があふれ出す。

そして、そこに理解を超えた至高の平和とすべての哀しみの終焉が訪れるのだ。

 

もう一人の解脱の門番は、「満足すること」である。

満足の甘露を飲み干した人は、感覚的快楽を求めるようなことはしない。

この世のいかなる喜びも、すべての罪を拭い去る「満足」ほど快いものではない。

満足とは何か?

求めても得られないものへの願望を放棄し、求めずして得たものに満足すること、そのために得意がることも憂鬱になることもない――それが満足である。

自己に満足しないかぎり、人は悲しみに支配されてしまう。

満足が生まれると、清らかなハートが花開く。

何も所有せずに満足する人は、世界を所有するのだ。

もう一人の解脱の門番は、サットサンガ(賢者との交際)だ。

サットサンガは人の知性を広げ、無知と心理的苦悩を破壊する。

どんな犠牲を払っても、どんなに困難であろうとも、道を防げる障害が何であろうとも、けっしてサットサンガを軽んじてはならない。

なぜなら、ただサットサンガだけが人生の道を照らすからだ。

慈善、禁欲生活、巡礼や宗教儀式のような他の修練をするよりも、サットサンガは遥かに優れている。

人はハートの無知の暗闇を照らし、真理を実現した聖者を讃え、力の限りをつくして奉仕するべきだ。

その反対に、そのような聖者に無礼を働く者は、間違いなく苦難を招くことになる。

これら四つ――自己制御、探求精神、満足、サットサンガ(賢者との交際)は、サンサーラの海に溺れる人たちを確実に救うことのできる手段である。

満足は最大の報酬だ。

サットサンガは目的地までの旅路の最高の同伴者だ。

探求精神はそれ自体が偉大な叡智であり、自己制御は無上の幸福なのだ。

もしあなたがこれら四つすべてにたずさわれないなら、一つだけでも実行しなさい。

それらの内の一つを誠実に修練すれば、他の三つもあなたの内に見いだされるだろう。

そして、自然とあなたの内に最高の叡智が湧き起こるだろう。

これらの高尚な特質の助けを借りて、心という野生の象を飼いならすまでは、たとえあなたが神や半神半人になったとしても、「至高なるもの」に近づくことはできない。

それゆえ、ラーマよ。

これらの高尚な特質が培われるよう努力しなさい。

ここで挙げたような特質に恵まれた人は、私が今から明らかにすることを聞くにふさわしい。

ラーマよ。

あなたはまさにそれにふさわしい人なのだ。』

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

 

『心とは真我と身体の同一化にすぎません。

それによって偽りの自我が生み出され、それがまた偽りの現象を生みだし、あたかもその中で活動するかのように見えるのです。

しかし、これらすべて偽りです。

真我だけが唯一の実在なのです。

偽りの同一化が消え去れば、常在の実在は明らかになるでしょう。

実在が今ここに存在しないということではないのです。

それは常に存在し、永遠に変わりません。

それはまた誰もが体験していることです。

なぜなら、誰もが「自分は存在している」ということを知っているからです。

「自分は誰か?」とは、主観的には「私は誰か?」です。

偽りの自我は対象と関わっています。

この自我自身もその対象なのです。

対象であるなら、それは偽りだということです。

主体だけが実在だからです。

対象、つまり身体とあなた自身を混同してはいけません。

これが偽りの自我を生み出し、その結果、世界とその中で活動するというあなたに不幸が現れ出すのです。

あなた自身をあれこれ、誰それなどと考えてはいけません。

ただ偽りを払い去りなさい。

そうすれば、実在はおのずと明らかになるでしょう。

聖典は「真我はニディア・シッダ、すなわち永遠の存在である」と述べながら、無知を取り除くことについて語っています。

もし真我が永遠の存在なら、どうしてそこに無知がありえるでしょう?

誰にとっての無知だというのでしょうか?

これは矛盾しています。

しかしそのような言葉は誠実な探究者を正しい道に導くためのものなのです。

「私が存在しなかったことは一度もない。あなたも、ここにいる王たちも。。。。」このような平易な言葉で述べたなら、探究者は唯一の真理を理解できないでしょう。

シュリー・クリシュナは真理を説きましたが、アルジュナは理解できませんでした。

後にクリシュナは「人々は私を身体と同一視するが、真理においては、私は生まれもせず、死にもしない」とわかりやすく語っています。

それでもアルジュナにとって真理が明らかになるには『バガヴァッド・ギーター』のすべてを必要としたのです。

真我とはただ「在る」ことであり、あれやこれとして在ることではありません。

それはシンプルな存在なのです。

在りなさい-そうすれば無知は終焉するでしょう。』

(ラマナ・マハルシとの対話(1))

 

 

 

 至上者(バガヴァーン)クリシュナの言葉

『君は博識なことを話すが

悲しむ値打ちのないことを嘆いている

真理を学んだ賢い人は

君のためにも死者のためにも悲しまない

 

わたしも 君も ここにいる全ての人々も

かつて存在しなかったことはなく

将来 存在しなくなることもない

始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ

 

肉体をまとった魂は

幼年 青壮年を過ごして老年に達し

捨身して直ぐ他の体に移るが

自性を知る魂はこの変化を平然と見る

 

クンディーの息子よ 寒暑 苦楽は

夏冬のめぐる如く去来するが

すべて感覚の一時的作用にすぎない

アルジュナよ それに乱されず耐えることを学べ

 

アルジュナよ 人類の中で最も秀れた男よ

幸福と不幸に心を乱さず

常に泰然として動かぬ者こそ

大いなる自由*を得るにうさわしい

(*解脱)

 

物質と霊の本性を学んで

真理を徹見した人びとは

非実在は一時的に現象(あらわれ)ても持続せず

実在は永遠に存在することを知る

 

一切万有にあまねく充満しているものは

決して傷つかず 壊されもしない

たとえ如何なる人でも 方法でも

不滅の魂を破壊することはできない

 

全ての生物は永遠不滅であり

その実相は人智によっては計り難い

破壊され得るのは物質体(にくたい)だけである

故にアルジュナよ 勇ましく戦え!

 

生物が他を殺す また殺されると思うのは

彼らが生者の実相を知らないからだ

知識ある者は自己の本体が

殺しも殺されもしないことを知っている

 

魂にとっては誕生もなく死もなく

元初より存在して永遠に在りつづけ

肉体は殺されても滅びるとも

かれは常住にして不壊不滅である。

 

プリターの息子 アルジュナ

このように魂は不生不滅 不壊不変である

どうして誰かを殺し

また誰かに殺されることがあり得ようか

 

人が古くなった衣服を捨てて

新しい別の衣類に着替えるように

魂は使い古した肉体を脱ぎ捨て

次々に新しい肉体を着るのだ』

(バガヴァッド・ギーター 第二章12ー22)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

 

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