永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(45)「輪廻転生」①

前回までの数回に渡り、すべての人間に起こる「死」について、ヨーガ的な観点からの考察をご紹介しましたが、今回からは、「生」と「死」と非常に関連が深いと思われる「輪廻転生」(サンスクリット語では、サムサーラ)について、ご紹介したいと思います。

仏教などでも、「六道輪廻」として語られることもある「サムサーラ」(輪廻転生)ですが、ヨーガの世界では、どのように説明されているのでしょうか?

ヨーガの最終目的が、(輪廻からの)「解脱」(モクシャ)にあることは、紛れもない事実ですが、ヨーガにおける「サムサーラ(輪廻)」とは何なのか?その仕組みとはどのようなものなのか?を明確に知ることで、「解脱」(モクシャ)という究極目標がよりハッキリとし、そこへ向かって迷わず進むことができるという利点につながることが期待できますので、ある程度の知識がある方もいらっしゃるとは思いますが、今一度、振り返ってみましょう。

 

ヨーガにおけるサムサーラ(輪廻転生)を理解することは、前回までの記事でご紹介しました「死」という現象を乗り越えて行くことができる「智慧」として働き、死の際に、非常に役に立つことでしょう。

 

また、それが、自身の「解脱」へとつながっていく唯一の道であり、それは、すなわち、生きている間に起こる「束縛からの自由」へとつながる唯一の道でもあるのです。

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次は、スワミ・シヴァナンダの兄弟弟子であるスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き恩寵を受けて逝く」からご紹介したいと思います。

 

 

 

Reincarnation(輪廻転生)

 

人は、植物に譬えられる。

彼は、植物のように成長し、繁茂し、最後に死ぬが、完全にではない。

植物もまた、成長し、繁茂し、最後に死ぬ。

それは、その種子を遺して死ぬ。

種子は、新しい植物を生む。

人は、死ぬ時に、彼のカルマ――彼の人生の良い行為と悪い行為を残して死ぬ。

物理的身体は、死んで分解するかもしれないが、彼の行為の印象は、死なない。

彼は、これらの行為の果実を楽しむために、再び誕生しなければならない。

輪廻転生の理論は、ヴェーダ聖典と同じくらい古いものである。

それは、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の基本である。

この理論は、グル・グラント・サーヒブシク教の経典)の中で、グル・ナナク・デヴィ(シク教を始めた)によって支持されている。

古代エジプト人たちは、それを信じていた。

ギリシアの哲学者たちは、それを彼らの哲学の基本とした。

それは、プラトンがすべての智識は回想であると言う時、プラトン哲学の基本方針である。

エマーソン(※1)、プラトン(※2)、ピタゴラス(※3)は、輪廻転生の理論を完全に信じていた。

カント(※4)やシェリング(※5)、ショーペンハウアー(※6)は、この理論を支持した。

ジュリアス・ミュラー(19世紀のドイツのプロテスタント神学者)、ドーナー(19世紀のドイツのプロテスタント神学者)やエドワード・ビーチャー(19世紀のアメリカの神学者)のような神学者たちは、それを擁護した。

現在、輪廻転生は、大多数の人間によって受け入れられている。

[(※1)19世紀米国の思想家、哲学者、作家。超絶(超越)主義を唱えた。インドの古典『ヴェーダ』から強い影響を受け、彼の著作の多くは一元論の色調が濃い。彼の超越主義哲学は、ラーム・モーハン・ローイのネオ・ヴェーダンタの影響を強く受けたといわれる)

(※2)古代ギリシアの哲学者。プラトンの思想を語る上では、「イデア」と並んで、「魂」(プシュケー)が欠かせない要素・観点となっている。そして、両者は密接不可分に関連している。

初期においても既に、「魂を善くすること」や、死後の「魂」の行き先としての冥府などについて言及されていたが、第一回シケリア旅行においてピュタゴラス派と交流を持った後の作品では、本格的に「魂」(プシュケー)が「イデア」と並んで話の中心を占め、その性格・詳細が語られていくようになっていく。

「(不死の)魂の想起」(アナムーネーシス)がはじめて言及され、「学ぶことは、想起すること」という命題が提示される。中期の『パイドン』においては、「魂の不死」について、問答が行われる。

『国家』においては、理知、気概、欲望から成る「魂の三分説」が説かれ、末尾では「エルの物語」が語られる。『パイドロス』においては、「魂」がかつて神々と共に天球を駆け、その外側の「イデア」を観想していた物語が語られる。

後期末の『法律』第10巻では、「魂」こそが運動の原因であり、諸天体は神々の「最善の魂」によって動かされていることなどが述べられる。

このようにプラトンの思想においては、「魂」の概念は「善」や「イデア」と対になり、その思想の根幹を支える役割を果たしている。

なお、アリストテレスも、『霊魂論』において、「魂」について考察しているが、こちらは感覚・思考機能を司るものとして、今日で言うところの脳科学神経科学的な趣きが強い考察となっている。(Wikipediaより)

(※3)紀元前6世紀のギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。アリストテレスは『形而上学』のなかで、この対立項を再現している。彼はオルぺウス教の影響を受けてその思想の中で輪廻を説いていたとされている。魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱、などを基本的な教義とする。

一般的な古代ギリシア宗教と比較して、オルペウス教の特徴とされる点は以下の通りである。

・人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義。

・「悲しみの輪」からの最終的な解脱、そして神々との交感を目的として、秘儀的な通過儀礼(入信儀式)および禁欲的道徳律を定めていた点。

・生前に犯した特定の罪に対し、死後の罰則を警告した点。

・教義が、神と人類の起源に関する神聖な書物に基づいている点。

 (※4)18世紀のドイツの哲学者)

(※5)18~19世紀のドイツの哲学者)

(※6)18~19世紀のドイツの哲学者。ヴェーダの「ウパニシャッド」に大きな影響を受け、「意志と表象としての世界」を刊行。)]

 

 

Body—A Vehicle for the Soul(身体――魂のための乗り物)

 

特別な身体と魂の結合は、誕生として知られており、その分離は、そこから、死と呼ばれている。

魂が物質的な鞘を離れると、その功罪に従って、それは他の身体、人間、動物、或いは野菜にでさえ転生する。

ガソリンと蒸気は、偉大なる力である。

しかし、それら自身によって、それらは限定されたコースと限定された目的地のある旅をすることはできない。

それらは、機械や走る汽車や汽船につながれなければならない。

それと同じく、魂はそのコースを走り、神の中の目的地に到達するために、身体を持たなくてはならない。

身体は、前進的な進歩へと魂を運ぶために、神によってデザインされた。

善い魂は良い身体を作り、悪い魂は悪い身体を作る。

身体は、神に向かうその進歩において、魂に必要不可欠な補助器具である。

転生の進歩は―われわれは、何生かかるのか?を言うことはできないがー魂が、すべてのその不純物を清め落され、ヨーガにより不滅の魂の真の完全なる智識を獲得し、至高のブラフマン、或いは、至高の真我との合一により、解脱、或いは、最終的な無力化を達成し、完全で永遠の至福を楽しむまで、続く。

達成されれば、輪廻転生は、もはやない。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死んだ後の生についての論争は、歴史が始まって以来続いてきましたが、魂の不滅についてはどんな明確な結論も、知識層や霊的に目覚めていない人々には届けられていません。

知的な論議や論争によって、何が死後存在するのかを理解することは不可能です。

絶対的な真理は、観察され、証明され、知覚認識により論証されないという理由で、科学的に証明することはできません。

アートマンは、知覚認識を超えています。

科学的な実験は、それ自身の限界により制限されているので、最高の真理を明らかにすることができません。

それは、魂の不滅性とあの世について、科学者がどんな具体的な結論にも到達できず、彼らを納得させることができるものは何もない理由でもあります。

唯物主義者は、何かが死の後に存在し続けると信じることは難しいと思っています。

知覚認識だけに頼って生きている人は、来世を一瞥(いちべつ)することはできません。

人は自分自身の宗教的な信条に従い、死後の生についてある一定の期待を持っています。

人は不死と天国への望みを夢見ています。

彼らは、今は亡き愛する者が永遠に神と共にあるという考えでお互いを慰め合っています。

宗教は、天国には多量の水と果物と美しい女性と音楽と踊りなどがあると、考えています。

ある宗派の信奉者たちは、彼らの敵や獰猛(どうもう)な動物に対する戦いが戦われる英雄の天国の存在を信じています。

すべてのこれらの天国は、申し立ての通りに人の最も高い望みが叶(かな)えられる精神的な領域でしかありません。

誰でも、彼らが最も快いと見なすある一定の願望を持っています。

そして同時に、彼らは、このような願望ができる限り叶えられる領域を望んでいるのです。

そこで、天国を切望することは、人が達成を求めている天国のレプリカである領域を映し出します。

この天国は、夢でしかない人の理想や願望の投影です。

人が夢を見るとき、起きるまで天国にいると思うかもしれません。

目覚めると、夢の現実性は消えます。

夢と天国はある一定の条件の下でのみ現実なのです。

天国の理想はインドの古代の預言者によって考えられました。

しかし、いくつかの宗教がしているように、彼らはそれを永遠なる状態であるとは考えませんでした。

ヒンドゥー教や仏教以外では、天国の観念は永遠の存在を意味しています。

ヒンドゥー教の哲学によりますと、永遠の天国という理想は、現実的には不可能なのです。

天国や死後の他の種類の存在は、固定的ではなく、その人自身の考えや行動により決定されます。

天国の領域を経験し、天国の楽しみを喜ぶ人々は、彼らの善い行いや考えが彼らに資格を与える限り、それをすることができます。

常に、善い行いと考えには限りがあります。

同じように、それらから生じる結果にも限りがあるでしょう。

永遠という単語は、始めがなく終わりがない、ということを意味します。

ヴェーダンタでは、天国はそれ自身の性質により、永遠ではあり得ません。

時間、空間、因果関係という法則に従っているすべての物は、永続的でなく滅びます。

すべてのこの世の楽しみは時間によって制限されています。

それらは永遠に続くことはありません。

天国の楽しみはこの世の楽しみに似ています。

それらが長い間、経験されても、やがては終わりが来ます。

この世以外のところで叶わない願望は、魂を存在の物質的な次元に連れ戻すことでしょう。』

(聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く  by Swami Rama)

 

 

 

『サットワが増してくると

肉体の九門 すなわち目 耳 鼻

口 肛門 生殖器

智慧の光で輝くようになる

 

ラジャス増長のしるしは

物事に対する強烈な執着 利益をうむ活動

激しい努力 抑えきれぬ欲望

そして発展へのあくなき追求 焦燥である

 

アルジュナよ そして--

タマスが増長すれば

暗愚 邪悪 ものぐさ 無気力

狂喜 妄想などが現れてくる

 

サットワの支配下で肉体分解すれば(*)

その魂は聖者たちや

立派な信仰家たちの住む

清らかな世界に上がって往く

[(*)サットワの性質が他の二性(グナ)を抑えている状態で死ねば]

 

ラジャスの支配下で肉体分解すれば

その魂は仕事に追われる人々の世界に生まれ

タマスの支配下で肉体分解すれば

その魂は無知蒙昧な女の胎に宿る

 

サットワによる行動の結果は

善美であって汚れなく

ラジャスによる行動の結果は苦痛であり

タマスによる行動の結果は愚昧である

 

サットワからは真実の智識が生じ

ラジャスからは貪欲が生ずる

そしてタマスからは愚鈍と

狂気と妄想が生じる

 

サットワに生きる人々は次第に高い世界に上がり

ラジャスに生きる者たちはこの世界に留まり

いまわしいタマスに生きる者たちは

地獄のような世界に堕ちていく

 

全ての行為は自分がするのではなく

物質自然の三性質(トリグナ)の作用にほかならぬ事を知り

その上に至上主の実在を正覚した者は

この三性質を超越して”わたし”のもとに来る

 

肉体をまとった者が その体と連合する三性質を

振り捨ててこれを超越したとき

誕生と老と死の苦より解脱し

物質界にいる間から至幸の神酒をのむ

 

アルジュナ問う

「主よ 三性質を超越した人の

特徴(しるし)を何とぞお教え下さい

彼はどんな生活をし 行動をするのか--

またどのようにして三性質を超越(のりこえ)たのですか?」

 

至上主(バガヴァーン)こたえる

「バンドゥの息子よ

サットワの光輝 ラジャスの執着

またタマスの迷妄が現れても嫌わず

消えても追求しない者--

 

これら物質自然の三性質の作用に

動揺することなく 悩むことなく

動くのは物質自然の三性質のみと静観して

超然として不偏中立を保つ者--

 

真我に定住して幸と不幸を区別せず

土塊(つちくれ)も石も黄金も同等に視て

全ての事物に好悪の感情を起こさず

賞讃と非難 名誉と不名誉に心を動かさぬ者--

 

友と敵を同じように扱い

物質次元の仕事には一切手を出さぬ者--

以上のような人は

物質自然の三性質を超越したと言えよう

 

いかなる場合でも身心を尽くして

”わたし”を信じ愛し仕える者は

速やかに物質自然の三性質をのり越えて

ブラフマンに到達するであろう

 

そして”わたし”がブラフマンの住居である

即ち 不死不滅の全一者

永遠の法則(ダールマ)であり

絶対の幸福である(*)

[(*)ブラフマンの本質をサッチャーナンダという。

 サット(永遠の実在)、チット(完全円満な智慧)、アーナンダ(絶対の至福)]

(バガヴァッド・ギーター 第14章11-27)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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