永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(46)「輪廻転生」②

前回より「輪廻転生」をテーマに、ヨーガの見地からの仕組みや微細領域におけるプロセスなどについてご紹介し、それを踏まえた上で、「解脱」への理解を深めることで、いつか必ずや起こることになっている「死」のプロセスと、それに伴う「輪廻転生」を超えた「解脱」へのプロセスを、数回に渡り、ご紹介する予定です。

 

死後の肉体の消滅は、誰もが認めるところですが、その後、どうなるのか?というのは、漠然ではあっても、誰もが、想像を巡らせる事柄ではあるかと思います。

肉体の消滅後、個人は、完全に無に帰するのではなく、何らかの形で(「魂」として)残り、それがまた物質次元に、何らかの形をもった存在として誕生するというのが、「輪廻転生」(サンサーラ)の考えですが、「魂」が存在するとしたら、肉体の消滅後、それは、どのような形で存在し、そして再誕の時に、どのような方法で、物質次元の存在になるのでしょうか?

 

そして、重要なのは、ヨーガにおいては、「生」と「死」は、セットで起こることなので、生まれたモノは死に、死んだモノは生まれる、という考えが基本にあります。

これは、「因果の法則」でもあり、この宇宙の自然法則(ダルマ)でもあります。

「輪廻転生」は、「因果の法則」とも密接に結びついており、切り離しては考えられない、ある意味で、生と死における「因果の法則」と言えます。

 

つまり、言い換えると、「今のわたし」は、「過去のわたし」の結果である、ということになり、そして、更に、「未来のわたし」は、「今のわたし」の結果である、ということになります。

 

この生と死の連鎖である「輪廻転生」を断ち切る方法は、あるのでしょうか?

 

または、人によっては、この人生を、一回限りの人生であると割り切って(輪廻転生はないという前提にたって)、今の人生をできる限り謳歌し、肉体の消滅と共に、永遠に消滅するか、または、天国のような所に行って、そこで、地上では謳歌しきれなかった夢のような楽しい人生を送ることを期待して、この地上での人生を終えよう、という死生観、人生観を抱きつつ、死の時を迎えることも可能でしょうし、または、何も考えないで(死のことを考えるのは恐ろしいために)、その結果、何も準備しないで、その時を迎えよう、というような選択肢も十分に可能ですので、死後の自分自身の在り方は、(あくまで想像の範囲ではありますが)それぞれでしょう。

 

ここでは、生と死という現象に「因果の法則」が働くことを前提として、人間である限りは例外なく、死後に、「魂」は何らかの形で存在し、そしてやがては、「輪廻転生」を経て、再誕するという現象が、自然現象として起こる、という理論を土台にして、その生と死の繰り返しから脱却する方法「解脱」について、ヨーガで説かれている仕組みや理論、及び方法をご紹介したいと思います。

 

最初は、以前より連続してご紹介しておりますスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、次は、ラマナ・マハルシが真我探究者に読むことを推奨したとされている「ヨーガ・ヴァーシシュタ」から「解脱」について、そして、最後にラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介したいと思います。

 

これらの四人の聖者の方々が、指し示していることは、同じ一つのことであり、「輪廻転生」はあるが、同時に、それを乗り越える方法もある、ということです。

 

今、私たちに多くの情報が遺されていますので、それらに感謝しつつ、それらを智慧の言葉としてよく熟考し、実践を推奨されている修練を実践するならば、今生において、良い種子(因)を蒔くことになりますので、やがては、良い実(果)がもたらされることでしょう。

 

種子を蒔かないことには、どんな実もなりません。

 

また、裏返して、この法則を応用すれば、「輪廻転生」を生む種子を蒔かないことで、次の生という実をもたらさないようにすることも、充分可能なのです。

 

この「輪廻転生」をもたらす「種子」とは何なのか?

 

そして、この「種子」を消滅するための方法は、あるのか?

あるとしたら、どのような方法なのか?

 

早速、聖者の方々が遺された御言葉を、見て行きましょう。

 

 

 

Proofs for Rebirth(再誕の証拠)

 

輪廻転生にとっての重要な議論の一つは、ヒンドゥー教徒によって、直感的な感覚がもとに構築された。

直感は、過去の経験の結果である。

赤ん坊は、指しゃぶりをする。

若いアヒルは、泳ぐ。

これは、誰が教えたのか?

彼らは、サンスカ―ラ、或いは、以前の誕生の傾向である。

一目ぼれの愛は、完全に過去生におけるある感覚である。

以前に、これらの魂たちは、愛していた。

彼らは、それを憶えていて、まるで彼らがお互いに会ったことがあるかのように実際に感じる。

このような魂は、性的な事柄ではなく、しばしば壊れる。

ブッダは、彼の妻に、過去の誕生における彼女の彼に対する優しさを語り、何度か、他の人々の過去生の詳細を与えた。

すべての子どもは、過去の意識的な行為によって引き起こされたある傾向や先入的愛好を持って生まれる。

空っぽの心や心に清浄で真っ白な空白の頁を持って生まれる子どもはいない。

われわれは、過去生を持っている。

天才少年もいる。

五歳の少年は、ピアノやヴァイオリンで達人となる。

シュリ・ジニャーナ・デヴィは、彼が14歳の時に、バガヴァッド・ギーターの解説を書いた。

数学の天才少年もいた。

マドラスには、8歳の時、宗教的な講話を行なったバーガヴァター(神の栄光について講演する人)がいた。

この奇妙な現象を、どのように説明することができようか?

これは、自然の気まぐれではない。

輪廻転生の理論だけが、これらすべてのことを説明できるであろう。

もし一人の人が、今生で、音楽や数学を学ぶことに深い楽しさを感じるなら、彼は、次の生にこれらの印象を運び、彼が少年の時にでさえ、これらの科学で神童となる。

遺伝は、これらすべての不平等や多様性―天才の場合を説明できない。

これらの神童の両親や兄弟、姉妹は、極めて普通の人々である。

傾向は、過去の行為の結果である。

それらは、遺伝を通してはやって来ない。

天才は、彼らの過去生で、彼らの才能を獲得したのである。

人は、幾つかの誕生で、傾向や才能を開発し、ある誕生で天才になる。

ブッダは、幾つかの誕生で経験を獲得した。

彼は、彼の最後の誕生でのみ、ブッダとなった。

一つの誕生において、すべての徳が開発されることはできない。

人は、段階的な進化によってのみ、徳を磨く。

聖者は、すべての徳において卓越性を所有する。

聖者や達人の存在は、再誕があることを示唆している。

 

               

 

Why Do We not Remember Our Past?(われわれは何故、過去を覚えていないのか?)

 

輪廻転生の理論に反対の議論が、起こされる。

その反論とは「われわれは、何故、過去を憶えていないのか?」というものである。

あなたは、子供の頃、あなたが何をしたのかを覚えているだろうか?

あなたは、その時、思い出せないからと言って、存在していなかったと言うだろうか?

とんでもない。

もしあなたの存在が、あなたの記憶に依存しているならば、その時、この議論は、あなたが子供の時には存在していなかったということを証明する。

何故ならば、あなたは、あなたの子供時代を覚えていないのだから。

詳細は、あなたの記憶から去ってしまったが、あなたが、あなたの経験を通して獲得した知識は、あなたの存在の重要部分である。

それらの経験は、いまだに印象として、あなたの潜在意識(Chitta)の中にある。

そのように、過去の経験は、あなたの現在の人生に影響を与えている。

われわれが、肉体で生きている限り、われわれは、脳を通して記憶の機能を働かせる。

一つの転生から別の転生を過ぎて行く中で、魂は、新しい身体に過去の頭脳を持ち運んだりはしない。

 

 

 

Knowledge of the Past(過去の智識)

 

あなたが、数々の誕生で得たすべての経験は、潜在意識(Chitta)の中に、残存印象の形で残る。

それらは、音がレコードの中に微細な形で残るように、非常に非常に微細な形で残る。

ヨーギーは、これらの印象に集中して、過去生を思い出すことができる。

彼は、あなたの潜在意識に入っているサンスカーラ、或いは印象に集中することで、あなたの過去生についてもあなたに語ることができる。

母なる自然は、あなたから過去を隠している。

過去を思い出すことは、好ましいことではない。

しばし、あなたが過去を知っていると、考えてみなさい。

あなたは、過去生であなたが罪の行為を犯し、あなたはそのことを苦しんでいることを知っている。

あなたは、常に、このことを考えてしまうだろう。

あなたは、絶えずあなた自身を心配するだろう。

あなたは、健全な眠りに就けなくなるだろう。

あなたは、食べ物を賞味できなくなるだろう。

もしあなたが、あなたの過去を思い出すならば、あなたは現在を有効に活用できないかもしれない。

過去生におけるあなたの執念深い敵は、今生では、あなたの息子として生まれるかもしれない。

もしあなたが過去を覚えているのなら、あなたは彼を殺すために剣を抜くかもしれない。

敵意の感情が、即座にあなたのハートに起こるだろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『ヤマはナチケータに生を理解するには、死を理解することが大切だと教えました。

そして同様に、生は死を理解するために理解されなくてはならないと。

ナチケータは、死は生の終わりではなく、継続する物語における単なる一時的な休止だと学びました。

死は単に、ニューヨーク市のグランドセントラル駅のような駅――ちょうど特別な列車を降りて別の列車に乗る準備をする場所――での停車です。

これは、生または死の意義を減らすことではありません。

どのようにして生は導かれるのか、言い方を換えると、グランドセントラルへ行く途中で選ぶ列車は、私たちが到着するとき、私たちがどんな心の状態であるか、そして、私たちの旅における次の移り変わりのために、私たちがどれくらい用意できるかを決定します。

私たちは散らかった貧しい列車を拾うこともできるでしょうし、きちんとしたきれいな列車を拾うこともできるでしょう。

私たちはあらゆる種類の誘惑と娯楽、踊り子たちやビデオゲーム、そして富と名声の列車を拾うこともできます。

ひとたび私たちが、あらゆる娯楽と肉体的感覚の満足に釘付けにされると、その列車を降りるのは困難になることでしょう。

または、私たちがグランドセントラルで列車を降りる時間がやって来ると、努力なしに喜んでそうすることができるように、私たちは道に沿った自然の光景を楽しむことを学ぶ列車を拾うこともできるでしょう。

ナチケータは、正しい列車を拾った人の一例です。

彼は知識の列車以外にどんな列車も持とうとしませんでした。

何も彼に興味を持たせられませんでした。

長寿、富、反対の性別、子供たちは、彼の実在の知識と生と死の秘密への願望に対して見劣りがしました。

ナチケータにとっては、生と死の秘密だけが持つに値するものだったのです。

内側に居住するアートマンの永遠の本質は、ウパニシャッドの中心的なテーマです。

これは死の神秘の秘密であり、生を理解するための鍵です。

神はすべてに浸透し、私たちの生命の命である魂に生命力を吹き込んでいるアートマンです。

アートマンは永遠に存続し、不変であり、故に死ぬことはありません。

滅びるものだけが死なねばなりません。

滅びるものは、不滅なるものの発見における道具として仕えるためだけにそこにあります。

死ぬのは、この世の次元を訪問する際に、魂の覆いを提供している外観である体です。

内側の自己は影響を受けないままです。

それは永遠なる存在なので、死にませんし、死ぬことができません。

バガヴァッド・ギーターは述べています。

〝彼は非顕現であり、思考の対象ではない、そして不朽だと言われている。それ故、彼を知れば、あなたは誰かのことを嘆き悲しむことはない〟

もし、人にとって重要なことが死んでいくことであるなら、死は恐ろしいものとして大きく立ちはだかります。

死はその人にとって中心的で意味のあったものに対する終わりを意味します。

その哲学における苦痛は深遠です。

しかし、もし、人が死するものを手放すために、物、あるいは人間関係を手放すことを学び、そして永遠であるものだけを求めるなら、死は恐ろしいものではありません。

それは単に方向転換、服を換えることなのです。』

(聖なる旅 目的を持って生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

 

『ラーマよ。

疑いのない純粋なハートと受容的な心で、解脱の本性とそれに達するための修練に関する教えに耳を傾けなさい。

なぜなら、「至高の実在」が実現されるまでは、誕生と死という恐るべき苦難が終わることはないからだ。

今ここで、この無知なる生という恐ろしい毒蛇に打ち勝たなければ、いつ果てるとも知れぬ苦しみは、今生ばかりか数限りない来世にまで起こり続けるだろう。

この苦しみを無視することはできない。

それゆえ、私が授ける叡智という手段を用いて、苦しみを克服しなさい。

ラーマよ、もしこの繰り返されるサンサーラ(輪廻転生)を克服すれば、あなたはこの地上でブラフマー神やヴィシュヌ神のごとく生きるだろう!

なぜなら、妄想が消え去り、真我探究によって真理が実現され、心が平和になってハートが至高の真理に達し、心の中のあらゆる騒がしい想念の波が静まって永遠の安らぎに満ち、ハートが絶対の至福にあふれたとき、つまりハートの中に真理を見いだしたとき、そのときこそ、この世界そのものが至福の住処となるからだ。

そのような人に、得るべきものや避けるべきものは何もない。

彼は生の欠点に穢されず、その哀しみに触れられることもない。

傍観者の目には、彼は来ては去っていくように見える。

だが、彼は存在を現わすこともなければ消え去ることもないのだ。

彼には宗教的な勤めさえ必要ない。

すでに慣性を失った過去の潜在的傾向の影響を受けることもない。

心は不安や疑いを棄て去り、彼は自己の本性である至福の内に安らいでいる。

そのような至福は、他の方法ではなく、真我の知識によってしか得られない。

それゆえ、人は絶えず真我の知識に心を向けなければならない。

ただこれだけが人としての義務なのだ。

聖典や聖者を無視する者が、真我の知識に達することはない。

そのような愚かさは、この世のすべての病気よりも有害だ。

それゆえ、人は真我の知識に導くこの聖典に誠実に聞き入るべきである。

この聖典を得た人が、無知という盲目の井戸にふたたび落ちることはあり得ない。

ラーマよ。

もしもサンサーラの哀しみから解放されたいなら、私のような聖者の有益な教えを受けて自由になりなさい。

ラーマよ。

この恐るべきサンサーラ(輪廻転生)の大海を渡るためには、永遠不滅なるものに頼らなければならない。

永遠なるものの内に心を休め、完全に自己を制御した心安らかな人、ただ彼だけが最上の人なのだ。

彼は快楽と苦痛が互いのあとを追い、打ち消し合うことを理解している。

それゆえ、その叡智の中には自己制御と平和がある。

このことを理解しない人は、燃え盛る家の中で眠っているのと変わらない。

永遠の叡智を得た人は、サンサーラから解放され、ふたたび無知の中に生まれることはない。

人はそのような不変の真理が存在することを疑うかもしれない!

もし存在しないとしても、永遠なるものを求めて生の本性を探究することは、人生の変転で生じる苦痛を和らげるだろう。

だが、もし存在するとすれば、それを知ることで人は自由になるのだ。

儀式や、巡礼や、富によって「永遠なるもの」に到達することはできない。

それはただ自己の心を克服し、叡智を培うことによってのみ達せられるのだ。

それゆえ、神々や、半神半人や、人間は、歩いていようと、眠っていようと、座っていようと、常に叡知の成果である心の克服と自己制御を求めるべきだ。

心が安らぎ、純粋で、平静で、妄想や幻想や渇望から自由であれば、何を求めることも拒むこともなくなる。

これが自己制御、つまり心の克服であり、以前に私が語った四人の解脱の門番の一人である。

あらゆる善や幸運は自己制御からあふれ出す。

あらゆる悪は自己制御によって追い散らされる。

この世の喜びもあの世の喜びも、自己制御の喜びには比べようもない。

自己制御で体験された喜びは、類なきものだ。

誰もが自己制御された人を自然に信頼するようになる。

誰もかれを憎むものはいなくなる。

鬼や悪魔でさえも。

ラーマよ。

自己制御はすべての身体的または精神的な病気の最高の治療法だ。

自己を制御すれば、食べ物はさらに美味しくなる。

自己制御の鎧を着る者は、悲しみに悩まされることもない。

彼は快いものや不快なものを聞くときも、触れるときも、見るときも、嗅ぐときも、味わうときも、意気高揚したり、意気消沈したりすることはない。

彼は自己制御されている。

すべての生きとし生けるものを等しい目で見、快楽と苦痛の感覚を制御した人が自己制御された人だ。

人々とともに生きながら、人々に影響されない人、得意がることも憎むこともない人。

それが自己制御された人だ。』

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

 

『ある人たちは真我の智識に異なった段階があると信じています。
真我はあなたが知っていようがいまいが、常に実現されているのです。
彼らは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は直接的知識であり、間接的知識ではないと議論します。
真我の知識(Atman-Jnana)は不幸を消し去りますが、真理を聞くことだけではそれを起こりません。
ですから、たとえ直接的であっても、その知識は不動のものではないということです。
知識が確立されない原因は、心の潜在的傾向(ヴァーサナ)が現れることにあります。
ヴァーサナが取り除かれたとき、真我の知識(Atman-Jnana)は揺るぎないものとなって実を結ぶのです。
別の人たちは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は、間接的知識だと言います。
真理についての沈思黙想(マナナ)によって、真我の知識は断続的ながらも直接的なものになります。
それを断続的にさせるのはヴァーサナなのです。
ヴァーサナはマナナの修練の後も、さらに強烈な勢いで湧き上がってきます。
そのため、それは抑制されなければなりません。
「私は身体ではない」ことを油断なく覚えていることと、マナナにおいて得られた直接的体験を固守することによってヴァーサナは抑制されます。
そのような修練はニディディアーサナ(真理の一点に心を集中させること)と呼ばれ、それがヴァーサナを消し去ります。
そうして初めてサハジャ(自然)の境地が開かれるのです。
それが確実な真我の知識(Atman-Jnana)です。
マナナによる直接的体験では、不幸の破壊も束縛からの解放(モークシャ)も得られません。
なぜなら、ヴァーサナが周期的に現れ、真我の知識を制圧するからです。
それゆえ、それはまだ弱いものですが、ニディディアーサナによってヴァーサナが根絶されたとき、初めて真我の知識(Atman-Jnana)は確立されるのです。

(ラマナ・マハルシとの対話より)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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