永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(44)「死」④

前々回から、「死」について、死のプロセスで起こることなどを中心に、ご紹介しています。

「死」という現象は、人間には避けることの出来ない最後のライフ・イベントと言えますが、あまり多く語られることがないために、必然の出来事であるにも拘わらず、多くのヴェールで覆われており、死後の世界のことも含めて、実態はほとんど知られていません。

 

このテーマでの記事は、今回が最後となりますが、前回同様、最初にスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「死の超越」、そして最後に、チベット仏教において、臨終の際に唱えられるお経が紹介されている「チベット死者の書」から、ヨーガと関連が深いと感じられる箇所を、ご紹介します。

 

これらご紹介する文章の中には、生と死を繰り返す「輪廻転生」からの「解脱」についての多くのヒントが書かれていますので、ヨーガや瞑想修行を行なう上で、何に注意すれば良いか?または、何を心に留めて実践すべきか?が、見えて来ることでしょう。

 

ここに書かれてあることは、高度な修行の成果と言えるものですが、けっして人間には手が届かない実現不可能な結果という訳ではありません。

(ナーナ先生は、良いお手本として、クンダリニー覚醒によって、そのことを実証して下さっています)

 

死のプロセスを通り抜ける一連の身体に起こる現象は、一般的な常識は通用しないと言えるような通常私たちが日常で経験しているものとは大きく異なりますが、ヨーガを修行する中では、似たような体験は起こり得ます。(それ故、聖者の方々や卓越したヨーギーは、死のプロセスを語ることができるのです)

一般的には、理解することが難しいために、広く共有されることなく、死のプロセスや死後の世界についての多くは、禁忌として隠されてきた側面がありますが、「死」は、身体に起こる生理的現象であると同時に、生と死の仕組みを理解することで、人間の宿命である「死」を超えて行く「解脱」への可能性が芽生える第一歩とも言えますので、「死」についての理解は、とても大切な知識であると言えます。

 

ヨーガにおける「解脱」とは、生と死の仕組みを知ることから始まる、と言っても過言ではありません。

そして、それこそが、今回、人間として生まれて来た目的とも言えるわけですから、「死」という現実を直視し、「死」について、少しでも理解を深めることが、人生の最終的な目的である輪廻からの解脱、生と死の繰り返しを乗り越えて行くために必要不可欠とも言える大切な準備であると言えます。

 

 

Interval between Death and Rebirth(生と死の間の間隔)

 

人々は、肉体を離れる時間と再び生まれる時間の間の経過する正確な期間を知りたいと欲する。

魂は、一年で新しい身体を手に入れるのだろうか?

十年かかるのだろうか?

地球次元に再誕する前に、微細次元上では、魂はどのくらい長く生きるのだろうか?

これらは、幾つかの疑問である。

主に、二つの要因がこの問題を決定する。

それは、個人的なカルマと死の前の最後の印象である。

それは、数百年から数カ月まで、さまざまであるかもしれない。

微細次元である他の次元で、彼らのカルマのいくつかを成就する者は、肉体に入る前にかなりの時間をとる。

地球時間の一年が、天界におけるたった一日として過ぎるために、間隔は非常に長い。

外国人の旅行者が、或る古代の遺跡の堂々とした廃墟に驚き、賞賛するのを見ながら、近くに住む聖者は、何世紀も前に遺跡を作り上げた、と言ったと引用される事例がある。

時々、強い切望をもった非常に好色な人、或いは、強い執着をもった人は、早く生まれ変わる。

また、人生が暴力的な死や、或いは、突然の予期しない事故により、人生が中断された場合には、個の魂は、非常に速く生命の糸を再び始める。

通常、このような瞬時の再誕の場合には、個の魂はしばしば、それ以前の人生の出来事の多くを覚えている。

それは、過去の親戚や友人を認識し、古い家や親密な事柄を見分ける。

これは、時々、非常に風変わりな展開に導く。

殺された人が、再誕し、彼の死に方を明言し、殺人者との一致を明らかにしたといういくつかの例がある。

輪廻した個人は、時々、判断を誤らずに、彼によって隠されていた宝を摘発する。

たいていは、この記憶は残っていない。

これは、正に、全知の存在によって贈られた祝福である。

このような記憶力は、われわれの現在の人生を大いに複雑にするであろう。

過去は、思い出すことが良かったり、助けになるような時まで、あなたには隠されている。

あなたが完全に達し、サイクルの最後に到達すると、すべては明かされ、あなたは一つの人格上に織り交ぜられた命の数珠を見るだろう。

しかし、このような瞬時の再誕の場合は、一般的ではない。

通常は、平均的な個人にとっては、死と再誕の間の間隔は、たまたま地球時間の時間で測ると、かなりの期間になる。

多くの善いカルマを為した人は、再び生まれる前に、天界で多くの時間を過ごす。

霊的に進んだ人々である偉大なる魂は、輪廻転生する前に、長い時間待つ。

死と新しい誕生の間にある期間においては、故人の魂、特に人が精神的に霊的に発達していると、もし必要が起こるなら、地球次元に、しばしば物質化することができる。

それは、人間の形を取り、話し、実体的な感触で感じさせることさえできる。

このような幻影の写真を撮ることは、可能である。

このような物質化した形は、通常の視覚には見えないアストラル体とは異なる。

それは、物質的な身体に対する微細な“生き写し”であり、正しく片割れであり、死後の個人の魂が旅をする乗り物を形成する。

しかしながら、アストラルな意識は、あなたに誕生と死からの自由を保障することはできない。

オカルトやスピリチュアルは、究極の解放をけっして与えることはできないし、来世の十分な秘密を明らかにすることはできない。

霊的な実現と真我の智識だけが、死を超えた死と生の神秘を明らかにするであろう。

 

 

Be Not Afraid of Death(死を恐れるな)

 

死は世俗的な人には、辛いことである。

ヨーギーや聖者は、真の探究者でさえ、死の恐れは持っていない。

願望のない人は、彼が死ぬ時、けっして泣きはしない。

完全に達したジニャーニは、けっして死なない。

彼のプラーナは、けっして出発しない。

あなたの最も主要な義務は、来世の平和的な人生のための準備である。

死の恐れを克服しなさい。

死の恐れの克服、死の克服は、すべての霊的な鍛錬の最も高度な統合である。

すべてのヨーガの鍛錬の一つの目的は、恐れなく、喜びに満ちて、死を迎えることである。

人は、死を恐れる。

年を取ると、彼は神について考えようとする。

もし彼が、少年時から神を思い出すならば、彼は、年老いて、豊かな霊的な収穫を受けるだろう。

ビーシュマは、彼の命令で死んだ。

サヴィトリィは、彼女の夫サッチャヴァンを純潔の力を通して、生き返らせた。

マーカンディヤは、シヴァ神の礼拝を通して、死を克服した。

あなたもまた、ブラフマチャリアの力と知識、献身を通して、死を克服することができる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『ヨーガの達人は、死からさらに多くのことが学べることを発見しました。

死は単なる永遠への魂の旅における必要な休止ではありません。

それは、人の意志で使うことができる通路であり道具なのです。

これを理解するために、再びカタ・ウパニシャッドに戻ります。

ヤマは、体を王宮と呼びました。

王はアートマンです。

ヤマは、王宮への11の門を述べました。

この門のうち7つは感覚的なものである、2つの眼、2つの耳、2つの鼻孔、1つの口です。

さらに3つの門は、臍と生殖器官と排泄(はいせつ)器官です。

最後の門は、通常は知られていない器官ですが、脳の中央にあり、頭頂に位置する泉門であるブラフマランドラと呼ばれているものです。

それは、アートマンである王の座であり、永遠の座なのです。

この座より、アートマンはすべての随行者である、心、知性、知覚器官、全体の感覚を支配し、命令します。

最初の10の門はこの世の生への通路です。

ブラフマランドラは、神聖で永遠なる生への入り口です。

普通の人の場合は、生命力は、特にその人の最も強烈な願望の座であった10の門のいずれかを通って離れていきます。

完成されたヨーガ行者は、11番目の門を通って離れていきます。

ウパニシャッドは、違いを強調し、これらすべての門の王はアートマンであると強調しています。

アートマンは、仕えられるべきものであり、そのやり方は、知性や心、感覚をコントロールすることにより、11の門における活動を制することなのです。

ヨーガ行者は、これらの入り口をコントロールする方法や、アートマンを発見し仕える方法について知っています。

彼らは、生まれ変わりの神秘を理解するために、ブラフマランドラを使うことを学んでいるのです。

永遠の世界と永遠の生への入り口が、十分に統制されると、そのとき、この世の生と永遠の生との間のつながりが理解されます。

死の惨めさと死に伴う恐れの大きな苦しみは、消滅します。

感覚、思考の波、心と体のエネルギーを含む人間を構成するすべての要素が調和するとき、アートマンは現れます。

死は、体の習慣です。

どんな化学的な構成が似た体でも、変化し滅び、死ぬことになっているので、誰も同じ体で永遠に生きる人はいません。

必ず死ぬことになっているものにしがみつくことは、恐れと惨めさを作り出します。

その執着は、自然であり物質的な面だけに焦点を合わせる人々により分かち合われます。

彼らは、全体に気付いていないので、苦しむのです。

サマディにおいて最終的に最高点に達する瞑想は、この体にしがみつくことからの自由を約束しています。

瞑想を通して、11の門のコントロールは達成されます。

そのとき、人は心、体、魂への自制力を持ち、全体に気づくようになります。

瞑想の技術には宗教的な教義はありません。

ブラフマランドラは、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。

そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマディを通して可能です。

サマディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。

同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。

このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。

これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。

ヤマは、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマディの状態を述べました。

彼は言いました。〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。それが、サマディの状態である〟

サマディの最高の状態は、全く死とは似ていません。

死が無知の暗闇における経験である一方で、サマディは悟りの状態です。

サマディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。

通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。

魂は、死後、心に執着したままです。

しかし、個人は深い眠りにいます。

自覚はありません。

ヤマは、ナチケータに語りました。

サマディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〟

関係性の世界においては、魂は3つの異なる状態を経験します。

目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。

トゥーリヤとして知られる4つ目の状態においては、アートマンは魂の3つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。

深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥーリヤにおいては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。

超越意識であるトゥーリヤは、サマディと同意語です。

サマディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。

深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。

サマディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。

それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。

サマディには、2つの種類があります。

形があるものはサヴィカルパで、形のないものはニルヴィカルパです。

サヴィカルパ・サマディの間、ヨーガ行者は、自分自身の肉体的精神的な状態とプロセスを、それらは彼には属していないのですが、見ます。

彼は、完全に切り離されています。

これは、思考者、対象物、そして(思考の)意味すべてが、この状態の間、現在に在るため、サヴィカルパ・サマディと呼ばれます。

ニルヴィカルパ・サマディにおいては、人はすべての執着から自由です。

この深い状態では、思考の意味と対象物は、存在しません。

知っている者のみが存在します。

ニルヴィカルパは、ヨーガ行者が永遠なる至福と溶け合い、アートマンである真の自己と融合している最高の状態です。

サマディの経験は、述べることができません。

なぜならば、思考、言葉、行いを超えた他に類を見ない状態だからです。

人間は数えきれない束縛に縛られています。

サマディが達成されると、探求者は永遠に自由になります。

これは、死のないヨーガ行者の永遠の住居である最高の状態です。

死後の生は、死の境界が超越される状態であるサマディに到達した人々により、正に今生のここで経験されることができます。

生の知られた部分は、2つの点である誕生と死の間に引き伸ばされている線です。

人の存在の大部分は、これら2つの知られた点を超えては、不可知であり不可視なのです。

通常の人は、死と呼ばれる移行についての知識がありません。

しかし、悟った、あるいは、熟達したヨーガ行者は、この世とあの世を理解しています。

11の門をコントロールすることを学んだ人々は、何があの世であるかを知っており、その知識は、彼らに生だけでなく死への勝利をも与えます。

この勝利した人々は、死の気まぐれには従属していません。

彼らは肉体を脱ぎ捨て、自分自身で決めたときに、自分自身のコントロールの下で死にます。

彼らは、意識的に11番目の門であるブラフマランドラを通過します。

この門を通ることを知っている人は、この世を彼が知っているのとまったく同じように、あの世について知っていると言えます。

もはや、この世とあの世の間にはどんなヴェールもありません。

熟達したヨーガ行者は、いろいろな方法で、体を脱ぎ捨てることを学びます。

私たちは、ここでは、通常の死を横に置いておいて、死ぬという行為に立ち向かう別のやり方があるということを単にわかってもらうために、いくつかのヨーガ行者の古典的な技法について、少し触れておきます。

ヨーガ行者によって使用されている〝死ぬ〟という一般的な単語は、マハー・サマディです。

サマディは、人類により到達可能な静寂の最高の状態に対する単語です。

マハーは、偉大な、という意味です。

ヨーガ行者は、死と同じくらいシンプルに、人生の終わりを死というより、体を脱ぎ捨てる、もはや必要なくなったものを手放す、という言い方をします。

ナチケータは、意識的に体を手放す技法について説明されました。

ヤマは、彼にすべてのナディ、あるいは体のエネルギー通路のうち、最も重要であるのがスシュムナであると説明しました。

スシュムナは脊柱の中央を通り上へと流れます。

スシュムナを通して、クンダリニーという霊的なエネルギー、あるいは神聖なる力が流れます。

スシュムナは自由のキーポイントです。

死の際に、スシュムナに入ることができる人は、人生の最高のゴールであるブラフマンに到達します。

他のすべての道は生まれ変わりの道です。

体を離れるために、ヨーガ行者は、クンダリニーという眠っている蛇の力を目覚めさせ、このエネルギーはスシュムナの通路に入ります。

それは、眉間の間の2つの花弁の蓮の花であるアジナ・チャクラまで上がります。

ここでヨーガ行者は、プラーナとして知られる体の他のすべての生命エネルギーを集め、コントロールします。

彼は、自分の意識を現世的な存在感や感覚、5つの下位のチャクラから引き出します。

彼は、アジナ・チャクラに、それから次第に、クラウン・チャクラであるサハスラーラに向かって集中します。

頭頂に集中している間、彼は泉門を通り体を離れ、最終的に絶対的ブラフマンの領域まで上ります。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by Swami Rama)

 

 

『ああ、善い人よ。

チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)とチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)とシパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)の三つを汝は体験するであろう。

この三つのバルドゥの現出のうちで、昨日までのチカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)において、チョエニ・バルドゥ(存在本来のすがた)の光明が現れたが、汝はそれを覚ることができなかった。

そこで、汝はさらにここにまで彷徨ってこなければならなかったのである。

今から汝にはチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)とシパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)の二つが生じるであろう。

これから私によってお導きがなされることを、心を惑わせないで理解しようとすべきである。

ああ、善い人よ。

今や≪私は死んだ≫という、例のあのものがやってきたのだ。

この世界から外へ行くのは汝ひとりではないのだ。

死は誰にでも起こることである。

この世の生に執着や希求を起こしてはならない。

執着や希求を起こしたとしても、この世に留まることは不可能である。

汝は輪廻し彷徨いつづけるよりほかはないのだ。

執着してはならない。

善い人よ、チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)の状態において、どんなに畏怖させ恐怖におののかすような現出があても、汝は次の言葉をわすれてはならない。

そしてこの言葉の意味を心に思いつづけてゆくがよい。

それがお導きの大切な要点である。

「ああ、私にチョエニ・バルドゥが現れてきている今この時に、すべてについての恐怖・畏怖・戦慄の気持ちを捨てよう。

現れてきるものがなんであっても、自分自身の意識の投影したものであると覚るべきである。

これがバルドゥの現出であると見破らなくてはならない。

今は目的を達成しなければならない大変に重要な時機である。

この時に自分自身の投影である寂静尊と忿怒尊の神群を恐れることはやめよう」

このようにはっきりと何遍も繰り返し唱えることによって、その意味内容を心に思いつづけ刻みつづけるようにすべきである。

そして恐ろしく脅かす幻影がどんなに現れてきても、自分自身の投影であると確実に覚ることが大切な要点である。

それを忘れてはならない。

ああ、善い人よ、汝の身体と心とが離ればなれになるとき、存在本来の姿(法性)の純粋な現出があるであろう。

この現出は微妙であり、色彩と光に満ちている。

光輝に光り輝くであろう。

その本性は幻惑させ、汝をおののかせるものであり、初夏の野に陽炎が立ち昇るようにゆらゆらと揺れ動く。

これを恐れてはならない。

おののいてはならない。

おびえてはならない。

これこそ汝自身の存在本来の姿そのものの現れであると覚るべきである。

光の中から、存在本来の姿そのものが起こす轟音が大きな雷音となり、千の雷が一切に鳴り響くばかりにごろごろと響きわたるであろう。

これもまた汝自身の存在本来の姿そのものの音なのであるから、これを恐れてはならない。

おののいてはならない。

怒りを持ってはならない。

汝には習癖を作る力(ヴァーサナー、習気じっけ)から出来上がっている意識の身体(意成身いじょうしん)というものがある。

しかしこれは実質を持った血肉の身体ではないのである。

したがって音響・色彩・光明の三つからなるものが迫ってきても、それが何であっても汝に害を加えることはできない。

汝には死ぬことがないからである。

それが汝自身の投影であると覚りさえすればよいのである。

それはすべてバルドゥの現出であると知るべきである。

ああ、善い人よ、このように汝自身の投影であると覚ることができない場合には、生前に人間界にあった時にどのように熱心に、いかに瞑想(観想)を行なってきたとしても、現在のこの教誡(おしえ)に遭うことがないならば、色彩によって畏怖させられることであろう。

音響によって脅かされるであろう。

光明によっておののかされるであろう。

教誡(おしえ)のこのような大切な要点を理解することがなければ、音響・色彩・光明の三つの本質を覚ることができずに輪廻し彷徨うことになるであろう。』

チベット死者の書

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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