永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(48)「輪廻転生」④

これまで数回に渡り、「輪廻転生」について、ヨーガ的な視点から、その仕組みや現象的展開について、詳しく見て来ました。

 

肉体が消滅した後の死後のことは、生と言う現象世界の中では、これまで一度たりとも人類に明白な形で明らかにされたことがない秘密事項であるために、古今東西、いろいろな説が想像され、語られて来ました。

 

ここでご紹介していますのは、ヨーガにおける死生観であり、それは、「魂の輪廻転生」説を抜きにしては語ることができませんが、同時に、ヨーガにおいては、「輪廻転生からの解脱」も明らかにされているため、この宇宙では、「輪廻転生」は、終わりなく繰り返される現象ではなく、その繰り返しは終焉させることが可能であり、そのための方法があり、また、その方法についての詳細も、多くの聖者の方々の御言葉や、聖典とされている多くの書物の随所に、見出すことができます。

 

このテーマに関しましては、今回が最終回となりますが、最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次にラマナ・マハルシと質問者との間で交わされた会話からの抜粋、そして、最後に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、「輪廻転生」についてわかりやすく説明してくれていると感じる箇所をご紹介したいと思います。

 

これまでの過去記事では、聖者の方々の遺された御言葉を、その時取り上げたテーマに沿ってご紹介して来ましたが、それらに基づいて導き出される「唯一の真実」を思い出して頂けると、「輪廻転生」について、更に理解が深まることでしょう。

 

それは、「輪廻転生するのは、誰なのか?何なのか?」と言うことと、「私は、本当は誰なのか?何なのか?」ということに集約されます。

 

ジーヴァ(個のわたし)において、この二つの疑問に対する答えが、明確に真理に基づいた形で明らかになっているならば、「輪廻転生」するジーヴァ(個のわたし)は存在しない、という真実が、「輪廻転生」を消滅させることでしょう。

 

 

 

Birth in Lower Yonis(低い子宮の中の誕生)

 

ルシファー(悪魔)の化身である人は、一人もいない。

ある善い性質や善い性質によって促された行為は、悪い性質や彼らの行為よりも、常に優っている。

そして、人間は、次の誕生、低いか、高いかのどちらであっても、同じ種子から、魂の未来の進化へと進むのである。

一般的に、人は上向きに進化する。

より低い方への退化ではなく、より高い方への進化は、一般的には、自然の法則である。

しかし、例外もある。

もし人が、生まれながら悪魔的な特徴を帯びていて、高度に残忍な行為をするならば、もし彼が動物よりも悪いことを行うならば、もし彼が犬や猿のように行動するならば、彼は、確実に、次の生で人間として誕生するに値しない。

彼は、動物の子宮に誕生するであろう。

彼は、犬や猿、ロバとして生まれるであろう。

しかし、このような場合は、実際には稀である。

人が、凶悪な罪を犯しても、彼はこの身体に居住している間は、最大の罰を得ることができる。

そうなれば、彼が動物として誕生する必要はない。

人は、動物として誕生するよりも、人間の体でいる間に、彼の罪ゆえにより多く苦しむ。

人は、この世での厳しく苦しい経験を通して、学習する。

人が、いかに罪深く、残忍で、狂暴であろうと、彼は、苦しみ、痛み、後悔、トラブル、困難、病気、財産の喪失、貧困、愛する近しい親族の死を通して、彼自身を正し、教育する。

神は、神秘的なやり方で、罪人達を型に入れて、正す。

苦しみと痛みは、効果的な学習の力として働く。

それらは、逆戻りから彼らをくい止め、彼らを上向きへと引き上げる。

かつての罪人は、良い行いを始め、聖者の集まりを求め始める。

 

 

Cut the Knot of Birth and Deaths (生と死の結び目を切り離しなさい)

 

われわれが、どのような身体を纏っているかは、それほど問題ではない。

何がわれわれの想いであるのかが、大変重要である。

高い地位にある人間が、野獣の想いを持つかもしれない。

彼が、渇望や怒りへの犠牲になると、彼は、動物よりも悪い。

識別力がなく、卑猥な楽しみに溺れる、些細なことに癇癪を起すような人間よりも、牛の方が千倍も良い。

あなたが、将来どのような人生を受けるかについては、心配してはいけない。

現在の人生を有効に利用し、誕生と死からあなた自身を自由にしなさい。

神への献身を発揮しなさい。

さもしい願望を放棄しなさい。

他者に対して善いことをすることに一心になりなさい。

親切で良い人になりなさい。

ビシュヌ神は、三界の守護者である。

彼の創造のすべてのモノを彼の不滅の住居へと連れて行くという責任は、彼にかかっている。

彼に、彼の好きな道を通って、あなたを連れて行かせなさい。

彼に、あなたが人間、野獣、悪魔の身体である時に、あなたに解脱を与えさせなさい。

あなたの心(マインド)を、彼に集中させ続けなさい。

満開の蓮の花に吸い付く蜂のように、彼の蓮の花の足元にしがみついていなさい。

誕生と死のこの繰り返しにあなたを縛っている鎖は、あなたの願望である。

あなたがこの世の対象物を願望する限り、あなたはそれらを所有し、楽しむためにこの世に戻って来なくてはならない。

しかし、あなたの現世の対象物を求めるすべての願望が止むと、その時、鎖は壊れ、あなたは自由になる。

あなたは、もはや誕生する必要はない。

あなたは、解脱(Moksha)、或いは、最終的な解放に達する。

あなたは、あなたは神とは異なると思っているので、このサムサーラ(輪廻転生)で迷っているのだ。

もしあなたが瞑想やヨーガを通して、彼とあなた自身とを合一させるなら、あなたは不死と永遠の至福を手に入れるであろう。

永遠の智識を通して、カルマの束縛を断ち切り、最奥の真我であり、内なる支配者、アートマンの至高の平和を楽しみなさい。

あなたは、誕生と死の繰り返しから自由になるだろう。

罪から解放され、熱情から解放され、あなたは生前解脱者(Jivanmukta)、或いは、解放された賢者になるであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

質問者

「ウッダーラカは、(深い眠りの説明のように)すべてがサット(存在)から現れ出すと説明しました。

身体は食物を取り、食物は水を必要とします。

食物を消化するために、水は火を必要とします。

「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」によると、「光の輝きの源を探ること」(テージョ―・ムーラマンヴィッチャ)、それが「存在の中に融け入ること」(サット・パラスヤーン・デーヴァターヤーン)です。

もし私たちが「存在の中に融け入った」(サット・サンパンナハ)のなら、なぜ私たちはそれを悟らないのでしょう?」

 

マハルシ

「異なった花々から集められた蜜がハチの巣の中で塊となるように、そしてその一滴一滴がどこから集められたのかわかならいように、深い眠りの中や死におけるサット・サンパンナハでも、人々は自分の個としての存在を認識しません。

彼らは気づかぬうちにその状態に陥り、目を覚ましたときに以前の彼らの個人的特性を取り戻すのです。」

 

質問者

「たとえ異なった花々から集められた蜜でも、一塊となれば一滴一滴の特質を失ってしまいますが、蜜にはもともと個的な部分は存在しませんし、その源に戻ることはありません。

一方、深い眠りに入った後で目覚めた個人は、以前と同じ個人として目覚めます。

どうしてでしょう?」

 

マハルシ

「ちょうど海に流れ入った川がその個としての存在を失い、蒸発して雨水となって丘に降り注ぎ、やがて川となって海へと流れ着くように、眠りについた個人もその個としての存在を失いますが、過去の心の潜在的傾向(ヴァーサナー)によって、目覚めの世界にまた個人として戻ってきます。

このように死においてさえ存在(サット)は失われないのです。」

 

質問者

「どうしてそのようなことがありえるでしょう?」

 

マハルシ

「見てごらんなさい。

木は枝を切られても再び生えてきます。

生命の源が影響を受けないかぎり、それは生長し続けます。

同様に、死においてハートの中に沈み込んだ過去世の潜在的印象(サンスカーラ)も死に絶えることはありません。

それは機が熟せばハートから芽生え始めます。

ジーヴァはこうして生まれ変わるのです。」

 

質問者

「ハートの中に沈み込んだ微細なサンスカーラから、どうしてこの広大な宇宙が芽生えると言うのでしょうか?」

 

マハルシ

バンヤンの大木が小さな種子から芽生えたように、名称と形態をともなうこの広大な宇宙もハートから芽生えるのです。」

 

質問者

「もしその起源がサットであるなら、どうしてそれを感じられないのでしょう?」

 

マハルシ

「塩の山は目に見えても、水に溶けてしまえば見えなくなります。

それでもその存在は味によって知られるのです。

同様にサットは知性によって認識されなくとも、異なった方法、つまり超越的な方法で実現されるのです。」

 

質問者

「どのようにでしょうか?」

 

マハルシ

「密林で強盗に目隠しをされて置き去りにされた人が、道を尋ねて家に帰り着くように、無知で盲目になった人も、眼の開いた人に尋ね、自己の源にたどり着くのです。」

グルーパデーシャ(師の教え)-

ヴァーング・マナシ・サンパディヤテー、マナハ・プラーネー、プラーナステージャシ、テージャハ・プラスヤーン・デーヴァターヤーン・イティ。

死の瞬間、話す力は心の中に融け入り、心はプラーナ(生気)の中に融け入る。

プラーナはテージャス(光輝)の中に融け入り、テージャスはパラマートマン(至高の真我)の中に融け入る。(チャーンドギャ・ウパニシャッド)」

 

質問者

「もしそうなら、ジニャーニ(真我実現した人)もアジニャーニ(真我実現していない人)も同じように死ぬはずです。

なぜアジニャーニは転生し、ジニャーニはそうならないのでしょうか?」

 

マハルシ

「サッティヤービサンダ、つまり無罪の人は罪人とは違い、熱せられた鉄球に触れても焼かれないように、サッドブラフマ・サッティヤービサンダ、つまりジニャーニはサット(存在、真理)の中に意識的に融け入りますが、他の人は気づかぬうちにサットの中に入り、気付かぬうちに放り出されるのです。」

 

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質問者

「神智学は、タンハー、つまり再誕生への渇望について語ります。

タンハーの原因とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「再誕生への渇望は、輪廻転生を終焉させるために生まれ変わろうとする願望から起こります。

死を迎えようとしている霊魂は、現在の表面的な死の後で生まれ変わらなければなりません。

現在の死とは自己の真の本性を忘れることであり、それを思い出すことが再誕生です。

それは輪廻転生を終焉させます。

それが永遠の生なのです。」

 

質問者

「私はタンハーという言葉の意味を「生にしがみつくこと」と受け取っています。

それは永遠の生への欲望なのです。」

 

マハルシ

「間違いなくそのとおりです。

その欲望はどうして現れるのでしょうか?

なぜなら、現在の人生が耐え難いものだからです。

なぜでしょうか?

なぜなら、それはあなたの真の本性ではないからです。

もしそれがあなたの真の本性であるなら、どんな欲望もあなたを困らすことはないでしょう。

現在のあなたの状態があなたの真の本性とどのように異なると言うのでしょう?

真実のあなたは、霊性です。

しかしこの霊性は誤って自身を身体と同一視しています。

身体は心によって投影されたものです。

心そのものは霊性から生まれました。

それゆえ、誤った自己同一視が終焉すれば、言葉では言い表せない永遠の至福と平和が訪れるのです。」

 

質問者

「生命は身体に属し、転生とは別の身体に生まれ変わることを意味しています。」

 

マハルシ

「単に身体を変えるだけでは意味はありません。

この身体に結びついている自我が別の身体に移し替えられるのです。

どうしてそれで満足できるでしょうか?

しかも生命とは何でしょうか?

生命とは存在であり、あなたの真我です。

それが永遠の生命というものです。

さもなければ、あなたが存在しないときなど想像できるでしょうか?

その生命は現在身体に条件付けられています。

あなたは自己の存在と身体とを誤って同一視したのです。

あなたは条件付けのない生命です。

心の投影である身体があなたに取りついたため、今のあなたは「私は身体だ」という観念に苦しめられています。

もしこの観念が消え去れば、あなたは真我として在るのです。

誕生する前のあなたは、どこでどのようにしていたのでしょうか?

あなたは眠りの中にいたのでしょうか?

どうしていたのでしょうか?

あなたは誕生する前も身体なしで存在していたのです。

それからそこに自我が立ち現れ、そして心が身体を投影しました。

「私は身体だ」という観念はその結果です。

身体が存在するため、あなたは「身体は生まれ、そして死ぬ」と言います。

そしてその考えを自己に置き換え、生まれるのは自分で、死ぬのも自分だと考えるのです。

実際、眠りの中のあなたは身体なしで存在していました。

しかし今は身体とともに在ります。

真我は身体なしでも存在できますが、真我なしに身体が存在することはできません。

「私は身体だ」という考えは単なる無知であり、身体は真我から分離していないという考えが知識なのです。

それが知識と無知との違いです。

身体とは心の投影でしかありません。

心とは自我であり、自我は真我から生まれます。

身体という観念はあなたを真我から逸脱させ心惑わせます。

身体や誕生は誰に起こるのでしょうか?

真我、霊性にではありません。

それは真我から分離していると想像する非真我に起こるのです。

分離の感覚がそこにあるかぎり、苦悩をもたらす想念は起こり続けるでしょう。

しかし存在の源に戻ることができれば、分離の感覚は消え去り、心の平安が訪れるのです。

石を真上に放り投げたときのことを考えてごらんなさい。

それは源を去って上昇し、それから下降し始め、ついに源に戻るまで動きの中にいます。

源には休息があります。

同じように、海の水は蒸発し、雲となって風に吹かれ、水滴となって雨として落ち、水流となって丘を下り、ついには川となって源である海に帰り着きます。

源にたどり着いたとき、初めてそれは安らぐのです。

ですから、わかるでしょうか。

源から分離しているという感覚があるかぎり、そこには不安と動揺があり、分離の感覚が失われるまで動きはやみません。

あなたもまた同じです。

現在のあなたは霊性である真我から分離して自分を身体と同一視しています。

偽りの同一性が消え去る前に、源に戻らなければなりません。

そうして初めて、あなたは幸福になるのです。

金は宝飾品ではありません。

しかし宝飾品は金以外の何ものでもありません。

宝飾品がどのような形を取ろうとも、その本質はただ一つ、金です。

身体と真我についても同じことが言えます。

唯一の真理は真我です。

自身を身体と同一視しながら幸福を探そうとすることは、ワニの背中に乗って河を渡ろうとするようなものです。

身体との自己同一化をもたらすのは、外に向かってさ迷う心です。

そのような状態にとどまるなら、混乱は際限なく続き、心の安らぎはありえません。

あなたの源を探し出しなさい。

そして真我に融け入り、「一なるもの」として在りなさい。

再誕生は現状への不満と、不満のないところに生まれたいという欲望を示しています。

誕生は身体のものでしかないため、真我に影響を与えることはできません。

身体が消滅した後でも真我は在り続けます。

永遠の真我とはかなく消え去る身体との誤った自己同一化、それが現状への不満の正体です。

身体とは自我の必要付属物です。

自我が殺されれば、真我はその栄光とともにあきらかになるでしょう。」

 

質問者

「恐れとは存在を失うという可能性の結果です。

それは身体に根づいたものです。

眠りの中では、人は身体に気づいていません。

人は恐れることなく喜んで眠りにつくというのに、死ぬことは恐れるのです。

どうしてこのような違いが起こるのでしょうか?」

 

マハルシ

「眠りを求めたり死を恐れたりすることは、心が活動しているときだけで、眠りの状態や死の状態の中では起こりません。

心は「身体を持つ実体が眠りの間も存続し、眠りの後に再び現れる」ということを知っています。

それゆえ、眠りに恐れは起こらず、その代わりに身体的存在がなくなることの喜びが求められるのです。

一方、心は死が起こった後、再び現れるかどうかに確信がないため、それを恐れるのです。」

(ラマナ・マハルシとの対話より)

 

 

 

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。

感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。 

死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触するようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。

これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマン接触するにはどうしたら可能でしょうか? 

もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。

智慧と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟らされることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。

無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰ってきます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。

生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何度も何度も生まれます。

この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

科学的なアプローチは、原因と結果の法則に一致しているもっともらしい理論として取り扱うことができるだけです。

それが、物質的な宇宙の正に基本なのです。

ウパニシャッドの師たちは、天国か地獄における永遠の生まれ変わりの理論には感銘を受けませんでした。

なぜなら、このような仮説は、原因と結果の不釣り合いな関係に基礎を置いているからです。

地球上の人生は短くて、誘惑に満ちています。

魂に数年の、あるいは全生涯であろうと、その過ちのために永遠の罰を与えることは、物事のあらゆる釣り合いを捨て去ることです。

古代の預言者たちは、魂の体現をもたらすのは、満たされない願望であると示して、合理的な基準で、生まれ変わりの理論を発展させました。

別の体を手に入れる前に、魂が死の移行期で過ごさなくてはならない時間の長さは、ただ、願望の強さに依存しています。

自然に設定された厳しくて固定した法則はありません。

信じる、信じないは、人の霊的な向上にとって重要な考えではありません。

事実は、もし、全能の神が親切で慈悲深く、人間の運命を決定するのなら、彼の創造において不平等はないということになります。

平等は絶対の法則であり、不平等は人間が作ったものなのです。

生まれ変わりの理論によると、私たちはみんな自分の今生とあの世の生に完全に責任があります。

各人は、自分の過去の個人的なカルマを通して形作られた世界に生まれます。

魂は、体の現れを通して、願望を満たした後、体を脱ぎ捨て、新鮮な形を身につけます。

私たちの願望と傾向に応じて、私たちは、微妙な点でいろいろな段階や浄化や微細な鞘のレベルを構成しているより高い、あるいはより低い次元に生まれます。

私たちは、私たちが想いと行いを通して、自分の未来の運命の創造者であることを忘れてはいけません。

神は邪悪な者を罰し、善行者に報いると考えることは愚かなことです。

私たちは、次の生まれ変わりの要因を意識的に選んではいません。

それらは、私たちの以前の行動、想い、願望によって、決定され、あるいは選択されます。

人を表面的に人格として決定する、この決まりきった型である溝の蓄積、あるいはサンスカーラは、ある誕生から次の誕生へと旅をします。

溝は砂漠の砂丘のように、人の経験と意志に応じて、移ります。

それらは、異なる人格と異なる姿を創造しながら、しかしすべては究極の自由に向かって動きながら、形を変え、大きな時間の広がりに影響を与えます。

溝は、姿の特徴を決定します。

男性か女性か、どんな親か兄弟か、どんな身分か、どのくらいの苦しみ、どのくらいの喜びか、等々。

それについて任意のものはありません。

誕生は、展開している個人の魂の霊的な必要性に完全に釣り合っています。

地球、あるいは天国における生の一時的な性質を悟った人々は、生と死の終わりのない繰り返しを避けることを求めます。

彼らは、けっして戻らない天国を超えた最高の実在であるブラフマロカを熱望します。

悟った個人は、完全にすべての状態で、人間の体で生きている間も、死の状態の間も、気づいています。

ブラフマンを知る者は、どんな領域にも、あるいは天国にも行くことはありませんし、常にそうであるもの――すべての自己であるアートマン以外の何かになることもありません。

物質的な外観を落とした後は、悟った魂は、永遠の至福と幸福、無限の愛と智慧の状態にあります。

アートマンを知った者は、眠りから目覚め、もはや夢を見ない人のようです。

視覚を取り戻した目の見えない人のようです。

アートマンの直接体験を持つ解放された魂は、他人に仕えるために戻る選択をしないならば、物質的な次元には戻りません。

このようなジーヴァ・ムクタ(生前解脱者)は、もはや束縛対解放のような二元に身を投げることはありません。

悟った魂は、他の人間を盲目にしているカルマのすべての撚糸(よりいと)を燃やします。

このような人は、自由の意志をふるい、生まれ変わるべきか、絶対と融合すべきかを選択します。

もし選択が生まれ変わりなら、その誕生の環境は、また意識的に選択されます。

仏教によると、このような魂は、アルハット(阿羅漢)と呼ばれます。

死の王(ヤマ)によって明らかにされた秘密は、死後、どこに生きるのかを知りたいと思うすべての人間にとって、すべての秘密の中の最も大きな秘密です。

通常の人間の場合には、これは来たる多くの誕生にとっては秘密のままです。

生と死の神秘やあの世の生は、ごく少数の幸運な人々にのみ知られているのです。

人間は、物質世界や、いかに自然を凌(しの)ぐかについて、非常に多くのことを学びます。

彼らは、誕生の秘密を知るために一生懸命に働き、誕生のプロセスをより楽に苦痛が少なくなるようにする方法を見つけました。

しかしながら、彼らは死に対し適切に準備することを学んでいません。

死は恐ろしいものではありませんが、恐ろしいのは、死の恐れです。

死は、ほとんど中身のない、まったく喉の渇きを癒さないカスを噛んでいるようなものであり、この世を楽しむことに彼らの時間とエネルギーを浪費した人々に慰めを与える母親のようなものです。

死は、点であって、終止符ではありません。

死はただの体験であり、誰も逃れることができない変化でしかありません。

その準備をしない人は愚か者です。

真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。

 

魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。

話す、掴む、動く、妊娠する、排泄するという行為の5つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と5つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。

仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されていません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。

生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの2つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディを達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

 (聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く byスワミ・ラーマ)

 

 

 

 

アルジュナ問う

「信仰を持っていたが 持続できなかった人

はじめ真我実現の道を進んだが 俗心に負けて

ヨーガを完成できなかった人々は

その後いかなる運命をたどるのですか?

 

大力無双のクリシュナよ そのような人は

至上者(ブラフマン)への道をふみ外して

どの領域にも立場がなくなり

ちぎれ雲のように消滅するのですか?

 

クリシュナよ これが私の疑問です

ぜひこの不安をとり除いて下さい

私の疑惑を打ちくだくことのできるのは

あなたをおいて ほかにありません」

 

至上者(バガヴァーン)答える

「プリターの息子よ 真理を求めて

めでたき行いをした人々は

この世でも霊界(あのよ)でも破滅することはない

友よ 善を為した者は決して悪道に堕ちない

 

挫折したヨーギーは次生において

純真清浄な者たちの住む星界に往き

長い間そこの生活を楽しんだ後で

地上の徳高き豊かな貴族の家庭に生まれる

 

または大いなる智識をそなえた

ヨーギーの家庭に生まれてくる

地球上(このよ)において このような誕生は

まことにまことに稀なのである

 

アルジュナよ そのような家庭に生まれて

彼は前世における神聖な意識を

よみがえらせて その力を一新し

再び最高の目的に向かって努力するのだ

 

前世で聖なる意識をもっていた徳により

彼は我知らずヨーガの思想に魅かれる

探求心の強い求道者は常に

宗教儀礼を励行する者よりも勝れている

 

幾多の誕生をくりかえして修行を重ね

誠実に努力して霊的向上に励み

すべての汚濁(よごれ)を洗い清めたヨーギーは

ついに至上の目的地に着くのである

 

ヨーギーは苦行者よりも偉大である

ヨーギーは哲学者よりも偉大である

ヨーギーは有益な働き手よりも偉大である

故にアルジュナよ ぜひヨーギーになりなさい。

 

だが全てのヨーギーのなかで最勝の人は

大いなる信をもって わたしに帰命し

常に信愛を捧げて礼拝奉仕する人だ

彼はわたしの最も親しい身内なのだ」

(バガヴァッド・ギーター 第6章37ー47)

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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