永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(49)「カルマ」①

前回まで数回にわたり、ヨーガやウパニシャッドで説かれている「輪廻転生」について、ご紹介しました。

 

今回からは、まだ日本人の私たちには、あまり馴染みのない「輪廻転生」からの解放(解脱)に至るプロセスにおいて、また、生きていく上での智慧としても、非常に重要である(誰もが避けては通れない、という意味において)「カルマ」について、ご紹介いたします。

 

「カルマ」とは、”「原因と結果の法則」を通して働く行為”のことを指しています。

(日本語では、「業」と訳され、仏教などでも説かれることがありますが、ここでは、ヨーガ、ウパニシャッドの視点からの解説となります。)

 

今回は、「カルマ」の概要、仕組みや働きについて、見て行きたいと思います。

 

ヨーガやウパニシャッドでは、「カルマ」には、三種類あるとされていますので、先ず、その三種類の「カルマ」からご紹介いたします。

 

①サンチタ・カルマ(前世から積まれてきたカルマの蓄え)

 

②プラーラブダ・カルマ(サンチタ・カルマの一部で、現世で清算されなければならないもの。カルマの法則は人間の活動における決定論を意味するため、プラーラブダはしばしば運命と訳されている)

 

③アーガーミ・カルマ(現世で積まれた新しいカルマ。この一部が来生に持ちこまれる)

 

私たちの人生を植物に例えるならば、私たちは、今、種子から芽が出て、枝葉が伸び、蕾がついて花が咲き、実がなるという一連の流れの中にいる、と見ることができます。

そして、沢山ある種子の中から、一粒の種子が芽吹き、"わたし"となり、今、"わたし"は、世界にたった一つの花として咲いている、ということになりますが、この一連の流れのすべて(人生)が、「原因と結果の法則」に従って展開しており、また、その”わたし”を決定する因子としての種子も、「原因と結果の法則」によって生じた種子である、ということになり、現在の私たちの人生は、過去に蒔いた種が結実する過程(プロセス)と見ることができます。

また同時に、今に生きながら、未来に結実することになる種子を育んでいる、ということにもなります。

 

このような現象が繰り返し起きている、というのが、所謂「輪廻転生」と言われているものですが、ヨーガやウパニシャッドでは、「カルマ」(原因と結果の法則)からの脱却(解放=解脱)について、種子は燃やして消滅させる(根絶やしにする)ことで、次の結果(人間としての再誕)を生じさせない方法(解脱)がある、と説いています。
(仕組みとしては、種子が消滅すると、次に芽吹くことが起きませんので、輪廻転生からの解放(解脱)となります)

 

この三種の「カルマ」の知識を元に、これからご紹介しますSwami Sivanandaの「Bliss Divine」から「カルマ」に関するメッセージとラマナ・マハルシの御言葉をご紹介したいと思います。

 

 

Karma(カルマ)

カルマは、行動、或いは、行為を意味するサンスクリット語である。

いかなる身体的、或いは、精神的な行為も、カルマである。

考えることは、精神的なカルマである。

カルマは、現在の人生と前の誕生におけるわれわれの行動の総合計である。

カルマは、行為だけでなく、行為の結果をも意味している。

行為の結果は、実際には離れたものではない。

それは、行為の一部分であり、それから分けられることはできない。

カルマの法則は、因果の法則である。

原因があるところでは、結果が生み出されなければならない。

種子は、木にとっては原因であり、木は結果である。

原因は、結果の中に見出され、結果は、原因の中に見出される。

結果は、原因に似ている。

これは、終わりのない原因と結果の宇宙的な繋がりである。

いかなる連鎖における繋がりも、不要なものではない。

この世は、この基本的な生命の法則に基づいて動いている。

この法則は、容赦のないものであり、不変である。

この総括的な法則は、身体的で精神的な次元のどこでも作用する。

いかなる現象も、この強力な法則の作用からは逃れられない。

自然のすべての他の法則は、この基本的な法則よりも下位にある。

その背後で、肯定的で、明確で、否定し難い原因を持たない出来事は、起こらない。

戦争の勃発や彗星の出現、地震や火山噴火の発生、伝染病、嵐、雷、洪水、身体の病、運、不運の発生などすべては、それらの背後に明確な原因がある。

原因の総括的な法則は、行為と反応の法則、償いの法則、報いの法則を含んでいる。

これらすべての法則は、一般的な、すべてを包括する見出し、すなわち、カルマの法則の部類に入る。

 

 

The Law of Action and Reaction(作用と反作用の法則)

もし作用があるならば、反作用がなくてはならない。

反作用は、等しい力と同じ性質であるだろう。

すべての考え、願望、想像、感情は、反作用を引き起こす。

徳は、それ自身の報いをもたらし、悪は、それ自身の罰をもたらす。

これは、反作用の法則の働きである。

神は、邪悪な者に罰を与えないし、善人に報いることもない。

報酬や罰をもたらすのは、それら自身のカルマである。

果実をもたらすのは、作用と反作用の法則である。

終りのない精密さと科学的な正確さをもって、法則はあらゆる処で、作用する。

作用と反作用の法則は、物理的な次元においても、精神的な次元においても、作用する。

 

 

The Law o Compensation(代償の法則)

代償の法則は、自然現象において至る処で、作用する。

種子は、破れて、大きな木が種子から芽を出す。

種子の破壊においては、失われるものはない。

代償の法則に従って、木が芽を出す。

燃料は、燃える。

燃料は、破壊される。

しかし、代償の法則に従って、熱がある。

多くの物品が、熱に従って、火で調理される。

もしヴィジャヤワーダに灼熱があるならば、ヒマラヤのカイラス山、或いは、ウッタルカーシには、極寒があるだろう。

これは、代償の法則である。

もしある場所に、十人のならず者がいるならば、代償をもたらすために、二つの純粋な魂があるだろう。

もしプリで上げ潮があれば、ワルタイヤ―では、引き潮がある。

これは、代償の法則である。

もしインドが昼ならば、アメリカは夜だろう。

平和は、戦争の後に来るし、その反対も然りである。

これは、代償の法則である。

代償の法則は、また精神的な次元でも作用する。

代償の法則は、バランスを維持し続け、平和と和合、釣り合い、調和、公平を構築する。

深く考えなさい。

熟考しなさい。

よく考えなさい。

あなたは、この代償の法則が自然現象において至る処で美しく作用しているのを見ることだろう。

それは、曲げられない不変のものである。

誰も、この情け容赦のない抵抗できない法則を無視することはできない。

もしあなたが悪い行いをするならば、あなたは代償で、悪い実を収穫するだろう。

もしあなたが、物質的身体の誕生と共に始まり、死と共に終わる孤立した出来事として個人の人生を送るならば、あなたは人生の出来事に対して、正しい説明や解答を見つけることはできない。

あなたは暗闇と絶望の中で暗中模索することであろう。

全魂の生命と比べれば、あなたの現在の人生は、無いに等しい。

それは、束の間のものである。

それは、単なる断片である。

あなたが、原因、或いは、何かの以前の出来事を見つけ出したい時はいつでも、あなたは、永遠の魂という生命の出来事の中に深く入って行かなくてはならないだろう。

その時だけ、原因と結果、以前の出来事と成り行きの完全なる調和があるであろう。

あなたは、永遠の魂という生命の幅広い視点から、判断しなくてはならないであろう。

代償の法則は、広範囲な全魂の生命を包含している。

生命は、この物質的な身体だけの崩壊と共に終わらない。

輪廻転生がある。

数え切れない過去生もあったのである。

あなたは、最も広範囲な魂の生命を考慮しなくてはならないであろう。

その時、道筋は、極めてはっきりする。

その時、あなたは、人生の入り組んだ複雑な出来事に対する完全で満足できる解答を見つけるであろう。

その時、ぶつぶつ不平を言ったり、悲嘆や思い違いをする余地はないであろう』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマを、身体が存在する間にも克服することができるでしょうか?」

 

マハルシ

「できる。

カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。

自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマも生き残ることはできない。

それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。」

 

質問者

「プラーラブダ・カルマは前世から積まれたカルマの小さなひとかけらにすぎないと言われています。

これは本当なのでしょうか?」

 

マハルシ

「人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。

そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、人はその結実を現世で味わうことになる。

それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーに出すスライドだけを選びとり、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなものである。

これらのカルマはすべて、真我の知識を得ることによって破壊される。

過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。

その投影機が破壊されなければならない。

そうすればこれ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。」

 

質問者

「誰が投影するのですか?

サンチタ・カルマのなかからわずかな部分を選びとり、それをプラーラブダ・カルマとして体験させることを決定するその構造は、どういう仕組みになっているのでしょうか?」

 

マハルシ

「個人はそれらのカルマに耐えなければならない。

だが、イーシュワラ(創造)神は彼の目的にしたがってそれらのカルマを最善の状態に管理している。

カルマの報いを操っているのは神だが、彼はそれにつけ加えたり、それから取り去ったりするのではない。

人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。

イーシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちたものであれ、それぞれの人にとって、その時々の霊的進化のためにもっともふさわしいものを選択するのである。

それゆえ、何ひとつ任意のものはない。」

 

質問者

「『ウパデーシャ・サーラム』のなかで、あなたは「カルマは神(カルタ)の定めによって結果を生じる」と述べられています。

つまり私たちは、すべて神の意志によってカルマの報いを受けるという意味なのでしょうか?」

 

マハルシ

「この説のなかの「カルタ」とはイーシュワラ神を意味している。

カルマにしたがって各人は行為の報いをイーシュワラ神から割り当てられる。

それはつまり、イーシュワラとはブラフマンが人格神として姿を現したものだということだ。

真のブラフマンは非顕現であり、不動である。

現れとしてのブラフマンがイーシュワラ神と名づけられただけである。

彼がカルマにしたがって各人に行為の報いを与える。

つまり彼はただの周旋人でしかなく、為された仕事に応じた賃金を支払っているだけである。

ただそれだけのことだ。

このイーシュワラ神のシャクティ(力)なしではカルマも起こり得ない。

それゆえ、それ自体ではカルマは作用しないと言われるのである。」

 

質問者

「現在私たちが体験していることは、過去のカルマの結果です。

もし私たちが以前に犯した過ちを知れば、それらを正すことができるはずです。」

 

マハルシ

「たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたは数限りない誕生を与えるサンチタ・カルマ全体が残っている。

それゆえ、それは正しい方法ではない。

草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。

あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。

それゆえ、カルマの根本を見いだし、それを断ち切りなさい。」

 

質問者

「カルマの理論は世界が作用と反作用の結果であることを意味しているのでしょうか?

もしそうであれば、何の作用と反作用でしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現するまでは、作用と反作用であるカルマは存在するだろう。

実現後には、カルマも世界もないだろう。」

 

質問者

「もし私が身体でないなら、どうして私の善業と悪業の結果の責任が、私にあるというのでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが身体でないなら、そして「私が行為者である」という観念をもたないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることはないだろう。

なぜあなたは身体が為した行為について「私がこれをした」、「私があれをした」と言うのか?

身体と同一化するかぎり、あなたは行為の結果に影響されるだろう。

つまり身体と同一化しているかぎり、あなたは善と悪のカルマを積んでいるのである。」

 

質問者

「しかし、私は身体ではないのですから、善業と悪業の結果の責任は私にはないはずです。」

 

マハルシ

「もしあなたに責任がないのなら、なぜこの質問を気にするのかね?」

 

質問者

「ある聖典には、人の努力はすべての力の源であり、それはカルマさえ超えられると述べられ、別の聖典では、すべては神の恩寵によると述べられています。

どちらが正しいのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

ある哲学の学派は、前世のカルマ以外に神というものは存在しないと言う。

その聖典によれば、現世で為されたカルマはブルシャカーラ(人間の努力)として知られ、前世と現世のカルマは雄羊の角どうしが真っ向から衝突するように出合い、弱いほうが消し去られるのである。

そのために、これらの人びとは努力を強化しなさいと言うのである。

もしあなたがたこれらの人びとに「カルマの原因は何か」と尋ねれば、永遠の問いである「種子と木のどちらが先か?」のような質問はするものではない」と彼は言うだろう。

このような論争は、けっして最終的な真理に行き着くことのない単なる議論にすぎない。

だからこそ私は、まずあなたが誰なのかを見いだしなさいと言うのである。

「私は誰か?」、「どうして私はこの生の過ちを手にしたのか?」と尋ねれば、「私」は静まり、真我を実現するだろう。

もしこの探究を正しく行えば、過ちという観念は消え去り、平和が得られるだろう。

なぜ得る必要さえあろうか?

真我はあるがままに在るのである。

「行為者である私とは誰か?誰がカルマを始めたのか?」と問うことで、自己の真理を知ること、それがカルマの本質である。

カルマを為す自我が探究によって消去されるまでは、カルマ・ヨーガの報いである至福の平和を達成することはできない。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

(至上者バガヴァーン・クリシュナ語る)

活動(カルマ)とは また無活動(アカルマ)とは何か

賢明な者でも これを定義するのに迷う

今わたしはここで活動(カルマ)とは何かを説明する

これを知って君はあらゆる罪から離れよ

 

活動(カルマ)の諸相は、まことに複雑 神秘である

これを理解することは難しい だが

人は活動(カルマ) 誤活動(ヴィカルマ) 無活動(アカルマ)について

正しく学ばなければならない

 

活動のなかに 無活動を見

無活動のなかに 活動を見る人は

たとえどんな種類の仕事をしていても

相対世界を超越した覚者である

 

すべて欲望を持たずに行動する者は

完全智を得た人と心得よ

賢者たちは そのような人々を

大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ

 

仕事の結果に全く執着しない人は

常に楽しく 自由自在である

あらゆる種類の活動をして

しかも無活動 無業報である

 

このような英智の人は精神を完全に統制して

”我所有”(わがもの)の観念が全く無い

肉体を維持するに足るだけ働き

したがって悪業報を全く受けない

 

無理なく入ってくるもので満足し

我・他(あれ)彼・此(これ)を比較して悩み羨むことなく

成功にも失敗にも心を動かさぬ者は

どんな仕事をしても束縛されない

(バガヴァッド・ギーター第4章16ー22)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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