永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(52) カルマ④

今回で四回目となります「カルマ」について、ヨーガの視点から、正しい理解を深めるために、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、スワミ・ラーマによる「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より前回の続き、そして最後に、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「カルマ」についての御言葉をご紹介したいと思います。

 

カルマの法則とは、因果の法則のことです。

森羅万象は、原因と結果の世界です。

それは、この世の性質なのです。

 

この世にある限りは、どんなモノでも、因果の法則の影響下にあり、その「因果の法則」の影響を受けている(と感じている)”「私」とは、何なのか?”という問いへの答えが、「カルマ」を超えて行く際の重要な「ヒント」となるため、ヨーガにおいては、この答えが明らかにならない限り、その答えを得るまで、「原因と結果の法則」の働きにより、「カルマ」によって束縛された「わたし」は、世界に現れ続け、それが「輪廻転生」と呼ばれる生と死の繰り返しの原因である、と説かれています。

 

自己探求とは、最終的には、「私は誰か?」の答えを掴むためのものであり、この問いへの答えは、「カルマ」を超えて行くためには、必要不可欠と言えます。

 

この答えだけが、個人に真の解放をもたらすため、「私は誰か?」への明確な答えが明らかになると、「カルマ」による束縛も、マーヤー(幻妄力)による幻想も、やがては、消滅することでしょう。

 

究極的には、実在するのは、真我(アートマン)だけであり、「カルマ」によって束縛され、運命に翻弄される「個人のわたし」は、いないのです。

 

そのことを体験を通して識ることが、「真我実現」と呼ばれているもので、「私は誰か?」の答えなのです。

 

 

 

Man Is Master of His Destiny (人は、運命の支配者である)

あなたは、環境や境遇の創造物ではない。

あなたは、あなた自身の運命の支配者である。

あなたは、あなた自身の富の建築家である。

あなたは、あなたが経験することに対して責任がある。

あなたは、あなた自身の現在の状態に責任がある。

もしあなたが不幸ならば、それはあなた自身が創ったモノである。

もしあなたが惨めならば、それもまた、あなた自身が創ったモノである。

すべての行為は、早かれ遅かれ、実を結ぶ。

徳のある行為は、その結果として、喜びを産み出す。

悪い行いは、苦しみをもたらす。

あなたの過去生における慈愛は、現在の人生において、あなたに豊かさを与える。

あなたの過去生の強い想いが、現在の人生におけるあなたの性格を作っている。

あなたの過去生の傾向は、現在におけるあなたの能力となる。

あなたの過去生の徳のある行いは、現在の人生において、あなたに良い環境を与える。

あなたの過去生の経験は、現在の人生におけるあなたの意識を作っている。

あなたの過去生の利己的でない行為は、現在の人生において、神の恩寵を通して、あなたに識別力、冷静さ、大望を与える。

もし、あなたが人を圧迫するならば、あなたは、別の人生で圧迫を被り、あなたがこの人生で蒔く種子の果実を収穫するであろう。

もし、あなたが人の眼を痛めるならば、あなたの眼は、別の人生で傷つけられるであろう。

もし、あなたが人の足を折るならば、あなたの足は、別の人生で折られるであろう。

もし、あなたが貧しい人たちに食べ物を与えるならば、あなたは、別の人生で、沢山の食べ物を持つであろう。

もし、あなたが、旅人のための宿泊所を建てるならば、あなたは、別の人生で、多くの家を持つであろう。

作用、反作用は、平等であり反対である。

この地球では、行為が結果を生むのを止めさせることができる力はない。

カルマの法則とは、このようなものである。

誕生と死の法則とは、このようなものである。

あなたが途中で通過しなくてはならない循環は、このようなものである。

 

 

Three Kinds of Action(三種類の行為)

行為には、良い、悪い、そして混合という三種類がある。

良いカルマは、あなたを天国における神、或いは、天使にする。

悪いカルマは、低い子宮にあなたを投げ込む。

混合の行為は、あなたに人間の誕生を与える。

もし、あなたが人から盗み、貧しい人々に食べ物を与えるならば、それは、混合の行為である。

もし、あなたが、非合法的な手段によってお金を稼ぎ、寺院や病院を建てるならば、これは、混合の行為である。

もし、あなたが、人を騙すことでお金を得て、出家者のための修行の場を建設するならば、これもまた、混合の行為である。

すべての仕事は、善と悪の混合である。

この世界では、絶対的に良い仕事も、絶対的に悪い仕事もあり得ない。

この物質的宇宙は、相対的な場所である。

もしあなたが、何かの行為をすると、それは、一面ではいくらか良くて、ある面では、いくらか悪いことをするであろう。

あなたは、最大限の善と最小限の悪をもたらすような行為をするように心掛けなさい。

 

 

Veracity of the Law of Karma(カルマの法則の真実性)

カルマの法則は、ヴェーダンタのなくてはならない部分を形作る。

カルマの法則は、ヒンドゥー教だけの基本的な教義ではなく、仏教やジャイナ教の教義でもある。

人は種子を蒔くように、彼は収穫するだろう。

これは、カルマの法則である。

それは、人生の謎と宇宙の謎を解説する。

それは、慰め、満足、安楽を個人とすべての人々にもたらす。

それは、自明の真実である。

幸運にも、西洋人もまた、今や、その重要性と真実性を理解し始めている。

アメリカ人は、今や、この教義を全面的に信じている。

すべての感覚的な人間は、それを受け入れなくてはならないであろう。

他は上手く行かない。

この法則の 学びは、希望のない人や絶望している人や病んでいる人に、勇気を与える。

運命は、人の思考、習慣、性格によって創造される。

彼の思考や習慣を変えることによって、修正や改善のためのあらゆるチャンスがある。

ならず者が、聖者になることができる。

売春婦が、貞節な女性になることができる。

乞食が、王になることができる。

強力な法則が、このすべてを規定する。

カルマの法則だけが、この世における善悪の神秘的な問題を説明することができる。

カルマの法則だけが、苦しむ人、絶望する人に、慰めと満足、平和と力をもたらすことができる。

それは、人生の困難や問題を解決する。

それは、失望している人や惨めな人に、勇気を与える。

それは、人に、正しい考えや正しい演説、正しい行為へと後押しする。

それは、この宇宙の法則に従って生きる人のために、輝かしい未来をもたらす。

もし、すべての人々が、この法則を正しく理解し、彼らの日々の義務を注意をもって果たすならば、彼らは、霊的な梯子を崇高な高さまで上がるであろう。

彼らは、道徳的で徳のある人になり、幸せで平和な満足した人生を持つであろう。

彼らは、忍耐と辛抱強さ、心の力で、サムサーラの重荷に耐えることができる。

彼らが、誕生や資産、知性、能力などの中に、不平等を見る時、不平の余地はないであろう。

すべては、苦しんでいる時でさえ、喜ぶであろう。

貪欲、羨望、嫌悪、怒り、情熱は、消えるであろう。

徳が、至る所に、行き渡るであろう。

われわれは、すべての所で、平和と十分なものと共に、栄光あるサティヤ・ユガ(神性が優位を占める時期)を持つであろう。

法則を理解し、法則の中に生きる人は、祝福されている。

何故ならば、彼は、直ぐに神意識に到達し、法則を与えた者と一つになるからである。

その時、法則は、もはや、彼には作用しないであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『カルマは神のなされることではありません。

カルマは、各個人によってなされます。

それぞれの特定な個人が対処し、理解し、完遂しなくてはならないものです。

カルマは、各人自身の行動であり、考えであり、願望です。

他の誰もそれに責任はありません。絶対的に正確です。偶然はありません。

すべては、まったく見事に調和がとれています。

短い視点では、人生は、少しも完全にも公平にも思えません。

なぜ、人は他人よりももっと苦しんでいるように思うのでしょうか? 

例えば、なぜ、病気の人がいて、他の人は健康なのでしょうか? 

お金持ちがいて、貧乏な人がいるのでしょうか? 

カルマの正確さの優位から見ると、人生は完全に公平です。

人生は、進化において人々を操縦する絶妙に完璧な方法です。

もし、人の人生を10万光年の何万倍も離れたところにある親指サイズの的に対して、無限に近い時間と果てしない空間を通して進んでいく有機的な宇宙船として見るならば、航海においてごく僅かな見込み違いは、宇宙船を航路からはずして遠くに行かせてしまうでしょう。

カルマは、航海の正確さのために備わった装置なのです。

それは人をコースに戻します。

人がどんなにコースから外れて遠くに離れても、カルマは完全に調整をするでしょう。

それらは厳しいかもしれませんが、小さな的に向かって最も狭い針路に人を導きます。

カルマは、3つの部分に分けることができます。

過去に形成されたカルマ、現在形成されているカルマ、未来に形成されるカルマです。

インド人は、「もし、あなたが人の過去のカルマや過去の行為を知りたいと思うならば、彼の現在の人生を見なさい」と言います。

過去になされたカルマについて今できることは何もありません。

それらはすでに放たれた矢です。

何本かはすでに到達し、何本かはまだ到達していません。

それらの過去のカルマの結果を受け入れ、それらから学びなさい。

自由意志はないと考えることは間違いです。

しかし、全宇宙と誰かとすべての人に起こることは、カルマと呼ばれるものによって前もって決められています。

それでも、自由意志はあります。

それがカルマのポイントです。

まだ放たれていないそれらの矢は、まだ私たちの意志の矢筒の中にあります。

私たちは、どの矢をいつ放つべきかを選びます。

私たちは決定し行動します。

私たちがそうするやり方が未来を決定します。

私たちから離れている何かや誰かが、私たちの運命を決めるのではありません。

未来は細部まで、良くても悪くても、悲しくても楽しくても、私たち自身のデザインなのです。

私たちは、私たちがしたこと、言ったこと、考えたこと、願ったことによって、過去に生き方を選択しました。

私たちは今現在において選択をしています。

カルマは、原因と結果の法則ですが、自由意志は、私たちが法則の束縛をやがては超越することを可能にします。

これは安心を与え、権限を与えます。

人生の環境に対する非難を神や運命や他のものに置く代わりに、人は完全な責任をとります。

成長の力はその中にあります。

生から生へ、環境から環境へ、人は創造し、悟りに向かう長い展開における与えられた瞬間に、成長にとって必要とされることを選択します。

それぞれの魂は、自由へ向かう道における前進のための完全なる機会を提供してくれる、自分が必要とする両親や家族状況、社会における役割、安楽と不快の混ざったものを選択します。

このカルマのプロセスは、再び折り重なり、絡みつき、そして未来は、個人が現在をどのように手掛けたかによって形作られます。

確かに、カルマが展開し燃え尽きるのに幾生か、かかるかもしれません。

結果は、神や他のものや運によるのではなく、自分のカルマへの自分自身の対応にあるのです。

人は、自分の環境を落ち着いて受け入れることを学ぶにつれ、快適であろうと不快であろうと、喜びと勇気をもって未来を待ち望むことができるようになります。

彼らはカルマを超越します。

もし、苦しみや哀しみが過去の行為の結果であるなら、未来の存在において苦しむことを避けるために、賢者は苦しみにつながる行為をそれ以上犯すことを止めるでしょう。

カルマの法則は妥協のないものであり、すべてはそれに束縛されています。

しかしながら、カルマのロープを断ち切り、死に打ち勝つ方法はあります。

その方法は、巧みに目的をもって生きることです。

私たちが打ち勝とうとしながら人生を費やす、苦痛と哀しみの源を理解するにつれ、目的にかない巧みに生きる方法を見つけることが、徐々にできるようになります。

次第に、私たちが生まれながらに恐れている死の性質を理解するようになります。

不運にも、人々は、しばしばこの恐れから自分の人生を指図します。

人々が恐れから行動するとき、彼らは、恐れから生まれるカルマとサンスカーラを作り出します。

これらのサンスカーラが処理されないと、さらなる恐れに遭遇します。

もし、人が体を自分だと同一視すると、彼らは病気を恐れ、年を取ることを恐れ、事故を恐れ、道を横切ることを恐れ、見知らぬ人に遭うことを恐れ、可能な限りのあらゆる悪いことを恐れます。

結果として、必然的に、日常生活は彼らが恐れる悪いことに引きつけられます。

これらの恐れは習慣となり、それは人を危険や病に引き寄せます。

もし、人が自分を仕事と同一視して信じているなら、その仕事への変化は彼らにとって脅威となるでしょう。

もし、彼らが仕事を失ったら、彼らは自分と同一視していたものを失います。

もし、両親と同一視しているなら、その同一視は、子どもが成長し家を離れたときに、試練を迎えます。

人の行動はこれらの恐れに基づいています。

行動は恐れの周りに形成されます。

彼らの恐れに満ちた行動と思考は、恐れそのものを強化し、未来に対する新しくて強力な恐れの種子を蒔きます。

強力な閉じ込めるサイクルが回ります。

ただ人の選択のみがそのサイクルを変えることができるのです。

カルマの束縛は、破壊されなくてはなりません。

それは個人の責任です。それは強さと勇気を必要とします。

生と死の秘密は、私たちの真の自己は何であるかを知ろうとする探求だけを含んでいるわけではありません。

この神秘を解明することは、私たちの行動、言葉、考え、そして、どのように、またどうして、私たちがこれらの行動をとり、ある言葉を発し、特別な考えを考えるのか、をも含んでいます。

ある方法がとられると、私たちの行動は、地球的な人生や誕生と死の終わりのないサイクルに私たちを束縛することができます。

別の方法がとられると、行動は、人生における喜びと死を超えた勝利を創造します。

あなたがこの人生を選択したことを思い出しなさい。

あなたは、あなたの旅においてこの発見の瞬間に向かって移動してきました。

これは最も霊的な前進を遂げるためのあなたが世界に住む完璧なる時間です。

あなたの人生における人々、あなたの両親、子どもたち、伴侶、友人たち、同僚たちは、あなたの成長にとっては完璧なのです。

外的世界と内的世界における私たちの全人生は、私たちのサンスカーラである私たちの思考、行動、そして選択によって残された印象により動機づけられています。

誰も私たちに良い行いか、悪い行いかを罰することはしませんが、私たちのサンスカーラは、私たちの現在の行動を動機づけます。

私たちは収穫するものを蒔くのです。

私たちが、私たちの中のこの動機づけの力を理解するとき、私たちは、私たちが過ごす人生のために、他人や自然や神を責めることはできません。

私たちの人生は、私たち自身の創造物なのです。

私たちの問題は私たち自身です。

私たちはこれらの問題を超えて、自分自身と闘うべきではありませんが、それらを理解しようとしなさい。

私たちは私たちと他人との人間関係を理解すべきです。

私たちの人生で正しくないことのために他人を責めることは、助けにはなりません。

私たちが、人間関係にもたらしてきたものは何ですか? 

なぜ、私たちはそれを選んだのですか? 

これらの問いは、状況の広い視野や愛情や無私につながります。

より大きな霊的な領域なしには、この世界は完全ではありません。

それはその性質なのです。

それは変化し、死滅し、滅びる世界です。

この世界においては、究極的な幸福を掴むことができるものは何もありません。

なぜなら、それは過ぎ去り、崩壊し、変化するからです。

あなたは、幸せのためにこの世界や対象物、人間関係に頼ることはできません。

なぜなら、それらは頼りにならないからです。

それらは永続することができず、永遠に同じであることができないため、頼ることができません。

それは、この実在の性質ではありません。

この世は、練習場であり、学校であり、演劇です。

それは不完全の中の完全です。

学び成長するための場所として、この世の次元は矛盾しています。

それは、あなたの個人的な行いにより形作られ、あなたの個人的な必要に適応したあなたの完全なる創造なのです。』

(聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

『質問者

「ジニャーニには、「私は身体だ」という観念(デーハートマ・ブッディ)がないのでしょうか?

たとえば、もしシュリー・バガヴァーンが虫に刺された場合、何の感覚もないのでしょうか?」

 

マハルシ

「そこには感覚があり、「私は身体だ」という観念もあります。

「私は身体だ」という観念はジニャーニにもアジニャーニにも共通していますが、唯一の違いは、アジャーニは「身体だけが私である」(デーハイヴァ・アートマ)と考えますが、ジニャーニにとってはすべてが自己(アートママヤン・サルヴァム)なのです。

あるいはすべてがブラフマン(サルヴァン・カルヴィダン・プラフマ)です。

痛みがあるなら、そうあらしめればいいのです。

それもまた真我の一部です。

真我はプールナ(完全、全体)だからです。

さて、ジニャーニの行為についてですが、それはただそう呼ばれているだけです。

なぜなら、それは効力を持たないからです。

一般には、行為は個人の中にサンスカーラとして植え込まれています。

それはアジニャーニの心が肥沃な土壌である場合にかぎります。

ジニャーニの場合、彼の心の存在は推測されたものでしかありません。

彼はすでに心を超越しています。

それでも、見た目には活動をしているように見えるので、彼の心は存在すると推測されるのです。

ジニャーニの心はアジニャーニのように肥沃ではありません。

だからこそ、「ジニャーニの心はブラフマンである」と言われるのです。

ブラフマンとはジニャーニの心に他なりません。

その土壌でヴァーサナー(精神的傾向)が実を結ぶことはありえません。

彼の心はヴァーサナーから解放された不毛の土地なのです。

それでも、ジニャーニにはプラーラブダ(過去に形成されたカルマ)があると見なされているため、ヴァーサナーもまた存在すると考えられています。

もしヴァーサナーが存在するとすれば、それは喜びをもたらすもの(ボーガ・ヘートゥ)だけです。

行為は二種類の業果をもたらします。

一つは喜びをもたらすもの。

もう一つはサンスカーラという形で心に印象を残し、未来の誕生をもたらすものです。

不毛の土地であるジニャーニの心は、カルマの種子を植えつけても生長しません。

彼のヴァーサナーは、結果的に喜びだけをもたらす活動を通しておのずと尽き果てるのです。

しかし実際は、彼のカルマはアジニャーニの視点からのみ見られるものであって、ジニャーニは無為のままとどまります。

彼は身体が真我から離れたものであるとは見ていません。

だとすれば、どうして彼に束縛や解放がありえるでしょうか?

彼はその両方を超越しているため、現在も、未来においてもカルマに束縛されません。

それゆえ、彼にとっては生きながら解脱した人(ジーヴァン・ムクタ)も死後に解脱した人(ヴィデーハ・ムクタ)も存在しないのです。」

 

質問者

「今言われたことによれば、どうやらジニャーニはすべてのヴァーサナーを焼き尽くした人が一番で、彼は石か棒切れのように無活動のままとどまるということです。」

 

マハルシ

「いいえ、そうある必要はありません。

ヴァーサナーは彼に影響を与えないのです。

石や棒切れのように留まること自体がヴァーサナーではないでしょうか?

サハジャ(自然)が彼の境地なのです。」

 

会話の焦点はヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)に当てられた。

マハルシ

「善い精神的傾向と悪い精神的傾向は共存します。

一方はもう一方なしには存在できません。

一方だけが優先的になることはあるでしょう。

善い精神的傾向は培われなければならず、それもまた最終的にはジニャーナ(真我の知識)によって破壊されなければならないのです。」

 

一人の若い天才についての話がもち上がった。

シュリー・バガヴァーンは、「彼の中にある前世の潜在的印象(プールヴァ・ジャンマ・サンスカーラ)が強かったからです」と語った。

 

質問者

「高名な聖者の言葉を自由に引用する能力は、どのようにして現れるのでしょうか?

それも種子という形をとったヴァーサナーにすぎないのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうです。

サンスカーラ(精神の潜在的傾向)は過去世で得られた知識が蓄積されたものです。

ふさわしい状況や環境のもとでそれは現れます。

強いサンスカーラを持った人は、弱いサンスカーラを持った人やまったくサンスカーラのない人よりも提示された物事を早く理解するのです。」

 

質問者

「発明家にとっても同じことが言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「この世に新しいものは何一つないと言われるように、発明や発見と呼ばれるものは、考察していた物事に対する強いサンスカーラを備えた有能な人による再発見にすぎないのです。」

 

質問者

ニュートンアインシュタインなどもそうなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんです。

しかしどんなにサンスカーラが強くとも、静かで穏やかな心にならないかぎり、それが現れることはないでしょう。

どんなに想い出そうとしても想い出せないことが、静かで穏やかな心になったときに突然想い出されるのは誰もが体験することです。

忘れたことを想い出そうとすることにさえ、精神の静寂が必要となります。

天才と呼ばれる人たちは、過去世で努力を重ねて知識を得、それをサンスカーラとして蓄積した人たちなのです。

彼は現世において、自分が取り組んでいる主題に心が融け入るまで集中します。

その静寂の中で、それまで沈潜していたアイデアが湧き上がってくるのです。

それにはまた有利となる条件や環境も必要とされるでしょう。」

(ラマナ・マハルシとの対話)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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