永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(53)ヨーガ①

今回から、実践的なテーマである「ヨーガ」について、比較的近代のインドにおいて、グル(導き手)としてその一生を捧げて下さった先達たちの御言葉をご紹介したいと思います。

 

これまでに、多くの人びとにより、ただ一つの真実に至る方法(道)が、いろいろなやり方で提唱されてきましたが、古代インドより現代に至るまで途切れることなく継承されてきた方法(道)の代表として、ヨーガを挙げることができます。

 

「ヨーガ」と聞くと、アーサナに代表される健康体操的なヨーガを思い浮かべることもあるかと思いますが、それは、本来のヨーガとされている修行体系の一部でしかありません。

(伝統的なラージャ・ヨーガ、或いは、アシュタンガ・ヨーガと呼ばれる体系では、八段階に分かれており、アーサナは、ヤマ、ニヤマに次ぐ第三段階目となり、その後、プラーナヤーマとなり、プラティヤハーラからの一連の修練は、坐して黙する「瞑想」(ディアーナ)へとつながって行きます。

そして、最終的には、サマーディ(三昧)と呼ばれる境地に意識が没入して行くことで、修行の目的であるヨーガ(合一)は達成されるとされており、サマーディが、最終目的となっています)

 

ここではっきりしておきたいことは、ヨーガ(合一)の目的は、何との合一(ヨーガ)なのか?ということです。

 

それが明確でない状態で、ヨーガを実践しても、ヨーガ(合一)の実践に集中することは難しいでしょう。

実践においては、明確な目的を持って、集中して取り組むことが、最も効果的なやり方であると言えます。

 

「わたしは誰か?」

 

この問いへの答えは、瞑想によるサマーディによってもたらされたり、クンダリニーが目覚めることでもたらされることもあります。

 

実践するヨーガにより、体験としての顕れ方は異なりますが、結論としては、同じ一つの真実が明らかになります。

 

古代より開示されているヨーガの道は、誰もが辿ることができますが、ある段階では、良い導き手は必要です。

しかし、生徒に準備ができると、自然と、導き手が現れることもありますので、良い教師に出会えていないからと言って、実践を躊躇う必要はありません。

 

最初は、導き手がいなくても、明確な志を持ち、できる限り開示されている道を辿り、最終目的であるヨーガ(合一)を目指すならば、必ずや、適切な時に、適切な導き手が現れて、ヨーガ(合一)の達成へと向けて、一直線に歩んで行かれるように、事は起きて行くことでしょう。

 

先ずは、知られているようで、実は、あまりきちんとした形では知られていない「ヨーガ」とは、本来、どのようなものであるのか?という基本的な定義から、ご紹介したいと思います。

最初にご紹介するのは、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、そして次は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より、そして最後は、ラマナ・マハルシが語った「ヨーガ」についての質問者への御言葉です。

 

 

YOGA(ヨーガ)      

神の中で生きること、神と親しく交わることが、ヨーガである。

神の中における人生は、永遠の至福をもたらす。

ヨーガは、あなたに道を示す。

ヨーガは、あなたと神を結びつける。

ヨーガは、あなたを不死にする。

ヨーガは、完成した人生である。

ヨーガは、人間的な人格のあらゆる面を徹底的に見直す方法である。

ヨーガは、体と心や知性ばかりでなく、内的な霊性の不可欠な学習体験である。

ヨーガは、あなたに悪から善へ、善から神性へ、それから永遠の神聖なる光輝へと上昇する素晴らしい方法を示している。

ヨーガは、正しく生きる技術である。

正しく生きる技術を学んだヨーギー(ヨーガ行者)は、幸福であり、調和が取れており、平和である。

彼は、緊張からは自由である。

ヨーガは、インドの、或いは、インドだけでなく、全体として人類の古代の預言者によって完成された科学である。

それは、正しく科学である。

それは、完璧な自己訓練の実践的体系である。

 

 

A Way of Life (生きる方法)

ヨーガは、人生から掛け離れた方向転換を望んではいないが、人生が霊的になることを要求している。

ヨーガは、主に、生き方であり、人生から離別するものではない。

ヨーガは、行為の放棄ではなく、正しい精神で効果的に実行することである。

ヨーガは、家庭や人間の生態圏から逃れることではなく、新しい理解で、家庭と社会に対する個人の態度を創り上げるプロセスである。

 

 

Yoga is Universal(ヨーガは、普遍的である)

ヨーガは、すべてのためにある。

ヨーガは、普遍的である。

それは、派閥事項ではない。

それは、神への道であって、宗教的な教義ではない。

ヨーガの実践はいかなる宗教にも、いかなる神聖な教会にも対立していない。

それは、純粋に霊的であり普遍的である。

それは、いかなる人の誠実な信仰をも否定しない。

ヨーガは、宗教ではないが、すべての宗教における基本的な霊的な真理の実践への助けである。

ヨーガは、キリスト教や仏教、パルシー教(ゾロアスター教)、イスラム教、スーフィーイスラム神秘主義者)や無神論者によって実践されることができる。

ヨーギーになることは、神の中に切れ目なく留まり、人々と共に平和に生きることを意味する。

ヨーガは、神との結合である。

ヨーガは、すべてとの結合である。

神は、すべての中に住まわれている。

 

 

Yoga Is not Physical Exercise(ヨーガは体操ではない)

ヨーガが体操、或いはただのアーサナ(身体浄化法)やプラーナヤーマ(調気法)などであるという初心者の考えは、恐ろしい過ちである。

ヨーガアーサナ、プラーナヤーマ、バンダ、ムドラー、そしてクリヤは、真のヨーガとは全く関係がない。

それらは、ヨーガの実践における助けとなると見做されている。

大抵の人は、体操レベルを超えたヨーガに近づいていない、何故ならば、真のヨーガは、有能な教師の指導の元で、集中した思考と結合した集中した個人的な訓練を必要とするからである。

ヨーガは、肉体を超えた霊的な天恵を約束している。

それは、即座の成果と世俗的な富をやかましく要求する一般人には、魅力のないものである。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『世界のさまざまな宗教のすべてを分析すると、みなさんはそれぞれが二組に分けられることを発見なさるでしょう。

書物を持つものと、それを持たないものとです。

書物を持つものはもっとも強く、信者の数ももっとも多いでしょう。

書物を持たないものは大方は滅びてしまい、ごく少数の新しいものは、ごくわずかの信者しか持ってはいません。

しかし、それらすべての中に、われわれは一つの意見の一致を見いだします。

彼らが教える真理は、特定の人びとの経験の結果だ、というものです。

キリスト教徒はみなさんに、彼の宗教を信じることを、キリストを信じ、彼を神の化身と信じることを、神を、魂を、そしてその魂のよりよき状態を信じることを求めます。

もし私が理由をたずねるなら、彼は、自分はそれを信じる、と言います。

しかし、もしみなさんがキリスト教の源泉にまで行くなら、それは経験に立脚しているのだ、ということを見いだされることでしょう。

キリストは、彼は神を見る、と言いました。

弟子たちは、彼らは神を感じる、と言いました。

その他いろいろの例があります。

仏教においても同様、それはブッダの経験です。

彼は、ある真理を経験しました。

それらを見、それらに接し、世にそれらを説いたのです。

ヒンドゥたちの場合も同様です。

彼らの書物の中に、リシまたは賢者たちとか呼ばれているその著者たちは、自分たちはある真理を経験したと断言しています。

そして彼らはそれらを説いているのです。

このように、世界のすべての宗教は、すべてのわれわれの知識のある普遍で堅固な土台――直接経験の上に築かれているのだ、ということは明らかです。

教師たちはすべて、神を見ました。

彼らはすべて、彼らみずからの魂を見ました。

彼らは彼らの未来を見ました。

彼らは彼らの永遠性を見ました。

そして彼らが見たものを、彼らは説いたのです。

ただそこにはこの違いがあります。

すなわちこれらの宗教の大部分によって、特に現代は、ひとつの奇妙な主張がなされているのです。

それは、これらの経験は現代の人びとには不可能だ、その名が宗派の名となっているような、宗教の創始者たちだけに可能なものだったのだ、と言うのです。

現代ではこのような経験は廃れてしまった、それだからいまはわれわれは、信念によって宗教を捉えなければならない、と言うのです。

これを私は全面的に否定します。

この世界の知識のどの特定の分野においてであれ、もし一つの経験があったのなら、その経験は前に幾百万回もあったものに違いないし、また永遠に繰り替えされるはずである、というのは当然の結論です。

斉一性は自然の法則です。

ひとたび起こったことは、常に起こるのです。

それですからヨーガの教師たちは、宗教は古代の経験に基づいているだけでなく、人は彼自身がそれと同じ知覚を得るまでは、宗教的であると呼ばれることはできない、と断言しています。

ヨーガは、どうしたらこれらの知覚が得られるか、をわれわれに教える科学です。

人はそれを感得するまでは、宗教を語ってもあまり役には立ちません。

なぜこんなに多くの混乱が、こんなに多くの闘いや争いが、宗教の名のもとに存在するのか?他の原因より神の御名のもとに、もっと多くの血が流された、それは人びとが決して源泉まで行かなかったからです。

彼らは先祖のたちの習慣に頭の中で同意するだけで満足し、他の人びとに同じことをするよう求めました。

人がもし魂を感じないなら、自分はそれを持っているなどと言う、何の権利がありましょう?

また彼が神を見ていないなら、彼は存在するなどと言う、何の権利がありますか?

もし神がおられるなら、われわれは彼を見なければなりません。

もし魂があるなら、われわれはそれを知覚しなければなりません。

そうでないなら、信じない方がましです。

偽善者であるよりは、率直な無神論者である方がよろしい。

一方で、「学識のある」現代人の考えは、宗教や形而上学をはじめとする、至高の存在を探究するすべての努力は無駄である、というもの、他方で、生半可の教育を受けた人びとの考えは、このようなことに実際はなんの根拠もない、それらの唯一の価値は、それらが世間に善をなすための強い動機力を与えているという事実だ、というもののようです。

もし人びとが神を信じるなら、彼らは善良になり道徳的になり、従って善い市民になるだろう、というのです。

このような人びとが受けている教えはすべて、背後に何の実質もない、永遠の無意味な長談義を信じよということに過ぎないのを見れば、このような考えを抱いているからとて、彼らを責めるわけにはいかないでしょう。

彼らは言葉を食べて生きよ、と求められているのです。

そんなことが彼らにできますか?

もしできたとしたら、私はまったく、人間性を尊重しないでしょう。

人は真理を欲します。

自分で真理を経験することを欲します。

彼がそれを把握したとき、それを悟ったとき、それを彼のハートの奥の奥で感じたとき、そのときに初めて、すべての疑いは消え、すべての闇は消散し、すべての不正は正されるであろう、とヴェーダは断言しています。

「おんみら、不死の子たち、最高の領域にすむ者たちも、道は見いだされたぞ、この暗闇から完全に脱出する道がある。

それは、すべての闇を超越している彼を、見いだすことである。

ほかに道はない」と。

ラージャ・ヨーガという科学は、この真理に到達するための、実際的な、科学的に考えられた一つの方法を、人類に提供します。』

(ラージャ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

『質問者

「ヨーガとは合一を意味しています。

いったい何と何の合一なのかと不思議に思ってしまいます」

 

マハルシ

「まさにそのとおりだ。

ヨーガは、以前に区別があって、のちにひとつのものが別のものと合一するということを意味している。

だが、いったい誰が誰とひとつになるというのであろう?

あなたは探究者であり、何かと合一されることを探し求めている。

もしあなたがそう仮定するなら、あなたから離れた何かがそこになければならない。

しかし真我はあなたに最も近いものである。

そして、あなたはつねにそれに気づいている。

それを探し求め、それとして在るがいい。

そうすれば、それは果てしなく永遠に広がっていく。

そしてヨーガ(合一)という問題もなくなるだろう。

いったい誰にとっての分離(ヴィヨーガ)だというのだろうか?」

 

質問者

「私にはわかりません。

一体分離(ヴィヨーガ)があるのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰にとってのヴィヨーガだろうか。

それを見いだしなさい。

これがヨーガ(合一)である。

ヨーガはどのみちにもつながっている。

実際ヨーガとは、他でもない真我あるいは真理があなたとは異なっているという考えをやめることにすぎない。

カルマ、ジニャーナ、バクティ、ラージャといったすべてのヨーガは、さまざまな様式で成長してきた。

さまざまな気質の人びとに合うようにデザインされた、さまざまな道にすぎない。

それは人びとが長い間心に抱いてきた、自分は真我と異なっているという概念を消し去ることを目的としている。

あなたはとは異なる何かと合一するという意味でのヨーガ(合一)などありえない。

なぜなら、あなたは真我から離れたことなどなく、離れることなどできないからである。」

 

質問者

「ヨーガと探求の違いとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「ヨーガはチッタ・ヴリッティ・ニローダ(想念の抑制)を説く。

その反対に、私はアートマン・ヴェシャーナ(真我の探究)を説く。

後者の方法のほうがより実際的である。

気絶あるいは断食の影響で心は抑制される。

だが、原因が消えると同時に心は命を吹き返す。

つまり、以前と同じように想念は湧き起こるのである。

心を抑制するには二つの方法しかない。

心の源を探りあてるか、あるいは至高なる力によって打ち砕かれるようにと、心を自ら明け渡すことである。

明け渡しとは、すべてを支配する高次の力が存在すると認めることである。

もし源を探究することを心が拒んだなら、かまわずにいなさい。

それが戻って来るのを待って、それから内側へと向かうがいい。

不屈の忍耐力なくして成功する者は誰もいない。」

 

質問者

「呼吸を制御することは必要でしょうか?」

 

マハルシ

「呼吸の制御は自己のなかに深く潜るための唯一の助けである。

心を制御することによっても潜ることはできる。

心が制御されたとき、呼吸も自動的に制御される。

呼吸の制御をする必要はない。

心の制御でじゅうぶんである。

呼吸の制御は、直接心を制御できない者にとってのみ勧められるものである。」

 

質問者

「プラーナヤーマはいつすべきでしょうか?

また、どうしてそれは効果があるのでしょうか?」

 

マハルシ

「探究や明け渡しが行われていないなら、自然で静かなプラーナヤーマ(調息)を試みることができるだろう

これはヨーガ・マールガ(ヨーガの道)と呼ばれる。

もし生命が危険にさらされれば、その生命の救出の一点にすべての関心が集まるだろう。

もし呼吸が止められれば、心はゆとりを失い、外的な対象物に飛びつくこともないだろう。

このようにして呼吸を制御している間は心も落ち着いている。

すべての注意は呼吸とその調整に向けられ、他への興味は失われるのである。

呼吸の源と心の源は同じである。

それゆえ、一方が静められれば他方も自然と静められるのである。」

 

質問者

「チャクラに精神集中すれば心は静められるでしょうか?」

 

マハルシ

「サハスラーラ(頭頂にある千枚の花弁をもつ蓮のチャクラ)のような霊的センターに心を固定させることによって、ヨーギはどんなに長い間でも身体の自覚なしにとどまることができる。

この状態がつづくかぎり、彼らはある種の喜びのなかに浸っているように見える。

だが、静められた心が再び現れ活動しはじめると、また世俗的な想念を取り戻すのである。

それゆえ、心が外面的になるなりディヤーナ(瞑想)の助けを借りて内面にとどめる必要がある。

そうすることによって、心を沈みゆくとも、立ち現れることもないような状態に到達するだろう。」

 

質問者

「プラーナヤーマによって引き起こされた心の制御も一時的なものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「心の静寂は呼吸が制御されているかぎりはつづく。

だが、それは一時的なものにすぎないため、プラーナヤーマが目標ではないということは明らかだ。

それはプラティヤーハーラ(制感)、ダーラナー(執持)、ディヤーナ(禅定)、サマーディ(三昧)にまで展開する。

これらの段階は心の制御を扱っている。

プラーナヤーマの修練をすでにすませた人にとっては、そこでの制御はより容易なものとなるだろう。

プラーナヤーマは人をよい高い段階へと導く。

それゆえ、心の制御がヨーガの目的と言ってもいいだろう。

より熟達した人は、呼吸の制御に時間を費やすことなく、自然に直接心の制御へと向かうだろう。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

『仕事の結果に執着することなく

ただそれを義務として行う人は

供犠の火を燃やさず祭典を行なわずとも

真の出家者(サンニャーシン)であり ヨーギーである。

 

真の離欲(サンニャース)とヨーガは同じもの--そして

ヨーガとは至上主(かみ)と結合することだ

感覚を満足させたいという欲望を

放棄しなければヨーギーにはなれない

 

八段階のヨーガを登り始めた初心者は

行為すること(体による修行)が定法であり

すでにヨーガの頂上に達した人は

一切の行為を止めるのが定法である

 

すべての事物に対する欲望を棄て去り

感覚を喜ばせるための行動をせず

報果(むくい)を求めずに仕事をする人こそ

ヨーガの完成者というべきである』

(バガヴァッド・ギーター 第6章1ー4)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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