永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(51)「カルマ」③

前々回より、ヨーガやウパニシャッドで述べられている「カルマ」についての正しい智識と詳しい解説をご紹介していますが、先人たちの智慧を理解することで、「カルマ」への理解が深まり、その正しい理解が、やがては、個人に課せられた「カルマ」を乗り越えて行く種子となって、魂の真の解放へとつながって行くため、真の智識(ジニャーナ)に至るプロセスにおいては、「カルマ」とは何なのか?「カルマ」から解放されるためには、何をしたら良いのか?を知っておくことは、真我実現、魂の解放(解脱)には必要不可欠と言えます。

 

前回の記事でもご紹介しましたが、個々人の人生は、過去世で生じたプララーブダ・カルマの結果である、と言うのが、ヨーガ、ヴェーダンタの基本的な考えです。

 

しかし、そうであっても、プララーブダ・カルマ(所謂、運命)を超えて行くことは可能である、とも述べられています。

 

この世に起こる現象に、永遠に変わらないモノは、存在しません。

 

よって、私たち人間も、永遠に「カルマ」によって束縛されたままである訳ではありません。

 

先ずは、「カルマ」について正しい智識を持つこと。

そして、その上で、自分が乗り越えていくべき「カルマ」を把握し、その「カルマ」を乗り越えようと努力することが、真の解放へとつながって行くのです。

(これについては、以下でご紹介しますスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」からご紹介します文が、非常に詳しく解説してくれています。)

 

「カルマ」を人生における課題と見做し、その課題に取り組むことは、完全に、個人の世界の中で起こることであるために、他者や世界ではなく、「自分」と向き合うことが求められます。

 

「自己」(偽の自己)の消滅が起こることで、「カルマ」からの解放が起こります。

これが起こると、魂は、束縛から解放された分、自由を感じることができるようになり、それまで味わったことのない歓びに満たされることでしょう。(束縛されている「自己」は、「幻想」なのだということが、明らかになると、「束縛」は、「偽の自己」に生じている「錯覚」となりますが、これが起こるには、先ずは、「カルマ」という課題を自分で解決するために、自己努力をする必要があります。)

 

それを為すことができるのは、最終的には、創造物としての「自分」を創った「創造主」である「神」ですが、この「創造主」である「神」が、「真の自己」であるという真の理解が起こるまでは、「カルマ」を背負っているのは、個人性である「偽の自己」であり、この「偽の自己」の正体が明らかにならない限り、「偽の自己」は、「カルマ」に束縛されたまま、苦しみや悲しみを味わい、現実というマーヤー(幻妄の力)によって創造された夢の世界の中で、悪戦苦闘の人生を味わうことになります。

この構図がわかっても、背負っている「カルマ」が足枷となってしまうために、個々人は、「カルマ」に囚われてしまい、なかなかその束縛から抜け出すことができずに、悪戦苦闘の中で、また新たな「カルマ」を生み出すという終わりのない悪循環(輪廻)にハマってしまいます。

 

この悪循環を断ち切る方法は、既に私たち人間に示されていますので、今生でその方法を学び、実践することで、輪廻からの解放へと向かう方向にダルマ(因果の法則)が働くようになり、やがて、蒔かれた種子は、悪循環の環を断ち切る強力な力を有する萌芽として、芽生えて行くことでしょう。

 

中には、「カルマ」について正しく知ることで、自分の人生の全容や目的が、明確になる人もいることでしょう。

 

その人が解決するために取り組むことになっている一番重要な「カルマ」は、そんなに多くはありません。

(特に、自分ではどうしようもなく、無力感を感じるコト、苦しみの原因となっていると感じるコトや、それから逃れたいと感じるモノなど、人間関係や環境や人生における様々な苦悩や悩みなどを形作っている原因となっているモノが、今生で解決され、解きほぐされるべき「カルマ」であることが多いです。)

 

人は、「カルマ」という課題に取り組むことで、自然と、心の浄化が促されるように運命づけられています。

 

エゴは、「偽の自己」そのものです。

 

「偽の自己」が、「偽の自己」を乗り越えることはできませんが、心の浄化が進むと、「偽の自己」と「真の自己」とを隔てる厚い障壁が薄くなり、「真の自己」が、「偽の自己」に顕わになるのです。

 

これが、「真我実現」です。

 

真我(アートマン)だけが、実在なのです。

 

今回も、初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次にスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「カルマ」について、そして最後は、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「カルマ」についての究極の智識(Jnana)です。

 

これらを読んで、自分の人生の課題である「カルマ」に取り組む気持ちが少しでも起きるならば、その後の人生は、きっと、これまでとは違った展開となり、このリーラ(神の戯れ)であるこの世で悪戦苦闘しながらも、自分の力で何とか「カルマ」を乗り越えようと自己努力する個人に、神の恩寵が働き、真の智識(叡智)である「Atman Jnana」(真我の智識)が明らかになることでしょう。

 

 

 

『Destiny and Self-effort(運命と自己努力)

カルマの法則が容赦のないものであろうと、神聖なる恩寵が働く余地はある。

恩寵は、悔恨、禁欲、献身を通してやって来る。

悔恨は、カルマの法則を変えることはない。

それは、他の行為のような結実を持つ行為である。

人が、収穫しなければならないモノは、個人によっては変えることはできないが、しかし、その再発は、自己努力によって、確実に阻止することができる。

自己努力は、プルシャーチャ(人生の目的)(※1)である。

運命は、プララーブダ(前世で積まれたカルマの中で、現世で清算されなければならないもの)である。

プララーブダは、過去の誕生で為された単なるプルシャーチャである。

今日の自己努力は、明日の運命となる。

自己努力と運命は、一つであり同じモノである。

プララーブダとプルシャーチャは、一つである。

それらは、一つのモノを示唆する二つの名前である。

現在が過去になり、未来が現在になるように、現在だけがあるように、それと同じで、ただプルシャーチャだけがあるのである。

神が、人を通して働く時、それは、プルシャーチャである。

恩寵は、プルシャーチャとなる。

降雨などは、人間のコントロール下ではない。

農夫は、彼の農場を耕す。

彼は、プルシャーチャ、自己努力を実践する。

収穫物は、雨がないために、実らないかもしれない。

しかし尚、人は、意気消沈しない。

彼は、雨を得ようと祭式を執り行い、善い収穫物を収穫する。

同様に、ヨーガの実践は、真我実現を妨害する悪いプララーブダを無効にするための自己努力である。

もしプララーブダが、橋梁であるならば、ヨーガは、プララーブダよりも更に強力である。

すべての魂は、小区画の地面を持っている農夫のようである。

面積、土の性質、天気の条件は、すべて前もって決められている。

しかし、農夫は、地球が肥料を施し、良い穀物を手に入れるまで、或いは、荒れ地として留まることを許すまで、完全に自由である。

プララーブダは、過去だけに関係している。

未来は、あなたの手の中にある。

あなたは、あなたの運命を変えることができる。

あなたは、行動する自由な意志を持っている。

新しい角度の視野を持ちなさい。

あなた自身を、識別力、上機嫌、洞察力、敏速、臆しない精神で、身を固めなさい。

栄光ある輝く未来は、あなたを待っている。

過去を、葬り去らせなさい。

あなたは、奇跡を引き起こすことができる。

あなたは、奇跡を行なうことができる。

希望を捨ててはいけない。

あなたは、あなたの意志の力を通して、好ましくない惑星の有害な出来事を破壊することができる。

あなたは、あなたが悪い影響の出来事や、あなたに対峙して作用するかもしれない敵対する暗い力を中和することができる。

あなたは、好ましくない環境を、最も良い可能なものに変えることができる。

あなたは、運命を無効にすることができる。

運命は、あなた自身の創造である。

あなたは、考えや行動を通して、あなたの運命を創造してきた。

あなたは、正しい考えと正しい行動によって、同じことをしないことができる。

邪悪、或いは、あなたを攻撃する暗い敵対的な力があっても、あなたは、断固としてそれからあなたの心を背けることで、その力を減少させることができる。

そうして、あなたは運命を和らげることができる。

「カルマ、カルマ。私のカルマが、このように私を運んだ」と言ってはならない。

努力しなさい。努力しなさい。自己努力をしなさい。

タパス(苦行)をしなさい。集中しなさい。浄化しなさい。瞑想しなさい。

運命論者になってはいけない。

無気力になってはいけない。

子羊のようにメェメェ啼いてはいけない。

ヴェーダンタのライオンのように、オーム、オームと吠えなさい(※2)

16歳で死ぬことになっていたマルカンデーヤ(※3)は、彼の苦行(タパス)のお陰で、16歳の不死の少年、チランジビ(※4)になった。

また、サヴィトリ(※5)は、どのようにして、彼女のタパスによって、彼女の死んだ夫を生き返らせたのか?

ベンジャミン・フランクリンマドラス高等裁判所の故シュリ・ムチュウスワミアイヤーは、どのように彼ら自身を高めたか?を忘れないでいなさい。

友よ、人は、彼の運命の主人であることを覚えていなさい。

クシャトリア(戦士、王族の階級)の王であるヴァシヴァ-ミトラ聖仙(※6)は、ヴァシシュタ聖仙(※7)のようなバラモン(祭祀階級)になって、彼のタパスの力によって、トリサンク(※8)のために、第三世界を創造した。

ロジュ・ラトナカーは、タパス(苦行)により、聖者ヴァールミーキ(※9)になった。

ジャガニとベンガルのマダイは、高度に発達した聖者になった。

彼らはゴーランガ-ニッチャナンダ神(※10)の弟子になった。

他者が為したことは何でも、あなたもすることができる。

これに関して、疑いはない。』

 

(※1)ヒンドゥー教においては、①ダルマ(道徳、倫理)、②アルタ(富、財産、生計)、③カーマ(欲望、性欲、情熱、憧れ、感覚への喜び、耽美的生き方、愛など)、④モクシャ(輪廻からの解放)の四つが、人生の目標とされている。

これら四つの目標はプルシャーチャ(Puruṣārtha)と呼ばれている。

(※2)ヒツジ(人間)だと思っているライオン(神)のお話し - 永遠の人

(※3)バーガヴァタプラーナ(インド神話)に出て来る、クランで生まれた古代のリシ(聖者)。彼と彼の妻は、シヴァ神を崇拝し、彼に息子を生む恩恵を求め、その結果、義の息子であるが地球上での寿命が短いか、知性が低いが寿命が長い子どもであるかの選択を与えられたため、父のムルカンデュは、前者を選び、16歳で死ぬ運命となる模範的な息子マルカンデーヤに恵まれた。

マルカンデーヤは、シヴァの偉大な信者に成長し、彼の運命の死の日、彼はシヴァリンガム(シヴァ神を象徴した形の石)という象徴的な形のシヴァ神の崇拝を続けたために、死の神であるヤマの死者は、彼の多大な献身とシヴァへの絶え間ない崇拝のために彼の命を奪うことができなかった。

その後、ヤマはマルカンデーヤの命を奪うために直接やって来て、若い賢人の首に縄をかけたが、偶然に、または誤って縄がシヴァリンガムに巻き付いたため、それを知ったシヴァは怒り、現れて戦いでヤマを倒した後、敬虔な若者が永遠に生きるという条件の下で、彼を復活させた。

(※4)チラン(永続的)とジビ(生きた)から、チランビジとは、不死の人を指す。

(※5)マハーバーラタの中の挿話。サーヴィトリーは、自分が選んだサティヤヴァッドという王子を夫に選んだが、彼は、一年後に命を落とすことになっていた。日々は過ぎ、その時まであと四日となり、サーヴィトリーは三夜続く苦行を行い、昼も夜も立ったままでいた。そしてその日が来て、死神ヤマは、サティヤヴァットの体から、親指ほどの大きさの霊魂を輪縄で縛って引き抜いたため、サティヤヴァットの体は死んだが、その後、諦めずに、サーヴィトリーは、ヤマとの問答を続ける中で、サティヤヴァッドの霊魂をヤマから取り戻すことができ、サティヤヴァッドは、生き返る。

(※6)ヴィシュヴァーミトラは、インド神話に登場する聖者(リシ)である。ヴェーダ詩人の1人で、『リグ・ヴェーダ』第3巻はヴィシュヴァーミトラの作と伝えられる。 (人類に、ガヤトリーマントラを授けた)。もともとはクシャトリア(戦士、王族の階級)の出身で、カニヤクブジャの王ガーディの子として生まれた。しかし聖仙ヴァシシュタと戦って敗北し、武人の無力さを嘆いて聖仙となることを志し、(千年間の)苦行の末にバラモン(祭祀階級)になったとされる。叙事詩マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』にはヴィシュヴァーミトラとヴァシシュタが反目し続けたことが述べられているが、この物語はクシャトリヤバラモンの対立を物語るとともに、バラモンクシャトリヤに対する優位性を説くものであるとされる。

(※7)七聖賢の一人に数えられ、ラーマ神に教えを説いた偉大な聖者として崇められる。

(※8)トリサンク王は、聖仙ヴァシュシタに、人間として天国へ行かれるように願ったが、ヴァシュシタは、それでは天国へは行かれないと突っぱねた。トリサンク王は、王国を追われたが、聖仙ヴィシュヴァーミトラに出会い、同じことを願うと、ヴィシュヴァーミトラは、トリサンク王のために祭式を行い、トリサンク王が天国へと行くことができるように神々に祈ったが、願いを叶えてくれる神々はいなかった。そこで、彼はヨーガの神通力で、トリサンク王を天国へと上げたが、インドラ神によって、引き下ろされてしまう。そのため、ヴィシュヴァーミトラは、トリサンク王のために、新たに世界を創造したが、トリサンク王は、その世界を通って完全に天国へ上ることができず、上に行くことも、下に下がることもない空の星座(南十字星)となった。

(※9)古代インドの聖仙。古代インドの大長編叙事詩ラーマーヤナ)の編纂者。彼は王家に生まれたが、まもなく幼子の時に森に捨てられ、そこにたまたまいた盗賊たちは彼を拾い上げ、名を与えたうえ育てた。それから幾多の年月を経て青年になっていた彼は一人前の盗賊として活躍し、道行く人々を襲い身ぐるみをはいでいた。ある日、偶然にも森林をさまよい小径を通りかかった聖仙ナーラダを彼は見つけ、いつものような調子で襲おうとするも却って諭され、問いからついに人生の真実を理解し始め、ナーラダに許しを請う。それからナーラダからあまねく垂教を受け、我が身を想い、瞑想にふけ続ける。いつしか彼のまわりを蟻の巣の丘が覆っていた。そのことからサンスクリット語の蟻の丘を意味するヴァールミーキと呼ばれるようになった。

(※10)ヴィシュヌ神の化身クリシュナへのバクティを説いた16世紀の聖者。「ハレ クリシュナ」のマントラを唱えながら踊る儀式で知られ、その後、ベンガル地域で彼が唱えたゴーディヤ・ヴァイシャニズム(ヴィジュヌ神を最上神とする考え)の教えは、現代のクリシュナ意識国際協会に引き継がれている。

 

 

How Destiny Is Built Up(どのように運命は創り上げられるのか?)

想いは、カルマ(行為)である。

考えることは、真のカルマ(行為)である。

思考は、あなたの性格を形成する。

思考は、物質化し、行為となる。

もしあなたが、心に善良で精神を高める想いを思案させるならば、あなたは、高貴な人格を発達させるであろう。

あなたは、善良で称賛するに足る行為を自然に行うであろう。

もしあなたが、悪い想いを抱くならば、あなたは、卑しい人格を発展させるであろう。

これは、自然の不変の法則である。

それ故、あなたは、潜在的な想いを養うことによって、あなたの人格を計画的に形成することができる。

あなたは、行為を蒔き、習慣を収穫する。

あなたは、習慣を蒔き、性格を収穫する。

あなたは、性格を蒔き、あなたの運命を収穫する。

こうして、運命は、あなた自身の組み立てである。

あなたは、それを構築する。

あなたは、高貴な想いを抱き、有徳な行為をし、あなたの思考方法を変えることによって、結び目を解くことができる。

小さな行為と大きな行為の印象は、共に合体し、傾向を形成する。

傾向は、性格に発達する。

性格は、意志を産み出す。

もし人が、強い性格を持つならば、彼は、強い意志を持っている。

カルマは、性格を産み出し、同様に、性格は意志を産み出す。

巨大な意志の人は、彼らの意志を数え切れない誕生で為されたカルマを通して、発達させたのである。

人が、強力な意志を発達させるのは、一つの誕生においてではない。

彼は、数々の良い行為を、数々の誕生で為している。

これらの行為の有効性は、共に集まり、一つの誕生で、苦闘する人は、ブッダイエス・キリストシャンカラのように、巨人として突発する。

どんな行為も、無駄ではない。

あなたは、あらゆる想い、言葉、行為を見なくてはならないであろう。

人の意志は、永遠に自由である。

利己心を通して、彼の意志は、不純になってしまった。

彼は、彼の卑しい願望や好き嫌いを取り除くことによって、彼の意志を純粋で、強く、ダイナミックにすることができる。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『個人的な哲学を確立し、自分の人生を再生し、自分のダルマや霊的な道を見つけた後は、霊的な旅には2つの準備の段階があります。

あなたは自分自身の人生に責任を持つことになります。

このポイントは、現代社会では特に重要だと思われます。

あまりに多くの人々が、自分の不運な状況を他人のせいにするという習慣にあるからです。

彼らの両親は、彼らを虐待したかもしれませんし、無視し、あるいは、何かしら彼らの真価を認め理解するのに失敗したかもしれません。

彼らは、結果は彼ら自身の不幸な結婚や、子どもとの難しい親子関係や仕事の失敗にあると言います。

おそらく、両親は虐待し、放棄し、無理解でしたが、彼らが知っている限りの最善を尽くしました。

疑いなく、ひとつの世代から別の世代への関連性があります。

もし、両親が子どもに虐待的なら、影響はあります。

しかしながら、子どもが原因と結果をよく理解すると、そのとき、それは、非難と責任から両親を解放し始めるときとなります。

それが起こるまで、子どもは進むことができません。

そのときまで、彼らは過去に束縛されます。

同じ種類の非難は、兄弟、伴侶、子どもたちに向けられます。

政府や教育制度、文化、歴史に向けられます。

人生で悪いことは何でも、不公平な兄弟関係や無関心な伴侶、貧乏な子ども、税金、不完全な学校、悪いときに生まれてしまったことなどのせいにします。

自分の人間関係、政府、歴史を理解し、非難することを手放しなさい。

あなたの人生であなたの選択でないもの、あなたがしたことではないこと、あなたのカルマでないものはありません。

それは厳しく聞こえるかもしれませんが、しかし、それが解放のための現実です。

もし、すべてはあなた自身がしたことであり、あなたの選択であるなら、そして、すべては霊的な成長にとって正しいなら、そのとき、本当に悪いものは何もありません。

すべての人は、成長のための機会を持っています。

恐れるべきものは何もありません。

カルマという言葉は、西洋文化においては主流の用法となっています。

しかしながら、残念なことに、その言葉は、しばしば西洋では正確に使われていません。

その意味はたびたび曲解されています。

現代の西洋社会の新しい語彙では、カルマという言葉は、非常に頻繁に使われるようになり、間違って運命論を意味するようになり、完全に人の手に負えないものを意味するようになっています。

人々は言います〝おお、それはカルマだ。あなたができることは何もない〟あるいは〝あなたの過ちではない。それは悪いカルマだ〟と。

カルマという言葉のこの解釈は、起こることは何であれ、人がしていることではない、という信念を暗にほのめかしています。

すべては宿命的なカルマのせいだとなります。

この見方は、個人の人生や環境に対する責任を手に取り、それをカルマと呼ばれる抽象概念に置きます。

まるで、それがあなたに影響を押し付けて吹き抜ける悪い風であるかのように。

これは、カルマが意味することではありません。

カルマは、あなたを窮地から救うために東洋から来た人の心をとらえる言葉ではありません。

カルマは、責任をあなたの環境や経験に置きます。

カルマは、あなたに責任があることを意味し、あなたはあなたの環境を決定します。

あなたは、あなたの現状、過去、未来の建築家です。

それは、罪を作り出すことを意味してはいません。

あなたの人生に対する責任を受け入れることは、行動し、変化し、成長する力をあなたに与えます。

それは、あなたが独立した存在であることを意味します。

あなたの人生は、他人がしたり考えたりすることに依存してはいません。

あなたは、環境や、両親、利己的な伴侶、思いやりのない子どもたち、暴君のような上司、経済的不況、世界の政治の犠牲者ではありません。

ヴェーダンタ哲学では、〝環境の犠牲〟というフレーズはあり得ません。

私たちが自分自身の中に見つけるこれらの環境は、自分自身のデザインであり意志なのです。

ヴェーダンタによると、これらの環境は、私たちがそれらに良いか悪いか、楽しいか不快かのラベルを貼ろうとも、私たちが自分の成長のために造り出した機会なのです。

最も純粋な意味で、それは、学び成長するための絶え間ない次から次へと続く機会があるだけのことなのです。

それは、カルマを理解し、私たちが、完全に私たちの人生に責任があるということを知ることから始まります。

これを理解するもうひとつの方法は、私たちが、自分の夢を見るように人生を理解することです。

私たちの夢は、私たち自身の創造物だということは受け入れられます。

それらは、私たちの潜在意識の心から、私たちの思考、願望、恐れから生じます。

これらの夢は、私たちに有益となり得ます。

それらは、感情や満たされない願望がうまく働くのを助ける自然な方法です。

目覚めている状態と少しも違いません。

目覚めている人生の環境は、私たちの神聖な性質の認識に向かって成長する機会を提供するために、私たちによって作り出されます。

成長への鍵は、私たちに最も不快なものを与える人間関係や状況にあります。

これらの人間関係や状況は、不運、あるいは〝悪いカルマ〟からそれらを繰り返すのではなく、不快な状況や人間関係が、私たちの自由への障壁を意味するからです。

自由は、私たちが自分で作り出したこれらの障壁を克服したときにやって来ます。

これらの障壁は、有効でも有害でもないということは、繰り返して言うのも憚ります。

西洋文化は、これらの障壁は罪と呼び、人々を欠陥者と呼びます。

西洋圏では、罪の観念ゆえに苦しんでいる、とここで述べることは重要です。

ヨーガの科学とヴェーダンタは、これらの障壁を障害物と呼んでいます。

これらの哲学的な制度では、戒律はなく、ただ適切な展望のもとに理解されるべき約束だけがあります。

罪の概念は、自信や目的の感覚を起こしません。

それは永遠に不完全な人間という認識を強固にし、人間という存在への宿命的なアプローチを助長します。

この視点から、もし、持たれるべき自由があるなら、それは個人にではなく、創造主の手の中にあるのです。

これは、人生に対するヴェーダンタの視点ではありません。

球根から生長する花を思いなさい。

花が十分に華麗に咲くということをある条件が可能にし、その条件は確かに必要です。

必要とされる条件の中には、球根、泥、水分、ある一定期間維持されるべき温度があります。

球根は、汚く、水浸しで、雑菌だらけの環境で生育する皮の部分が硬くて厚く、しなびた、みすぼらしいものだと言う人もいるかもしれません。

それがユニークな美しさで開花するとき、神がそうなされたのです。

ある西洋の宗教的な態度は、不純なものとして人の生を記述し、どんな美しさも外側の神から生じます。

ヴェーダンタは、それはただの性質であると言います。

球根はただそうであるだけです。

そして、その素晴らしく完璧な性質の十分な表現に至るには、ある条件が必要とされます。

同様に、人間は、ただ完璧なる自己の表現に向かう自然な道のりにあります。

それぞれの人は、起こるべき完璧さに向かう成長のために、正に正しい条件の下にあるのです。

カルマは、これらの条件を表現する方法です。

行為、あるいは、カルマから自由な人はいません。

何かをし、何かを言い、何かを考えることが、カルマなのです。

また、この言葉は、種子を蒔かれたものは、刈られなくてはならない、ということを意味しています。

この2つの定義は関連しています。

すべての行為は、反応をもたらします。

すべての原因は結果を持ちます。

すべての考え、言葉、行いは、特定の結果をもたらします。

過去に私たちがどんな行為を行おうとも、それらの結実は、現在そして未来に生み出され、それが私たちの苦しみや哀しみの本当の原因です。

ひとたび矢が放たれると、それは目的へと向かわなくてはなりません。

矢が私たちの手の中にある限り、私たちはそのコースを選ぶことができます。

過去に私たちが無知で犯したすべての悪い行いは、不運な結果を生み出します。

私たちは、同じ過ちを再び犯すことには気をつけるべきなのです。

この哲学は、彼らが以前に犯したすべての過ちの結果を見込んで、人々を震えさせるというものではありません。

非常に自然で論理的なものを記述するという立場から、カルマの概念を展開のプロセスにおける段階として再考してみてください。

ヴェーダンタは、プロセスの長い視点をとり、この視点は、ナチケータが説明したいと思った神秘である死の秘密を説明します。

ナチケータは、もし、彼が死の神秘を理解できるなら、生の意味は明らかになるだろうと知っていました。

ヴェーダンタによると、神秘とは、今も在り、過去にも在り、これからも在るだろうすべてを構成している単一なる知的な意識が在る、ということです。

私たちが認識し、それで宇宙の部分を名付けるすべての名前と形は、純粋意識の断片であり、陰であり、反射であり、かすかな光なのです。

私たちが、この世の存在と呼ぶこの停車駅における人生の目的は、その実在を完全に発見することです。

この世の存在は、個人にとって実在へ至るための道を作るための外見上の建築であるだけなのです。

カルマは、私たちが創造する建築に私たちをつないでおく生と呼ばれるロープのようなものです。

私たちは、カルマは惨めさの源であると言うことができます。

私たちは、行為の結果をこうむるので、カルマに集中することができます。

カルマは、この世界とすべての苦痛を与える不完全さに私たちを縛り付けるものである、と言うことができます。

より高い視点であるもうひとつ別の考え方があります。

私たちは、カルマを私たちが純粋意識の明晰さを獲得するために取らなくてはならないカリキュラムとして見ることができます。

それ以上のものではありません。

私たちが人生と呼ぶ迷宮を通してカルマというロープに従い、絶対的な実在を見つけなさい。

実在が見つけられるまで、私たちは、この世の人生のこの停車駅に戻って、迷宮をあちこち動き続けます。

これらの隠喩をあまりに働かせてしまうことを承知の上で言うなら、カルマとして私たちが言及する自ら課した課題を終了するまで何度も何度も、私たちはひとつの人生の一連のコースをとり、さらなるコースのためにまた別の生に帰ります。

死は単に1学期の終わり、あるいは、長い文章の点に過ぎません。

カルマは重荷として見られるかもしれませんが、別のやり方は、カルマを自然の導き手、指導者、必然的なものとして見ることです。

ヤマは、ナチケータに無知の闇に住み、富や財産により惑わされる人々は、死の罠に捕らえられると言いました。

これらの存在は、死から死へとあちこちに旅をします。

カルマは、人をあちこちに運ぶボートなのです。

旅が終了するまで必要な乗り物です。

カルマの法則は、逃れられないものであり、それはこの世の人生で終わりません。

人は死ぬと、自分と共にカルマの法則の種子を運びます。

死はそれを変えません。

死はただ、人生の外側の面、肉体という外観、骨や血が捨てられることを意味するだけです。

より微細な人間の中身である思考、感情、カルマは続きます。

人のすべての思考、感情、カルマは、微細な心の中に蓄積されます。

チッタ(潜在意識)のベッドの中に、行動や思考から彼らの道を見つける印象は、サンスカーラ(過去の残存印象)と呼ばれます。

今度はサンスカーラが引き起こす行動、彼らが形作る個人的な特徴、それぞれの人が自分自身を見つける習慣や好みは、ヴァーサナ(精神的傾向)と呼ばれます。

私たちは、今、個人の生涯から生涯への外側の動きであるカルマの車輪について話しています。

私たちは行動し、考え、願い、特殊な記憶として、溝が心に深く刻み付けられます。

溝はサンスカーラです。

私たちがある方法で行動すればするほど、考えれば考えるほど、望めば望むほど、溝はより深く刻み付けられます。

記憶から湧き出る傾向は、ヴァーサナなのです。

溝が深ければ深いほど、傾向は大きくなります。

例えば、怒りに対して強い傾向を持つ人は、深い怒りの溝を持っています。

より多くの怒りは、溝を深くし、カルマの傾向の影響を強めることを意味します。』 

(次回に続きます)

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

『質問者

「現在の状態は過去のカルマによると言われています。

私たちは今、自由意志によって過去のカルマを超えることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「現在とは何なのか?

それを見てみなさい。

もしそうするなら、何が過去や未来をもち、それらに影響されるのか、何が永遠に存在し、何がつねに自由なのか、そして何が過去や未来やカルマからの影響を受けずにとどまるものかを、あなたは理解するだろう。」

 

質問者

「自由意志というものは存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰の意志だろうか?

行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。

だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探究)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。

ジニャーナによって運命は克服される。

真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。」

 

質問者

「人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足りないことまで、すでに決定されているのでしょうか?

例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置きました。

それはこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、すでに決定されているということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろんだ。

何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在したときにすでに決定されているのである。」

 

質問者

「それでは、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーニを得ることである。

それが彼と身体との同一化を断ち切る。

身体はプララーブダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっているのである。」

 

質問者

「それでは、自由意志とは作り話なのでしょうか?」

 

マハルシ

「自由意志は個人性にかかわる領域で維持される。

個人性が維持されるかぎり、自由意志は存在する。

すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、自由意志を正しい経路に向けるように勧めている。

誰にとっての自由意志や運命が問題となるのか見いだしなさい。

それらがどこから来るのか見いだし、そしてその源にとどまりなさい。

もしあなたがそうするなら、その両方とも超越される。

それがこの質問について論議をする唯一の目的なのである。

誰にとってこの質問が起こったのか?

それを見いだして、心やすらかになりなさい。」

 

質問者

「もし、起こる運命にあることは起こるというなら、祈りや努力が何の役に立つというのでしょう。

あるいは私たちはただ怠惰に、無為のままでいるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「運命を克服する、あるいは運命に依存しない方法が二つある。

ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探究し、そして運命に束縛されているのは、真我でなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。

もうひとつの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです。」とつねに言うことで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して、神の意のままにあなたをゆだねることである。

帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しはけっして完全なものになりえない。

真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり、ただそれだけのためにある。

解脱のためでさえない。

言葉を換えれば、真我探究の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。」

(あるがままに ラマナ・マハリシの教え)

 

 

 

『活動(カルマ)とは また無活動(在カルマ)とは何か

賢明な者でも これを定義するのに迷う

今わたしはここで活動(カルマ)とは何なのかを説明する

これを知って君はあらゆる罪から離れよ

 

活動(カルマ)の諸相は まことに複雑 神秘であり

これを理解することは難しい だが

人は活動(カルマ) 誤活動(ヴィカルマ) 無活動(アカルマ)について

正しく学ばなければならない

 

活動のなかに 無活動を見

無活動のなかに 活動を見る人は

たとえどんな種類の仕事をしていても

相対世界を超越した覚者である

 

すべて欲望を持たずに行動する者は

完全智を得た人と心得よ

賢者たちは そのような人々を

大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ

 

仕事の結果に全く執着しない人は

常に楽しく 自由自在である

あらゆる種類の活動をして

しかも無活動 無業報である

 

このような英智の人は精神を完全に統御して

”我所有”の観念が全く無い

肉体を維持するに足るだけ働き

したがって悪行報を全く受けない

 

無理なく入ってくるもので満足し

我・他(あれ) 彼・此(これ)を比較して悩み羨むことなく

成功にも失敗にも心を動かさぬ者は

どんな仕事をしても束縛されない

 

物質界(このよ)の利害得失を超越して

無執着の活動をする

自由な人のする仕事は

ことごとく至上者(かみ)への供犠(ささげもの)となる

 

聖なる意識(ブラフマンの意識)で活動すれば

必ず聖なる領域(くに)に達する

聖なる意識で捧げた供物も 供物者(そのひと)も

ことごとく永遠の大実在(ブラフマン)である

 

種々様々な 天神地祇(かみがみ)に

それぞれ異なった形式で供養する修行者(ヨーギー)もあり

ブラフマンの火のなかに

捧げものをする修行者もいる

 

聴覚その他の感覚を

抑制の火に投じて供えものとし

また 音その他の感覚対象を

供犠の火壇に供える者たちもいる

 

真我実現を熱望している人々は

心と感覚をすべて制御し

五官の機能と呼吸までも供犠として

精神統一の火に投じる

 

激しい誓いをたてて

ある者は財産を捧げ ある者は苦行をする

またヨーガの八秘法を行う者もあり

またある者は無上の智識を求めてヴェーダを学ぶ

 

恍惚境に入るため呼吸を支配する者もいる

呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気(アパーナ)を呼気(プラーナ)に捧げ

ついに呼吸を全く止めて恍惚境に入る

また食を制し 呼気を呼気に捧げて供物とする者もいる

 

供犠の真意を知って行う者は

罪障の業報を逃れ 身心を清めて

その供物の残余(のこり)である甘露を味わいつつ

永遠の楽土に入って行くのだ

 

クル王朝のなかで最も優れた人よ

以上話した供犠を行わない者たちは

この生涯で決して幸福にはなれず

まして次の世では どんな目にあうことか

 

このような様々な形の供犠は

ことごとくヴェーダの是認するもの

そしてこれは様々な活動(カルマ)によってできる

この理を知れば 君は自由自在だ

 

敵を撃滅する者よ 物品の供犠より

智識の供犠は はるかに勝る

プリターの息子よ すべての活動は

究極には超越智識(ブラフマンの智識)に通じる

 

導師に近づいて真理を学び

うやうやしく問い 教えに従って師に仕えよ

自己の本性を覚った見真の人は

弟子に智識を授けることができるのである

 

このようにして真理を悟ったならば

君は再び幻影に迷うことなく

全宇宙の生物はすべて わたしの一部であり

わたしの内にあり わたしの所有だと知るのだ

 

たとえば君が極重の罪人だとしても

この大智の舟に乗ったならば

あらゆる苦痛と不幸の大海を

難なく渡り超えて行くことができよう

 

アルジュナよ 燃えさかる炎が

薪を焼き尽くして灰にするように

あらゆる行為の業報はことごとく

智慧の火によって燃え尽き灰となる

 

この大いなる智識こそ

この世における無上の浄化力

ヨーガによって それを完成した人は

ただ内なる真我を楽しむ

 

堅く熱心な信仰を持つ人

感覚の欲望を制御する人は

この無上の智識を得て

速やかに究極の平安に到る

 

無知にして信なき者たち

神の啓示による聖典を疑う者たちは

この世においても来世においても

平安を得られず常に不幸である

 

果報を求めずに働く人

正智によって疑いを切り捨てた人

自己の本性に徹して 自由自在となり

カルマに縛られないのだ 富の征服者(グナーンジャヤ)よ

 

バラタ王の子孫よ 心の迷いと疑いは

君の無知が原因で生ずるのだ

さあ 智慧の剣でそれを斬り捨て

ヨーガで武装し 立ち上って戦え』

(バガヴァッド・ギーター 第4章16ー42)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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