永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(54)ヨーガ②
前回より、ヨーガについて、その中でも特に、ヨーガの目的について、ご紹介させて頂きました。
私たちは、通常、何かをする時、目的を明確にすることによって、その行動によってもたらされるだろう結果を想像して、頑張ろうという気持ちになるものですが、ヨーガの実践により、心身の健康、健やかさがもたらされることは、よく知られていますが、本来は、心身の健やかさは、ヨーガの副産物的な結果であって、ヨーガ本来の目的ではありません。
それは、前回の記事の中でもご紹介しました通り、ヨーガが、アーサナ(身体的浄化法)に留まらず、日常生活における継続的なヤマ(やってはいけないこと)・ニヤマ(やった方が良いこと)の実践により、より善い人間的な在り方へのアプローチ、及び、直接的、具体的な修練的なアプローチ、すなわち、アーサナだけでなく、プラーナヤーマ(調気法)そして瞑想へと続く一連の訓練体系を基に、人間が体験でき得る究極の真理のための直接体験の好機を、それを求める実践者、探究者に与することができる最も効果的な実践の道であると、多くの成就者が語っていることからも明らかです。
最終的なヨーガの目的は、このヨーガ(合一)という言葉が示すように、正に「神との合一」ですが、これは、言葉を換えると、「(神と私との間の)分離(感)の消滅」ということになります。
ヨーガにおける「分離(感)の消滅」とは、この宇宙の唯一絶対なる実在である「神」とこの「私」とは、分離せず、本質的には、”一つ”であり、ソレ以外には、実在していない、ということを意味しています。(サルヴァン・カルヴィダン・ブラフマン--すべてはブラフマンである)
これが、アドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元論)の最も重要な要点であり、究極の真理とされているものです。
このことを、体験を通して識ること、それが、ヨーガ(合一)の最終的な目的なのです。
(言い換えると、「ヨーガ」(合一)の道とは、人間にとっての「解脱」への道ということになります)
この目的のために、ヨーガは、長い年月をかけて、多くの成就者の経験の蓄積によって、一つの理論体系として纏められたものであり、これまで多くの人々が、このヨーガの道を通って、神との合一を成就し、究極の真理を体得しました。
今回も、グルとして人々にヨーガの道を説き、お手本を示して下さったスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、スワミ・ヴィヴェーカーナンダによる各国で開催された講演会における講話、そして、最後は、ラマナ・マハルシのアシュラムにおけるサット・サンガでの質問者への回答から、「ヨーガ」について、わかりやすくそのエッセンスを説いて下さっている御言葉をご紹介したいと思います。
Prerequisites for Yoga Life(ヨーガ的生活のための必要条件)
道徳的な純粋さと霊的な熱望は、ヨーガの道における最初の一歩である。
静かな心を持つ人、グルの言葉を信頼する人、食事と睡眠において適度な人、サムサーラ・チャクラ(生と死のサイクル)からの解放を熱心に求めている人は、ヨーガを実践する資格のある人である。
ヨーガの道における熱望は、信頼、エネルギー、快活さ、勇気、忍耐、正直さ、純粋さ、心の意気消沈の欠如、冷静さ、熱意、集中力、落ち着き、自制心、誠実、非暴力、無欲、などを持つべきである。
禁欲的で質素な生活が、ヨーガにとっては不可欠である。
ヨーガの基本は、自己制御である。
訓練は、身体の訓練だけでなく、心の訓練が、ヨーガの本質である。
ヨーガの実践においては、心の通常の外的な活動の破棄がある。
心の固定は、心の外的活動の破棄にとって、必須である。
心がまず第一に固定され、完全にコントロールされないと、反対側へとコースを変えることはできないだろう。
The Four Paths (四つの道)
神を悟るための四つの主な道は、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、そしてジニャーナ・ヨーガである。
カルマ・ヨーガは、活動的な気質の人に適している。
バクティ・ヨーガは、献身的な気質の人に適している。
ラージャ・ヨーガは、神秘主義的な気質の人に適している。
ジニューナ・ヨーガは、論理的で哲学的な気質の人に適している。
カルマ・ヨーガは、無私の奉仕の道である。
バクティ・ヨーガは、神に専念された献身の道である。
ラージャ・ヨーガは、自己抑制の道である。
ジニャーナ・ヨーガは、智慧の道である。
カルマ・ヨーガは、意志の訓練である。
ジニャーナ・ヨーガは、知性と理性の訓練である。
バクティ・ヨーガは、感情の訓練である。
意思は、神への完全なる帰依を通して、すべての行為を清める。
知性は、神の栄光と威厳を悟る。
感情は、神聖なる歓喜という至福を経験する。
三つの永遠なる道は、ジニャーナ、カルマ、バクティである。
神は、愛であり、善であり、真理である。
神は、愛として、帰依者に経験される。
神は、カルマ・ヨーギーによって善として経験される。
神は、ジニャーナには、真理として経験される。
ある人は、カルマ・ヨーガの実践だけが救済への手段であると主張する。
ある人は、神への帰依が、神を悟るための唯一の方法だと考える。
ある人は、智慧の道が、最終的な至福へ到達する唯一の道だと信じている。
また、ある人は、三つのすべての道は、等しく完成と自由をもたらすのに充分に有効であると考えている。
The Yoga of Synthesis(統合のヨーガ)
一方に偏した開発は、感心しない。
宗教は、人間全体を、ハートも知性も手をも教育し、開発しなくてはならない。
その時だけ、彼は完成に達するであろう。
人は、意志、感情、思考の奇妙で複雑な混合物である。
彼は、自分の望みの目的物を所有することを望む。
彼は、感情を持ち、それで彼は感じる。
彼は、理性を持ち、それで彼は考え、推論する。
人によっては、感情的な要素が優るかもしれないが、中には、理性的な要素が優勢な人もいる。
意志や感情や思考が、はっきりと分かれていないように、また、仕事、献身、知識も互いに限定されていない。
心においては、三つの弱点、マラ(不純)、ヴィクシェパ(混乱)、アバラナ(無知)がある。
不純は、カルマ・ヨーガの実践によって取り除かれるべきである。
混乱は、ウパーサナ(礼拝)によって取り除かれるべきである。
無知は、ジニャーナ・ヨーガの実践によって、破壊されるべきである。
その時だけ、自己実現(Self-Realization)は、可能である。
もし、あなたが、鏡で自分の顔をはっきりと見たいのであれば、あなたは鏡の汚れを取り除き、その状態を維持し、そして覆いを取り除かなければならない。
あなたは、濁りが取り除かれ、風によって波立たされた水面が静かになり、表面にある苔が取り除かれた時にだけ、湖面にはっきりと自分の顔を見ることができる。
自己実現(Self-Realization)とは、そういうものである。
行為、感情、知性は、この身体という馬車につながれた三頭の馬である。
それらは、完全に調和して働き、その時だけ、馬車はスムーズに走る。
統合的な開発がなければならない。
あなたは、シャンカラ(註①)の頭脳、ブッダ(註②)のハート、ジャナカ王(註③)の手を持たなくてはならない。
統合のヨーガだけが、完全なる開発をもたらす。
統合のヨーガだけが、頭脳、ハート、手を開発し、人を完成に導く。
あらゆる方向に調和してバランスを取ることは、宗教の理想であり、統合のヨーガの実践により達成されることができる。
すべての存在の中に、一つの真の自己を見ることは、ジニャーナ、智慧である。
真の自己を愛することは、バクティ、献身である。
真の自己に仕えることは、カルマ、行為である。
ジニャーナ・ヨーギーが智慧に達する時、彼は献身と無私の行為を賦与される。
彼がすべての中に、ひとつなる真の自己を見る時、カルマ・ヨーガは、彼にとっては、彼の霊的な性質の自発的な表現である。
献身者が、献身において完成に達する時、彼は智慧と行動を持つ。
彼にとってはまた、カルマ・ヨーガは、彼がどこにでも一つなる神を見る時、彼の神聖なる性質の表現である。
カルマ・ヨーギーは、彼の行為が完全に無私である時、智慧と献身に達する。
三つの道は、実際には、一つであり、その中で、三つの異なる気質が一つ、或いは、分離し難い他の構成要素を強調している。
ヨーガは、真の自己が見出され、愛され、奉仕され得る方法を提供している。
(Bliss Divine by Swami Sivananda)
註①(8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二一元論(アドヴァイタ)を提唱した。)
註②(紀元前5世紀前後の北インドの哲学者で、仏教の開祖。)
註③(インドの叙事詩「ラーマーヤナ」の登場人物で、インド神話最大の英雄の一人ラーマの妃シータの父。戦いにおいて勝つ望みがなくなった時、神々に祈りを捧げると、神々はジャナカに勝利を与えた。)
『ラージャ・ヨーガという科学はまず第一に、心の状態を観察するそのような方法を与えようとするものです。
道具は心それ自体です。
注意力は、正しく導かれ、内なる世界に向けられると、心を分析し、われわれのために事実を照らして見せるでしょう。
心の力は、分散された光線のようなもの、集中されると、それらは光輝きます。
これが、われわれが知識を得るための唯一の手段です。
外界でも内なる世界でも、あらゆる人がそれを用いています。
しかし心理学者の場合には、科学的な人が外界に向けるのと同じ精密な観察が、内なる世界に向けられなければなりません。
そしてこれは、膨大な修練が必要です。
子供のとき以来われわれは、内なる世界の事実は無視して外界の事物だけに注意を向けるよう教えられてきましたので、われわれの大部分は、内面のメカニズムを観察する能力をほとんど失ってしまいました。
心をいわば内側に向け、それが外に向かうのを止め、それからそのすべての力を集中し、それ自身の性質を知ることができるようにそれらを心自体の上になげかけ、それ自身を分析する、というのは、非常に骨の折れる仕事です。
それでも、それが、この主題への科学的なアプローチと言えるものへの唯一の道なのです。
何がこのような知識の用途なのでしょうか?
まず第一に、知識それ自体が、智識の最高の報いです。
そして第二に、それの中に効用もあります。
それは、われわれの不幸を全部取り除くでしょう。
彼自身の心を分析することによって、人が言わば、決して破壊されることのないあるものに、本来永遠に清らかな、そして永遠に完全なあるものに直面するとき、彼はもう、惨めではないし、不幸でもないでしょう。
すべての不幸は恐怖から、満たされない欲望から生まれます。
人は、自分は決して死なない、ということを知るでしょう。
そのとき彼はもう、死の恐怖は持たないでしょう。
自分は完全であると知るとき、彼はもう、むなしい欲望は持たないでしょう。
そしてこれらの原因が二つともなくなれば、そこにはもう不幸はないでしょう――すでに肉体の中にいる間から、そこには完全な至福があるでしょう。
この知識を得させるたった一つの方法があります。
集中という方法です。
化学者は彼の研究室で心のエネルギーのすべてを一点に集中し、それらを、彼が分析しつつある物質の上に投げかけ、それらの秘密を見いだします。
天文学者は、個人のエネルギーのすべてを集中し、それらを望遠鏡を通して天空に放射します。
すると星々や月や太陽は、彼らの秘密を彼に向かって明かすのです。
私が自分の想いをいまお話している事柄に集中することができればできるほど、私より大きな光を、みなさんの上に投げかけることができます。
みなさんは私の言葉に耳を傾けておられます。
自分の思いを集中なさればなさるほど、よりはっきりと、私の言おうとしていることを把握なさるでしょう。
心の力の集中によるのでなければ、世界中の知識はどうして得ることができたでしょう?
われわれがどのようにしてノックするかを、どのようにしてそれに必要な打撃を与えるべきかを知りさえすれば、世界はその秘密を明かそうと待ち構えているのです。
打撃の強さと力は、集中から来ます。
人間の心の力には際限がありません。
集中されればされるほど、大きな力が一点に押し迫ります。
それが秘密なのです。
心を外界のものに集中することは容易い。
心は自ずと外の方に向いて行きます。
しかし、主体と対象とが同一である、宗教、心理学、または形而上学の場合には、そうは行きません。
対象は内にあり、心自体が対象であって、心自体を研究しなければなりません--心が心を研究しているのです。
われわれは、内省という、心の力があることを知っています。
私はみなさんに話しています。
同時に、自分が話しているのを知り、かつ聞きながら、まるで第二の人物のように脇に立っています
みなさんの心の一部はかたわに立って、みなさんが思っていることを見ているのですから、みなさんは同時に、働き、かつ思っているわけです。
心の力は集中され、それ自身の方に向けかえられなければなりません。
そうすると、太陽の刺し貫くような光線の前には真っ暗な場所もその秘密を明かすように、この集中された心は、それ自身の最奥の秘密を洞察するでしょう。
このようにしてわれわれは、信仰の根底、真の純粋な宗教に到達するでありましょう。
自分たちは魂を持っているのか、いないのか、生命は束の間のものか、永遠のものであるのか、宇宙に神はおられるのか、おられないのか、自分で知覚するでしょう。
それはことごとく、われわれの前に示されるでしょう。
これが、ラージャ・ヨーガが教えようとしていることです。
それの教えすべての目標は、どのようにして心を集中するのか、それからどのようにして自分たちの心の奥底を知るのか、それからどのようにしてその内容を総合し、そしてそれらから自分たちの結論を引き出すのか、ということです。
ですからそれは決して、われわれの宗教が何であるか、われわれは理神論者であるか、それとも無神論者であるか、キリスト教徒か、ユダヤ教徒か、それとも仏教徒か、というようなことは、問いません。
われわれは人間です。
それで十分です。
あらゆる人間は、宗教を求める権利と力を持っているのです。
あらゆる人間は、なぜ、と理由を尋ねる権利と、もし彼が面倒を厭いさえしないなら、自分でその問いに答えを与える権利とを持っているのです。』
(ラージャ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『質問者
「プラーナヤーマには吸気、呼気、維持の三つの段階があります。
それらはどのように調整されるのでしょうか?」
マハルシ
「身体の自己同一化を完全に放棄することこそが呼気(レチャカ)であり、「私は誰か?」という探求を通して内側に消え去ることこそが吸気(プーラカ)である。
唯一の実在である「私はそれである」(I AM THAT)としてとどまることこそが維持(クンバカ)である。
これこそが真のプラーナヤーマである。」
質問者
「瞑想の初期においては呼吸、つまり呼気と吸気に注意を払い、ある程度の心の静寂さが得られたあとに心の源を求めてハートのなかへ潜ることができると『マハー・ヨーガ』に述べられていました。
私はこのような実践的な指導を切望していたのです。
この方法に従ってもよいでしょうか?
それは正しいでしょうか?」
マハルシ
「重要なことは、いかにして心を消し去るかということである。
真我探究に従うだけの力をもたない者には、心を制御する助けとしてプラーナヤーマを選ぶことが勧められる。
プラーナヤーマには二つの種類がある。
呼吸を制御し調整する方法、そしてただ自然な呼吸を見守る方法である。」
質問者
「呼吸を制御するためには、吸気が一、維持が四、呼気が二という割合が最もよいのではありませんか?」
マハルシ
「このような割合や、数を数えるのではなくマントラを口に出しながら呼吸を調整する方法は、みな心を制御する助けとなる。ただそれだけである。
呼吸を見守ることもプラーナヤーマの形式のひとつである。
吸気、維持、呼気の形式はより暴力的であり、各段階を追って正しい師が指導していなければ、危険をともなうこともあるだろう。
だが、単に自然な呼吸を見守る方法はやさしく、危険を含むことはない。」
質問者
「クンダリニー・シャクティ(クンダリニーの力)はシャクティ(力)を得るヨーガの道に従う者だけに現れるのでしょうか。
それとも帰依や愛の道に従う者にとっても現れるのでしょうか?」
マハルシ
シャクティの真の本性が知られたとき、それはアカンダーカーラ・ヴリッティ(純粋意識)あるいはアハム・スプーラナ(「私」の光輝)と呼ばれる。
いかなる道に従おうとも、クンダリニー・シャクティはすべての人にとって存在している。
ただ名前が異なっているだけである。」
質問者
「シャクティは五つの相、十の相、百の相、千の相に現れると言われています。
五と十と百と千、いったいどれが本当なのでしょうか?」
マハルシ
「シャクティにはひとつの相しかない。
もしシャクティがそれ自体をいくつかの層に現すと言われているならば、それはただの表現の仕方にすぎない。
シャクティはただひとつである。」
質問者
「ジニャーニは彼の道に従う者たちばかりではなく、ヨーガのような他の道に従う者たちも助けることができるのでしょうか?」
マハルシ
「疑うまでもない。
人々がどんな道を選ぼうとも、彼は助けることができる。
それはちょうどこのようなものだ。
ひとつの山がある。
それに登るにはたくさんの道があるだろう。
もし彼が自分の登ってきた道を人びとに勧めたとしても、ある人はそれを好み、ある人は好まないだろう。
好きになれない道、ただその道だけを登れと言われても、登ることはできないだろう。
それゆえ、ジニャーニは人びとが選んだ道が何であろうとただ助けるのである。
中間地点にいる人は他の道の長所や短所を知らない。
だが、頂上に登り、そこから昇ってくる他の人びとを観察する人は、すべての道を見ることが可能だ。
それゆえ、彼は昇ってくる人びとに少しこちら側に寄るようにとか、穴や崖を避けるようにと忠告することができるのである。
目的地はすべての人にとって同じものである。」
質問者
「『シュリー・ラマナ・ギーター』のなかに述べれたエイルチット・ジャダ・グランティ(身体と意識との結び目)を断ち切るために、プラーナ(生気)をスシュムナー・ナーディ(脊柱のなかにある霊的神経)に送りこむにはどうすればよいのでしょうか?」
マハルシ
「「私は誰か?」と探求することによってである。
確かにヨーギはクンダリニーを目覚めさせ、スシュムナーまで送り上げようとしているかもしれない。
一方、ジニャーニにとってはこれが彼の目的ではないかもしれない。
だが、どちらもプラーナをスシュムナーに送り上げてチット・ジャダ・グランティを断ち切るという同じ結果に到達するのである。
クンダリニーはアートマン、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。
われわれはクンダリニーを身体のなかにあるように語る。
なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在と見なしているからである。
だが、実際クンダリニーは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。』
(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)
次回に続きます。
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