永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(3)

わたしは誰か?

その答えは、簡単です。

真我(アートマン)です。

 

しかし、この自己の本性である真我(アートマン)を知ることは、現実には、そう簡単ではありません。

個我(ジーヴァ)は、アートマンであるにも拘わらず、アートマンを知らずに、一生を終えます。

このことを「無知」と言うことがありますが、通常、人は無知で生まれ、無知で死んでいくのが一般的であると言えます。

 

そして、真我(アートマン)を知ることにより、この「無知」が取り除かれることで、人は最高の智慧に至り、この智慧の光で無知という暗闇が消え去ると言われています。

 

よって、私たちが抱いているあらゆる疑問も消え去ります。

 

疑問や質問は、「無知」から生じているのです。

 

「わたしは誰か?」という質問も、「無知」が原因で生じているのですが、その質問が起きる源は、「わたし」なので、畢竟、「わたし」とは「無知」そのもの、ということになります。

 

真我探究は、この「無知」(=わたし)を取り除いていく作業である、と言えます。

 

それは、「わたし」(=無知)の源を探って、その正体を知ることで、最高の智慧(ジニャーニ)に至る道なのです。

 

それでは、前回に引き続き、多くの人が興味を持っていると思われるシッディ(神通力、超能力)について、シュリ・ラマナ・マハルシのお言葉を見ていきましょう。

 

 

 

『質問者

「ラーマクリシュナがしたように、イーシュワラ神(名前を持った創造神)と話をすることは可能でしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん、われわれが今たがいに語りあっているように、イーシュワラ神と語りあうことはできる。」

 

質問者

「それなら、なぜそれは私たちに起こらないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それには力強く純粋な心と瞑想が必要とされるのだ。」

 

質問者

「それらの条件が満たされれば、神の存在は証明されるのでしょうか?」

 

マハルシ

「神はあなた自身の実在と同じだけの実在性をもって現れる。

言い換えるなら、目覚めの状態のように自分自身を身体と同一視すれば、あなたは粗大な対象物を見るだろう。

夢見のときのように、あなたが精神的次元あるいは微細身のなかに存在すれば、同じように対象物も微細なものとして見るだろう。

深い眠りのなかでは対象物も存在しないように、あなたは何も見ない。

見られた対象物は見る者の状態と関係しているのである。

神の幻影にもこれと同じことが当てはまる。

神の姿に長い間瞑想をつづければ、それは夢のなかに現れ、のちには目覚めの状態にさえ現れるだろう。」

 

質問者

「ここを訪れる多くの人たちが、あなたから幻影や想念の流れを受け取っていると私に語っています。

私がここに来てすでに一カ月半が経っていますが、まったくそのような体験の兆候がありません。

それは私があなたの恩寵を受けるに値しないということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「幻影や想念の流れは心の状態に依存する。

それは個人に依り、普遍の存在に依るのではない。

そのうえ、そのようなことは問題ではない。

問題は心の平和である。

真我の実現とは何だろうか?

それは四本の腕を持ったような奇抜な神の姿を見ることだろうか?

たとえ神がそのような姿で現れたからといって、弟子の無知をぬぐい去ることができるのだろうか?

真理は永遠の実現でなければならない。

直接の知覚は常在の体験である。

神が直接知覚されたとき、神自身が知られるのである。

神が何か特別な姿で弟子の前に現れることを意味するのではない。

永遠のものでなければ、実現は何の役にも立たない。

四本の腕を持った神の顕現が永遠の実在と言えるだろうか?

それは単なる現象であり、幻想でしかない。

そこには見る者がいなければならない。

その見る者こそが実在であり、永遠なるものである。

神が百万の太陽として現れるなら、そうあらしめるがいい

だが、それがプラティヤクシャ(直接体験)と言えるだろうか?

神の幻影を見るには目と心が必要だ。

それは間接的知識であるが、見る者は直接的体験である。

見る者こそがプラクティヤクシャなのである。」

 

質問者

「『パタンジャリ・スートラ』のなかに言及されているシッディは真実なのでしょうか。

それともそれは夢のなかだけのことなのでしょうか?」

 

マハルシ

ブラフマンあるいは真我を実現した人は、シッディを重んじない。

パタンジャリ自身、それらはみな心によって為され、真我の実現を防げると言っている。」

 

質問者

「超人と呼ばれる人たちの能力についてはどうでしょうか?」

 

マハルシ

「二つの種類のシッディが存在する。

そのひとつは実現へ向けての障害となる。

マントラによって、魔術的な効果をもった何かの薬によって、厳しい苦行によって、ある種のサマーディによって、その力は獲得されると言われている。

だが、そのような力は真我実現の助けにはならない。

たとえそれらを得たとしても、あなたは無知のままとどまるだろう。」

 

質問者

「もうひとつの種類とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と智慧だ。

それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。

それはひとりでに現れ、神から与えられたものだ。

それはその人の運命にしたがってやってくる。

だが、シッディを得ようと得まいと、至高の平和に住まうジニャーニは気にとめない。

なぜなら彼は真我を知っており、それこそが不動のシッディである。

彼らは努力によってシッディを得ようとはしない。

あなたが真我の実現の状態にあるとき、その力が何であるかを知るだろう。」

 

質問者

「賢者たちは他の者たちに真我を実現させるため、超自然的な力を用いるのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼の真我実現の力は、他のすべての力よりもはるかに強力なものである。

シッディには多くの種類があると言われているが、ジニャーニだけがそのなかで最高位のものである。

なぜなら、他のシッディを達成した者たちはジニャーナを求めるが、ジニャーナを達成した者たちがシッディを求めることはないからである。

それゆえ、ジニャーナだけを熱望しなさい。

シッディは、それを所有しない者たちにとっては素晴らしいものと映るかもしれない。

だが、それはつかの間のものでしかない。

はかないものを追いかけるのは、はかないことである。

ひとつの不変の真我のなかにすべての不思議が含まれているのである。

全存在である神、自ら進んで与える用意のある神から、役にも立たない超能力を欲深く乞うことは、すべてを喜んで与えようとする慈悲深い人から、古くてかびくさくなった薄がゆを乞うようなものだ。

究極の帰依に輝く炎で灯されたハートのなかには、すべての超能力がひとつとなって備わるようになる。

だが、主の御足元の完全な虜となったハートを持つ帰依者がシッディを望むことはない。

解脱への途上で努力を重ねる探求者が超自然的な力の獲得を目標とすれば、彼らの固い束縛はさらに強められていくだろう。

そしてそのために自我の威力はますます増大していくだろう。

完全なる全体性、解脱の輝きである真我の達成(シッディ)だけが真の知識の成就である。

一方、別の類のシッディは、アニマ(原子ほど小さくなる能力)をはじめとする愚かな心の想像力の妄想なのだ。

人びとはシッディよりもはるかに奇跡的なものごとをたくさん見ている。

だがそれらには驚きもしない。

なぜならそれらは毎日起こっているからだ。

人は生まれたとき、この電球ほどの大きさもない。

ただ成長すると、巨大なレスラー、または世界的に有名な芸術家、講演者、政治家、または聖者になる。

人びとはこれを奇跡とは見なさないで、死体が口をきいたことに驚嘆するのだ。」

 

質問者

「私はこの二十年間、形而上学に興味をもちつづけてきました。

しかし、多くの人たちが主張しているような不思議な体験をしたことがありませんし、透視能力や透過能力ももちません。

私はただの身体のなかに閉じこめられただけの存在なのです。」

 

マハルシ

「それは正しい。

真理はひとつであり、それが真我である。

他のすべては真我のなかで、真我に属し、真我によって起こる単なる現象にすぎない。

見る者、見られるもの、見ることはすべて真我でしかない。

真我を離れて見たり聞いたりすることができるだろうか?

すぐそばにいる人を見たり聞いたりすることと、途方もなく離れたところにいる人を見たり聞いたりすることに何の違いがあろう?

どちらの場合も視覚器官と聴覚器官が必要とされ、また心も必要となる。

どちらの場合も視覚器官と聴覚器官と心のどれかがなければ無理であり、互いに依存しあっているのだ。

それなら、なぜ透視能力や頭頂能力に魅せられるというのだろう?

しかも、獲得されたものはやがて失われてしまう

それらはけっして永遠のものではないのである。」

 

質問者

「テレパシーのような能力を得るのは良いことではありませんか?」

 

マハルシ

「テレパシーやラジオは遠くのものを見たり聞いたりすることを可能にする。

それらは見ることと聞くことという点においては同じである。

近くの音を聞こうと、遠くの音を聞こうと、聞く人にとって違いはない。

基本的な要因は聞く人、主体にある。

超自然的な力(シッディ)は、それゆえ心のなかにしか存在しない。

それは真我にとって生来のものではない。

生来のものではなく、あとから獲得されたものは永遠ではない。

したがって、努力して獲得するだけの価値もないのである。

シッディとは能力が拡大されたものだ。

限定された能力をもつ者は不幸である。

それゆえ、幸福になるために能力を拡大しようとするのである。

だが、本当にそうなのか考えてもみなさい。

もし限定された能力のために不幸だというのなら、能力が拡大するにしたがって不幸も拡大するはずである。

超能力は幸福をもたらすのではなく、人をより不幸にするのである。

しかも、何のための能力なのか?

超能力者になろうとする人は自分の力を他の者たちに誇示して、賞賛を求めているのであり、賞賛が得られなければ幸福にもなれないだろう。

そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされる。

彼は自分より高い能力をもった者に遭遇することさえあるだろう。

それは嫉妬を生みだし、さらに不幸を招くだろう。

どちらが本当の力だろうか?

虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か?

平和をもたらすもの、それが最高の成就(シッディ)である。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

サットワの人は供犠をなすに際して

あくまで聖典の指示に従い

何の報いも求めずに

ただ自らの義務として行う

 

しかし バラタ王家の最も優れた者よ

物質次元の利益を得るため または

虚栄のため 人に見せびらかすための供犠は

ラジャスの行為であると知れ

 

聖典の指示するところに従わず

食物を供えず 讃歌も唱わず

僧侶に布施をせず そして信仰もない供犠は

タマスに属するものである

(バガヴァッド・ギーター第17章11-13)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

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クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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