永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

神聖で永遠なる生への入り口について

前回の記事では、聖ラーマクリシュナのお言葉より、「人体にはクンダリニーシャクティ)という”神の力”が宿っている」とご紹介させて頂きました。

 

それは、誰でもそうなのですが、クンダリニーシャクティ)は、通常は、眠っているかのような静かな状態にあるため、大抵の人びとは、それに気付くことなく、一生を終えてしまいます。

 

その結果、自分の真の本性を悟ることなく、この世をいったん去ることになりますが、

この”尊い自己の真の本性”を悟るまでは、生と死が繰り返されると言われています。

 

このことを、スワミ・ラーマも、ヨーギーの立場から、彼の著書『聖なる旅-目的を持もって行き、恩寵を受けて逝く』で詳しく解説していますので、ご紹介したいと思います。

 

 

『ヨーガの達人は、死からさらに多くのことが学べることを発見しました。

死は単なる永遠への魂の旅における必要な休止ではありません。

それは、人の意志で使うことができる通路であり道具なのです。
これを理解するために、再びカタ・ウパニシャッドに戻ります。

ヤマは、体を王宮と呼びました。

王はアートマンです。

ヤマは、王宮への 11 の門を述べました。

この門のうち 7 つは感覚的なものである、 2 つの眼、 2 つの耳、 2 つの鼻孔、 1 つの口です。

さらに 3 つの門は、臍と生殖器官と排泄器官です。

最後の門は、通常は知られていない器官ですが、脳の中央にあり、頭頂に位置する泉門であるブラフマランドラと呼ばれているものです。

それは、アートマンである王の座であり、永遠の座なのです。

この座より、アートマンはすべての随行者である、心、知性、知覚器官、全体の感覚を支配し、命令します。

最初の 10 の門はこの世の生への通路です。

ブラフマランドラは、神聖で永遠なる生への入り口です。

普通の人の場合は、生命力は、特にその人の最も強烈な願望の座であった 10 の門のいずれかを通って離れていきます。

完成されたヨーガ行者は、 11 番目の門を通って離れていきます。
ウパニシャッドは、違いを強調し、これらすべての門の王はアートマンであると強調
しています。

アートマンは、仕えられるべきものであり、そのやり方は、知性や心、感覚をコントロールすることにより、 11 の門における活動を制することなのです。

ヨーガ行者は、これらの入り口をコントロールする方法や、アートマンを発見し仕える方法について知っています。

彼らは、生まれ変わりの神秘を理解するために、ブラフマランドラを使うことを学んでいるのです。
永遠の世界と永遠の生への入り口が、十分に統制されると、そのとき、この世の生と
永遠の生との間のつながりが理解されます。

死の惨めさと死に伴う恐れの大きな苦しみは、消滅します。

感覚、思考の波、心と体のエネルギーを含む人間を構成するすべての要素が調和するとき、アートマンは現れます。
死は、体の習慣です。

どんな化学的な構成が似た体でも、変化し滅び、死ぬことになっているので、同じ体で永遠に生きる人はいません。

必ず死ぬことになっているものにしがみつくことは、恐れと惨めさを作り出します。

その執着は、自然であり物質的な面だけに焦点を合わせる人々により分かち合われます。

彼らは、全体に気付いていないので、苦しむのです。

サマディにおいて最終的に最高点に達する瞑想 は、この体にしがみつくことからの自由を約束しています。

瞑想を通して、 11 の門のコントロールは達成されます。

そのとき、人は心、体、魂への自制力を持ち、全体に気づくようになります。
瞑想の技術には宗教的な教義はありません。
ブラフマランドラは、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。

そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマディを通して可能です。

サマディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。

同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。

このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。

これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。

ヤマは、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマディの状態を述べました。彼は言いました。

〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。それが、サマディの状態である〞
サマディの最高の状態は、全く死とは似ていません。

死が無知の暗闇における経験である一方で、サマディは悟りの状態です。

サマディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。

通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。

魂は、死後、心に執着したままです。

しかし、個人は深い眠りにいます。自覚はありません。

ヤマは、ナチケータに語りました。

サマディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〞
関係性の世界においては、魂は 3 つの異なる状態を経験します。

目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。

トゥーリヤとして知られる 4 つ目の状態においては、アートマンは魂の 3 つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。

深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥーリヤ
においては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。

超越意識であるトゥーリヤは、サマディと同意語です。

サマディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。

深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。

サマディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。

それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。
サマディには、 2 つの種類があります。

形があるものはサヴィカルパで、形のないものはニルヴィカルパです。

サヴィカルパ・サマディの間、ヨーガ行者は、自分自身の肉体的精神的な状態とプロセスを、それらは彼には属していないのですが、見ます。

彼は、完全に切り離されています。

これは、思考者、対象物、そして(思考の)意味すべてが、この状態の間、現在に在るため、サヴィカルパ・サマディと呼ばれます。

ニルヴィカルパ・サマディにおいては、人はすべての執着から自由です。

この深い状態では、思考の意味と対象物は、存在しません。

知っている者のみが存在します。

ニルヴィカルパは、ヨーガ行者が永遠なる至福と溶け合い、アートマンである真の自己と融合している最高の状態です。
サマディの経験は、述べることができません。

なぜならば、思考、言葉、行いを超えた他に類を見ない状態だからです。

人間は数えきれない束縛に縛られています。

サマディが達成されると、探求者は永遠に自由になります。

これは、死のないヨーガ行者の永遠の住居である最高の状態です。

死後の生は、死の境界が超越される状態であるサマディに到達した人々により、正に今生のここで経験されることができます。
生の知られた部分は、 2 つの点である誕生と死の間に引き伸ばされている線です。

人の存在の大部分は、これら 2 つの知られた点を超えては、不可知であり不可視なのです。
通常の人は、死と呼ばれる移行についての知識がありません。

しかし、悟った、あるいは、熟達したヨーガ行者は、この世とあの世を理解しています。

11 の門をコントロールすることを学んだ人々は、何があの世であるかを知っており、その知識は、彼らに生だけでなく死への勝利をも与えます。
この勝利した人々は、死の気まぐれには従属していません。

彼らは肉体を脱ぎ捨て、自分自身で決めたときに、自分自身のコントロールの下で死にます。

彼らは、意識的に11 番目の門であるブラフマランドラを通過します。

この門を通ることを知っている人は、この世を彼が知っているのとまったく同じように、あの世について知っていると言えます。

もはや、この世とあの世の間にはどんなヴェールもありません。

 

ナチケータは、意識的に体を手放す技法について説明されました。

ヤマは、彼にすべてのナディ、あるいは体のエネルギー通路のうち、最も重要であるのがスシュムナであると説明しました。

スシュムナは脊柱の中央を通り上へと流れます。

スシュムナを通して、クンダリニーという霊的なエネルギー、あるいは神聖なる力が流れます。

スシュムナは自由のキーポイントです。

死の際に、スシュムナに入ることができる人は、人生の最高のゴールであるブラフマンに到達します。

他のすべての道は生まれ変わりの道です。
体を離れるために、ヨーガ行者は、クンダリニーという眠っている蛇の力を目覚めさ
せ、このエネルギーはスシュムナの通路に入ります。

それは、眉間の間の 2 つの花弁の蓮の花であるアジナ・チャクラまで上がります。

ここでヨーガ行者は、プラーナとして知られる体の他のすべての生命エネルギーを集め、コントロールします。

彼は、自分の意識を現世的な存在感や感覚、 5 つの下位のチャクラから引き出します。彼は、アジナ・チャクラに、それから次第に、クラウン・チャクラであるサハスラーラに向かって集中します。

頭頂に集中している間、彼は泉門を通り体を離れ、最終的に絶対的ブラフマンの領域まで上ります。』
(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

今回の記事では、クンダリニーの他に、スシュムナ、ナディ、ブラフマランドラという聞き慣れないサンスクリット語の単語がたくさん出てきました。

 

次の記事で、これらが、具体的には何を指すのか?を説明したいと思います。

 

これは、霊的な人体図に関するものであり、これを理解している人びとは、今の時点では、まだ少数であることは確かですが、少しづつ増えてきているようです。

 

まだ知られていない人体の未知なる領域への理解は、生と死とは何か?アートマンである真我と自我の違いを識別していくのを助けてくれることでしょう。

 

そして、それらが、最終的に統合された時、不滅の自己へと至る永遠の至福の道が眼前に広がっていることに気付くことでしょう。

 

そして、その時初めて、揺らぐことのない確信をもって、生と死を超えたアートマン(真我)への道を歩むことができるようになるのです。

 

 

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

 ヨーガ修行は全ての感覚的快楽を

離脱することから始まる

五官の門を閉じて 心を心臓に

生気を頭頂に集中して精神統一をする

 

ブラフマンそのものを表すところの

聖なる音節オームをとなえ

至上者を想いながら肉体を離れる者は

必ず至高の世界へ往く

 (バガヴァッド・ギーター第8章12-13)