永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

自由への道(カルマ・ヨーガ)

昨日の記事で、「カルマ・ヨーガ」というあまり聞きなれない言葉が出てきましたが、

「カルマ」とは、「働き」とか「動き」という意味のサンスクリット語で、

「ヨーガ」とは、「行」という意味のサンスクリット語です。

ですから、「カルマ・ヨーガ」とは、「働きのヨーガ(行)」という意味になります。

 

「ヨーガ」というと、アーサナ(坐方、ポーズ)や瞑想を思い浮かべる人が多いかと思いますが、

それは、ヨーガの一部分であり、ヨーガとは、(それ=わたし=神)という人類の究極の境地に至るための”行”なのです。

あまり日本人には馴染みのない「カルマ・ヨーガ」について理解を深めるために、もう少し詳しくご紹介したいと思います。

 

いつも引用させて頂いている大聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますヴィヴェーカーナンダの「カルマ・ヨーガ」からの抜粋です。

もし、内容を理解するのが少し難しい場合には、何度か読むうちに、次第に理解できるようになると思いますので、繰り返し読んでみて下さい。

 

「カルマという言葉は働きという意味に加えて、心理学上、原因作用という意味も含んでいます。

結果を生じる働き、活動、思いはことごとく、カルマと呼ばれるのです。

ですからカルマの法則というのは因果律、避けることのできない、原因と結果の法則という意味です。

原因のあるところには必ず、結果が生まれなければなりません。

この必然性に抵抗することはできないのです。

そしてこのカルマの法則は、われわれの哲学に従うと、全宇宙にはたらいているものです。

われわれが見たり感じたり行ったりすることはことごとく、宇宙間至るところの活動はことごとく、一方では過去の働きの結果であると同時に、他方では今度は原因となって、それ自体の結果を生みます。

これと同時に、「法則」という言葉はどういう意味であるか、考える必要があります。

法則とは、ある一続きがそれ自身をくり返す傾向です。

一つのできごとに別のできごとがつづいたり、ときには一つのできごとがもう一つのできごとと同時に起こったりしますと、われわれはこの連続または共在がまた起こることを予期します。

一連の現象は、われわれの心の中にあるものとある種の決まった順序で結びつけられ、いつでも、われわれの知覚するものは何でも、直ちに心中の別の事実と関係づけられます。

どんなものであれ一つの観念は、すなわちわれわれの心理学によりますとチッタという心の質料に起こった一つの波は、常に必ず、多くの類似の波を引き起こします。

これが、連想というものの心理学上の解釈でありまして、因果律は、この壮大な、普遍的な連想の原理の単なる一面に過ぎません。

 

外部の世界での法則の観念は、内なる世界におけるものと同じです--ある特定の現象には必ずあるもうひとつの現象がつづき、この連続は繰り返される、という期待です。

ですからほんとうのことを言うと、法則は自然界に存在するのではありません。

実際には、引力は地球の内部に存在する、とか、法則というものは自然界のどこかに客観的に存在する、などと言うのは間違いなのです。

法則は、それによってわれわれが一連の現象を把握する、方法です。様式です。

それはすべて、心の中にあるのです。

ある現象が、相ついで起こるかまたは同時に起こり、やがてこの組み合わせは正確に繰り返される、という確信ができ、こうしてわれわれの心がこの連鎖全体の形を把握すると、そこに、われわれが法則と呼ぶものが構成されるのです。

 

つぎに考えるべき問題は、われわれが、法則は普遍である、というのはどういう意味か、ということです。

われわれの宇宙は、存在の中の、空間、時間および因果律と呼んでいるもの、によって特徴づけられている部分です。

この宇宙は、空間、時間、および因果律によってできた独特の鋳型にはめこまれた、無限実在のほんの一部分に過ぎないのです。

当然、法則はこの条件つきの宇宙の中でのみ適用されるものである、ということになります。

それを超えたところには、いかなる法則もありません。

 

われわれが宇宙について語るときには、われわれはただ、存在の中の、われわれの心によって限定されている部分だけを取り上げています。

つまりわれわれが見たり感じたり触れたり聞いたり、思ったり想像したりすることのできる、感覚の宇宙です。

これだけが法則の支配下にあるので、それを超えたところでは、存在は法則に従うことはあり得ません。

われわれの心の世界の彼方には因果律はとどかないのですから。

われわれの心と感覚の領域をこえたものは、因果の法則では縛られません。

感覚をこえたところにはものごとについての連想はないし、観念の結合がなければ因果律はないのですから。

「実在」すなわち存在が因果の法則に従い、法則に縛られている、と言われるのは、それが名と形という型に入れられたときに限るのです。

すべての法則の元は因果律なのですから。

 

自由を得るためには、われわれはこの宇宙の限定を超えなければなりません。

自由を、ここに見いだすことはできません。

完全なる平衡状態は、いかなる場所でも得ることはできません。

そのような場所は決して、われわれにその自由を与えることはできません。

なぜならそのような場所はすべて、この宇宙の中にあり、時間と空間と因果律とに制約されているのですから。

われわれの地球よりもっと強烈な楽しみを与えるかもしれない、もっと精妙な場所はあるでしょう。

しかしそのような場所もやはりこの宇宙の中になければならないのであり、したがって、法則に縛られているのです。

 

ですからわれわれは超えなければなりません。

人類のすべての最も高貴な熱望の目標である自由を得るためにはたった一つの道があり、それはこの小さな生命をすてること、この地上世界をすてること、天国をすてること、肉体をすてること、心をすてること、限定され、制約されている一切のものをすてることである、というのは理の当然です。

もしこの、感覚や心の小さな宇宙への執着をすてるなら、われわれは即座に自由になるでしょう。

束縛を脱するたった一つの道は、法則の限定をこえること、因果律を超えることです。

しかし、この宇宙への執着をすてるのは最もむずかしいことです。

それのできる人はごく僅かです。

 

つぎに挙げるのはわれわれの聖典ヴェーダ聖典)に示されている二つの道です。

一つは「ネーティ、ネーティ」(これではない、これではない)と呼ばれ、

もう一つは、「イーティ」(これ)と呼ばれています。

前者は消極的な道、後者は積極的な道です。

消極的な道は最も困難な道です。

人類の大多数は、積極的な道の方を選びます。

束縛を断ち切るためにすべての束縛そのものを利用しつつ、この世界を通って行く道です。

これもやはり放棄の一種です。

ただそれは、ものごとを知り、ものごとを楽しむことによって経験をつみ、心がものごとの性質を知ってついにそれらをすて、無執着になるまで、ゆっくりと、だんだんに行われるのです。

無執着になるための、前の方法は推理によるもの、後の方は働きと経験によるものです。

第一のはギャーナ(智識)・ヨーガの道であって、いかなる働きをもすることを拒むのが特徴、

第二のはカルマ(働き)・ヨーガの道であって、そこでは働きをやめるということはありません。

宇宙間では、一切のものが働かなくてはなりません。

ただ、完全に自己(アートマン)に満足している人びと、その願望が決して自己の彼方に出ない人びと、その心が決して自己の外に迷いが出ない人びと、自己がすべてのすべてである、という人びと、そのような人びとだけが、働かないのです。

他の人びとは、働かなければなりません。」

(カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

次回は、この続きをご紹介いたします。

 

ナーナさんが示して下さる「カルマ・ヨーガ」の道を、正しく理解することは、

この世俗の世界にあって、真の自由への道を歩むための第一歩となることでしょう。

 

 

罪なき者 アルジュナよ 既に話したが

この世で真理体得するには二種の道がある

哲学的思索を好む者には 智識(ギャーナ)の道

 活動を好む者には 奉仕(カルマ)の道

  (バガヴァッド・ギーター第3章3)