自由への道(カルマ・ヨーガ)その2
前回の記事には、私たちが自由になることを阻むモノは、自分の心の中にある執着であると書かれていました。
ですから、魂の完全なる自由を得るためには、無執着であることが必要です。
この心の無執着を達成するためのヨーガ(行)が、カルマ・ヨーガなのです。
ナーナさんは、私たちが、完全なる自由を得られるようにと導いて下さっていますが、
それには、無執着の心が最も大切である、ことを見抜いていらっしゃいます。
そして、多くのモノを所有している私たちが、そのすべてを手放すことは不可能であろうということも、見抜いておられます。
そういう私たちが、日常生活を営みながら、無執着の心を達成するのに無理なく実践できる方法(行)として、カルマ・ヨーガを実践するように提唱されているのは、
ごく一般の人びとであっても、苦しみや哀しみ、生と死、老い、病など、その他、すべての束縛からの自由は、全人類の願いであると知っていらっしゃるからなのです。
私たちがカルマ・ヨーガを実践する上で、その正しいやり方と目的をしっかりと把握し、見失わなければ、グルから、いちいちそのやり方を学ぶ必要はありません。
カルマ・ヨーガは、どこでも、誰でも、どんな時でも、心がけ次第で、実践できる無執着の心を養うヨーガなのです。
そのカルマ・ヨーガについて、昨日に引き続ぎ、
大聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますヴィヴェーカーナンダの「カルマ・ヨーガ」から抜粋して、
「カルマ・ヨーガ」とは何か?何のために行うのか?という核心部分をご紹介いたします。
「カルマ・ヨーガとは何でしょうか?
働きの秘訣の知識です。
われわれは全宇宙が働いているのを見ます。
何のためにですか?
救われるために、自由を得んがために、原子から最高の生きものに至るまでがこの唯一の目的--心の、肉体の、霊の自由ーーのために働いているのです。
すべてのものは、束縛から逃げ去って自由を得よう、と努めています。
太陽、月、地球、もろもろの遊星、すべてが、束縛から逃げ去ろうと努めています。
自然界の遠心力と求心力は、われわれの宇宙の性質を実によく象徴しています。
この宇宙で小突きまわされ、長いことかかって打ちのめされたあとでようやくもの事の真相を知る、という代わりに、われわれはカルマ・ヨーガから、働きの秘密を、働く方法を、働きの組織力を学びます。
もし活用の方法を知らなかったら、われわれは莫大な量のエネルギーを浪費することになるでしょう。
カルマ・ヨーガは、働きの科学をつくっています。
皆さんはそこから、この世界のすべての働きをどのように最もよく活用するか、を学ぶのです。
働きは避けることのできないものです。
これはそうある他ありません。
しかしわれわれは、最高の目標に向かって働かなければなりません。
カルマ・ヨーガはわれわれに、この世界は五分間の世界である、ということを、それはわれわれが通り過ぎなければならないものなのであるということを、そして自由はここにはない、ここを超えたところに見いだされるのだ、ということを、認めさせます。
この世界の束縛を脱する道を見いだすためには、それをゆっくりと、しかも確実に、通り抜けなければならないのです。
例外的な人びともいるでしょう。
わきに退いて、ヘビがその皮をぬぎすててわきからそれを眺めるように、世をすてることのできる人びとです。
たしかにこのような例外的な人びともいます。
しかし、残りの人類は全部、働きの世界をゆっくりと通って行かなければならないのです。
カルマ・ヨーガは、最も有利にそれを行う過程、秘訣、および方法を示すものです。
それは何と言いますか。
「たえず働け、しかし仕事へのすべての執着をすてよ」と
何ものとも、つながりを持つな。
心の自由を確保しておけ。
皆さんがごらんになるこれらすべて、さまざまの苦痛や不幸は、この世界の必要条件にほかならないのです。
貧乏や富や幸福は、つかの間のものにすぎません。
それらはまったく、われわれの本性に属するものではないのです。
われわれの本性は、不幸や幸福をはるかに超えたものです。
あらゆる感覚対象を超えたもの、想像を超えたものです。
それでもわれわれは、常に働きつづけなければなりません。
「不幸は働きからではない、執着から来る」
われわれが、この仕事は自分がしている、と思うや否や、不幸がやって来ます。
しかしもし自分がしていると思わなければ、その不幸は感じません。
もし他人の持ち物である美しい絵が焼けても、人はふつう不幸は感じません。
しかし自分の持っている絵が焼けたら、どんなに悲しく思うでしょう!
なぜか。両方とも美しい絵でした。
多分同一の原画の複写でした。
それでも一つの場合には、もう一つの場合よりはるかに、大きく不幸を感じるのです。
それは、前の場合には彼はその絵は自分のものだと思い、あとの場合にはそう思っていないからです。
この、「私と私のもの」が、一切の不幸をつくり出すのです。
所有感といっしょに、利己心がやって来ます。
そして利己心が不幸をもって来るのです。
あらゆる利己的な行為または利己的な思いは、われわれを何ものかに執着させ、
たちまちわれわれは奴隷にされてしまいます。
「私と私のもの」と言う、チッタ(心の質料)の一つ一つの波が直ちにわれわれのまわりに鎖をまきつけ、
われわれを奴隷にしてしまうのです。
そしてわれわれが「私と私のもの」と言えば言うほど奴隷状態はひどくなり、不幸も大きいでしょう。
ですからカルマ・ヨーガがわれわれに、世界中のすべての絵画の美しさを楽しめ、だがその中のいずれも、自分のものだ、とは思うな、と教えるのです。
決して、「私のものだ」と言ってはなりません。
われわれがあるものを自分のものだ、と言えば必ず、すぐに不幸がやって来るでしょう。
心の中で「私の子供」と言ってもいけません。
子供をお持ちなさい。しかし「私のもの」と言ってはいけない。
もしそう言えば、不幸がやって来るでしょう。
「私の家」とは言うな。「私のからだ」とは言うな。
困難の全部はそこにあります。
肉体はあなたのものでもなければ私のものでもない、誰のものでもありません。
これらの肉体は自然の法則のもとにやって来て行ってしまうもの、しかしわれわれは自由で、目撃者としてここに立っているのです。
この肉体は、絵や壁より多くの、自由を持っているわけではありません。
なぜこんなにも、肉体に執着しなければならないのですか。
誰かが絵をかいても、彼はかいてそのまま行ってしまいます。
「私はそれを持たなければならない」とう利己心の触手をのばすな。
それがのされるや否や、不幸は始まるのです。
ですから、カルマ・ヨーガは言います。
第一にこの利己心なる触手をのばす傾向を破壊せよ。」
(カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
それでは、無執着の心が達成されると、どうなるのでしょうか?
3月末に発売となるスワミ・ラーマの”聖なる旅”には、こう書かれてあります。
「霊的成長に等しく必要なヴァイラーギャの他の道は、無私の行いの道です。
この道で、人はダルマである義務を上手に無私の心で果たします。
すべての人がそうであるように、自分にはするべき行動があることを知っています。
その人は、十分な注意をもってそれらをしますが、個人的な獲得や栄誉のためや、ある種の見返りのためではありません。
その人はそれらには関心がありません。
その人は、義務を果たし、それがすべてです。
この方法で、この道の行為の探求者は、この世に生きることを学びますが、この世
を超越します。」
(スワミ・ラーマ ”聖なる旅”)
この世を超越する、ということは、因果の法則を超越する、ということになり、
それは、完全なる自由を意味します。
カルマ・ヨーガは、自由への道。
次回も、カルマ・ヨーガについて、もう少し掘り下げてご紹介いたします。
仕事を至上者(かみ)への供物としなければ
仕事は人を物質界(このよ)に縛りつける
故にクンティーの息子よ 仕事の結果を
ただ至上者(かみ)へ捧げるために活動せよ
(バガヴァッド・ギーター第3章9)