見神とマーヤー(幻妄)
前の記事で、霊意識が目覚めることについて書きましたが、
ラーマクリシュナが遺された言葉に、更に詳しい説明がありましたので、
併せてご紹介させて頂きます。
「ムラダーラに長く眠れるクンダリニーよ
いざ頭頂に昇るのが おんみのつとめ
主なるシヴァのもと 千瓣の蓮華に
六つの階段を通り すべての哀しみをとり去り
かの霊妙美麗なる至高の意識に
この歌には、六つのチャクラを通り抜けることがうたわれている。
神は外にもいらっしゃるし、内にもいらっしゃる。
あの御方は内から心の様々な状態をあらわされるのだよ。
六つのチャクラを通り抜けると、マーヤー(幻妄)の領分から離れて個我は至上我と一つになるんだ。
これを見神というんだよ。
マーヤーが戸口から退いてくれないと神様は見えない。
間にマーヤーがあるから人間には神様が見えないのだ。
だがね、神様のお恵みがあればマーヤーは戸口から退いてくれる。
ちょうど、戸口の番人が旦那の命令で退くようなものさ。
ヴェーダンタの考え方と、プラーナの考え方と、二通りあってね。
ヴェーダンタの意見だと、この世は”幻の幕”つまり、世界はすべて虚構で夢まぼろしのようなものだと言う。
しかし、プラーナの意見や信仰の書では、神そのものが二十四の宇宙存在原理になっておられる、と言っている。
だから、あの御方を内にも外にも拝め、と。
”私”という感じをあの御方が残しておきなさる限りは、あらゆるものはあるんだよ。
夢まぼろしどころじゃない。
下に火が燃えているから、鍋の中で豆だの米だのイモや葉っぱだのがゴトゴトいっている。
跳ね上がったりしては、『私はいると、私は跳ねているよ』と言い張っているように見える。
身体が鍋で、心と知性が水で、感覚の対象が豆、米、イモ、葉っぱというわけだ。
”我”がそいつらのウヌボレで、『私がゴトゴトいっているんだ!』と思っているんだよ。
そして、サッチダーナンダ(真・智・喜)が火なのだ。
ところが又、”信仰の書”では、この世は”遊び小屋”だと言っている。
信仰者たちは、神がマーヤーになっていらっしゃるのだ、と見ている。
あの御方が、生きとし生けるものとこの世になっていらっしゃるのだ、とね。
神--マーヤーーー生物ーー世界、これを一つに見ている。
それで、”信仰の書”では、力(シャクティ)がすべてであるという意見だ。
ラーマがすべてになっておられるのだが、しかし、シャクティはある場所には多く、在る場所には少なく顕れている。
いわゆる”神の化身”はあの御方の顕れ方のひとつであり、普通の生物もひとつの顕れ方だ。
神の化身にだって肉体感覚はあるよ。
身体を持つことがマーヤーなんだ。
シーター妃を慕って、ラーマは泣きなすった。
けれども、神の化身は自分から望んで自分の目に目隠しをしている。
子供が鬼ごっこをするようにね。
母親が呼べばすぐ遊びはおしまいだ。
だが、普通の人間は話が別だよ。
かれらの目隠し布の後ろは、八つのピンでしっかりと止めてある。
八つの足枷だ。
恥ずかしい、憎らしい、恐ろしい、差別する気持ち、自分と家族だけがかわいい気持ち、それに取り越し苦労、陰口たたき、悪い習慣--この八つの足枷だ。
霊の師(グル)が取り除いてくれなければどうしようもない。」
「はい、--ときに、グルはどうしても必要でございましょうか?」
「大部分の人には必要だね。
そして、グルの言葉を信じなくてはいけない。
グルを神様だと思って見ていれば、それが出来るはずだよ。
だからヴィシュヌ派の信者たちは、グルとクリシュナとヴィシュヌは一体なり、と言っている。
のんびりやってちゃダメだ。
世間の楽しみにうつつを抜かしている連中は、『いずれ、そのうちに神様にもお目にかかるとしよう』といった調子だがね。
カリユガ(末世時代ー物質万能主義の時代)だから、一日一晩も泣いて祈れば神様にお会いできる。
自信を持ってこう言えーー『あんたが私を創ったのだから、会ってくれるべきだ!』と。
この世にいようがどこにいようが、神様は人の気持ちをちゃんと見ていらっしゃる。
この世のものに執着している心は湿ったマッチ棒みたいなもので、いくら擦っても火が付かん。
前進しろ。
木こりは先へ先へと進んで白檀の木を見つけ、銀の山を見つけて、金の山を見つけて、まだ先へ進んでダイヤの山を見つけた。
無智な人は土壁で囲った部屋の中に住んでいるようなものだよ。
なかにも光はないし外のものも見えない。
智慧を獲て、それからこの世で暮らしている人は、ガラス張りの部屋にいるようなものだ。
内部のものも見えるし外部のものも見える。」
「先生、グルにつかなくては智識は得られぬとお思いですか?」
「サッチダーナンダ(真・智・喜=無形の神)こそがグルなんだ。
もし、ある人がグルとして、霊の意識を目覚めさせてくれたのなら、それこそ、ほかでもないあのサッチダーナンダが、人間の姿になって現れたのだということを、はっきり心得ておくことだ。
グルは仲間のようなものでね、手にとって目的地に連れていってくれる。
だが、至聖(かみ)を見た後は、グルとか弟子とかいう感じはなくなる。
”それは大そう厄介なところ、グルも弟子もないところ”だからね。
ブラフマン智を得たならば、もう師匠と弟子の区別はなくなるからだよ。
師弟の関係は、神を見ない間だけだ」
「どのような方法で至高(かみ)にふれることができるか、何とぞお教え下さい」
「一番だいじなのは信念だ。ほしいと思うものが得られる根本は信念だよ。
信念が出来上がったら、もう何も恐れるものはない」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
*サッチダーナンダ(サット=永遠の実在、チット=完全円満な智慧、アーナンダ=絶対の至福)
サッチダーナンダ(真・智・喜)は、無相無想の無形の神。
グルは、サッチダーナンダ(真・智・喜)が、人間の形をとって現れた有形の神、つまり、神の化身(アヴァター)と言うことになります。
神の化身がこの世に現れたことは、一部の人には信じがたいことかもしれませんが、
恩寵の扉は、いま、すべての人に、開かれています。
その恩寵に与ることで得られる宝は、”見神”です。
ナーナさんにつながることは、この恩寵の経路につながることです。
ナーナさんのサットサンガに参加することは、この恩寵の経路につながり、
やがては、”見神”というダイヤモンド以上の宝を手にすることなのです。
導師に近づいて真理を学び
うやうやしく問い 教えに従って師に仕えよ
自己の本性を覚った見真の人は
弟子に智識を授けることができるのである
(導師=見真に導てくれる師、見真の人=真理をさとった人)
(バガヴァッド・ギーター第4章34)