永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(2)

前回より、これまでと趣向を変えて、あらゆるウパニシャッドの文献が究極の真理として語っている「わたしは誰か?-アートマン(真我)である」という最奥の叡智に至る手法として、シュリー・ラマナ・マハルシの「真我探究」についてご紹介しています。

 

人には、それぞれ生まれ持った気質がありますが、その気質に応じて、究極の真理へと至る道は、数多く用意されています。

 

これまでの記事で、その内の数個をご紹介させて頂きましたが、「真我探究」はジニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)の道です。

 

アーサナやプラーナヤーマなどの肉体的な修行はせず、どちらかと言うと、哲学的思考と瞑想により、個我を消滅させ、真我を目覚めさせる方法です。

(結論を言ってしまえば、個我が存在すると思っているのは、個我だけであり、実際には、個我は存在せず、実在しているのは、真我(アートマン)だけなのです。

このことを知る、知らないは、個我だけに起きていることなので、知っていても、知らなくても、私たちが常に真我そのものである、と言うことに変わりはありません)

 

クンダリニー・ヨーガやタントラ・ヨーガなどの修行を通して、クンダリニーを目覚めさせなくとも、「真我探究」により、真の自己である本性を悟ることは可能であると、ラマナは語っています。

 

上にも書きましたが、真の自己である真我(アートマン)だけが真の実在であるという叡智に至る道は、いろいろと用意されています。

 

そして、それらの内、どのような道を通っても、私たちが行き着くゴール(目的地)はひとつしかありません。

 

わたしは誰か?

 

その答えがゴールです。

 

それでは、前回の続きをご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「ひとたび瞑想のなかでサット-チット-アーナンダ(存在-意識-幸福)を体験した人が、瞑想が終わるとともに再び身体と同一化することはありうるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それはありうる。

しかし、彼は修練によってその自己同一性を徐々に失っていくだろう。

そして真我のあふれる光のなかで、幻想の闇は永遠に消え去るだろう。

すべてのヴァーサナー(精神的傾向)が根絶されないまま得られた体験は、定着することができない。

ヴァーサナーを消滅させるための努力が必要である。

すべてのヴァーサナーが根絶されたときにのみ、知識は揺るぎないものとなるのである。

われわれは長年の精神的傾向と闘わなければならない。

それらはみな消えるだろう。

ただ、過去においてサーダナ(修練)を重ねてきた者の場合は比較的早く消え、他の者たちの場合はより遅いだろう。」

 

質問者

「心の潜在的傾向は段階的に消えるのでしょうか、それとも突然消えるのでしょうか?

私がこのことを尋ねるのは、長年この場所にいるにもかかわらず、何の段階的な変化も見られないからです。」

 

マハルシ

「太陽が昇るとき、闇は徐々に消えるだろうか、それとも突然消え去るだろうか?」

 

質問者

「私が探求において進歩しているかどうかを、どうすれば知ることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「真我の実現に向けての進歩は、想念の不在の度合によって知られる。

しかし、真我の実現自体に進歩は見られない。

それはつねに変わらない。

真我はつねに実現されているからである。

障害は想念だけであり、進歩の度合は、真我がつねに実現されているという理解への障害をどの程度取り除いたかによって知られるのである。

それゆえ、想念は起こっているのかと探ることによって調べられなければならない。

源を探るところに想念は起こらない。」

 

質問者

「疑問はつねに起こってきます。

それゆえの質問です。」

 

マハルシ

「疑問が起こり、それは解放される。

別の疑問が湧き、それも解決され、そしてまた新たな疑問がつづいていく。

すべての疑問を解くことは不可能である。

誰にその疑問が起こるのかを見てみなさい。

その源へ行き、そのなかにとどまりなさい。

そうすれば疑問は起こらない。

これが疑問を解消する方法である。」

 

質問者

「私は答えることなしに、「私は誰か?」と尋ねつづけるべきなのでしょうか?

誰が誰に尋ねるのでしょうか?

どのようなバーヴァナー(態度)で探究にのぞめばよいのでしょうか?

「私」とは何でしょうか、真我でしょうか、あるいは自我でしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」という探究における「私」とは自我である。

その問いの真意は、自我の源、本性とは何かということである。

そのためにはどんなバーヴァナーも必要ない。

ただあなたがこのような名前をもった、このような姿の身体だというバーヴァナーを放棄する必要があるだけである。

あなたの真の本性に対してバーヴァナーは必要ない。

それはつねにあるがままに在る。

それは実在であり、バーヴァナーではない。」

 

質問者

「しかし、「私」が「私」を探さなければならないということは、おかしなことではないでしょうか?

「私は誰か?」という問いは、結局、空虚な形式に終わってしまうのではないでしょうか?

それとも、私はそれをある種のマントラのように繰り返しながら、際限なく自分自身に問いつづけるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我探究が空虚な形式でないことは明らかだ。

それはどんなマントラの復唱よりも優れたものである。

「私は誰か?」という問いが単なる知的な質疑でしかないなら、たいした価値はないないだろう。

真我探究の目的そのものは、心を完全にその源へ集中させることにある。

それゆえ、それはひとつの「私」がもうひとつの「私」を探し求めることではない。

真我探究は純粋な真我の覚醒の内に不動の安定を確立すべく、心のすべてを注ぎこむ強烈な活動を要する。

そのため、けっして空虚な形式などではありえない。」

 

質問者

「もし私が朝と夕方にいくらかの時間をアートマ・ヴィチャーラのためにあてがえばじゅうぶんでしょうか?

それとも、たとえ執筆しているときも、歩いているときもつねにするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの真の本性とは何だろうか?

それは書くことや歩くことだろうか、それとも在ることだろうか?

唯一不変の真実とは在ることである。

あなたが純粋な存在状態を実現するまでは、探究を貫き通すべきである。

ひとたびあなたがそのなかに確立すれば、いかなる問題もなくなるだろう。

想念が湧き上がってくるまでは、誰も想念の源を探究することはないだろう。

あなたが「私は歩いている」や「私は書いている」と考えるかぎりは、誰がそれらをするのかと尋ねなさい。」

 

質問者

「もし私が想念を拒否つづけるならば、それをヴィチャーラ(探究)と呼ぶことができるでしょうか?」

 

マハルシ

「それはヴィチャーラへのひとつの足がかりにはなるかもしれない。

だが、あなたが真我に固執し、精神的な動きである想念の波がもはややんだときこそ、本当のヴィチャーラが始まるのである。」

 

質問者

「それではヴィチャーラは知的なものではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや、これはアートマ・ヴィチャーラ、内面の探究である。

心をつかみ、それを調べていくようにと初心者は教えられる。

しかし、結局心とは何だろうか?

それは真我の投影である。

それがどこから現れ、誰にとって現れるのかを見いだしなさい。

すると、「私」という想念がその根本原因であることが知れるだろう。

さらに深く見極めなさい。

すると、「私」という想念は消え、そこには「私」という意識の無限の広がりがあるだろう。」

 

質問者

「私はシュリー・オーロビンド・アーシュラムのマザーに次のように尋ねました。

「私は神が本当の姿で現れることを祈って、想念を起こすことなく、心を空白状態に保つ修練をしましたが、何も見ることはできません」。

すると、彼女の答えはこのようなものでした。

「その態度は正しいものです。

力は天から降りてくるでしょう。

それは直接体験なのです」。

私はこれ以上何かするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あるがままのあなたで在りなさい。

天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。

必要なのは自我を失うことだけだ。

在るものは、つねにそこに在る。

今このときでさえ、あなたはそれである。

空白状態はあなたによって見られている。

空白を見ているあなたはそこに存在している。

何を待つというのだろうか?

「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとする欲望はすべて自我の作用である。

あなたは自我の罠に陥っている。

これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。

あるがままのあなたで在りなさい。

それ以上何も必要ない!

ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。

そしてそれを達成したら、再び戻ってくるのだ。

それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。

あるがままに在りなさい。

あなたが誰なのかを知りなさい。

生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。

そして真我としてとどまりなさい。」

 

質問者

「人はどのようにして真我を知るのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を知ることは、真我として在ることである。

あなたは真我を知らないと言えるだろうか?

鏡がなければ目を直接見ることはできない。

だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?

同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。

それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?

あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点から見た不在を意味している。

なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため自分自身をそれと同一視するからである。

真我を対象化することはできない。

そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にしてしまう。

そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねるのである。」

 

質問者

「あなたは在ることについて語っています。

何として在ることでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。

「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理の要諦である。

その方法は、「静かに在ること」に尽きる。

では静寂とは何を意味するのだろうか?

それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。

なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。

「私はこれである」という観念を放棄しなさい。

真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。

それ以上簡単なことがあるだろうか。

それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なことなのである。

唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。

それを注意の的として射止め、ハートのなかで強烈にそれを知るべきである。

この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。

ハートのなかで絶えず輝き続ける意識こそが真我であり、存在や非存在である何か、などと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)によって

人の好む食物にも三種類ある

供犠 苦行 布施についても同様

この相違にについて話すから聞きなさい

 

サットワの人の好む食物は

生命力を増進し 体を浄化して

力と健康と幸福と喜びをもらたし

水分と脂肪に富み健康的で心を和ませる

 

ラジャスの人の好む食物は

苦味 酸味が強いもの 塩からいもの

熱いもの 乾燥したもの 刺激性のもの

こうした食物は心身の病の原因となる

 

タマスの人の好む食物は

古いもの 味のないもの

残り屑 またはそれが入っているもの

それから 不浄なもの

(バガヴァッド・ギーター第17章7-10)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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