永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(39)「命」③

人間の真の本性を悟ることは、Jnana Yogaでは、「真我実現」とか「自己実現」と称され、修行の目的となっていますが、この「真我実現」「自己実現」”Self-Realization”への足がかりとして、このブログでは、これまで、様々な聖者と呼ばれている方々の御言葉をご紹介してきました。

それに伴い、少しばかり解説も試みて来ました。

 

今回は、前もっての拙い説明は省略し、三人の聖者の方々の御言葉をご紹介したいと思います。

 

この三つの文章のそれぞれが、最初は、異なるテーマで始まっているにも拘わらず、最終的には、その中心的なテーマが、一つの焦点に絞られていることに気づかれることでしょう。

 

前回同様、最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉、そして最後は、「ヨーガ・ヴァーシシュタ」(ヴァーシシュタとは、インドの長編叙事詩ラーマーヤナに出て来る七人の聖仙の一人とされている聖者の名)からです。

 

 

The Struggle of Life(人生という闘い)

 

生きることは、理想のために闘うことである。

人生は、充足と完成を求める闘いである。

人生は、最高の独立を達成するための闘いである。

人生は、闘いであり、抵抗である。

人生は、獲得の連続である。

人は、進化し、成長し、拡張し、闘いを通して、数々の経験を得る。

人生と社会は、闘い、或いは、闘争なくしては、存在することができない。

もしあなたが、あなたの存在を続けたいのであれば、闘いは必須である。

あなたが闘いを止める時、存在することを止めるだろう。

あなたのハートの戦場で、内面的な敵と勇敢に闘いなさい。

あなたの心や感覚を用いた内なる戦いにおける小さな勝利でさえ、あなたの意志力を開発し、より多くの確信や勇気を与えるだろう。

闘いが激しければ激しいほど、勝利はより栄光あるものとなる。

自己実現は、非常に大きな闘いを必要とする。

神のために生きなさい。

この哀れで、世俗的な人生のすべての困難や苦難に勇敢に立ち向かいなさい。

人間でありなさい。

勇気を持って、偉大なる成就を求めて闘いなさい。

山に登ること、海峡を横切ること、都市を爆破すること、城砦を爆破すること――これらは、英雄的な真の勇気ある行為ではない。

あなたの心(マインド)と感覚をコントロールすること、自制心を獲得することで、怒りや熱情、利己心を克服すること――これらは、人に真の英雄的資質をもたらす。

あなたは、どのくらい長く、情熱や感覚の奴隷でいるのだろうか?

あなたの真の神聖なる性質を断言し、あなたの低い性質や低い自己を抑えることを断言しなさい。

これは、あなたの最も重要な義務である。

 

 

Life is a School(人生は、学校)

 

しかしながら、これは、われわれが物質の物理次元における人生を否定すべきであるという意味ではない。

物質は、神自身のリーラ(神の戯れ)にとっての神の表現である。

物質と霊は、熱と火、冷たさと氷、花と香りのように、不可分である。

ブラフマンとマーヤ(幻妄)は、不可分であり、一つである。

物質次元における人生は、ブラフマンにおける永遠の命のための限定的な準備である。

人生は、多くの有益な修練、人格の発達や神聖なる徳を学ぶための大いなる学校である。

人生は、あらゆる哀しみ、あらゆる苦しみ、あらゆる心痛が特別な修練をもたらす学校である。

地球上の人生は、自己完成の手段である。

世界は、あなたの最も良い教師である。

この世界は、あなたの最も良いグル(導き手)である。

あらゆるモノの中に、修練がある。

それぞれの経験の中に、修練がある。

世界は、慈愛や赦し、辛抱、宇宙的な愛、寛容、高貴、勇気、雅量、忍耐、強い意志、など、数々の神聖な徳の開発のための最も良い修練場である。

世界は、悪魔のような性質で戦うための闘技場であり、そして内側から神性を表現するための闘技場である。

バガヴァッド・ギーターとヨーガ・ヴァシシュタの中心的教えは、人は、この世に在ることにより、真の自己を実現するべきであるということである。

蓮の葉の上の水のように振る舞いなさい。

利己心、渇望、怒り、貪欲、憎しみ、羨望で構成される低い悪魔のような性質を放棄しなさい。

神性なる性質を断言しなさい。

精神的な放棄と献身の人生を送りなさい。」

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「『ギーター』のなかの一節に、「この宇宙全体は私の小片である」とあります。

これはどう理解すればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「神の小さな一部分が分離して、それが宇宙を形成しているという意味ではない。

彼のシャクティ(力)は活動している。

その力による活動の相のひとつの結果として宇宙が姿を現したのである。

同じように、『プルシャ・スークタ』のなかには「すべての生けるものが神の御足の片方を形作っている」と述べられているが、それはブラフマンがいくつかの部分に分かれているという意味ではない。」

 

質問者

「それは理解できます。

ブラフマンは間違いなく分割できるものではありません。」

 

マハルシ

「それゆえ、ブラフマンはすべてであり、分割不可能である。

それはつねに明らかである。

だが、人びとはこのことに気づいていない。

彼はこのことを知らねばならない。

真我がブラフマンだという永遠の真理の啓示を防げる障害を克服すること、それが知識である。

その障害はあなたがひとりの個人として分離しているという概念から成っている。」

 

質問者

「神と真我は同じものでしょうか?」

 

マハルシ

「誰もが真我を知っている。

だが、明確には知られていない。

あなたはつねに存在している。

その「在ること」が真我である。

「私は在る」(I AM)が神の名前である。

神を定義した言葉のなかで、『旧約聖書』の出エジプト記第三章十四節にある「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)ほど、ふさわしい言葉はない。

他にも「ブラフマイヴァーハム」(ブラフマンは私である)「アハム・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、「ソーハム」(私は彼である)という言葉がある。

だが、「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど、直接的に表現したものはないだろう。

絶対的存在とは、ただ在るものである。

それが真我である。

それが神である。

真我を知れば神を知る。

実際、神は真我以外の何ものでもない。」

 

質問者

「神は多くの異なった名前で知られています。

そのなかのいくつかが正しいものと言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ハートの内に宿る無心の神にとって、何千という神の名前の中でも「私」或いは「私は在る」のように真実で、適切で、美しい名前はない。

自我が破壊されたそのとき、真我に注意を向ける人のハートのなかでは、至高なる沈黙の言葉(マウナ-パラー-ヴァーク)が響きわたる。

それが神の名前「私-私」である。

「私」という感覚に注意を払い、「私-私」に絶えず瞑想するなら、人は想念の起こる源に飛びこみ、自我を破壊し去るだろう。

 

質問者

「神と世界の関係とは何でしょうか?

神は世界の創造者あるいは維持者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「感覚のある存在も、感覚のない存在も、すべてのものは太陽が単にそこに在るおかげで活動をしている。

同じように、すべての生けるものたちの活動は、意志も欲望ももたない神の存在によって為されている。

ただ太陽が存在するだけで、蓮のつぼみは開き、睡蓮の花は閉じ、すべての無数の生けるものたちは活動し、休息する。

針が磁石の前で動くように、ムーンストーンが水を放つように、月光が睡蓮の花を咲かせ、蓮の華を閉じさせるように、おびただしい数の世界の秩序は、ただ神の存在によって維持されている。

わずかな意志さえももたない神が存在するというだけで、無数の活動に従事する生きとし生けるものたちは、カルマによって定められた進路に沿って引き寄せられたさまざまな生き方を経て、ついにはその行動のむなしさに目覚め、真我に向きを変え、そして解脱を達成するのである。

世界の活動が太陽に影響を与えることのないように、そして四大元素(土、水、火、空気)の顕著な特質が無限の空間に影響を与えることのないように、生きとし生けるものの行為が、心を超越した神に影響を与えることはない。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

『観念や想念が空に青さを「見る」ように、心は世界を実在と見る。

だが、空に青さはない。

視覚の能力の限界が、空を青だと見なすのだ。

同じように、世界の現れを知覚するのは思考の能力の限界に他ならない。

この世界の現れは錯覚だ。

心の中でそれについての考えを起こさせないほうがいい。

「私は迷っている」と考えることで人は苦悩する。

そして、「私は気づいている」と考えることで人は至福に向かうのだ。

初めから存在していなかったものは、今も存在していない。

存在していたものは、今も存在している。

それが絶対なるブラフマンだ。

これに瞑想することが平安を与える。

なぜなら、そのブラフマンこそが平安だからだ。

いつであれどこであれ、これ以外のものに瞑想してはならない。

そして、人は最大限の力で、最大限の知性を使って、快楽への期待そのものを根こそぎにしなければならないのだ。

老いと死の原因は、ただ無知のみにある。

希望や執着は、無知である精神的条件づけのせいで起こる。

それが、「これは私の財産だ」や「これは私の息子だ」といった考えを生み出す。

この空っぼの物質的身体のどこに「私」と呼ばれるものが存在するというのか?

ラーマよ。実際は「私」や「私のもの」などといった概念はまったく存在しない。

ただ一なる真我だけが真理なのだ。

無知の状態の中でだけ、人はロープの代わりに蛇を見る。

光明を得た状態では、そうは見ない。

光明を得た視野の中にはただ無限の意識だけが存在し、他には何もない。

ラーマよ。

無知な人間になってはならない。

世界の現れを起こさせる精神的条件づけを破壊しなさい。

なぜ無知な人のように、この身体を自己と見なして惨めになるのか?

身体と自己は一緒に存在しているように見えるかもしれないが、それらは別なのだ。

たとえ身体が死んでも真我は死なないからだ。

ラーマよ。「絶対なるブラフマンだけが存在する」という真理を忘れ、存在さえしない無知に人々が確信を抱くのは何と不思議なことだろうか?

無知の存在という愚かな考えを根づかせてはいけない。

なぜなら、意識が無知で穢されると、果てしもない苦しみを招くからだ。

それは非実在であるにもかかわらず、現実の苦しみをもたらす。

蜃気楼や空を飛ぶような幻覚や、天国や地獄を体験するのは無知のせいだ。

それゆえ、ラーマよ。二元的知覚の原因である精神的条件付づけを放棄して、完全に無条件な状態にとどまりなさい。

そうすれば、あなたはすべてに勝る、類い稀な、至高の真我に到達するだろう。

 

ラーマはしばらくの間、深く瞑想し、それからこう尋ねた。

聖者よ!存在しない世界を実在するように見せる幻想を、存在しない無知がつくり出しているとは、実に信じがたいことです。

それに、どうしてラヴァナ王はさまざまな苦しみを体験しなければならなかったのでしょうか?

それを体験したのはいったい誰(何)だったのでしょうか?

どうか教えてください。

 

ヴァシシュタは答えた。

ラーマよ。意識と身体の間に何らかのつながりがあるということは、まったく真実ではない。

この身体は夢の中に現れる身体のように、意識によって空想されたものなのだ。

意識がそれ自身を限定し、自分をジーヴァだと考えたとたん、落ち着きのないエネルギーを授かったそのジーヴァは、世界の現れに巻き込まれてしまう。

過去の行為の結果を楽しんだり、それに苦しんだりする身体を得た存在が、自我、心、ジーヴァと呼ばれるものだ。

苦しみを体験するのは、身体でも光明を得た存在でもない。

ただ無知な人だけが苦しむのだ。

心が世界の現れを夢見るのは、目覚めているときや覚醒を得たときではなく、無知の状態の中だけだ。

それゆえ、苦しみを体験する身体を得た存在は、心、無知、ジーヴァ、精神的条件づけ、個人意識などのさまざまな名前で呼ばれている。

この身体は生命意識を持たないただの物質だ。

それゆえ、それは楽しむことも苦しむこともできない。

不注意や愚かさをもたらすのは無知だけだ。

それゆえ、楽しんだり苦しんだりするのも無知だけなのだ。

実際、生まれたり、泣いたり、殺したり、死んだり、他者を苦しめたりするのは、身体ではなく心だ。

幻想や想像も、幸福や不幸の体験も、すべてを為し、すべてを体験するのは心だ。

心が人なのだ。

心が完全に浄化されたとき、あなたは心が織り成す二元性や多様性から脱する。

ラーマよ、私はすでに「宇宙崩壊のあとに続く」創造の循環の過程について、また、どのように人が「私」や「私のもの」という偽りの観念を心に抱くのかについて述べてきた。

叡知をたずさえた人はヨーガの完成への七つの段階を登り、徐々に解脱を達成するのだ」

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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