永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(13)

前回までの3回に渡り、「明け渡し」(バクティ=神への献身)とはどのようなものなのか?について、シュリー・ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介しましたが、ここで、今一度、「明け渡し」の基本事項を再確認したいと思います。

 

まず、誰に何を「明け渡す」か?ですが、これは、改めて述べるまでもなく、「わたし」を「神」に「明け渡す」ことを意味しています。

 

「わたし」は、説明するまでもありませんが、再確認の意味で書くならば、ひとつの肉体に生じている意識(顕在意識や潜在意識)です。

熟睡している時には、「わたし」は消えていますので、無意識の時は、「わたし」はいません。

「わたし」という想いが、脳に生じている時だけ、「わたし」は存在しているのです。

脳が完全にその働きを休んでいる時は、「わたし」は消えたままです。

「わたし」の正体とは、そのようなものなのですが、人間は、通常は、熟睡状態を「わたしが寝ている」という風に解釈します。

それでは、「わたし」が消えてしまう熟睡時には、すべてが消えてしまうか?というと、そんなことはなく、肉体は残っています。

しかし、その肉体は、ベッドや布団や椅子や机と同じような存在で、たんぱく質の塊であるだけです。

「わたしの肉体」と思う「わたし」がいるからこそ、寝ている時の状態を「わたしは寝ている」と思えるのです。

しかし、「わたし」が消えていても、残った肉体は、呼吸をしたり、心臓が全身に血液を送るために動いて、ドキドキしたり、発汗したり、体温調整をしたり、睡眠中でも眼球は動いていることがわかっています。

脳波を測れば、アルファ波、ベータ波、シータ波、ガンマ波が検出されることから、脳が働いていることも明らかです。

このように、自分では、何もしていないにも拘わらず、わたし達の肉体は、あるプログラムが働いているかのように、各器官は瞬間、瞬間、動いており、その動きが止まることはありません。

しかし、それが、どうして起こるのか?を、「わたし」は全く知りません。

つまり、「わたし」は、「わたし」の身体に起きていることでさえ、ほとんど、いえ、全くと言ってよいほど、知らないのです。

それは、つまりは、「わたし」が、この肉体の主人ではない、と言うことを意味しています。

「わたし」が「主」(あるじ)なら、この肉体に起こることすべてを理解して、各器官の働きをコントロールすることもできるでしょうが、実際には、そんなことはありません。

ですから、「わたし」が、この肉体の「主」(あるじ)でないことは、明らかです。

それでは、誰が、この肉体の「主」(あるじ)なのでしょうか?

この理論を推し進めて行くと、この肉体を造り、肉体を動かしている存在が、この肉体の「主」(あるじ)である、ということになります。

この肉体を造り、肉体を動かしている存在を、昔から、わたし達は、「神」と呼んできました。

ですから、「明け渡し」とは、「わたし」のすべてを、真の「主」(あるじ)である「神」にお返しする(捧げる)、ということを意味しています。

アートマンに主座を明け渡す”とはそういう意味です。

この「明け渡し」においては、当然、バクティ(神への献身)が求められます。

「神」に対する心からの信愛が無ければ、自己を神に完全に「明け渡す」ことは、不可能でしょう。

その上で、瞑想などで、自己(自意識)を弱めたり、カルマ・ヨーガを実践して、「自分の」「自分のもの」という感覚を弱めることが、「明け渡し」のための有効な準備となり得るのです。

 

しかし、厳しい言い方になるかとは思いますが、自分の心の中に、「神」がいなければ、誰にも自己を「明け渡す」ことはできません。

バクティ(神への献身)の道は、ジニャーナ(真我探究)よりも簡単な道であると、ラーマクリシュナは仰っていますが、それは、心の中に、すでに神さまがいらっしゃる(完全に神を信じて疑わない)場合の話であって、神の存在自体を疑っている人には、ジニャーナ(真我探究)と同じくらい簡単な道ではないと言えるでしょう。

 

それでは、前回に続き、シュリー・ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介しましょう。

 

 

『質問者

「私はバクティを熱望しています。

もっとこの熱望が欲しいのです。

真我の実現などどうでもいいのです。

どうか私をこの熱望のなかに消化させてください。」

 

マハルシ

「もしその熱望があるのなら、実現は求めずしてあなたに強いられることだろう。

あなたの心が帰依のなかに溶け去るように、それを熱烈に求めなさい。

樟脳が燃え尽きると、何の残りかすも残らない。

心とはその樟脳である。

心が何の後も残さず真我のなかに消え去ったとき、それが真我の実現なのである。」

 

質問者

「私はムールティ・ディヤーナ(形態への崇拝)の信仰をしています。

それはジニャーナを得るための助けにはならないのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん、助けになるだろう。

ウパーサナ(瞑想)は心の集中を助ける。

そのとき心は他の想念から解放され、瞑想の対象である神のイメージで満たされる。

そして瞑想の対象とひとつとなって純粋になっている。

そのときにこそ、誰が崇拝しているのかと考えなさい。

その答えは「私」、つまり真我である。

このようにして、最終的には真我が得られるのである。

非思考の思考によって無形の実在を崇拝することが最高の帰依である。

だが、自分はそのような無形の神の崇拝にふさわしくないと感じるなら、形を崇拝することが適しているだろう。

無形の崇拝の形をもたない人にのみ可能である。

自我の形をもつ人たちによる崇拝は、みなどれも形の崇拝にすぎないことを知るべきである。

いかなる執着もなく、ただ真我のなかだけにとどまった純粋な存在状態、それが沈黙である。

その沈黙として、永遠に、あるがままに在ること、それが真の崇拝である。

心を真我に明け渡し、ハートの座に主を迎えた、絶え間ない真の自然な崇拝、それが沈黙であり、最高の崇拝である。

それこそが非-帰依(ヴィバクティ)である。

真我である心の静寂としてとどまること、それこそが真のシヴァ・バクティ(神への帰依)である。

シヴァの御足元に自己を完全に明け渡すとき、自分の欠点についての不満も完全に消え去る。

人は本来の姿となって、満ち足りた真我の平和を得る。

それこそが究極の帰依の姿である。

人はこうして主のしもべとなり、「私は彼のしもべだ」という自分本位な想念さえない沈黙と静寂の内にとどまる。

それこそが真我のなかに永遠にすまうことである。

これが至高の知識である。」

 

質問者

「真理の探究者は、神を称える讃歌を歌い踊ることに没頭しながら世界を歩きまわることで、目的を達成できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「どこを歩きまわろうと、心をひとつのことに保ちつづけることが大切である。

身体をひとつ所にとどめていても、心がさ迷っていては何の役にも立たない。」

 

質問者

「アヘトゥカ・バクティ(動機のない帰依)は可能なのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは可能である。

欲望の対象物を求めて神を崇拝するのは、単にその欲望の対象物を崇拝していることと変わらない。

欲望の対象物への想いが完全にやんだ状態が、シヴァ神の状態に到達することを望む心にとっては欠かせない。」

 

質問者

「『シュリーマッド・バーガヴァタム』は、ハートのなかにクリシュナ神を見いだすための方法とは、すべてに対してひれ伏し、すべてを主御自身であると見なすことだと述べています。

この方法は真我の実現に導く正しい道でしょうか?

心が出会うものが何であれ、それをクリシュナ神として崇めることのほうが、「私は誰か?」という知的探究を通して超意識を求めるよりも易しいのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

あなたがすべてに神を見るとき、神のことを考えるだろうか、考えないだろうか?

あなたの周りのすべてのなかに神を見たいと望むなら、もちろんあなたは神のことを考えるだろう。

このように心のなかに神を保ちつづけることが瞑想となる。

瞑想とは実現前の状態である。

実現とは真我の実現であり、それは真我のなかにのみ起こり得る。

真我を離れて実現はありえない。

実現の前には瞑想が先行しなければならない。

だが、神に瞑想しようと真我に瞑想しようと、それは問題ではない。

その目的は同じだからである。

何をしようと、真我から逃れることはできない。

あなたはすべてに神を見たいと言う。

だが、あなたのなかには見ないのかね?

もしすべてが神であるなら、あなたもそのすべてに含まれるのではないだろうか?

あなた自身が神であるならば、すべてが神であることが不思議なことだろうか?

これこそ『シュリーマッド・バーガヴァタム』が勧めた方法である。

しかし、この修練をするとしても、そこには見る者や考える者がいるはずである。

それは誰だろうか?」

 

質問者

「すべてに遍在する神を見るにはどうすればいいのでしょうか?」

 

マハルシ

「神を見ることは、神として在ることである。

神は遍在し、何ひとつ神から離れては存在しない。

ただ彼のみが在る。」

 

質問者

「バクタ(帰依者)はバクティ(帰依)のために神を必要とします。

彼はただ真我だけが存在し、崇拝する者も崇拝される者もいないことを学ぶべきではないでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん、サーダナには神が必要である。

しかし、バクティ・マールガ(帰依の道)にとっても、サーダナの成就は完全な明け渡しのあとにのみ達成される。

自我が消え去ることを除けば、真我はつねにあるがままにとどまるという。

これはどういう意味だろうか?

いかなる道を行こうとも、「私」を避けて通ることはできない。

ニシカーマ・カルマ(動機のない行為)をする「私」、神から分離したと感じ、彼と結ばれていたいと熱望する「私」、自己の真の本性を見失ったと感じている「私」、この「私」の源を見いだしなさい。

そうすればすべての問いは解決するだろう。」

 

質問者

「もし「私」さえも幻想なら、いったい誰がその幻想を消し去るというのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私」が「私」という幻想を消し去り、しかも「私」として残る。

それが真我実現のパラドックスである。

賢者はそこにいかなる矛盾も見ない。

バクティの場合をとって見てみなさい。

私はイーシュワラ神に近づき、彼のなかに融合されんと祈る。

信心とともに私は彼に集中し、そして自らを明け渡す。

あとには何が残るだろう?

完全な明け渡しは未来の「私」の場所のなかに神だけを残し、偽りの「私」は消え去るのだ。

これが最高の帰依「パラバクティ」、明け渡し、ヴァイラーギャ(無執着)の極みである。

あなたはあれやこれといった「私の」所有物を放棄する。

もしその代りに「私」と「私のもの」という想念を放棄すれば、すべてが一太刀で放棄される。

所有の根本原因が断たれたからである。

このようにして罪悪は種のうちに砕かれ、つぼみのうちに摘み取られる。

そのためには非常に強固な無執着がなされなければならない。

水中に捕らえられた人が、必死で水面に上がろうとして努力するに等しい真剣さと熱意が必要となるだろう。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

無敵の勇士 アルジュナ

すべての行為を完成するためには

五つの因ありとヴェーダンタでは説く

これについてわたしの言葉を聞け

 

行為の場(肉体)行為者(個我)

各種の器官 各種の運動エネルギー

そして最後に摂理ーー(または神意)

これらの五つが行為の原因である

 

体と心と または言葉で

正しい行為 善なる行為をしても

あるいは不正な行為をしても

どちらも この五つが原因である

 

故に 自分ひとりが行為者だと思い

この五つの要因に考え及ばぬ人は

知性と理解力に乏しく

物事の真相を見ることができない

 

我執 利己心のない者は

彼処(かしこ)に居並ぶ大勢の人々を殺しても

殺人者にはならない

また その報いを受けない

 

知識と その対象と 知る者

この三つが行為の誘因となり

感官と 所作と 行為者

この三つが行為を構成する

 (バガヴァッド・ギーター第18章13-18)

 

 

 

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