永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(12)

ナーナ先生のお力のお陰で、プラナーナの恩寵に与ることで、超自然的な体験が起き、その体験により明らかになったことがあります。

それは、いままで主役の座に居座り、すべての行為、思考、感情の司令塔であり、この世を体験する主権を握っていると思い込んでいたエゴ(マインド)の本当の正体が明らかになったことでした。

それは、言葉で言えば、この世を体験している「わたし」とは、実際には実体のある存在ではなく、感覚はやって来ては去って行き、思考は湧いては去って行き、行為も自動反応だったり、思考の結果であったり、確かにこの肉体が行っているには違いありませんが、その肉体を「わたし」が動かしているように錯覚しているだけで、本当は、そんな主体としての「わたし」という存在は実在しない、ということでした。

過去の体験が集積した記憶によって、人格や刺激に対して反応する心の枠組み(フレーム)が形作られていて、そのフレームのようなものを「わたし」だと思う思い込みが起きていて、常識と言う人間間の暗黙の了解もあり、それが人間として当たり前になっているのですが、実際には、そのフレームの中に、「わたし」という実体がある訳ではありません。

「自分は生きている」「わたしは存在している」という意識も、脳内に起きているだけで、自分の力が創り出している訳ではないことは、人間なら誰でも了解しています。

自分の力で、頭の髪の毛一本生えさせることができないわたしたち人間には、「自」そのものであるエゴには、到底考えられないことではありますが、「自」という部分はないのです。

一人の人間として生きているのも、この形でこの世に存在しているのも、自力ではなく、完全に他力、神の力によるものなのですが、そして、神の力無しには、何も成し得ず、この世のすべては、神の力によって存在しているのですが、ともすると、人間は自分の力というものがあるかのように錯覚しています。

プラナーナの力により、神の力をダイレクトに体験したことで、エゴは見せかけの力を失い、そして完全にフレーム状態になってしまいました。

この宇宙がまるで実在しているかのように感じられるのは、神の力により、人間の脳内に認識が起きているからで、人間が認識しているような宇宙が、自らの力で実在しているのではなく、人間の持つ知覚感覚器官を通すと、このような宇宙が存在するかのような認識が、人間の脳内に起きているだけなのです。

人間は、生まれてから、知覚感覚器官を通してしか外界を認識したことがないので、目に見える世界が実体のある世界であることは、わたしたち人間にとっては疑いようのないことなのですが、しかし、実際には、そのような世界は、人間の脳の中にしか存在しておらず、宇宙の真の姿を人間の通常の知覚感覚器官を通して把握することは、実は不可能なのです。

その証拠に、他の生物は、人間が認識している世界を、人間と同じようには認識していません。

知覚感覚器官のセンサー能力、及び、それらより送られてきたデータを解析する脳と言うコンピューターの解析能力によって、認識する世界は違ってきます。

肉体は、神の創造によるものであり、人間は人間として同じようなセンサーと脳を持っているので、人間同士が認識している宇宙には、大きな違いはありません。

しかし、その宇宙は、人間の認識によって支えられているだけで、その認識も神の力によって支えられているのです。

そして、この神の力により、宇宙の本当の姿、実相を短い時間でしたが、体験したことで、宇宙は実体を失い、フレーム化してしまい、幻、夢と化してしまったのでした。

空に架かる虹は、見えている時は、まるでそこに存在するかのように見えますが、実際には、光の屈折現象で、虹というモノが実在する訳ではありません。

同じように、この宇宙は、実在するかのように見えていますが、虹と同じように、人間の眼にそのように見えているだけなのです。

わたしたち人間に、この世が存在するかのような錯覚が起きているのも、神の力によるもので、究極的には、神しか実在しません。

宇宙が存在するのは、神の力によるもので、人間も例外ではないのです。

 

プラナーナによる体験を通して、真の宇宙の実相であり、真に実在する”在って在る”とはどんなモノなのか?についての智慧がやって来たのですが、その後、シュリ・ラマナ・マハルシが遺された御言葉の中に、同じようなことが書かれているのを読んだ時、とても嬉しく感じ、更に確信が深まったのでした。

 

それでは、シュリ・ラマナ・マハルシは、神について、どのように語っていらっしゃるでしょうか?

前回の続きをご紹介いたしましょう。

 

 

『質問者

「(この質問は手紙としてシュリ・ラマナに手渡された)神の庇護の元に入り、まったく他に何も考えず、ただ神のみを思いつづけるなら、人はすべてを得ることができると言われています。

それは静かに坐り、つねに神のみに黙想し、身体を維持するために必要な食べ物のことさえも含めたすべての想念を放棄することを意味するのでしょうか?

病気になったときでも、薬や治療のことを考えるのではなく、健康も病気もただ神の摂理にまかせるべきだということでしょうか?

『バガヴァッド・ギーター』は「すべての欲望を放棄し、『私』や『私のもの』という想いもなく、我執なしに行動する人、彼は寂静に達する」(第2章71節)と述べています。

それはすべての欲望を棄て去ることを意味します。

それゆえ、私たちは神への黙想だけに専念し、何も求めず、神の恩寵によって与えられた食べ物や水だけを受け取るべきなのでしょうか?

あるいは少しは努力するべきなのでしょうか?

バガヴァーン、どうかこのシャラナガティ(明け渡し)の秘密を教えてください。」

 

マハルシ

「(手紙を読み終えると、彼はホールにいる皆に向かって語った」アナンニャ・シャラナガティ(完全な明け渡し)とはいかなる想念への執着も、疑いもないことを意味する。

だが、身体を維持するために必要な食べ物や水についての考えさえも放棄するべきだろうか?

彼は「何も求めず、神の思し召しによって得たものだけを食べるべきでしょうか?

あるいは、少しは努力をするべきでしょうか?」と尋ねている。

よろしい。

それでは、われわれはひとりでにやってきたものだけを食べることにしよう。

だがそのときでさえ、誰が食べるというのだろう?

では、誰かがわれわれの口のなかに食べ物を入れたとしよう。

いったい、少なくともそれを飲みこむべきではないだろうか?

それは努力にならないだろうか?

彼は、「もし病気になったら、薬を摂るべきでしょうか、それとも黙って健康も病気も神の手にまかせるべきでしょうか?」と尋ねている。

シャンカラーチャーリヤの「サーダナ・パンチャカム」という本のなかには、空腹と呼ばれる病気の治療のためには、施しによって得られた食べ物を食べるべきであると書かれている。

だが、少なくとも外へ出ていって、托鉢をしなければならないだろう。

もし、人びとが皆、目を閉じて静かに坐り、食べ物が来たなら食べますと言っていたら、世界はどうなってしまうだろうか?

それゆえ、各人がそれぞれの伝統に沿って得たものを受け取ればいいのだ。

だが、自分がそれをしているという感覚から自由にならなければならない。

私がそれをしているという感覚が束縛なのである。

それゆえ、空腹のときに食べるべきか、病気のときに薬を摂るべきかを疑うよりも、どうすれば行為者という感覚を克服できるかを考え、その方法を見いだす必要がある。

このような疑いはいつまでも湧きつづけ、けっして終わることはない。

「痛みがあるときにはうめき声をあげるべきだろうか?」、「息を吐いたあとに吸うべきだろうか?」といった疑いさえ起こるだろう。

何かより高次の力が、各個人の心の発達に合わせてこの世界のすべてを動かしている。

それをイーシュワラ(至高の主)あるいはカルマ(運命)と呼んでもいい。

もし、より高次の力に責任を明け渡せば、ものごとはひとりでに起こるだろう。

われわれは大地の上を歩く。

そうする間、一方の足を上げたあとのもう一方を上げるべきか、あるいはどこかで止めるべきかと一歩ごとに考えるだろうか?

歩くことは自動的に起こるのではないだろうか?

呼気と吸気の場合も同じである。

吸ったり吐いたりすることに特別な努力はいらない。

この人生においても同じことである。

もしわれわれが望めば何でも止められるだろうか?

あるいは何でも望みどおりにすることができるのだろうか?

かなり多くのことが、意識されないまま自動的に行われている。

神への完全な明け渡しとは、すべての想念を放棄し、心を神に集中させることである。

もしそれができれば、他の想念は消え去る。

もし心、言葉、身体の行為が神に溶けあえば、人生のすべての重荷は神のものとなるのである。」

 

質問者

「しかし、神は本当に私が行うすべての行動の行為者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「現状における困難は、人が自分を行為者だと考えていることにある。

だが、それは誤りだ。

すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎない。

もしこの見解を受け入れれば、彼は災いから解放され、さもなければ自ら災いを招くことになる。

例えば、ゴープラム(寺院の塔)の土台に彫刻された像は、あたかも党の重みをその肩に乗せているかのように見える。

その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えている。

だが、考えてもみなさい。

塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っている。

そして彫刻の像は塔の一部にしかすぎず、ただ塔の重量に耐えているように見えるだけなのだ。

おかしくはないかね?

自分が行為をしていると感じている人もまた同じことである。」

 

質問者

「スワミ、神を愛することは善いことではないでしょうか?

それならなぜ愛の道(バクティ・マールガ)にしたがわないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それにしたがえないと誰が言ったのかね?

そうするがいい。

だが、あなたが愛について語るとき、そこには二元性がある。

愛する者と、神と呼ばれる実体である愛される者がいる。

そうではないだろうか?

個人は神から分離してはいない。

それゆえ、愛とは自分の真我に対する愛を意味しているのである。」

 

質問者

「だからこそ、神が愛の道を通して崇拝されていいのかどうかと尋ねているのです。」

 

マハルシ

「それこそ私が言ってきたことである。

愛そのものが神の本当の姿である。

「私はこれを愛さない」、「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。

それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。

それは純粋な至福である。

純粋な至福、神、アートマ、好きなように呼ぶがいい。

それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。

あなたがこのようにすべてを拒絶すると、ただ真我だけが残る。

それが真実の愛である。

その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛で満ちていることを知るだろう。

真我の本性である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。

愛の高みに達した人のみ、解脱は成就される。

それがすべての宗教の本質である。

真我の体験とは愛である。

それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。

それが至福である。」 

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 サットワの離欲者は

不運な仕事をも嫌わず

幸先のよい仕事にも執着せず

活動についての正しい信念を確立している

 

肉体をまとった者たちにとって

活動をすべて止めることは不可能だ

しかし 仕事の結果を放棄した人は

真の離欲者である

 

離欲せぬ者は死後その生前の行為による

快 不快 またはその混合の報果をうける

だが離欲の生活を送った者は

そのような悲喜の報果をうけることはない

 (バガヴァッド・ギーター第18章10-12)

 

 

 

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真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

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このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

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など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

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http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

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