永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(6)

前回の記事でも書きましたが、

私たちは、自分の肉体を見て、または、他者の肉体を見て、同じ形をしていると判断できる場合は、同じ「ヒト」という生物であると認識します。

 

その肉体は、この地上に現れてから、日々、成長を続け、やがて成長はピークに達し、その後は、衰退が始まり、終には、肉体にある機能のすべてが停止する日がやって来て、肉体は滅びます。

 

私たちが、自分たちを、この「肉体」と同一視している限りは、個体としての消滅を宿命として受け入れるしかありません。

自分たちを、「肉体」と限定してしまうと、肉体の消滅と共に、「個人」のすべてが消滅します。

「わたし」という意識は、寝ている間は、ありませんから、肉体に属していることは明らかです。

ですから、「わたし」という意識(自我意識)は、肉体の消滅と共に、消滅します。

これは、個人にとっては、完全なる消滅を意味し、死への恐怖心が育ちます。

 

ここにもう一つの考えがあります。

それは、「肉体」の消滅後も、何らかの形で「個人」は存在し、また、この地上に生まれ変わる、というもので、これが、現在言われているところの「輪廻転生」の考え方です。

 

個人にとっては、死後は、何も無くなる、と考えるか?、それとも、魂は死なずに、何らかの形で存在し続け、それが輪廻転生する、と考えるか?という二通りの考えしかありません。

 

前者は、肉体がすべてである、という考えに根差しており、

後者は、肉体が滅んでも、(個の)魂は生きている、という考えに根差しています。

 

人それぞれに、どちらの考え方を選ぶか?は、それぞれでしょう。

 

完全なる消滅と考えると、死の際に、人は、死に対して恐怖を感じることでしょう。

しかし、輪廻転生すると思っていても、今生が輪廻転生の結果であるわけですから、

次の転生先が不可測であるという理由で、やはり、人は不安を感じることでしょう。

どんな「人間」になるのかわかりませんし、前回の記事でご紹介した内容から言えることは、「人間」になるかどうかも、わからない、ということなのですから。

 

これら二者択一の考え方に対して、もう一つの考え方があります。

それが、アドヴァイタ(不二一元論)です。

 

アドヴァイタ(不二一元論)を理解していくにつれ、私たち「人間」という存在事由が次第に明らかになって行きます。

そして、それに伴い、「死」に対する疑問への答えが明らかになり、やがて、疑問は消滅します。

 

しかし、それまでは、これらの疑問を念頭に置きながら、真理解明のために「アートマン」への理解を深めていく必要があります。

 

それでは、前回の続きから見ていきたいと思います。

 

(以下の文は、インド独立よりも約50年ほど前のイギリスの植民地時代に行われたインド人に向けた講演会で話された内容であることを、念頭に置いて読んで下さい)

 

 

『ところがここに、すさまじい論争が始まります。

ここに仏教徒がいて、同じように肉体を物質の流れにまで分析し、心をも同様にもう一つの物質の流れにまで分析します。

そしてこのアートマンについては、彼らは、”それ”は不必要であると言うのです。

だからわれわれはアートマンを仮定する必要などは全くない。

実体とその実体にくっついている性質とが何の役に立つのか。

われわれは言う、グナ、すなわち性質、それだけだ。

一つの原因が全体を説明し得るのに、二つの原因を仮定するのは非論理的である、と。

そして論争はつづき、(アートマンの)実体説を掲げるすべての学説は仏教徒によってなぎ倒されてしまいました。

実体および性質を認める説、すなわちあなたも私も、そして各人がそれぞれに、心および肉体とは別個の魂を持っている、とする説を固守する人々の系列全体が崩壊しました。

今まではわれわれは、二元論の考えは差し支えないと見て来ました。

肉体があり、それから精妙な体すなわち心があり、このアートマンがあり、すべてのアートマンに遍満して、かのパラマートマン、すなわち神がある、というのです。

難点はここにあります。

すなわち、このアートマンとパラマートマンとが両方とも実体と呼ばれ、そこに心、肉体、およびいわゆる物質が、さまざまの性質のようにくっついています。

誰も未だかつて(アートマンという)実体なるものを見たことはないし、誰もそれを思い浮かべることもできはしません。

何でこの実体を考える必要があるのか。

クシャニカヴァーディンになって、存在するものはことごとく、この心の流れの連続であってそれ以上の何ものでもない、と言ったらよいではないか。

それらは互いにくっついているものではない、それらは一単位を構成しているものではない、一つがもう一つを追いながら、海の波のように、決して完成することはなく、決して一つの完全な単位をつくることは無いのである。

人間は波の連続、一波が消えるとき、それは次の波を生み出す、そしてこれらの波動の停止が、ニルヴァーナと呼ばれるものである、と。

この説の前に二元論は沈黙してしまうこと、ごらんの通りです。

いかなる反論も不可能なのです。

そして二元論的な神もまた、ここでは存続することはできません。

遍在であるがしかし手を使わないで創造を行ない、足がなくて歩きまわったりする一人格神、クンバカーラ(陶工)がガタ(瓶)を作るようにして宇宙を創造した一人格である神、があると思うのは子供じみている、と仏教徒は言います。

そして、もしこれが神であるなら、これを拝むようなことはせずこれと戦おう、と言うのです。

この世界は不幸にみちています。

もしこれが神の仕事であるなら、この神と闘いましょう。

そして第二に、皆さん全てがご存知のように、この神は不合理であり、そして不可能です。

神の「計画説」の欠点は、すでに我らのクシャニカたちすべてが十分によく示していますから、われわれが説明する必要はありません。

こういう次第で、この人格神は粉砕されてしまったのでした。

 

あなたの神と、”かれ”のグナと、そして実体であるところの無限数の魂とを認めつつ、あなたはどのようにして”かれ”の実在を証明するのでしょうか。

しかも各々の魂が独立の個体なのです。

何の中で、あなたは個体なのですか。

肉体として個体なのではない。

なぜなら今日あなたは昔の仏教徒よりもよく、太陽の中の物質だったかも知れないものがたった今あなたの体内の物質となり、そして出て行って植物の中の物質となるであろうということを知っているのですから。

では、何某氏よ、あなたの個体性はどこにあるのか。

同じことが心にもあてはまります。

どこにあなたの個体性はあるのか。

あなたは今晩ある思いを思い、明日は別の思いを思います。

あなたは子供のときに考えたのと同じ様には考えません。

また老いた人々は若い時に考えたのと同じ様には考えません。

それではあなたの個人性はどこにあるのか。

意識つまりこのアハンカーラの中にある、などと言うことはできません。

これはあなたの存在のごく僅かの部分を占めているにすぎないのですから。

私が今こうして皆さんに話をしている間も私の身体のすべての器官ははたらきつづけているのですが、私はそれを意識していません。

もし意識が存在の証拠であるなら、それは存在しないことになります。

私がそれらを意識していないのですから。

するとあなたの人格神説のもとであなたはどこにいることになるのか。

どのようにして、あなたはこのような神を証明することができるのですか。

また、仏教徒は立ち上って宣言するでしょう。

それは不合理であるばかりでなく不道徳でもある、なぜならそれは、人に卑怯者になって外部に援助を求めることを教えるのだから、しかも誰もかれにそんな助けを与えたりはしないのだ、と。

ここに宇宙があります。

人がそれをつくったのです。

それになぜ、未だかつて誰も見たことも感じたこともない、また助けて貰ったこともない、外部の想像上の存在に依り頼むのですか。

なぜ卑怯者になって、人間の最高境地は、犬のようになってこの想像上の存在の前に這って行き、私は弱くて悪い者でございます、この宇宙間のあらゆる悪を背負っております、と申し上げることである、などと自分の子供たちに教えるのですか。

他方、仏教徒は、あなたは虚言をついている、と主張するだけでなく、あなたは子供たちの上に莫大な不幸をもたらしつつある、と言うでしょう。

なぜなら、よくおききなさい。

この世界は催眠術の結果です。

皆さんは皆さんが自分に言ってきかせるものになるのです。

偉大な仏陀がほとんど最初に語った言葉は、「あなたが思うもの、あなたはそれである、あなたが思うであろうもの、あなたはそれになるであろう」と言うものでした。

もしこれが真実であるなら、自分はつまらないものである、などということを、そうです、ここに住んではいないが雲の上にすわっているある者の助けを借りなければ自分は何事もなし得ないのだ、などということを自分に教えてはなりません。

その結果、皆さんは日ごとに層一層弱くなって行くでしょう。

「私たちは大そう不純でございます。主よ、どうぞ私たちを浄めて下さい」とたえずくり返していると、その結果は皆さんがあらゆる種類の悪を犯すよう自分に暗示をかけていることになるのです。

そうです、仏教徒は、あらゆる社会にみられるこれらの悪徳の90パーセントはこの人格神の思想から来る、と言っています。

生命のこの表現、生命のこのすばらしい表現の最後の目的が犬のようになることだというのは、人間としてひどい考え方です。

仏教徒はヴィシュヌ派の信者に向かって、もしあなたの理想、あなたの目標が、神の住居であるヴァイクンタという所に行ってそこでいつまでも手を組み合わせて”かれ”の前に立つ、ということであるなら、そんなことをするよりは自殺をした方がましだ、と言います。

仏教徒はこうまでも言い張るでしょう。

それだから自分は、これを逃れるために絶滅、すなわちニルヴァーナに入ろうとしているのだ、と。

私は、少しの間だけ仏教徒になったつもりで、これらの考えを皆さんの前にお示ししているのです。

なぜなら近頃これらすべてのアドワイタ的な思想が皆さんを不道徳にしている、と言われているので、もう一つの面はどんな風に見えているのかを皆さんにお話ししたいと思うからです。

われわれは大胆かつ勇敢に両方の面を直視しようではありませんか。

われわれはまず第一に、これは証明することができない、ということを知りました。

この、世界を創造する人格神、という考え、今日これを信じることのできる子供がいるでしょうか。

クンバカーラはガタを作る、それだから神は世界をつくったのだ!

もしそうであるなら、皆さんのクンバカーラもやはり神です。

そしてもし誰かが皆さんに、かれは頭も手もなくて行動している、と告げたら、皆さんはかれを精神病院につれて行くでしょう。

皆さんが一生呼びつづけている皆さんの人格神、世界の創造主が、かつて皆さんを助けたことがあるのか、と言うのが、現代科学からの次なる挑戦です。

皆さんが得た助けはことごとく、皆さん自身の努力によってそれ以上にも得られるはずのものだったのだ、皆さんはあのような叫びにエネルギーを消耗しないでもよかったのだ、あのように泣いたり叫んだりしなくてももっとうまくやりとげることができたのである、ということを彼らは証明するでありましょう。

そしてわれわれは、この人格神の思想と共に圧制と聖職者の政略とがやって来るのを見て来ました。

この思考が存在したところには必ず、圧制と聖職者の政略とがはびこって来たのです。

この虚偽がぶちこわされない限り、圧制はやまないだろう、と仏教徒は言います。

人は自分は超自然的な存在の前に畏まらなければならないのだと考えている間は、この種の哀れな人たちは相変わらず、祭祀に携わる者たちにとりなしを頼むでありましょうから、権利と特典を主張して人々を自分の前に畏まらせるような聖職者はあとをたたないでしょう。

ブラーミン(ヒンドゥ教の祭祀、聖職者階級)は斥けることができるかも知れませんが、しかしよくおききなさい。

そういうことをする者たちがブラーミンのあとがまにすわるでしょう。

そしてブラーミンよりも悪いことをするでしょう。

ブラーミンはある程度の雅量を持っていますがこの種の成り上り者は常に最悪の暴君になるからです。

乞食が富を獲ると、全世界をわらくずのように思うものです。

そういうわけでこの人格神思考が存続する間はこれらの聖職者たちはあとをたたず、従って社会に大きな道徳性を期待することはできないでしょう。

聖職者の権力欲と圧制とは共に行くものです。

なぜそれが発明されたのか。

昔、ある強い者たちが、人々を自分たちの手中に納めて、従わなければ殺すぞ、と言いました。

要するにそれだったのです。』

ヴェーダンタ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

このブログを通して、お伝えしているのは、これまでに何度も書いてきましたが、

ギャーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)です。

 

論理的な思考により、<至高の自己>である「アートマン」に到る道です。

 

ですから、内容が難解であることは、当たり前なのです。

 

難解であればあるほど、「錯覚」というヴェールが剥がれ落ちた後に現れる「叡智」は、この上もない人類の「宝」であるという確信が起こることでしょう。

 

その確信に到るために、次回も続きを見ていきたいと思います。

 

 

 

富の征服者 アルジュナよ もし

わたしに不動の信心決定ができないなら

信愛行(バクティ・ヨーガ)の実習に努めよ

これによってわたしへの愛が目覚めるのだ

(バガヴァッド・ギーター第12章9)