永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(11)

今回のテーマは、前回に引き続き、「ヨーガ」についてです。

 

今ある地球上のあらゆる宗教、あらゆる思想体系、あらゆる修行体系の中で、「ヨーガ」のように、至高の一者である「神との合一」をその主目的にしているものはない、と言えるでしょう。

その主目的を理解した上で、ヨーガを実践している人は、実際にはかなり少ないという現実はありますが、それは、ヨーガを実践する人たちにおける目的意識の違いであるだけで、太古より現在に至るまで、「神の直接体験」として、ヨーガが実践されてきた歴史は、今も続いています。

 

これまでの記事で、「神の直接体験」と書きましたが、そもそも、「神」は存在するのでしょうか?

 

「神」が、人間の想像上の産物(イメージ)であるならば、どんなに頑張っても、人は「神」の実在を確信することはできないことになりますから、人が無神論者であっても、無理からぬことであり、ましてや「神の直接体験」など不可能と言えます。

しかしながら、人間の歴史を振り返ってみると、私たちは、歴史の時間に、これまで人間は、多くの時代、多くの場所で、所謂「宗教戦争」を繰り返してきたことを学びました。

宗教戦争とは、宗教と宗教の争い、つまり、ある「神」を信奉する人たちと、ある「神」を信奉する人たちとの戦い、と言えます。

「宗教」とは、その成り立ちを見ますと、「神」を体験した人が、その体験した「神」を語ったことから始まっていると言え、「神」を体験した人が違うために、それぞれの人が語った「神」を主祭神とした「宗教」が生まれ、その結果、それぞれの宗教が、その正当性を示そうと、多くの争いが起きた、と見ることができます。

 

ここで注目したいことは、「神」や「宗教」の違いではなく、現代における名だたる宗教の初めには、「神」を体験した人がいた、ということであり、それから導き出されることは、「神」は存在している、ということであり、場合によっては、体験することができる、ということです。

 

そして、「神」を体験した人の中には、「宗教」の始まりになった人もいれば、「神の体験」のための方法を、後世に伝えた人もいて、後者が、リシ(聖仙)と呼ばれ、「神との合一」「神の直接体験」の方法は、「ヨーガ」となりました。

 

数千年前から、「神」を体験した多くのリシ(聖仙)達の叡智が、一つの訓練体系となり、その後、世界の極一部の地域で、師(グル)から生徒へと、脈々と伝えられた「秘法」である「ヨーガ」は、世界中に広まっています。

 

「ヨーガ」は、その実践の深さにより、いろいろな効果を生み、それぞれの段階で、確実に、多くの人の人生に役立っていることは、明らかですが、しかし、真の「ヨーガ」の目的は、最終的には、「神との合一」「解脱」にあるのです。

 

このことを深く理解するために、これまでご紹介してきましたスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」から、「ヨーガ」についての師の御言葉をご紹介したいと思います。

 

 

YOGA(ヨーガ)       

 

神の中で生きること、神と親しく交わることが、ヨーガである。

神の中における人生は、永遠の至福をもたらす。

ヨーガは、あなたに道を示す。

ヨーガは、あなたと神を結びつける。

ヨーガは、あなたを不死にする。

ヨーガは、完全な人生であり、人間的な人格のあらゆる面を徹底的に見直す方法である。

ヨーガは、必須の学習体験であり、体と心や知性ばかりでなく、内部の霊性の学習でもある。

ヨーガは、あなたに、悪から善へ、善から神性へ、それから永遠の神聖なる光輝へと上昇する素晴らしい方法を示している。

ヨーガは、適切な生きる技である。

適切な生きる技を学んだヨーギー(ヨーガ行者)は、幸福であり、調和が取れており、平和であり、緊張から自由である。

ヨーガは、インドの、或いは、インドだけでなく、全体として人類の古代の予言者によって完成された科学である。

ヨーガは、正しく科学であり、完璧な自己訓練の実践的体系である。

 

 

A Way of Life (生きる方法)

 

ヨーガは、人生から掛け離れた方向への転換を望んではいないが、人生を霊性化することを要求している。

ヨーガは、主に、生き方であり、人生から離別するものではない。

ヨーガは、行為の放棄ではなく、正しい精神で効果的に実行することである。

ヨーガは、家庭や人間の生態圏から逃れることではなく、新しい理解で、家庭と社会に対する個人の態度を創り上げるプロセスである。

 

 

Yoga is Universal(ヨーガは普遍的である)

 

ヨーガは、すべての人のためにある。

ヨーガは、普遍的であり、派閥的なものではなく、神への道であって、宗教的な教義ではない。

ヨーガの実践は、いかなる宗教にも、いかなる神聖な教会にも対立しておらず、純粋に霊的であり、普遍的であり、いかなる人の誠実な信仰心をも否定しない。

ヨーガは、宗教ではないが、すべての宗教における基本的で霊的な真理の実践への助けである。

キリスト教や仏教、パルシー教、イスラム教、スーフィー無神論者も、ヨーガを実践することができる。

ヨーギー(ヨーガ行者)になることは、神の中に途切れることなく留まり、人々と共に平和に生きることを意味する。

ヨーガは、神との結合である。

ヨーガは、すべてとの結合である。

神は、すべての中に住まわれている。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(10)

近年、健康や美容のために、ヨーガをする人たちが増えています。

確かに、ヨーガには、心身の健全さを促進する効果や、それによってもたらされる(健康)美への効果は大きいと言えます。

この場合のヨーガとは、主にアーサナ(坐方)やプラーナヤーマ(調気法)を指すことが多く、健康体操的な目的で実践されることが多いように見受けられます。

(ヨーガの中には、アーサナやプラーマヤーマを実践しないヨーガもありますが、精神修養的な意味で、アーサナやプラーナヤーマだけでなく、ヤマ、ニヤマの実践から、瞑想まで、幅広くヨーガを実践している人は、それほど多くはいないでしょう。)

しかし、本来のヨーガには、美や健康という表面的な副産物的な効果が目的ではなく、自己探求,、自己実現(Self-Realisation)のために、私たち人間の内側に広がる深層の世界へと深く潜っていく方法として、長い年月をかけて、多くの叡智が結集され、最も効果的な技術として、開発されてきた歴史があります。

 

以前の記事の中で、ウパニシャッドで説かれている「人間五臓説と5つの鞘(層) - 永遠の人」をご紹介しましたので、ここでもう一度、復習したいと思います。

 

『聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』では、このように解説されています。

ヴェーダンタによると、人間は 5 つのコーシャという鞘(さや)から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。』(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

ヨーガの実践目的は、この五つの鞘の中心に超然と輝くように内在しているアートマン(魂)を識ることであり、アートマンを通して、ブラフマン(神)を識ることでもあります。

これが、ヨーガの最終目的ですが、このことは、人間だけに許されている唯一の”神の直接体験”でもあります。

 

ヨーガの最終目標が、”神の直接体験”であるからには、ヨーガの実践は、宗教的なものと言えますが、それは特定の宗教というより、科学に近いと言えます。

科学は、特定の国や人々とのつながりのない、万物に働く普遍的な法則(理)です。

ヨーガも、国や人種を超え、人類共通の普遍的な真理を掴むことであり、ヨーガの実践が、最終的には、成就者には同じような結果がもたらされることから、”ヨーガは科学である”と言っているヨーギーもいます。

 

このブログでも、ヨーガを、自己実現(Self-Realisation)、霊的な探求のための一手段との観点から、解説しています。

 

このような目的でなされるヨーガの実践において、何が一番大切か?について、スワミ・シヴァナンダは、次のように仰っていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

ヨーガと宗教の実践(Yoga and the Practice of Religion)

 

ヨーガは、自己完成へと向かう意識的で持続的な試みである。

ヨーガの目的は、心の背後にあるアートマンを歪みなく鏡に映し出せるようにと、心を静かにすることである。

感覚を抑制し、心(マインド)を制御しなさい。

定期的に瞑想し、ヨーギー(ヨーガ行者)になりなさい。

ヨーガ的な人生を生き、偉大な教義を広めなさい。

あなたは、内側を見ること、内側を眺めること、内観すること、集中すること、瞑想することを忘れてしまった、それであなたは無知のまま、暗闇の中で迷っている。

内観し、内側を見なさい。

あなたの欠点を取り除くように努めなさい。

これは、真の霊的な修行であり、最も困難な霊的な修行である。

あなたは、万難を排しても、それをやらなければならない。

知性の開発は、何にもならないし、容易い。

辞書を傍に置いて、3年から6年間、カルカッタの宮殿の図書館、或いは、バローダの中央図書館に座れば、あなたは知性を開発することができる。

しかし、欠点を取り除くことは、何年間もの多大な奮闘を要する。

多くの邪な習慣は、ばらばらに切り刻まれねばならない。

バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドの一編の詩編について一週間講義をすることができる偉大なるヒンドゥー教の教師はいる。

彼らは、尊敬を集めるが、一般人に嫌われる、何故ならば、彼らは多くの欠点を持っているからだ。

彼らは、ほとんど自己反省をしない。

彼らは、彼らの欠点を取り除こうと徹底的な霊的な修行をしない。

彼らは、彼らの知性だけを開発する。

何と嘆かわしいことか!

真の宗教は、知性が終わる処で始まるのだ。

不純なハート、思い上がった知性は、宗教の霊性を理解することができない。

宗教の主要な目的は、人間の内側にある神聖さの開花である。

祈りと瞑想が、宗教の主な柱である。

定期的な祈りと瞑想を伴った無私の奉仕と献身の生活は、最も高い宗教である。

宗教の実践は、徳、善、公正、真理、愛、純粋の実践である。

有徳の人は、真に宗教的な人である。

宗教で繰り返し述べられていることは、以下の通りである:

善であれ。善行をせよ。純粋であれ。優しくあれ。慈悲深くあれ。すべてに仕えよ。すべてを愛せよ。すべての中に神を見よ。

これらの教訓の実践だけが、内側においても外側においても、存在の単一性の意識や神聖なる霊性の実現へと、人を目覚めさせるだろう。

宗教は命であり、命は献身である。

人は宗教的な儀式を、極めて慎重に執り行うかもしれないが、心と行動では、非宗教的であるかもしれない。

宗教は、人生において生きた経験でなければならない。

宗教は、語ることや見せることではなく、生きることである。

本当の宗教は、ハートの宗教である。

まず第一に、ハートが清められなければならない。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-realization)(9)

前回の記事の続きです。

「わたし」という幻想(非実在)が消えた時、同時に、「この世」という幻想(非実在)も消滅します。

しかし、それでも尚、すべてが無くなってしまう訳ではなく、「在る」(真の実在)は、在ります。

この「在る」は、直覚智でのみ識ることができ、この直覚智が起こるようにとの意図で、修行と呼ばれている訓練体系が生まれ、太古より現在に至るまで、人から人へと伝承されてきました。

その最も効果的な結果がもたらされるとされている修行が、ヨーガであり、現在では、〇〇ヨーガと呼ばれる幾種類ものヨーガの訓練体系が編み出されています。

 

ヨーガの究極的な目的は、ヨーガという言葉が示す通り、「統一」ですが、何故、人はヨーガ修行により「統一」を求めるのか?目指すのか?という疑問が湧きます。

 

この「統一」に対する言葉に「分離」があります。

多くの人間に生じている問題や根本的な疑問は、あらゆるモノから「分離しているという意識、感覚」から生じていると言っても過言ではありません。

何故ならば、内側の「分離(感)」は、外側の世界に対立を生み出すからです。

このことから、この「分離(感)」は、人間社会における多くの対立現象、分裂現象を引き起こしている原因と考えることができます。

 

「統一」とは、「分離」と「分離」の結合ではなく、「分離」そのものの消滅であり、「ただ一つ」であることを識ることによって、もたらされます。

 

前回の記事にも書きましたが、私たち人間に生じている「分離(感)」は、「個という幻想」であり「錯覚」です。

 「錯覚」ゆえ、「個という幻想」が消滅することは、元々は「分離」がなかったことを識ることでもあります。

(「分離」と言っても、実際には、マインド上に生じているただの「分離感」であり、「分離」しているように見えているだけ、感じているだけ、なのです。

実は、存在の深い部分(分離感が生じている意識の層よりも更に深い部分)では、分離はなく、すべては「ひとつ」なのですが、表層の意識であるマインドには、このことがわからないために、脳に生じている誤った認識が基になって、「分離(感)」という「錯覚」が生じています)

 

在るのは、「ただひとつ」だけであり、「分離」は、人のマインドの中にだけ在るのです。

このことを「錯覚」と呼びましたが、「錯覚」であるからには、いつか必ず「錯覚」は消滅します。

 

マインドが見ている夢は、「分離した世界」ですが、それは、マインドの中にしかありません。

ただそのことが、マインド(=わたし)には、わからないために、マインド(=わたし)は、そのことを認めようとしませんが、マインド(=わたし)が認めなくても、真実は真実なのです。

例えば、地球は、赤道上では時速約1700kmの速さで自転していますが、このことは科学的に証明されているため、その真偽を疑う人は、そう多くはいないでしょう。

しかし、そのことを疑っていない人であっても、そのことを実感として感じている人は、ほとんどいないというのも事実でしょう。

このように、実際に起きていることと、人間に生じている感覚や認識が一致しない、ということは、人間が意識していないだけで、多々あるのです。

 

この「ただ一つ」を更に深く理解するために、スワミ・シヴァナンダの続きのメッセージをご紹介したいと思います。

 

 

Unity and Existence (単一性と存在)      

 

一つの魂が、すべての中に宿っている。

一つの人間性、一つの兄弟的なつながり、一つのアートマン的なつながりがある。

身分が高い人も、低い人もいない。

すべては、平等であり、違いは、無益である。

人が作った障壁は、情け容赦なく、破壊されるべきである。

その時だけ、この世界に平和があるだろう。

人間というただ一つのカースト(身分)、愛というただ一つの宗教があるだけである。

ただ一つの戒律、真実という戒律があるだけであり、因果の法則というただ一つの法則があるだけである。

遍在する全知全能の神である唯一の神が、いらっしゃるだけである。

ハートの言葉、或いは、静寂の言葉というただ一つの言葉があるだけである。

すべての命は一つであり、世界は一つの家であり、すべては、一つの人間家族のメンバーである。

すべての創造物は、有機的な統一体であり、誰も、その統一体から独立してはいない。

人は、自分を他者から分離させることによって、自分自身を惨めにしてしまう。

分離は、死であり、統一が、永遠の命なのだ。

宇宙的な愛を養いなさい。

すべてを包括し、すべてを抱擁しなさい。

他者の価値を認めなさい。

人と人とを分離させるすべての障壁、人種、宗教や生まれつきの偏見を破壊しなさい。

すべての生物の内側に、不死の本質である非二元の原理を悟りなさい。

動物を保護しなさい。

すべての命を神聖たらしめなさい。

その時、この世は、平和と静けさの天国である美の楽園になるだろう。

アートマンがすべての生きとし生けるモノの中に住まわれている時、あなたは、何故、他者を嫌うのだろうか?

あなたは、何故、他者をあざ笑らい、眉をひそめるのか?

あなたは、何故、とげとげしい言葉を使うのか?

あなたは、何故、他者を支配し、いばりちらそうとするのか?

あなたは、何故、他者を搾取するのか?

あなたは、何故、不寛容なのか?

これは、愚の骨頂ではないか?

これは、まったくの無知ではないか?

一つの家族のメンバーとして生きることを学びなさい。

一つの人間性という理想を擁護しなさい。

一つの世界で平和に生きなさい。

すべては、神の子たちである

全世界は、神の一つの家族である。

これを感じ、実現し、幸せになりなさい。

すべての中に一つを見出し、一つの中にすべてを見出しなさい。

「私はすべてである」「私はすべての中にある」と感じなさい。

「すべての身体は、私のものである。全世界は、私の身体であり、私の家である」と感じなさい。

「私は、すべての手で仕事をする。私はすべての口で物を食べる。」と感じなさい。

「私は、すべての中の不死なる自己である」と感じなさい。

これらの決まり文句を一日に何回も心の中で唱えなさい。

フットボールやテニスをする時、飲食をする時、話し、歌う時、坐り、歩く時、お風呂に入り着替える時、手紙を書く時、仕事場で働く時、自然の呼びかけに答える時、オーム(聖音)を心の中で唱え、命の同一性、意識の単一性を感じなさい。

どんな瞬間も、行為、思考、感覚を霊的にしなさい。

それらをヨーガ(統一)に変えなさい。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-realization)(8)

前回の記事では、

この世を認識しているマインド(心)の働きによって、五感を通して認識するこの世の全てが、形と名前をもった存在として、マインド(心)に投影され、この物質界の存在すべてが、まるで実在しているかのような認識が、マインド(心)に生じていますが、実は、その認識そのものが錯覚である、と書きました。

このマインド(心)に生じている認識(錯覚)により、私たちは、この世の実在性を疑うことなく、宇宙も、地球も、自分も実在していると頑なに信じています。

 

しかし、この錯覚は消滅することがあります。

錯覚が起きているのは、その錯覚を生じさせている神の強大な力(マーヤ)が働いているからですが、このマーヤは、マインド(心)にのみ働くので、瞑想などで、マインド(心)が働かなくなり、マーヤの力が及ばなくなることで、錯覚が生じる前に実在している宇宙の実相が明らかになることがあります。

 

この宇宙の実相への理解は、通常の人間の認識のプロセスを通してではなく、直覚智を通して、やって来ます。

 

真実は、通常の意識が消滅した時に、明らかになります。

 

しかし、錯覚は消えても、すべてが無くなってしまう訳ではありません。

 

真の実在だけは、在るのです。

 

物質界の人間には、コレ以上のことを識ることは、不可能なので、コレがわかれば、必然的に、探求は終わります。

 

この宇宙の仕組みとも言えるアドヴァイタ(不二一元=非二元)について、スワミ・シヴァナンダは、とてもわかりやすく説明して下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

Is the World Unreal? (この世は、非実在か?)

 

実際には、この世はない。

ロープに見える蛇のように、それは単なる顕れである。

すべての名前と形は、影のように、鏡に映った水のように、空の青さのように非実在である。

この世の非実在は、つまるところ、真実である。

しかし、相対的な存在においては、人は世界を否定することはできない。

経験的な立場からすれば、全くの実在である。

この世は、絶対的な非実在ではない、何故ならば、あなたはこの世を体験しているし、感じている。

あなたが智慧を得た時には、消滅するので、絶対的な実在ではない。

この世は、非実在である。誰にとって?そしてどういう時に?

解放された賢者にとってのみ、この世は非実在である。

この世は、この世の人間にとっては、強固な実在である。

あなたが目覚める時だけ、夢は非実在となる。

あなたが夢を見ている時、夢はあなたにとっては全くの実在である。

この世は、非実在である。

しかし、どういう意味で?

ウサギの角、不妊女性の息子、空にある蓮の花と同じくらい非実在なのだろうか?

いや、それはブラフマンと同じくらい実在ではなく、強固でもない。

ブラフマンに比べる時、非実在であり、ただの顕れとなる。

創造とは、一つであり多くである神の顕れである。

本来、一つであり不変であるアートマンが、無数の形を帯びているかのように思われている。

絶対者であるブラフマンは、形を通して宇宙として顕れる。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

宇宙の実相が顕わになると、コインの表と裏が逆転するように、非実在と実在が逆転し、視点の反転が起こるでしょう。

 

私たちが認識する宇宙が存在し、「わたし」が存在する時、そこには「創造」があり、「創造されたこの世」があります。

よって、この世を創造された「神」もいらっしゃることになります。

しかし、本当に実在するのは、「神」だけであり、そこにおいては、「創造」はなく、「創造されたこの世」もありません。

前者は、二元の相対宇宙であり、後者が、一元の絶対宇宙と言えます。

 

この世の実在性、「わたし」という個人に起きている「わたしは存在する」という実在感は、本当は、錯覚であり、幻なのですが、しかし、この錯覚の仕組みに気づくことは、顕れである人間にとっては、そう簡単ではないため、この世の実在性は、紛れもない真実として、私たちの心身の奥深くに根付いており、それ故、この偽りの実在感に慣れ親しんでいる私たちには、錯覚の世界の中で、幻想を幻想と見抜けない状態が続いてしまっています。

これが、無明とか無知と呼ばれている私たち一般人の常態と言えます。

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-realization)(7)

前回の記事で書きましたが、

一元の世界を、あたかも二元の世界のように錯覚しているのは、ヨーガの世界では、マーヤという神の惑わしの力が働いているからである、と表現していますが、このような錯覚(とも言える現象)が起きてしまう原因は、私たち人間に生来備わっているマインド(心)の基本的な機能にあり、私たち人間は、生まれた時から、このマインド(心)を通して、世界を認識しているために、自分に起きている認識が、とても錯覚とは思えない、というのが、極普通の反応でしょう。(こう考えると、錯覚は、マインド(心)の元々の性質によるものなので、神が意図的に、マーヤという力を使って、人を惑わしているわけではない、と言うことになります)

心に起きていることが錯覚とは思えないのは、人間からすると、とても自然なことであり、心に起きていることを疑うこと自体、思いつかないというのは、無理のないことであり、当たり前の常識と言えます。

しかし、この常識は、人間界でのみ通用するだけであって、大宇宙においては、事実であるとは限りません。(究極的な真実は、常識、人智を超えていますので、時には、当たり前であることを疑うことも必要です。究極の真実は、人間的な常識の延長上にないため、そこに至ることは、簡単なことではありません))

マーヤという神の惑わしの力とは、生まれ持ったマインド(心)の機能的な性質のことを別の表現で言っているのだと捉えるならば、このマインド(心)の基本的な性質がわかれば、それを利用して、マインド(心)が働かなければ、惑わしの力であるマーヤは働かないということになります。

そして、その結果、宇宙の実相を識ることに、自然とつながって行くことになります。

つまり、マインド(心)を機能させないことが、マーヤの力を削ぐことになり、それが、二元の世界という幻想が消え、一元の世界だけが実在する、という真実(真我実現)を通して、個人が個を超越して行くことにつながって行くのです。

 

古今東西、このマインド(心)を機能させない最良の手段として、瞑想が推奨されてきました。

(睡眠中は、マインド(心)の全機能が停止しているため、全体から智慧がやって来ても、受け取ることができません。

瞑想中は、顕在意識はその働きを止めていますが、深い深い潜在意識が働いていますので、全体からのエネルギーの授受を通してやって来た智慧は、潜在意識の中に流入し、瞑想から抜け出た時、この智慧を受け取ることができるという点で、睡眠中もマインドは消えていますが、睡眠と瞑想は同じではありません)

 

瞑想中の意識には、その深さにより、段階がありますが、

数ある瞑想状態の中でも、ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)やニルヴィジャ・サマーディ(無種子三昧)という深い瞑想状態でのみ起こる心の機能が止滅(ニローダ)した状態を体験した数少ない聖師たちが、たった一つの真実を、違った角度から、言葉を換えて、伝えてくれています。

その中のお一人であるスワミ・シヴァナンダは、この宇宙の実相を、以下のような素晴らしい言葉で伝えてくれていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

Matter and Spirit(物質と霊)

 

この全宇宙は、神の身体である。

この全世界は、神、マクロコスモス(Virat Swarupa)である。

この世は、生命のない物質ではなく、生きている存在である。

この世は、霊の顕れである。

全時代の根本的な誤りは、霊的な世界と物質的な世界は分離しているという信念だ。

霊と物質は異なってもいないし、分離してもいない。

物質は、感覚を通して認識された霊である。

物質は、顕れにおける霊であり、運動中の霊であり、神の力であり、静止している神の動的な側面である。

世界は、絶対者であるブラフマンの表現である。

この世界は、ブラフマンの影であり、ブラフマンの至福の流出である。

世界は、神の放射であり、神の顕れであり、神の反射である。

世界は、神の光輝、栄光、威光に包まれている。

神は、多様な形で輝く一つの光であり、多様な言語で話す一つの声である。

神は、宇宙におけるすべての原子にしみ渡る一つの命である。

神は、あらゆる処に満ちており、すべての物の中に平等に充分に含まれている。

世界は、神の遊戯である。

縦糸であり横糸である神は、世界に溶け込んでいる。

金と装飾品の間に、違いがないように、神と宇宙の間に、違いはない。

神は、享受者であり、神自身が、享受の対象である。

世界と神に、違いはない。

神は、すべての中にあり、すべての外にある。

神でない処はない。

すべては神であり、神以外には存在しない。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

この神は、名前も形もありませんが、確かに、実在しています。

そして、この唯一の実在が、あらゆる形となって顕現して、宇宙となっています。

この宇宙で、神でないものはありません。

これが、唯一絶対なる真実です。

わたしも、あなたも、動物も、花も、昆虫も、水も、空気も、地球も、太陽も、大宇宙の何もかもは、唯一絶対の源から顕われ出で、今も分離しておらず、やがて、源に還元します。

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-realization)(6)

これまでの記事で、「人の本性は、アートマンであり、ブラフマンである」ということを書きましたが、たとえ、それが体験を伴わない知識のみの理解であっても、このことを否定感なく理解することは、それほど難しくはないでしょう。

「私は、~である」という自己を肯定する観念は、「私は、~ではない」という否定に基づく観念よりも、エゴにとっては、受け入れやすいと言え、それまで当たり前だと思って、その正誤を疑ったことのない観念に対する否定を受け入れることは、エゴにとっては、とても難しいことでしょう。

 

しかし、別の観点から見ると、これが、二元(ドヴァイタ=デュアルティ)から、一元(アドヴァイタ=ノン・デュアルティ)に、無理なくスムーズに移行できるか?どうか?の、分岐点と言うことができます。

 

エゴという視点から世界を眺めると、どうしても「私 対 世界」という主体と客体の分離が生じてしまいます。

「主体なるわたし」が消えた時に、宇宙の実相である一元宇宙への理解が起こります。

「私 = 世界」というのが、非二元、不二一元であり、この究極の真理に到達することを、ヨーガ(統一)と言うのです。

 

私たち人間が、自分自身の真の姿や宇宙の実相を知らずに、生と死を繰り返しているのは、神の惑わしの力(マーヤ)が働いているからですが、しかし、このマーヤは消滅することがあります。

マーヤが完全に消滅するまでには、人はいくつかの門を潜り抜けて行く必要がありますが、マーヤが消滅すると、完全なる智識がやって来て、個は、自分を縛り付けていた束縛から解放され、本来の自己を思い出し、マーヤの力を客観的に眺められるようになります。

 

そのためには、先ずは、マーヤの性質を知ることが必要不可欠です。

知ることで智慧がもたらされ、その智慧によって、次第に、マーヤの力で催眠術に陥っている真の自己が、完全に目覚める方向へと促されることでしょう。

 

個人にかけられているマーヤの力を消滅させることができるのは、自分自身やこの世の仕組みへの深い理解だけです。

 

そのヒントを、スワミ・シヴァナンダが語って下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

Maya and Mind(マーヤとマインド:幻妄の力と心)

 

実在においては、二元性は無い。

すべての部分的な違いは、錯覚であり、多様性は、幻想である。

マーヤは分離を投影し、個人の魂と至高の魂との間に分離を造り出す。

マーヤは、人を誤らせる神の巨大な力である。

マーヤは、この世の物質的な要素であり、物理的宇宙の源である。

名前と形のこの世は、マーヤという手品によって継続される誤った劇である。

片端で火が燃えている棒が、素早く振り回されると、火が回転しているような幻想を生み出すように、言葉の多様性をもってして、マーヤは私たちを惑わす。

マーヤは、心を大混乱させる。

私たちが周りで知覚するものは、形、或いは物質の姿をした単なるマインド(心)なのだ。

世界は、心の産物である。

全世界は、心の拡大である。

全宇宙は、心の中に発生し、存在する。

世界のどんなものも、心の外には無い。

地球、山々、川――すべては心の断片であり、あたかも外側に存在するかのように見えるだけである。

世界は、それ自身の力で存在しているのではなく、心の助けなしには、見られることはなく、心が機能しなくなれば、消滅する。

時間、空間、動きという形を事実だと考えるのは、想像力だけである。

空間と時間は、ブラフマンである真の自己から独立した状態を持ってはいない、これが気づきである。

時間のない空間はない、そして空間のない時間もない。

空間と時間は、相伴う。

空間と時間は、相互依存しており、非実在である。

時間と空間は、心理的な創造である。

時間と空間は、心の投影であり、夢のように非実在である。

それらがいくら実在のように見えても、究極的には、実在ではない。

時間の無い、空間の無いブラフマンが、唯一の実在なのだ。

ブラフマンだけが存在する。

水を多種類の泡や気泡に分化させる波のように、多様な対象物の世界として輝いているのは、ブラフマンである。

ブラフマンは、心と感覚を通して認識される時、世界として顕れるのである。

 (Bliss Divine by Swami Sivanannda)

 

 

スワミ・シヴァナンダも、ハッキリと仰っていますが、私たち人間が、五感を通して認識しているすべては、マインド(心)の中だけにあるのです。

(言い換えれば、マーヤの力は、マインド(心)にだけ影響を与えていると言えます)

つまりこの物質宇宙であるこの世は、感覚を伴った夢のようなものと言えるのです。

この世は、本当には、実在ではないのですが、マーヤという幻妄の力のせいで、私たち人間の共通の認識では、非実在が実在であり、真の実在は、五感で捉えることができないために、非実在となってしまっている、ということなのです。

(深い睡眠中は、マインド(心)が機能していないために、”わたし”も”世界”も消えていますので、この世界が存在するためには、人間のマインド(心)が必要不可欠だと言うことになります。

つまり、私たちが認識している世界は、マインド(心)が見ている夢と言うこともできるわけです。

また、マインド(心)が機能していない時であっても、ブラフマンである神は、実在していますので、マインド(心)が再び機能し始めると、マーヤの力によって世界は再び現れ、マインド(心)は、現実という夢を見続ける、ということになります。)

パソコンが、パソコンとして機能するためには、電源から電気というエネルギーが供給される必要があります。(この場合の電源は、電気を生産する発電所になります)

これと同じことが、私たち人間にも起きています。

私たち人間が、人間として機能するためには、命の源から(生命)エネルギーが供給される必要があります。

私たち人間は、この(生命)エネルギーなしには、一秒たりとも生きていることはできません。

そして、この(生命)エネルギーの供給源であるすべての存在の源が、ブラフマン、神であると言うことになります。

そして、この宇宙には、コレだけが実在として存在する、というのが、真実なのです。

 

このことを真に理解できれば、人間にとって、これ以上知るべきことは何もありません。

これが、ヨーガや瞑想の究極的なゴールである、と言っても過言ではありません。

また、これは、同時に、哲学的な思索テーマである”わたしは誰か?”の答えでもあります。

マーヤが消滅し、わたしが、世界が、宇宙が、幻想の彼方に消え失せた時、すべてが明らかになります。

ここに至って、人はやっと、長い長い魂の旅を終えることができるのです。

それまでは、少しずつでも良いので、心をサットヴァ(善性優位)にするためにも、究極を悟った人(聖人)の御言葉を真摯に辿り、ブッディ(理性)を正すことが、生命として究極のゴールに向かって進んでいる魂の旅路の短縮につながりますので、今は100%理解できなくても、種子として心の片隅に置いておくことが大切で、やがて、その種子は、時が来れば、芽を出すことになるでしょう。

己の内側にこの種子を宿し、その種子が芽を出すという一連のプロセスは、エゴ・マインドにはわかりませんが、マーヤの力によって顕れた自然界における、個人に起こるダルマ(法則)に則った全自動の宇宙の流れであり、魂の旅の最終ステージに向けての前準備と言えるでしょう。

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-realization)(5)

ヨーガでは、瞑想中の意識状態をいくつかの段階に分けていますが、ラージャ・ヨーガ、アシュタンガ・ヨーガでは、瞑想中の意識状態をヨーガ修行の中における第五段階目のプラティヤーハーラ(感覚の制御)、第六段階目のダーラナ(集中)、第七段階目のディアーナ(瞑想)、第八段階目のサマーディ(至福を得ることができる超意識の状態)と順を追って深くなって行くことを示唆しています。

そして、瞑想中における最高の意識状態であるサマーディ(三昧)にも、その意識状態の深さによって、違う名称がつけられ、それぞれの特徴が説明されています。

 

その中でも、ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)を、スワミ・シヴァナンダは、無智を照らす「光明」と表現されていますので、この「ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)」について、もう少し理解を深めて行きましょう。

 

 

The Bliss of Samadhi(サマーディの至福)

 

ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)は、最も高い価値のある実現である。

ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)の間、実在は全体の中で直覚智される。

それは、絶対者との一体の経験である。

あなたは、静まった個の意識の代わりに、ブラフマンの超意識を持つ。

満たされた経験は、サマーディと呼ばれる。

それは惨めさからの自由であり、絶対的な至福である。

サマーディは、人格の全廃ではなく、人格の完成である。

最高の光明状態の中で、あなたは主体と客体の一体を感じる。

あなたは、他に何も見ないし、聞かないし、知らない。

智識が、ただ照らしているだけであり、その光明の後に、あなたに求められるものは、何もない。

知ることは、在ることである。

知ることと在ることは、分離していない。

チット(Chit:在る)とサット(Sat:意識)は一つのものであり、同じものなのだ。

絶対的な智識と絶対的な存在が覆っている時は、絶対的な至福もある。

自己実現の至福は、言葉では言い表すことはできない。

何も触れることができない静寂、掻き乱されることのない最高の平和、光や純粋な至福――これらは自己実現の一瞥である。

感覚的な喜びは、瞑想やサマーディの至福と比べたら、無に等しい。

感覚的な人生から立ち上がり、目覚め、あなたが純粋で不死であるアートマンであることを実現しなさい。

すべての存在の中にアートマンを見、不死と永遠の至福に到達しなさい。

魂であるアートマンについてすべてを聞き、アートマンを理解し、アートマンを熟考し、アートマンを瞑想し、アートマンを実現しなさい。

Tat Tvam Asi。あなたはそれである。

あなたは、アートマンであり、アートマンはあなたである。

このことを悟り、自由になりなさい。

あなたに本性を悟らせないようにしているものは、何も無い。

自己実現とは、発明ではなく、単に真の自己の発見であり、人における真の自己を識ることであり、自覚である。

自己実現とは、何かを新たに達成することではない。

あなたは、アートマンや真の自己に到達したり、達成する必要はない。

あなたは、実際に、至高の自己であるアートマンなのだ。

ただ、あなたは、あなたの内なる目を開くだけでいいのだ。

ヴェーダンタの哲学は、個人に、人間の自由、栄光、尊厳を奮い起こさせる。

この自由の源、至福の根源を知り、自由になりなさい。

至福は、正に、本質的な性質である。

至福は、あなたの生得権である。

あなたは、永遠の至福の栄光ある相続者である。

今直ぐ、この瞬間にも、この至福を悟りなさい。

光り、平和、喜び、至福を、外側に求めるのではなく、内側に求めなさい。

解脱、或いは、救いは、天国にも、カイラス山(*註)にも、ない。

アートマンという真珠は、無尽蔵の至高の神聖なる宝であり、あなた自身の心の部屋の中の静寂という宝石箱にしまわれている。

あなた自身の主観であるハートの最中に、あなた自身の存在の深遠な部分の中に、真の実在を発見しなさい。

(*註:仏教(特にチベット仏教)、ボン教ヒンドゥー教ジャイナ教で聖地とされている)

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

また、スワミ・シヴァナンダの著作である『プラーナヤーマの科学』の中で、スワミ・シヴァナンダは、ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)について、「自我もなく、空間もない、無分別、自分をも客観視する第三者視座も消えて無い状態。クンダリニーがサハスラーラ・チャクラに達した時に得られるサマーディ」と説明されています。

 

ヨーガの世界では、私たちの心(意識)には、5つの状態があると言われています。

①ムダー・・・タマス(暗性)的な状態であり、苦しみを創造し、苦痛をもたらす傾向にあります。

この状態にあると、幸福を否定し、自分の苦痛を誰かのせいにします。

②クシプタ・・・ラジャス(活動優位)な状態で、心が乱れているが特徴で、私たちは欲望を満たすための行為によって喜びと苦悩を経験します。

その行為がネガティブな結果を生む可能性があると警告されても耳を貸さず、その行為の正当性を見つけ出して実行してしまいます。

恐怖心を抱き、貪欲で利己的になり、混乱し、快楽を求めて苦痛から逃れようとします。

③ヴィクシプタ・・・自分の内側に集中しようと苦闘している状態で、心の光を意識的に集めて集中する努力をして、ときには成功し、ときには失望します。

快楽を追い求めてはやめることを繰り返しながら、内側に向かいます。

外側に向かう思考の波をコントロールするのはかなりの努力を要しますが、成功すると多大な満足感が得られます。

④エカーグラタ・・・心がサットヴァ(善性優位)の状態であり、ひとつのものに集中した状態で、意識を集中するために苦労することはありません。

快楽の中にいるよりも、集中している状態の方が幸せであることに気づきます。

⑤ニローダ・・・これも心がサットヴァ(善性優位)の状態で、心理作用が停止し、究極の喜びを経験することができます。これが深く瞑想した状態です。

 

私たちに馴染みが深いのは、①ムダーか②クシプタである、と言われています。

(参考:スワミ・シヴァナンダの瞑想をきわめる)

 

ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)とは、心がニローダの状態であり、そして、この心がニローダであるニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)は、クンダリニーの目覚めと密接な関係があるということになります。

 

次回に続きます。

 

 

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