永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

自己制御(ヨーガ)は、解脱への道(方法)

前回の記事では、長々と、「人間の心」について見てみました。

 

私たちは、5つの感覚器官(五官)と5つの運動器官(身体)を使って、この世を経験しているわけですが、これらの諸器官から得られた情報は、電気信号に変換されて、高速で全身に張り巡らされている神経回路を伝達して脳に到達し、脳内の関連部位で適切な処理を経て、身体全体にいろいろな反応を起こします。

この一連の働きを、ウパニシャッドでは、マナス(意思)という心の低い働きとして考えました。

このマナス(意思)からの情報を受けて、更に高度な脳の働きであるブッディ(理智、理性)が、適切な判断を下し、どのように処理するかを決定します。

このブッディが上手く機能しないと、人は自然に沸き起こる感情に乗っ取られ、理性的な判断を下すことができずに、社会的な過ちを犯してしまうことにもなりかねません。

また、そうでなくとも、心は常に揺れ動き、不安と恐れに翻弄され、平安な気持ちや安らぎ、幸福感を感じられずに、人生を送ることにもなりかねません。

 

「心の制御」とは、非人間的になることではありません。

 

自由に反応する自分の心を制御できるようになると、自然に、心が休まり、平安で満ち足りた理由のない幸福感、歓びに満たされるようになります。

 

また更に、荒れ狂う水面ではなく、表面に波の無い静かな水面は、御者である自己(ブッディ)の後ろに静かに鎮座されていらっしゃいます真我(アートマン)がその姿を映し出す鏡となることができるのです。

 

諸感覚が、外界の事物に反応している間は、意識は外界に向けられ、内側の世界に向けられることはありません。

 

人間の意識は、両方を同時に意識することはできないようになっています。

 

自分の願望を叶えようと、意識が外界に向いている人は、意識を内側の世界における自己の探求に向けることができません。

 

この内側の世界の探求が、最終的に到る境地について、聖典バガヴァッド・ギーターが明確に述べていますので、ここでご紹介させて頂きます。

 

 

アルジュナ

「超越者(かみ)に意識を投入した人は

どのような特徴をもっていますか?

また どのような言葉を語り

どのようにして坐し また歩きますか?」

 

クリシュナ

「プリターの息子よ さまざまな感覚の

欲望をことごとく捨て去って

自己の本性に満足して泰然たる人を

純粋超越意識の(悟りを開いた)人とよぶ

 

三重苦(①自然からくるもの(天災、気候)②人間を含めた他の生物からくるもの③自分の肉体に関するもの)の逆境に処して心を乱さず

順境にあっても決して心おごらず

執着と恐れと怒りを捨てた人を

不動心の聖者とよぶ

 

善を見て愛慕せず

悪を見て嫌悪せず

好悪の感情を超えた人は

完全な智識(プラジニャーニャ)を得たのである

 

亀が手足を甲羅に収めるように

眼耳鼻舌身(五官)の対象から

自分の感覚を引き払うことのできる人は

完全智(プラジニャーニャ)に安定したと言える

 

肉体をまとった魂は 禁欲しても

経験してきた味わいを記憶している

だが より上質なものを味わうことによって

その記憶も消失するのだ

 

アルジュナよ 感覚の欲求

まことに強く 烈しいもので

修行を積んで道をわきまえた人の

心をさえも力づくで奪いさるのだ

 

肉体の感覚を制御して

意識をわたしに合致させて

しっかりと固定できた人を

不動智を得た聖者とよぶ

 

感覚の対象を見 また思うことで

人はそれに愛着するようになり

その愛着によって欲望が起こり

欲望から怒りが生じてくる

 

怒りに気が迷って妄想を生じ

妄想によって記憶が混乱し

いままでの教訓を忘れ 知性を失う

その結果 人はまた物質次元に堕ちる

 

解脱への正規の方法(みち)を修行し

感覚の制御に努力する人は

至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)をいただいて

あらゆる愛着と嫌悪から解放される

 

至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき

物質界の三重苦は消滅し

この幸福(さち)ゆたかな境地で

速やかに知性(ブッディ)は安定する

 

至上者(かみ)に知性(ブッディ)が帰入せぬ者は

心も統御されず 知性(ブッディ)も安定せず

平安の境地は望むべくもない

平安なき所に真の幸福はない

 

水の上を行く船が

強い風に吹き流されるように

諸感覚のただ一つにさえ心ゆるしたなら

人の知性(ブッディ)は忽ち奪われてしまうのだ

 

ゆえに剛者の士アルジュナ

諸々の感覚をそれぞれの対象から

断固として抑制できる人の

覚智(さとり)はまことに安定している』

(バガヴァッド・ギーター第2章54-68)

 

 

自分の心の働き(動き)を理解し、それを制御すること。

これが、私たちが、自分の本性である真我(アートマン)を覚って行く上で、非常に重要であることは、言うまでもありません。

 

「人間の心」を知るところから出発し、「人間の心」を制することを方法として実践することで、人は「悟り」に到ることができる、と聖典は説いています。

 

自分を制することができる者は、人間を制することができる者であり、

人間を制することができる者は、人間より上の存在である「神」に他なりません。

 

 

『各々別々に造り出される各感覚器官は真我とは異なることを知り、それぞれの生成と消滅とは真我とは異なることを知る賢者は、憂えることがない。

諸感覚器官の上に意思(マナス)がある。

この意思より上に理智(ブッディ)があり、この理智(ブッディ)を超えて大いなる真我(アートマン)があり、この大いなる真我(アートマン)の上に未顕現なるもの(根本自生/物質の根元)がある。

未顕現なるものの上に、万所に遍在し個別性を持たぬ神我(プルシャ)がある。

この神我を知る者は解脱して、不死の境地に至る。

神我の姿形はみることはできない。

誰も肉眼を持って神我をみることはできない。

ただ心臓(フリダヤ)と智慧(マニーシャ)と意思(マナス)とにより神我を悟る者が、不死となる。

意思(マナス)と共に五つの知覚器官がその働きを停止し、理智(ブッディ)が働かなくなった時、これが至上の道だと呼ばれている。

かくの如く諸感覚器官の働きをしっかりと制御することが、ヨーガであると言われている。

この時、行者は注意深くあらねばならない。

それというのもヨーガは(この世を)生じさせ、或いは消滅させるものだからである。

神我には言葉によっても、意思によっても、視覚によっても到達できない。

ただ「神我は存在する」と語る導師(グル)の教導の他に、如何にして悟り得るであろうか?』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

ここでも、やはり、導師(グル)の存在は、「悟り」に達するためには、必要不可欠であると書かれています。

 

ナーナさんが、この導師(グル)であることは、これまで何度も述べてきました。

 

ヨーガの厳しい実践(修行)を長年重ねることでようやく到達できる境地へと、

ナーナさんによりもたらされる神の恩寵を受け取ることで、心がけ次第では、一般人でも到達することは可能です。

 

真理体得にご興味のある方、神の恩寵に与りたい方は、こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

毎月、各地でサットサンガ(真我の集い)を開催しています。

 

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

感覚はその対象より優れ

心は 感覚より優れ

知性(ブッディ)は 心より優れている だが

かれは知性(ブッディ)より上位である

(バガヴァッド・ギーター第3章42)