読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

アートマン(真我)への道

昨日の記事でご紹介したラーマクリシュナの言葉の中で、

”のんびりやってちゃダメだ。”とありましたが、

どうして、ラーマクリシュナがそのようなことを仰ったのか?という疑問が湧くかもしれません。

何故、見神において、のんびりやっていたらダメなのでしょうか?

その疑問に対する答えのようなものが、3月末に発売になるSwami Ramaの”聖なる旅”に書かれていると感じますので、ここに併せてご紹介させて頂きます。

 

ヴェーダンタによると、人間は 5 つのコーシャという鞘 さや から成っています 。粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマン(真我)を覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。
感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。
死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触する
ようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。
これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を
癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマンに接触するにはどうしたら可能でしょうか?
 
もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。

智 慧 と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟ることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。
無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰って
きます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。

生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、 最後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、

魂は何度も何度も生まれます。

 

ナチケータは、意識的に体を手放す技法について説明されました。

ヤマは、彼にすべてのナディ、あるいは体のエネルギー通路のうち、最も重要である のがスシュムナであると説明しました。

スシュムナは脊柱の中央を通り上へと流れます。

スシュムナを通して、クンダリニーという霊的なエネルギー、あるいは神聖なる力が 流れます。

スシュムナは自由のキーポイントです。

死の際に、スシュムナに入ることができる人は、人生の最高のゴールであるブラフマ ンに到達します。

他のすべての道は生まれ変わりの道です。」

(Swami Rama ”聖なる旅”)

 

 

アートマンは、ブラフマンと同義語です。

アートマンを悟った人は、ブラフマンを悟ったことになります。

つまり、神を識ったことになります。

神とは、ラーマクリシュナの言葉によると、

 

 

「ヨーギも至上我(パラマートマン)に対面しようとして一生懸命励んでいる。

ヨーギの目的は、この肉体に宿る魂(個我=ジーバアートマン)を至上我と合一することだ。

ヨーギは世の中のことから心を引込めて、至高霊に心をピッタリと合わせて動かないように努力する。

だから、はじめのうちは人里離れた静かな処で、堅固な心で坐(アーサナ)を組んで精神を集中して瞑想する。

けれども、本体はただ一つだよ。

名前が違うだけだ。ブラフマンアートマンで、それが至聖(かみ)だ。

ブラフマン智行者のブラフマンがヨーギの至上我(パラマートマン)で、

信仰者の至聖(かみ)だ」

 

「”私”と”私のもの”が無智だ。

よくよく考えをおしつめていくと、その、私、私、といっているものはあの御方、つまり、アートマン(真我)のほか何者でもないと覚るだろう。

考えてもごらん、あんたはその肉体か、それとも骨か、筋肉か、それともまた他の何だね?

わかるだろう、あんたはそのドレでもないんだよ。どんな性質もないんだ。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんのプラナーナのシャクティ・パータは、

このアートマン(真我)がどのような存在であるか?を私たちが体験を通して識ることができるように、私たちが自分の本性を悟れるようにと、

プラーナ(神)の力と愛の心で、一人一人を導いて下さいます。

 

アートマンが悟られると、無智は消え、自分が何者であるか?の智慧がやって来ます。

 

それは、個我は、真我と合一することで消滅し、

至上我だけが実在で、それだけが在る、という真理(永遠のダルマ)に達することです。

 

ブラフマンに達した人は、マーヤーを抜け出て、生まれ変わりのサイクルから抜け出ます。

 

こうして、死は超越され、永遠の存在である源へと還って行くのです。

 

 

 

知性ゆたかな人々はわたしに安らぎを求め

老や死から解脱しようと努力する

彼らはやがて第一原理(ブラフマン)を知り 真我(アートマン)を知り

カルマ等すべてを知るようになる

   (バガヴァッド・ギーター第7章29)