永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

ナーナ先生によるオンライン瞑想会/オンラインサットサンガ開催のご案内

<ナーナ先生によるオンライン瞑想会(初回無料)/オンラインサットサンガ開催のご案内>

 

今や世界的な脅威となっております新型コロナ・ウィルス感染拡大を受け、世界でも日本でも、緊急対策として、休業要請や外出自粛要請が出されておりますが、多くの方が、このような状況下で、心に大きな不安やストレスを抱えて、自粛生活を余儀なくされていることと思われます。

 

ナーナ先生は、これまで、奈良にあります「関谷ニルヴァーナセンター」にて、マインドフルネス瞑想会やサット・サンガを開催されておりましたが、今般のような状況を踏まえて、感染リスクが高い対面による開催を、より安全で安心できるオンライン(註①)による開催に切り替えられることになりました。

 

これまで会場で開催されてきましたマインドフルネス瞑想会/サットサンガにご参加いただきました方々のリアル体験さながらの体験を、これからは、日本全国、何処からでも参加して体験していただけるようになりましたので、ご案内させていただきます。

 

オンラインであっても、時空を超えて、ナーナ先生のプラナーナのエネルギー・フィールドに触れることで、私たちは、私たちの本来の姿である、静かで穏やかで至福に満ちた本質のエネルギーに還ることができます。

世の中全体がこのような大混乱の中にある時だからこそ、自分の中にある混乱を鎮め、心穏やかに過ごすために、是非、この機会をご利用ください。

  

通常のオンライン瞑想会の開催予定日や参加費などの詳細は、ナーナ先生のHP(http://pranahna.com/ 真我が目覚めるとき)のNew Information欄に記載されておりますので、それをお読みいただいた上で、参加を希望される方は、同HPの「お申込み&お問合わせ」内の「お申込みフォーム」の「マインドフルネス瞑想会」へお進みいただき、必要事項をご記入の上、コメント・連絡欄に『オンライン参加希望します。』と記入して、お申込みください。

ご参加のお申込みをされた方には、ナーナ先生より、受付完了メールが送られてきますので、そのメールに記載されている方法で、ご参加が可能となります。

(ご参加には、スマホAndroidiPhone)でも可能ですが、大きな画面で視聴できるパソコン、タブレットのご使用をお勧めします)

 

みなさまのご健康と心の安らぎ、そして何よりも、今ある混乱を乗り越えるために、より多くの智慧と幸多き恵みがもたらされますことを、心より願っております。

 

 

註① Zoomを使ったオンライン開催になります。

(Zoomは、パソコン、携帯(AndroidiPhone)、タブレット、いずれかで参加できます。

Zoomについては、オンライン瞑想会の参加申し込みをされた後、ナーナ先生より送られてくるメールに詳細が書かれていますので、その通りにして下さい。)

  

 

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プラナーナのオンライン始めます☆

「マインドフルネス瞑想会」「サットサンガ」「個人セッション」
初回4月30日のお試し「マインドフルネス瞑想会」は、どなたでも参加費無料でオンライン参加いただけます。
[昼]14:00~14:30 [夜]20:00~20:30 お一人様どちらか一回の参加になります。
お申し込みは、プラナーナホームページ http://pranahna.com/ マインドフルネス瞑想会の[お申し込みフォーム]に進み[コメント・連絡欄]に、お試しマインドフルネス瞑想会 昼又は夜希望と記入してください。
締め切りは4月30日午前10時まで
[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。
先ずはお早めにお申し込みください!(人数制限あり)
 
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「マインドフルネス瞑想会」オンライン
[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内
※瞑想センターで開催される日には使用できません。
「サットサンガ」オンライン
[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
マインドフルネス瞑想会に数回参加された人。
また瞑想に慣れている人や慣れてきた人。
静かにプラナーナに浸る時間(瞑想)は1時間おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内
※瞑想センターで開催される際には使用できません。
「個人セッション」オンライン
 マインドフルネス瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円(シャクティパータはありません)
『5月の開催予定』http://pranahna.com/
[マインドフルネス瞑想会]オンラインの日程(青土曜日赤日曜祝日
1日 3日 5日 7日 9日 14日 17日 20日 23日 27日 30日
[昼のクラス]14:00~15:30 
[夜のクラス]20:00~21:30
クラスは月8日くらいの開催を予定しています。
※お申し込みと入金の締め切りは開催日の2日前まで。

オンラインの開催日に今まで通り[在宅参加]も受け付けます。
参加費1回3000円
[在宅参加][オンライン参加]共通
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内
※瞑想センターで開催される日には使用できません。

今月は[マインドフルネス瞑想会]オンラインで開催します。
瞑想センターでの開催は今後の状況をみてお知らせいたします。
個人セッション、各セッションを希望される方はお問い合わせください。
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[在宅参加]について
「自宅に居ながらマインドフルネス瞑想会に在宅参加できます!」
自宅に居ながら会場と同じプラナーナのフィールドに入って参加できます。
体の悪い人や遠方で継続参加が困難な人に向いています。
参加費3000円 申し込み/振込みの期限は2日前、初めての人は3日前までに(立位、気をつけ姿勢の写真添付)の上お申し込みください。
 お申し込みは マインドフルネス瞑想会フォームに記入し、コメント欄に参加理由と「在宅参加希望」とご記入ください。
◎二回目からはサットサンガにも在宅参加できます。 
 詳しくは関屋ニルヴァーナ瞑想センター https://nirvana777.org/マインドフルネス瞑想会//マインドフルネス瞑想会に在宅による参加の枠ができました/在宅参加の流れ/マインドフルネス瞑想に関するQ&A
在宅参加者の感想 https://ameblo.jp/premagrace/entry-12436856332.html 
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「マインドフルネス瞑想会・サットサンガ参加者の感想」
  こちら→ https://ameblo.jp/premagrace/
「チャクラクリアセッション・サードアイクリアセッションを受けた人の感想」
  こちら→ https://ameblo.jp/premagrace/entry-12114452672.html
エナジークリア療法を受けた人の感想」
  こちら→ https://ameblo.jp/premagrace/entry-12409167316.html
☆☆算命学鑑定受付中☆☆
☆ナーナお勧め『聖なる旅』スワミ・ラーマ著購入できます。
※お申し込みは開催日の2日前迄、在宅参加初めての人は(立位、気をつけ姿勢の写真添付)の上3日前迄です。
  後日詳細を返信いたします。
  数日経っても返信が届かない場合は、お手数ですがメルアドを変えて再度お申し込みください。

 

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☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

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わたしは誰か?-真我探究の道(16)

今回の記事では、前回の記事の内容を更に詳しく見て行きたいと思います。

 

睡眠中、熟睡の状態にある時、感情や思考は起こらず(心は消え)、肉体感覚も消え、「わたしは存在している」という存在感も消滅していることから、「わたし」(自我とされているモノ)は完全に消滅している、と言えます。

そして、同時に、世界(世の中)も消滅していますが、目が覚めると同時に、「わたし」は目覚め、世界も現れます。

(それは、観察者としての「わたし」が目覚めるからで、こうして、観察者である「わたし」と観察される「世界」である二元世界が現われます(生じます))

これが、毎日、私たちに無意識に(自動的に)起きていることですが、寝ている間、「わたし」は消えているにも拘わらず、肉体は存在しています。

呼吸が行われて、肺が動き、心臓も鼓動し、血液は体中を巡り、夢を見ている間は眼球も動き、その他の内臓器官もペースは違えど、絶えず動いています。

しかし、これらを動かしているのは、「わたし」でないことは明らかです。

もし、「わたし」が肉体を維持している主人ならば、その「わたし」が消えれば、肉体も消滅するはずですが、そういうことは起こりませんし、その他の内臓器官も「わたし」の意志で動いている訳ではないことは、人間なら誰でも知っています。

と言うことは、寝ている間、「わたし」が消滅している間に、消滅している「わたし」とは別に、肉体を維持している存在(何か)が存在している、ということになります。

これは、譬えで考えると理解しやすいと思いますので、譬えを使って説明したいと思います。

 

電気は、電力というエネルギーとして、パソコン、洗濯機、冷蔵庫、照明、電車、エアコン。。と様々なものに使われ働いています。

同じことが私たちにも起きていて、シャクティ(宇宙の力)と呼ばれている力が、私たちが人間として機能するためのエネルギー(プラーナ)として働いています。

自我はこの力を自分の力だと勘違いしていますが、それはまるで、パソコンがパソコンが働くのは自分の力であり、パソコンの働きを自分の働きだと思っている、という構図と同じです。
パソコン自体は何もしていないにも拘わらず、パソコンが自分の力で働いているかのように思ってしまうということが、自我にも起きており、これは完全に脳に起きている「錯覚」と言えます。

感覚知覚器官を通して得られた情報が脳に到達し、それらの情報が脳で再構築される過程で、「存在している」「生きている」という感覚(実在感)が脳に生じるため、脳の中で、その”感覚を感じている主体”であり、”生きて存在している主体”としての「わたし」が作り出され、まるで、その「わたし」が実在しているかのような「錯覚」(勘違い)が脳に生じてしまうのです。

こうして、肉体に生じている感覚(実際には、脳で生じている感覚ですが)が「自分が存在している」という「勘違い」を生み出し、「自我」という「幻想のわたし」を形成する基盤となっているため、「存在しているのはわたしだ」という想い(勘違い)が消滅することは、通常は起こりません。

この脳に生じる「錯覚」から起こる「勘違い」が、自我である「幻想のわたし」の正体と言うことになりますが、「わたしが存在している」というこの「勘違い」を、シュリ・ラマナ・マハルシは「肉体との誤った同一視」と表現しています。


パソコンを動かしているのは、電気で、電気が無ければ、パソコンはパソコンであることができないのと同様、シャクティが無ければ、私たちは私たちであることはできません。
パソコンの電源が抜かれて電気が来なくなると、パソコンが機能しなくなるように、源のエネルギーであるシャクティ(の流れ)が停止すると、肉体にあるすべての機能が停止し、「錯覚」である自我は消滅します。
これが、所謂、"個人の死"と呼ばれているものです。


全宇宙が絶えず動いていることは、誰もが知っている事実ですが、この宇宙全体を動かしている絶大なエネルギー、それが私たちをも動かしていることは言うまでもなく、その力(シャクティ)は、常に形を変え、一瞬も留まることなく、動きや働きを生んでいます。

この宇宙には、この永遠に在り続ける力以外は存在せず、私たち人間を含めたこの宇宙のすべての存在に実際に働いているのは、この一つなる力(シャクティ)であり、すべての存在に内在し、この宇宙を形作っているのは、一つなるエネルギー(プラーナ)だけなのです。

そして、コレこそが、ナーナ先生が、シャクティ・プラーナを通して明らかにして下さった私たちの真の本性なのです。

「神」でも「アートマン」でも、呼称が何であれ、コレはひとつしか存在しません。

わたしもあなたもコレですし、この宇宙にコレでないモノは存在せず、コレだけが、この宇宙における真の実在です。

 

この真の実在である「真我=アートマン」と「幻想であるわたし」は、1mmも離れていないにも拘わらず、「幻想であるわたし」がこの肉体の維持者だという想いが生じている限りは、この「幻想のわたし」は消えることは無いでしょう、また、真の実在である「真我=アートマン」が顕わになることも無いでしょう。

しかし、ナーナ先生のシャクティ・プラーナの御力は、その「幻想のわたし」を無理なく消滅させ、真の自己である「真我=アートマン」が顕わになる方向へと私たちを誘ってくれます。

それは、紛れもなく、「恩寵」であり、この宇宙の最奥の神秘が明らかになる至福のプロセスなのです。

 

これまで、言葉で説明する限界を感じながらも、約3年間、私たちの真の本性である真我(アートマン=神)について、聖者と呼ばれている方々の御言葉をご紹介しながら、いろいろな角度から綴ってきましたが、実際には、真我は言葉で語ることも、ましてや言葉や知識を通して識ることは不可能です。

自己の真の本性が明らかになるには、ダイレクトな直接体験以外にはあり得ないとの想いから、このブログは今回をもちまして、しばらくお休みさせて頂くことにしました。 

今まで、このブログを訪れて下さり、ありがとうございました。

(ナーナ先生のサットサンガやマインドフルネス瞑想会(在宅参加を含む)は、継続して開催しておりますので、真の自己の探究に興味がある方は、記事の最後にナーナ先生のHPのURLを記載しておりますので、HPの申し込みフォームより、ナーナ先生に直接お申込み下さい)

 

それでは、最終回となりますが、シュリ・ラマナ・マハルシの遺された御言葉より、私たちの真の本性である「真我=アートマン」について更に理解を深めるために、前回の続きをご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「なぜ、宗教は神や天国や地獄などについて語るのでしょうか?」

 

マハルシ

「ただ人びとに、それらがこの世界と同程度のものであり、そしてただ真我だけが実在だということを気づかせるためである。

宗教は真理の探究者の見地にしたがって現れる。」

 

質問者

「ヴィシュヌ、シヴァなどの神々は存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「存在するものとして知られているのは人間だけではない。」

 

質問者

「では、神々の聖地カイラーサやヴァイクンタは実在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたがこの身体のなかにいるのと同じようにそれらは実在である。」

 

質問者

「彼らは私の身体のように、現象的存在を所有しているのでしょうか?

あるいは、彼らは野ウサギの角のように作り話にすぎないのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼らは確かに存在している。」

 

質問者

「もしそうであれば、彼らはどこかにいるはずです。

どこにいるのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼らをみたことのある人びとは、彼らがどこかに存在していると言っている。

それゆえ、われわれはその言葉を信じなければならない。」

 

質問者

「どこに存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたのなかに。」

 

質問者

「では、それは私が創造し、支配できるただの観念なのでしょうか?」

 

マハルシ

「すべてがそのようなものなのだ。」

 

質問者

「しかし、野ウサギの角のようなまったくの虚構や、部分的には真実である蜃気楼のようなものなら想像で作りだすこともできます。

それにもかかわらず、私の想像力と関わりのない事実もまた存在するのです。

イーシュワラ神やシヴァ神はそのように存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。」

 

質問者

「神はプララヤ(宇宙的崩壊)を被るのでしょうか?」

 

マハルシ

「どうしてかね?

真我に気づいている人は宇宙の崩壊をも超越して解脱を得る。

ならば、なぜはるかに賢く能力をもったイーシュワラにそうできないことがあろう?」

 

質問者

「デーヴァ(天使)たちやピサーチャ(悪魔)たちも同じように存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「そのとおりだ。」

 

質問者

「神々は真我との関係のなかでどのような位置を占めているのでしょうか?」

 

マハルシ

「シヴァやガナパティやブラフマンのような他の神々は、人間の視点から見れば存在している。

つまり、あなたが個人的な自己を実在だと考えるなら、神々も存在する。

ちょうど政府の行政運営のために高官がいるように、創造者がいるのである。

だが、真我の見地からすれば、これらの神々はすべて幻想であり、神々自身が実在のなかに溶け去らなければならないのである。」

 

質問者

「いつであれ私が名前と形をもった神を礼拝すると、自分が無限の神を限定し、無形の神に形を与えていると考えてしまいます。

それと同時に、形のない神を礼拝することに一途に専心できないとも感じているのです。」

 

マハルシ

「あなた自身、名前を呼ばれてそれに応じるのである。

ならば、名前と形をもつ神を礼拝することに反対する理由がどこにあるだろうか?

あなたが誰なのかを知るまでは、形をもとうともつまいと、神を礼拝するがいい。」

 

質問者

「人格神を信じることが私にとって困難なことだとわかりました。

実を言えば、まったく不可能です。

しかし世界を支配し、導く、聖なる力である非人格神を信じることならできます。

そして、もしこの信頼が増せば、私の治療の仕事にもたいへんな助けとなるでしょう。

どうすればこの信頼を増すことができるか教えていただけますか?」

 

マハルシ

「信頼とは未知なるものを信じることである。

だが、真我はおのずと明らかである。

もっとも尊大な利己主義者でさえ、彼自身の存在は否定できない。

つまり真我を否定することはできないということである。

あなたは究極の真理をどんな名前で呼ぶこともできる。

そしてあなたは、その真理を信じている、あるいは愛していると言うこともできる。

だが、自分の存在を信じない人、あるいは自分自身を愛さない人がはたしているだろうか?

なぜなら、信じることや愛することがわれわれの真の本性だからである。」

 

質問者

「私は神についてのどんな観念も抱くべきではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「ハートのなかに他の想念が存在する間は、神についての想念も存在できる。

すべての想念の破壊によって神の想念も破壊された状態が、無念無想の想念であり、それこそが神の真の想念である。」

 

質問者

「すべては神のなせるわざではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。

太陽がただそこに存在するだけで、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。

磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能(創造、維持、破壊)や五つの神聖な活動(「ヴェーダの学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養」に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そして休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。

神は何の決意も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。

それは、世間の行為が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。」

 

質問者

「解脱とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

この肉体でも、感情でも、思考でもなく、すべてを超越して永遠に在り続ける実在そのものである真我(アートマン)、在って在るモノ(YHWH)こそが、わたしたちの真の本性である「真の自己」です。

そして、この「真の自己」が明らかになることが、真我実現であり、「わたしは誰か?」という問いへの答えなのです。

 

 

 

我執 私心なく しかも

確信をもって 熱心に仕事をして

成功にも失敗にも心を動揺させない

そのような行為者はサットワである

 

仕事とその結果に執着して

成功に憧れ 貪欲不純で嫉妬心強く

成功に狂喜し 失敗に絶望する者は

ラジャスの行為者である

 

節度なく 俗悪野卑で

頑迷で よく人を欺(だま)し

態度が横柄 尊大で 怠惰な者

このような行為者はタマスである

  (バガヴァッド・ギーター第18章26-28)

 

 

 

 

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☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著(翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,728(税込み)

  Amazonで購入できます。

 

☆新企画2019年1月より「自宅に居ながらマインドフルネス瞑想会に参加」できるようになりました!

 

日本国内ばかりでなく、地球上のどこに居ても、関谷 ニルヴァーナ瞑想センターで開催されますマインドフルネス瞑想会の恩寵のエネルギーフィールドに入ることができ、深い瞑想を体験することができます。

真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(15)

前回の記事で、「神は、人間が予想だにしない形で実在する」と書きましたが、そのことが明らかになったのは、ナーナ先生の恩寵の御力、シャクティ・プラーナのお陰によるものであることも、以前の記事で書きました。

通常、私たち人間の意識には、目覚めている時(顕在意識)、寝ている時で夢見ている時(潜在意識)、熟睡している時(無意識)の3つの状態があります。

眠りから目覚めると同時に、意識にスイッチが入り、世の中を認識することが可能となります。

寝ている時は、この意識のスイッチがOFFになっている状態です。

この意識のスイッチがONになっている時だけ、意識は光のように世界を照らし、意識の光が当たった所だけを、私たち人間は認識します。

意識の光が当たらないところは、存在していても、無いと同じです。

その存在に気が付かなかっただけと言うこともできますが、私たちが認識している世界は、個人個人それぞれに違っていて、同じ地球上に居ても、意識の光の当たる場所が異なるので、全く同じ世界を見ているとは限りません。

そして、認識は脳の中でさまざまな反応を生じさせ、この反応全体が「心」と呼ばれているものです。

この世を経験しているのは、各自の「心」であり、「心」に映し出されたモノだけが、存在することになります。

「心」に映し出されないモノは、認識されていないので、存在しないのと同じなのです。

私たちは、この「心」によって、自分が存在(実在)していると感じています。

しかし、この存在感、実在感もまた、「心」によって体験されているある種の感覚であり、この「心」は、寝ている間は消滅しているので、それ自身の力によって存在しているわけではないことは明らかです。

この世を体験している「心」は、意識がONの時は働き、OFFの時は働かないことから、意識の力によって働いている、と考えることができます。

 

そして、この「心」の働き全体が、「わたし」と呼ばれているモノの正体なのです。

「わたし」は、「心」から離れて存在することはできません。

何故なら、「心」が消滅している時(どんな感覚も意識も無い時)、「わたし」も消滅しているからです。

そして、この「心」を生じさせている意識とは、ある種の力(エネルギー)なのですが、それは「わたし」のものではありません。

それは、「わたし」=「心」なので、「心」は「意識」によって生じていますが、「心」は「意識」を生じさせることは不可能だからです。

 

それでは、この「意識」はどこから生じているのでしょうか?

何が、「意識」を生じさせているのでしょうか?

 

この「意識」の源こそが、真の実在であり、この世をまるで実在するかのように在らしめている力が、真の実在(=力)なのです。

 

ナーナ先生が明らかにして下さったのは、この真の実在(=力)でした。

真の実在(=力)が存在するならば、真の実在である「神」も存在することになります。

 

この真の実在(=力)によって、この世の存在となっている「わたし」。

この「わたし」の中を探れば、この真の実在に触れることは可能です。

 

ナーナ先生は、その御力で、この「わたし」の中に潜む真の実在(=力=エネルギー)を顕わにして下さったのでした。

 

「神」と言っても、名前と形がある人間的な要素に溢れている神(イーシュワラ神)ではなく、人間的な要素が全くない純粋な「在る」というエネルギーが、この宇宙の唯一の実在である無念無想の神であり、それがこの「わたし」を形作り、今もこの身体と心を在らしめているのです。

 

それ故、「わたしは誰か?」という問いへの答えは、「神とはどんな存在か?」という問いへの答えなのです。

 

このことは、知識を通して明らかになることがないため、一般的にはほとんど知られてはいませんが、真の神を求める人のために、「神の本質」について、シュリー・ラマナ・マハルシが語られた御言葉の中に、多くのヒントが示されていますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

『質問者

「神は多くの異なった名前で知られています。

そのなかのいくつかが正しいものと言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ハートの内に宿る無心の神にとって、何千という神の名前のなかでも「私」あるいは「私は在る」のように真実で、適切で、美しい名前はない。

自我が破壊されたそのとき、真我に注意を向ける人のハートのなかでは、至高なる沈黙の言葉「マウナーパラーヴァータ」が響きわたる。

それが神の名前「私―私」である。

「私」という感覚に注意を払い、「私―私」に絶えず瞑想するなら、人は想念の起こる源に飛びこみ、自我を破壊し去るだろう。」

 

質問者

「神と世界の関係性とは何でしょうか?

神は世界の創造者あるいは維持者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「感覚のある存在も、感覚のない存在も、すべてのものは太陽が単にそこに在るおかげで活動をしている。

同じように、すべての生けるものたちの活動は、意志も欲望ももたない神の存在によって為されている。

ただ太陽が存在するだけで、蓮のつぼみは開き、睡蓮の花は閉じ、すべての無数の生けるものたちは活動し、休息する。

針が磁石の前で動くように、ムーンストーンが水を放つように、月光が睡蓮の花を咲かせ、蓮の花を閉じさせるように、おびただしい数の世界の秩序は、ただ神の存在によって維持されている。

わずかな意志さえももたない神が存在するというだけで、無数の活動に従事する生きとし生けるものたちは、カルマによって定められた進路に沿って引き寄せられたさまざまな生き方を経て、ついにはその行動のむなしさに目覚め、真我に向きを変え、そして解脱を達成するのである。

世界の活動が太陽に影響を与えることのないように、そして四大元素(土、水、火、空気)の顕著な特質が無限の空間に影響を与えることのないように、生きとし生けるものの行為が、心を超越した神に影響を与えることはない。」

 

質問者

「すべては神の意志で起こるのでしょうか?」

 

マハルシ

「全能である神の命令にさからって何かを為すことは誰にもできない。

それゆえ、すべての苦悩の源である、邪悪で不完全な、人を惑わす心を棄て去り、神の御足元に沈黙の内にとどまることが最善である。」

 

質問者

「徳行に報い罪業を罰す、イーシュワラ神(人格神)というひとつの独立した存在があるのでしょうか?

神は存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。」

 

質問者

「彼はどのような存在なのですか?」

 

マハルシ

「イーシュワラは心と身体のなかに、いずれは滅びゆく個体性をもっている。

だが、それと同時に、彼は超越意識と解脱を内に秘めている。

宇宙の至高の創造者であるイーシュワラ、人格神は本当に存在している。

だがこれは、まだ真理を実現せず、個我の実在性を信じている人びとの相対的な見地から見たときに限った真実である。

賢者の絶対的な見地からすれば、無形の一者である、個我を超えた真我以外には、他のどんな存在もありえない。

イーシュワラは物理的身体、名前と形をもっている。

だが、それはこの物理的身体ほど粗大なものではない。

それは幻想のなかで帰依者によって思い描かれた姿で見られる。

神の名前と形は数多くさまざまであり、それぞれの宗教によって異なっている。

彼の本質は、われわれの本質と同じ無形の一者の真我である。

それゆえ、彼がとる姿はただの想像あるいは現れにすぎない。

イーシュワラは宇宙の至るところに存在するすべての人、すべてのもののなかに内在している。

すべてのものとすべての生けるものの総体が神を成しているのである。」

 

質問者

「それでは、究極的にはイーシュワラは実在ではないのですね?」

 

マハルシ

「イーシュワラの存在は、われわれがもつイーシュワラの概念の結果である。

まず、イーシュワラが誰の概念なのかを知ろうではないか。

概念はそれを考えだした人によって生じる。

あなたが誰なのかを見いだしなさい。

そうすれば他の問題はひとりでに解決するだろう。

イーシュワラ、神、創造者、人格神は消え去るべき最後の非実在の姿である。

唯一、絶対的存在のみが実在である。

それゆえ、世界だけではなく、自我だけではなく、人格神もまた非実在なのである。

われわれはまさしく絶対なるものを見いださなければならない。」

 

質問者

「あなたは最高位の神さえも、ひとつの概念にすぎないと言われます。

それはつまり、神は存在しないということでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや。イーシュワラは存在している。」

 

質問者

「彼はある特定の場所に、特定の姿で存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「もし個人が姿をもっているなら、主である真我、源でさえひとつの姿をもって現れるだろう。

神は、長期の瞑想のなかで帰依者によって繰り返し思い描かれたいかなる姿もとる。

このように、神は無数の名前を受け入れるが、真の無形の意識だけが本当の神である。

神の住みかについてだが、彼はハート以外のどこにも住むことはできない。

自我によって生まれた「私は身体だ」という観念のために、神の王国はどこか他にあると思われている。

ハートこそが神の王国だと知りなさい。

あなたは、神の王国の存在を可能にするだけでなく、それを何か素晴らしい天国のように見せる完全な光輝であるということを知りなさい。

ただこれを知ることだけがジニャーニである。

それゆえ、神の王国はあなたの内側にある。

心が完全に没入した状態にある高度に成熟した探究者のハートのなかで、突如として、あふれんばかりに輝きだすトゥリーヤーティータ(四つの状態を超えた、つまり真我)の無限の空間、今まで知らなかったような新鮮な体験、それはごくまれにしか到達されることのない、真我の光に輝くシヴァ・ローカ(神の王国)である。」

 

質問者

ジーヴァ(個人)は限定された視野と知識といった邪悪な幻想の影響の支配下にあると言われています。

その反対に、イーシュワラはすべてを包括する視野と知識をもっています。

また、個人が限定された視野と知識を放棄すれば、ジーヴァとイーシュワラは同一化するとも言われます。

もしそうだとすれば、イーシュワラもまたすべてを包括する視野と知識を放棄すべきではないでしょうか?

それらもまた幻想なのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「それがあなたの疑いなのかね?

まず自分の限定された視野を放棄しなさい。

そのあとで、すべてを包括するイーシュワラの視野と知識についてじゅうぶん考える時間があるだろう。

まず自分の限定された知識を取り除きなさい。

なぜイーシュワラについて心配するのかね?

彼が彼自身の面倒を見るだろう。

われわれがもっている能力と同じだけイーシュワラももっているのではないかね?

なぜわれわれが、イーシュワラがすべてを包括する視野と知識をもっているかどうかを気に病むのだろうか?

もしわれわれが自分自身の面倒を見ることができるなら、それ以上のことはない。」

 

質問者

「しかし、神はすべてを知っているのでしょうか?」

 

マハルシ

「『ヴェーダ』は神が全知全能だと述べている。

だがそれは、無知ゆえに自分が知識をもたないと考えている人たちだけに向けられた言葉なのだ。

だが、もし人が真実ありのままの神を知ったなら、神が何も知らないことを悟るだろう。

なぜなら、彼の本性は永遠なる実在の全体であり、その他に知られるべきものは何ひとつ存在しないからである。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

愛着なく 憎悪もなく

その仕事に執着せず

その報果(むくい)も求めない行為ーー

これはサットワの行為である

 

自分の欲望を満たすもの

また 利己心 我執にもとづき

大いに努力し 苦労してする行為は

ラジャスの行為である

 

聖典の教えを無視し

自分の将来のことや他者の迷惑も考えず

気ままに または暴力的にする行為ーー

こんな行為はタマスである

  (バガヴァッド・ギーター第18章23-25)

 

 

 

 

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真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

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わたしは誰か?-真我探究の道(14)

これまでの記事にも書きましたが、クンダリニーシャクティが、初めて目覚めた後は、目には見えない存在である「神」を、実在感を持った存在として感じるようになり、神の存在そのものは、わたしの中では、揺るぎない事実となりましたが、しかし、それでも尚、「神」と「わたし」は依然として分離した状態にありました。

クンダリニーシャクティが目覚めるという体験を通して、「神」をそれまでよりもずっと近しい存在として感じるようになったとは言え、それではまだ充分ではなく、「わたしは誰か?」という究極的な問いへの答えを掴むまでには至りませんでした。

「神」が存在することは明白でしたが、「神」が具体的にどのような形で存在するのか?、また、人間とどのような関りがあるのか?までは、依然としてわからないままでした。

しかし、ナーナ先生に出会い、ナーナ先生のシャクティ・プラーナの御力のお陰で、ナーナ先生のシャクティに触れた瞬間に、一瞬にして、「わたし」は微細な粒子(エネルギー)となり、全体なるエネルギーに溶け去りました。

「わたし」は消えましたが、しかし、何もかもが消滅した訳ではなく、「ソレ」は確かに、在りました。

その時、初めて「わたしは誰か?」という問いに対する答えが、明らかになったのでした。

その後、自分に起きたことに対して、エゴが(知識で)理解するには、それなりの時間が必要でした。

しかし、このことだけは、直ぐにハッキリとしたのでした。

 

神は実在するのか? - YES! しかも、思いもしない形で!

 

それが、同時に、「わたしは誰か?」という問いに対する答えなのです。

 

「わたしは誰か?」ということが明らかになると、同時に、「神とはどんな存在なのか?」ということが明らかになります。

 

本当に実在するのは、「神」だけであり、この宇宙には、「ただ在るが在るだけ」なのです。

 

実在する神について言葉で語ることは、本当は不可能であり、個々人が、それぞれに直接体験を通して識っていくしかないのですが、シュリー・ラマナ・マハルシが語って下さっている御言葉が、とても分かり易く、すべてを語って下さっていると思われますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

『質問者

「神は顕現と非顕現として描写されています。

前者としては、神は世界をその一部として包含していると言われています。

もしもそうであるなら、世界の一部としての私たちは、彼を目に見える姿で知っているはずです。」

 

マハルシ

「彼の世界の本質について決める前に、あなた自身を知りなさい。」

 

質問者

「私自身を知ることが、神を知ることなのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。神はあなたの中にいる。」

 

質問者

「それでは、私自身あるいは神を知る上で障害となるのは何でしょうか?」

 

マハルシ

「あなたのさ迷う心と、道を踏みはずすことである。」

 

質問者

「神は個人なのですか?」

 

マハルシ

「そうだ。

彼はつねに第一番目の人であり、「私」であり、永遠にあなたの目の前に存在する人である。

あなたが世俗的なことに優位を与えてきたため、神は背後に遠のいてしまった。

もしあなたが神のみを求め、それ以外すべてをあきらめるなら、唯一神のみが「私」、真我として残るだろう。」

 

質問者

「神と真我は別のものなのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我は神である。

「私は在る」(I AM)が神である。

あなたが自我にしがみついているため、このような質問が起こる。

もしあなたが真我をとらえれば、質問は起こらないだろう。

なぜなら、真我は何も問わないだろうし、問いようがないからである。

もし神が真我から分離しているとしたら、その神は真我のない神であり、それはありえない。

存在していないかのように見える神だけが真に存在し、存在しているかのように見える個人はけっして存在しない。

だからこそ、「自分が存在していない」(シューンシャ)ことを知っている状態だけが、栄光ある至高の知識である」と聖者たちは言うのである。

現在のあなたは自分を個人だと考え、そして宇宙が存在し、宇宙の彼方に神がいると考えている。

そのため、そこには分離という観念がある。

この観念が去らなければならない。

なぜなら、神はあなたからも宇宙からも分離していないからである。

『ギーター』もこう言っている。

アルジュナよ、

私は万物のハートに宿る真我である。

私は万物の原初であり、中間であり、終末である。

(『バガヴァッド・ギーター』第10章20節)

このように、神はただすべての生けるもののハートのなかにいるだけではなく、彼はすべての支柱であり、すべての源であり、すべての生けるものの住まう場であり、彼らの終着点でもある。

すべてが彼から存在を現わし、彼のなかに生き、ついには彼のなかに溶け去る。

それゆえ、彼は分離していないのである。」

 

質問者

「『ギーター』のなかの一節に、「この宇宙全体は私の小片である」とあります。

これはどう理解すればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「神の小さな一部分が分離して、それが宇宙を形成しているという意味ではない。

彼のシャクティ(力)は活動している。

その力による活動の相のひとつの結果として宇宙が姿を現したのである。

同じように、『プルシャ・スークタ』のなかには、「すべての生けるものが神の御足の片方を形作っている」と述べているが、それはブラフマンがいくつかの部分に分かれているという意味ではない。」

 

質問者

「それは理解できます。

ブラフマンは間違いなく分割できるものではありません。」

 

マハルシ

「それゆえ、ブラフマンはすべてであり、分割不可能である。

それはつねに明らかである。

だが、人びとはこのことに気づいていない。

彼はこのことを知らなければならない。

真我がブラフマンという永遠の啓示を防げる障害を克服すること、それが知識である。

その障害はあなたがひとりの個人として分離しているという概念から成っている。」

 

質問者

「神と真我は同じものでしょうか?」

 

マハルシ

「誰もが真我を知っている。

だが、明確には知られていない。

あなたはつねに存在している。

その「在ること」が真我である。

「私は在る(I AM)が神の名前である。

神を定義した言葉のなかで、(旧約聖書)の出エジプト記第3章14節にある「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)ほど、ふさわしい言葉はない。

他にも「ブラフマイヴァーハム」(ブラフマンは私である)、「アハム・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、「ソーハム」(私は彼である)という言葉がある。

だが、「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど、直接的に表現したものはないだろう。

絶対的存在とは、ただ在るものである。

それが真我である。

それが神である。

真我を知れば神を知る。

実際、神は真我以外の何ものでもない。」

 (「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

物質自然(プラクリティ)の性質(グナ)の相違により

知識と 知識の対象と そして

行為をなす者とに三種ある

これについてわたしの言葉を聞け

 

あらゆる存在のなかに

不滅の一者が実在することを知り

無数の異なる形に分かれているなかに

分割し得ない一者を見る知識はサットワである

 

形の違うもの 分かれているものは

それぞれにまったく別の存在であると

差別面だけしか見ない考えは

ラジャスの知識である

 

まったくの真理や哲学に無関心で

一つのことをすべてだと思って盲目的に固執

偏狭で無味乾燥な考えーー

これをタマスの知識と言う

  (バガヴァッド・ギーター第18章19-22)

 

 

 

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(13)

前回までの3回に渡り、「明け渡し」(バクティ=神への献身)とはどのようなものなのか?について、シュリー・ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介しましたが、ここで、今一度、「明け渡し」の基本事項を再確認したいと思います。

 

まず、誰に何を「明け渡す」か?ですが、これは、改めて述べるまでもなく、「わたし」を「神」に「明け渡す」ことを意味しています。

 

「わたし」は、説明するまでもありませんが、再確認の意味で書くならば、ひとつの肉体に生じている意識(顕在意識や潜在意識)です。

熟睡している時には、「わたし」は消えていますので、無意識の時は、「わたし」はいません。

「わたし」という想いが、脳に生じている時だけ、「わたし」は存在しているのです。

脳が完全にその働きを休んでいる時は、「わたし」は消えたままです。

「わたし」の正体とは、そのようなものなのですが、人間は、通常は、熟睡状態を「わたしが寝ている」という風に解釈します。

それでは、「わたし」が消えてしまう熟睡時には、すべてが消えてしまうか?というと、そんなことはなく、肉体は残っています。

しかし、その肉体は、ベッドや布団や椅子や机と同じような存在で、たんぱく質の塊であるだけです。

「わたしの肉体」と思う「わたし」がいるからこそ、寝ている時の状態を「わたしは寝ている」と思えるのです。

しかし、「わたし」が消えていても、残った肉体は、呼吸をしたり、心臓が全身に血液を送るために動いて、ドキドキしたり、発汗したり、体温調整をしたり、睡眠中でも眼球は動いていることがわかっています。

脳波を測れば、アルファ波、ベータ波、シータ波、ガンマ波が検出されることから、脳が働いていることも明らかです。

このように、自分では、何もしていないにも拘わらず、わたし達の肉体は、あるプログラムが働いているかのように、各器官は瞬間、瞬間、動いており、その動きが止まることはありません。

しかし、それが、どうして起こるのか?を、「わたし」は全く知りません。

つまり、「わたし」は、「わたし」の身体に起きていることでさえ、ほとんど、いえ、全くと言ってよいほど、知らないのです。

それは、つまりは、「わたし」が、この肉体の主人ではない、と言うことを意味しています。

「わたし」が「主」(あるじ)なら、この肉体に起こることすべてを理解して、各器官の働きをコントロールすることもできるでしょうが、実際には、そんなことはありません。

ですから、「わたし」が、この肉体の「主」(あるじ)でないことは、明らかです。

それでは、誰が、この肉体の「主」(あるじ)なのでしょうか?

この理論を推し進めて行くと、この肉体を造り、肉体を動かしている存在が、この肉体の「主」(あるじ)である、ということになります。

この肉体を造り、肉体を動かしている存在を、昔から、わたし達は、「神」と呼んできました。

ですから、「明け渡し」とは、「わたし」のすべてを、真の「主」(あるじ)である「神」にお返しする(捧げる)、ということを意味しています。

アートマンに主座を明け渡す”とはそういう意味です。

この「明け渡し」においては、当然、バクティ(神への献身)が求められます。

「神」に対する心からの信愛が無ければ、自己を神に完全に「明け渡す」ことは、不可能でしょう。

その上で、瞑想などで、自己(自意識)を弱めたり、カルマ・ヨーガを実践して、「自分の」「自分のもの」という感覚を弱めることが、「明け渡し」のための有効な準備となり得るのです。

 

しかし、厳しい言い方になるかとは思いますが、自分の心の中に、「神」がいなければ、誰にも自己を「明け渡す」ことはできません。

バクティ(神への献身)の道は、ジニャーナ(真我探究)よりも簡単な道であると、ラーマクリシュナは仰っていますが、それは、心の中に、すでに神さまがいらっしゃる(完全に神を信じて疑わない)場合の話であって、神の存在自体を疑っている人には、ジニャーナ(真我探究)と同じくらい簡単な道ではないと言えるでしょう。

 

それでは、前回に続き、シュリー・ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介しましょう。

 

 

『質問者

「私はバクティを熱望しています。

もっとこの熱望が欲しいのです。

真我の実現などどうでもいいのです。

どうか私をこの熱望のなかに消化させてください。」

 

マハルシ

「もしその熱望があるのなら、実現は求めずしてあなたに強いられることだろう。

あなたの心が帰依のなかに溶け去るように、それを熱烈に求めなさい。

樟脳が燃え尽きると、何の残りかすも残らない。

心とはその樟脳である。

心が何の後も残さず真我のなかに消え去ったとき、それが真我の実現なのである。」

 

質問者

「私はムールティ・ディヤーナ(形態への崇拝)の信仰をしています。

それはジニャーナを得るための助けにはならないのでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん、助けになるだろう。

ウパーサナ(瞑想)は心の集中を助ける。

そのとき心は他の想念から解放され、瞑想の対象である神のイメージで満たされる。

そして瞑想の対象とひとつとなって純粋になっている。

そのときにこそ、誰が崇拝しているのかと考えなさい。

その答えは「私」、つまり真我である。

このようにして、最終的には真我が得られるのである。

非思考の思考によって無形の実在を崇拝することが最高の帰依である。

だが、自分はそのような無形の神の崇拝にふさわしくないと感じるなら、形を崇拝することが適しているだろう。

無形の崇拝の形をもたない人にのみ可能である。

自我の形をもつ人たちによる崇拝は、みなどれも形の崇拝にすぎないことを知るべきである。

いかなる執着もなく、ただ真我のなかだけにとどまった純粋な存在状態、それが沈黙である。

その沈黙として、永遠に、あるがままに在ること、それが真の崇拝である。

心を真我に明け渡し、ハートの座に主を迎えた、絶え間ない真の自然な崇拝、それが沈黙であり、最高の崇拝である。

それこそが非-帰依(ヴィバクティ)である。

真我である心の静寂としてとどまること、それこそが真のシヴァ・バクティ(神への帰依)である。

シヴァの御足元に自己を完全に明け渡すとき、自分の欠点についての不満も完全に消え去る。

人は本来の姿となって、満ち足りた真我の平和を得る。

それこそが究極の帰依の姿である。

人はこうして主のしもべとなり、「私は彼のしもべだ」という自分本位な想念さえない沈黙と静寂の内にとどまる。

それこそが真我のなかに永遠にすまうことである。

これが至高の知識である。」

 

質問者

「真理の探究者は、神を称える讃歌を歌い踊ることに没頭しながら世界を歩きまわることで、目的を達成できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「どこを歩きまわろうと、心をひとつのことに保ちつづけることが大切である。

身体をひとつ所にとどめていても、心がさ迷っていては何の役にも立たない。」

 

質問者

「アヘトゥカ・バクティ(動機のない帰依)は可能なのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは可能である。

欲望の対象物を求めて神を崇拝するのは、単にその欲望の対象物を崇拝していることと変わらない。

欲望の対象物への想いが完全にやんだ状態が、シヴァ神の状態に到達することを望む心にとっては欠かせない。」

 

質問者

「『シュリーマッド・バーガヴァタム』は、ハートのなかにクリシュナ神を見いだすための方法とは、すべてに対してひれ伏し、すべてを主御自身であると見なすことだと述べています。

この方法は真我の実現に導く正しい道でしょうか?

心が出会うものが何であれ、それをクリシュナ神として崇めることのほうが、「私は誰か?」という知的探究を通して超意識を求めるよりも易しいのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

あなたがすべてに神を見るとき、神のことを考えるだろうか、考えないだろうか?

あなたの周りのすべてのなかに神を見たいと望むなら、もちろんあなたは神のことを考えるだろう。

このように心のなかに神を保ちつづけることが瞑想となる。

瞑想とは実現前の状態である。

実現とは真我の実現であり、それは真我のなかにのみ起こり得る。

真我を離れて実現はありえない。

実現の前には瞑想が先行しなければならない。

だが、神に瞑想しようと真我に瞑想しようと、それは問題ではない。

その目的は同じだからである。

何をしようと、真我から逃れることはできない。

あなたはすべてに神を見たいと言う。

だが、あなたのなかには見ないのかね?

もしすべてが神であるなら、あなたもそのすべてに含まれるのではないだろうか?

あなた自身が神であるならば、すべてが神であることが不思議なことだろうか?

これこそ『シュリーマッド・バーガヴァタム』が勧めた方法である。

しかし、この修練をするとしても、そこには見る者や考える者がいるはずである。

それは誰だろうか?」

 

質問者

「すべてに遍在する神を見るにはどうすればいいのでしょうか?」

 

マハルシ

「神を見ることは、神として在ることである。

神は遍在し、何ひとつ神から離れては存在しない。

ただ彼のみが在る。」

 

質問者

「バクタ(帰依者)はバクティ(帰依)のために神を必要とします。

彼はただ真我だけが存在し、崇拝する者も崇拝される者もいないことを学ぶべきではないでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん、サーダナには神が必要である。

しかし、バクティ・マールガ(帰依の道)にとっても、サーダナの成就は完全な明け渡しのあとにのみ達成される。

自我が消え去ることを除けば、真我はつねにあるがままにとどまるという。

これはどういう意味だろうか?

いかなる道を行こうとも、「私」を避けて通ることはできない。

ニシカーマ・カルマ(動機のない行為)をする「私」、神から分離したと感じ、彼と結ばれていたいと熱望する「私」、自己の真の本性を見失ったと感じている「私」、この「私」の源を見いだしなさい。

そうすればすべての問いは解決するだろう。」

 

質問者

「もし「私」さえも幻想なら、いったい誰がその幻想を消し去るというのでしょうか?」

 

マハルシ

「「私」が「私」という幻想を消し去り、しかも「私」として残る。

それが真我実現のパラドックスである。

賢者はそこにいかなる矛盾も見ない。

バクティの場合をとって見てみなさい。

私はイーシュワラ神に近づき、彼のなかに融合されんと祈る。

信心とともに私は彼に集中し、そして自らを明け渡す。

あとには何が残るだろう?

完全な明け渡しは未来の「私」の場所のなかに神だけを残し、偽りの「私」は消え去るのだ。

これが最高の帰依「パラバクティ」、明け渡し、ヴァイラーギャ(無執着)の極みである。

あなたはあれやこれといった「私の」所有物を放棄する。

もしその代りに「私」と「私のもの」という想念を放棄すれば、すべてが一太刀で放棄される。

所有の根本原因が断たれたからである。

このようにして罪悪は種のうちに砕かれ、つぼみのうちに摘み取られる。

そのためには非常に強固な無執着がなされなければならない。

水中に捕らえられた人が、必死で水面に上がろうとして努力するに等しい真剣さと熱意が必要となるだろう。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

無敵の勇士 アルジュナ

すべての行為を完成するためには

五つの因ありとヴェーダンタでは説く

これについてわたしの言葉を聞け

 

行為の場(肉体)行為者(個我)

各種の器官 各種の運動エネルギー

そして最後に摂理ーー(または神意)

これらの五つが行為の原因である

 

体と心と または言葉で

正しい行為 善なる行為をしても

あるいは不正な行為をしても

どちらも この五つが原因である

 

故に 自分ひとりが行為者だと思い

この五つの要因に考え及ばぬ人は

知性と理解力に乏しく

物事の真相を見ることができない

 

我執 利己心のない者は

彼処(かしこ)に居並ぶ大勢の人々を殺しても

殺人者にはならない

また その報いを受けない

 

知識と その対象と 知る者

この三つが行為の誘因となり

感官と 所作と 行為者

この三つが行為を構成する

 (バガヴァッド・ギーター第18章13-18)

 

 

 

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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(12)

ナーナ先生のお力のお陰で、プラナーナの恩寵に与ることで、超自然的な体験が起き、その体験により明らかになったことがあります。

それは、いままで主役の座に居座り、すべての行為、思考、感情の司令塔であり、この世を体験する主権を握っていると思い込んでいたエゴ(マインド)の本当の正体が明らかになったことでした。

それは、言葉で言えば、この世を体験している「わたし」とは、実際には実体のある存在ではなく、感覚はやって来ては去って行き、思考は湧いては去って行き、行為も自動反応だったり、思考の結果であったり、確かにこの肉体が行っているには違いありませんが、その肉体を「わたし」が動かしているように錯覚しているだけで、本当は、そんな主体としての「わたし」という存在は実在しない、ということでした。

過去の体験が集積した記憶によって、人格や刺激に対して反応する心の枠組み(フレーム)が形作られていて、そのフレームのようなものを「わたし」だと思う思い込みが起きていて、常識と言う人間間の暗黙の了解もあり、それが人間として当たり前になっているのですが、実際には、そのフレームの中に、「わたし」という実体がある訳ではありません。

「自分は生きている」「わたしは存在している」という意識も、脳内に起きているだけで、自分の力が創り出している訳ではないことは、人間なら誰でも了解しています。

自分の力で、頭の髪の毛一本生えさせることができないわたしたち人間には、「自」そのものであるエゴには、到底考えられないことではありますが、「自」という部分はないのです。

一人の人間として生きているのも、この形でこの世に存在しているのも、自力ではなく、完全に他力、神の力によるものなのですが、そして、神の力無しには、何も成し得ず、この世のすべては、神の力によって存在しているのですが、ともすると、人間は自分の力というものがあるかのように錯覚しています。

プラナーナの力により、神の力をダイレクトに体験したことで、エゴは見せかけの力を失い、そして完全にフレーム状態になってしまいました。

この宇宙がまるで実在しているかのように感じられるのは、神の力により、人間の脳内に認識が起きているからで、人間が認識しているような宇宙が、自らの力で実在しているのではなく、人間の持つ知覚感覚器官を通すと、このような宇宙が存在するかのような認識が、人間の脳内に起きているだけなのです。

人間は、生まれてから、知覚感覚器官を通してしか外界を認識したことがないので、目に見える世界が実体のある世界であることは、わたしたち人間にとっては疑いようのないことなのですが、しかし、実際には、そのような世界は、人間の脳の中にしか存在しておらず、宇宙の真の姿を人間の通常の知覚感覚器官を通して把握することは、実は不可能なのです。

その証拠に、他の生物は、人間が認識している世界を、人間と同じようには認識していません。

知覚感覚器官のセンサー能力、及び、それらより送られてきたデータを解析する脳と言うコンピューターの解析能力によって、認識する世界は違ってきます。

肉体は、神の創造によるものであり、人間は人間として同じようなセンサーと脳を持っているので、人間同士が認識している宇宙には、大きな違いはありません。

しかし、その宇宙は、人間の認識によって支えられているだけで、その認識も神の力によって支えられているのです。

そして、この神の力により、宇宙の本当の姿、実相を短い時間でしたが、体験したことで、宇宙は実体を失い、フレーム化してしまい、幻、夢と化してしまったのでした。

空に架かる虹は、見えている時は、まるでそこに存在するかのように見えますが、実際には、光の屈折現象で、虹というモノが実在する訳ではありません。

同じように、この宇宙は、実在するかのように見えていますが、虹と同じように、人間の眼にそのように見えているだけなのです。

わたしたち人間に、この世が存在するかのような錯覚が起きているのも、神の力によるもので、究極的には、神しか実在しません。

宇宙が存在するのは、神の力によるもので、人間も例外ではないのです。

 

プラナーナによる体験を通して、真の宇宙の実相であり、真に実在する”在って在る”とはどんなモノなのか?についての智慧がやって来たのですが、その後、シュリ・ラマナ・マハルシが遺された御言葉の中に、同じようなことが書かれているのを読んだ時、とても嬉しく感じ、更に確信が深まったのでした。

 

それでは、シュリ・ラマナ・マハルシは、神について、どのように語っていらっしゃるでしょうか?

前回の続きをご紹介いたしましょう。

 

 

『質問者

「(この質問は手紙としてシュリ・ラマナに手渡された)神の庇護の元に入り、まったく他に何も考えず、ただ神のみを思いつづけるなら、人はすべてを得ることができると言われています。

それは静かに坐り、つねに神のみに黙想し、身体を維持するために必要な食べ物のことさえも含めたすべての想念を放棄することを意味するのでしょうか?

病気になったときでも、薬や治療のことを考えるのではなく、健康も病気もただ神の摂理にまかせるべきだということでしょうか?

『バガヴァッド・ギーター』は「すべての欲望を放棄し、『私』や『私のもの』という想いもなく、我執なしに行動する人、彼は寂静に達する」(第2章71節)と述べています。

それはすべての欲望を棄て去ることを意味します。

それゆえ、私たちは神への黙想だけに専念し、何も求めず、神の恩寵によって与えられた食べ物や水だけを受け取るべきなのでしょうか?

あるいは少しは努力するべきなのでしょうか?

バガヴァーン、どうかこのシャラナガティ(明け渡し)の秘密を教えてください。」

 

マハルシ

「(手紙を読み終えると、彼はホールにいる皆に向かって語った」アナンニャ・シャラナガティ(完全な明け渡し)とはいかなる想念への執着も、疑いもないことを意味する。

だが、身体を維持するために必要な食べ物や水についての考えさえも放棄するべきだろうか?

彼は「何も求めず、神の思し召しによって得たものだけを食べるべきでしょうか?

あるいは、少しは努力をするべきでしょうか?」と尋ねている。

よろしい。

それでは、われわれはひとりでにやってきたものだけを食べることにしよう。

だがそのときでさえ、誰が食べるというのだろう?

では、誰かがわれわれの口のなかに食べ物を入れたとしよう。

いったい、少なくともそれを飲みこむべきではないだろうか?

それは努力にならないだろうか?

彼は、「もし病気になったら、薬を摂るべきでしょうか、それとも黙って健康も病気も神の手にまかせるべきでしょうか?」と尋ねている。

シャンカラーチャーリヤの「サーダナ・パンチャカム」という本のなかには、空腹と呼ばれる病気の治療のためには、施しによって得られた食べ物を食べるべきであると書かれている。

だが、少なくとも外へ出ていって、托鉢をしなければならないだろう。

もし、人びとが皆、目を閉じて静かに坐り、食べ物が来たなら食べますと言っていたら、世界はどうなってしまうだろうか?

それゆえ、各人がそれぞれの伝統に沿って得たものを受け取ればいいのだ。

だが、自分がそれをしているという感覚から自由にならなければならない。

私がそれをしているという感覚が束縛なのである。

それゆえ、空腹のときに食べるべきか、病気のときに薬を摂るべきかを疑うよりも、どうすれば行為者という感覚を克服できるかを考え、その方法を見いだす必要がある。

このような疑いはいつまでも湧きつづけ、けっして終わることはない。

「痛みがあるときにはうめき声をあげるべきだろうか?」、「息を吐いたあとに吸うべきだろうか?」といった疑いさえ起こるだろう。

何かより高次の力が、各個人の心の発達に合わせてこの世界のすべてを動かしている。

それをイーシュワラ(至高の主)あるいはカルマ(運命)と呼んでもいい。

もし、より高次の力に責任を明け渡せば、ものごとはひとりでに起こるだろう。

われわれは大地の上を歩く。

そうする間、一方の足を上げたあとのもう一方を上げるべきか、あるいはどこかで止めるべきかと一歩ごとに考えるだろうか?

歩くことは自動的に起こるのではないだろうか?

呼気と吸気の場合も同じである。

吸ったり吐いたりすることに特別な努力はいらない。

この人生においても同じことである。

もしわれわれが望めば何でも止められるだろうか?

あるいは何でも望みどおりにすることができるのだろうか?

かなり多くのことが、意識されないまま自動的に行われている。

神への完全な明け渡しとは、すべての想念を放棄し、心を神に集中させることである。

もしそれができれば、他の想念は消え去る。

もし心、言葉、身体の行為が神に溶けあえば、人生のすべての重荷は神のものとなるのである。」

 

質問者

「しかし、神は本当に私が行うすべての行動の行為者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「現状における困難は、人が自分を行為者だと考えていることにある。

だが、それは誤りだ。

すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎない。

もしこの見解を受け入れれば、彼は災いから解放され、さもなければ自ら災いを招くことになる。

例えば、ゴープラム(寺院の塔)の土台に彫刻された像は、あたかも党の重みをその肩に乗せているかのように見える。

その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えている。

だが、考えてもみなさい。

塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っている。

そして彫刻の像は塔の一部にしかすぎず、ただ塔の重量に耐えているように見えるだけなのだ。

おかしくはないかね?

自分が行為をしていると感じている人もまた同じことである。」

 

質問者

「スワミ、神を愛することは善いことではないでしょうか?

それならなぜ愛の道(バクティ・マールガ)にしたがわないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それにしたがえないと誰が言ったのかね?

そうするがいい。

だが、あなたが愛について語るとき、そこには二元性がある。

愛する者と、神と呼ばれる実体である愛される者がいる。

そうではないだろうか?

個人は神から分離してはいない。

それゆえ、愛とは自分の真我に対する愛を意味しているのである。」

 

質問者

「だからこそ、神が愛の道を通して崇拝されていいのかどうかと尋ねているのです。」

 

マハルシ

「それこそ私が言ってきたことである。

愛そのものが神の本当の姿である。

「私はこれを愛さない」、「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。

それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。

それは純粋な至福である。

純粋な至福、神、アートマ、好きなように呼ぶがいい。

それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。

あなたがこのようにすべてを拒絶すると、ただ真我だけが残る。

それが真実の愛である。

その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛で満ちていることを知るだろう。

真我の本性である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。

愛の高みに達した人のみ、解脱は成就される。

それがすべての宗教の本質である。

真我の体験とは愛である。

それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。

それが至福である。」 

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 サットワの離欲者は

不運な仕事をも嫌わず

幸先のよい仕事にも執着せず

活動についての正しい信念を確立している

 

肉体をまとった者たちにとって

活動をすべて止めることは不可能だ

しかし 仕事の結果を放棄した人は

真の離欲者である

 

離欲せぬ者は死後その生前の行為による

快 不快 またはその混合の報果をうける

だが離欲の生活を送った者は

そのような悲喜の報果をうけることはない

 (バガヴァッド・ギーター第18章10-12)

 

 

 

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真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

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☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

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わたしは誰か?-真我探究の道(11)

これまでの記事で、わたしにとってナーナ先生は、わたしの中で真我を明らかにして下さった真のグル(師)であると書きましたが、今回は、ナーナ先生のお力により明らかになったことを、少し丁寧に言葉で描写してみようと思います。

(それは、真我そのものではありませんが、このブログを読んで下さる方々に、わたしたちの本質である真我をイメージしやすくなるように、言葉で表現してみたいと思います)

 

通常、わたしたちは、「わたしは存在している」と思っていますが、それは覚醒時に、ある種の感覚を感じていて、その感覚を「存在感」だと思っているからです。

その感覚は、寝ている時は、全く感じません。

それは、その感覚を生みだしている脳が働きを休んでいるので、起きている時に感じている「存在感」が消滅しているからです。

つまり、寝ている間に、「わたしは存在している」という感覚は消滅しています。

そして、眠りから目覚めると、また同じ感覚が戻って来て、「わたしは存在している」という感覚が生じます。

わたしたちは、これを毎日繰り返しています。

あまりにこの感覚に慣れ親しんでしまっているため、この「存在感」は、わたしたちの中では、ごくごく当たり前な感覚となってしまっています。

 

わたしがナーナ先生に体験を通して教えて頂いたのは、ある種のエネルギー共鳴による「実在感」とも言えるもので、それは、それまでわたしの体が慣れ親しんでいた「存在感」とは全く異なるものでした。

 

いつも耳元で、エアコンの室外機の50デシベル位の音がしている状態を想像してみて下さい。

通常は、その音がしている状態に耳が慣れ過ぎてしまい、それよりも静かな木の葉のふれ合う音(20デシベル)はかき消されてしまうので、聞こえません。

日頃、わたしたちが自分だと感じているエネルギーも、これと同じで、肉体に生じている感覚(エネルギー)は、粗くて強いので、それよりも微細なエネルギーを感じることができなくなっています。

しかし、この50デシベルの音が消えると、それまで気づかなかった微細な音(20デシベル)が聴こえるようになります。

これと同じことが、エネルギーにも当てはまり、常にその微細エネルギーは、わたしたちと共に在るのですが、あまりにわたしたちは、生まれた時からの肉体感覚に慣れてしまっているため、それより微細なエネルギーに気づくことができなくなっているのです。

その慣れ親しんだ感覚以外の感覚を体験したことが無いだけでなく、わたしたちがエネルギー的に多層構造になっているだなんて、思ってもみないことでもあるため、大抵は、この微細エネルギーの存在に全く気づかずに、一生が終わってしまいます。

(これが、所謂「無知」と呼ばれている状態であり、仏教では、「無明」(反対は悟り)とも言いますが、この「誤った自己認識」は生まれた時すでにデフォルトで設定されてしまっているため、通常、人間はこのことに疑いを持つことはありません)

 

ナーナ先生が、わたしにして下さったことは、シャクティ・プラーナという微細エネルギーで共鳴を起こし、わたしが通常感じていた粗くて強いエネルギーを鎮めて、微細なエネルギーの存在が、わたしの中で明らかになるようにして下さったことです。

 

それは、エネルギー共鳴とも言えるもので、それが起こるのは、同じ一つのエネルギーがわたしたちすべての存在に共通のものであるからなのです。

 それを、ナーナ先生は、「本質」と呼ばれましたが、ウパニシャッドで言うところの、「我ソレなり」の「ソレ」であり、この宇宙に本当に存在するのは、「ソレ」だけなのです。

(ナーナ先生は、このわたしたちすべての存在に共通のエネルギーを「本質」と言われています。ナーナ先生のブログ、「すべては本質の流れのままに」の「本質」とは、アートマン(真我)=ブラフマンのことです)

 

一般にはほとんど知られていませんが、この宇宙における唯一の実在である「ソレ」は、これまでも、今も、これからも在り続ける唯一の存在であり、いつでも、誰でも「ソレ」と切っても切れない関係にあります。

しかし、ソレを知っている人は、まだ極少数です。

 

所謂、一瞥体験とは、この「ソレ」を短時間、体験することを言い、真理を垣間見ることを指しています。

ナーナ先生のように、真我そのものになられている方は、完全に真我を実現されているので、そこに分離感はありませんが、通常、わたしたちは、真我そのものを知らないため、肉体に生じている粗いエネルギーを自分だと思って生きているため、真我から切り離された感覚があり、「我ソレなり」とは思えないのが普通です。

 

ナーナ先生のシャクティ・プラーナの恩寵のエネルギーにより、共鳴が起きた時、わたしの中で、真我から切り離されている分離感を生じさせている粗いエネルギーが消滅したため、微細エネルギーである「ソレ」だけが在る、ということがはっきりと明らかになったのでした。

短い時間、真実の次元を垣間見ただけでしたが、それでも、自分が本当はどんな存在であったのか?が明らかになるには充分でした。

 

これが起きた時、わたしは人生で二度目の「明け渡し」をした直後で、エゴのエネルギーが弱まっていたためと考えられます。

 エゴ(思考)のエネルギーは粗くて強力なため、この強いエネルギーが、わたしたちの共通の本質である木の葉のふれ合うくらいの超微細なエネルギーをかき消してしまっているので、通常わたしたちが感じている粗くて強いエネルギーが静かにならないと、超微細エネルギーである「本質」が表に出て来ることはありません。

 

瞑想やヨーガで、生じるエネルギーを静かで振幅の少ない状態に保つことができれば、「ソレ」を直接体験することも可能になりますが、それには、かなりの修行が必要でしょう。

普通なら何年も厳しい修行をしなくては到達できないと言われている究極の真理ですが、いまここで、真摯に望む人には誰にでも、ソレへと至る直接体験の道が開かれていることは、神の恩寵に外なりません。

 

今、次元の扉が開かれていることをお伝えするのが、このブログの目的でもあります。

 

一人の人間に起きたエネルギー共鳴が、他の人にも起こる可能性は充分にあると言えます。

その可能性は、誰にでも眠っている潜在能力でもあります。

シャクティ・プラーナの恩寵に与ることで、究極の真理への道が短縮されるという奇跡が起こることは、夢ではないのです。

 

それでは、前回に続き、「明け渡し」について、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

 

 

『質問者

「明け渡したあとにも漂いつづける心とは何なのでしょうか?」

 

マハルシ

「明け渡しをした心がこの質問をしているだろうか?」

 

質問者

「絶えず明け渡そうという欲望をもちつづけることで、より多くの恩寵が体験できることを私は期待しています。」

 

マハルシ

「きっぱりと明け渡し、欲望は棄て去りなさい。

「私が行為者である」という感覚をもちつづけているかぎり、欲望は消えないだろう。

それはまた人格でもある。

これが去れば純粋に輝く真我を見るだろう。

行為そのものではなく、行為者であるという感覚が束縛なのである。

「静かになりなさい。

そして私は神だと知りなさい」。

この言葉は沈黙が個人という痕跡を残さない完全な明け渡しであることを意味している。

沈黙が支配したとき、心の動揺も消え去る。

心の動揺が欲望、行為者という感覚、人格の原因である。

それがやんだとき、静寂がある。

「知ること」とは「在ること」である。

それは知識、知る者、知られるものという三位をともなった相対的な知識ではない。」

 

質問者

「「私は神である」あるいは「私は至高の存在である」といった観念は助けになるでしょうか?」

 

マハルシ

「「私は私であるものである」(I  AM THAT  I  AM)という聖者の言葉がある。

「私は在る」(I AM)とは神のことであり、「私は神である」と考えることではない。

「私は在る」を実現しなさい。

そして「私は在る」と考えてはならない。

聖書には「私は神だと知りなさい」とあり、「私は神だと考えなさい」ではない。

明け渡しについての話はみな、黒砂糖でつくられたガネーシャ神の像から、ひとつまみの黒砂糖を取り、同じガネーシャ神にナイヴァディヤ(供物)として捧げるようなものである。

あなたは、「私は身も心も所有物もすべて神に捧げます」と言うが、それらの捧げ物はあなたのものなのだろうか?

最も良いところで、「私はいままであなたのものであったそれらを、すべて私のものだと誤って想像していました。

今、すべてはあなたのものだと知りました。

もうけっしてそれが自分のものであるようにはふるまいません」と言えるだけだ。

神あるいは真我だけが存在し、「私」や「私のもの」は存在しないという知識――これがジニャーナである。

それゆえ、バクティとジニャーナの間に違いはない。

バクティはジニャーナの母である。」

 

質問者

「世俗の人間である私たちはさまざまな嘆き悲しみをもち、どうやってそれを克服すればいいのかも知りません。

神にも祈るのですが、いまだに満たされません。

どうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「神を信頼しなさい。」

 

質問者

「私たちは明け渡すのですが、それでも救いはないのです。」

 

マハルシ

「もし明け渡したのなら、神の御心にしたがい、あなたの気に入らないことが起こったとしても不平不満なく受け入れなければならない。

今、一見そう起こっているように見えることも、のちにまったく違った結果となるかもしれない。

不幸はしばしば人びとを神への信仰へと導いてきたのである。」

 

質問者

「それでも、私たちは世俗の人間なのです。

妻がいて、子供や友人や親戚がいます。

人格を保つことなく、彼らの存在を無視して自分自身を神の意志にゆだねることはできません。」

 

マハルシ

「つまり、あなたは神に明け渡してはいなかったということである。

あなたは神だけを信じなければならない。

神がその姿を現そうと消え去ろうと、彼の御心にしたがい、すべてを明け渡しなさい。

神のはからいにまかせなさい。

もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく、命令である。

神をあなたに従わせておきながら、自分は明け渡したと考えることはできない。

神は何が最善であり、いつ、どのようにすべきかを知っている。

彼にすべてを完全にまかせなさい。

重荷は彼のものだ。

あなたはもはや何の心配もしなくていい。

あなたの心配はみな彼のものなのである。

明け渡しとはそのようなものだ。

これがバクティである。

さもなければ、これらの質問が誰にとって起こったのか調べなさい。

深くハートのなかに潜り、真我としてとどまりなさい。

二つにひとつの道があなたに開かれている。」

 

質問者

「明け渡しは不可能です。」

 

マハルシ

「そうだ。

はじめのうちから完全なる明け渡しは不可能である。

確かに部分的な明け渡しなら誰にとっても可能だろう。

もしも明け渡しが不可能なら、何ができるというのだろう?

それでは心の平和はない。

あなたに平和をもたらすことはできない。

ただ明け渡しによってのみ、それができるのである。」

 

質問者

「明け渡しだけでもじゅうぶんに真我に到達できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「自己を明け渡すことだけでじゅうぶんだ。

明け渡しとは自分自身を自己の存在の原因の源に放棄することである。

そのような源があなたの外側にある神だと想像することで自分を欺いてはならない。

あなたの源はあなたの内側に在る。

つまり源を探しだし、そのなかに溶け去ることである。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 定められた義務は捨ててはならぬ

もし判断に迷って

義務の遂行を怠るならば

そのような離欲はタマスである

 

定められた義務を煩わしいと思い

また肉体的に苦痛だからと恐れて

それを捨てるのはラジャスの離欲であり

決して霊的向上を望むことはできない

 

アルジュナよ 名誉や利得に関心無く

仕事の結果に何の執着ももたず

ただ自分のすべき義務を果たす人は

サットワの離欲を行じているのだ

 (バガヴァッド・ギーター第18章7-9)

 

 

 

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