永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(3)

「ただひとつ」という単一性には、すべてが含まれます。

宇宙も、地球におけるすべての存在、そして、この<わたし>という個人も。

これらの形ある、また、形無い物質だけでなく、すべてがそこに帰結する「ただひとつ」が在り、

それが、真の実在であり、有形、無形の物質は、「ただひとつ」の反射であり、鏡に映った虚像のようなもので、実際には実在しない、非実在だという考えが、アドヴァイタ(アドワイタ)、つまり、不二一元論です。

 

この鏡に相当するものが、人間の「心」(脳)である、ということを、これまでの記事で見てきましたが、

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの詳しい説明をご紹介することで、更に理解を深めていきたいと思います。

 

 

『次なる単一体は、古い神話の中でブラマー、四つの頭を持つブラマー、として知られており心理学的にはマハト(宇宙知)と呼ばれている、遍在の非個人格神です。

これが、右の二つの要素が結合する場所なのです。

あなたの心と呼ばれているものは、脳というわなに捕らえられたこのマハトの一断片にすぎません。

そして、脳(複数)の網の中に捕らえられたすべての心(複数)の総計は、皆さんがサマシュティ(同種の存在の総合体を言う)と呼んでおられるもの、総計の(心)、宇宙の(心)です。

分析は更に進められなければなりませんでした。

まだ完成したのではありませんでした。

われわれの一人一人は言わば小宇宙であって、この世界全体は大宇宙です。

しかし、ヴィヤシュティつまり個別の存在、の内部にあるものは何であれ、同じような事物が外界でも起こりつつある、と推測して間違いありません。

もしわれわれが自分の心を分析する力を持っていたとしたら、同じことが宇宙の心の中でも起こりつつある、と推測して間違いはないでしょう。

この心とは何か、と言うのが問題です。

現代西洋諸国では、物質科学が急速な進歩をとげつつあるので、生理学が一歩また一歩と古い宗教のとりでを次々に征服しつつあるので、西洋人は自分がどこに立ったらよいのかを知りません。

なぜなら、彼らにとって絶望すべきことには、近代の生理学は常に心と脳と同一のものと見てきたからです。

しかしインドではわれわれは常にこのことを知っていました。

心は物質である、ただもっと精妙な物質であるだけだ、というのは、ヒンドゥの少年が学ぶ最初の命題です。

肉体は粗大なもの、そして肉体の背後に、われわれがスクシュマ・シャリラ、精妙な身体、または心、と呼ぶものがあります。

これもやはり物質的なものであって、ただもっと精妙であるだけ、アートマンではないのです。

私は皆さんのためにはこの言葉を英語には訳しますまい。

この観念はヨーロッパにはないのです。

それは翻訳が不可能です。

現代のドイツの哲学者は、アートマンSelf(自己、自我)という言葉で訳そうとしていますが、その言葉が広く認められるようになるまでは、それを使うわけには行きません。

それゆえ自己とでも何とでも呼ぶがよろしい、とにかくそれは我らのアートマンです。

このアートマンが、背後にある真の人間なのです。

物質である心をその道具として、そのアンタッカラナ(心を指す心理学上の専門語ですが)として、使うのはアートマンです。

そして心は、一連の内部器官を用いて目に見える肉体の諸器官を動かします。

この心は何でしょうか。

西洋の哲学者たちが、眼は見るための器官ではなく、眼の背後に別の器官インドリヤがあって、もしこれらが破壊されれば、かりに人がインドラのように千個の眼を持っていてもかれは見ることができないのだ、ということを知るようになったのは、つい最近のことです。

ああ、皆さんの哲学は、視界は外部にあるのではない、という仮定から出発しているのです。

真の視覚は内部器官、内なる脳の中枢の働きです。

皆さんはそれらを何とお呼びになってもよろしいが、インドリヤ(ス)は眼でもなければ鼻でも耳でもありません。

そしてこれらすべてのインドリヤスにマナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラ等々が加わったのが心と呼ばれるものです。

ですからもし現代の生理学者が皆さんの処にやって来て、脳は心と呼ばれているものである、そして脳は実に幾多の器官によって形成されているのだ、と言っても、皆さんは少しも恐れることはありません。

皆さんの哲学者たちはとうからそれを知っていた、それは皆さんの宗教※のまさに最初の原理の一つであるのだ、ということを言っておやりなさい。

(※インドにおける講演なので、聴衆は、インド人)

さて今度は、このマナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラ等々と言うのは何であるか、理解しなければなりません。

まず最初にチッタをとり上げましょう。

これは心の素材ーーマハト(宇宙知)に一部分ーーであり、そのさまざまの状態のすべてを含む、心それ自身の総称です。

ある夏の宵、水面にさざ波ひとつ立っていない静かな湖がそこにあるとします。

そして誰かが、この湖に小石を投げ込むとします。

すると何が起こりますか?

まずそこに活動、すなわち水に与えられた打撃があります。

次に水が高まり、小石に向かって反動を送ります。

そしてその反動は波という形をとります。

まず水が少し振動し、そして直ちに波という形で反動を送り出すのです。

チッタはこの湖にたとえましょう。

そして外界の対象物はその中に投げ入れられた小石のようなものです。

チッタがこれらインドリヤ(ス)によってーーこれら外界の対象を内部に運ぶために、そこにはインドリヤがなければなりませんーー何らかの外界の対象と接触するや否や、そこに振動が起こります。

マナスと呼ばれる、決定力のないものです。

次に反動が見られます。

決定をする能力、ブッディです。

そしてこのブッディと共に、アハム(エゴ)と外界対象という観念がひらめきます。

私の手に蚊がとまっているとします。

この感覚は私のチッタにまで運ばれ、チッタはちょっと振動します。

これが、心理的なマナスです。

それからそこに反動が起こります。

そして即座に、自分の手には蚊がとまっているという、そして自分はこれを追い払わなければなるまいという、考えがやって来ます。

このようにこれらの石は湖に投げ込まれるのですが、湖水の場合にはやって来る打撃は常に外界からであるのに対して、心という湖の場合には、打撃は外界から内界かのどちらからかやって来るでしょう。

この一連の現象の全体が、アンタッカラナと呼ばれるものです。

それと共に、皆さんはもう一つのことを理解しておかなければなりません。

それは、後にわれわれがアドワイタ体系を理解するのを助けることになるのです。

それはこのことです。

皆さんが真珠を見たことがおありでしょうし、また大部分の人が、真珠はどのようにしてできるものであるかということをご存知でしょう。

砂の一粒が真珠貝の殻の中に入り、そこで貝に刺激を与えます。

すると貝の身体がその刺激に反応して、分泌液でこの小物体を包みます。

それが結晶して真珠を形成するのです。

全宇宙もそのようなものです。

それは、われわれによって形成されつつある真珠なのです。

われわれが外界から得るものは要するに打撃です。

その打撃を意識するためにも、われわれは反応しなければなりません。

そしてわれわれが反応するや否や、われわれは実は、自分自身の心の一部分を打撃に向かって突き出すのです。

そして、われわれがその打撃について知るようになる、と言うのは、実はそれは、その打撃によって形を与えれたわれわれ自身の心なのです。

ですから、外部世界というものの動かし難い真実性を信じようとする人でさえも、生理学の発達したこの時代には次の事実を認めないわけには行かない、ということは明らかです。

すなわち、もし外部世界を「X」で現すなら、われわれがほんとうに知っているものは「X」プラス心であって、この心という要素は非常に大きく、「X」の全部をおおっていて「X」は相変わらず未知のままであり、また全然知ることのできないものである、従って、もしそこに外部世界というものがあっても、それは常に知られざるものであり、また知ることのできないものである、という事実です。

それについてわれわれが知っているのは、それがわれわれの心によってこね上げられ、形づくられたところのものなのです。

内なる世界についても同じことが言えます。

同じことがわれわれの魂、アートマンにもあてはまるのです。

アートマンを知るためには、われわれは”それ”を心によって知らなければなりますまい。

それゆえ、このアートマンについてわれわれが知るごく僅かのことは、要するにアートマン、プラス心です。

すなわち心によって包まれ形をつけられたアートマンであってそれ以上の何ものでもないのです。

もう少したってから、またこの問題に戻って来ることになります。

それまで、今ここで申し上げたことをよく憶えているようにしましょう。』

 

 

「心」(脳)が、外界を認識する反射鏡であることは、直ぐに理解するには、難しいかもしれませんが、

このことへの理解なしには、真の自己である「アートマン」について、正しく理解していくことは不可能でしょう。

 

反射鏡である「心」(脳)は、独立して機能している訳ではありません。

その背後にあって、反射鏡を機能せしめている存在こそが、個人としての存在である<わたし>の本当の主人であるアートマンだということなのです。

<わたし>は、アートマンに仕える者であり、聖ラーマ・クリシュナのお言葉をお借りするならば、「召使い、下僕」ということになります。

 

ですから、本当は、「自分」でやっていることは何もありません。

その「自分」という”想い”も、脳の働きによって、脳内に起きており、

このことを理解するために、脳科学から見た人間の「心」(脳)について、長々とご紹介しました。

 

それは、「わたしは、○○××という個人ではなく、アートマンである」という結論に、論理的に到達するためです。

これは、ギャーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)と言い、私たちを至高の自己に導くための人間が辿ることが可能なひとつの道なのです。

 

それでは、次回では、これまでの記事の内容を踏まえて、更に、アートマンへの道を辿って行きましょう。

 

 

 

だが 非顕現の実在

知覚を超え すべてに遍満し

不可思議 不変 不動の

非人格的真理を礼拝する者たち

 

そして 諸々の感覚を抑制し

あらゆる生きものを平等に扱い

広く世界の福利のため働く者たちーー

彼らも終にはわたしのもとに来る

(バガヴァッド・ギーター第12章3-4)

 

 

 

わたしは誰か?-アートマンについて(2)

前回の記事から、始まりました、このブログの最終テーマである「わたしは誰か?」について、

聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺された講演会の資料から抜粋して、ご紹介させて頂くことで、

その答えである「アートマン」について、言葉による説明ではありますが、そのイメージだけでも掴めるように、見ていきたいと思います。

 

 

ウパニシャッドが、「それを知ることによって他の一切物を知ることができるところのものは何か」という、この一つのテーマをかかげていることは事実です。

現代の言葉で現せば、ウパニシャッドのテーマは、事物の究極の合一を見出すこと、です。

知識とは要するに、多様性のまん中に一体性を見出すことです。

あらゆる科学は、このことに立脚しています。

すべての人間の知識は、多様性のまっただ中に単一性を発見することなのです。

それでもし、僅かばかりの異なった現象の中に単一性を見出すことがわれわれの科学と呼んでいる人間知識の小さな切れはしの仕事であるのなら、われわれの前のテーマがこの驚くべき多様な宇宙の中に単一性を見出すことである場合には、仕事は途方もないものとなります。

各々の思いは他のすべての思いとは異なり、そこには名と形の、物質と精神の、無数の差異が充満しているのです。

それでも、これら無数の階層や尽きることのないロカ(ス)(生きものの住む世界)を調和させること、この無限の多様性の中に単一性を見出すこと、がウパニシャッドのテーマなのです。

一方、アルンダティ、ニヤーヤ(アルンダティの法則)という昔の考え方が適用されます。

美しい星アルンダティを人に示す場合、これに最も近い、大きな光の強い星を取り上げてまずこれを見つめるよう命じると、かれの視線を非常にらくにアルシダティに向けてやることができる、と言うのです。

これが、われわれがなすべき仕事です。

そして私の考えを証明するためには、私はただ、皆さんにウパニシャッドをお見せしさえすればよいのです。

それで皆さんはお分かりになるでしょう。

ほとんどすべての章が、ウパーサナー(字義は、そばにすわる。神を礼拝または瞑想すること)すなわち二元論的な教えで始まっています。

神は最初は、この宇宙の”創造者”である何者かとして、それの”維持者”として、そして、一切物が最後には”かれ”のもとに帰する、そのような存在として教えられます。

”かれ”は礼拝さるべきものであり、”支配者”であり、外および内なる自然の”ガイド”なのですが、まるで自然の外に、つまり外界にいるかのように現れているのです。

更に一歩進むと、われわれはその同じ教師が、この神は自然界の外にいるのではなく自然界に内在しているのである、と教えているのを見出します。

そして最後には、どちらの考えも捨てられ、実在するものはことごとく”かれ”であって、そこに差異はありません。

「シュヴェターケトゥよ、汝は”それ”であるぞ」かの”内在”の”一者”はついに、人間の魂の内にあるものと同一である、ということが宣言されるのであります。

ここには妥協はありません。

ここには他者の見解への恐れはありません。

真理、大胆な真理が、大胆な言葉で教えられています。

われわれも今日、これと同じ大胆な言葉で真理を説くことを、恐れる必要はありません。

神の恩寵によって、私も少なくとも、そのような大胆な説教者であることを希っているのです。

前置きの方に戻りましょう

ます最初に理解しておくべき二つのことがあります。

一つはヴェーダンタのすべての学派に共通の心理学的な面、そしてもう一つは、宇宙論的な面です。

私は最初に後者を取り上げようと思います。

今日われわれはかつて無想だにしなかった驚くべき事実に対して眼を開かしめつつ青天のへきれきのようにわれわれに襲いかかって来る現代科学の驚嘆すべき諸発見を見ています。

しかしこれらの大部分は、すでに幾千年の昔に見出されたものの再発見にすぎないのです。

さまざまに異なる力は本来一つのものである、ということを近代科学が発見したのはついこの間のことでした。

近代科学はごく最近、それが熱、電気、等々と呼んでいるところのもはすべてこれを、たった一つの力に変えることができる、ということを発見し、そういうわけで、これらすべてを、何という名を選んでもかまわないのですがとにかく、一つの名で表現しています。

しかしこのことはすでに、サムヒター(ヴェーダはそれぞれ、サムヒターとブラーマナの二つの部分に分かれている。前者は讃歌や聖句の集)の中においてさえ、なされているのです。

非常に古いものでありますが、われわれはその中で、他でもない、いま申し上げたこの力の概念に逢着します。

それらを重力と呼ぼうと引力と呼ぼうと、または排斥力と呼ぼうと、それらを熱と表現しようと電気と表現しようと、または磁力と表現しようと、すべての力はその単一のエネルギーのヴァリエイションであるにすぎません。

それらがアンタッカラナ(心および精妙な感覚器官)すなわち人の内部器官から反射されて思いとしてみずからを現そうと、または外部器官から来る活動として現そうと、それらを生み出す単一体は、プラーナと呼ばれているものです。

ではプラーナとは何でしょうか。

プラーナはスパンダナ、すなわち振動です。

この宇宙全部が解消して原始の状態に戻ってしまったときには、この無限の力はどうなるのでしょうか。

それは消滅する、と彼らは考えているのでしょうか。

もちろん、そう考えてはいません。

もしそれが消滅してしまったら、運動は高揚し、衰退し、また高揚し、また衰退して波形を作りながら進行するものであるのに、次なる波動の原因はどうなるでしょう?

ここに、宇宙を意味する、スリシュティという言葉があります。

この言葉が創造という意味を持っていないことに注目して下さい。

私は英語を話すときに当惑するのです。

サンスクリット語は、出来る範囲内で最善をつくして訳すより仕方がありません。

それはスリシュティ、つまり放射です。

一つの周期の終わりには、一切のものが次第に微かになって、それがかつてそこから生まれ出たのであるところの原始の状態に再び溶け込んでしまい、再び飛び出す用意はしながら、しばらくの間静止したままでいます。

それがスリシュティ、つまり放射(projection)です。

そして、これらすべての力、プラーナ(ス)(=複数)はどうなるのでしょうか。

彼らは原始のプラーナの中に溶け込んでしまいます。

そしてこのプラーナは、ほとんど不動の状態ーー完全な不動状態ではなくーーとなります。

それがすなわち、「それは振動なしに振動した」(アーニダヴァーダム)と言われている状態です。

ウパニシャッドの中には、理解することが難しい多くの専門語があります。

例えばこのヴェーダという言葉ですが、それはしばしば空気を意味し、またしばしば運動motionを意味ます。

それで人はよく両者を混同するのです。

われわれはそれを要心しなければなりません。

そして皆さんが物質と呼んでおられるものがどうなるのでしょうか。

力(=複数)が、すべて物質の中に充満しているのですが、それらはすべてアーカーシャの中に溶け込み、そこから再び出て来るのです。

このアーカーシャが物質の始まりです。

皆さんがそれをエーテルと訳されようと何と訳されようと、その概念は、このアーカーシャが物質の原始の形だということです。

このアーカーシャがプラーナの活動によって振動し、次のスリシュティが始まろうとすると、振動が速くなって、アーカーシャはわれわれが太陽とか月とか宇宙とか呼ぶこれらすべての波形にまで振動せしめられるのです。

もう一度読みましょう。

「この宇宙の一切物は放射されたのである。プラーナが振動して」Ejatiという語に注目して下さい。

それはEja振動する、という言葉から来ているのですから。

これが宇宙論的な面の一部です。

その中にそう入されるべきさまざまのもっとこまかい事実があります。

例えば、この過程はどのようにして起こるのか、どのようにして最初のエーテルはあるのか。

どのようにしてエーテルから他のものが出て来るのか。

どのようにしてそのエーテルが振動を始め、それからヴァーユ(空気)が出て来るのか。

しかし、一つの考え方がここにあります。

それは、粗大なものがより精妙なものから出て来た、と言うものです。

粗大な物質は最後に出現したものであって、一番外側のものであり、この粗大な物質はそれの前にもっと精妙な物質を持っていたのです。

しかしわれわれは、全体が二つのものに溶解したのを見ましたが、まだそこには、究極の単一体はありません。

そこには力、すなわちプラーナと呼ばれる単一体があり、物質、アーカーシャと呼ばれる単一体があります。

更にこの二つの中に何らかの統一体が見出されるでしょうか。

この二つが一つに溶けあうことができるのでしょうか。

われわれの現代科学はここで黙ってしまいます。

まだそこからの出口は見出していないのです。

それで、もし現代の科学が、そろそろと昔のプラーナと同じものを発見し、古代のアーカーシャと同じものを発見して来たように、次なる発見も行なおうとしているのであれば、それはやはり同じ線に沿って動いて行かなければなりますまい。』

ヴェーダンタ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、プラーナについての説明をご紹介いたしました。

 

今回の記事を読んで、プラーナについての理解が深まると、それは、宇宙の仕組みやアートマンへとつながり、やがて、おぼろげながら、アートマンのイメージを掴めるようになるではないか?と思われます。

 

真の自己であるアートマンについては、スワミ・ラーマも以下のように書いています。

 

ヴェーダンタ文学の最も価値があり気高い貢献は、真我、あるいは神は私たちから離れておらず、あるいは遠くにおらず、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃるということなのです。』

 

アートマンが答えです。

私はアートマンです。

あなたはアートマンです。

私とあなたはアートマンなのです。

それが答えです。

ヤマがナチケータに語ったように、アートマンについて聞くだけでは十分ではありません。

アートマンは到達され、理解され、経験によって知られなくてはなりません。

ヤマは学ぶことだけでなく、知性を使うことでも聖なる教えでも、アートマンに到達するには十分でないことを説明しました。

アートマンに到達することは、選択と行動を必要とします。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

アートマンは、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃる」からこそ、私たちは見出すことが可能であると言えます。

 

アートマンが真の自己である、ということを少しでも理解できるように、次回も続きを見ていきたいと思います。

 

 

 

クリシュナよ 私は

プラクルティとプルシャについて

用地と用地の認識者について また

知識と知識の対象について学びたいのです。

 

「クンティーの息子よ

この肉体が用地であり

この肉体を知覚認識している者が

用地を認識者(しるもの)である。

(バガヴァッド・ギーター第12章1-2)

 

プラクルティ(自然、物質界)

プルシャ(精神源)

 

 

 

わたしは誰か?ーアートマンについて(1)

これまで、かなりの時間を割いて、人間の心について、その働きや仕組みを理解するために、脳科学の分野で明らかになって来ている事実をご紹介してきました。

 

そして、それが、ヨーガやウパニシャッドでは、どのように表現されているか?を、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より、ご紹介いたしました。

 

このことを心の底から理解するには、本から得た知識ではなく、実際の体験を通して理解することが大切です。

 

その体験は、個人においては、様々な形で起こるため、一様ではないのですが、

ここでご紹介した脳の働きや仕組みを念頭に置き、自分の内面で起きていることに気付いていることは、体験ための準備として、非常に有効だと言えるでしょう。

 

何故、そういう気持ちになったのか? 

何故、そういう行動を取ったのか? 

何故、そういう反応をしたのか?

何故、そう考えたのか?

 

そこには、必ず理由があります。

潜在意識の中には、自動反応を引き起こす種が眠っていて、それが、個人の心に投影され、私たちの思考、感情、行動の元になっていることが多いのです。

 

この自分の脳の中で、どのようなことが起きているか?を知ることは、

前回の記事でもご紹介しましたスワミ・ラーマの言葉につながっていきます。

 

『最初に心を静かにすることが必要です。

最初の方で言ったように、マナスが訓練されず、エゴが制御されていないままだと、心は荒れ狂い制御不能となります。

同時にチッタの内容は膨れ上がり、意識の中に表面化し続けます。

個人はこの混乱の奴隷となり、常軌を逸した感情と強力な願望の鎖で引っ張りまわされます。

この混乱は静められなくてはなりません。

静けさは瞑想で築くことができます。

人の体が静かで呼吸が静かで規則正しいなら、心は集中し始めることができます。

集中が保たれると、顕在意識はだんだんと静かになり、心の明晰さがより深くなっていきます。

この種の瞑想が達成されると、心をきれいにし、古い願望や思考、恐れの心を空にし、完全にブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタを統合するという真の仕事が始まります。

完全なる統合により心は、純粋意識はあらゆるところに在り、君主であることを理解します。

そのとき心は、すべての力と権威は命の源である純粋意識から生じていることを理解するので降伏します。

エゴは消滅し、死は打ち負かされます。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

「わたし」については、チャクラの章で、いろいろ見てきました。

 

このブログ最後のテーマは、「わたしは誰か?」です。

 

これは、このブログの最初の方の記事でも取り上げました。

 

スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」の中では、

 

アートマンが人の本質的な性質だと理解されるとき、人はアートマンへの道をきれいにするという仕事を始めることができます。

アクセスは心の枠組みや人間の構造を理解するこで始まります』

 

とあります。

 

このことから、人間の心の枠組みや人間の構造を知るために、脳科学における人間の脳についてご紹介してきたのです。

 

『最初の段階は私たちの真の本性は何かを思い出すことです。

私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。

私たちはアートマンーー神聖で純粋な意識なのです。』

 

というスワミ・ラーマの言葉を理解するために、次の段階へ移っていきたいと思います。

 

スワミ・ラーマが「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」で語っているのは、たったひとつの結論です。

 

『わたしは誰か?ーーアートマンです』

 

ですから、このアートマンについての理解が、自分という存在への真の理解であり、真理探究者の最終ゴールと言えます。

 

そして、『アートマンブラフマンなり』

 

アートマンを知ることは、唯一なる実在であるブラフマンを知ることである、とウパニシャッドでは説いています。

 

この自己の本質への真の理解は、体験によってもたらされますが、

その前に、先人の多くの智慧に耳を傾けることで、その片鱗だけでも知っておくことは、ブッディ(知性)が本来の働きをする際に、大いに役に立つことでしょう。

 

ということで、次回から、アートマンについての理解を深めていきたいと思います。

 

 

『”私””と”私のもの”が無智だ。

よくよく考えをおしつめていくと、その、私、私、といっているものはあの御方、つまり、アートマン(真我)のほかの何者でもないと覚るだろう。

考えてもごらん、あんたはその肉体か、それとも骨か、筋肉か、それともまた他の何だね?

わかるだろう、あんたはそのドレでもないんだよ。

どんな性質もないんだ。

そこで念のためだ、いいかいーー”私は何もしていない。私のアヤマチなぞというものはない。性格もない。罪もなければ手柄もない”

これは金、それは真鍮ーーこういうのが無智。

何もかもすべて金ーーこれが智慧』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

 

物質界(このよ)を去るにあたって

明るい道と暗い道があり

明道を行く人は戻らず

暗道を行く人は戻ってくる

 

プリターの息子 アルジュナ

この二つの道を知る修行者は

捨身(死)のとき決して迷わない

故に たゆむことなくヨーガに励め

 

わたしのこの教えを理解した修行者は

ヴェーダの学習や供犠 苦行

慈善などの行事に心を費やさず

それらを超えた至高の浄土へ往く

(バガヴァッド・ギーター第8章26-28)

 

 

 

チャクラについて(35)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回より、「真の自己」への理解を深めるために、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より、「ただの自己」について、その働きや仕組み、構造などをご紹介しました。

 

カタ・ウパニシャッドを題材にしているので、日本人には馴染みのないサンスクリット語が頻繁に使われているため、分かり難く感じるかもしれませんが、

少し前に、ジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」をご紹介しましたが、その内容と照らし合わせて、

現代の脳科学ではどのように表現されているのか?と比較しながら、読んで頂けると、より理解がスムーズになると思います。

 

自分自身の「心」について知ることが、「ただの自己」と「真の自己」を識別する智慧となります。

 

カタ・ウパニシャッドとヨーガの叡智から導かれたその智慧を、スワミ・ラーマが遺して下さった最後の著書から、ご紹介したいと思います。

 

(本文中の、ブッディ(理智)は前頭葉の働き、マナス(意思)は大脳辺縁系(主に、扁桃体)の働き、アハンカーラは自我意識(=(わたし)という意識)、チッタ(心素=記憶)は海馬の働き、と当てはめて読むと、理解しやすくなると思われます)

 

 

『ひとたびブッディが訓練されると、人には暗く思われる選択がより早く明らかになります。

ブッディの訓練と識別の術がうまく働く前では、判断力は楽しいものの方に傾きます。

ブッディは一時的な楽しみや永続しないものに人生を賭ける無益さに光を放ちます。

ブッディはそのとき、より高次な自己へと人を運ぶのに必要な行動や思考の進路へと人を導き始めます。

ブッディはエゴとより高次な自己との関係とは何なのかを問います。

 

ブッディが機能することを許されないと、真の自己は隠されたままです。

マナスとエゴを満足させるための無駄な努力で人生は浪費されます。

そしてそれは単に内部器官である心全体のただの一面であるだけなのです。

マナスとエゴは人間にとっては道具ですが、それらが引き継ぐことを許されると、それらは主人になってしまいます。

 

心の4番目の要素はチッタという、私たちの印象や思考、願望、感情が保存されている広大な無意識の海です。

この海から泡立つものは私たちが人生から人生を通して蓄積してきたものです。

たいていの人にとっては、チッタは広大な種々の材料で作ったスープのようなものです。

彼らの好みと性格で他を支配するものもあれば、ネガティブなものやボジティブなものもあります。

 

チッタにおけるこれらの材料は、私たちの態度、思考、行動に影響を与えます。

例えば、私たちはアイスクリームに強い願望を持ったり、ある人格に強く反応したり、他よりある風土を好んだり、特別な刺激に対する感情的な反応を持つかもしれません。

これらの願望や反応は、まるで突然にやって来たかのようで私たちの手には負えないように思われます。

しかしこれらの思考や感情は全く突然にやって来たのではありません。

それらは内側からやって来たのであり、アクセス可能であり、コントロールすることができます。

最初に私たちは知り、あるいは少なくとも、私たちの心の内側には途方もなく大きな感情と経験の貯蔵庫があるということを合理的な命題として快く受け入れる必要があります。

事実、あるいは命題として私たちはそれに基づいて行動し、それを試し、調べることができます。

 

潜在意識の心へのアクセスは、顕在意識の心である表面を静かにすることから生じます。

ほとんど常に心の表面上にはある程度の乱れがあります。

ひとつの思考から別の思考へとはね飛びながら、これからあれへ、そしてまたこれへと戻る心があります。

ときには乱れは大きく、他のときには表面はより静かです。

ほとんど常に顕在意識の中には潜在意識の心へアクセスさせないようにする活動があります。

 

どのように心が機能するかを知り、それを適切に訓練することは、人間の真の義務なのです。

これは霊的な仕事です。

なぜなら適切に訓練された心が内なる神にそれ自身を現わすことを許すからです。

人類に平和と喜びをもたらすのは、この勤めであり義務なのです。

 

最初の段階は私たちの真の本性は何かを思い出すことです。

私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。

私たちはアートマンーー神聖で純粋な意識なのです。

私たちの体と心とエゴはアートマンに仕えるようにはなっていません。

もし私たちがその真理を知らないなら、少なくとも私たちが神聖であり永遠であるということを、ひとつの理論として受け入れる価値はないでしょうか?

神聖なる性質の可能性は探求に値しないでしょうか?

それは生と死の関係を知ることにおける批判的な疑問ではないでしょうか?

何が死ぬのでしょうか?

何が生きるのでしょうか?

何が死ぬことができないのでしょうか?

 

アートマンが人の本質的な性質だと理解されたとき、人はアートマンへの道をきれいにするという仕事を始めることができます。

アクセスは心の枠組みや人間の構造を理解することで始まります。

 

2番目の段階は、ブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタという心の4つの面と機能を理解することです。

訓練されていない心では、マナスはそれにとっては不適切な役割を引き受け、エゴであるアハンカーラは正当な場所よりもより大きな力と権威の地位につきます。

アハンカーラは、実際には個人に形を与える一時的な構造です。

アハンカーラは永続しません。

それは個人の真の本性ではなく、主人であると思う傾向を持つ召使いなのです。

 

心の4つの要素は統合されなくてはなりません。

それぞれは他と協力し調和して果たす必要のある惑割を持っています。

マナスとアハンカーラはそれらの仕事をすべきで、それだけにすぎません。

ブッディは人に成長と喜びをもたらす決定をするために訓練され用いられなくてはなりません。

 

この心の要素の統合を完成するためには、心と感情のさらに詳しい理解が必要とされます。

4つの基本的な衝動は個人的な感情とそれらの心への影響を決定します。

原始的で基本的で全人類や他の生物たちによって共有されているこれらの衝動は食物、睡眠、性交、自己保存のためのものです。

これらの衝動の観点から人間と他の動物の間に違いはそれほどありません。

違いは、これらの衝動をコントロールする能力において、人間の心が卓越していることです。

 

他の動物はこれらの衝動に従属しています。

彼らの一生はこれらにより決定され導かれます。

一方、人間はマナスとブッディを適切に使うことで、これらの衝動をコントロールすることができます。

もし心の要素が調和して働かないと、これらの4つの基本的な衝動は、機能障害や情緒不安定という一般的に不健康な方法でそれらを表現するでしょう。

食事の不摂生、中毒、行き過ぎた性行為は人の心身の健康に影響を与えます。

多眠、小眠、断続的な睡眠は心と体に同じ影響があります。

自己保存の中心的な問題である死の恐れは、所有物を喪失する恐れや、人間関係における所有欲の強いことや、飛行機恐怖症や他の恐怖症を含む広範囲な恐れに通じます。

これらの不摂生と中毒は、それらの感情的な混乱を伴ってチッタの中に流れ込み、個性を形作り、何年間も一生の間でさえ癖を作り出します。

 

すべての心の要素が真に統合されると、人は悟りのより高いレベルに跳ぶことができます。

かつて心の総合的な統御なしに覚醒あるいは悟りを達成した偉人はいません。

この統合は努力、実践、技術を必要とします。

それは心を一点に集中し内部へ向かわせることを意味します。

心が統合されないと、それは巧みな行動をとることができません。

なぜなら、思考のプロセスと願望のより繊細な紐は、自由への道においては障害となるからです。

 

最初に心を静かにすることが必要です。

最初の方で言ったように、マナスが訓練されず、エゴが制御されていないままだと、心は荒れ狂い制御不能となります。

同時にチッタの内容は膨れ上がり、意識の中に表面化し続けます。

個人はこの混乱の奴隷となり、常軌を逸した感情と強力な願望の鎖で引っ張りまわされます。

 

この混乱は静められなくてはなりません。

静けさは瞑想で築くことができます。

人の体が静かで呼吸が静かで規則正しいなら、心は集中し始めることができます。

集中が保たれると、顕在意識はだんだんと静かになり、心の明晰さがより深くなっていきます。

 

この種の瞑想が達成されると、心をきれいにし、古い願望や思考、恐れの心を空にし、完全にブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタを統合するという真の仕事が始まります。

完全なる統合により心は、純粋意識はあらゆるところに在り、君主であることを理解します。

そのとき心は、すべての力と権威は命の源である純粋意識から生じていることを理解するので降伏します。

エゴは消滅し、死は打ち負かされます。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く)

 

 

今回ご紹介した内容は、そのまま理解するには、少し難しいかもしれませんが、

前回までにご紹介しました脳科学の解説とジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」からのご紹介と併せて、照合しながら読んで頂けると、自分の脳(心)の中で、何が起きているのか?を、少なからず把握できるのではないか?と思います。

 

これは、無知という覆い(ヴェール)に覆われているブッディ(理智)のその覆いを取り除き、ブッディの本来の働き(訓練された理智)を発揮させるのに、役立つと思います。

 

スワミ・ラーマも書いている通り、無知という覆い(ヴェール)がブッディを包み込んでいるので、

私たちに「ロープをヘビに見間違える」という「錯覚」が起きているのですが、

ブッディを覆っているその無知が取り除かれると、「錯覚」が消えるということになります。

 

その「錯覚」が、一瞬の体験で取り除かれることもあります。

 

また、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いていくように、少しずつ剥がれ落ち、最後に「何も無くなる」(錯覚という覆いが取り除かれる)ということも起きます。

 

たったひとつのゴールに到達するためのアプローチ(道)は、いろいろあるということです。

 

「ただの自己」を理解し、それを「真の自己」を発見する道具として上手く使いこなすためには、訓練と実践が必要です。

 

次回は、「真の自己」について、引き続きスワミ・ラーマの著書より、ご紹介いたします。

 

 

 

その非顕現の清浄界こそ

不滅の妙楽世界であり

そこに到達した者は決して物質界に戻らない

そこがわたしの住処である

 

すべてに勝る至上者のもとには

不動の信仰によってのみ到達できる

かれは至上の住処に在ってしかも全宇宙に充満し

万生万物はかれの内に存在する

(バガヴァッド・ギーター第8章21-22)

 

 

 

チャクラについて(34)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

池谷裕二さんの最新の脳科学の研究報告からのご紹介と、自らの体験を綴った「奇跡の脳」の著者、ジル・ボルト・テイラー博士による右脳、左脳に関する詳細な働きの違いなどを、長期にわたってご紹介してきました。

 

それは、ひとえに、私たちが「こころ」と称しているのは、実は「脳の働き」以外のものではない、ということから、

「脳の働き」を知れば、人間の「こころ」を、ある程度理解することができると確信しているからです。

 

「自己を知る」とは、主に、この「こころ」の働きについて知ることを意味すると思っています。

 

私たちが、「自己」と言う場合、「エゴ」(自我意識=顕在意識)のことを指していますが、

ウパニシャッド哲学では、「自己」を、「ただの自己」と「真の自己」に分けて考えます。

 

こうすることで、私たちが、より明確に、より簡単に、「ただの自己」を超えて「真の自己」に到達できるように、導いてくれているのです。

 

究極の存在である「真の自己」(アートマン)へ至るには、まずは、「ただの自己」をきちんと理解するのが、近道です。

 

「自己」から「ただの自己」を引き算すれば、「真の自己」が明らかになる、ということになります。

 

それでは、インドの最古の啓示の言葉が書かれているとされているウパニシャッドを引用しながら、「ただの自己」と「真の自己」に関する詳しい解説を、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から引用し、ご紹介したいと思います。

 

 

インド哲学では、心を内部器官であるアンターカラナと呼ばれる4つの機能を持つひとつのグループとして記述します。

1番目は、アハンカーラ、あるいはエゴであり、あなた自身の中で、”わたし””わたしの””わたしのもの”としてあなたが規定している部分です。

2番目はブッディであり、より高次な心であり、知り判断し決断する識別の面です。

ブッディはすべての感覚器官、知覚の反射やすべての思考、心の認識を受け止める鏡のようなものです。

ブッディはあるものと別のものとを識別し比較します。

3番目はマナスで、より低次な心であり、データを産み出し処理します。

4番目の要素はチッタという貯蔵庫であり、印象や記憶のデータバンクです。

 

これらの4つの要素は、それぞれの要素がそれぞれの特定な仕事をしながら共に調和して働くことになっています。

訓練と鍛錬でこれらの4つは協調し、それらはアートマンを探す際の非常に有益な道具となります。

協調、識別、訓練がうまくいかないと、それらは進路上の手強い障害物となります。

 

それではまずは、自分の単なる自己の異なった面を知り、それらの面を訓練し、それらが真の自己ではないと知ることです。

カタ・ウパニシャッドは、2輪馬車の譬えでこれを説明しています。

霊的な自己は2輪馬車の持ち主です。

そして肉体が馬車です。

ブッディは2輪馬車を駆る人として仕え、感覚の経験という開かれた野原で束縛されずに走っている馬のような感覚をコントロールする手綱として心を使います。

大抵の場合、不幸なことに私たちはこの隠喩を理解できず、心がどのように機能するかを教えてもらっていません。

私たちは何を訓練し鍛錬すべきかを知らないのです。

 

マナスの性質は、この情報またはあの情報は重要であるか、あるいは取り入れるべきかどうかと問うことに限られています。

マナスは”これは私にとって良いかどうか?”と問うだけです。

マナスはこれらの質問をブッディに伝えなくてはなりません。

そしてブッディは答えを持ち、それらをマナスに伝えるために訓練され研ぎ澄まされなくてはなりません。

訓練しないと、信頼をもってそうすることができないときに、マナスはあまりに多くの力をわが物とし、ブッディを無視し独立して行動します。

マナスは内側、外側での争いに満ちています。

浄化されたブッディの助けがないと、マナスは不確かさと惨めさの源となります。

時間を超えてマナスの行動は習慣になります。

 

訓練されていない心に関する別の問題は、エゴであるアハンカーラが引き受けた不適当な支配力です。

訓練されていない心におけるエゴは心の所有者であり、存在の中心であると信じる性質を持っています。

訓練されていないエゴはあまりに強力なので、人は彼の真の性質が神聖であり、究極の存在であり、永遠であることを忘れています。

マナスがうまくできない仕事をしようとしてブッディに相談せず、エゴがそれ自体を最高であると信じるとき、結果は人間にとって悲惨です。

 

マナスは演じる役割を持っています。

しかしそれは限られています。

ブッディはなすべき仕事を持っています。

それでマナスを用います。

エゴは役に立ちますが、その役割は限られており永続しません。

エゴは世界において作用する格子の枠組みのようなものです。

私たちが誤って考えているように、それは有形のものではありません。

それは単なるある機能を持った心の一面なのです。

エゴは人の本性ではありません。

それは、私たちを分離した個別の個体に分割しているエゴと呼ばれる”わたし”という感覚です。

エゴは私たち個人が自己認識するすべての感覚や性質を集めます。

それは私たちの人格の創造者ですが、エゴは究極の存在ではありません。

”わたし”という感覚、あるいはエゴは2つの要素の混ぜ合わせです。

ひとつは変化し、もうひとつは不変です。

変化する要素は現象的な宇宙、肉体、そして外部の対象物の感覚、などの基本です。

それは展開の源なのです。

 

マナスとエゴは心の中のあてにならない雑草のようなものです。

もしそれらが注意して意見を聞いてもらえないと、役割を接収します。

マナスは、これをしなさい、あれをしなさいと言い、これについて嘘を言えばあなたは困難から離れていると言い、これを盗めばあなたは成功し、この喜びを楽しめばあなたは幸せになると言います。

そう、これは素晴らしい、これは私のため、そして私はまったく物質そのものだと言います。

マナスが望み、エゴが必要だと言うことは何でもするこの道は、苦痛、恐れ、そしてさらなる無知で終わることでしょう。

これは所有し必要とし獲得し保持する道であり、”わたしは””わたしのもの”の道なのです。

エゴは、この体はわたしのものであり、この家はわたしのものであり、この伴侶や子どもはわたしのものであると言います。

このわたしのものとあなたのものという感覚は、他の個人から個人を分離し、世界を彼らとわたしに分割します。

それはまた個人を内面的に分離し、本当の自己に対する障壁を積み上げます。

それは死の恐れを作り出します。

死は私たちが所有し欲するこれらのものの終わりを意味するでしょう。

それは恐ろしいことです。

もし私たちが自分は肉体だと思っているなら、死んでいく肉体を予想することは恐ろしいことです。

なぜなら、そのとき死は私たちの存在の完全なる停止のように思われるからです。

しかしながら、ブッディが訓練され使われると、人は問います。

これは本当に必要だろうか?

この物を本当に必要としているだろうか?

肉体とは何か?

ブッディは、肉体は人の本性ではないのは、静かな湖の表面に反射している太陽が本当の太陽でないのと同じであるということを教えてくれます。

ブッディと呼ばれる心の識別力の面が訓練されると、人は一時的な人生は最終的には苦しみに至るということに気付きます。

ブッディは探求を始め、それから一時的でないものに向けられた人生は最終的には苦しみのない人生に至ると結論します。』

(聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

この文章だけを読むと、多くのサンスクリット語が出て来ることもあって、難しいと感じるかもしれませんが、

これまで、脳科学の分野から「脳の働き」として「こころ」に関する詳しい解説をご紹介してきましたので、それを思い出しながら読んで頂けると、より理解しやすくなると思います。

 

エゴ、マナス、ブッディ、チッタ、の4つの心の機能と、現代脳科学で言われているところの「脳の働き」とを比較し、自分の中で何が起きているのか?を把握することは、「真の自己」についての理解を深めることにつながります。

 

ということで、次回も続きを見ていきたいと思います。

 

 

地球上の 昼と夜と

人間の用いる計算方法では

創造神ブラマーの一日は千周代

ブラマーの一夜も千周代

 

ブラマーの一日が始まると

多種多様な無数の生物が姿を現わし

ブラマーの夜になると

彼らはすべて姿を消す

 

ブラマーの夜が明けると再び

万物群生は流れ出て活動を始め

暗闇になると溶解消滅する

物質世界はただこれを反復するだけである

 

だがこの未顕現 顕現の現象を超えて

別な世界が実在する

それは至上至妙にして永遠不滅

物質宇宙が絶滅してもそのままである

(バガヴァッド・ギーター第8章17-20)

 

 

 

チャクラについて(33)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまでの記事で、左脳を損傷したことにより、左脳と右脳の働きの違いを、身を以って体験した脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」より、

左脳と右脳の働きの特性を知り、それぞれの働きの違いを利用することで、「自己」に対する理解をより深めると同時に、

それらの智慧を人生を生きることに活用することも可能だということを、ご紹介してきました。

 

今回は、更に踏み込んで、具体定な実践方法、彼女がやってみて効果があった日常生活において誰でもできる実践方法について、ご紹介したいと思います。

 

 

『世の中には、どれひとつとして同じ脳は存在しません。

でも、わたしの脳にとって真実だと思われることをあなたに教えてあげたい。

自分がどんなふうに周囲のエネルギーに影響を及ぼしているかに気づけば、自分に降りかかるできごとをコントロールできるようになる。

人生で何が起きているのかを監視するために、わたしはまわりの世界で何が起きていて、何が起きていないかに、すごく気をつけています。

自分の身に何がふりかかるかに応じて、事態のなりゆきに責任をもち、意識的になりゆきを微調整するのです。

これは、自分にふりかかるすべてのことを完全にコントロールしている、という意味ではありません。

むしろ、そうした出来事についてどう考えたり、感じたりするのかをコントロールしているのです。

たとえ不愉快な出来事でも、右の脳の領域に一歩踏み込んで、共感をもってあたれば、人生の価値ある教訓として受け止めることができます。

左脳マインドの言語中枢と物語作家が正常に機能するようになったことで、わたしの心はありえない話をするだけでなく、マイナスの思考パターンにつながろうとするようになりました。

マイナスの思考や感情が頭の中で反響してしまうループから逃れる第一歩は、どんなときにそういうループにつながるかを知ること。

脳が話しかけてくることに自然に耳をかたむけることができる人もいます。

でも、わたしのカレッジの学生の多くは、脳が話していることを観察するだけで、すごく頭が疲れてしまうと文句を言います。

冷静な第三者の目で頭の話を聞くためには、それなりの訓練と忍耐が必要になるでしょう。

しかしいったん、そのことに気づいてしまえば、あなたは物語作家が捏造する厄介なドラマやトラウマを自由に超えて行かれるようになるのです。

脳がどの認知のループを働かせているかに気づくようになれば、次に、そうしたループがからだの中で生む生理的な感じに焦点を合わせます。

警戒しているの?目はまん丸になってる?呼吸は深い?浅い?胸は苦しい?頭はスッキリしてる?胃の調子は悪い?そわそわしたり、心配したりしてる?貧乏ゆすりしてる?

恐怖や心配や怒りのループは、さまざまな刺激によって誘発されます。

ですがひとたび誘発されると、それぞれの感情は予測されうる生理的な反応を示すため、意識的に観察することが可能となります。

脳がとても批判的で非生産的な、あるいは制御不能のループを働かせているとき、わたしは感情的・生理的な反応が去っていくのを90秒間じっと待ちます。

それから、脳を子どもの集まりみたいなものだとみなし、誠意をもって話しかけます。

「いろんなことを考えたり、感じたりするあなたの能力はありがたいわ。

でもわたし、この考えや感じには、あまり興味がないの。

だから、もうこの話はおわりにしてちょうだい。」

ようするに、特殊な思考パターンとのつながりを断ち切るよう、脳に頼んでいるわけです。

もちろん、人によって頼み方はちがうでしょう。

たとえば、「キャンセル!キャンセル!」という人もいるかと思えば、「オレは忙しんだよ!」と叫ぶ人もいるでしょう。

あるいは、「充分、充分、もう充分だから!いい加減に止めて!」という具合に。

けれども、自分の内部の声で考えを表明するだけでは、仕事をこなすことに実眼になっている物語作家にわからせるには充分じゃありません。

わたしは、言葉に適切な感情をこめて、情緒たっぷりに物語作家に語りかければ、もっと話が通じることを発見しました。

脳が聞く耳をもたないようなときには、メッセージに何か「動き」の要素をつけくわえます。

人差し指を降りまわしたり、両手を腰にあてて仁王立ちしてみたり、母親が子供を叱る場合、言いたいことに情熱をこめて、身振りを交えるなど、いろいろな方法で同時にメッセージを伝えたほうが効き目がありますよね。

脳とからだの中の細胞の99.999%は、わたしが幸福で健康で成功することを望んでいるはずです。

でも、ほんの一握りの物語作家は、わたしが喜ぶことと無条件につながっておらず、内なる安らぎの感覚を台無しにする可能性をもつ思考パターンばかり試そうとするのです。

この細胞のグループを、いろんな名前で呼んでいます。

わたしが好きな呼び名はこんな感じ。

「ピーナッツ・ギャラリー」(劇場の最上階最後部席)、「役員会の面々」、「ちっぽけなクソ委員会」などなど。

この連中は頭の中の言葉を使って、悲観に満ちたループを走らせることに情熱を燃やします。

この連中は、嫉妬、恐れ、怒りといったマイナスの属性を利用します。

この連中は、しつこく泣いて、不平を述べ、あらゆることがいかに酷いかをみんなに言いふらすのが生きがいなのです。

細胞が傍若無人で手に負えなくなると、わたしは(頭の中ではなく口から出る)声で、ピーナッツ・ギャラリーに厳しいタイム・スケジュールを課します。

左脳マインドの物語作家に、午前9時から9時半までと、午後9時から9時半までのあいだは好きなだけぼやいてもいいわよ、と言い渡すのです。

物語作家がうっかりその時間を忘れても、次の割当時間までは、ぼやきは禁止。

こうすると、細胞たちはマイナス思考のループにつながっちゃだめよ、という真剣なメッセージをすぐに読み取るようになりました。

でも、わたしは我慢強く、しっかりと、どの回路が脳の中で働いているかに目を光らせていなくてはいけないのです。

 

左脳マインドを回復させることは、わたしがふたたび、すべての細胞に発言権を与えることを意味していました。

ですが健やかな精神を守るためには心の庭を育て、マイナス思考の細胞を見張っておく必要があるのです。

物語作家には、わたしが望むことと許せないことについて、ちょっとした躾が必要です。

コミュニケーションが円滑になったので、この特殊なグループの細胞で起きていることに対して、わたしの本当の自己はきちんと注文をつけることができるようになりました。

望ましくなかったり不適切な思考パターンには、ほとんど付き合いませんでした。

そうは言っても、躾に反応する物語作家の滑稽なふるまいには、思わず吹き出しそうになります。

マイナス思考の細胞たちは、幼い子供のように私の言うことを聞かず、わたしがどれくらい本気なのか試そうとするのですから。

いったん、静かにするように言われると、細胞たちは一瞬だけ沈黙し、またすぐ禁じられた回路を作動させます。

他のことを考える欲求が弱かったり、新しい思考回路を意識的に始めないでいると、招かざるループはふたたび勢いを盛り返し、心を独占し始めます。

そんな細胞の活動に対抗するため、意識を振り向けるべき三つのリストが必要に応じて用意してあります。

(1)魅惑的で、もっと深く考えを巡らせたいことを思い出す。

(2)ものすごく楽しいことを考える。

(3)何かやりたいことを考える。

自分の心を変えたくてたまらないとき、わたしはこの三つの武器を利用するのです。

からだが疲れていたり、精神的に参った状態にあるとき、つまり、油断しているときを狙って、否定的な思考回路が人を傷つけようと頭をもたげることに気づきました。

脳が言っていることに注意し、その考えがからだにどのような感覚をもたらすかに気づけば、自分が本当は何を考えたり感じたりしたいのか、意のままに選べるようになります。

もし内なる平和を保ちたいなら、ぶれることなく、いつでも心の庭を育てなければなりません。

そして、一日に何千回も、決意を新たにする必要があるのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

これまで、脳科学の視点から、人間の「心」について見てきました。

 

「心」は、生理学的に見れば、脳の働きなので、脳科学における解説は、人間の「心」の仕組みを理解する上で、客観的な視点から書かれているので、誰でも、思い当たることが多いかと思います。

特に、左脳と右脳の働きの特徴を知り、自分の脳内で起きていることに対する理解を深めることは、いろいろな意味で、多くの示唆を私たちに与えてくれるものと感じます。

 

次回は、今回ご紹介したこのジル・ボルト・テイラー博士が、自らの体験から得た「心」の仕組み、メカニズムについて、

同じことが、ヨーガ、及び、インド最古の哲学であり、神聖なる啓示が書かれているとされているヴェーダ聖典の観点から、どのような表現で、解説されているのか?を見てみたいと思います。

 

 

 

物質界における最高の星界から最低の星界

生死をくりかえす苦悩の住処だ

しかしクンティーの子よ わたしの住処に来た者は

決して物質界に再生することはない

(バガヴァッド・ギーター第8章16)

 

 

 

チャクラについて(32)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまでの記事で、ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」から、左脳を損傷した体験からわかった「右脳」と「左脳」のそれぞれの働きから生じる特徴について、ご紹介させて頂きました。

 

基本的な違いを理解した上で、実際に、実生活で、どのようにそれらの智慧を生かすか?ということにも、大変に役に立つ(と思われる)体験談を語って下さっていますので、

私たちが、日常生活で陥りがちな「思考のループ」などの「思考の罠」についての、彼女のアドバイスをご紹介したいと思います。

 

多くの人が陥りやすい「思考癖」に対する対応方法を心得ていれば、自分自身生きることが楽になるばかりでなく、周りの人々にも、その影響が及ぶので、周りの人も生きることが楽になります。

 

私たちは、この二元の世界で、エネルギーをキャッチボールしているようなものなのです。

自分が放ったエネルギーが、周りに影響を与え、そして、私たちも、周りからのエネルギーの影響を受けています。

 

二元の世界における智慧も、生きていく上では、大いに役立つと思いますので、「奇跡の脳」から、そのヒントとなる体験談をご紹介したいと思います。

 

 

『わたしは、反応能力を、「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。

自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが、このプログラムの一つが誘発されて、化学物質が体内に満ちわたり、そして血流からその物質の痕跡が消えるまで、すべてが90秒以内に終わります。

たとえば怒りの反応は、自発的に誘発されるプログラム。

ひとたび怒りが誘発されると、脳から放出された化学物質がからだに満ち、生理的な反応が引き起こされます。

最初の誘発から90秒以内に、怒りの化学的な成分は血液中からなくなり、自動的な反応は終わります。

もし90秒が過ぎても怒りが続いているとしたら、それはその回路が機能し続けるようにわたしが選択をしたからです。

瞬間、瞬間に、神経回路につなげるか、それとも、現在の瞬間に戻って、つかの間の生理機能としてその反応を消散させるかのどちらかの選択をしているのです。

右と左の性格を認めることで、ワクワクするような可能性が開けます。

どんな状況にもつねに違った見方がある。

つまり、グラスに中身が半分入っているのか、そうじゃなくて半分空なのか?といった具合に二つの見方ができるのです。

あなたが、怒って苛立ちながら近づいてくる場合は、わたしは、あなたの怒りを反映して論争(=左脳)を始めるか、あるいは感情移入をして、同情的な気持ち(=右脳)で対応するかのどちらかを選びます。

ほとんどの人は、自分がどう反応するか、無意識のうちに選択していることに気づきません。

辺縁系の)プログラム済の反応に身をゆだねるのは楽なので、自動操縦にたよって快適なペースで生活しがちなのです。

辺縁系の中で起きていることに大脳皮質の細胞が注意を向ければ向けるほど、考えたり、感じたりすることに口出しができるようになります。

自動回路が行っている選択に注意を払うことによって、自分で手綱を握り、意識的な選択を増やすことができます。

長期的に、自分の人生全般に責任を負うのです。

このごろわたしは多くの時間を使って、「考えること」について考えています。

その理由は、脳の素晴らしさがわかってきたから、ソクラテスが述べているように「考察のない人生は、生きる価値がありません」。

自分に苦痛を与えるような思考を巡らす必要なんかないんだと気づいたことが、一番元気をくれました。

もちろん、苦痛を与える思考を巡らすことは、自分でその回路を選んだと承知しているかぎり、悪いことじゃありません。

それと同時に、そうした思考に飽きてきたら意識的に止められる、という能力を持っているんだと知ることが、解放感につながるのです。

肉体や精神の環境がどうであれ、右脳の領域に踏み込んで、思考を現在の瞬間に引き戻し、平和と愛の心(右脳マインド)に戻れることを知っていれば、束縛から解放されます。

わたしはいつも、個人的判断を避けるという右脳マインドの目を通して、周囲の状況を観察しています。

そして、内なる喜びを大事にして、感情的な重荷を負わせる傾向からなるべく離れるようにしています。

精神生活にとって何がプラスの影響を与えて何がマイナスの影響を及ぼすかは、自分自身で決める。

最近のことですが、わたしはお気に入りのジンジャー・カリーのCDをかけて「心の底から嬉しいの!」と、熱唱しながら、車で道路を飛ばしていました。

が、無念!スピード違反で、車を道路の片側に寄せるはめになったのです。

(どうやら、ハンドルを手にして熱狂しすぎたようです!)。

違反切符をもらってから最低100回は、こんなことで気落ちするものですかと心に言い聞かせました。

ちっぽけなマイナスの囁きが、しつこく頭をもたげては、わたしを落ち込ませようとするからです。

その囁きは、悪夢のドラマを心の中でくりかえし再現させ、あらゆる角度から考え抜くように仕向けました。

でも、いくら考えたって結果は同じなのです。

ぶっちゃけた話、左脳の物語作家がくれる、こんな強迫観念なんて時間の無駄だし、感情面で人を消耗させるだけ。

わたしは脳卒中のおかげで、自分で手綱を握って、意識的に自分自身を現在に引き戻すことにより、過去の出来事を考えるのを止められると学んだのです。

とはいえ、わたしが流体ではなく一つの固体として、つまりあなたとは別の、自我の中枢として、あえて世界へ踏み込もうとすることがあります。

単に純粋な満足を追求するために、わたしの左脳の中身と態度を、あなたの左脳の中身と態度に「ぶつけて」、言い争ったり、熱のこもった議論をする場合もあります。

でも、からだのなかで攻撃的な感情を感じるのは好きじゃありません。

ですからわたしは、たいていの場合、敵意のある対決を避け、共感を選ぶようにしています。

「あらゆることを完璧にこなすためのマニュアル」を抱えてこの世界に生まれてきた人なんて、いやしない。

そう考えれば気が楽になり、他人に優しくすることが容易になります。

わたしたちは、つまるところ、生物学と環境の産物にすぎません。

痛みをともなう感情的な重荷を背負い続けるよう、生物学的にプログラムされていることがわかっているから、わたしは他人に同情することを選びます。

まちがいはつねに起きるものですが、だからいって、自分を責めたり、あなたの行動や誤りをたしなめる必要があるわけじゃない。

あなたのことはあなたの問題であり、わたしのことはわたしの問題。

それでもあなたもわたしも、深い内なる安らぎを感じ、そして優しさを共有することができるのです。

つねに、他人を許し、そして自分を許すことができるのです。

この瞬間を完全な瞬間として見ることが、つねに可能なのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

私たちは、多くの時間を、左脳の働きに占領され、それを「自分自身」だと思い込んで(マインド(自我)の働きの結果である感情や思考に囚われて)、

自分や他人を判断し、卑下したり、落ち込んだり、腹を立てたり、責めたり。。ということを繰り返して、自分をエネルギー的に消耗させています。

 

このマインドの正体を見抜き、そこから解放されることは、私たちが、自分の本性(本質)である純粋意識(純粋エネルギー)である源に戻って行くためには、必要不可欠であると感じています。

 

行動、思考、感覚の主体である「わたし」という意識は、脳のニューロンの回路が生み出しているある種の「錯覚」と言えます。

 

ジル・ボルト・テイラー博士も、「奇跡の脳」で書かれているように、

「わたしたち(個人だと思っている「わたし」という存在)は、つまるところ、生物学と環境の産物にすぎません。」ということなのですが、

この辺のところは、自我にとっては、非常に理解し(納得し)難いところでもあるので、直ぐに理解できないのは、一般的な反応であり、当然かと思いますが、

「ただひとつ」に戻るためには、「個」を超えていく必要がある、ということは、明らかであり、

自我(=わたし)にとっては、受け入れ難いことかもしれませんが、古今東西の多くの聖人の方々のお言葉からも、「それ以外に道はない」ということは、明白なのです。

 

自我にとっては、「自分」という存在の消滅は、恐怖ですし、受け入れ難いことですが、

その「恐怖」という感情でさえも脳内に生じている「想い」(感情)であって、それは、単なる未知なるモノに対して湧きおこる脳の自動反応と捉えることができ、

ジル・ボルト・テイラー博士も、書かれているように、すべての感情は、左脳の働きにしか過ぎません。

 

「個」の消滅は、すべてが無くなることではなく、

「わたし」という「個」であるという脳の錯覚(幻想)だけが消滅し、本来の姿、本質に戻る、ということを意味しているのですから、何も怖いことは無いのです。

 

私たちは、本来は、生死を超えた「永遠なる実在」(ただひとつ)なのですが、自我が邪魔して、そうであることを認めません。

 

消滅するのは、「わたし」(個)という幻想だけで、「それ」に戻るだけ、なのですが、

自我(左脳)は、生まれてからこれまでの間の過去に経験したことのない経験を受け入ることができないので、脳(心)の中に、恐怖心を作り出します。

 

我、「それ」なり。

 

「個」というのは、幻想であって、私たちは、最初から「それ」なのです。

 

 

 

『選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く  スワミ・ラーマ)

 

 

 ※『聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ著

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プリターの息子よ 心を他に外らすことなく

専心にわたしの憶念する者は 

その常なる信愛行(バクティ・ヨーガ)の功徳によって

やすやすと わたしのもとに来る

 

わたしの所に来た偉大な魂(マハートマ)たちは

決して再びこの地上に

苦悩と悲惨に満ちた物質界に戻らない

彼らは生命として最高の完成に達したからだ

(バガヴァッド・ギーター第8章14ー15)