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永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

神を見る人の性質(グナ)について

人間の真の本性でありアートマン(真我)は、体験を通して悟って行くことでしか、知ることはできない、と書いてきました。

 

しかし、これは、望めば叶うという類のことではないため、真我体得し得た人々は、これまでも少数でしたし、これからもそれは変わらないでしょう。

厳しく聞こえるかもしれませんが、これは認めざるを得ない事実です。

 

ナーナさんという神の恩寵が形となって現われていても、それを信じられないという反応の方が一般的であるならば、

この世の仕組みも、生と死の秘密もわからず、実在と非実在の違いも理解できず、アートマン(真我)、神に出会っていくことも不可能でしょう。

 

昔からインドでは、神を覚って行けるかどうかは、人の生まれつきの性質(グナ)に依る、と言われています。

 

人間には、3つの性質(グナ)があるとされていますが、

今回は、この3つの性質(グナ)について、聖ラーマクリシュナが、非常に分かり易い例えで解説して下さっていますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

聖ラーマクリシュナ

「それはそうと、自己中心性や我執高慢は智識から生じるものか、それとも無智から生じるものか、どっちだと思うね?

我執ははタマス性で無智から出てくるものなんだよ。

この我執というじゃまがあるから、神が見えないのさ。

”ワタシが死んだら、悩みはすべてなくなる”のさ。

我執は無益だ。

この体、この富や権力、どれほども続きはしないよ。

一人の酔っ払いがドゥルガーの神像を見ていた。

お像のいろんな飾りを見てこう言った。

『マー、どんなにきれいに飾っても、二日三日したら、あんたはガンジス河に投げ込まれるんだよ(ドゥルガー祭のときには、美しく飾った大きなドゥルガー女神の張りボテを作って祀り、祭が終わるとガンジス河に浸す)』

だから、いつも皆に言うんだ。

裁判官サマだろうと何サマだろうと、みんな二日ばかりの命だと。

だから、身勝手なことや我執高慢を捨てろと」

 

「サットヴァ(善性優位)、ラジャス(活動優位)、タマス(暗性優位)の三性(トリ・グナ)は異なった性質だ。

タマス性の人の特徴は我がまま、眠り好き、大食、色情、怒り。

ラジャス性の人は多くの仕事に自分をまきこむ。

着るもの、履くもの、すべてきれいでキチンとしているし、家は隅から隅まで掃除が行きとどいているし、応接間にはヴィクトリア女王肖像画がかけてあるし、神様に関係のある行事のときは絹織物の衣装を着て、首にじゅず菩提樹の数珠をかけーー数珠玉のところどころに純金の玉が入れてあるんだ。

もし誰か知人が参拝にくれば、最初から終わりまでいっしょについて歩いて寺院のことを説明し、『こちらへおいで下さい、まだございますよ。

白い石の大理石の床もありますし、精巧な彫刻を施した舞堂もあります』

寄付をするときは、なるたけ人に知られるようにする。

サットヴァ性の人はとてもおだやかで落ち着いている。

着るものはどんなものでもいい。

質素な食べもので、腹を満たすだけ稼ぐ。

人にへつらってまで金を手に入れようとはしない。

家の手入れもろくにせず、子供の服装の心配もしない。

名声や評判なども気にかけないし、神のことを考えたり慈善をしたりする場合も、人知れずこっそりするし、蚊帳の中で瞑想したりするから、ほかの人はそれと気付かない。

サットヴァ性がハシゴの最後の段だ。

そのすぐ上が屋根。

サットヴァ性が出てきたら、神をつかむのはそう遠くない。--もうちょっと進めば、あの御方のところだ。

ごらん、それぞれが生まれつき大そう異なった性質をもっているんだよ!

 

それに、まだ他にもいろいろな種類があるんだよ。

永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂ーーというふうに、この世にいる人にはいろんな段階があるんだ。

”永遠の魂”は、大きな汽船のようなものさ。

自分もむろん向こう岸へ渡るが、そのほか大勢の人や動物、象までも乗せて渡れる。

永遠の魂は管財人と同じで、一つの土地財産を始末すると、また別のものを整理しに行く。

それから、”解脱しようと努力している魂”があって、彼らは世間の網から逃れ出ようと命がけで努力している。

その中で一人か二人が首尾よく抜け出せるのだが、それが”解脱した魂”だ。

”永遠の魂”は利口な魚のようなもので、最初から決して網にかからない。

 

しかし、縛られた魂ーー世間一般の普通の人ーーあの連中は正気じゃないんだよ。

網にかかって身動きが出来ないほどなのに、まるでそれに気が付かないのさ。

神の話をしている場所にでくわすと、すぐ立ち去って行く。

神の名なんぞ死ぬときだけでたくさんだ、と言ってね。じゃ、その死ぬときはどうだ?

死の床に横たわって女房や息子たちにこんなことを言っているーー『どうしてランプに何本も芯を入れとくんだ?一本でたくさんだよ。油が無駄になるじゃないか』

そして、女房や子供たちのことを思って泣くーー『ハェ!おれが死んだら、これたちはどうなるんだろう!』それから、縛られた魂は悲しい苦しい経験を性懲りもなく繰り返す。

子供が死んで悲観にくれていたのに、また毎年のように子供をつくる。

娘の結婚のために破産するほどの目にあっても、また毎年のように子供をつくる。

そして言うことがこうだ--『だって仕様がないでしょう。こういう運命なんですもの』」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

このようなブログを興味を持って読まれている方々は、3つの性質(グナ)の内、サットヴァ性であると言えるかもしれません。

 

見神には、サットヴァ性であることは、不可欠です。

 

しかし、この性質(グナ)は、生まれつきのもので、後天的に変えることはできません。

 

ある意味では、永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂は、生まれたときから決まっている、と言えるでしょう。

 

そうとは言え、この変化が常である無常なる二元世界では、未来がどう変化するかは、誰にもわかりません。

 

解脱を望むのであれば、今生の「いまここ」で、そのための努力をすることは、まだ来ていない未来を変えることにつながります。

 

人間には、未来を変える力があるのです。

 

それは、これまでも何回も書いてきましたが、人間の本性は、本当は「神」なのですから、

「神」が「神」に還っていくことに、「神」の力が無限に働いたとしても、何も不思議ではありません。

 

このことを心の底から信じて、努力する人のみが、「人間」から「神」に還って行くことができる、と言えるでしょう。

 

 

 

 無恐怖 清らかな生活

霊的知識の養成 研究 慈善

自己抑制 供犠 経典・聖典の学習

性的清浄 簡素な生活

 

非暴力 正直 怒らぬこと

離欲 平静 他人の欠点を探さぬこと

口煩さく小言を言わぬこと 生物に思いやりをもつ

物事を熱望しない 柔和 謙遜 果断  

 

気力充満 寛容 不屈 清潔

羨望心や名誉欲がないことーー

アルジュナよ 以上のような高貴な性質は

神に向かう人々に属するものである

(バガヴァッド・ギーター第18章1-3)

 

 

 

アートマン(真我)への道は、永遠の至福への道

アートマン(真我)は、人間の真の本性である」と書きましたが、

そのことは、知識(頭)で理解するのではなく、体験を通して悟られなくては、真にわかったとは言えません。

 

”ミルクは、その話を聞くだけでは知ったことにならず、見ただけでもまだ十分ではなく、飲んで初めてミルクを知ったことになる”と聖ラーマクリシュナは語っています。

 

それでは、今回は、アートマン(真我)について語っている聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介させて頂きます。

アートマン(真我)こそが、人間の真の本性である、とヴェーダ聖典には書かれています。

 

先ずは、アートマン(真我)とは、どのようなモノか?について知らなくては、一般人が、それを見て、そして体験していく、というプロセスには発展しにくいでしょう。

 

 

聖ラーマクリシュナ

『チャイタニヤ様には三つの境地がおありだったーー

第一は外の境地ーーこのとき粗大なもの(粗大体)や微細なもの(微細体)に心が向いていた。

第二は半外半奥の境地ーーこのときは心は原因体に入って、その歓喜に浸っていた。

第三は深奥の境地ーーこのときは心は大原因に引き込まれていた。

ヴェーダンタの”五つの鞘”と、これはとてもよく一致するんだよ。

粗大体というのは物質鞘(食物鞘)と生命鞘(プラーナ鞘)にあたる。

微細体はつまり、精神鞘(意思鞘)と覚智鞘(理智鞘)にあたる。

原因体は歓喜鞘だ。

大原因は五鞘を超越している。

大原因に心が入ると、つまり三昧だ。

これはニルヴィカルパサマディ(三昧)とかジェダサマディ(三昧)と呼ばれている。

チャイタニヤ様は、”外の境地”のときは称名したり讃神歌をうたったりなすった。

”半外半奥の境地”のときは信者たちといっしょに踊りなすった。

”深奥の境地”のときは三昧にお入りになった」

 

アートマン(真我)は肉体ではないという証拠は何でございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「しょうこ?

神は見えるんだよ。

修行をすれば、あの御方のお恵みによって見神できるんだ。

リシ(賢者)たちはアートマンを直視なすった。

サイエンスでは神の実体を知ることはできないよ。

あれはただ、コレのなかにアレを混ぜるとこういうものになる、アレとソレをいっしょにすればコレができる、というようなすべて感覚でとらえられることがわかるだけーー。

だから、科学を理解する知性だけでは、それ以上の問題を覚ることはできないんだ。

サドゥ(行者)と交わることだ。

医者について歩き廻っていると、いつの間にか脈の抑え方がわかってくる。

 

行が必要だよ。そうすりゃ本質がつかめる。

聖典の文章を暗記しても何にもならん。

シッディ、シッディ(お神酒)と口で言うだけじゃ酔いはしないだろ。

シッディを飲まなけりゃだめだ。

神を見る話を人に分からせることはできないよ。

五つの子供に、夫婦間の歓びの話を分からせることはできないだろう?」

 

「おっしゃる通りでございます。

・・・・ときに、真我発見は、どんな方法で出来るものでしょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「真我を見る方法は一心不乱になることだ。

見も心も言葉もいっしょになって、あの御方に届こうと努力することだよ。

胆汁が多くなると、黄疸にかかってあらゆるものが黄色に見える。

黄色以外はどんな色も見えなくなる。

お前たち役者のなかで女の役ばかりしている者は、女のような性質になるものだよ。

女の子ことばかり考えていると、気持ちの態度も女のようになる。

それと同じように、夜となく昼となくあの御方のことばかり考えていると、あの御方自身の性質が自分のものになるんだよ。

心をある色に染めると、そっくりその色になる。

心は洗濯屋にある衣類だ。

先ず心を清め、その次に神への思いに向けておく。

そうすりゃちゃんとその色になる」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

アートマン(真我)を探求していく道を辿る人は、極少数かもしれませんが、

ナーナさんが、今月30日に発売になる本『聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』の帯に寄せて頂きました

 

「この本を読み理解し実践することで、アートマン(真我) への長い旅を短縮することができます。

それは叡智への近道であり至福に満ちた道です。

アートマンは実在であり永遠の歓びです。

アートマンは、真の実在であり、永遠の至福なのです」

 

というお言葉を心に留め、共に、永遠の至福への道を歩んでまいりましょう。

 

 

 

スワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』は、3月30日発売です。

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

わたしが至上主であると知る者は

迷わぬ者であり 全てを知る者である

アルジュナよ 彼は全身全霊をもって

わたしを礼拝し わたしに仕えるのだ

(バガヴァッド・ギーター第15章19)

 

 

 

 

アートマン(真我)は、人間の真の本性である

これまで数回にわたり、古くインドに誕生したウパニシャッド聖典で説かれている「人間馬車説」と「人間五臓説」について、現代脳科学の知識も交えて解説してきましたが、

これらの記事を読んだ後で、3月17日の記事「ヨーガとは心の制御である」でご紹介したスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」から、心の四つの器官について書かれている文章をもう一度読んでいただけると、更にその記事の内容が、よく理解できることと思います。

 

アートマン(真我)という実在の源泉からプラグが、アハンカーラ(我執)という「わたし」「わたしの」という意識と記憶袋(チッタ)が詰まっている脳の司令塔に差し込まれると、エネルギーが流れ、「わたし」という体と心の司令塔は機能します。

そして、理智鞘にエネルギーが流れると、大脳皮質は、運動命令を下し、体が動きます。

意思鞘にエネルギーが供給されると、感覚器官が働き、五感を通して、この世をリアルなものとして体験します。

生気鞘にエネルギーが流れると、体全体が生気を帯びたものとなります。

肉体にエネルギーが届くと、細胞は死滅と再生を繰り返しながら、物質としての維持管理が行われ、生命が宿る器として機能します。

 

これが、大まかな私たち人間の人体構造図なのですが、アートマン(真我)あってこそ、個人の「わたし」が存在するのです。

 

この世を体験しているのは、10頭立ての馬車である「わたし」という人間ですが、

実は、それは見せかけであって、その最奥にあって「わたし」を在らしめているのは、アートマン(真我)なのです。

 

「わたし」という意識(感覚)であるアハンカーラ(我執)からは、アートマン(真我)は見えない(わからない)ため、

この世に存在し、この世を体験しているのは、「わたし」という一人の人間である、と「わたし」は思い込んでいます。

 

この人間の生まれた時からの思い込みは、人間という形をして生まれてきたため、人間は、人間の性質を生得しているので、自然なものなので、当たり前です。

しかし、人間として生まれ、人間として生き、人間として死ぬ、というのでは、

それは、これまで何回も繰り返されてきたように、これからも同じことが繰り返される、ということを示唆しています。

 

生と死を避けることができない人間は、この繰り返しを一つの束縛をみなし、それからの解放、自由を求めて、生と死の繰り返しから抜け出ること、所謂「解脱」が、魂の最終目的になったのです。

 

それでは、そのためには、どうしたら良いのか?という解決策へのヒントを、スワミ・ラーマからアドバイスして頂きましょう。

 

 

『あなたの中にはアートマンがいるという感覚でプロセスを始めなさい。

そうすれば、あなたはアートマンを感じるようになり、それはあなたの最良の友人であるということがわかるでしょう。

あなた自身と会話をしなさい。あなたの真の本性を思い出しなさい。

あなた自身と語り合いなさい。

そうすれば、外界において、或いは、他のどこかの場所においても、すべての友人の中で最も良い友人は、あなた自身であることを発見することでしょう。

外の世界や他人、状況への恐れは、消滅することでしょう。

そのとき、アートマンの存在が、次第にそれ自身を明らかにすることでしょう。
この会話は内省を必要とします。

自らの人生に興味を持っている親しい友人と一緒だと、あなたは彼らの感情に敏感になります。

あなたは彼らに耳を傾けます。

同じことがあなた自身との関係においても真実なのです。

あなた自身の感情と思考に注意を払い、詳しく調べなさい。

あなたが親友にするように、あなた自身に優しくしなさい。

あなた自身を非難、あるいは、すぐに厳しい判断をしてはいけません。

あなたはあなたの内側の自己を信頼し始め、あなたの内側の自己がいかに素晴らしいガイドであり、忠実で誠実な連れ合いであるかを理解することでしょう。
最後に、心を静かにすることが必要です。

最初の方で言ったように、マナスが訓練されず、エゴが制御されていないままだと、心は荒れ狂い、制御不能となります。

同時にチッタの内容は膨れ上がり、意識の中に表面化し続けます。

個人はこの混沌の奴隷となり、常軌を逸した感情と強力な願望の鎖で引っ張りまわされます。
この混乱は静められなくてはなりません。

静けさは瞑想で築くことができます。

人の体が静かで呼吸が静かで規則正しいなら、心は集中し始めることができます。

集中が保たれると、顕在意識はだんだんと静かになり、心の明晰さがより深くなっていきます。
この種の瞑想が達成されると、心をきれいにし、古い願望や思考、恐れの心を空にし、
完全にブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタを統合するという真の仕事が始まりま
す。

完全なる統合により、心は、純粋意識はあらゆるところに在り、君主であることを
理解します。

そのとき、心は、すべての力と権威は命の源である純粋意識から生じていることを理解するので、降伏します。

エゴは消滅し、死は打ち負かされます。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

物質と霊の本性を学んで

真理を徹見した人びとは

非実在は一時的に現象(あらわれ)ても持続せず

実在は永遠に存在することを知る

(バガヴァッド・ギーター第2章16)

 

 

人間五臓説と5つの鞘(層)

少し前の記事で、「人間馬車説」という”人間の構造図”についてご紹介しました。

この「人間馬車説」に似たもので「人間五臓説」というものがあります。

 

「人間馬車説」は、10頭の馬を5つの感覚器官(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)と5つの運動器官(手、足、舌、生殖器官、排泄器官)に見立てて、

馬と、馬を操縦するための手綱であるマナス(意思)と、御者であるブッディ(理智)という働きの違う二つの心理器官との三者の関係を解説したものですが、

「人間五臓説」は、これに似ていますので、関連して考えると分かり易いと言えます。

 

今回の記事の内容は、ヨーガの科学とも言えるものですが、それを現代医学の脳科学の分野で明らかになっている情報と照らし合わせて考えてみたいと思いますので、

いつもより、難しい内容になるかもしれませんが、

脳科学は、20世紀の終わりから21世紀にかけて発達した学問分野であり、ヨーガが誕生した何千年も前のインドにはなかったわけで、

そのために、人間の内部で起きている現象を、その当時にあった言葉で説明するしかなかったということもあり、非科学的な説明に思われるかもしれませんが、両者を比較して考えてみると、

ヨーガの科学で説かれていることと、現代の脳科学で明らかになっていることは、そのほとんどが一致しているということが、おわかり頂けるかと思います。

 

それでは、この「人間五臓説」とは、どんなものか?について、スワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」から、ご紹介いたします。

 

 

ヴェーダンタによると、人間は 5 つのコーシャという鞘(さや)から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

ここで述べられている物質的な鞘(食物鞘)とは、食べ物により成り立っている肉体のことであり、「人間馬車説」でいうところの10頭の馬(5つの感覚器官と5つの運動器官)になります。

 

そして、次の内側の鞘はプラーナ鞘(生気鞘)と呼ばれるもので、呼吸により運ばれる酸素により成り立っている鞘で、これは物質よりも微細な領域であり、現代の医学的な見方では、肉体よりも動きのある流動体であり、血液やリンパ液、間質液などの体液と考えられ、身体の中を流れる「気」である生体エネルギーを生んでいるモノの総称と考えられます。

 

肉体は、運動神経の命令により動きが生じますが、生体エネルギーは、運動神経とは無関係に、自律神経により制御されています。

そして、このプラーナ鞘(生気鞘)は、「人間馬車説」では、やはり10頭の馬に相当し、馬の息(生気)と考えると理解しやすいと思われます。

 

更にその内側は、心の鞘(意思鞘)で、これは、「人間馬車説」の馬につながっている手綱であるマナス(意思)であることは言うまでもありません。

現代生理学の観点から見ると、この「意思鞘」は、感覚神経、運動神経という、体の各部分から脳へ情報を運ぶ神経経路と、脳から情報を体の各部分へ運ぶ神経経路とそこを流れる電気信号、及び、その電気信号を感覚に変換する脳の働きを含む一連の流れと考えることができます。

 

そして、更にその奥には、理智鞘があり、これは「人間馬車説」で言うところの御者であるブッディ(理智=大脳(新)皮質)であることは明白でしょう。

手綱であるマナス(意思)を伝わって脳に到達した電気信号は、御者であるブッディ(理智)に情報を伝え、ブッディ(理智)は、その情報を判断し、適切な対応を下し、それを手綱であるマナス(意思)に伝えます。

これは、大脳生理学的に見ると、感覚の情報は電気信号となって脊髄を上昇し、視床を経由して大脳皮質の体性感覚野に到達し、電気信号は、適切な処理を経て、感覚に変換されます。

一方、御者(ブッディ)より発せられた運動指令は、運動神経という手綱(マナス)を通って、5頭の馬に伝達され、それにより体に動きが生じます。

この一連の流れは、大脳皮質の連合野にある”企画・立案”をする高次運動野から一次運動野に送られ、そして大脳基底核を経て、小脳により詳細なプログラミングが行われ、脳幹、脊髄を通って、筋肉へと伝達されます。

 

この感覚神経と運動神経を体性神経と呼びます。

これは、「人間馬車説」では、マナス(意思)とブッディ(理智)の二つの心理器官を指しますが、

「人間五臓説」では、脳内の働きの部分だけを「理智鞘」とし、脳外の働きの部分については「意思鞘」としていると理解することができます。

 

そして、脳内の働きに関係しているのが、脳内神経伝達物質と呼ばれている化学物質です。

これは、別名、脳内ホルモンとも呼ばれ、近年特に注目を浴びている化学物質ですが、

この神経伝達物質により、脳内の各部位は働きは活性化し、体にある内分泌腺からホルモンを分泌するよう促すホルモンを分泌することで、主に自律神経の働きに関与し、感情の発生や体を一定の状態に保つ恒常性(ホメオスタシス)の維持に関与しています。

 

最も内側の鞘は、歓喜鞘と呼ばれるもので、これは、「人間馬車説」のアートマンが座していらっしゃる客室になります。

この客室は、心素である「わたし」「わたしの」という我執(アハンカーラ)である自我意識と記憶の倉庫(チッタ)でもあります。

アートマンは、常に、エネルギーを「わたし」という心素(アハンカーラ)に送り続けて、「私が存在する」という自我意識を生み出しています。

そして、体験したことを記憶袋(チッタ)の中に蓄積していきます。この記憶袋は潜在意識とも呼ばれ、印象的な記憶は、潜在意識の層の中に蓄積されていき、「わたし」「わたしの」という意識と結びついて、必要な時に、記憶袋から引き出され、感情、思考、行動に影響を与え続けます。

この記憶を司っているのは、「海馬」という部位ですが、大脳新皮質と海馬と情動を司るとされている「扁桃体」は、共に共同して、視床下部を刺激して、情動行動を起こし、自律神経を刺激し、内分泌神経を刺激するなど体に大きな影響を与えます。

 

ここで注意したいのは、「人間馬車説」における客室には、アートマン(真我)が座していらっしゃいますが、そこは、「わたし」「わたしの」という自我意識と記憶袋という潜在意識があるところでもあります。

 

自我意識と潜在意識であるトータルな「わたし」とアートマン(真我)とが、一緒になっているというのが、「人間馬車説」ですが、

「人間五臓説」では、スワミ・ラーマは、『アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。』と書いています。

 

つまり、「わたし」という意識は、常にアートマンと共に在る、ということになりますが、両者は、交じり合うということではなく、別々に存在しているのですが、これが、「わたし」という自我意識を、真我であるアートマンと勘違いしてしまい、

アートマン(真我)は、歓喜鞘にエネルギーを送り込んで、すべての鞘を生かしている「わたし」という存在の真の所有者なのですが、

そしてまた、「人間馬車説」においては、10頭立ての馬車全体の真の持ち主であるのですが、

通常の私たち人間は、通常の方法、通常の感覚では、アートマン(真我)の存在を知覚することは不可能なため、

この体と心の所有者は、「わたし」であると、人間は思い込んでしまっている、という勘違いが起きている原因と考えられます。

 

これについては、理解することがなかなか難しいので、もう少し理解しやすい説明を考える必要があるかと思いますが、

このアートマン(真我)あってこそ、この体と心は存在しているのだ、ということを、念頭に入れておいて下さい。

 

今回は、かなり難解な内容になってしまいましたが、このヨーガの科学が指し示す「人体の構造図」「人体エネルギー構造図」について、次回では更に詳しく考えていきましょう。

 

 

 

 バラタの子孫よ そして このわたしが

全ての肉体の認識者であると知れ

肉体とその認識者について理解することが

真の知識であると わたしは考えている

(バガヴァッド・ギーター第13章3)

 

 

 

 

 

ヨーガの科学(ラージャ・ヨーガ)

ラージャ・ヨーガは、斉一性と再現性があるという点において、「科学」であると言うことができます。

 

つまり、同じことをすると、同じ結果が得られる、ということが、経験的に起こるということになります。

 

現代の日本では、ヨーガというと、アーサナ(坐法)である数々のポーズを思い出す人も多いかと思います。

一種の健康スポーツ、エクササイズのように考えている方も多いことでしょう。

 

しかし、古くインドでは、アーサナは、ラージャ・ヨーガのほんの一部であり、

ラージャ・ヨーガ全体は、全部で八段階あるとされ、現代では、アシュタンガ(八つの)・ヨーガとも呼ばれています。

 

このラージャ・ヨーガを実践することで、多くの人が、同一の結果を得たことから、

インドでは、究極の叡智に与るためのヨーガ(行)として、多くの修行者たちにより実践され、その信憑性が確かめられてきました。

 

もうすぐ発売になります「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の著者であるスワミ・ラーマも、

ラージャ・ヨーガを体系的に修め、ラージャ・ヨーガがもたらすと言われている同一の結果を手にしたヨーギー(ヨーガ行者)のお一人です。

 

ですから、師の元で真摯に実践し、己の身体と心を実験の場とみなし、たゆまぬ努力を重ねるならば、

多くの聖者と呼ばれる人びとが到達したと言われている究極の叡智に与ることは可能と言えるでしょう。

 

しかし残念なことに、ラージャ・ヨーガの八段階すべてを指導して下さる師(グル)は、現代の日本にはいらっしゃいませんし(一部のみならいらっしゃることでしょうが)、

また、八段階すべてを習熟するまで修行できる環境と時間を手に入れることは、現代の日本では、困難であると言わざるを得ません。

 

ナーナさんは、クンダリニーが覚醒する直前に、ラージャ・ヨーガを習い、ご自身でも積極的に毎日アーサナを完璧にこなされていたそうです。

しかし、それは、ラージャ・ヨーガ本来の目的のためではなく、弱ってしまった体を鍛えるために、実践されていたそうで、

その時は、ヨーガに八段階もあることは知らなかったそうで、そういう意味では、ラージャ・ヨーガを極めて、ラージャ・ヨーガにより究極の叡智に至ったということではないようですが、

それでも、ナーナさんが教えて下さろうとされているエッセンスそのものは、ラージャ・ヨーガのヨーギー達が語るのと同じ究極の叡智であり、

人を束縛から解放し、真の叡智に至らしめ、存在の源に辿り着くために人類に残された唯一の道と言えるのです。

 

ですから、ラージャ・ヨーガについて書こうとするなら、今までよりも慎重に、そして、客観的に解説する必要があります。

これは、一種の方法論ですが、この方法が正しく理解され実践されると、誰でも同じ結果を得ることができる、というものであり、

それにより、解脱への道が開かれる、というものだからです。

 

最終的に、このゴールに到ることを望んでいるのなら、道は厳しそうに見えますが、最後まで諦めてはいけません。

諦めて、歩みをストップしてしまったなら、そこでプロセスは沈滞してしまいます。

最後まで諦めずに、ゴールに向かって進もうとする心(意志)が、道を切り開いていくのです。

そういう人は極少数ですが、その極少数の人が、解脱への鍵(チャンス)を手にするのです。

 

それでは、ラージャ・ヨーガの概要を見ていきましょう。

 

『まず第一に、私が教えることには何の神秘もありません。

私が知っているわずかのことは全部、みなさんにおはなしましょう。

私に論証できるかぎりのことは、論証しましょう。

しかし私が知らないことは、ただ書物に書いてあることだけをおはなししましょう。

盲目的に信じるのはまちがいで

みなさんは、みなさん自身の理性と判断力をはたらかせなければなりません。

実践して、そのようなことがおこるかどうか、たしかめなければなりません。

他のすべての科学をとりあげる場合とまったくおなじ態度で、この科学をとりあげ研究なさるべきです。

そこには神秘もなければ危険もありません。

真理であるかぎり、それは街頭、白日のもとで説かれるべきです。

これらを神秘化しようとするこころみはすべて、大きな危険をもたらします。

 

話をさらにすすめる前に、サーンキャ哲学についてすこしばかりおはなししましょう。

ラージャ・ヨーガの全体が、それを根拠にしているのです。

サーンキャ哲学によると、知覚はつぎの通りに生まれます。

外の世界の対象の影響が、外部にある道具(目、耳など)によって、脳にあるそれぞれの中枢、すなわち器官にはこばれます。

器官はそれらの影響を心に、心は判断力にはこび、判断力から、プルシャ(魂)がそれらをうけ、そのときに知覚が生じるのです。

つぎに、プルシャはいわば、必要なことをせよという命令を運動神経の中心にあたえかえします。

プルシャ以外のこれらすべては物質ですが、心は外部の道具よりはるかに精妙な物質です。

心を形成している、その物質はまた、タンマートラスという精妙な要素をつくるのです。

これが、サーンキャの心理学です。

それゆえ知能と外部のより粗大な物質との間には、ただ程度のちがいがあるだけなのです。

プルシャが、物質ではない唯一のものです。

心は、いわば、魂の手中の道具であって、それによって魂は、外界の対象をとらえるのです。

心はたえず変化し動揺していて、完成されたときには、それ自身をいくつかの器官につけることも一つの器官につけることも、またはどれにもつけないでいることもできます。

たとえば、もし私が深い注意をこめて時計の音を聞くなら、私は多分、目はあいているのに何も見ず、心は聞く器官につながってはいたけれど見る器官にはつながっていなかった、ということを、示すでしょう。

しかし完成された心は、同時にすべての器官につながることができるのです。

それは、ふりかえって自分みずからの深みをのぞきこむ、内省の力をもっています。

この内省力が、ヨーギーが得たいと欲するものなのです。

心の力を集中し、それらを内にむけることによって、彼は内部でおこっていることを知ろうとします。

ここには、単なる信仰などということはあり得ません。

それは、ある哲学者たちがなしとげた分析なのです。

現代の生理学者たちは、目は視覚の器官ではない、器官は大脳の神経中枢に一つの中にある、他のすべての感覚の場合もそうである、と言います。

彼らはまた、これらの中枢は、脳それ自体とおなじ物質でつくられている、と言います。

サーンキャ派の人びともやはり、おなじことを言っています。

前者は肉体の側に立っての声明、後者は心理学に立脚しての声明ですが、両者はおなじです。

われわれの研究分野は、これをこえたものです。』

(ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

ラージャ・ヨーガのヨーギーたちは、自分自身の体と心を実験台にして、それらを客観的に分析し、何が内部で起こっているかを、自分自身で把握しようと修行します。

 

そして、それから得られた結果が、人間をはるかに超えた存在にまで至らしめることを、身を以って体験するのです。

この体験から得たものが、智慧として、この世に「宝」として提供されてきました。

 

その「宝」の一つであるのが、もうすぐ発売になりますインドが生んだ偉大なるヨーギーのお一人、スワミ・ラーマの最後の著書となります「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」です。

 

この本には、ヨーガのエッセンスであるヨーガの科学から得られた実証可能な真理が語られています。

 

真理に到る体験そのものではありませんが、その準備のために知っておくのに十分な内容となっています。

 

次回は、スワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」から、関連したヨーガの科学の智慧をご紹介いたします。

 

 

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八段階*のヨーガを登り始めた初心者は

行為すること(体による修行)が定法であり

すでにヨーガの頂上に達した人は

一切の行為を止めるのが定法である

*ラージャ・ヨーガのアシュタンガ(八段階)のこと

(バガヴァッド・ギーター第6章3)

 

 

 

ヨーガの叡智(シュリー・ヴィッディヤー)

前回の記事で、「経験(直接体験)を通してのみ、真理は悟られる」ということを、多くの聖者と呼ばれている人びとが、口を揃えておっしゃっている、とご紹介しました。

 

このことは、ナーナさんも、いつも仰っていることで、そのために活動されていることもお伝えしました。

 

解脱、もしくは、束縛から解放された自由な存在となるには、頭の理解(本などの情報から得た知識)だけでは達成は不可能で、体験が必要であることに、私たちは心の中では、薄々気付いています。

 

ですから、巷では、「一瞥体験」などという一瞬の体験をした人たちが、自称「覚者」を名乗って、セミナーや講演会を開催したりして、多くの人々の称賛を受け、中には有名になる人も出てくる、という一種の英雄扱いのような現象が起きてしまうのです。

ですから、彼らは勘違いをしているのですが、それは羨望する側の人間がいるからであって、この現象にも、需要と供給の原理が働いている、と見ることができます。

 

確かに一瞬であっても、真理を垣間見るという体験が、彼らにそのような行動を取らせる動機となっているわけですから、嘘を語っている訳ではありませんが、一瞬垣間見た風景は、神の領域の全風景とは断言できないでしょう。

一瞥とは、”ほんの一瞬垣間見た”という意味なのですから。

 

そして、それが実際に、彼らに起きたとしても、何故、どうして起きたのか?を全く把握していないので、再現することができない場合が多いのです。

 

ナーナさんにおいては、けっしてそのようなことありません。

彼女は、何故、どうしてソレが起きたのか?を、よくよく把握しており、再現することが可能で、よって、人にソレを起こさせることができるのです。

 

これは、一瞥体験をしただけの人には不可能ですが、彼女は、一瞥体験などではなく、完全に自己が消滅して、”ただひとつ”に帰入してしまい、そして、再びソコから戻って来て下さったので、どうしたらソコに到ることができるのか?を完全に理解しており、それ故、他人をソコに導くことができるのです。

 

もし、私がそのような体験をしていなければ、これらの言葉は無意味ですし、もっと厳しい見方をするなら、嘘、虚偽ということになり、何よりも自分を欺いていることになるでしょう。

 

しかし、こんな嘘を書いても、何にもならないことを知っているので、敢えて、時間を割いてまで、このような記事を書くことに、エネルギーを注ぐようなことはしないでしょう。

 

ナーナさんが、サットサンガ、及びシャクティパータで教えて下さろうとしているのは、インドでは、シュリー・ヴィッディヤーと呼ばれる、ヨーガの中でも、”最高の叡智”とされている科学的で客観的な事実を通して、究極の真理に到ろうとする道(ヨーガ)です。

 

このヨーガ(行)が示す智慧は、ヨーガにおける「人体」についての深い理解が必要です。

 

この理解があれば、ナーナさんがされているシャクティパータの重要性と有効性、そして、それが何を意味することなのか?ということが、直ぐに理解できることでしょう。

そうでなければ、「猫に小判」「豚に真珠」ということになります。

 

これまで、カルマ・ヨーガ(献身奉仕の道)、バクティ・ヨーガ(信愛の道)、そしてギャーナ・ヨーガ(智識の道)をご紹介してきましたが、

これからご紹介するのは、ラージャ・ヨーガと呼ばれる”ヨーガの科学”とも言うべき肉体と心という”自然”を通して得られる叡智に関するもので、非常に理解するのが難しいとされているものです。

 

ですから、ナーナさんが、何気なくされていることが、一般人には全く理解できないので、その価値も正当な評価がされず、「宝の持ち腐れ」になっています。

 

カルマ・ヨーガでも、バクティ・ヨーガでも、ましてやギャーナ・ヨーガでも、自力で究極のゴールに到達しようとすることは、現代の日本で暮らす一般人には、時間的にみても、不可能と言っても過言ではないでしょう。

(それは、教えて下さる師がいませんし、それらを学ぶ環境が整っていないからです)

 

神は、そのことをよくご存知なので、シャクティパータという恩寵の形で、私たちに救いの手を差し伸べて下さったのだと、考えることができます。

 

それでは、ラージャ・ヨーガが指し示す智慧と、シュリー・ヴィッディヤーの叡智について、聖ラーマクリシュナが簡単に説明して下さっているお言葉がありますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

『この人はいま、六つのチャクラの歌を唄ったね。

あれはヨーガの話なんだよ。

ハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガというのがある。

ハタ・ヨーギは体のあちこちを一生懸命鍛錬する。

その目的は超自然力を得たり、長生きをしたり、神通力を身につけたり--こういうことが目的なのだ。

ラージャ・ヨーガの目的は信仰、愛、智慧、離欲ーーラージャ・ヨーガはいいね。

 

ヴェーダーンタで言う七住地と、ヨーガスートラの六チャクラは大そうよく似ている。

ヴェーダの最初の三住地は、あっちのムラダーラ、スワディスターナ、マニプーラにあたる。

この三つの住地では、肛門と生殖器とへそが心の住地だ。

心が第四の住地に上がると、つまり、アナハタの蓮にとどくと、個霊に炎のようなものが見え、次に光が見えてくる。

修行者は、『何だろう!これは何だろう!』と言って驚く。

五番目の住地に心が上がると、ただもう神についての話ばかり聞きたくなる。

ここがヴィシュッダ・チャクラだ。

第六の住地とアジナー・チャクラは同じだ。

ここに心が上がると神様にお会いできる。

だが、ランタンの中の光のようなもので、触れることはできない。

間にガラスの幕があるからね。

ジャナカ王は第五の住地に心をおいて、そこからブラフマンの智慧を人に教えなすった。

あの方は、時には第五住地に住んでいらっしゃったり、時々、第六住地に上がっていらっしゃったりしていた。

六つのチャクラをたどって、最後が第七住地だ。

心がそこへ行くと心そのものが消えてしまう。

個霊と至高霊が一体となって三昧に入る。

肉体感覚はなくなるよ。

外界は消え去って虚空となる。

いろいろな智識はなくなって考えることもできなくなる。

トライランガ・スワミは言っている--「分別するから多くのものがあると感じ、様々な感じ方がある。

三昧に入れば、21日たつと肉体は滅する』と。

とにかく、クンダリニーが目覚めなければ霊意識は起こってこないんだ!」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんが、シャクティプラーナを使って明らかにして下さるのは、スシュムナー、ナディ、クンダリニー、チャクラ、などという、日本人には、いえ、ヨーガの知識のない世界の一般市民にとっても、聞き慣れない言葉で表現される「人体の構造図」です。

 

それが、ラージャ・ヨーガ、および、シュリー・ヴィッディヤーの叡智なのです。

 

この叡智について、微力ながら、体験を通してわかったことを、次回から少しずつ解説していきたいと思います。

 

 

 

魂にとっては誕生もなく死もなく

元初より存在して永遠に在りつづけ

肉体は殺され朽ち滅びるとも

かれは住在にして不壊不滅である

(バガヴァッド・ギーター第2章20)

 

 

真理は、経験を通してのみ悟られる

これまで三回にわたって「人間」について見てきました。

 

何故、「人間」について分析し、考察したか?というと、それは、「人間」について知ることが、「神」を知ることにつながるからです。

 

以前の記事で、「神」について詳しく分析し、考察しましたが、

「神」について奥の奥まで探っていくと、いつの間にか「人間」に行き着いてしまったことを思い出して下さい。

 

このことから、「神」と「人間」はどこかでつながっており、分離した別々の存在ではない、と考えられます。

 

つまり、「神」をとことんまで探求していくと「人間」に辿り着き、「人間」を徹底的に掘り下げて探求していくと「神」に行き着いてしまう、ということが起こるのです。

 

この両者が、どこかでつながっているのなら、「神」について考えることは、「人間」について考えることに他ならないと言えるでしょう。

 

それでは、これから、更に詳しく「人間」について、心だけでなく、肉体をも含めて分析し、理解していきたいと考えていますが、

その前に、何故、そのような手段をとらねばならないか?について、考えてみたいと思います。

 

『第一に、世界のさまざまの宗教のすべてを分析すると、みなさんはそれらが二組にわけられることを発見なさるでしょう。

書物を持つものと、それを持たないものとです。

書物を持つものはもっともつよく、信者の数ももっとも多いでしょう。

書物を持たないものはおおかたほろびてしまい、ごく少数のあたらしいものは、ごくわずかの信者しか持ってはいません。

しかし、それらすべての中に、われわれは一つの意見の一致を見いだします。

それらが教える真理は、特定の人びとの経験の結果だ、というものです。

キリスト教徒はみなさんに、彼の宗教を信じることを、キリストを信じ、彼を神の化身と信じることを、神を、魂を、そしてその魂のよりよき状態を信じることをもとめます。

もし私が理由をたずねるなら、彼は、自分はそれを信じる、と言います。

しかし、もしみなさんがキリスト教の源泉にまで行くなら、それは経験に立脚しているのだ、ということを見いだされるでしょう。

キリストは、彼は神を見る、と言いました。

弟子たちは、彼らは神を感じる、と言いました。

その他いろいろの例があります。

仏教においても同様、それはブッダの経験です。

彼は、ある真理を経験しました。

それらを見、それらに接し、世にそれらを説いたのです。

ヒンドゥたちの場合も同じです。

彼らの書物の中に、リシまたは賢者たちとか呼ばれているその著者たちは、自分たちはある真理を経験したと断言しています。

そして彼らはそれらを説いているのです。

このように、世界のすべての宗教は、すべてのわれわれの知識のあの普遍で堅固な土台--直接経験の上にきずかれているのだ、ということはあきらかです。

教師たちはすべて、神を見ました、彼らはすべて、彼らみずからの魂を見ました。

彼らは彼らの未来を見ました、彼らは彼らの永遠性を見ました、そして彼らが見たものを、彼らは説いたのです。

ただそこにはこのちがいがあります。

すなわちこれらの宗教の大部分によって、特に現代は、ひとつの奇妙な主張がなされているのです。

それは、これらの経験は現代の人びとには不可能だ、その名が宗教の名となっているような、宗教の創始者たちだけに可能なものだったのだ、と言うのです。

現代ではこのような経験はすたれてしまった、それだからいまはわれわれは、信念によって宗教をとらえなければならない、と言うのです。

これを私は全面的に否定します。

この世界の知識のどの特定の分野においてであれ、もし一つの経験があったのなら、その経験はまえに幾百万回もあったものにちがいないし、また永遠にくりかえされるはずである、というのは当然の結果です。

斉一性は自然の法則です。

ひとたびおこったことは、つねにおこるのです。

 

それですからヨーガの教師たちは、宗教は古代の経験にもとづいているだけでなく、人は彼自身がそれとおなじ知覚を得るまでは、宗教的であると呼ばれることはできない、と断言しています。

ヨーガは、どうしたらこれらの知覚が得られるか、をわれわれに教える科学です。

人はそれを感得するまでは、宗教をかたってもあまり役にはたちません。

なぜこんなに多くの混乱が、こんなに多くのたたかいやあらそいが、宗教の名のもとに存在するのか?

他の原因より神の御名のもとに、もっと多くの血がながされた、それは人びとが決して源泉まで行かなかったからです。

彼らは先祖たちの習慣にあたまの中で同意するだけで満足し、他の人びとに同じことをするようもとめました。

人がもし魂を感じないなら、自分はそれを持っているなどと言う、なんの権利がありましょう。

また彼が神を見ていないなら、彼は存在するなどと言う、なんの権利がありますか?

もし神がおられるなら、われわれは神を見なければなりません。

もし魂があるなら、われわれはそれを知覚しなければなりません。

そうでないなら、信じない方がましです。

偽善者であるよりは、率直な無神論者である方がよろしい。

一方で、「学識のある」現代人の考えは、宗教や形而上学をはじめとする、至高の存在を探求するすべての努力は無駄である、というもの、他方で、なま半可の教育をうけた人びとの考えは、このようなことに実際はなんの根拠もない、それらの唯一の価値は、それらが世間に善をなすためのつよい動機力をあたえているという事実だ、というようなもののようです。

もし人びとが神を信じるなら、彼らは善良になり道徳的になり、このような人びとがうけている教えはすべて、背後になんの実質もない、永遠の無意味な長談義を信じよということにすぎないのを見れば、このような考えをいだいているからとて彼らをせめるわけにはいかないでしょう。

彼らはことばをたべて生きよ、ともとめられているのです。

そんなことが彼らにできますか?

もしできたとしたら、私はまったく、人間性を尊重しないでしょう。

人は真理を欲します、自分で真理を経験することを欲します。

彼がそれを把握したとき、それをさとったとき、それを彼のハートの奥のおくで感じたとき、そのときにはじめて、すべてのうたがいはきえ、すべてのやみは消滅し、すべての不正は正されるであろう、とヴェーダは断言しています。

「おんみら、不死の子たち、最高の領域にすむ者たちも、道は見いだされたぞ。

このくらやみから完全に脱出する道がある。

それは、すべてのやみを超越している彼を、見いだすことである。

ほかには道はない」と。』

(ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

科学で法則と呼ばれているモノは、そのほとんどが、実証可能で、再現性があるモノに限られています。

 

一方、宗教的な分野、「神」や「霊魂」については、実証が不可能であり、再現性も不可能であるため、信じるか、信じないか、によって、人の考えは様々です。

 

ですから、ナーナさんも、ただ単に、私たちに”信じなさい”とは、けっして仰りません。

そのような言葉を発されたことはなく、ただただ、シャクティパータを通して、私たちが、無理なく、真理を覚れるように、御力を使って下さいます。

 

ナーナさんは、私たちが、経験を通して、自らの直接体験を通して、「神」を見い出すことができるよう、自分の真の本性である「魂」(真我)を見い出すことができるように、導いて下さっています。

 

その直接体験がどのようなものであるか?を、語ることはできません。

たとえ、他人の経験談を聞いても、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが仰っていらっしゃるように、

”真理を自分自身で見いだす”ことだけが、その人が”くらやみから脱出する”唯一の道なのですから、

他人の経験談、体験談を聞いても、ほとんど、その人の役には立ちません。

自分自身で真理を体得するのでなければ、神を見い出し、自分の本性を悟り、解脱への道を歩むことはできないのです。

 

ですから、私たちは、経験するために、それが自然と起こるように、自分自身でも準備をする必要があります。

 

ヨーガの実践、瞑想の実践、身体の清浄を保つための食べ物や接触するモノへの配慮、心の清浄を保つため、行為や感情、思考において利己心を慎むこと。。。など。

 

その上で、ナーナさんのシャクティパータを受けるならば、多くの恩寵に与ることができるでしょう。

 

何もやらないならば、今の状況は何も変わらないでしょう。

 

頭で理解するだけでなく、実際にやってみること、実践と実行こそが、ゴールに到る道を一歩一歩、自分の足で歩いていくことであり、

実践する人だけが、その道を自分の足で歩む人だけが、魂が目指す最終的なゴールに到達することができるのです。

 

 

『ヤマがナチケータに語ったように、アートマンについて聞くだけでは十分ではありま
せん。

アートマンは、到達され、理解され、経験によって知られなくてはなりません。
ヤマは、学ぶことだけでなく、知性を使うことでも、聖なる教えでも、アートマンに到
達するには十分でないことを説明しました。

アートマンに到達することは、選択と行動を必要とします。
それが、カタ・ウパニシャッドのメッセージであり、生と死の意味なのです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

 

真理を体得したい方、神の直接体験の恩寵に与りたい方は、こちらのナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

毎月、各地でサットサンガ(真我の集い)を開催しています。

 

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

 

アルジュナよ わたしは真我(たましい)として

一切生類の胸の内に住んでいる--また

わたしは万物万象の始めであり

中間であり そして終わりである

(バガヴァッド・ギーター第10章20)