永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(29)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

今回も、脳卒中により、左脳が働かなくなった脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士が、自らの体験を元に書かれた「奇跡の脳」より、

ひとつの脳でありながら、脳梁により接続されているとは言え、左脳と右脳のそれぞれの働きの違いを通して、両者は、別々の世界を体験している、という驚きの報告をご紹介しました。

 

左脳は、思考、感情を、右脳は、直観、感覚を役割分担しているということですが、通常は、私たち人間は、両方の脳が同時に機能しているのですが、

そうは言っても、人間社会においては、左脳優先であることが求められることが多いため、常に左脳が優先になっており、思考、判断、感情、などが、頭の中を占め、

右脳が感知している世界の情報をかき消してしまっていることが多いと考えられます。

 

また、今回ご紹介する内容の中に、ジル・ボルト・テイラー博士の体験とよく似た体験を実験により検証することで、実際に、脳のどの部位に変化があったのか?ということが明らかになっています。

 

それでは、続きをご紹介しましょう。

 

 

『回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした。

これはきわめて重要なことだと思っています。

なぜなら、右脳の個性の最も基本的な特色は、深い内なる安らぎと愛のこもった共感だからです。

内なる安らぎと共感の回路を動かせば動かすほど、より多くの平和と共感が世界に発信され、結果的により多くこの地球上に広がるでしょう。

脳のどちら側が、どんな種類の情報を処理しているかをハッキリさせることにより、個人としてだけでなく、人類の一員としてどのように考え、感じ、行動するかについて、より多くの選択ができるようになるはずです。

神経解剖学的な見地からは、左脳の言語中枢および方向定位連合野が機能しなくなったとき、わたしは右脳の意識のなかにある、深い内なる安らぎを体験することができたのです。

2001年以降は、アンドリュー・ニューバーグと故ユージーン・ダキリ両博士によって行われた研究が、わたしの脳の中でなにが起きているかを正確に理解する助けになりました。

ニューバーグとダキリはSPECT技術(単一光子放射断層撮影法といい、体内に注入した放射性同位体から出るガンマ線を利用して、脳やからだの輪切り映像を撮影する)を利用して、宗教的もしくはスピリチュアル(神秘)体験をもたらす神経構造を明らかにしました。

ニューバーグとダキリは、脳のどの領域が意識の変容をもたらし、個人の意識から離れて、宇宙と「ひとつ」であるという感じ(神、ニルヴァーナ、幸福感)を生み出すのか、知りたいと思ったのです。

チベットの僧侶とフランシスコ会の修道女が、SPECT装置の中で瞑想あるいは祈るために招かれました。

彼らは、瞑想のクライマックスに達するか神と一体になったと感じたときに、ひもを引くように指示されました。

こうした実験によって、脳の中の非常に特殊な領域で、神経学的な活動が変化することが明らかになりました。

まずはじめに、左脳の言語中枢の活動の減少が見られ、脳のおしゃべりが沈黙します。

次に、左脳の後部頭頂回にある方位定位連合野の活動の減少が見られました。

この部分は、その人の肉体の境界の判別に役立っています。

この領域が抑制されるか、感覚系からの信号の流入が減少すると、まわりの空間に対して、自分がどこから始まりどこで終わっているかを見失ってしまうのです。

 

こうした最近の研究のおかげで、左の言語中枢が沈黙してしまい、左の方向定位連合野への正常な感覚のインプットを防げられたとき、わたしに何が起きていたのかを、神経学的に説明することができます。

わたしの意識は、自分自身を固体として感じることをやめ、流体として認知する(宇宙とひとつになったと感じる)ようになったのです。

 

脳卒中により、わたしは内なる自分を発見しました。

ほんの少し、考え方や感じ方を変えるだけで、深い心の安らぎが得られることに気づいたのです。

安らぎを体験するといっても、人生がいつも歓喜に満ちあふれている、という意味ではありません。

あわただしい人生の、あたりまえの混乱の中にあっても、心の歓びに触れることができるという意味なのです。

多くの人にとっては「考える頭」と「思いやる心」のあいだの距離は、ときとして横切って進みます。

またある人は、絶望や怒りやみじめさに深くとらわれて、心の安らぎなんて別世界のものです。

左脳マインドを失った経験から、深い内なる安らぎは、右脳にある神経学上の回路から生じるものだと心の底から信じるようになりました。

この回路はいつでも機能しており、いつでもつなげることができます。

安らぎの感覚は、現在の瞬間に起こる何かです。

それは過去を反映したものや、未来を投影するものではありません。

内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに「いま、ここに」いる、という気になること。

どんなときに、深い心の安らぎのループが働いているのかに気づくことができれば、その回路に意識的につなげることが容易になります。

どんなときにこの回路が働いているのかわからず、悪戦苦闘している人もいるでしょう。

その唯一の理由は、他の思考に心が向かっているせいです。

これは、当然のことです。

なぜなら、西洋の社会は左脳の「する」(doing)機能を右脳の「ある」(being)機能よりずっと高く評価し、報酬を与えるものだから。

あなたが右脳マインドの意識に近づくのが難しいのは、あなたが成長するあいだに「こうしなさい」と教えられたことを、実にうまく学んできたからにほかなりません。

細胞たちのこれまでの成功を、褒めてあげてください。

そのうえで、わたしの仲の良い友人、カット・ドミンゴ博士が宣言しているように、「悟りは、学ぶことではなく、学んだことを忘れること」だと知りましょう。

 

内なる安らぎを体験するためにわたしが最初にするのは、自分がより大きな構造の一部であることを思い出すこと。

いいかえると、決して自分と切り離すことのできないエネルギーと分子の、永遠の流れの一部であることを思い出すこと。

自分が宇宙の流れの一部だと気づくことによって、わたしは生まれながらに安全だと感じ、地上の天国としての人生を体験できるのです。

自分を包み込む全体と一心同体なのですから、自分が脆いなんて感じるはずはありません。

左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。

右脳マインドは、わたしの存在の真髄は、永遠だと実感しています。

いずれ、わたしは自分をつくっている細胞を失い、三次元の世界を知覚する能力を失うかもしれませんが、このエネルギーはただ、幸せに満ちた穏やかな海に還ってゆくだけ。

このことに気づき、ここにいる間はずっと感謝し続けると同時に、命をつくってくれる細胞たちが満足した状態にあるよう、わたしは熱意をもって努力しています。

現在の瞬間に戻るためには、心を意識的にのんびりさせる必要があります。

それには、急ぐ必要はない、とまず決めることです。

左脳マインドが慌てふためいて、思いを巡らせ、熟考し、分析しているときでも、右脳マインドは、ゆっくりくつろいでいるのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

誰でも、同じような体験をすることはできないため、ここに書かれていることが本当か、どうかは、自ら検証することは不可能ですが、

60億人の中のたった一人ですが、このような稀なる体験をし、言語を取り戻して、私たち一般人に、このような貴重な体験談を伝えてくれたことは、「脳」という未知なる領域に踏み込む第一歩となると感じます。

 

私たちは、自分の脳を、このように客観的には見ることが(考えることが)できないため、ジル・ボルト・テイラー博士の体験談には、私たちが自分と言う存在を考える時に、多くの示唆を与えてくれるものと思います。

 

次回は、もう少し、詳しく、左脳と右脳の働きについて、見ていきましょう。

 

そうすることで、「いまここ」にありながら、今まで認識してきた世界と同時に、まるで違う別世界が展開していることに気づくことでしょう。

 

 

 

 

誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき

心で憶念している状態に必ず移るのだ

クンディーの息子よ これが自然の法則ーー

常に思っていることが死時に心に浮かぶ

 

故にアルジュナよ 常にわたしを想いながら

同時に君の義務である戦いを遂行せよ

心と知性(ブッディ)をわたしに固く結びつけておけば

疑いなく君はわたしのもとに来るだろう。

(バガヴァッド・ギーター第8章6ー7)

 

 

 

 

 

チャクラについて(28)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまで3回にわたり、第7チャクラのサハスラーラ・チャクラを理解するために、

脳卒中により左脳が働かなくなった脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士の体験談が書かれている「奇跡の脳」より、抜粋してご紹介しています。

 

私たちは、通常は、社会における他人とのコミュニケーションのために、言葉を使うことが多いため、左脳が優位であることが多いのですが、

その左脳が全く働かなくなった時、優位となった右脳が認知する世界は、通常の私たちが経験している世界とは別世界であるかのように記述されています。

 

今回もその続きを見ていきたいと思います。

 

 

『まったく予期していなかった脳の深部への旅のあと、からだの面でも、認識や感情や精神の面でも、完全に回復したことに感謝すると同時に驚いてもいます。

数年にわたって、左脳の特殊機能の回復はいろんな理由でとても厳しい状態でした。

左脳の神経学的なネットワークの機能を失ったとき、その機能だけでなく、適性の回路に関連した多様な人格的特徴も失ってしまいました。

過去にもっていた、感情的な反感やマイナス思考と解剖学的につながる機能細胞を回復させる段になり、わたしは思わずハッとしました。

基本的には、左脳の機能を取り戻したいと思っています。

でもそこには、今のわたしが右脳の観点から「こうなりたい」と考えている性格とは正反対の性格が、まるで左脳の遺灰から復活しようとばかり、待ちかまえていたのです。

神経解剖学や心理学の見地からは、わたしはまたとない魅惑的な数年間を過ごしたと言えるでしょう。

何度もくりかえし頭をよぎった疑問は、「回復したい記憶や能力と神経学的に結びついている、好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの?」ということでした。

たとえば自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなどに関係する細胞は回復させずに、(流体ではなく)固体のようで、宇宙全体とは切り離された「自己」を取り戻すことは可能なの?

あるいは、欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?

この世界のなかで自分の力を取り戻し、地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?

末っ子ゆえの不満を思い出さずに、ふたたび家族としてふるまえるかしら?

そして最も重要なことですが、左脳の個性を前にしても、新たに発見した「宇宙との一体感」を保ち続けることができるでしょうか?

知りたかったのは、左脳の機能を取り戻すために、せっかく見つけた右脳の意識、価値観、人格のどれくらいを犠牲にしなくてはいけないのか、という点でした。

宇宙との結びつきを失いたくなかったのです。

自分自身が周囲のすべてから切り離されたひとつの固体だなんて、感じたくなかった。

頭の回転ばかりが速くなって、真の自分に触れることを忘れてしまうのは嫌でした。

正直いって、涅槃(ニルヴァーナ)を諦めたくなかったのです。

周囲から「まとも」だと判定されるために、右脳の意識はどれだけの犠牲をはらうことになるのでしょう?

現代の神経科学者たちは、右脳と左脳の非対称性を、神経学の面からのみ説明するだけで満足しているように思われます。

左右の脳の構造に含まれる心理学的、人格的なちがいについては、ほとんど語られることがありません。

よくあるのは、右脳の個性が、話し言葉や順序だった思考をよく理解できない、という理由だけで笑いものにされ、メチャメチャにけなされること。

ジキル博士とハイド氏』の中でも、ハイド氏が象徴する右脳の個性は、制御不能で生まれつき凶暴な、卑しむべき無知な人格として描写されており、意識すら持っていないと非難され、いっそのこと右脳なんかないほうがいい!とすら言われています。

左脳はこれとは全く対照的に、言葉をあやつり、順序がわかり、方法を考え、理性があり、利口だと褒められ続け、意識の王座に君臨してきたのです。

脳卒中を体験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。

左脳が司る判断や分析といった特性が、わたしの人格を支配していたのです。

脳内出血によって、自己を決めていた左脳の言語中枢の細胞が失われたとき、左脳は右脳の細胞を抑制できなくなりました。

その結果、頭蓋の中に共存している二つの半球の独特な「キャラクター」のあいだに、はっきり線引きできるようになったのです。

神経学的な面においては、二つの脳は全然違う方法で認知したり、考えたりすることはありません。

しかしこの二つは、認知する情報の種類にもとづいて、非常に異なる価値判断を示し、その結果、かなり異なる人格を示すことになります。

脳卒中によってひらめいたこと。

それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。

右脳は世界に対して、平和、愛、歓び、そして同情をけなげに表現し続けているのです。

これはもちろん、わたしに解離性人格障害の傾向があるという意味ではありません。

解離性人格障害は、わたしが経験したものよりずっと複雑なものです。

これまでは、右と左の脳の性質を判別することは、不可能ではなくとも難しかったといえるでしょう。

その理由は単に、わたしたちが自分自身を、ひとつの意識をもった一人の人間だとかんじているからです。

しかし、ごくわずかな糸口があれば、自分自身は難しいにしても、両親や親しい人の中になら、よく似た二つの脳の性質を見つけるのは簡単だと思うのです。

あなたが、左右それぞれの「キャラクター」に合った大脳半球の住み処を見つけてやれば、左右の個性は尊重され、世界の中でどのように生きていきたいのか、もっと主張できるようになります。

わたしは、そのお手伝いをしたいだけ。

頭蓋の内側にいるのは「誰」なのかをハッキリと理解することによって、バランスのとれた脳が、人生の過ごし方の道しるべとなるのです。

わたしたちは、頭の中に正反対の性格を抱え込んで、いつも苦労しているようです。

実際、わたしが話をしたことがある人は誰でも、自分の個性に相反する部分があることに敏感でした。

多くの人が、頭(=左脳)があることをしなさい、と伝えてくる一方で、心(=右脳)が全く反対のことをしろ、と伝えてくると話しています。

中には、考えること(=左脳)に対する、からだの本能的な意識(=右脳)について話す人もいます。

ちっちゃな自我(エゴ)の心(=左脳)と大きな自我の心(=右脳)を比べたり、あるいは小さな自己(=左脳)とホンモノの自己(=右脳)について話す人も。

ある人は、仕事の心(=左脳)と休暇の心(=右脳)のあいだに一線を引いています。

またある人は、研究室に閉じこもる心(=左脳)に対して社交的な心(=右脳)を引き合いに出します。

そしてもちろん、男性的な心(=左脳)に対する女性的な心(=右脳)というのもあります。

陽(=左脳)は陰(=右脳)と対になります。

もしあなたがカール・ユングのファンなら、そこには思考型の心(=左脳)に対する直観型の心(=右脳)があり、感情型の心(=左脳)に対して感覚型の心(=右脳)があるはずです。

(思考型と感情型は判断を下すので、左脳的で、直感型と感覚型は右脳的とされる)

二つの相反する存在を説明するのにどんな言葉を使おうとも、これは解剖学的に、頭の中にある二つのきわめて独特な大脳半球に起因するのだと、わたしは、経験上信じています。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

これほど、左脳と右脳の働きが違う、ということは、両方の脳が同時に機能している通常の私たちには、想像できないことですが、

実際に、そのような稀なる体験をした人の報告は、私たちに多くの示唆や気づきを与えてくれるものと思います。

 

次回も、続きを見ていきたいと思います。

 

 

 

死の時が来て肉体を離れるとき

わたしだけを億念する者は誰でも

まっすぐにわたしの所に来る

ゆめゆめこのことを疑うな

(バガヴァッド・ギーター第8章5)

 

 

 

 

 

チャクラについて(27)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回、前々回と、ジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」よりご紹介していますが、

それまで働いていた脳の機能が停止したために、思いもよらぬ世界が展開されたのでした。

 

起きた現象を知ることで、私たちの脳がどのような感覚、意識、そしてそれらのプロセスを生み出しているのかを知る手掛かりになります。

 

ジル・ボルト・テイラー博士は、方向定位連合野という頭頂連合野が機能しなくなったために、前回ご紹介したような体験が起こるのですが、

頭頂連合野が機能しなくなると、空間認知の障害が起こり、物体間の距離、遠近、左右、上下の判断が困難となり、空間定位の障害や、歩きなれた街の道順が判らなくなる地誌的障害を起こすことが知られています。

 

ジル・ボルト・テイラー博士の体験は、「わたし」という個人として独立した存在であるという意識に、この頭頂葉の方向定位連合野が関与していることを示唆する興味深いものと言えます。

 

彼女の体験談の中に、その他にも多くの示唆的な現象が起きており、それは、私たちに、人間という存在を客観的に捉える別の視点を与えてくれることでしょう。

 

今回も、更に続きを見てみたいと思います。

 

 

『一日に何百万回も「かいふくするのよ」と意を新たにしなければなりませんでした。

挑戦するつもりはあるのか?

新しく発見した「エクスタシー」と形容できるほどの幸福と、一時的に別れを告げ、ふたたび外部の世界と向き合って、外部の世界を理解するつもりはあるか?

回復の苦しみに耐えるつもりはあるのか?

手術直後の情報処理のレベルでは、自分に苦痛を与えるものと快楽を与えるものとの違いが、ハッキリわかってきていました。

右脳の夢の国に出かけているときは魅惑的でステキなのですが、なんでも分析したがる左脳にかかわることは苦痛でした。

回復に向けて挑戦することは、よくよく考えた上で決めたことですが、有能で思いやりのある看護人に囲まれていることがとても大切でした。

独りだったら、正直言って面倒くさい努力なんてしなかったでしょう。

左脳が判断力を失っているあいだに見つけた、神のような喜びと安らぎと静けさに身を任せるのをやめて、回復への混沌とした道のりを選ぶためには、視点を「なぜ戻らなくちゃいけないの?」から、「どうやって、この静寂な場所にたどり着いたの?」へ帰る必要がありました。

この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。

涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

このことに気づいてから、わたしの回復により、他の人々の人生も大きく変わるにちがいないと考え、ワクワクしました。

他の人々とは、脳障害からの回復途中の人々だけでなく、脳を持っている人なら誰でも!という意味です。

幸福で平和な人々があふれる世界を想像しました。

そして、回復するために受けるであろう、どんな苦難にも耐えてみせよう、という気持ちでいっぱいになりました。

わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」(insight)は、こう言えるでしょう。

「頭の中ではほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。

そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」

 

わたしがすごく大切だと思ったのは、感情がからだにどのような影響を与えるか、ということ。

喜びというものは、からだの中の感覚だったのです。

平和も、からだの中の感覚でした。

新しい感情が引き起こされたのを感じる、興味深い体験をしました。

新しい感情がわたしを通って溢れ出し、わたしを解放するのを感じるんです。

こうした「感じる」体験に名称をつけるための新しい言葉を学ばなければなりませんでした。

そして最も注目すべきことは、「ある感じ」をつなぎ留めてからだの中に長く残しておくか、あるいはすぐに追い出してしまうかを選ぶ力をもっていることに、自分自身が気づいたこと。

何かを決めなきゃいけないときは、自分の中でどう感じたかを大切にしました。

怒りや苛立ちや恐怖といった不快な感情がからだの中に押し寄せたときには、不快な感じは嫌だから、そういった神経ループにつなぎたくないと伝える。

わたしは左脳を利用し、言語を通じて自分の脳に直接話しかけ、自分がしたいことをしたくないことを伝えられるようになったのです。

このことを知り、自分が決して以前のような性格に戻れないことに気づきました。

突然、自分がどう感じたいのか、どれくらい長く感じ続けていたいのか、前より口うるさくなったからです。

そして絶対に、過去の痛い感情の回路を復活させまいと心に決めました。

からだの中でどんなふうに感情を「感じる」のかに注意深くなると、完全なる回復の兆しが見えてきました。

自分の心が、脳の中で起きているすべてのことを分析するのを、8年かけて見守ってきました。

それぞれの新しい日々が、新しい挑戦と発見(insight)をもたらしてくれました。

古いファイルを回収すればするほど、むかしの感情のページが表面に現れ、その根底にある神経回路が好ましいかどうかを決める必要がありました。

感情の治療は遅々として進みませんでしたが、努力のしがいはありました。

左脳が回復するにつれ、自分の感情や環境を、他人や外部の出来事のせいにするほうが自然に思われてきました。

でも現実には、自分の脳以外には、誰もわたしに何かを感じさせる力など持っていないことを悟ったのです。

外界のいかなるものも、わたしの心の安らぎをとり去ることはできません。

それは自分次第なのです。

自分の人生に起こることを完全にコントロールすることはできないでしょう。

でも、自分の体験をどうとらえるかは、自分で決めるべきことなのです。

 

いろんな人から

「回復するのにどれくらいかかりましたか?」

と訊かれます。

わたしはいつも、月並みで申し訳ありませんが、

「何の回復ですか?」

と逆に質問することにしています。

もし回復を「古い脳内プログラムへのアクセス権の再取得」と定義するなら、わたしは一部しか回復していません。

どの感情的なプログラムを持ち続けたいのか、どんな感情的なプログラムは二度と動かしたくないのか(たとえば、短気、批判、不親切など)を決めるには、やきもきしました。

この世界で、どんな「わたし」とどのように過ごしたいかを選べるなんて、脳卒中は案てステキな贈り物をくれたのでしょう。

脳卒中の前は、自分なんて脳がつくりだした「結果」に過ぎず、どのように感じ、何を考えるかについては、ほとんど口出しできないんだと信じ込んでいました。

出血が起きてからは、心の目が開かれ、両耳の間で起きることについて、実際にはいろいろと選べることがわかってきました。

 

脳卒中から7年目、必要とする睡眠時間が11時間から9時間半に短縮されました。

それまでは夜の長い睡眠に加え、心地よい昼のうたた寝もしていたのですが、初めの7年の間に見ていた夢は、脳の中で起きていた奇妙な出来事を反映していました。

登場人物もストーリーも関係なく、脳はそれぞれ関係のないデータの小さな断片をスクロールしていたのです。

これは、脳が混乱した情報をつなぎ合わせて、ひとつの完全なイメージにまとめる状態を反映したものだと、わたしは推測しています。

夢で人々が登場する物語がはじまったことは、衝撃的でした。

初めの頃、そういう場面はバラバラで無意味なものばかり。

でも、7年目の終わりには、脳の中はひと晩じゅう騒がしくなり、目覚めの清々しさなんて感じないくらいでした。

そして8年をかけ、流体のように感じていたからだの感覚が、ようやく固体の感じに戻っていきました。

スラローム・ウォーター・スキーを定期的に始めました。

からだを限界まで使ったことが、脳とからだの結びつきを強化するのに役立ったようです。

からだの感覚が固体に戻ったのは嬉しいのですが、流体のように感じることが全くなくなってしまったのは残念。

わたしたちは宇宙とひとつなんだと思い出させてくれる能力を失ってしまったのです。』

(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー

 

 

言語野である左脳の機能が回復したことで、右脳だけが感知できる「流体の世界」は消滅してしまった、ということですが、

それは、「流体の世界」が幻である、ということではありません。

 

右脳は、エネルギーの世界をキャッチしているのですが、

それよりも左脳に入力される言語(観念)の処理の方に、エネルギーを集中しなくてはならないので、右脳が感知している世界の感覚が、かき消されてしまうということなのでしょう。

 

私たちの右脳は、いつでも、エネルギーが流れる世界を感知しているのですが、

私たちは、通常は左脳が優位なため、脳全体が、言葉(観念)の処理に追われてしまい、

常に、頭の中で、あーだこーだという声がループしている状態であることが多いように感じます。

 

この頭の中の(左脳の)雑音をシャットアウトすると、右脳の働きが鮮明になり、感覚が優位となってきて、エネルギーの流れを感じることができるようになります。

 

多くの宗教的な気づき、哲学的・形而上的気づきは、この静かな脳の中で起こります。

そのためには、左脳の言語野のニューロンへの入力により生じる脳の混乱を静めることが重要であり、それが、「瞑想」が推奨される理由と言えます。

 

あなたは、エネルギーを感じたことがありますか?

 

もし、一度も無いなら、それは、いつも左脳が優位であるということを指します。

 

言語(言葉)は観念であり、観念は思考を生み、思考は脳の産物です。

 

この世界、この宇宙、そのものではありません。

 

この世を「言葉」で理解しようとせず、ダイレクトに知覚することが、存在の本質に近づく第一歩と言えます。

 

 

 

 

物質自然(プラクルティ)は絶え間なく変化するが

物質 霊界 神界を含む大宇宙は至上主(わたし)の体である

そして各個体の心臓に宿る至上我(たましい)は

その至上主であるわたし自身なのだ

(バガヴァッド・ギーター第8章4)

 

 

チャクラについて(26)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回ご紹介しました、脳卒中により左脳を損傷した脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士の自らの体験記である「奇跡の脳」から、

右脳のみで知覚する世界が、私たちが通常経験しているのと同じ世界とは思えないような世界であることが記述されていましたが、

それは、同時に、左脳と右脳それぞれが経験している世界は、かなり異なっていることを証明するかのような報告でした。

 

左脳と右脳の役割分担に関しては、まだ現段階では、仮設の域を出ず、不明な点が多いようですが、

一般的には、それぞれの脳の役割分担は、左脳は、言語の運用、数的計算、右脳は、空間認知、非言語的概念構成とされています。

 

それでは、左脳の障害により、世界に対する認知(認識)がどのように変化したか?を見てみましょう。

 

 

『わたしの意識は覚醒していました。

そして、流れのなかにいるのを感じています。

目に見える世界の全てが、混ざり合っていました。

そしてエネルギーを放つ全ての粒々(ピクセル)と共に、わたしたちの全てが群れをなしてひとつになり、流れています。

ものともののあいだの境界線はわかりません。

なぜなら、あらゆるものが同じようなエネルギーを放射していたから。

それはおそらく、眼鏡を外したり目薬をさしたとき、まわりの輪郭がぼやける感じに似ているのではないでしょうか。

この精神状態では、三次元を知覚できません。

ものが近くにあるのか遠くにあるのかもわからない。

もし、誰かが戸口に立っていても、その人が動くまで、その存在を判別できないのです。

特定の粒々のかたまりが動くことに特別な注意を向けないとダメだったのです。

そのうえ、色は色として脳に伝わりません。

色が区別できないのです。

自分をひとつの固体として感じていた今朝までは、わたしは、死や傷害により肉体を失うことや、心痛による感情的な損失を感じることができていました。

しかし、変容してしまった認知力では、肉体t的な喪失も感情的な喪失も、受け止められなくなってしまったのです。

周囲から分離していること、固体であることを体験する能力が失われてしまったせいで、神経が傷を負っているのに、忘れ得ぬ平穏の感覚が、わたしという存在のすみずみにまで浸透しています。

そして、静けさを感じました。

存在する全てと結ばれている感覚は幸せなものでしたが、自分がもはや正常な人間でないということに、わたしは身震いしました。

わたしたちはそれぞれ、全く同じ全体の一部であり、わたしたちの内にある生命エネルギーは宇宙の力を含んでいる。

そんな高まった認知力を持ちながら、いったいどうやって、人類のひとりとして存在できるでしょう?

怖い物知らずにこの地球を歩くとき、どうして社会に適合できるでしょう?

わたしは誰の基準においても、もはや正常ではありませんでした。

この特殊な状態で、重い精神の病に罹っていたのです。

そして、外界の知覚と外界との関係が神経回路の産物であることがわかったとき、それは自由を意味すると同時に挑戦でもあったのです。

わたしの人生の長い歳月のあいだ、わたしというものが自分の想像の産物にすぎなかったなんて!

左脳の時計係が店じまいしたことで、生活の時間的なリズムはゆっくりになり、カタツムリのペースに変わりました。

時間の感覚が変わったので、周囲の蜂の巣のように騒がしい音と映像が、同期しなくなっています。

意識はタイムワープのなかへ漂っていき、その結果、慣れ親しんだ、まともなペースでの社会とのコミュニケーションや、社会の中で自分の役割を果たすことも、不可能になりました。

わたしは今や、世界の「あいだ」の世界に存在しているのです。

もう、自分の外界にいる人たちとかかわることはできません。

しかしそれでも、生命が消えることはありませんでした。

わたしはまわりの人たちにとって異邦人だっただけでなく、内側では、自分にとっても異邦人でした。

 

あなたは、起きたことすべてをわたしがまだ憶えているのはどうしてだろう、と不思議に思うでしょうか。

わたしは精神的には障害をかかえましたが、意識は失わなかったのです。

人間の意識は、同時に進行する多数のプログラムによってつくられています。

そして、それぞれのプログラムが、三次元の世界でものごとを知覚する能力に新しい拡がりを加えるのです。

わたしは自我の中枢と、自分自身をあなたとは違う存在として見る左脳の意識を失いましたが、右脳の意識と、からだをつくり上げている細胞の意識は保っていたのです。

瞬間ごとに、自分が誰でどこに住んでいるか、といったことを思い出させるプログラムは、すでに機能していませんでしたが、他のプログラムが注意を保たせ、瞬時の情報を処理し続けていました。

いつもは右脳より優勢なはずの左脳が働かないので、脳の他の部分が目覚めたのです。

これまで抑制されていたプログラムは今や自由に機能し、それによって、知覚についての自分のこれまでの解釈に、もはや束縛されなくなりました。

左脳の意識と、自分の過去の性格から離れたことで、右脳の性格が新しく目覚め、表に現れてきたのです。

 

ここで、あなたの本来の能力が、(意識があるのに)系統的にむしり取られていくのがどんな感じがするものか、想像してみましょうよ。

まず第一に、耳を通って入ってくる音を理解する能力を失うと想像しましょう。

耳が聞こえないわけではありません。

あなたはただ、あらゆる音を無秩序な雑音として聞いてしまうのです。

第二に、目の前にあるなにかの物体の、もともとの形を見る能力がなくなると想像してみましょう。

目が見えないわけではありません。

単に、三次元的な拡がりを見ることができない、あるいは、色を識別できなくなるのです。

動いている物体の軌跡をたどったり、物体の間のハッキリした境界を判別する能力を失ってしまいます。

されに、これまでは何でもなかった匂いがとてもきつく感じられ、あなたは圧倒され、息をするのも辛くなります。

もはや、温度も振動も苦痛も、あるいはどこに手があって足があるのかすら知覚できなくなります。

あなたのエネルギーの存在は広がって、まわりのエネルギーと混ざり合います。

そして自分自身を、宇宙と同じように大きいと感じるのです。

自分が誰でどこに住んでいるかを思い出させる内側の小さい声も、聞こえなくなってゆきます。

あなたは、感情的な自分との古い記憶のつながりを失います。

そして、まさに今ここにある、豊かな瞬間に、心奪われてしまうのです。

あなたという生命力を含む全てのものが、純粋なエネルギーを放ちます。

子供のような好奇心で、あなたの心は舞い上がり、あなたの頭は、無上の幸福に充ちた海を泳ぐ、新しい方法を模索するのです。

そこで、自分に問いかけてみてください。

かっちりと決められた日常のくりかえしに戻ろうなんて、そんな気持ちになれると思う?』

(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー

 

 

言葉(観念)を通さずに、世界を感覚で捉えると、こんな感じになるのかもしれませんね。

今回ご紹介した中で、特に注目すべき内容は、「エネルギー」について触れていることです。

 

エネルギー。

 

エネルギーの世界に一歩踏み込むと、それまでの世界とは全く別の世界が開けることを、「奇跡の脳」は示唆しています。

 

これが、第7チャクラ「サハスラーラ・チャクラ」を理解する鍵です。

 

次回も、もう少し、「奇跡の脳」が体験した驚きの世界を見ていきましょう。

 

 

 

 

至上の御方よ ブラフマンとは何か

そして真我とはどんなものか

また カルマとは 物質現象とは

いわゆる神界とはどんな所か 説明して下さい

 

供犠を受ける主は我らの肉体の中の

どの部分にどのようにして住んでいるのか

信仰を持ち修行や供犠をしている者が死ぬ時

あなたはどのようにして会って下さるのですか?

 

ブラフマンは不壊不滅にして

永遠無限の実在ーー

宇宙に遍満する大霊である そして

万有を生み出す創造(生命)エネルギーをカルマという

(バガヴァッド・ギーター第8章1-3)

 

 

チャクラについて(25)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回まで何回にもわたり、第6チャクラが位置する「脳」について、最新の脳科学の研究成果より、数々の驚きの新事実をご紹介してきました。

 

今回から、肉体にあるとされているチャクラの最後の第7チャクラ「サハスラーラ・チャクラ」について理解を深めるために、興味深い本をご紹介したいと思います。

 

頭頂にある「サハスラーラ・チャクラ」は、”この世とあの世をつなぐ門である”と、スワミ・ラーマも著書「聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の中で書いていますが、

それではあまりに抽象的な表現であるため、私たち一般人には理解し難い部分があると感じます。

 

そこで、私たちの理解向上のためのヒントとして、これからご紹介するのは、再び脳科学の分野から、

ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」に書かれてある興味深い彼女自身の体験談です。

彼女は、37歳で脳卒中に倒れ、その後8年を経て「復活」。

左脳を損傷したために、言語野が働かなくなり、機能する右脳だけで生活する中で、それまで知覚していた世界からは想像もつかない驚きの体験をします。

 

その後、リハビリを重ねて、左脳の機能を回復させ、言語を取り戻した後、自らの体験を脳科学の視点から分析して発表し、

その内容は、世界に衝撃を与え、すぐに日本でも著書が紹介されたことから、すでにご存知の方もいらっしゃることでしょう。

 

それでは、左脳が機能しなくなると、どういうことが起きるのか?見ていきましょう。

 

 

脳卒中の最初の日を、ほろ苦さとともに憶えています。

左の方向定位連合野が正常に働かないために、肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。

魔法の壺から解放された、アラビアの精霊になったような感じ。

大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。

肉体の境界がなくなってしまったことで、肉体的な存在として経験できる最高の喜びよりなお快く、素晴らしい至福の時がおとずれました。

意識はさわやかな静寂の流れにあり、もう決して、この巨大な魂をこの小さい細胞のかたまりのなかに戻すことなどできはしないのだと、わたしにはハッキリわかっていました。

至福の時への逃避は、外側に広がる世界と交わるたびに感じる、悲嘆と荒廃の重苦しい感覚への、唯一の対抗手段でした。

わたしは、正常な情報処理からかけ離れた、遠い空間に存在しているのです。

これまでの「わたし」は、神経が壊れた世界では生き残れなかったのです。

以前の、ジル・ボルト・テイラー博士なる人物は、今朝死んだのだ、と感じていました。

でもそうすると、残された(left)のは誰?あるいは、大脳の左半球がだめになった今となれば、誰が正しい(right)の?というべきでしょうか。

言語中枢は、「わたしはジル・ボルト・テイラー博士。神経解剖学者です。

この住所に住んでいて、この電話番号でつながります」と語ってくれません。

だからわたしは、もう”彼女”でいる義務を感じないのです。

それは本当に奇妙な知覚のズレで、彼女の好き嫌いを思い出させる感情回路もないし、重要な判断の傾向について思い出させてくれる自我の中枢もないので、わたしはもう、彼女のようには考えられないのです。

実際、生物学的な損傷の大きさを考えれば、ふたたび彼女に戻るなんて、ありえないことだったのです。

頭のなかの新しい視点からは、ジル・ボルト・テイラー博士はあの日の朝に死んで、もはや存在しません。

彼女の人生ーー人間関係、成功や失敗ーーを知らないのだから、わたしはもう、むかしに彼女が決めたことや、自ら招いた制約に縛られる必要はないのです。

わたしは左脳の死、そして、かつてわたしだった女性の死をとても悲しみはしましたが、同時に、大きく救われた気がしていました。

あのジル・ボルト・テイラーは、膨大なエネルギーを要するたくさんの怒りと、一生涯にわたる感情的な重荷を背負いながら育ってきました。

彼女は、仕事と自己主張についてはあくまで情熱的で、ダイナミックな人生を送ることにこだわり続けた女性です。

ですが、好ましく、そして称賛にも値する個性であっても、今のわたしは彼女の心に根を張っていた敵対心を受け継いではいません。

わたしは、兄と彼の病についても忘れ、両親と、両親の離婚についても忘れ、仕事と、ストレスの多い人生のすべてを忘れていました。

そして、この記憶の喪失によって、安堵と歓びを感じたのです。

わたしは、せっせと多くの物事を「やる」ことに打ち込みながら、37年の生涯を費やしてきました。

でもこの特別な日に、単純にここに「いる」意味を学んだのです。

左脳とその言語中枢を失うとともに、瞬間を壊して、連続した短い時間につないでくれる脳内時計も失いました。

瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。

ですから、何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。

波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。

小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。

言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。

過去や未来に想像を巡らすことはできません。

なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。

わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。

それは、とっても美しい。

 

「自分であること」は変化しました。

周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。

ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。

もちろん、わたしは流れている!わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のかなで振動する原子と分子からできているわけですから。

言語中枢のなかにある自我の中枢は、自己(セルフ)を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。

つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。

左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。

今ではその堅苦しい回路から解放されて、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。

もう孤独ではなく、淋しくもない。

魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。

自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。

しかしわたしの場合は、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。

わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。

わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。

嚢なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。

しかし結局のところ、全ての粒子は、複雑なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。

あなたとわたしの全ての微塵(イオタ)を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原始的な物体とエネルギーでできている。

わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。

それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。

視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした。

(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

 

言語を司る左脳が機能しなくなっただけで、こんなにも知覚する世界が変わってしまうことに驚きますが、

次回も、ジル・ボルト・テイラー博士の体験した「世界」と「わたし」についての驚きの報告を、引き続き見ていきたいと思います。

 

 

 

物欲 肉欲をすべて放棄した人

諸々の欲望から解放された人

偽我なく 所有感をもたぬ人

このような人だけが真の平安を得る

 

これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道

ここに達すれば一切の迷妄(まよい)は消える

臨終の時においてすらここに到れば

必ずや無限光明の国に帰入する

(バガヴァッド・ギーター第2章71-72)

 

 

チャクラについて(24)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) リカ―ジョンの矛盾

何回にもわたって、脳科学の最新研究によって解明されてきた人間の脳の働きや「心」について、ご紹介してきました。

 

通常の常識では考えられないような新事実が次々と明らかにされていく中で、ひとつだけはっきりとしていることは、これまで人間がこうだとしてきたことが、どうもそうではないらしい、ということです。

 

”自分が意図するよりも数秒前に、すでに行動の準備がなされている”という事実は、これを物語っています。

つまり、「自分」が意図しなくても、行動は起きる、ということになりますから、

意図する「主体」としての自己は、一体、どこで何をしているのか?と不思議な気持ちになりますね。

 

この「主体」としての自己「わたし」が、行動、感情、思考の司令塔で、すべてをコントロールしている、と(わたしは)思っているのですから、脳科学が実験により検証した事実とは違っている、ということは、正に驚き以外の何ものでもないでしょう。

 

それでは、「わたし」とは一体、どんな存在なのでしょうか?

 

夜寝ている間は、「わたし」という意識はありません。

 

それは、脳が休息中であるため、と言われていますが、裏返して言うならば、「わたし」という意識は、脳が活動している間だけの意識ということになり、別の言葉では、「顕在意識」ということになります。

 

前回の記事では、「潜在意識」は心の表層に浮かび上がってこないので、私たちの表面上の意識「顕在意識」にはわからない、というような内容をご紹介しました。

 

そして、この潜在意識は、幼年期など、まだ記憶能力が発達していない段階での体験が、記憶の層の深いところに蓄積保存されることから、

普段は、私たち自分自身は気が付かないのですが、「わたし」という顕在意識の気づかないところで、行動、感情、思考に影響を与えている、ということでした。

 

最近の研究では、覚醒時においては、ノルアドレナリンセロトニンヒスタミンオレキシンメラトニン、などの神経伝達物質が、

『中脳橋被蓋から生じる複数の上行性経路と呼ばれている視床および大脳皮質に到達するまでのあいだのニューロンに投射され、

その途中にある視床下部や前脳基底部などの各レベルで付加的な入力が合流して増強され、

これらの経路はさまざまな状況において、それぞれが独自のパターンで活動することによって、

大脳皮質のニューロンの活動を適切に調整していると考えられる。:』ということがわかっているそうで、

これらの神経伝達物質が複雑に絡み合って、「目覚めている状態」「寝ている状態」「夢を見ている状態」という3つの意識状態を造り出していることがわかっています。

 

しかし、この「目覚めている状態」における脳の働き全体が、「わたし」という自我意識を造り出しているという構造を客観的に理解できても、

それがそのまま、「自己の不在」に結びつくわけではありません。

 

その理由は、池谷裕二さんが指摘されているように、「自分が自分を考える」という思考が、リカ―ジョンという入り子構造になっているからです。

 

その上、「自分」が「自分はいない」と言うことは、単純に考えても、矛盾している、ということは、明らかです。

 

このようなリカ―ジョンの矛盾について、池谷裕二さんの説明を見てみましょう。

 

 

『最後にリカ―ジョンについて、さらに深く考えてみようか。

リカ―ジョンという行為は、実は、危険なんだ。

なぜなら、リカ―ジョンは矛盾を生むからだ。

ラッセルのパラドックス」を知ってるかな?

ラッセルはイギリスの数学者かつ科学者だけど、なぜかノーベル文学賞までもらっているから、なんとも多彩な人だ。

このパラドックスはリカ―ジョンを許すと生じる。

高校生のときにこのパラドックスを知って、僕はびっくりしたんだ。

これを説明するために、カタログを例にとって考えてみようか。

カタログって「集合」だよね。

たとえば「靴のカタログ」だったら「靴の集合」だ。

世の中には、クルマのカタログ、文具類のカタログ、などいろいろある。

そこで、ある人が新しいタイプのカタログを考えついた。

世の中にはカタログが溢れてきたから、どんなカタログがあるのかすぐに調べられるように、全カタログを網羅した「カタログのカタログ」をつくろうと。

「カタログのカタログ」ということは、この「カタログのカタログ」には自分自身も載せないといけないよね。

だって、すべてのカタログを網羅しているわけだからね。

となると、「カタログのカタログ」は自分を自分の中に持つという入れ子構造になる。

リカ―ジョンだ。

そこで、別のある人が、さらに考えた。

世の中には2種類のカタログがあるのではないかと。

①「自分自身が載っていないカタログ」、つまり、靴とかクルマとか、そういった具体的なモノを扱ったカタログ。

そして、②「自分自身もそこに載っているカタログ」、つまりカタログのカタログ、の2種類だ。

だったら、①のタイプ、つまり自分自身が載っていないカタログだけを集めて、改めて、新しいタイプのカタログ③をつくりましょう、と。

こうして新たなカタログが完成した。

いいね?③「自分自身が載っていないカタログをすべて載せたカタログ」だ。

さて、ここで質問しよう。

この新型カタログには自分自身は載っているだろうか。

 

→ 自分自身が載っていないカタログを集めてきて。。。。

 

そう、いわゆる普通のカタログを、世の中からすべて集めてきてカタログをつくった。そのカタログの中には自分自身は載っているだろうか、という質問。

 

→ うーん。。。。

 

あはは、直感的にはどっち?

 

→ 載っていない・・・

 

そうだよね。

だって、自分自身が載っていないものだけを集めてきてつくったカタログだから、載ってないはずだよね。

つまり、「載ってない」。

載ってないすべてのものを集めてきたわけだね。

でも、もうこの仕掛けがわかったね。

一歩引いて考えると不思議だ。

載ってないカタログをすべて集めてきたカタログなんだから、もし、そこに自分自身が載っていなかったら、そのカタログ自身もそこに載っけなくてはならない。

だって、そういうものをすべて集めてきたんだもんね。

わかるよね。だから、実は、そのカタログ③のルール上、載せる必要があるの。

でも、もし載せてしまったら、今度は自分自身が載ってるんだから、定義上、そこに乗せてはいけないカタログになってしまうよね。

そのカタログ③は、自分自身が載っていないカタログを集めたカタログなんだから。

つまり、載せても載せなくても、どちらにしても矛盾してしまうんだ。

パラドックスだ。

何がいけなかったかというと、リカ―ジョンだね。

リカ―ジョンしたからマズいことになってしまったわけ。

リカ―ジョンをする集合体は必ず矛盾をはらんでしまう。

どこかで論理破綻が生じる。

ラッセルは、「リカ―ジョンの矛盾からは絶対に逃げられない」という認めたくない運命を、数学的に証明してしまった。

 

脳を使って脳を考えることは、その行為自体が矛盾を孕む。

リカ―ジョンというスパイラルの悪魔に、どうしようもなくハマってしまう。

脳を駆使して脳を解明するのは、まさに自己言及であって、ラッセルのパラドックスが避けられない。

僕ら脳科学者のやってることは、そんな必然的に矛盾をはらんだ行為だ。

だから、脳科学は絶対に答えに行き着けないことを運命づけられた学問なのかもしれない。

一歩外に出て眺めると、滑稽な茶番劇を演じているような、そういう部分が少なからずあるのではないかなと僕は思うんだ。

ということは、こんな逆説的な言い方もできるよね。

「脳」を扱う科学は、そのリカ―ジョンの性質上、もしかしたら、”ゴールがない”ものかもしれない。

だって脳を脳で考える学問だから、その論理構造上、そもそも「解けない謎」に挑んでいる可能性があるってわけ。』

(単純な脳、複雑な「わたし」 池谷裕二

 

 

謎だとして疑問に感じている「わたし」が、その謎を解く、というのも、一種のリカ―ジョン(入り子構造)と言えます。

 

自問自答が繰り返される、というリカ―ジョンのスパイラルに入り込んでしまわないためには、どうしたら良いでしょうか?

 

脳科学は、ミクロ的な視点で「わたし」、或いは、「人間」を考えるひとつの方法としては、多少なりとも役に立つでしょう。

 

次回からは、マクロ的な視点に戻り、リカ―ジョンのスパイラルに陥らないように、第7チャクラについて見ていきたいと思います。

 

 

 

無数の河川が流れ入っても

海は泰然として不動である

様々な欲望が次々に起こっても

追わず取りあわずにいる人は平安である

(バガヴァッド・ギーター第2章70)

 

 

チャクラについて(23)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 無意識の構造

前回は、脳における「リカ―ジョン」(再帰)という「自分で自分について考える」という一見矛盾した脳の構造について、ご紹介しました。

”自分の心や存在を不思議に思ってしまう、あるいは「自分探し」をしたくなってしまう僕らの妙な癖は、リカ―ジョンの反映だ。

リカ―ジョンができるから、心で心を考え、そのまた考えている心をさらに心で考え、というような入れ子構造が生まれる”とありましたが、

まさにこの構造は、スピリチュアルな探求においては、当たり前にように生じており、誰でも、このリカ―ジョンのスパイラル・ループに陥ってしまいがちです。

 

「人間とは何だろう?」「自分とは何だろう?」「わたしは誰か?」

などは、この典型的なものと言えるでしょう。

 

リカ―ジョンの中で、その答えを求めているのが、私たち人間なのでしょう。

 

古今東西多くの人々が、この問いに対する答えを求めて、探求をしてきました。

 

自問自答の世界を抜け出るには、明らかなのは、脳で考えないことです。

 

思考を使っていくら考えても、リカ―ジョンの無限のループに陥るだけと理解できれば、別の方法を探すしかありません。

 

今回は、まとめとして、これまで連続でご紹介してきました脳科学の最前線から見た「意識」と「無意識」について、ご紹介したいと思います。

 

 

『だれしも好き嫌いがあるよね。

好きな食べものとか好きな人のタイプとか、そういう自分の好き嫌いも、結構、無意識のうちにつくられたものなんだろうね。

かつて僕が研究で使っていた実験動物で「スンクス」という動物がいる。

スンクスはネズミみたいに見えるけれど、ネズミではない。

モグラの仲間で、ネズミとは違った能力を持っている。

たとえば、吐く。

嘔吐する能力がある。

ネズミやウサギは吐かないよね。

あるときこんな実験をやった。

スンクスに砂糖水だけをあげる。

ネズミも同じだけど、スンクスも甘いモノが好き。

だから、水と砂糖水を並べて置いておくと、砂糖水を好んで飲む。

そこで、意地悪をしてみたの。

飲んだ後に吐かせるんだ。

どうやって吐かせるかというと、ゆする。

ゆするって、たかるって意味じゃないんだよ。

 

→ ・・・・・(笑)

 

物理的に揺り動かすってことね。

すると乗り物酔いになって、一分くらいでゲロを吐くの。

砂糖水を飲んだら、その直後に揺らして吐かせるんだ。

すると、次回からスンクスは砂糖水を飲まなくなる。

僕らヒトも、カキにあたって吐いたことがあれば、カキを嫌いになったりするでしょう。

ヒトの場合は「カキを食したからあたった」という因果関係が意識に上がっているけれど、スンクスはどうなんだろう。

少なくともこの実験では、砂糖水を飲んだから吐いたわけではないよね。

でも、砂糖水と嘔吐が時間的に接近して起こると、次回から、砂糖水を避けてしまう。

そこには因果関係は要らない。

ヒトの心の形成もそんなものではないかな。

好き嫌いも、実は、無根拠なもの、あるいは誤解に基づいたものも結構あるだろうと思う。

ヒトで試した実験例もある。

赤ちゃんのそばに白ウサギのぬいぐるみを置く。

脳にはバイオフィリア(生き物が好き)という性質があって、赤ちゃんは白ウサギのぬいぐるみに好奇心を示して寄って行く。

そこで、白ウサギのぬいぐるみに触ったら、その瞬間に、背後でドラをドーンと鳴らす。

赤ちゃんは大きな音は嫌いなので、泣き出してしまう。

また白ウサギのぬいぐるみに触ろうとしたらドーン。

そんなことを何度も続ける。

やがて赤ちゃんはそのぬいぐるみが嫌いになって、もはや近寄ろうとしなくなる。

 

この実験で興味深いのは「汎化」だ。

汎化とは対照を拡張して一般化すること。

たとえば、この赤ちゃんの場合、ウサギのぬいぐるみだけが嫌いになるのではなくて、それに類似したものまで嫌いになってしまう。

実物の白ウサギも嫌いになってしまう。

それだけでなく、白いもの全般が嫌いになったりする。

白いネズミも嫌うし、白衣を着た看護婦さんも嫌いになるし、白髭のサンタクロースも嫌いになる。

そんなふうに汎化によって好き嫌いの「世界観」が形成される。

もしかしたら、この赤ちゃんは成長した後も、この実験のせいで白いものが嫌いなままかもしれない。

成長したあと、本人には好悪の理由はわからない。

もの心がつく前に条件づけされているからね。

そんな具合に、僕らの感情や嗜好は、知らず知らずのうちに、まったくあずかり知らぬ原因によって、すでに形成されちゃっている可能性がある。

逆に言えば、この無意識のプロセスをうまく解明できれば、君が今言ってくれたように、精神疾患やトラウマの治療に応用できるだろう。

じゃあ、次は。

 

→ 自分が行動したいと思うよりも先に、前頭葉で意志を準備しているということは、自分が考えているつもりでも、脳の内部の方から、作為的に「こうしろ」と言われている感じで、自分の思考がコントロールされているんじゃないか・・・。

自分の思考ってどこまで本当に自分が考えていることなのか、自分で行動していると思っていても、マイオネットにすぎないんじゃないか。。。。

 

うーん、そうだね。

僕の講義では「操られている」という点を強調した。

いや、もしかしたら強調しすぎてしまったかもしれない。

でも、よく考えてみるとわかるけれど、その操っている本体は、結局は、自分の脳にほかならない。

だから、別に操られているわけではなくて、やっぱり自分が行動しているんだね。

単に無意識にスタートしているだけだ、というふうに考えてみたらどうだろう。

少しは気持ちが楽になるかな?

 

→ 準備されているものに対して、自分の体は応じるだけだとすると、自分の完璧な意志と言えるのはどこまでで、自我はどこまで意識できるのか。

そうやって考えていくと、やっぱりこんがらがってきますね。

 

少なくとも言えるのは、僕らは自分が思っているほど自由ではないということだ。

自由だと勘違いしているだけ、という部分はかなりある。

でも、「自由」は感じるものであって、本当の意味で「自由」である必要はない。

だから、僕らは「自由意志」をすでに感じて生きているんだから、もうそれでいいではないか、それ以上僕らは何を欲するんだ、という言い方もできるね。

ただ、心に自然とわき起こる感情など、自由にならない部分もいっぱいあることは知っておいて損はないよね。

たとえば、ひどい嫌がらせをされたら、だれだってムッとくるでしょ。

自動的にね。

「僕には自由意志(あるいは自由否定)があるから、怒らない権利を行使しよう」なんてのは無理だよね。

ムッとしてしまう。

しかも、タチが悪いことに一度、怒ってしまうと、なかなか怒りはおさまらない。

「よし、3秒後には怒りを消そう」と念じても、すぐにはおさまらない。

そういうふうに感情は自由ではない。

よく「あのガキ、気にくわないから叱ってやったよ」なんてエラそうにいうオヤジがいるけれど、でも、それは勘違いだ。

自動的に怒りがわいてきて、その感情に従って𠮟っただけ。

でも、本人は教育してやったつもりになっている。

ただそれだけだよね(笑)。

こうした不自由は、もちろん悲しむべきことじゃない。

すべてを意識で制御していたら大変なことになる。

すぐに頭はいっぱいいっぱいになってしまう。

だって、箸をつかむだけでも何十という筋肉が精密に動いているわけでしょ。

一個一個の筋肉の動きまで、すべてを意識して計算していたら、たまったものじゃない。

無意識に任せた方が、はるかにラクではないかと思うわけ。

 

→ こじつけで自分の思考を歪めているんだったら、自分の考えというのも、自分がほんとに考えていることそのものじゃなくて、周りの状況に迫られて無理やりつくった結果として出てきたものなのか。。。

 

そうそう。

いいこと言うねえ。

結局は「主体性」とは一体何だろうということになってくる。

芸術における目新しさ、奇抜性、新奇性なんかもそう。

まったくの無から新しい作品をつくりあげるかというと、そんなことはない。

絵画だって、映画だって、音楽だって、詩だってそう。

本人が気づいているいないにかかわらず、やはり「借りもの」が多いでしょう。

イデアのコラージュ。

そういうことと関係ないかな。

 

→ 操られているマリオネットが、操っている無意識に作用することもできるわけですよね。

考え方を変えうるということは。

だから、必ずしも完全に操られているとは言い切れないんじゃないか。。。

 

→ 自分で自分を操っているということで、自分を操っているのも自分、操れているのも自分ってことなんじゃないの。。。

 

あはは、そうそう、そうやって、なんだか話がこんがらがってしまうね。

そういう心の作用が、無意識の世界で生じるている以上、そこで何が起こっているかは、正直、僕たち脳科学者にもつかみきれない部分が多い。

その辺の研究はこれから著しく進歩するはずだから、10年後に改めて講義をやったら、そのときには「こんなところまでわかったんだぞ!すごいね」と説明できるかもしれないね。

ただ、君らの後輩、未来の高校生にね(笑)。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

 

これまで脳科学者、池谷裕二さんの著書から、

スピリチュアル的な観点からも説かれてきたテーマについてご紹介してきましたが、

脳科学が明らかにした人間の「心」の構造を垣間見ただけでも、

最近、スピリチュアルな世界で何人かの人が語って、認知度が高まっている「ある世界観」と類似していることに驚きます。

 

それは、最近では、「ノン・デュアルティ(非二元)」と言われていますが、

古くは、インドのウパニシャッドで説かれた「アドヴァイタ(不二一元)」です。

(ただひとつがあるのみ。)

 

仏教でも、釈迦の教えのひとつに、「諸法無我」というものがありますが、

これは「すべてのものごとは我ならざるものである」という意味だそうで、

「主体」としての「わたし」、自由意志をもった「わたし」の不在を説いています。

 

このようなスピリチュアルな世界観と、最新の脳科学が明らかにしつつある私たち人間の脳の仕組みから考えられる数々の仮説とが、不思議と一致しているのも、興味深いことだと言えるでしょう。

 

アドヴァイタ(不二一元)を完全に理解することは、人間(の頭)にとっては、不可能と言えます。

それは、理解しようとしても、理解しようとする頭に、リカ―ジョンが起こるだけで、「ただひとつがあるのみ」というアドヴァイタは、頭(思考)で理解しようとしても、できないからです。

 

このリカ―ジョンの入り子構造を打破するには、頭を使って理解するのではなく、他の方法が必要であることは、言うまでもないでしょう。

 

この方法については、後日、ご紹介する予定です。

 

 

 

 

あらゆる生物が夜としているときは

物欲を捨てた賢者にとって昼である

あらゆる生物が昼としているときは

見真者にとっては夜である

(バガヴァッド・ギーター第2章69)