永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(70) クンダリニー⑥

前回まで5回に渡り、ご紹介しています「クンダリニー」ですが、前回の記事でご紹介したのは、私たちの体に潜在している生命エネルギー「クンダリニー」の源泉である「クンダ」についてでした。

 

通常、「クンダリニー」と呼ばれる生命エネルギーが、私たちの体の内部に潜在していることは、殆ど感知されていませんが、それ以上に、その生命エネルギー「クンダリニー」の源泉である「クンダ」については、知られておらず、前回の記事で初めて知ったと言う方も、いらっしゃることでしょう。

 

それは、「クンダ」について語っている人が、つまりは、「クンダ」を体験したことがある人が、殆どいないことを示唆しています。(クンダリニー覚醒者であっても、「クンダ」そのものを知らない(体験していない)人々も、中にはいることでしょう)

 

「クンダ」について知ることで、更に、「クンダリニー」とは、私たち人間にとって、どのような存在であるのか?また、どのような役割を果たすのか?などを知ることができ、それが、私たちが、今生で歩むことになっている探求の道を短縮してくれることでしょう。

 

つまり、人間が到達し得る”究極の真理”に辿り着く探求の道においては、「クンダリニー覚醒」は、その全行程における途中のプロセス(通過点)ではありますが、最終的な終着地(ゴール)ではない、ということなのです。

 

「クンダ」への突入が起きて初めて、人は、”何が実在で、何が非実在であるのか”、”自分という存在は、本当は、何であるのか?”など、一見哲学的な命題(テーマ)のような「存在」に対する”究極的な問い”への答えを見出すことが可能となり、”人間の永遠の探求の旅”は、その”究極の答え”を見出すことで、終結するでしょう。

 

何故なら、「クンダ」の中では、問いを発する「わたし」も、答えを見出そうとする「わたし」もいませんので、「探究」自体が、消滅してしまうからです。

 

現象的には、生命エネルギーの塊である「魂」は、「魂」の源泉である「クンダ」(無限の大海)に溶け去り、長い長い探求の旅は終わります。

 

ご参考のために、ナーナ先生の覚醒プロセスは、以下の通りです。

(ナーナ先生のブログ、Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜 から引用させて頂きました)

 

『2010年初旬、突然、クンダリニー覚醒する。

(根底からクンダリニーのエネルギー(体に内在する宇宙の根源エナジー)が上昇
し、全てのチャクラを通り頭頂を突き抜けた瞬間、”わたし”が消えて、全体と一つに
なる。)

このとき”真我”を識る。

その後も劇的な覚醒が深まる体験が続く。

2011年11月、意識と体が消えて”素”に戻る。(仏教でいう”解脱”する)

2012年12月、完全に”素”と一体になる。(”真我一体”となる)

現在は、ナーナより湧き出るエナジー、プラーナ(プラナーナ)により、

サットサンガ(真我の集い)で、多くの人を真我の目覚めへと誘っている。』 

 

ナーナ先生ご自身の記述から推察できることは、「クンダリニー覚醒」から「クンダ」への突入が起こるまでに要した時間は、約2年弱ということになり、このことから、ナーナ先生における覚醒プロセスは、短期間の間に、非常に速く進んだということになります。

それは、日々のヨーガのタパス的な修練によって導かれた結果と言えますが、日々努力をしながら、手探りで探究の道を進む人々からすれば、集中的なヨーガ修行によるエネルギーの浄化作用がもたらした、驚異的なプロセス進行と言えるでしょう。

 

ちなみに、「クンダリニー覚醒」後、36年後に、「クンダ」への突入が起こり、その時初めて、「至福の大海」へのダイブが起き、「神」(大いなるひとつ)との一体感が起きたのは、ひとえに、ナーナ先生を通して流れ出るプラナーナの(神)力のお陰であり、ナーナ先生には、心から感謝しております。

(ナーナ先生との出逢いは、ナーナ先生が「クンダ」に突入し、”真我一体”を体験されてから、殆ど時間が経っていない時期であり、公に活動を始められる前のナーナ先生と予想もしない形で、約10年前に偶発的に出会うという奇跡に与ることができたことは、その後の意識の変化、変容を考えますと、神の恩寵であり、その恩寵に与ることができたことを、心から神に感謝しております。)

 

以下でご紹介しますが、Oshoが”量子的飛躍”と表現した「クンダ」へのダイブは、一瞬にして起こりましたが、それは、既に過去に体験した「クンダリニー」の目覚めのような衝撃的な驚くような体験ではなく、また、Oshoが語っているように、「クンダリニー」の目覚め時に出現したサイキックな能力は発現しませんでした。

この二つの霊的な体験における違いを、Oshoは明確に解説していますが、「クンダリニー覚醒」に留まらず、その先の「クンダ」へのダイブを通して、人間が体験し得る「究極の真理」が明らかになることは、自らの体験を通して確信しています。

 

それほど熱心な探究者でもなかった人間でありながら、Oshoが語る”究極の真理”について、揺るぎようのない明確な理解が起こり、心底納得できるのも、人生で、何の前触れもなく、殆ど突然に起きた二つの霊的な体験があったからと言えます。

 

このブログに書かれていることは、自らの身に起きた体験を元に、そこから得た智慧を基盤としていますが、一般的には、理解し難い、難しい内容に感じるのが、一般的な反応と言えますので、まったく何が書かれているのか?具体的にわからなくても、人間として生きる上で、問題になることはないでしょう。

 

しかしながら、探求における最終ゴール「解脱」(完全なる解放)を目指すならば、ゴールに至る道が限られていることは、探究者には、明らかでしょう。

その道を探し出すのに、時間がかかり、その道を辿るにも、時間がかかることは、否定できませんが、少なくとも、このブログに目を通している、という事実は、紛れもなく、短縮の道を歩んでいることを示しています。

 

探求の道には、必ず、終着地(ゴール)があります。

 

その道を辿るプロセスにおいて、何らかの有益情報、サポートとなるような情報を、記事の中から汲み取って頂ければ、幸いです。

 

今回、ご紹介しますのは、前回の続き、Oshoの「奇跡の探究」からの一文です。

 

 

Osho

『この旅は、ふた通りの探究となる。

クンダリニー、その目覚めたエネルギーは、計り知れない可能性を持つ大いなる源泉が、あなたの内に隠されていることを教えてくれる。

太陽からの一条の光は、来たるべき無限の光への可能性を開く。

ひとつめの道は、体の持つ最大限の能力に気づかせてくれるクンダリニーの覚醒にある。

エネルギーの目覚めによって中枢に、体の内なる扉にたどり着き、いわゆる魂と呼ばれる不可視の一端へ、たやすく進めるようになる。

これははっきりと、理解する必要がある。

何をするにしろ、実際に行うのはエネルギーであり、ある開口部、あるいは中枢を通して行っているからだ。

たとえば耳はそういう開口部のひとつだが、それを通して私たちは聞く。

しかし耳が病気になれば、何も聞くことはできない。

耳へのエネルギーが防げられ、源泉に戻ってしまうためだ。

やがてエネルギーは、耳に向かおうとしなくなる。

というのも、それはあくまでも活動できる見込みのある場所へと動くからだ。

そしてエネルギーは、もはや耳には届かなくなる。

その逆もまた起こりうる。

もしも耳が聞こえなくなった人が指で聴きたいと強く望めば、指が聴き始めることもできる。

この地上には、耳以外の器官で聴く人々が存在している。

また、眼以外の器官で見る人々もいる。

 

さて、クンダリニーが目覚め上昇し始めると、いつものあなたの体にはない、まったく新しい扉を叩く。

並はずれた感覚により――クンダリニーのエネルギーで刺激されると、普通の感覚では知り得ない物事を知り始める。

正確に言えば、クンダリニーがあなたの内部にある感覚器官を打ち、目覚めさせ始めるのだ。

現在において、通常の目や耳や他の感覚器官が機能しているのは、クンダリニーのエネルギーによる。

だが外側の器官を機能させるのには、ごくわずかな量のクンダリニー・エネルギーしか必要ではない。

この量が少し増えるだけで、他の中枢を同じように活性化させるぐらいの余分なエネルギーが好きなだけ得られるだろう。

たとえばこの床に水を少し流せば、ごく細い水の筋ができ、その後を伝ってどんどんと水が流れて来るような水の筋の跡が残るだろう。

だが、もし流される水の量がどっと増えれば、新しい水の筋が、そこからたくさん分岐していく。

古い道筋そのままでは、すべてを受け入れられないからだ。

体のより深い感覚におけるクンダリニーの目覚めとは、あなたが得るあまりにも多くのエネルギーが古い通路に入りきれず、否応なく新しい道や新しい扉を探すことを意味する。

その結果、内側でたくさんの新しい微細な感覚が目覚め、活発になり、これらの超感覚的な中枢によって、テレパシーや千里眼を持つようになる。

通常の目や耳では見聞きできないものを見たり、聞いたりし始める。

普通の感覚とは一切関わりのない、ある物事を経験する。

まったく新しい感覚器官が、あなたの内で活性化し始める。

新たな感覚が強められることによって起こるもっとも深遠なことは、いわゆるアートマンあるいは魂と呼ばれている不可視の世界を知り始めることだ。

それは体の内に隠されており、もっとも微妙で知覚しがたい部分だ。

だがその修行は、まず体から始めなければならない。

 

これまで話したことはないが、もうひとつの道がある。

クンダリニーの目覚めのために一般化されていることを説明してきたが、クンダリニーはクンダ、つまり池全体のことではない。

これは個々に話さなければならないものだが、もうひとつ別の道がある。

世界でもごく少数の人しかこの道をとらなかったが、それは私たちがよく知っているクンダリニーを目覚めさせる道ではなく、クンダ自体の中に突入していくものだ。

それはエネルギーの一部を目覚めさせ、それを成長のために用いるようなものではなく、クンダつまりは原子のエネルギーの貯水池に、自分の意識をそっくりそのまま溶け込ませてしまうのだ。

その場合には、どんな新しい感覚も目覚めないばかりかいかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸する。

その場合人は直接、神あるいは至高なるものに遭遇し、それを体験する。

クンダリニーの目覚めを通じて起こる最初の体験は、魂のものだ。

それとともにあなたは、自分の魂が他の人の魂とは別個であることを知る。

クンダリニーの覚醒によって成就した人々は、普通、複数の魂の存在を信じる。

彼らは、この地上における存在と同じだけの魂があり、すべての人は別々の魂を持っていると言う。

だがクンダの中に直接投入した人々は、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もないと言う。

多くのものではなく、一なるものだけが存在すると言う。

なぜならクンダに身を没入することで、自分自身のクンダと溶け合うばかりでなく、すべてのクンダ、集合的な宇宙的なクンダと溶け合うからだ。

クンダはひとつだ。

それは個別の存在としての私のクンダであったり、あなたのクンダであったり、彼のクンダであったりするものではない。

同じひとつのものだ。

だからこそ、クンダのエネルギーは果てしなく無限なのだ。

あなたがどれほどたくさんのエネルギーを引き出そうとも、その中身は少しも減ることはない。

それは依然として、満ち満ちた完全なもののままだ。

自分が使うために際限なくエネルギーを引き出したところで、中身に変わりはない。

それは常に満ち溢れ、無尽蔵だ。

だが、そこから引き出したものを自分自身のものだと思いがちだ。

それは海から水を汲み上げ、それぞれ自分の小さな器に入れておくようなものだ。

そして自分の器の中身は、それぞれ他の人のものとは違っていると考える。

だがもし海全体と溶け合えば、その人は海はひとつだと言うだろう。

器はそれぞれに異なっていても、その水は同じ海の一部であり、やがて再びその根源へと還っていくものだと。

あなたはそれを、長い間海から切り離したままにしておくことはできない。

やがて器の水は太陽の熱のもとで蒸発し、雲になり、雨となって海へと戻って行く。

実際には、水がその根源から切り離されることはない。

それはありえない。

クンダリニーの目覚めを通して修行する探究者たちは、超感覚的な体験をする。

それはまったく並外れた、粗い稀な超常的(サイキック)な経験だ。

まったく、幻想的(サイケデリック)な体験だ。

彼らは神あるいは至高なるものの、ほんの一部である魂を自覚するようになる。

このようにして、彼らは部分から全体を知ろうとしている。

それはちょうど、いろいろな人が遠く離れた別々の岸辺から、広大無辺の大洋に触れているようなものだ。

私はある岸辺からその大洋に触れているのだろうが、あなたもまた私がいる岸辺から、数百万マイルも離れた別の岸辺から、その同じ大洋に触れているのかもしれない。

だが、私と同じ大洋にあなたもたどり着いたと、どうして私に信じられよう?

私はある岸に触れ、それは自分の海の岸だと思い――あなたはあなたで別の岸に触れ、それは自分の海の岸だと思っている。

それは、私がインド洋を私のものと思い、あなたが大西洋をあなたのものと思い、また三人目の人が太平洋を自分のものと思っているようなものだ。

だが実際は、すべての大洋はひとつに繋がっている。

それは実に広大な、地球的規模の大海原だ。

しかし、私たちが断片的にそれに触れる場合は、それをそういったものとして認識するのは難しい。

私たちが広大なひとつの海を知ることはないだろう。

それどころか、自分の限界に応じてそれを分割し、境界を定めてしまうだろう。

大洋だけでなく、私たちはその岸辺までをも分けてしまうことになる。

 

魂の体験とは、片隅から大洋に触れているようなものだ。

これは広大なエネルギーのうちの、ほんのわずかなエネルギーの目覚めだけで起こりうる。

そのため、この道で成就した探究者には、魂を失う用意ができ、さらにはそれを超越し、彼方へと進んで行くことが必要とされる。

さもなければ、その旅がまだ不完全であるにも拘わらず、旅はそこで終わってしまう。

魂の理解が旅のすべてではない。

さらに魂を手放し、クンダに突入していく必要がある。

そうなれば旅は容易な、より簡単なものとなる。

遠回りの道ほどたやすく、結局は近道がもっとも困難になることが多い。

それには訳があり、それはこの件に関してもまさに当てはまる。

長い道程は常に、より容易な道だ。

そうだ、もし私が自分自身に近づくとしても、他の人を媒体にしなくてはならない。

自分の姿を見たければ、鏡が必要になる。

まず自分の姿が鏡に入り、それが反射して自分に戻り、そして初めて自分の顔を見ることができる。

これは不必要に長く、まわりくどい道のようだ。

「なぜそんな長い回り道をするのか?」と聞くかもしれない。

これより他に手だてはない。

自分の顔は自分にもっとも近いが、だからこそ、じかに見るのがもっとも難しくなる。

 

クンダリニー・エネルギーの一部を目覚めさせる道は、確かに長い道程となる。

しかし、避けていくことは、まずできない。

それは内なる感覚の全世界が開き、そして私たちが自己に、あるいは魂に到達するという方法だ。

しかしそこからは、量子的飛躍が絶対的に必要となる。

その量子的飛躍を円滑に、容易にするものこそが、まさにその長い回り道だ。

なぜならそれは、自分自身を知ったという自己実現の大いなる喜びが、人をさらなる至福の極みへと駆り立てて初めて起こるからだ。

確かに自分自身を知り、自己を実現することには、大いなる喜びがある。

だが自分自身を失うことの喜びは、その最たるものだ。

それは最高の至福だ。

自分自身を知った後でも、たったひとつ、ある痛みが残っている。

自我の苦痛、あなたがいるということを知る苦痛だ。

自己認識の達成とともに、あらゆる痛みは消えるだろう。

しかし依然として、ひとつの痛みがあなたにつきまとう。

それは存在することの痛みだ。

その時には、自らに問うだろう「私はなぜ在るのだろう?」

あなたはその時、存在することもまた不必要であり、痛みに満ちていることを知る。

すると存在から<非-存在>へのジャンプが起こる。

ある日あなたは言うだろう。

「存在することを知ったのだから、存在しないこともまた知りたい。今や私は光を知った以上、何としても闇を知りたい」と。

いかに光が広大であろうと、それには限界がある。

しかし闇は無限だ。

確かに、存在することには何の疑いもなく大いなる意味がある。

だがそれにも限界がある。

<非-存在>は果てしなく無限大だ。

 

まさにこのために、人々は仏陀を理解し損ねている。

ある人がブッダに「解脱つまり解放の境地において、私は生き残り続けるのでしょうか?」と尋ねると、

仏陀は「いや、生き続けることはない。あなた自身から本当に解放されるべき者、それはあなただ」と言った。

そこで彼はさらに問い直した。「解脱において、欲望や苦しみや罪業など、他のあらゆることはなくなるでしょう。でも、私の存在はどうなるのでしょう?私は本来の無垢な姿で生きることはできないのですか?」

仏陀は答えて言った「どうしてあなたが生きられるだろう?欲望や痛みや罪業は消えるだろうが、あるひとつの痛みは残るだろう――存在することの痛みだ。そうなれば、あなたの存在それ自体が、あなたを傷つけ始める」

興味深いことに、欲望が消え去ると、まさにあなたの存在そのものがあなたを悩ませ、あなたの傷つけ始める。

欲望がある間は、存在することが自分を悩ませようとはまったく思われない。

自分の存在を、何やかやでいっぱいにし続けているからだ。

お金を求めていれば、あなたの存在は稼ぐことに精一杯だし、栄光や名声を欲していれば、その存在は自分の評判や名声を得ることに余念がない。

だが金銭への欲望が消え去り、地位や栄光への憧れは無くなり、セックスに対する欲望さえもなく、何ひとつとしてすることがなくなり、行為そのものが消えてしまったら、いったい自分の存在をどうするというのかね?

自分の存在に直接悩まされ始めるのはそれからだ。

その時存在することが防げになり、存在は必要でないと思うようになる。

仏陀が「そこにはまったく何も残されていない。明かりが消えてしまったら、炎はどこへ行くだろう?」と言うのは、この局面についてだ。

 

なぜ人は、自分自身を失うことをこれほど恐れるのか?

人々にはやり終えるべきあまりに多くの物事が常にあり、自分自身を失うとすべてが未完成で、不完全なままになるからだ。

たとえば、私に自分で建てている建築中の家があるとする。

そしてこの家を完成させた後なら、自分自身を失うことができると考えている。

だがこの家が完成する頃には、何か他の未完成の計画や、仕事があることだろう。

したいという欲望は、本当は何かを完成したいという欲望であり、それこそが私たちを駆り立て続ける。

だから、今すぐ自分の魂を失くすことが一番の近道となる。

しかし欲望があれば魂を失くすことなどできない。

欲望がそっくりそのまま残っている人に、どうして魂を失くすことができよう?

もちろん欲望が消滅した時には、魂を失くす用意もできている。

その時、魂は無用のものとなるからだ。

たとえば、今現在苦悩を持ち運んでいる人に至福を捨てるように言ったとしても、とんでもないと言うだけだ。

だが、もし苦悩が消え去り至福だけがあるのなら、至福をも手放す用意ができる。

欲望が去ってしまったのに、至福をどうしようというのかね?

大いなる出来事は、至福をもまた捨てる用意がある時にだけ起こる。

悲しみなら誰にでもすぐ捨てられる。

だが生に継ぐ生において、至福そのものを喜んで手放す用意ができた時、時は訪れる。

それこそが、究極の存在との融合に導く。

これは、電光石火のごとく起こることもありえる。

つまり一挙にクンダに入ることもできる。

しかし、徐々に準備するほうがやりやすい。

突然その準備をすることがきわめて難しいからだ。

欲望が消え、思考や病み、行為が終止し、生きる支えすべてがなくなる時、最後にどんな基盤も支えもないままに、ただあなただけが残る。

その時こそ、自分にこう言いきれる。

「今やこの自我を救っても仕方がない。今ならば、それも手放せる」。

その時あなたはクンダに身を投じ、それと溶け合う。

このクンダとの融合を涅槃(ニルヴァーナ)、あるいは解脱と呼ぶ。

 

もし直接クンダに飛び込みたい人がいるなら、クンダリニーはその人の道ではない。

それゆえ霊的な道のいくつかは、クンダリニーについて語らなかったのだ。

それは必要なかった。

クンダと直接溶け合うことを教えた人たちは、クンダリニーを目覚めさせる技法について語る必要はないと考えたのだ。

しかし私自身の経験から言えば、直接的な道はうまくいかない。

稀にひとりふたりに有効に働いたかもしれないが、それでは充分だとは言えない。

たったひとつの花が咲いても、春はもたらせられない。

だから人々は、遠回りしていく必要がある。

 

要点は、エネルギーを蓄えることにあるのではない。

内側で眠ったままの、大いなるエネルギーを目覚めさせることにある。

このエネルギーは計り知れないほど無限で、まったくの無尽蔵だ。

ひとたびそれが目覚め始めれば、目覚めに従い、いよいよさらなる覚醒の可能性は増し、開花し続ける。

一度目覚めれば、エネルギーの流れは決して使い尽せないほど膨大で無限のものとなる。

言い換えれば、生における目覚めの限界など決してない。

目覚めの可能性は無限にあり、この限りなき貯水池からは、いくらでもエネルギーを汲み出すことができる。

エネルギーを得れば得るほど、大いなるエネルギーをもっと強烈に目覚めさせられるようになる。

この豊かな内なるエネルギーがあなたの自由になった時にしか、未知なるものへの探究にそれを用いることはできない。

そこで初めて、未知なる道、道なき道に進むことができる。』

(「奇跡の探究 Osho講話集」)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************

 

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(69) クンダリニー⑤

前回まで4回に渡り、「クンダリニー」についてご紹介してきましたが、今回は、「クンダリニー」について、更に詳細に見て行き、多くの探究者にとっては、未だ未知なる存在である「クンダリニー」について、ご紹介したいと思います。

 

バガワン・シュリ・ラジニーシことOshoが、彼のアシュラムに集まった探究者たちに語った言葉として記録され、編集された本(講和集)の中に記されている文章と、今から40年以上も前に起きた突然の「クンダリニー」覚醒体験と、その体験から導かれた智慧(究極の真理)とが、見事に合致し、Oshoの言葉に100%の理解と共感が起きたため、クンダリニー覚醒の未体験者には、少々難解かもしれませんが、敢えて、ご紹介させて頂きたいと思います。

 

クンダリニー」覚醒体験を通してやって来た智慧として、以下でご紹介しますOshoが述べている「クンダ」が、ラマナ・マハルシが語っている「真我(アートマン)」であると理解し確信しておりますし、真に実在しているのは、私たち一人一人の人間ではなく、実は、「クンダ」である「真我(アートマン)」である、ということを理解し確信しております。

 

私たちの最奥には、この「クンダ」、つまり「真我(アートマン)」が内在し、私たちの生命エネルギーを生み出しています。

つまり、この「クンダ」が、私たちの命の「源(源泉)」であり、「真我(アートマン)」なのです。(実在は、”一つ”しか存在しませんので、「クンダ」と「真我(アートマン)は、同じ”一つ”の存在の別称と言えます)

 

この宇宙において、この「クンダ」=「真我(アートマン)」以外には、真の実在は存在していません。

 

「クンダ」は、物質次元における個々の存在に内在していますが、けっして個別の存在ではなく、普遍的な領域の存在です。(それは、”ニルヴィカルパ・サマーディ”が起こると、明らかになります)

 

私たち人間は、海の表面に生じる一つ一つの「波」に譬えられることがありますが、「クンダ」は、「無限の大海」そのものであり、この世(のすべて)を在らしめている唯一実在するあらゆる存在の「源(源泉)」なのです。

 

あらゆる創造が起こる「源(源泉)」という意味では、「創造主」「創造神」とも言えますが、真に実在しているのは、この「クンダ」だけであり、「クンダ」以外のすべての創造物は、「クンダ」からのエネルギーを受けて存在しているだけで、真の実在ではありません。

 

すべては、この「クンダ」から生じるエネルギーによって存在している、ということが、「クンダリニー」覚醒が起こることで、真実として明らかになることでしょう。

 

己の内側における「クンダ」の発見は、私たちが知っていても、知らなくても、辿ることになっている”人生”という”探求の旅”における終着点でもあります。

 

「クンダ」という「無限の大海」である全存在の「源(源泉)」に溶け去ることで、”探求の旅”は終わることでしょう。(ニルヴィカルパ・サマーディ)

 

この直接体験が、真の自己である「真我(アートマン)」の発見と言えます。

 

クンダリニー」が目覚めることで、その「クンダリニー」が生じる己の「源(源泉)」を探ることが可能となります。(”クンダリニー覚醒”=”真我実現”と言えますが、その先、更に「クンダ」に溶け去るというニルヴィカルパ・サマーディのような深い体験が起こることで、「梵我一如」(神と自分は一つである)の理解が起こることでしょう。(アドヴァイタ(不二一元)、或いは、ノン・デュアルティ(非二元))

 

ヨーガの修行などを通して、己の内側に内在する「真我」(アートマン)を発見することは、遅い早いの違いはあるかもしれませんが、誰にでも可能であることは、言うまでもありません。

 

それでは、Osho講和集「奇跡の探究」から、特に知っておくと有益であり、探求する上で、非常に重要だと思われる部分をご紹介いたします。

 

 

 

『質問者

「最近行われた瞑想キャンプで、サーダナつまりクンダリニーの修行は肉体を準備する方法だと言われましたが、それについて説明していただけますか?」

 

Osho

「まず第一に、肉体と魂はその深みにおいて、別々のものではない。

違いはまったく表面上のものだ。

その一切の真実が明らかになる時、もはや体と魂は別々のものには見えない。

真に同じひとつのものに見える。

実際、肉体とは感覚で捉えられる魂の一部であり、魂は感覚で捉えられるものを超えた肉体の一部だ。

つまり魂とは肉体の不可視の一端であり、肉体は魂の可視の一端だ。

しかし、これは真理を極めて初めて明らかになることだ。

皮肉にも普通私たちはみな、体と魂を同一のものと信じている。

だが、この一般に信じられていることは偽りだ。

私たちは、魂とは何かを本当には知らないのだから。

それどころか、体を魂だと思い込んでいる。

だが、この実態のない一般的な信じ込みさえも、同じ根本的な真理から生じている――その背後には、この<一体性>についての同じ認識がある。

目には見えない存在の奥深い部分で、体と魂は一体だと私たちは知っている。

けれどもこの<一体性>の認識が、二つの偽りを生んだ――一方には魂のみが存在し、肉体などないと訴える唯神論者がおり、一方には肉体のみが存在し、魂などないと言明するチャルバックやエピキュラスのような唯物論者がいる。

このふたつの相容れない誤った概念は、肉体と魂は別々のものではないという、共通の深い認識から生じている。

そして唯物論者同様、普通の人は誰でも――いわゆる無知な人間のことだが――自分は単なる肉体だと考えている。

 

だが内面への旅が始めると、肉体と魂は同じだという思い込みは粉々に打ち砕かれ、それぞれ別であることに気づくようになる。

魂を知るのと同時に、肉体は別個のものであり、魂もまた別のものであることを知るからだ。

しかし、これは旅の半場で起こることだ。

もっと深く、さらに深く進み、究極の体験に達すれば、それらが別々でないと知るだろう。

本当は同じひとつのもの――同じ実体の異なった形なのだ。

 

旅はふたつの地点のどちらからでも――肉体からでも、魂からでも始められる。

もし肉体から始め、そしてだんだんと深まって行けば、究極的には魂に達するだろう。

誰かが私の右手を掴んで上へとたどっていくと、遅かれ早かれ左手に届くというようなものだ。

同様に、ある人にとっては直接魂から始め、最後に肉体に至ることも可能だ。

しかし魂から始めるのはとても難しい。

それは魂が私たちにとって、まったく未知のものだからだ。

たいていの人は肉体のレベルで存在しているため、その旅を体からしか始められない。

しかし、直接魂から始める技法もあるにはある。

ただ一般に、それが役に立つのはほんのわずかの人だけだ。

稀に魂から始める技法を使える人もいるが、大多数の人は体から始めなければならないだろう。

旅は、その人がいる地点からしか始められない。

 

肉体から始める旅においては、クンダリニーが準備の働きをする。

クンダリニーは、体のもっとも深い体験の踏み台となる所だ。

実のところ肉体は、私たち、あるいは生理学者が知るどころのものではない。

遥かにそれ以上のものだ。

たとえば扇風機が回っているとする。

扇風機を解体し、部品をひとつひとつ取り外して調べてみても、電気はどこにも見当たらないだろう。

すると非常に聡明な人であっても、調べた結果をもとに、扇風機には電気のようなものは何もないと言うかもしれない。

扇風機のどの部分をとっても、そこに電気は見出せない。

だが回っていた時、電気で動かされていたのは事実だ。

そして電気がとだえた途端、扇風機は動かなくなる。

生理学者が肉体を解剖して調べても、クンダリニーはどこにも見当たらない。

彼らには、決して見つけられないだろう。

にも拘わらず、扇風機が電気で動くように、体全体はクンダリニーという電気的エネルギーで動いている。

クンダリニーの電気的エネルギーは、外側から分析しても理解できない。

エネルギーは分析の過程で崩壊し、消えてしまうからだ。

唯一、内的に体験することで理解できる。

 

体を知るにはふたつの方法がある。

生理学者の解剖のように外側から知る――これがひとつの方法だ。

もうひとつは、内側から知ることだ。

内側深くに入りそこを生き抜く人は、それを内側から知る。

自分の体を内部から知り始める者は。。。。覚えておきなさい。

私たちは自分の体を、単に外側から知っているに過ぎない。

自分自身の体でさえも、外面的にしか知らない。

自分の左手を認識するにも、実際には目で見て認識する。

とすると、左手に関する私の認識はまさに生理学者のそれだ。

だが、もし目を閉じて左手を感じるなら、左手に対するこの内なる感覚は自分自身のものとなるだろう。

だから自分の体を内側から知ろうとすると、やがて体のエネルギーのすべての源泉であるクンダ、貯水池に行きあたる。

このクンダ、池に眠ったままでいるエネルギーこそ、クンダリニーとよばれているものだ。

すべてはそこから生じており、体全体に広がっていることを、人は自ら知るだろう。

それは、火の灯ったひとつのランプが部屋全体を照らしているようなものだ。

部屋全体に溢れている光の源を探していけば、あなたはランプにたどり着き、すべての光がひとつの源から発しているのに気づくだろう。

そして、光を遠く部屋の隅々まで投げかけながらも、ランプは依然として光源であり続けていることがわかるだろう。

ここで私たちは、生命エネルギーが生じて体全体にみなぎっていく、まさにその地点を探ることに関わっている。

生命エネルギーには、中心(センター)があるはずだ。

源泉なしにはどんなエネルギーも存在できない。

太陽は私たちから一億マイルも離れているが、それでもなお私たちはその光を受け取っている、

そこには中心が、光が生じ、地上にみなぎる源泉があるに違いない。

実際に中心なくしては、どのようなエネルギーも決してありえない。

エネルギーが存在するのなら、中心があるはずだ。

どうして中心なくして円や円周がありえるだろう?

円周がありかぎり確実に中心はある。

説明するまでもなく、あなたの体がエネルギーの塊だというのは明らかだ。

それは立ち昇っては座り、動いては停止し、そして眠りにつく多量のエネルギーだ。

そのエネルギーは常に一様に機能しているものではなく、活発で活気に満ちている時もあれば、沈滞して弱々しく、活気のない状態の時もある。

怒った時には、普通ではまず動かせない大きな岩を誰かに投げつけたりもする。

激しい恐怖に襲われると、オリンピック競技のランナーも羨むほどのスピードで走る。

このように、あなたのエネルギーはいつも同じ状態にあるのではなく、内面や周りの状況に応じて絶えず変化している。

 

私たちひとりひとりの内側には、この全エネルギーが眠ったまま潜んでいる中枢がある。

それは種子のように――すっぽり包まれ潜伏していると言われているが、その真の姿を確認することも可能だ。

だからこそ、それはクンダ、池あるは貯水池と呼ばれている。

「クンダ」という言葉は、実に興味深い。

それには多くの意味がある。

そのひとつは、さざ波がひとつも立たない、静かで穏やかな池という意味だ。

もしほんのわずかでもさざ波が立ったとしたら、それはエネルギーが活発になったということだ。

クンダとは、その中身であるエネルギーがわずかな動きもなく、完全に不動で穏やかに休息していることを言う。

もうひとつの意味は、不動で眠っているが、どんな瞬間にも目覚めて活発になり、動き出せるというものだ。

それは枯渇した死んだ池ではない。

それは溢れんばかりだ。

そしていかなる瞬間にも、活発に活動的になれる。

今のところは活動せず、眠った状態だが。

だから人々は、自分の内側で眠っているものが何であるかを知らずにいる。

目覚め、活動的になったものしかわからない。

エネルギーの活動的な部分だけが意識に昇り、その不動の部分は無意識下に眠ったままでいる。

そのためもっとも偉大な人でさえ、卓越した域に達しないかぎりこのエネルギーには気づかない。

マハヴィーラ、仏陀、クリシュナ、イエスでさえ、自分の潜在能力を現実のものとし、その卓越の極みに到達するまでは、誰ひとりとしてそれに気づかなかった。

 

同じように私たちも、自分のエネルギーの真の源泉を知らずにいる。

しかしそれが目覚めないかぎり、それを知る手だてはない。

それが自分にあるものなのか、またどの程度のものなのかも知ることができない。

この眠っているエネルギー(クンダ)の目覚めた部分は、クンダリニーと呼ばれている。

クンダ自体は無意識だ。

それは眠っている。

だがクンダリニーには意識があり、目覚めている。

目を覚まして、クンダから出て来たエネルギーのその部分だけが、クンダリニーとして知られている。

クンダリニーはその全体ではなく、池から生じるさざ波にすぎない。」』

(「奇跡の探究 Osho講話集」)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************

 

 

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(68) クンダリニー④

今回も前回に引き続き、人間の身体に眠っているかのように潜在している神秘の力(シャクティ)である「クンダリニー」について、ご紹介いたします。

 

前回までは、「クンダリニー」とはどのような性質を持った力(シャクティ)なのか?「クンダリニー」が目覚めるとは、どのようなプロセスを辿るのか?また、人間にどのような影響があるのか?など、未体験の方々にもわかりやすい説明を試みましたが、それらの情報を理解した上で、一番興味を引かれるのは、”どのようにしたら「クンダリニー」を目覚めさせることができるのか?”ということでしょう。

 

クンダリニー」の目覚め体験自体は、”Osho講話集”で記されているように、第四身体の「サイキック体」(精神体、メンタル体)で起こる一時的な現象とは言え、「クンダリニー」に代表されるようなアストラル体(サイキック体)が目覚めなくては、次の第五身体である「霊体」(アートマン体)へと至ることは、不可能と言えます。

 

そのことをよくわかっている人々は、クンダリニー・ヨーガなどの修行を通して、アストラル体である「クンダリニー」を目覚めさせようと、努力を重ねる訳ですが、既にその目的を成就した人々は、今、プロセス途上にいる人々に、彼らが有効だと感じる効果的な方法や秘訣を開示しれくれています。

 

自らの体験から、多くの示唆に富んだアドバイスをして下さっている先達の御言葉を、今、「クンダリニー」を目覚めさせるために、何らかの努力をしている方々に、ご紹介したいと思います。

 

その中でも、最も重要なのは、「私」という存在が有しているあらゆる「エネルギー」(身体エネルギー、感情エネルギー、思考エネルギーなど)における「浄化」、これに尽きると思われます。

 

「身・口・意」において、”清い(浄い)(聖い)(潔い)”ことは、エネルギー的に必要不可欠と言え、ヨーガにおける諸々の修行は、この「浄化」を、比較的短時間で、推し進めるために考案された行法と言えます。

 

精神的な階梯を上って行くには、「浄化」が最も大切である理由ですが、それは、「クンダリニー」は、生命全体を司る潜在的な力(シャクティ)ではありますが、その源は、「魂」すなわち、「真我」(アートマン)であり、私たちの真の自己である「真我」(アートマン)は、「純粋意識」とも呼ばれている”何にも影響を受けない(受けていない)「意識」”であるからで、譬えで言うと、個我の意識が、その個人の個性に彩られているとすると、「純粋意識」とは、どのような色にも彩られていない無色透明な「意識」そのものであるからで、この個我の意識の無色透明化のために、ヨーガ行法が編み出され、有効な方法として、今日まで継承されてきた、と言っても過言ではありません。(「バガヴァッド・ギーター」においては、4つのヨーガについて、語られています)

 

クンダリニー」自体は、電気に善悪(浄、不浄)がないように、力(シャクティ)そのものには、浄、不浄はありませんが、その源である「真我」(アートマン)は、「純粋」であるため、「不純」とは相容れないことは、明らかです。

 

この「純粋意識」との「合一」が、「梵我一如」と呼ばれるヨーガの究極の状態である「サマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ)」ですが、生命全体を司るエネルギーが、「純粋」でなければ、「純粋意識」との「合一」は、起こりませんし、「合一」が起こるか、起こらないかのは、ひとえに個人側の「純粋性」に起因している、と言えます。

 

そのような理由から、「クンダリニー」が少しばかり目覚めても、サハスラーラ(シヴァ神が鎮座されていると言わる頭頂のセンター)まで到達せず、より下部のチャクラで止まってしまう、ということが起こります。

 

身体の浄化、心(感情、思考)の浄化は、骨の折れる仕事ですが、それなしには、人智を超えた奇跡的な体験は、起こらないと言えますので、技術的にアーサナやムドラー、クンヴァカができるようになっても、それが直ぐに、「クンダリニー」の光輝状態に結びつくことはない、というのが、厳しいながらも現実と言えます。(中には、知識不足などから、勘違いが起きてしまうことがあり、注意しなくてはなりません)

 

最初にご紹介しますのは、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」より、次は、「Osho講話集」より、「クンダリニー」の目覚めを自ら体験し、その性質に精通している者だけが語ることができる「クンダリニー」覚醒における「短縮の道」をご紹介したいと思います。

 

 

 

A Misinterpretation(誤った解釈)

クンダリニーシャクティの目覚め、シヴァ神との合一は、甘露を楽しむこと、及び、ヨーガ・シャーストラで記述されているクンダリニー・ヨーガの他の機能は、誤って伝えられ、多くの人によって、文字通りの意味で受け取られている。

彼らは、彼らがシヴァ神であり、女性はシャクティであり、単なる性的な結合がクンダリニー・ヨーガの目的であると思っている。

それは、単なる無知である。

彼らは、完全に間違っている。

この種の結合は、すべてのクンダリニー・ヨーガにはない。

愚かな若者の中には、一つか二つのアーサナ、ムドラー、ほんの少しのプラーナヤーマを数日、彼らの好きな方法で練習し、クンダリニーが彼らの首を上がったと想像する。

彼らは、偉大なるヨーギーのようにポーズを取っている。

彼らは、哀れな自己欺瞞の魂である。

 

 

Yogic Kriyas and Inner Purification(クリヤ・ヨーガと内側の浄化)

ヨーガの生徒達の中には、私に尋ねる者がいる。

クンダリニーを目覚めさせるために、どのくらいアーサナクンバカ、マハームドラーを練習すべきでしょうか?この点については、ヨーガのどの教文にも何も書かれていません」

生徒は、彼が過去生で旅立ったステージ(段階)、或いは、地点から、修練を開始する。

つまりそれは、純粋さの度合、進化のステージ(段階)、ナディやプラーナマーヤ・コーシャの浄化、これらに加えて、離欲(ヴァイラーギャ)の度合や、解放への熱望に依っている。

クリヤ・ヨーガだけが、あなたを大いに助けることにはならないだろう。

心の純粋さは、とても必要である。

自己分析をし、あなたの欠点や悪しき癖を根絶しなさい。

あなたの身勝手さや自尊心、羨望、憎悪、などのような欠点を修正しなさい。

あなたのハートを開発しなさい。

あなたが持っているモノを他者と分かち合いなさい。

無私の奉仕をしなさい。

その時だけ、あなたは心の純粋さを得るであろう。

今日では、探求者は、これらの事を無視し、シッディ(神通力)を得ようと、直ちにクリヤ・ヨーガをしようと飛びかかる。

それは、ヒマラヤ的な重大な間違いである。

私の助言は、以下の通りである。

シッディ(神通力)やクンダリニーの目覚めについて、けっして気に掛けるな。

神への献身を持ちなさい。

彼に、完全なる信頼を持ちなさい。

人類への奉仕の精神を持ちなさい。

クンダリニーは、自然と目覚めるであろう。

クンダリニーの目覚めは、あなたが想像するほど簡単ではない。

それは、極めて難しい。

すべての望みが死に絶えた時、心(マインド)が、極限に純粋になった時、すべての感覚が稀薄になった時、あなたが相当な程度、心(マインド)の一点集中を獲得した時、すべての利己的な私のモノという考えが消え去った時、クンダリニーは自然と目覚めるであろう。

その時だけ、クンダリニーの目覚めは、また有益である。

早まった目覚めは、望ましいものではない。

探求者は、たとえ彼が、何らかの方法でクンダリニーを目覚めさせたとしても、もし彼が必要な資格を開発してなかったならば、有益とはならないであろう。

彼が、クンダリニーを目覚めさせるすべての利益を感じ、証明するのは、不可能である。

木で熟すのを許された果実は、とても甘いだろう。

しかし、これには長い時間がかかる。

第一級の樹木は、ゆっくりと成長する木から出て来る。

そうであるからして、長い時間、忍耐、辛抱、熱意を持って、精力的なサーダナ(修養)を行ずる探究者、道にある色々な障害物にも拘わらず、粘り強く霊的な修行をこつこつとやる探究者、欠点や弱点を認め、適切な方法によりそれらを取り除こうと努力する探究者は、クンダリニーを目覚めさせることができ、躍動的で完全なるヨーガ行者になるであろう。

感情的で熱狂的な若い探究者たちよ!

慢性腰痛の背中のリウマチ性の捻じれの動きをクンダリニーの上昇だと思ってはいけない。

辛抱と忍耐をもって、あなたの修行(サーダナ)をしなさい。

ヨーガにおけるすべての段階をマスターしなさい。

完全に低い階段をマスターする前に、より高いコースを上がってはならない。

親愛なる友人たち、兄弟たちよ、悩むな、心配するな。

栄光の日は、あなたがたに訪れようと待っている。

あなた方は、十分な力で輝くであろう。

あなた方は、神自身になるであろう。

すべての困難と障害物を笑い飛ばし、あなたの目を24時間、クンダリニーシャクティに注ぎなさい。

彼女を起き上がらせるために、あなたができることすべてをしなさい。

もし純粋性が定めなら、あなたは浄化しなくてはならない。

他にどのような選択肢があるだろうか?

それ故、あなた自身を浄化しなさい。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『Osho

「普通、クンダリニーをハンマーでたたくには、ふたつの方法しかない。

そして第三の方法は、一風変わっている――それはシャクティパットの道、またはエナジー伝達の道だ。

これはアストラルの方法であり、それには媒介、乗り物が必要となる。

他の人の助けさえあれば、あなたは瞑想において強烈な成就を遂げられる。

他の人は何もする必要はなく、ただ存在しているだけで十分だ。

彼は乗り物に、相手に刺激を与える人となる。

全世界は、無限のエネルギーに満ちている。

要は、単にそれに繋がるかどうかだ。

今、ここの屋根に避雷針を取り付けた。

雷が落ちてきてそれが針を通り、地面に流れ、家が傷つかないようにするためだ。

鉄の棒がなくても、雷が家に落ちることはある。

しかしそれでは、家をすべて破壊してしまう。

鉄の棒は最近の発見だ。

雷は記憶にないほどの昔からあったのだが、シャクティパットという電光は古くから存在していたが、鉄の棒の考えは最近だ。

人は、精神的(スピリチュアル)な成長に役立つ、無限のエネルギーに取り囲まれている。

無限のエネルギーはそこにあり、そのすべては人の精神的(スピリチュアル)な向上に役立てることができる。

そのためには媒介、乗り物が必要だ。

あなたが自分自身の媒体になることもできるが、始めのうちはそれは危険だ。

シャクティパット、エネルギーの下降はあまりにも力強いので、あなたは耐えられないこともある。

体のある繊細な器官が滞ったり、破壊されてしまったりする可能性もある。

どんなエネルギーにも分量と電圧があり、それはあなたの許容量が受け入れられるだけの、正しい割合でなくてはならない。

媒体となる他者は、あなたがそれに耐えうる許容量に応じて、調整しながらエネルギーを送る。

シャクティパットが乗り物として働くには、神聖なエネルギーが、すでに誰かに降りていることが肝要だ。

そうなって初めて、シャクティパットをあなたの許容量に応じて設定し、うまく取り扱うことができる。

これに関して、彼は何をすることも求められていない。

ただ彼がそこにいるだけで、必要なことすべてがなされる。

臨在が、必要なことのすべてだ。

彼の存在が媒体として働く。

媒体それ自体は何もしない。

彼こそがそれを可能にしているのだと言う人がいたら、その人はまったく間違っている。

シャクティパットのできる人など誰もいない。

しかしある人の存在によって、それを媒介し、起こすことができる。

さて、探究者たちが瞑想においてある深みに達すれば、シャクティパットはここに、ものすごい勢いで起こり始めるだろう。

何の困難もない。

まったく何の問題もない。

誰も何もする必要はない。

それは自ずと起こるだろう。

あなたは突然、まったく違った種類のエネルギーが、外側からあなたの中に入って来るのに気づくだろう。

それは内側から来たものではない。

クンダリニーが昇っていくのを経験する時はいつも、あなたの内側から起こっているように思えるだろうが、シャクティパットを経験する時にはいつも、上からやって来るように思えるだろう。

まさにそれはそのようなものになるだろう。

水が上から降ってきたり、下から上がって来たりするのを感じるのと同じくらい、はっきりと感じられるだろう。

 

質問者

シャクティパットの影響は短いものですか、それても長く残るものですか。

一回のシャクティパットの出来事は、旅のゴールへ私たちを導くのに充分なものでしょうか、それとも一回以上必要でしょうか?」

 

Osho

「実のところ、永続する影響は、あなた自身のクンダリニーに由来する。

シャクティパットは、ただの助けだ。

シャクティパットがあなたの土台を形造ることは、まったくありえない。

あなたの基本構造になることは、決してない。

あなたの中で起こることこそ、より重要だ。

それは基礎であり、根本だ。

それがあなたの本当の財産だ。

それだけが、土台となる財産だ。

シャクティパットは、富を増やしはしないだろう。

しかし、それは確実に成長の可能性を高める。

その違いは、正しく理解されるべきだ。

シャクティパットによって、あなたの富が増えることはない。

しかし、いわゆる成長率、発展の度合は、疑いなく高められるだろう。

シャクティパットは、あなた自身の富ではない。

それはこのようなものだ。

あなたが走っている後を、私が銃を手に追いかけている。

私の銃は、あなたの走る力を増すことはない。

でも、それは確かにあなたを早く走らせる。

どのみち走るのはあなたであり、走ることに費やされるのはあなたのエネルギーだ。

しかし銃があるために、あなたは自分の中で使われないまま眠っているエネルギーでさえ使うだろう。

銃はあなたに、余分なエネルギーを与えるわけではない。

そのゲームの中で、銃自体のエネルギーがほんの少しでも失われることはない。

後で銃を調べれば、前と同じだとわかるだろう。

それは何も失っていない。

しかし銃の影響によって、あなたはより力強く、早く走る。

それまでは悠長に歩いていたあなたが、今やスピードを上げて走っていることだろう。

シャクティパットは、あなたのエネルギーをより豊かにするわけではない。

だが、それは確実にエネルギーが成長し、広がっていく可能性を高めてくれる。

 

シャクティパットは、稲妻の一閃として働く。

その閃光は、あなたの道を照らしはしない。

あなたの手許にあるランプのようには手を貸してくれない。

それはただ、閃光を与えるだけだ。

前方の道とその周辺の一瞥だ。

しかし、この単なる一瞥は、たいへん重要だ。

今やあなたの足許がふらつくことはなく、今やあなたの意思は強い。

今や、目的地に到ろうとする決意は固まった。

あなたには道が見えた。

道がそこにあり、目的もなくさまよっているのではないことを知る。

稲妻の一閃で、自分が通らねばならない道の一瞥を、旅の目的地である寺院の一瞥を得る。

たとえあなたが、稲妻が光る前と同じ地点に立っているとしてもだ。

今のあなたは自信に溢れ、先へ進みつつあることを知っている。

今や道がそこにあり、寺院も――目にはまだ見えないが――もう手の届く所にあることを知っている。

あなたは今、確実に感じている。

今や、自分の意思と決意を強固にする自信と信頼に満ちている。

そういうわけで、シャクティパットの効果は間接的なものだ。

だからこそ、それが繰り返し必要となる。

一回では充分でない。

二回目の稲妻の閃光による恩恵はより大きく、三回目となれば、さらにそれ以上のものとなる。

一回目で見逃したものは、二回目、三回目の閃光で見てとれるだろう。

少なくとも、それらはあなたの自信を、意思をいっそう強めてくれる。

シャクティパットによって、究極のゴールへ至ることはできない。

運命への道を歩かねばならないのは、あなただ。

シャィティパットなしでも至ることはできる。

しかし、それではもっと時間がかかるだろう。

たどり着くのが遅れてしまう。

シャクティパットの一瞥がなければ、自信が弱まり、より多くの勇気と強さが必要となるだろう。

疑いと恐怖のために、あなたはあちらこちらで捕らわれ、自分の道と運命について、確信を持てないだろう。

こうしたことすべては起こる。

しかしいずれにせよ、あなたはゴールに至る。

シャクティパットは真に助けとなる。」

 

質問者

「媒介者とのつながりを保ち続けられなかった場合、シャクティパットの効果は消え去りますか?」

 

Osho

「効果は薄れていく。

実際、すべての効果は次第に消え去ってゆく。

効果それ自体が、外部の力によって起こされたことを意味する。

だからそれは減っていくのだ。

しかし内部から高まって来るエネルギーは留まるだろう。

なぜなら、それはあなた自身のものだからだ。

外部から来るエネルギーは減り、消え去っていく。

しかし内部から来るエネルギーは、消え去ることがなく留まるだろう。

また、シャクティパットの衝撃によって上昇したエネルギーは、留まるだろう。

あなたの基本的な源泉は弱まることがない。

しかし、影響は弱まっていく。」

 

質問者

シャクティパットと恩寵の違いはありますか?」

 

Osho

「違いは大きい、実に大きい。

実際シャクティパットと恩寵には、大きな違いがある。

シャクティパットは、計画し管理できる技術の一種だ。

シャクティパットは計画され、操作されねばならない。

いつでも、どこでも、もたらすことのできるものではない。

私の意味することがわかるかね?

シャクティパットが起こるには、探究者がそれを受けるにふさわしい状態であり、媒体になる人もそれに適していることが是非とも必要だ。

これらの条件がともに満たされ、彼らが同調すればシャクティパットは起こる。

これは技術の問題だ。

恩寵は、招くことなくやって来るもの、闇の中からやって来るものだ。

あなたがそれを呼ぶことはできない。

それは頼んで得られるものではない。

それは計画も、操作も、管理もできないものだ。

それは実に稀に起こることであり、ひとりでに起こるものだ。

 

シャクティパットと恩寵との違いは、家庭の電気と空の稲妻との違いと同じだ。

あなたがここでボタンを押すと、あちらにすぐに明かりがつく。

しかし空の稲妻は、まったく違う。

電光はそれ自身で起こる。

電気と稲妻は、基本的には両方とも同じエネルギーが働いているのだが、稲妻は頼んで手に入れられるようなものではない。

家庭の電気は、技術的にコントロールされている――それは機械や技術によってコントロールされている――が、稲妻のコントロールはできない。

恩寵とは、天上の稲妻のようなものだ。

それは、ある予期せぬ瞬間に稀に起こる。

その時、もし探究者がそれにふさわしい受容的な状態にあれば、恩寵はその人に起こりうる。

それは確かにシャクティパットとは違う。

基本的にはシャクティパットと同じだが、恩寵はシャクティパットとは大きく異なる。

もうひとつ違いがある――恩寵を受け取るには、媒体を必要としない。

恩寵はあなたのもとに直接降りてくる。

それは、あなたへの媒介者を必要としない。

真っ直ぐにあなたのもとへ訪れる。

恩寵はいつも突然の出来事だ。

それは稀であり、頻繁には起こらない。

シャクティパットのように前もって企てられることも、操られることもない。

翌日しっかりと準備をしたあと決まった時間に来るなら、シャクティパットは起こるだろうとは言える。

だがこうしたすべては、恩寵の場合には当てはまらない。

恩寵は起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。

それは私たちの手の内にはない。

それはただ管理し、コントロールすることができないだけだ。

この違いはあるが、恩寵はシャクティパットと同じだ。」』

(「奇跡の探究 Osho講話集」)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************

 

 

 

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(67) クンダリニー③

前回、前々回と「クンダリニー」について、ご紹介しています。

 

クンダリニー」は、個々人の肉体の中にありながら、通常は、人間に認知されていない潜在的なエネルギー(力、シャクティ)ですが、見えない、感じない力でありながら、人間の体と心を動かす(潜在的な)力として働いていることを、私たちは気づいていません。(そういう意味では、私たちに働いている生命力の源と言うこともできるかもしれません)

 

通常は、この潜在力は肉体や心の背後に隠れていますので、表に出て来ることはありませんが、ある条件の下では、表面化することがあり、それを「クンダリニー覚醒」と呼ぶことがあります。

 

以前にもご紹介しましたが、Osho(バグワン・シュリ・ラジニーシ)は、「クンダリニー」は、第四身体(サイキック体)で体験することができる、と語っていますが、確かに、第一身体(肉体)、第二身体(感情体)、第三身体(アストラル体、想念、思考)までは、誰でも体験しており、よく知っており、誰でも、直ぐにイメージすることができますが、第四身体(サイキック体)となると、体験者はぐっと少なくなるため、イメージすることさえ難しいため、解説するのも難しくなります。

 

また、第一身体から第三身体までは、個我が体験し、コントロールすることが可能ですが、第四身体となると、個我の意志では、どうにもなりません。

よって、第四身体で体験される「クンダリニー」は、個人の意思だけでは、経験し、コントロールすることはできません。

 

しかしながら、「瞑想」を実践することで、想念、思考(の発生)をコントロールできるようになるのと同じく、第四身体(サイキック体)にアクセスする方法はあります。

また、「クンダリニー」が第四身体(サイキック体)で経験されると言うことは、「クンダリニー」が目覚めることは、サイキックな力(能力)が目覚めることでもあります。

 

目覚めるサイキックな力(能力)は、その個人において、他のチャクラよりもより発達したチャクラにおいて発揮されることが多いようで、すべてのチャクラでサイキックな力が発揮されることはなく、個人差があることでしょう。

 

但し、第四身体のサイキック体が目覚めても、その先に、より微細な第五身体(スピリチュアル体、霊体)の目覚めが、待っています。

 

サイキック体が目覚めると、様々な潜在的な力、能力が目覚めますが、魂の旅は、それで終わることはなく、究極の真理への旅は、続くことでしょう。

 

ですが、次元の扉は、一つ一つ開いていくようになっているようですので、先ずは、第四身体で体験される「クンダリニー」が目覚めるのに役立つと思われる情報をご紹介したいと思います。

 

最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋文、次は、前回ご紹介しましたOshoの「奇跡の探究」からの抜粋文の続き、最後は、より詳細に「クンダリニー」について書き記して下さったスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」よりの抜粋文です。

 

最後に、「クンダリニー」(或いは、プラーナ)を活性化するのに非常に役立つと思われる「プラーナヤーマ」について、ご紹介させて頂きます。

 

 

 

The Upward Ascent of the Kundalini Shaktiクンダリニーシャクティの上昇)

クンダリニーが目覚める時、それは、一気にサハスラーラ・チャクラへとは進まない。

あなたは、チャクラからチャクラへと運んで行かなくてはならないだろう。

スシュムナーには、6つのチャクラがある。

これらは、ムーラーダーラ、スワディッシュターナ、マニュプラ、アナハタ、ヴィシュッダ、アジナーである。

これらすべての上に、すべてのセンターの主、サハスラーラがある。

すべてのチャクラはサハスラーラ・チャクラと緊密に関係している。

よって、6つのチャクラ間の一つとして含まれていない。

ムーラーダーラ・チャクラは、脊柱の基底部にある。

スワディッシュターナは、生殖器の付け根にある。

マニュプラは、臍のところにある。

アナハタは、心臓のところにある。

ヴィシュッダは、喉のところにある。

アジナーは、両眼の間、眉間にある。

七つのチャクラは、七つの次元に呼応している。

ムーラーダーラからヴィシュッダまでの五つのチャクラは、五元素のセンターである。

アジナーは、心(マインド)の座である。

もしヨーガ修行者がムーラーダーラを突破すると、彼は地球を征服したことになる。

地球は、彼に影響を与えることはできない。

もし彼が、スワディッシュターナを渡ると、彼は水元素を征服したことになる。

彼は、星間次元(Bhuvar-loka)に触れている。

もし彼がマニュプラを渡ったのなら、彼は火を征服したことになる。

火は、彼に影響を与えることはできない。

彼は、大宇宙(Svarga-loka)に触れている。

もし彼が、アナハタを渡ったならば、彼は風元素を征服したことになる。

風は、彼に影響を与えることはできない。

彼は、天上界(Mahar-loka)に触れている。

もし彼がヴィシュッダを渡ったのなら、彼は空元素を征服したことになる。

空は、彼に影響を与えることはできない。

彼は、内面の真理と理解、つまりブラフマンの息子の王国(Jana-loka)に触れている。

もし彼がアジナー・チャクラを渡ったのなら、彼は不死の王国(Tapo-loka)に触れている。

その時、彼は、輪廻からの解放が起こる至高の意識の次元(Satya-loka)に入る。

クンダリニーシャクティがサハスラーラへと通過するには、四つの道がある。

最も長い通路は、ムーラーダーラからサハスラーラへと背中に沿って通っている。

クンダリニーをこの道に沿って運んで行くヨーギーは、非常に強力である。

これは、最も難しい通路である。

シュリ・シャンカラチャリアにおいては、クンダリニーはこの通路に沿って通過した。

最も短い通路は、アジナーからサハスラーラである。

第三の通路は、ハートからサハスラーラである。

第四の通路は、ムーラーダーラからサハスラーラまで、前方を通っている。

もしヨーギーがアジナー・チャクラに集中すると、低位のチャクラは、自動的に開き、征服される。

クンダリニーは、脊柱を通って上昇し、時には、蟻のように這う。

時には、ヨーギーは純粋になると、猿のように飛び跳ね、サハスラーラに到達する。

時には、枝から枝へと飛び跳ねる鳥のように舞い上がる。

時には、蛇のように螺旋の流れが上昇し、ジグザグ上に動いていく。

時には、ヨーギーは魚のように至福の海を幸せに泳ぐ。

ヨーガの実践者は、彼がチャクラからチャクラへ動く時、内側から助けを得るだろう。

神秘的な力、神秘的な声が、彼が階段を上がる毎に、彼を導くであろう。

彼は、完全に揺るぎない信頼を聖なる母に持つべきである。

修行者を導くのは、彼女なのである。

チャクラからチャクラへと、彼女の子供を連れて行くのは、彼女なのである。

彼女は、目に見えない形で、彼にすべての助力を与える。

彼女の恵みなしでは、あなたはスシュムナーの上昇において、1インチも動くことはできない。

クンダリニーは、サハスラーラに長く居ることはできない。

滞在時間は、純粋性、修練の度合、ヨーガ実践者の内面的な精神力に依る。

多くの生徒達は、低位のチャクラのみに留まる。

彼らは、低位のチャクラで得る幸福に夢中になり、彼らは偽りの満足感のためにサハスラーラに到達するために、更に試みようとはしない。

ヨーギーは、低位のチャクラや休息の場所に魅了される。

彼は、すべてのシッディ(神通力、超能力)を避けるべきである。

シッディは、彼の道における障害物である。

もし彼がシッディで遊び始めると、彼はゴールを見失い、転落するだろう。

クンダリニーを目覚めさせることは、簡単である、しかし臍まで、アジナー・チャクラまで、それから頭のサハスラーラまで運んで行くのは、大変難しい。

実践者のほうに、多大な辛抱と粘り強さを必要とする。

マニュプラ・チャクラを通過するのは、非常に難しい。

ヨーギーは、このセンターに大いに努力しなくてはならない。

身体は、クンダリニーがサハスラーラ・チャクラに到達した後でさえ存在する。

しかし、ヨーギーは身体感覚がなくなるだろう。

身体が生命がないものになるのは、独存位(Kaivalya)が達成された時だけである。

あなたは、クンダリニーがサハスラーラに達した後でさえ、確かに生きるだろう。

しかし、それがサハスラーラに達した後でさえ、瞬時にムーラーダーラにまで落下するかもしれないということを覚えておきなさい。

あなたがサマーディに強固に確立された時だけ、あなたが独存位(Kaivalya)に達した時、クンダリニーは落下できないし、しない。』
(「Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『Osho

「普通、全面的にトータルに生きている者はひとりもいない。

みな断片的な生き方をしている。

上部の中枢は、すべて手つかずのまま残っている。

深い呼吸が、そういったものすべてを叩きつけ活性化させる。

『私とは誰か?』という問いかけも同じ機能を果たすが、中枢を叩きつける時の方向が異なっている。

だから、深くて速い呼吸の機能を今理解したように、それについても理解に努めてごらん。

『私とは誰か?』という言葉の繰り返しは、クンダリニーにどんな作用を与えるのだろう?

 

『私とは誰か?』と問いかける時、あなたはただ問いを発している。

心理的に疑念を巻き起こしている。

この問いかけは、どこの中枢に影響を与えるだろう?

それがどこかの中枢へ影響を及ぼすことは確かだ。

あなたがこの問いかけを発し、自分が誰なのか問いただし、それを知りたいという思いで一杯になり、全細胞のひとつひとつが『私とは誰か?』と問いかける時、あなたは内側へと向かっている。

つまり、必ずどこかの中枢がそれによって叩かれ、活性化するはずだ。

ところが『私とは誰か?』という問いかけは、それを問いかけたことが、これまで一度もなかったために、自分が知っている活動的な諸中枢をまったく打つことがない。

この問いは、これまで一度も自分自身に発したことのないものだ。

こういう疑問を抱いたことは、一度たりともない。

あなたたちはこれまで一度だって、自分が誰なのか知りたいという想いで一杯になったことがない。

彼は誰?彼女は誰なんだろう?というようなことを尋ねたことは幾度もあっても『私とは誰か?』と尋ねたことは一度もない。

『私とは誰か?』という問いかけは、あまりにも長い間、不問にされ続けてきた。

だから、あなたが一度も触れたことのないまったく未知なる中枢を打つことになる。

そしてこの『私とは誰か?』という問いかけが打ちつける未知なる中枢は、非常に基本的なものだ。

なぜならその問いかけ自体がとても基本的なものだからだ。

 

『私とは誰か?』はとても基本的な問いかけであると同時に、とても実在的な問いかけでもある。

『私とは誰か?』は『実在』全体にとことん関わっている問いかけだ。

この問いかけには、自分のすべての過去生をも後にするほどの『私』が誕生する以前の『私』が存在していた地点へと人々を運んでいく。

原初の始まりに私がいた地点へと、運んでいくことができる。

この問いかけには、計り知れない深みがある。

そして、その旅も同じように深遠だ。

したがってこの問いは即座に、基本的な一番深い中枢――クンダリニーを打つ。

深い呼吸はその中枢を肉体的に打ち、『私とは誰か?』という問いかけは同じことを心的(メンタル)に、心理的に行う。

この問いかけは、クンダリニーをマインドのエネルギーで打ちつけ、深い呼吸はそれを肉体的なエネルギーで打ちつける。

もしこのふたつの打ちつける力が充分に強ければ。。。。普通その中枢を打ちつける方法はふたつしかない――呼吸によるものと『私は誰か?』と問いかけるものだ。

他にも方法があるが、それらは少し込み入っている。

 

だが、普通はふたつの方法しかない――肉体的なものと心的(メンタル)なものだ。

そして、『私とは誰か?』という問いは、より強烈になるだろう。

それは深い呼吸より強烈だ。

だが、始めるのは呼吸からだ。

なぜならそれは肉体に関わっているため、やりやすいからだ。

『私とは誰か?』という問いが多少難しくなるのは、それがマインドに関わるものだからだ。

肉体から始め、肉体が完全に震えだした時に、『私とは誰か?』と問うためのマインドの準備ができる。

これを問いかけるには、ふさわしい状況が必要だ。

『私とは誰か?』をふいに問いかけても、常にうまくいく訳ではない。

 

事実、どの問いにも、それを問うにふさわしい状況が必要だ。

たとえば、全身が揺れ振動し始めるような時には、自然と問いが湧き起こり、自分自身に問いかけるものだ。

『いったい、どうしたのだろう?いったいどうしてこうなっているのだろう?』と。

だがそうするうちに、自分は何もしておらず、足を上げているわけでも振り返っているわけでもなく、ただ踊りが起こっていることがわかる。

そして、これらすべてのことが、自分が努めることなく起こると、肉体への同化が薄らいでゆく。

すると新たなる問いが湧き起こり、自分とは誰なのかを知りたくなる。

その新たなる問いとは、肉体がしていることを自分がやっていないとしたら、いったい誰がそうしているのか?そして、私とは誰なんだろう?というものだ。

今や分裂が、隙間が、自分と肉体との間に生まれている。

この時こそ、そのギャップを通して「私とは誰か?」という問いが、深くあなたの中へ浸透していける絶好の状況だ。

その問いが必要となるのはまさにこの時だ。

本当は、あらゆる質問にはそれぞれふさわしい時、ふさわしい時期がある。

そして『私とは誰か?』という問いにふさわしい時期を見つけだすのはとても重要だ。

それはやみくもにするような問いかけではない。

しかるべき準備もせず、いつやってもいいような問いかけではない。

たとえばこうして座っている時、あなたが何気なく『私とは誰か?』と問いかけても、空の中へ消えていくばかりだ。

どこにも行き着くことがない。

この問いかけが浸透していくためのギャップが、隙間があなたの中になくてはならない。

隙間が必要不可欠だ。

このふたつの打撃――深い呼吸と『私は誰か?』――に打ちつけられると、クンダリニーが目覚める。

そしてその目覚めに伴って、並々ならぬ体験が起こり始める。

が、それは全過去生のあらゆる体験が、クンダリニーと結びついているからだ――ある意味で、それらはクンダリニーの中に貯蔵されている。

あなたたちが木として、魚として、鳥として生きた生を含め、無数の生における体験が、進化の過程におけるあらゆる体験が、旅の途上の至る所に横たわっている。

そして、このクンダリニーとして知られる蛇の力は、そのすべてをとり込むものだ。

そのため、様々なことが起こる可能性があり、これらの経験とあなたが同化することが可能だ。

そしてあらゆる類のことが、考えられないようなことが起こりうる。

あなたたちは、クンダリニーに関わる数多くの精妙な体験について何も知らない。』

(「奇跡の探究 Osho講話集」)(この続きは、次回に続きます)

 

 

 

クンダリニーの覚醒には、次の二つの形態があります。

(1)生気の上昇(Pranotthama)

(2)光輝状態の始まり

 

生気の上昇とは次のようなことをいいます。

それがどんな意志であれ、意志の力を受けると生気はチャクラ内部で光を伴わずに動き始めます。

つまり、身体下部で働くアパーナ気は、繰り返しなされる瞑想修行によって興奮状態となり、尾骶骨から頭部に到る脊髄の中で生気の震動運動を生じさせながら、ムーラーダーラ・チャクラ内の神経組織や最奥組織を刺激します。

こうした生気の動きは、ちょうど、蟻が張ったり湯や湯気が動いているかのように感じられたり、時には、それが非常に冷たく感じられ、身体全体がゾクゾクしたり頭髪が逆立ったりもします。

以上が生気の上昇((Pranotthama)と呼ばれているものです。

この生気の上昇は、特別な調気法を行じたり、ハタ・ヨーガ行者が行う身体浄化法(Shat Karma)によっても引き起こされます。

というのも、こうした修行法は、基礎神経叢にある神経束に詰まっている痰状の粘液を取り除くと言われているからです。

従って、それらが浄化された後では、脊髄中にあるスシュムナー管の基底部から上部に到るまで、アパーナ気がなめらかに動いていくのがはっきりと感じとれるようになります。

アパーナ気のこうした動きはやがて非常に早くなり、そのため、行者の四肢がよく麻痺したります。

たとえば、手足が引っ張り上げられたり、行者によっては急に肉体が上に持ち上げられ、少し離れた場所にまで飛ばされてしまうということもあります。

時には、実際には地面から浮き上がらないにもかかわらず、肉体が宙に浮いたように感じたりすることもあります。

他にも、ベルの鳴る音や、鳥がチイチイ鳴く声、コオロギの声、ドラムやシンバルの音、リュートやフルートの音、それに雷の音などを聞く者もいます。

こうした音は、何年にもわたって聞こえ続けるのです。

そうして修行を休みなく続けてゆけば、やがては諸々の障害が除かれ、スシュムナー管の中を脳に到るまで、生気が自由に、しかも適量に流れるようになってきます。

やがてはさらに修行の段階が進めば、半覚醒の状態(Tandra)、よく眠った状態(Nidra)、そして暗性優位の三昧の境地を経験できるようになってきます。

無知な行者の場合、こうした暗性優位の三昧の境地をヨーガ・ニドラー(Yoga Nidra)と呼んで、その境地に満足し、それ以上努力しなくなったりするのですが、こうした境地では真の智慧を得ることは不可能なのです。

ですから、こうした境地に続いて、智慧の光が輝きわたり意識もはっきりしているより高い三昧の境地に入ってゆかなければ、解脱とか絶対者ブラフマンを知るといったことは不可能なままになってしまいます。

(「魂の科学」 スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ)

  

 

 

最後に、前回の記事で、Oshoによる「奇跡の探究」をご紹介した文章の中で、Oshoが「深い呼吸」について言及していましたが、「深い呼吸」と言っても、ただの深呼吸が有効である訳ではありませんので、ヨーガのプラーナヤーマ(調気法)について、簡単な説明を加えさせて頂きます。

 

実際に、プラーナヤーマを行ずる場合、適切な指導者の元、実践することが望ましいのは勿論ですが、日本において、そのような指導者を見出せない場合、出版されている「実践ヨーガ大全」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)の中で、詳細な実践方法が書かれていますので、それらをご参考に、実践することも可能かと思われます。

但し、中には、独学で実践するには、命の危険が伴うプラーナヤーマもありますので、注意が必要です。(ですので、本に記載の注意事項を、必ず守って、実践することが重要です)

比較的、簡単に実践でき、身体への負担が少ないプラーナヤーマであっても、その効果は、実践する毎に、実感できるようになることでしょう。

この本の中で、60種類のプラーナヤーマが紹介されていますが、その中でも、プラーナ(生気)の動きを良くしたり、クンダリニーを目覚めさせるのに効果的であるとの記載があるプラーナヤーマをご紹介いたします。
(詳細な実践方法は、本に記載されていますが、YouTubeなどで映像で確認できるものもあるかと思いますので、実際に実践する意思があるならば、指導者が見つからなくとも、実践できないことはありません)

 

・スールヤ・ベディー

・バストゥリカー

・トゥリバンダ・レチャカ

・サルヴァ・ドゥワータ・バッダ

・ヴァーヤヴィーヤ・クンバカ

・プラーナ・アパーナ・サムユクタ

・ウラシュタラ・シュディ

・ナーダ・シュラヴァナ

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************

 

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(66) クンダリニー②

このブログを最初に始めた時のブログ・タイトルは、「永遠の人」でしたが、数年前に、一度、ブログへの記事の投稿を止めていました。

その後、一年程してから、再開し、その時から、ブログ・タイトルは変更せず、「永遠の至福と自己実現(Self-Realization)」というサブ・タイトルで、更新速度はかなりスローではありますが、新しい記事を追加することにし、今に至ります。

 

「永遠の至福」を用いたのは、自己に起きた覚醒体験からで、その体験を通して、「(真の)自己実現」(この場合の「自己」とは、「真我」(アートマン)のことであり、つまり「自己実現」(Self-Realization)とは、ラマナ・マハルシが語っている「真我実現」のことで、英語圏では、真我を”Self”と表し、個我を”self"とすることが多いようですが、サンスクリット語では、真我は”アートマン”、個我は”ジーヴァ”と呼んでいます)という言葉が、実際には何を意味しているのか、よく分かったからです。

 

真の自己(真我、アートマン)とは、所謂、「魂」のことであり、私たちの本質であり、永遠の実在です。

 

私たちの最奥の内側に潜在する真の自己である真我(アートマン)は、通常は、私たちの肉体に具わっている五つの感覚知覚器官では捉えることはできませんが、だからと言って、潜在的な存在を捉えることが、全くの不可能ということではありません。

 

真の自己である真我(アートマン)を識るための突破口の一つと言えるのが、今ご紹介している「クンダリニー」であり、この誰の身体にも眠ったように潜在している「クンダリニー」が目覚めると、「真我実現」への突破口となり、微細次元の扉が開きます。

 

クンダリニー」とは、「トグロを巻いた蛇」という意味のサンスクリット語ですが、ある種のエネルギーとして、誰の身体にも潜在しているのですが、私たちの大半は、そのことに気づいていません。

クンダリニー」のない人、更に言うと、「チャクラ」と呼ばれるエネルギー中枢や、全身に張り巡らされた「ナディ」というエネルギー経路を持っていない人は、この世にはいません。(それは、「魂」のない人はいない、ということと同じことで、身体に満ち溢れている身体エネルギーの「源」は、真の自己(真我、アートマン)である「魂」なのです)

 

ただ、通常の感覚では、捉えることができないため、私たちは、日常生活の中で、それらを意識することがなく、そのため、それらの存在について、ほとんど知識を持つことなく、また、知っていても、知らなくても、生きる上で殆ど支障がないため、身を以って知りたいという欲求が起こることは稀と言えます。

 

しかし、スピリチュアル(霊的)な探求においては、どこかの時点で、これらの微細次元における様々な存在について、体験を通して識り、理解していく必要が生じることでしょう。

 

「自分」という存在に秘められた微細次元への理解が起こらない限り、「自分」に関するすべての疑念が消滅し、「わたしは誰か?」という問いへの答えに行き着くことは不可能と言えるからです。

 

通常、私たちに具わっている感覚知覚器官で捉えることができるモノは、物質界のほんの一部にしか過ぎません。

空中を飛び交う電波や可視光以外の電磁波など、私たちが日常生活に活用しているモノでさえ、微細次元の領域にあるモノは、人間の五感では、捉えることができませんが、しかし、それらが、実際に存在していることを、私たちは知っています。

 

同じように、今回ご紹介する「クンダリニー」、「チャクラ」、「ナディ」などは、ヨーガにおいて古くからそう呼称されているだけで、それぞれは、異なるエネルギーではなく、私たち一人一人に働いている身体エネルギーなのですが、微細次元のエネルギーであるために、あまり知られていないため、今の段階では、認知度は低いですが、けっして、ヨーガの世界に関わっている人たち特有のモノであったり、または、架空の空想上のモノであったり、ということではなく、生きている人間であるならば、万人共通のモノであると言えます。(よって、オカルト的な存在ではありません)

 

前置きが長くなりましたが、今回は、最初にスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からのご紹介と、続いて、Oshoの講話集より、ご紹介したいと思います。

 

 

 

How Kundalini Can Be awakened(どのようにしてクンダリニーは目覚めさせることができるか?)

クンダリニーを目覚めさせる前に、あなたはDeha Suddhi、Nadi Suddhi、Mana Suddhi、Buddhi Suddhi、Bhuta Suddhi、Adhra Suddhiを持たなくてはならない。

Deha Suddhiとは、身体の浄化である。

Nadi Suddhiとは、アストラル体の浄化である。

Mana Suddhiとは、心(マインド)の浄化である。

Buddhi Suddhiとは、知性の浄化である。

Bhuta Suddhiとは、五大元素の浄化である。

Adhara Suddhiとは、Adhara(基底部、つまりムーラーダーラ・チャクラ)の浄化である。

もし浄化がなければ、シッディ(超能力)、或いは、完全性はやって来ないだろう。

シッディは、浄化なしには、不可能である。

人は、クンダリニーを目覚めさせようと試みる前に、完全に願望のない状態になり、冷静さ(ヴァイラーギャ)に満たされなくてはならない。

もし、心に多くの不純がある人が、アーサナ(行法)やプラーナヤーマ(調気法)、ムドラー(クンダリニーを目覚めさせるための特別な行法)を通した力によって、シャクティ(霊力)を目覚めさせるならば、彼は足を折り、躓くであろう。

彼は、ヨーガの階梯を上って行くことはできないであろう。

これは、道から外れて行くか、身体的な弱点を得ていく人に対する主な理由である。

ヨーガには、悪いものはない。

人々は、先ず、純粋性を持たなくてはならない。

それから、サーダナ(修行)の完全なる知識、適切な指導、絶え間ない段階的な練習。

クンダリニーが目覚めると、道には多くの誘惑があり、純粋でない修行者は、抵抗する力を持たないだろう。

グル(指導者)は、重要である。

バクティ(神への信愛)・ヨーガとヴェーダンタ(不二一元論)の実践のために、あなたは、あなたの側においては、グル(指導者)は必要ではない。

グル(指導者)から時折、経典を学んだ後に、あなたは、引き籠って独りで復習し、瞑想しなくてはならないだろう。

であるが故に、クンダリニー・ヨーガにおいては、あなたは、ナディ、チャクラの位置、及びヨーガの幾つかのクリヤ(行為)の詳細な技法を完全に理解しなくてはならないだろう。

これらは、すべて難しい行程(プロセス)である。

あなたは、かなり長い間、グル(指導者)の生徒でなくてはならないであろう。

クンダリニーは、ハタ・ヨーガのプラーナヤーマ、アーサナ、ムドラーで目覚める。

ラージャ・ヨーガによる心(マインド)の集中と訓練により。

バクタ(神への信愛の実践者)による完全なる帰依や献身により。

ジニャーナ(哲学的思考により真理を覚ろうとする実践者)の分析的な意志により。

タントラ実践者によるマントラにより。

接触や一瞥、単なる想念を通したグルの恩寵により。

選ばれた少数の人々には、上記の方法のどれかが、クンダリニーを目覚めさせるには、全く十分である。

多くの人々は、異なる方法を組み合わせなくてはならないだろう。

 

 

The Awakening of Kundaliniクンダリニーの目覚め)

クンダリニーが目覚めるや否や、それは、ムーラーダーラ・チャクラを突破する。

探究者は、クンダリニーが目覚めると、特別な音をたてる。

彼は、いろいろな種類のヴィジョンや神聖な香りを経験する。

彼は、超能力を開発する。

彼は、あたかも一万の太陽がムーラーダーラ・チャクラで同時に輝くような眩しい光を見る。

クンダリニーが目覚めた後、心(マインド)、プラーナ、個人、クンダリニーは、上部へと上昇する。

プラーナは、心(マインド)とアグニ(火)と共に、ブラフマ・ナディ(※1)を通って上へと通過する。

ヨーギーは、肉体感覚から自由になる。

あなたは、外界の物質界から締め出される。

(※1)(脊髄中に通っている、微細次元の導管。クンダリニーが目覚めると、スシュムナー管を通り、その内側のヴァジュラ―管(Vajra Nadi)、さらに内側のチトリニー管(Chitrini Nadi)、さらに一番中心にあるブラフマ管(Brahma Nadi)という三つの導管を照らし出しながら上へ上へと昇って行きます。これら三種の導管からなる三角構造は、絶対者ブラフマンの音の象徴となっています。というのも、クンダリニーは、これら三つの管の中を、シューシューという音をたて、その内部を照らし出しながら上昇してゆくからですー「魂の科学by スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ」より)

 

 

Experiences on the Awakening of the Kundalini Saktiクンダリニーシャクティの目覚め体験)

瞑想中、あなたは神聖なヴィジョンを見、神聖な香り、神聖な味、神聖な接触を体験し、神聖なアナハタの音を聞く。

あなたは、神からの指示を受ける。

これらは、クンダリニーシャクティが目覚めたことを意味する。

ムーラーダーラで鼓動がある時、髪の毛が根元から逆立つ時、ウッディヤーナ(※2)、ジャランダーラ(※3)やムーラー・バンダ(※4)が、不随意に起こる時、クンダリニーが目覚めたと知りなさい。

呼吸が努力なしに止まる時、ケヴァラ・クンバカ(※5)が努力を要することなく自然と起こる時、クンダリニーシャクティが活性化したと知りなさい。

プラーナの流れがサハスラーラに上昇して行くのを感じる時、あなたが至福を感じる時、自動的にオーム(Om)を繰り返す時、心(マインド)の中に世界についての思考が無いのを体験する時、クンダリニーシャクティが目覚めたと知りなさい。

瞑想中に、眼が眉間で固定され、サーンバヴィー・ムドラー(Sambhavi Mudra)(※6)が始まる時、クンダリニーが活性化したと知りなさい。

あなたがあなたの身体内の各所で、プラーナの震動を感じる時、あなたが電気ショックのような痙攣を経験する時、クンダリニーが活性化したと知りなさい。

瞑想中、身体が無くなったように感じる時、あなたの瞼が閉じられ、あなたの努力にも拘わらず開かない時、電気的な流れが神経を上下に流れる時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

あなたが瞑想している時に、あなたが閃きや直感を得る時、自然があなたにその秘密を開示する時、すべての疑いが消え、あなたが明らかにヴェーダ聖典の意味を理解する時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

あなたの身体が空気のように軽くなる時、あなたが混乱した状況で、安定した心(マインド)を持つ時、あなたが仕事に疲れを知らないエネルギーを持つ時、クンダリニーが活性化したと知りなさい。

あなたが神聖な興奮を得る時、あなたが演説の力を開発する時、クンダリニーが目覚めたことを知りなさい。

あなたが、少しの痛みや疲れなしに、無意識に異なるアーサナやヨーガのポーズをする時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。

あなたが、無意識に美しい崇高な聖歌や詩歌を作る時、クンダリニーが活性化したことを知りなさい。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

(※2:呼息の後に止息しておいて、腹部を引っ込める行法)

(※3:二つの鎖骨が合わさる所に顎を押しつけて気管を閉じてしまう行法)

(※4:肛門を閉じる行法)

(※5:自然に呼吸が止まること)

(※6:空中の一点に目の焦点を合わせて見続けること)

 

 

 

『質問者

「激しい呼吸と「私とは誰か?」という問いかけは、クンダリニーが目覚め、各中枢またはチャクラへと流れこんで行く過程と、どのような繋がりがあるのでしょうか?」

 

Osho

「そこには、そのふたつの過程の間には繋がりがある。

それも深い繋がりが。

実のところ、魂と体をつなぎ合わせているのは呼吸だ。

呼吸が両者に橋を架けている。

だから、呼吸の停止とともに生命が失われてしまうのだ。

たとえ脳障害を受けても生命活動は続く。

目や手足が絶たれても、死ぬことはない。

だが、もし呼吸が止まったら即座に生命活動も終わる。

まさに、呼吸によって体は魂へと結びつけられている。

そしてクンダリニーとして知られているエネルギーは、魂と体の接合点に、両者が出会う地点にある。

クンダリニー、あるいはいかなる名前をつけようとかまわないが、それらはみな同じエネルギーにほかならず、それは体と魂が接合する場所にある。

そのため、このエネルギーはふたつの形態をとる。

このエネルギーが体の方へと流れればセックスとなり、魂の方へ流れる時はクンダリニー――それをどう呼ぼうとかまわないが――となる。

そしてこのエネルギーは体へ向かう時には下降し、魂へ向かう時には上昇する。

すなわちクンダリニーが上昇するエネルギーなのに対して、セックスは下降するエネルギーとなる。

が、クンダリニーのある地点、それが位置する場所は呼吸によって、深くて速い呼吸により打ちつけられ、振り動かされる。

意外かもしれないが、愛を交わしている最中に穏やかな呼吸を保つことは不可能だ。

愛を交わすと、即座に呼吸の動きが変わる。

性的に興奮するや否や呼吸が速くなる。

呼吸によってこの中枢を打ちつけないかぎり、性エネルギーは動けないからだ。

だから、呼吸によって打ちつけられ活性化されなければ、性交はできない。

それと同じようにサマーディ(法悦)も、クンダリニーが呼吸によって打ち付けられ、活性化されないかぎりありえない。

 

サマーディは上昇するエネルギーの頂点、最高地点にあたり、性行為は下降するエネルギーの底、最低地点にあたる。

だが、呼吸はどちらに対しても同じように等しく影響を及ぼす。

試してごらん。

頭がセックスのことで一杯になっている時、呼吸を落ち着かせ速度を落としてみなさい。

あるいは怒りや貪りの想いが頭から離れない時に、呼吸の速度を落とし、落ち着かせてみなさい。

やがてセックスや怒りやいろいろなことが、すっかり消え去っていることに気づくだろう。

それらが持続することは絶対にありえない。

なぜなら、活力源となるエネルギーは呼吸から起こるからだ。

呼吸による刺激をうけなければ、エネルギーは動けない。

それゆえに、呼吸を落とし、一定に落ち着かせたまま怒るなど、誰にもできない。

もし、非常にゆっくりと落ち着いた呼吸をしながら怒れるものがいたら、奇跡だ。

正真正銘の奇跡だ。

が、そんなことはありえない。

呼吸がゆっくりと落ち着いたとたん怒りは消える。

また、ゆっくりと落ち着いた呼吸のまま欲情することも不可能だ。

性的欲望は呼吸する速度の低下とともに消える。

だからセックスや怒り、または様々な欲望で頭の中が一杯になった時には呼吸の速度を落とし、穏やかな呼吸をしなさい。

そして瞑想に対する渇きや熱望がマインドの中に生じたら、呼吸の速度を上げて深い呼吸でクンダリニーを打ちつけなさい。

というのは、この内なる渇きと打ちつけるような呼吸があれば、エネルギーが揺らぐことなく瞑想の旅へと向かうからだ。

深い呼吸は、クンダリニーにとても大きな影響を及ぼす。

プラーナヤーマ(ヨーガ式呼吸の科学)が発見されたのも偶然ではない。

長期にわたる実践と研究と連綿と続く体験から、呼吸や呼吸によりクンダリニーを打ちつけることで、非常に多くのことを成し遂げられることがわかった。

実際、深くて速い呼吸によって起こることはたくさんある。

そしてその打ちつける力が、より激しく、強ければ強いほど、エネルギーの動きも速くなる。

ましてや、普通の人たちに関して言えば、無数の生に渡ってクンダリニーが眠り続けてきたので、とりわけ激しく、力強くあらんかぎりの力で打ちつけることが必要となる。

呼吸はクンダリニーを叩く。

体験が深まると、両目を閉じていても、呼吸によって打ちつけられる場所がはっきりとわかるようになる。

ところが、深い呼吸で打ちつけると性的興奮が起こることがよくある。

そうなるのは、体が深く呼吸した時には、性的に興奮するという経験しかないからだ。

習慣上、深くて速い呼吸をすると、必ず体はいつもどおりのセックスの方向へと向かい始める。

そしてたくさんの探究者たちが――男女を問わず――深い呼吸をすると、すぐに性中枢が刺激を受けるように感じる理由もそこにある。

深くて速い呼吸は、必ずクンダリニーに大きな影響を及ぼす。

いわゆるチャクラという中枢は、すべてクンダリニーの停留地点にほかならない。

これらの中枢をクンダリニーが通過していくのだ。

普通そういう中枢にはいくつもあり、その数に関する意見もまちまちだ。

だが大雑把に言うと、七つの重要な中枢があり、クンダリニーの上昇や下降の時、そこで、一時的に停止することがある。

そしてクンダリニーが流れてくると、それらの中枢はその影響を受ける。

そしてまず始めに、あなたのもっとも活動的な中枢でその中枢固有の影響が感じられるだろう。

たとえばいつも頭脳を使っている人なら、深い呼吸をすると頭がひどく重くなる。

というのも、脳の中枢が、たまたまその人のもっとも活動的な中枢となっているからだ。

呼吸による最初の衝撃を頭で――その人にとっての活動的な中枢――で感じ、そこが重くなるはずだ。

またその人が性的であれば、始めに性中枢が刺激を受けるだろう。

同様に、愛情深い人は自分の愛情が刺激を受けて高まり、溢れだしていくのがわかるだろう。

また感情豊かな人は、感情が高まっていくだろう。

 

こうして深くて速い呼吸によって、もっとも活動的な中枢が打ちつけられ活性化する。

しかし、すぐに他の中枢にも影響を及ぼし始めるだろう。

それに相応して、同時に人格の変化、変容が起き始める。

あなたは自分が変わりつつあることに、今までの自分とは違った人間になっていることに気づき始めるだろう。

みんなは気づいていないが、私たちひとりひとりの内側には、実に様々な可能性がある。

自分が知っているのは、自分が腰を据えているもっとも活動的で優勢な中枢だけだ。

そのため他の中枢が開くと、あたかも自分のそれまでの人格が消え失せ、別の人間が出現したかのようになる。

つまり、以前の自分とは別の人間のようになる。

それはちょうど、私自身が住んでいる家なのにひとつの部屋しか知らず、その部屋の印象が脳裏に焼き付けられているところへ、ある日突然ある扉が開き、目の前に他の部屋が現れるようなものだ。

そうなると、自分が心に描いていた家の構造は一新されてしまう。

今や我が家と考えていたものが、まるっきり異なった家になり、家の造りも新たに把握し直さなくてはならなくなる。

同じように、様々な中枢が打ちつけられ活性化されると、新たな広がりをもった生が自ら顔を覗かせ始める。

そしてすべての中枢が一様に活性化している時――エネルギーがすべての中枢にもれなくいき渡る時――初めて私たちは全体的な生を送り、生を全面的に生きるようになる。』(この続きは、次回にご紹介します)

(「奇跡の探究 Osho講話集」)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************

 

 

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(65) クンダリニー①

今回からは、今般、ヨーガを実践している方々の中には、耳にし、知っている方もいらっしゃるかと思いますが、実体験がないために、具体的なイメージを掴んでいる人は、まだ少数と思われます「クンダリニー」について、ご紹介したいと思います。

 

クンダリニーシャクティ)」については、クンダリニー覚醒を体験し、グル(教師)として、多くの求道者達を導いて下さった方々が、いろいろな角度から情報を発信して下さっていますので、それらの情報に触れるだけであっても、「クンダリニー」という、私たち人間を生かしている生命力であるエネルギーの源泉が、この身体に、見えない形で眠っているかの如く、潜在している、ということは、大まかには、理解することができるでしょう。

 

多くのヨーギー達は、潜在する「クンダリニー」をプラーナヤーマの実践で、目覚めさせ、完全にアストラル体となって、多くのシッディや超常的な体験を得ますが、これは、「クンダリニー・ヨーガ」と呼ばれることもあり、その修養体系を教えることができるグル(教師)は、今現在、それほど多くはいらっしゃらないようです。

 

最初にご紹介しますのは、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次は、Osho(バグワン・ラジニーシ)の講話集から、非常に参考になると思われる抜粋文と、最後は、以前にもご紹介しましたが、今から13年前に、「クンダリニー覚醒」を体験された当時のナーナ先生の鮮明な体験談です。(ナーナ先生は、当時、アシュタンガ・ヨーガを精力的に実践されていたそうです)

 

ヨーガの修行中に、「クンダリニー覚醒」が起こることは、確率として見ると、そう多くは起こらないため、世間的には、その存在は、殆ど知られていませんが、生命力の源として、生命エネルギーが発生する源泉のようなセンターは、確かに、お尻の基底部に、人体と重なるように、潜在しています。

 

この潜在するエネルギーが目覚めると、意識は、霊的な次元へと踏み込むため、必然的に、人間という存在に秘められた構造的な秘密が、露わになることでしょう。

 

 

 

KUNDALINIクンダリニー

すべての行動の背後には、静的な背景がある。

エネルギーの背後には、意識がある。

シャクティ(力)の背後には、シヴァがいる。

シャクティそれ自体は、二つの正反対の静的と動的な面を持っている。

あなたは、磁石の極のように、静的な形でそれを持ちながら、同時に動的な形でシャクティを持つことはできない。

宇宙シャクティは、クンダリニーとプラーナとして、人間の肉体に現れている。

クンダリニーは、動くプラーナの力のための静的な支えである。

人は、小宇宙である。

外的宇宙に存在するモノは何でも、彼の中に存在する。

宇宙、山々、川、要素などに見られるすべてのモノは、身体にも存在する。

すべての元素(Tattvas)と次元(Lokas)は、身体の中にあり、それらはまた、至高のシヴァ・シャクティである。

人間の身体の中に、シヴァは、頭頂のサハスラーラ・チャクラに住まわれ、クンダリニーは、脊柱の基底部のムーラーダーラ・チャクラに住んでいる。

“ムーラーダーラ”とは、“根の支え”という意味である。

クンダリニーは、全身体の静的な力であり、すべての動いているプラーナの力である。

 

 

Tha Nature of Kundaliniクンダリニーの性質)

クンダリニーは、ムーラーダーラ・チャクラに、眠っている潜在的な状態におかれている根源的なエネルギーである。

それは、個人の身体における宇宙的な力である。

それは、電気的で、燃えるような超自然的な力であり、有機的で無機的なすべての事柄を強調する強力な原初の力である。

“クンダ”とは、“とぐろを巻いた”という意味である。

彼女の形は、とぐろを巻いた蛇のようである。

それ故、“クンダリニー”という名前なのである。

クンダリニーは、電気や磁気のような物理的な力ではない。

それは、霊的な潜在的な力(シャクティ)である。

現実に、それはどんな形も持っていない。

粗大な知性と心(マインド)は、最初の段階では、特別な形を追う必要がある。

この粗大な形から、人は容易に、微細な無形のクンダリニーを理解することができる。

クンダリニーは、また、自分の中に力を開発しているヨーギーの身体で働いている蛇の力と呼ばれている。

それが目覚めると、それは笞で打たれた蛇のように、シューという音をたて、スシュムナー内のブラフマ・ナディを通って上昇し始める。

クンダリニー・ヨーガは、全身の創造し維持する力(シャクティ)が、実際に本当にシヴァ神と結合する。

ヨーギーは、彼を彼女の神に紹介させるために、彼女を扇動する。

クンダリニーシャクティの目覚めと、サハスラーラにおける彼女のシヴァ神との結合は、サマーディの状態と霊的な体験をもたらす。

ヨーガの生徒は、不死の妙薬を飲む。

クンダリニー・ヨーガは、精密な科学である。

これはまた、ラヤ・ヨーガとして知られている。

 

 

Nadis and Chakras(ナディとチャクラ)

ナディとチャクラの詳細な知識は、クンダリニー・ヨーガの全生徒たちにとっては、最も重要である。

肉体は、アストラル体の性質に従って、形作られる。

肉体は、水に似たものである。

それは、粗大な形である。

アストラル体は、流体、或いは、気体に呼応している。

それは、微細な形である。

同じく、アストラル体、或いは、微細体(スークシュマ・シャリーラ)は、粗大、或いは、物質的な身体の中にある。

粗大な体は、アストラル体なしには、何もできない。

身体のあらゆる粗大なセンターは、アストラル(微細)なセンターを持っている。

ナディは、プラーナを運ぶ霊的な神経、或いは、アストラル管である。

それらは、霊的な流れを運ぶアストラル的なモノからできている。

生命力が動く、或いは、流れるのは、これらの微細な通路を通してである。

ナディが、微細なモノからできているので、それらは、肉眼では見ることができず、あなたは、物質次元では、いかなる管の体験もすることはできない。

これらのヨーガのナディは、医学者たちに知られている通常の神経ではなく、動脈でも血管でもない。

ヨーガのナディは、これらとは、全く異なる。

身体は、数え切れない無数のナディで満ちている。

アスバッチャの木の葉っぱが、微細な線維で覆われているように、同じように、身体にも何千というナディが行き渡っている。

身体のあらゆるナディは、カンダ(*1)から湧いている。

カンダとは、バルブを意味する。

カンダは、すべてのナディの源である。

肛門の上の二本の指と生殖器の下の二本の指が、カンダである。

形は鳥の卵に似ており、大きさは、四本の指の幅である。

72,000のナディが、カンダから出ている。

カンダは、アストラル体の中心である。

このセンターに相当して、あなたは、粗大な肉体に“馬の尻尾”(cauda equina)を持つ。

カンダから湧き出でるすべてのナディの中で、イダー、ピンガラ、スシュムナーが最も重要である。

そして、スシュムナーが主管である。

スシュムナーは、ムーラーダーラ・チャクラからブラフマランドラ(頭頂にある霊穴)まで伸びている。

それは、最も重要であり、ヨーギーによって探し求められている。

他のナディは、この下位にある。

西洋の解剖学は、脊髄には、灰色と白色の脳髄からできている中央導管(canalis centralis)と呼ばれている導管があることを認めている。

脊髄自体は、脊柱の穴の中で、落とされたり、つるされたりする。

同じように、スシュムナーも脊柱内で、落とされ、微細な部分を持つ。

それは、炎のような赤い色である。

スシュムナー内では、ラジャス的な性質をもった太陽として輝くバジュラ(金剛杵と呼ばれる法具)と名付けられたナディがある。

このバジュラ・ナディ内では、チトラと名付けられたもう一つのナディがある。

それは、サットワな性質の青白い色である。

このチトラ内で、非常に繊細で細かい管がある。

この管は、クンダリニーが目覚めた時、ムーラーダーラからサハスラーラ・チャクラまで通り抜けるブラフマ・ナディとして知られている。

このナディには、すべての六つのチャクラ、或いは、蓮の花が存在している。

チャクラは、神経叢、或いは、スシュムナー・ナディにおける微細生気(スークシュマ・プラーナ)のセンターである。

身体のすべての機能は、これらのセンターのコントロール下にある。

チャクラは、生命力の微細なセンターである。

これらは、魂、或いは、意識のセンターである。

チャクラは、死の際の肉体の機能の崩壊後でさえ、アストラル体にある。

これらのチャクラ、或いは、微細なセンターは、脊髄のセンターや粗大な肉体の神経叢に一致するセンターを持っている。

例えば、アナハタ・チャクラは、心臓神経叢で肉体に一致するセンターを有する。

それぞれのチャクラは、粗大な体に特別なセンターを覆う制御や機能を有する。

粗大な神経や神経叢は、微細なものと密接な関係をもっている。

肉体のセンターは、アストラルのセンターと密接な関係を持っているため、定められた方法によって、肉体のセンターで生産された振動は、アストラルなセンターやアストラルなセンターで望んだ効果を持つ。

クンダリニー・ヨーガの部分での最初の試みは、すべての世俗的な心理状態の人びとにおいては、大抵は閉じているスシュムナーを開口へと導くナディの浄化である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

(※1:ショウロ茸、微細次元の楕円球。72,000あるという導管は、すべてここから出てきているとされる)

 

 

 

『生命力が蓄えられている所は、クンダ、池のようなもので、セックスセンターの近くにある--そのエネルギーがクンダリーニとして知られているのはそのためだ--それはあたかもクンダ、つまり池のようだ。

また、クンダリーニと呼ばれるもうひとつの理由は、それがとぐろを巻いて眠っている蛇のようにも見えるからだ。

大蛇の眠っている姿を見たことがあれば、どのように鎌首をのせ、とぐろを巻いているのかわかるだろう。

だがその大蛇の眠りを防げると、目を覚ますや否や、とぐろを解きその鎌首をもたける

このエネルギーがクンダリーニと呼ばれているのは、生命力の池、すなわち生命の根源がちょうどセックスセンターの近くにあり、そこから生命があらゆる方向に拡がっていくからである。

覚えておくといいだろう。

セックスから得る些細な快感は、それそのものの快感ではなく、セックスにともなって湧き起こる生命エネルギーの池の波動によって得られる、というのが本当だ。

眠れる大蛇がセックスによってわずかに動く。

そして、私たちはそれを人生最大の悦びだと思っている。

大蛇が完全に目覚め、体じゅうをかけ巡り、脳にある究極の中枢に達した時、何が起こるのかまったくわかっていない。

そのことについてはまったくの無知だ。

 

私たちは、生という梯子の第一段目で生きている。

そこにはまだ他の段階が、より高い段階があり、それは神へと通じている。

体の中の二、三フィートというわずかな隔たりも、別の意味では非常に大きな隔たりといえる。

それは自然と神との、物質と魂との、眠りと目覚めとの隔たり、死と不滅との隔たりだ。

その隔たりはとても大きい。

だが、人間という存在の中ではわずかな隔たりでもあり、それは瞑想によって超えられるものだ。

あなたの中で眠っているエネルギーを目覚めさせようと思うなら、それは大蛇の眠りを妨げて起こしてしまうのと同じくらい危険だということを、しっかりとふまえておかねばならない。

実際には、大蛇を起こすのはそれほど危険ではない。

第一に97%の蛇にはまったく毒がない。

だから百匹の蛇のうち九十七匹とは、何の心配もなく戯れることができる。

それらが危害を及ぼすことはないのだから。

もし蛇に咬まれて死ぬ人がいるとしたら、実は咬まれたせいではなく、蛇に咬まれたという想いから死ぬのだ。

普通の蛇には毒はない。

百匹の蛇のうち九十七匹は人を殺すことなどないのだが、蛇に咬まれて大勢の人が死ぬ。

そうなってしまうのは、人は蛇に噛まれたら必ず死ぬものだという思い込みがあるからだ。

思い込みにとらわれると、それが現実のものとなってしまう。

本物の毒蛇と戯れることもそれほど危険ではない。

というのも、せいぜい毒蛇はこの肉体を奪うことくらいだからだ。

だが、私が話しているクンダリーニのエネルギーと戯れることは実に危険だ。

これ以上危険なものはない。

どんな危険も、これ以上大きなものにはなりえない。

だが、何が危険だと思うかね?

これもまたある種の死だ。

内なるエネルギーが目覚めたら今現在のあなたは死ぬ。

そしてまったく新しいひとりの人間が生まれる――目覚める前のあなたとはまったく異なるひとりの人間が。

しかしながら、この恐れは人々が宗教的になるのを拒んでいる。

もし、この同じ恐れが種にあったら、樹にはなれないだろう。

この時種子は土の中に埋められ、水と肥料を施され、種子として死んでいくという最大の危機に直面する。

卵が成熟しその殻が破られる時も、この同じ危険が卵に訪れる。

その時、卵としては鳥になるために死なねばならない。

同じように、私たちはまだ生まれる前の段階にいる。

鳥になろうとしている卵のようなものだ。

しかし、私たちは卵がすべてだと考え、その中で腰を落ち着かせてしまっている。

 

このエネルギーが上昇すると、もはや、あなたはいなくなるだろう。

あなたが生き延びる道はない。

もし怖がっていたら、あなたの運命は、カビールが美しい詩句の中で描写しているようになってしまったのだ。

カビールが言ったことは美しい。

彼は言った。「海深く潜りて、探し求めた者のみが、それを見つけた。

だが愚かにも我は海に留まり探し続けていた」

誰かがカビールに、なぜあなたは留まったままでいたのかと尋ねると、彼は「海深く潜りて探し求めた者のみが、それを見出した。

だが、愚かにも我は溺れることを恐れ、海辺に留まり続けていたのだ」と言った。

それを見出したものはみな、深く入って探し求めることでそれを達成してきた。

絶対必要なのは、溺れる用意ができていること、消える用意ができていることだ。

もし一言で言えば――聞こえはよくないが――それは死だ。

死ぬ用意ができていることだ。

そして溺れることを恐れている者は、もちろん死にはしないだろう。

だが、卵のまま生きながらえるだけだ。

けっして鳥となってはばたくことはない。

溺れることを恐れる者は、もちろん死にはしないだろうが、ただ種子のまま、生きながらえていくだけだ。

大木となり、その木陰で無数の旅人たちにくつろぎを与えることは、決してない。

けれども種子のまま生き続けることに、何の価値があるのか?

このように、危険は大いにある。

昨日までの<私>という人間が終わってしまう危険性だ。

エネルギーが目覚めると、<私>というものが全面的に変容される。

新たなセンターが目覚め、新たな個性が現れ、新たな体験が起こる――何もかもが新しくなる。

新しいものを受け入れる準備ができているなら、古いものを手放す勇気を奮いたたせなくてはならない。

ところが古いものはあらゆる点で私たちをがんじがらめにし、あまりにも強く縛ってきた。

そのために、生命エネルギーはその頭をもたげられず、上昇できなくなってしまっている。

 

「クンダリーニを目覚めさせるのは、危険なことなのでしょか?

もしそうであれば、どのように危険なのでしょうか。

また、危険があるのなら、どうしてクンダリーニを目覚めさせなければならないのでしょうか」

 

クンダリーニの目覚めには、多大な危険がともなう。

実のところ、自分にとって人生と思えるものはすべてが失われてしまう危険性がある。

クンダリーニが目覚めると、人はそれまでとは異なった人間となる。

すべてが変化する。

すべてがだ!

関係性、感情、世界といった、昨日まで馴染みのあったもののすべてが変わってしまう。

変化をもたらすものは、すべて危険だ。

石炭がダイヤモンドになるには、石炭としての生命を断たねばならない。

だから危険性は非常に高い。

がそれは石炭としての危険にすぎない。

石炭がダイヤモンドになるのは、それが石炭として消え去って初めて可能だ。

おそらくあなたがたは、ダイヤモンドと石炭とは、本質的にはまったく違わないことを知らないだろう。

もともと、両方とも同じ元素に属している。

ダイヤモンドは非常に長い歳月を経るうちに、石炭が変化したものだ。

化学的にいえば、石炭とダイヤモンドは基本的に何ら違いはない。

しかし石炭がダイヤモンドになりたかったら、石炭のままではいられない。

非常に危険な状態に直面することになる。

同じように、神を求めて道を歩んでいく人も、危険に直面する。

その人は、人間として死ぬことになる。

河も海へ合流する時には、大きな危険に直面する。

その時、河は消え去る。

それを避けることはできない。

だが「危険」とはどういうことなのか?

それは消滅だ。

消え去る覚悟、死にゆく覚悟のある者だけが、神へと至る旅へと向かうことができる。

死は、瞑想のように私たちを完全に消滅させることはない。

なぜなら死とは、人がある体から離れ、別の体に入ることにすぎないからだ。

死においては、あなたが変わることはない。

あなたが外側にまとっている衣だけが変わる。

あなたは、依然として同じままだ。

なぜなら、死には人々が考えているほど大きな危険はない。

瞑想は、死よりもはるかに危険だ。

なぜなら、死があなたから服を奪い取るだけなのに対して、瞑想はあなたから、あなたそのものを奪いとってしまうからだ。

 

危険はある。

それゆえに魅力があるのだ。

だからこそ、それに向かって進まねばならない。

危険に直面するのは、ダイヤモンドではなく石炭だ。

危険にさらされるのは、海ではなく河だ。

危険にぶつかるのは、あなたの内なる神ではなく、あなただ。

だから今、このことを自分でよく考えてみなさい。

もし身の安全を図れば、あなたは神を失うことになる。

もし、神を見出したかったら、あなたは自分というものを捨てなくてはならない。

ある晩、ある者がイエスに質問した、「あなたがいつも話している神を見出すには、何をすべきなのでしょうか?」。

エスは「自分を捨てる以外、何もする必要はない。わが身を守ってはならない」と答えた。

その男は「何をおっしゃるのですか?私が死んだら、何を得るというのですか」と言った。

エスは答えた「自らを失う者は真の自己を見出し、自らを守る者は、永遠に真の自己を失う」と。』

(奇跡の探究 Osho講和録)

 

 

次にご紹介しますのは、ナーナ先生のクンダリニー覚醒時の鮮明な体験談です。

 

『2010年の1月から、アシュタンガヨガセンターに行き始め、クンダリニーが覚醒したのは、その2ヶ月くらい後です。
その間に既に、毎回始まりのマントラとスタンディングポーズだけで、天と地が一本の柱のように通って、全身が太いエナジーの柱になり、体がグルグル回転して静止できないことが多々ありました。
ヨガセンターには、気づいたら真我一体になっていた2012年12月の少し前まで通い、アーサナを実践していました。
毎日早朝に排泄を済ませて、必ず朝風呂に入って全身を洗い身体を清めてから、スーリャ・ナマスカーラAからできるところまでを行いました。
アシュタンがヨガセンターへ行くことはさかのぼって5〜6年前からの目標でした。
そのために身体を整える準備をしていました。
元々子供の頃から柔軟、バランス、深層筋、持久力(精神力)を要する運動が好きで、そのための必要なストレッチは毎朝20年以上続けていました。

 

2010年、春の訪れを感じて間もないある日のことでした。

帰宅するため電車に乗って席に座っていました。

すると突然、体の中の根底辺りに何か物凄い力のエナジーの活動を感じました。

ゥアー!!これは何??

それは暴発した火の玉のようでした。

高速回転している光のようにも感じました。

間もなく脊椎に沿って下腹部へ上がってきました。

このとき目前に体の細胞が大きく拡大されて映り、生々しい体内の長い長いトンネルのような管の中を光の玉が超高速スピードで昇っていくのが見えると同時に体で感じていました。

そのトンネルの距離は時間のようでした。

光の高速エレベーターがとてつもない距離と年月を超高速スピードで一気に昇っていく感覚です。

更に上へ、胃の辺りから胸まで達するときには圧力を感じていたので、このままこの強力なエナジーが頭頂に昇り詰めたら!脳や血管も頭もろとも破裂して、と、一瞬よぎりましたが、恐怖感はありませんでした。

このとき既に首から顔の半分まで達していて、今起こっているがまま次の瞬間!

頭頂のてっぺんの大きな蓋が 勢いよく「ポン!!」っと、大きな音を響かせて吹っ飛びました。

その様も音もシャンパンのコルクが飛ぶ音に似ていて、それは白っぽく平たい丸皿に似た頭頂の蓋に圧が掛かって勢いよく音を響かせて飛んだ瞬間、体の一部であるその蓋を眼で追いかけていました。

と同時に体がスーッと軽くなり、椅子からお尻が数センチ浮き上がっていて、重さや重力も感じられなくなっていました。

この感覚は何?何が起きているの?いったい何か起こっているの?と自分に問いかけました。

この間一駅から二駅くらいの間でした。

降りる駅に着き、この感覚のまま立ち上がりドアに向かって一歩二歩と歩き出すと、足の裏の床を踏む感覚がまるで感じられないのです。

足の裏が靴を感じることも、靴の底が床を踏む感覚もありません。

更に確かめるように前へと進みましたが、確実に体が宙に浮いてしまっていて重さも全く感じられません。

反対側のホームの改札へ向かうため階段を下りはじめると、周りの空気全体がほわ~~んとほんわりしてきて、柔らかく温かくなり、それに優しく包まれてとてもいい気持ちになりました。

連絡路を歩き階段を上がりはじめる頃には、わたしを包む周りの空気の一つ一つの微細な粒子が 愛 愛 愛……全て愛でできているように感じました。

超微細なのに、それは目前に拡大されて見えていてはっきりとわかるのです。

とても幸せな気持ちになり、幸せの中に漂っていて、何か大きな愛に包まれていて、守られていて、心地よくて温か~いのです。

この時わたしは既に体も無くなっていて同化した中に、意識と感覚だけが“そこ”にありました。

ここは別の世界、別の次元、天界です。

まるで母なる宇宙の子宮の中にいるような、地球上では味わうことのできない至福の感覚のなかでわたしは漂っています。

その微細な粒子のエナジーは密度が濃くて柔らかいのですがしっかりはっきりしています。

これだ!!と実感したと同時に、人間が暮らす地球上は泥沼に映りました。

柔らか~な薄い膜で覆われた愛の風船のようなものが、ときより触れてきて気持ちよ~いのです。

気が付くと階段を上がりきったところで改札に向かって歩いていました。

体の重さが全く感じられないので手や腕を見てみると、形の枠だけあって中は透明に近い状態で透けていて背景が見えました。

子供の頃テレビ映画で観た透明人間が、輪郭(線)だけのボディーで動いていたのを思い出しました。

この状態のまま改札を出て住まいに向かいました。

帰宅後も宙に浮いた状態で重さも感じられないまま、いつもの家事を済ませました。

それでも尚、現象は続いていました。

突然起きたこの体験に予備知識もなく、聞いたこともなく、わたしはこのまま天に昇ってしまうのではないか?と少し不安もよぎりました。

今起こっていることに頭では理解できないまま夜も更けてベッドに入ることにしました。

眠りについた後どうなってしまうのかはわかりませんが、全てお任せする他にわたしの選択の余地などありません。

至福のエナジーに包まれてリラックスしていたので直ぐに眠りにつきました。

目が覚めると朝になっていて、体は元に戻っていました。

その後も短期間に連続して数回、同じ様な体験が起こりました。

後にクンダリニーの覚醒だとわかりました。』 (ナーナ)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************

 

 

 

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(64) サマーディ④

これまで3回にわたり、ヨーガの最終目的である「サマーディ」についてご紹介してきましたが、今回は、最終回ですので、智識としてではありますが、「サマーディ」について、もう少し詳しい説明を見て行きましょう。

 

最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、次は、ラマナ・マハリシが遺された御言葉、そして、今回は、初めてとなりますが、Osho(バグワン・ラジニーシ)の講話集より、「サマーディ」について、非常に興味深い内容の説明がなされている箇所を、抜粋してご紹介したいと思います。

 

アシュタンガ(第八段階)・ヨーガにおいて、「サマーディ」は、探究者が昇って行くことを求められている最後の階梯ですが、その前の段階である第七番目の「ディヤーナ」(瞑想)と、混同されがちであることを留意する必要があります。

 

現代では、「マインドフルネス」(仏教の”八正道”では、”正見”)と言われることもある「瞑想」(ディヤーナ)ですが、ラマナ・マハリシは、「サマーディ」が、「真我実現」であり、その前の段階として、「心の希薄」状態が起こると指摘しています。

「瞑想」(ディヤーナ)は、この「心の希薄」状態であると言えます。

 

これまでのご自分の「瞑想」実践においてもたらされた状態を客観的に分析して、「サマーディ」成就(真我実現)へのプロセスにおいて、成就者たちが言葉で表現して下さった情報を指標として当てはめてみることで、自分自身の状態が、今、どの段階にあるか?を把握することは、最終目標に至るまでの時間を短縮するのに、役に立つことでしょう。

 

言葉では表現し難い「サマーディ」を、わかりやすい形で伝えようと試みて下さった多くの聖者の方々に、心から感謝したいと思います。

 

 

 

Who Could Enter into Samadhi?(どのような人が、サマーディに入れるのか?)

サマーディは、実践を少ししたからと言って、達成され得る体験ではない。

誰もが偉大なる純化された魂となるまでは、サマーディに入ることはできない。

サマーディを達成するには、人は厳格なブラフマチャリア(純潔)と栄養的な制限(食べ物の禁忌)を遵守すべきであり、心の純粋さを持たなくてはならない。

心は、完全に純粋化されなくてはならない。

その時だけ、機能、或いは、器は神聖なる光の下降を受けるに十分相応しくなるだろう。

突然の意識、或いは、宇宙的なビジョンの拡大の圧力に耐えるほど十分に強くなくてはならない。

それは、心を超えており、一撃で全存在を覆いつくす。

もしあなたが、第一級の探究者である四つの方法、或いは技術で装備し、極度の冷静さと解放に対する強い願望に恵まれたウッタマ・アディーカリであるなら、そして、もしあなたがヴェーダ聖典ウパニシャッド哲学の知識を持つ聖シャンカラや、あなたを背後から護るクリシュナ神のように、ブラフマンの智識を持つなら、あなたは一瞬にして、真の自己を悟るであろう。

指で花を握るのに必要な時間で、あなたは真の自己を悟ることができる。

アシュターバクラを通して、ジャナカ王は、一瞬にして悟った。

アルジュナは、一時間半内に、戦場で自己実現を得た。

マハラシュトラのムクンダ・ライは、彼が馬の背に乗っている時に、一秒で皇帝をサマーディに委ねた。

多くの例がある。

燃える家の最中から逃げる方法を必死に探す人のように、修行者はサムサーラ(輪廻転生)の炎から、自分自身を自由にする強烈な願望を持つべきである。

その時、彼は深い瞑想やサマーディに入ることができるであろう。

 

 

How to Attain Samadhi(サマーディを達成する方法)

深い瞑想が、サマーディ、神との合一に通じる。

心(マインド)は、真我(アートマン)、或いは、神で満ちる。

心(マインド)は、それ自体の意識を失い、瞑想の対象と同化する。

塩でできた人形が、水に溶け去るように、ちょうど同じように、心(マインド)は、ニルヴィカルパ・サマーディの中で、ブラフマンに溶け去る。

突然の神秘的な啓蒙の一撃が、同時に、すべての経験的な存在に終止符を打つ。

そして、この世や、この世における霊の狭義の個人性というような観念や記憶が、完全に自己から去る。

瞑想中、心(マインド)に起こる三段階を銘記しなさい。

それらは、集中、充満、同一化である。

これらの三つの言葉のイメージを覚えていなさい。

修行をする間、精神的にそれらを唱えなさい。

それは、あなたを真に助けるであろう。

真我(アートマン)について熟考しなさい。

心(マインド)を真我(アートマン)で満たしなさい。

その時、心(マインド)は、ブラフマンと同一化する。

あなたが考えるように、あなたはなる。

あなたはブラフマンである、と考えなさい。

あなたは、ブラフマンになるであろう。

静寂でいなさい。

あなた自身を知りなさい。

ソレを知りなさい。

ソレの中に、心(マインド)を溶け去らせなさい。

真理は、極めて純粋であり、単純である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「ローメイン・ローランドによるラーマクリシュナに関して書かれた本のなかには、ニルヴィカルパ・サマーディはひどく恐ろしい体験だと述べられています。

本当にニルヴィカルパ・サマーディは恐ろしいものなのでしょうか?

それでは、私たちは最終的にそのひどく恐ろしい状態を体験するために瞑想や浄化や戒律といった長く退屈な過程を耐え忍ばなければならないのでしょうか?

私たちは生ける屍となってしまうのでしょうか?」

 

マハルシ

「人びとはニルヴィカルパに関してあらゆる類の考えを抱いている。

なぜローメイン・ローランドについて話すのかね?

ウパニシャッド』やヴェーダンタ教義の伝統を代表する人たちさえニルヴィカルパについて奇妙な根拠のない意見をもっているとき、ひとりの西洋人が同じような考えをもっているからといって、誰が責めることができるだろうか?

あるヨーギたちは呼吸の修練によって、夢のない眠りよりもさらに深い強硬症のような状態に自ら陥っている。

彼らはその状態のなかではまったく何にも気づいていない。

それは絶対的な無自覚の状態である。

そして彼らはそれをニルヴィカルパ・サマーディだとして讃えているのである。

他のある者たちは、ひとたびニルヴィカルパに入れば完全に違った存在になると考えている。

さらに他の者たちは気絶や失神の発作のように世界の意識が完全に消し去られる超越状態を通してのみ、ニルヴィカルパに到達することができると見なしている。

これらすべては彼らの知的見解の違いによるものにすぎない。

ニルヴィカルパとは努力を要しない無形のチット(意識)である。

いったいどこに恐れることがあろうか?

自分自身として在ることに何の神秘があるというのだろうか?

過去に長い修練を経て、心が成熟した何人かの人たちにとっては、ニルヴィカルパはあたかも洪水のように突然現れる。

だが他の者たちにとっては、ゆっくり時間をかけて、障害である想念を打ち勝っていくという地道な修練をつづけ、「私-私」という純粋な覚醒のストーリーを徐々に露わにしていくことでニルヴィカルパは起こる。

修練をさらに進めていくことでスクリーンは永久的に露わにされる。

これが真我の実現、ムクティ、サハジャ・サマーディ、自然な努力を要せぬ状態である。

単なる外界の区別(ヴィカルパ)を知覚しないことがニルヴィカルパの真の本性ではない。

ただ、心が死に絶えた、区別が起こることのない状態だけが真のニルヴィカルパであると悟りなさい。」

 

質問者

「心が真我のなかに沈みつつあるとき、しばしば私は恐怖を感じるのです。」

 

マハルシ

「サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と身体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。

だが、自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広がる純粋な意識の空間にとどまる。

そして震えも消え去るのである。」

 

質問者

「サマーディは至福に満ちた恍惚状態なのでしょうか?」

 

マハルシ

「サマーディそのもののなかにはただ完全な平和だけがある。

サマーディが終わろうとするとき、心は息を吹きかえす。

そしてサマーディのなかの平和を思い出したときに、至福が訪れるのである。

帰依や献身のなかでは至福がはじめに現れる。

それは歓喜の涙、毛が逆立った状態、声が上ずった状態として表れる。

そしてついに自我が死に絶え、サハジャが起こるときには、これらの兆候も恍惚状態も消え去るのである。」

 

質問者

「サマーディが実現したとき、人はシッディ(超能力)も得るのではありませんか?」

 

マハルシ

「シッディを見せびらかすには、それを認めてくれる他の人たちがいなければならない。

それはつまり、シッディを誇示する人にジニャーナ(真理の知識)はないということである。

それゆえ、シッディには価値がない。

ただジニャーナを得ることだけを目的とすべきである。」

 

質問者

「いかに多くの瞑想(ディヤーナ)や身体的苦行(タパス)を積んだとしても、ヨーガの最終段階であるサマーディが体験されないかぎり解脱(モクシャ)はありえない、と『マーンドキャ・ウパニシャッド』のなかに述べられています。

それは本当でしょうか?」

 

マハルシ

「もし正しく理解されるなら、それらは同じことである。

瞑想、苦行、専心、何と呼ぼうと違いはない。

確固として、油の流れのように途切れることなくつづくもの、それが苦行、瞑想、専心である。

自分自身の真我として在ること、それがサマーディである。」

 

質問者

「しかし、サマーディは解脱の前に体験されなければならないと『マーンドキャ・ウパニシャッド』のなかには述べられています。

 

マハルシ

「誰がそうではないと言ったかね?

そのことは『マーンドキャ・ウパニシャッド』だけではなく、古来の聖典すべてがそう言及している。

だが、あなたが真我を知ってこそ、それが真のサマーディだと言えるのである。

生命のない物体のように、いくらかの時間静止して坐っていることが何の役に立つというのだろう?

たとえばあなたの手に腫れ物ができ、麻酔をかけられて手術を受けたとしよう。

その間、あなたは何の痛みも感じない。

だが、それがサマーディのなかにいることと同じだと言えようか?

それと同じことである。

人はサマーディが何であるか知らなければならない。

そしてあなたの真我を知らずして、どうしてサマーディを知ることができるだろうか?

真我が知られれば、サマーディもまたおのずと知られるのである。

サマーディは人の自然な状態である。

それは目覚め、夢見、眠りの三つの状態すべての底辺に流れている。

真我はそれらの状態ではないが、それらの状態は真我のなかに在る。

もしわれわれが目覚めの状態でサマーディに入ったら、それは深い眠りのなかでもつづいていくだろう。

意識と無意識という区別は心の範疇に属している。

そしてそれらは真我の状態のなかで超越されるのである。」

 

質問者

「それでは、私たちはつねにサマーディに達するように試みるべきでしょうか?」

 

マハルシ

「自我のない静寂だけが真理の知識の頂点。

マウナ・サマーディ(沈黙のサマーディ)だと賢者たちは言う。

無我の状態であるマウナ・サマーディに達するまでは、「私」を消滅させることだけをあなたの目的として探求しなさい。」

(あるがままに ラマナ・マハリシの教え)

 

 

 

『質問者

「あなたがサマーディとおっしゃるものは、どの身体で得られたのですか?」

 

OSHO

「実のところ、サマーディにはいろいろなタイプがある。

あるサマーディは、第四(※1”七つの身体”参照)と第五身体の間で起こる。

覚えておきなさい。

サマーディは、ひとつの次元の中での出来事ではない。

それはいつもふたつの次元の狭間、黄昏時に起こる。

黄昏は昼に属するのか、夜に属するのかと尋ねるのももっともだが、黄昏は昼にも夜にも属さぬ、その狭間の出来事だ。

サマーディも同じだ。

最初のサマーディは、第四と第五の次元の間で起こる。

このサマーディは自己実現アートマン・ギャン(ジニャーナ)へと導く。

あるサマーディは、第五と第六の次元の間で起き、今度はブラフマン・ギャン(ジニャーナ)、宇宙的叡智へと導く。

第六と第七の次元の間で起こるサマーディは、涅槃(ニルヴァーナ)へと導く。

だから一般的に、三つのサマーディが起こるのは、最後の三つのシャリール――最後の三つの身体――の間だ。

 

理解しておくべき、見せかけのサマーディもひとつある。

それは第四身体で起こり、サマーディのように見えるが、そうではない。

日本の禅僧の言葉によると、それは「さとり」だ。

これは見せかけのサマーディだ。

それは、画家や彫刻家や音楽家が、完全に芸術の中に没頭している時に到達する状態だ。

彼らは大いなる至福を体験する。

これは第四身体――サイキックな次元――で起こる。

朝の太陽を眺めたり、メロディーに耳傾けたり、ダンスを見たり、花が咲くのを眺めたりしている時、マインドが完全に出来事の中に引き込まれると、見せかけのサマーディが起こる。

こうした見せかけのサマーディは、睡眠や偽りのシャクティパットによっても、引き起こされる。

アルコールや、マリファナLSD,メスカリン、ハッシシなどのなどの麻薬によっても引き起こされる。

だから、四種類のサマーディがある。

実のところ、三つの真正なサマーディがあり、それは段階を経て起こる。

四つ目はサマーディのように見えるが、まったく見せかけの体験だ。

その中には、実際に起こった体験がまったくない――ただ、誤って導かれたサマーディの感覚があるだけだ。

多くの人々が、「さとり」によって惑わされている。

この見せかけのサマーディは、第四身体――サイキックな次元――で起こる。

それは、第四と第五の次元の間の、過渡的な作用ではない――第四身体の中でよく起こることだ。

三つの真正なサマーディは、ある次元から次の次元へと移行していく過渡期に、第四身体にも属さぬ所で起こる。

サマーディは扉であり、通路だ。

第四と第五身体の間で、最初の真正なサマーディが起こる。

人は自己のくつろぎを得る。

ここで行き詰ることもあり得る。

ふつう、人は第四身体の見せかけのサマーディで、立ち止まる。

それはとても簡単だからだ。

エネルギーをほんの少ししか費やせずに、まったく努力をしなくても、それらしきものが得られる。

このため、大多数の瞑想者が、ここで停滞する。

最初の本物のサマーディを得るのは、第四から第五身体への旅の途中に起こるが、これを得るのはとても難しい。

しかしもっとも難しいのは、第六から第七身体への過程で起こる、第三のサマーディだ。

第三のサマーディに付けられた名前はヴァジラブド――耳をつんざくような落雷だ。

これはもっとも難しい。

なぜなら、それは実在から非実在への移行であり、生から死へのジャンプであり、存在から非在へ飛び込むことだからだ。

 

実際には、三つのサマーディがある。

最初のものはアートマ・サマーディ、二つ目はブラフマ・サマーディ、最後のものはニルヴァーナ・サマーディと呼んでもいいだろう。

ごく最初の見せかけのサマーディは、さとりと呼んでもいいだろう。

それはとても簡単に達成できるがゆえに、用心すべきものだ。

他にも、サマーディの真正性を試す方法もある。

それは、もしある次元の中で起こったのなら、それは偽りだ。

サマーディは、ある次元とある次元の間で起こるはずだ。

それはドアであり、部屋の中にあっても何の用もなさない。

それは部屋の外にあり、次の部屋に結びつながっていなくてはならないものだ。』

(※1:(タントラ・ヨーガによる考え方)

人は七つの身体に分けることができる。

最初の身体は、誰もが知っている肉体(フィジカル)だ。

二番目は生気体(エーテル)で、三番目は--この二番目を超えたところにあるのだが--星気体(アストラル)だ。

四番目は精神体(メンタル体)またはサイキック体だ。(クンダリニーはここで体験される)

そして五番目は--ふたたびその向こうなのだが--霊体(スピリチュアル)だ。

六番目は五番目の彼方にあり、宇宙体(コズミック)と呼ばれる。

そして七番目であり、最後のものがニルヴァーナ・シャリール、または涅槃体(ニルヴァーナ)、身体なき体だ。

この七つの身体についてもう少し情報が得られれば、クンダリニーをよく理解することができるようになるだろう)

(奇跡の探究 Osho講和録)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham!

 

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

  (Parade books) - スワミ ラーマ著

                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

  単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)

  Amazonで購入できます。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

☆ナーナ先生による
プラナーナ瞑想会(オンライン)のお知らせ☆
※瞑想会の詳細(日程など)は、コチラ↓をご覧下さい。

Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会

[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレットスマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。

*****************************

☆オンライン「プラナーナ瞑想会」☆

[昼のクラス]14:00~15:30
[夜のクラス]20:00~21:30
初心者、経験者どなたでも参加できます。
瞑想を深めるための大切な準備と瞑想を30分おこないます。
参加費1回3000円
☆お得な5回分前納13000円 参加有効期限60日以内

 

☆オンライン「個人セッション」☆
 プラナーナ瞑想会に3回以上参加された人。
 1時間 15000円 

*****************************