永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(7)

前回と前々回の記事で、シュリ・ラマナ・マハルシとスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉をご紹介して、ライオン(真我)でいらっしゃるグル(導師)により、私たちヒツジライオン(真我であることをすっかり忘れている人間)も、実はヒツジ(人間)ではなくライオン(真我)であるという存在の最奥の奥義に触れることが可能であると、お伝えさせて頂きました。

つまり、それは、魂がこの形で顕れた究極の目的を果たすことができる、ということを示唆します。

 

今回の記事では、ナーナ先生が活動を通して為されていることを、もう少し詳しくご紹介させて頂き、その後で、シュリ・ラマナ・マハルシの「グル」についてのお言葉の続きをご紹介したいと思います。

ここで特にお伝えしたいことは、ナーナ先生から放たれる神の恩寵の力であるシャクティ・プラーナは、自己の本性を悟ることを妨げている障害(エゴ)を消滅させることで、自力では、なかなか魂の目的を果たすことが難しい私たちの変容のプロセスが加速して進むようにと、目には見えない部分で強力な推進力として働く、ということです。

 

ナーナ先生の純粋なプラーナであるシャクティ・プラーナの恩寵のエネルギーによって起こった直接体験を通して、本当は自分が何であり、誰であるのか?を悟った者にとっては、もう二度と自分は誰なのか?と問うことは無くなります。

私たちは、本当は、この肉体でも感情でも思考でもありません。

この世を体験しているのは、心(脳の働き)ですが、実は、その心(脳の働き)自体も虚構の産物です。

それでは、一体、実在するものはあるのか?あるとしたら、それはどんなモノなのか?

これを実体験を通して悟るまで、いろいろな事象を通して、個々の魂の探究(旅)は続いていきます。

 

昔の人々は、霊や魂という言葉を使いましたが、現代的な表現で言うならば、純粋で普遍で不変なエネルギーと言ってもいいかと思いますが、つまり、私たちは誰でも、純粋なプラーナそのものなのですが、そのことを悟った上で、そのことを知らないで生きている人間に、直接体験を通して懇切丁寧に伝えて下さる存在は、この世にはほとんどいらっしゃらないと言っても過言ではないでしょう。

そういう意味では、ナーナ先生に出会えた探究者は、もうそれだけで、神の恩寵に与っているということになります。

 

自分も真我(永遠の実在)そのものであることを思い出した一瞥体験のあった約2年後、初めて訪ねたインドで出会った一冊の本が、スワミ・ラーマの「Sacred Journey - living purposefully and dying gracefully」(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く)でした。

そこには、こう書かれてありました。

ウパニシャッドは私たちに、永遠のものを見つけるために自分の内側を見るようにと言っています。

“人は外にあるものを見、内にあるものを見ない”とウパニシャッドは言っています。

「不死なるものを求める人は稀である。

自分の外にあるものに目を閉ざし、真の自己を見る。

愚か者は肉の欲望に従い、死を取り囲むすべての誘惑に陥る。

しかし、永遠なるものとして自己を知る賢者は過ぎ去るものを求めない」』

 

この文を原文(英語)で読んだ私は、恍惚にも似た至福感に包まれ、あまりの嬉しさに溢れる涙を抑えることができず、その場で、この本を日本語にして、古から現代に至るまで知ることを許された者のみが触れることができた最奥の奥義として伝え継がれて来た存在の究極の真理について説いているウパニシャッドのエッセンスを、ほとんど知らない日本の人々にも読んで欲しいと思い、翻訳本を日本で出版することを決意したのでした。

 

「聖なる旅~」の全頁には、ナーナ先生によってもたらされた直接体験を通して得られた智慧そのものが、聖典からの引用文を元に、ヒマラヤのヨーギーであるスワミ・ラーマによって、理論立てて書かれていました。

「聖なる旅~」を通して、スワミ・ラーマが伝えたかった古から伝わるウパニシャッドのエッセンスを、厳しい修行を続けてきたヨーギーでもない一般人である私のような人間が簡単に理解し得るということは、正に、ナーナ先生(真我)によってもたらされた恩寵の賜物という以外には考えられません。

 

しかし、このことが、一人の人間に起きたということは、他の人間にも起こり得る可能性があるということであり、その可能性は、このブログを読んでいる一人一人の方にも、潜在的に眠っているということに他なりません。

 

 クンダリニー覚醒により真我が目覚め、真我そのものとなっていらっしゃるナーナ先生は、直接体験を通して、わたしたちもまたアートマン(真我)であることを、自然な形で悟れるようにと、使命にも似たお気持ちで、導いて下さっていらっしゃいます。

ナーナ先生のシャクティ・プラーナに触れることは、神の慈悲深い恩寵に与ることができる滅多にないチャンスです。

一人でも多くの探究者が、この神の恩寵に与り、そうそう簡単には辿れないようになっている究極の真理に至る道のりを、出来る限り短縮させることができるようにとの想いで、このブログを綴っています。

 

ウパニシャッドによれば、私たちが内側に探すものは、純粋な自己、アートマン(真我)と呼ばれている私たちの真の本性であり、それは聖書では、神に似ており、神のイメージであると言っています。

真の自己は心や感覚では認識され得ません。

それは魂の中に隠された宝であり、心の最奥の部屋に住んでいるのです。

それは非常に精妙であり、深遠で在り、不滅です。

それは創造の初めに存在し、今も存在し、そして未来においても存在し続けます。」

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

 

『質問者

「真我実現のためには、どれほどの間グルが必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「そこに無知が存在するかぎり、グルは必要だ。

無知が起こったのは、真我に誤った限界を自ら負わせたためである。

神は崇拝を受けることで弟子に揺るぎない帰依心を与え、それが明け渡しへと導いていく。

明け渡した帰依者を見て、神はグルとして姿を現し、慈悲を与える。

神であるグルは帰依者を導き、神が彼の内側にいること、神が真我と変わらないことを教え示す。

これが心を内側へと向かわせ、ついには真我の実現をもたらすのである。」

 

質問者

「もし恩寵がそれほど重要なら、個人の努力の役割とは何なのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我の実現の段階がやってくるまで、努力は必要となる。

たとえそうであっても、真我は自然に明らかになるべきである。

さもなければ、至福は完全なものではないだろう。

その自然な状態が明らかになるまで、何らかの形の努力はつづくだろう。

そこにはわれわれの努力の在る無しを超えた状態がある。

その状態が実現されるまで、努力は必要となる。

そのような至福の状態を一度でも味わえば、人はそれを再び得ようと繰り返し試みるようになるだろう。

ひとたびその平和の至福を味わったなら、誰もがそこから出て何か他の活動に従事しようなど願うこともなくなるだろう。」

 

質問者

「真我の実現を達成するためには神の恩寵が必要なのでしょうか?

それとも個人の誠実な努力だけで、生と死の輪廻に再び戻ることのない状態に到達できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「神の恩寵は真我の実現には欠かせないものである。

それが神の実現をもたらす。

だが、そのような恩寵は真の帰依者あるいは探究者にのみ与えられる。

それは解脱への道をたゆまず懸命に突き進む者にのみ与えられるのである。」

 

質問者

「恩寵にとって距離は問題となるのでしょうか?」

 

マハルシ

「時間や空間はわれわれの内側に存在している。

あなたはつねに真我のなかにいるのである。

どうして時間や空間が問題となろうか?」

 

質問者

「ラジオなら、近くにいる人のほうがより早く聞き取ります。

あなたはヒンドゥーであり、私たちはアメリカ人です

それが何らかの違いをもたらすでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや。」

 

質問者

「思考でさえ他の者によって読み取ることができます。」

 

マハルシ

「それはわれわれがひとつであることを示しているのである。」

 

質問者

「バガヴァーンは私たちのことを憐れみ、恩寵を与えてくださいますか?」

 

マハルシ

「あなたは首まで水のなかに浸かりながら、水を求めて叫んでいる。

それは水に首まで浸かっている人が、喉の渇きを訴えているような、あるいは水中の魚が渇きを感じているような、あるいは水が渇きを感じているようなものである。

恩寵はつねにそこに在る。

「無執着も真理の実現もグルの恩寵がなければ得られない」

しかし、修練もまた必要である。

自分自身の努力によって真我のなかにとどまろうとすることは、気性の荒い牛がさ迷いでないように、おいしい干草で誘って家畜小屋につなぎ止めるようなものである。」

 

質問者

「最近、私はタミル地方の詩を読んだのですが、そのなかで、作者は自分が母親猿をしっかりつかんで放さない子猿のようではなく、花親にくわえられて運ばれなければならない、かぼそい声で泣く子猫のようであると嘆いていました。

作者はそれゆえ、神が彼の面倒を見てくれるように祈っています。

私の場合もまったく同じです。

バガヴァーン、あなたが私に憐れみをかけるべきなのです。

どうか私の首をつかみ、私が落ちたり怪我したりしないように見守ってください。」

 

マハルシ

「それは不可能だ。

グルが救いの手を差しだすには、あなたの努力も必要なのである。」

 

質問者

「グルの恩寵を得るには、どれくらいの時間がかかるのでしょうか?」

 

マハルシ

「なぜ知りたいのかね?」

 

質問者

「希望が欲しいからです。」

 

マハルシ

「たとえそのような欲望でさえも障害となる。

真我はつねに存在し、真我なしには何も存在しない。

真我として在りなさい。

そうすれば欲望や疑いは消え去るだろう。

恩寵は始まりであり、中間であり、終わりである。

恩寵とは真我である。

真我と身体の偽りの同一化のために、グルもまた身体だと見なされてしまう。

ただ、グルの見地からすれば、グルとは真我以外の何ものでもない。

真我はただひとつしかなく、ただ真我のみが存在するとグルは教える。

だとすれば、真我があなたのグルではないだろうか?

それ以外のどこから恩寵が来るというのだろう?

それはただ真我からやってくる。

真我の顕現とは恩寵の現れである。

誤った見解や自分の外側にあるものごとに期待するために、このような疑いが起こるのだ。

真我の外側に存在するものなど何もないのである。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

創造の元始(はじめ)より 次の三つの言葉ーー

オーム タット サットは絶対真理(ブラフマン)を示す

ヴェーダ讃歌を唱え 供犠を行うとき

僧侶たちはこの三語を常に用いてきた

(バガヴァッド・ギーター第17章23)

 

 

 

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☆新企画2019年1月より「自宅に居ながらマインドフルネス瞑想会に参加」できるようになりました!

特別企画 先着30名限定参加費無料!
期限は4月末のマインドフルネス瞑想会迄 定員になり次第終了致します。

(詳細は、 http://pranahna.com/(真我が目覚めるとき)のNews Informationの欄にて、ご確認下さい)

 

日本国内ばかりでなく、地球上のどこに居ても、関谷 ニルヴァーナ瞑想センターで開催されますマインドフルネス瞑想会の恩寵のエネルギーフィールドに入ることができ、深い瞑想を体験することができます。

真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(6)

前回の記事では、五年ほど前のナーナ先生の恩寵のエネルギー、シャクティ・プラーナによって突然起きた真理の一瞥体験について書きましたが、それがどうして起きたのか?について、しばらく経ってから知ることになりました。

その理解を言葉にしたものを、2015年にナーナ先生のブログ「すべては本質の流れのままに」(非二元のエナジーと覚醒(2) | すべては本質の流れのままに)に掲載して頂きました。

その文章を2017年4月に、このブログで再度掲載し、ご紹介させて頂きましたが、

一瞥体験後にやって来たこの智慧も、その体験があったからこその理解であり、今現在における科学や精神世界の一般的認識においては、このような表現方法以外での客観的説明は不可能であることは明らかですので、イメージ的な解釈の域を出ないことを承知の上で、再度ご紹介させて頂こうと思います。

 

先ずは、シュリ・ラマナ・マハルシの遺された御言葉から、グル(師)についてのお話と、次は、わたしにとってのグル(師)でいらっしゃいますナーナ先生についてのお話です。

 

これからご紹介しますこの二つのお話の間に、深い相関性を感じて頂けると幸いです。

 

 

『質問者

「師は霊的な力を弟子に送り、真我を実現させることができると言われています。

それは本当でしょうか?」

 

マハルシ

「本当だ。

グルが真我の実現をもたらすのではなく、彼はただその障害を取り除くだけだ。

真我はつねに実現されているのである。」

 

質問者

「真我の実現を探究する者にとって、グルは絶対的に必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが真我の実現を探究するかぎり、グルは必要だ。

グルとは真我である。

グルを真我として、あなたが自身を個我として見てみなさい。

無知を取り去ることで、この二元性の感覚は消滅する。

あなたのなかで二元性が存在するかぎり、グルは必要となる。

あなたは自分自身を身体と同一視しているため、グルもまたひとつの身体だと思ってしまうのだ。

あなたは身体ではなく、グルもまた身体ではない。

あなたは真我であり、グルもまた真我である。

この知識は真我の実現によって得ることができるのである。」

 

質問者

「ある特定の個人がグルとしてふさわしい人かどうかを、どうやって知るのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼の臨在のもとで見いだされた平和によって、そして彼に対して感じる尊敬の念によってである。」

 

質問者

「もし師が適切な人ではなかった場合、その師に絶対の信頼を寄せている弟子の運命はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「各々の功徳によった結果を得るだろう。」

 

質問者

「グルの恩寵をいただけるでしょうか?」

 

マハルシ

「恩寵はつねにそこにある。」

 

質問者

「しかし、私には感じられません。」

 

マハルシ

「明け渡すことによって、恩寵を理解しはじめるだろう。」

 

質問者

「私は心も魂も明け渡したのです。

私のハートのことは私自身が一番よく知っています。

それでも、恩寵を感じられないのです。」

 

マハルシ

「あなたが明け渡したなら、質問は起こらなかっただろう。」

 

質問者

「私は明け渡しました。

それでも、質問は起こるのです。」

 

マハルシ

「恩寵は変ることなくそこにある。

変わるのはあなたの判断である。

それ以外のどこに誤りがあるだろうか?」

 

質問者

「二人以上の師をもつことはできるのでしょうか?」

 

マハルシ

「師とは誰だろう?

師とは、結局真我なのである。

弟子の心の発達段階に合わせて、真我は師として姿を現す。

かの高名な聖者ダッタートレーヤは、二十四人以上の師をもっていたと言われる。

師とは、人がそこから何かを学ぶことのできる存在である。

ときには、グルは生きた存在ではないかもしれない。

ダッタートレーヤの場合もそうだった。

神、グル、真我は同一のものである。

霊的関心をもった人は神がすべてに遍在すると考え、その神を自分の師とみなす。

のちに、神は彼のもとに人としての師を送り、彼はその師こそがすべてであることを知る。

最後に、師の恩寵によって彼自身の真我こそが実在であると感じとる。

このようにして、彼は真我が師であることを知るのである。」

 

質問者

「『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』は、「純粋な知性によって、グルへの献身的奉仕によって、そして探究によって真我を実現しなさい」と述べています。

これらの違いをどう一致させればいいのでしょうか?」

 

マハルシ

「イーシュワラ神、グル、真我は同一のものである。

あなたのなかで二元性の感覚が存続するかぎり、あなたは師と異なると考えてグルを探しつづけるだろう。

それにもかかわらず、師は真理を教え、あなたは真の洞察を得るのである。

弟子を真我に直面させることで、真我の至高の知識を授ける人、彼こそが真我であり、神の現れとして聖者たちから讃えられる至高のグルである。

グルに近づき、彼に献身的に奉仕することによって弟子は恩寵を受け、誕生と苦しみの原因を学ぶ。

そしてその原因が真我からさ迷いでたことによると知ったとき、真我として揺るぎなくとどまることが最善だと悟るのである。

教えを受け入れ、解脱への道を確固として進む人でも、忘却やその他の理由からヴェーダの道を逸れることがある。

いかなるときにも師の言葉に逆らうべきではないことを知りなさい。

もし神に対して過ちを犯したとしても、それはグルの言葉によって正される。

だが、グルに対して犯された過ちは、神によっても正されることはないと聖者たちは断言している。

強烈なあふれる愛を注ぐことによって師から慈悲深い恩寵の眼差しを受け、完全な信頼をはぐくんだ人に苦しみは存在しない。

彼はこの世界のなかでプルフータ(神々の王、インドラの名前)のように生きるだろう。

唯一、誰もが望んでいる平和は、サッドグルの恩寵を通して心の静寂が得られるまでは、いつであれ、どこであれ、誰であれ、いかなる方法であれ獲得することはできない。

それゆえ、ひたむきな心でつねに恩寵を求めなさい。」

 

質問者

「バガヴァーンの弟子のなかには、何の困難もなく恩寵を受け、真我の実現を達成した人たちがいます。

私もその恩寵を願っています。

ひとりの女性として遠く離れたところで暮らす私には、望むようにマハルシの聖なる仲間に加わることができません。

二度とここに戻ることさえできないかもしれないのです。

バガヴァーンの恩寵を願っています。

私が自国に帰ったとき、バガヴァーンを覚えていたいのです。

どうぞ、私の祈りをかなえてくださいますように。」

 

マハルシ

「あなたはどこに行くというのか?

どこへも行きはしない。

たとえあなたが身体であると考えたとしても、あなたの身体がラクナウからディルヴァンナーマライまで来たのだろうか?

あなたはただ車、あるいは何か他の乗り物に運ばれてきただけである。

そして、ついにあなたはここに到着したと言うのである。

だが事実は、あなたは身体ではない。

真我は動かない。

世界が真我のなかで動くのである。

あなたは、ただあるがままのあなたなのだ。

あなたのなかには何の変化もない。

それゆえ、この場所を離れたあとでも、あなたはここに、そこに、そしてすべての場所に遍在している。

移りゆくのはただ景色だけである。

そして恩寵についてだが、それはあなたの内に在る。

恩寵が外側にあるとすれば、それは無益なものだ。

恩寵とは真我である。

あなたが恩寵から外へ出ることはありえない。

恩寵はつねに存在しているのである。」

 

質問者

「私が言いたかったことは、あなたの姿を想いだすとき私の心が力を得るように、あなたの側からの受け応えも欲しいのです。

私ひとりの努力とともに置き去りにしないでください。

それは結局か弱いものなのです。」

 

マハルシ

「恩寵とは真我である。

私はすでに言ったはずだ。

もしもあなたがバガヴァーンを覚えているなら、それは真我によってそうするように促されているのである。

それゆえ、すでにそこには恩寵があるのではないだろうか?

あなたのなかで恩寵が働いていないときがあるだろうか?

あなたが覚えているということが恩寵をもたらしたのだ。

それが受け応えであり、あなたへの激励である。

そして、それが真我である。

だから心配することなどない。」

 

質問者

「外側からの助けなしに、自分自身の努力だけでより深い真理に達することができるのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが真我への探究心を得たという事実自体が神の恩寵の現れなのである。

それはハート、内なる存在、真我の輝きである。

それは内側からあなたを引きこむ。

あなたは外側から入っていくように試みなければならない。

あなたの試みは真摯な探究の現れであり、深い内奥の動きが恩寵の現れなのである。

それゆえ、私は恩寵なしには本当の探究はありえず、真我を求めない者に恩寵は働かないと言う。

そのどちらもが必要だからである。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

『前回、“本質”とは、“普遍で誰にでもある共通の基盤のようなモノ”と書きました。

そして、私たち人間にもそのようなモノがあるとしたら、それが“本質”ということになります。

それでは、一体全体、そんな“本質”と呼べるものがあるのでしょうか?

そのことを少し詳しく述べている記述がありますので、ご紹介したいと思います。

「インドの哲学者たちによりますと、全宇宙は二つの材料からできています。

その一つを、彼らはアーカーシャと呼んでいます。

それは遍在の、すべてのものに浸透している存在です。

形を持ついっさいのもの、結合の結果であるいっさいのものは、このアーカーシャから展開したのです。

空気に、液体に、固体になるのはアーカーシャです。

太陽に、地球に、月に、星々に、彗星になるのはアーカーシャです。

人間の体、動物の体、われわれが見るいっさいの形、感覚でとらえることのできるいっさいのもの、存在するいっさいのものはアーカーシャです。

それは知覚することはできません。

それは実に精妙なので、すべての普通の知覚の限界をこえています。

それが粗大になったとき、形をとったときにはじめて、見ることができるようになるのです。

創造のはじめには、このアーカーシャだけが存在します。

この周期のおわりには、固体も液体も気体もすべてふたたびアーカーシャに溶け込み、次の創造のときに同じようにこのアーカーシャから出てくるのです。

何の力によってこのアーカーシャが、宇宙につくられるのでしょうか。

プラーナの力によってです。

アーカーシャがこの宇宙の無限、遍在の材料であるのと同様に、このプラーナは、無限かつ普遍的に現れているこの宇宙の力です。

一つの周期のはじめとおわりには、すべてのものはアーカーシャとなり、宇宙間のすべての力はプラーナに還元します。

次の周期には、われわれがエネルギーと呼ぶものすべては、われわれが力と呼ぶものすべては、このプラーナから展開するのです。

動きとして現れているものはプラーナです。

肉体の活動として、神経の流れとして、思いからもっとも低い力にいたるまで、いっさいはプラーナの現われにほかなりません。

心のにせよ肉体のにせよ、宇宙のすべての力の総計は、それらの原始の状態に還元されるとき、プラーナと呼ばれます。

「有も無もなかったとき、闇が闇をおおっていたとき、そのときには何が存在したか、そのアーカーシャが、動かないで存在した」

プラーナの物理的な動きはとまっていましたが、それが存在することに変わりはありませんでした。

一つの周期のおわりには、いままで宇宙に現れていたエネルギーは静まり、潜在的になります。

次の周期のはじめに、それらは動き始め、アーカーシャに働きかけます。

するとアーカーシャからこれらさまざまの形が展開し、アーカーシャが変化するにつれて、このプラーナも、これらすべてのエネルギーの現われに変化します。」

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

 

このような考え方は、インドの古い哲学者たちの考え(サーンキャ哲学)ですが、ヨーガの基本的な考え方であるヴェーダンタ(ヴェーダの教え)に色濃く反映されています。

宇宙には、根源なるただ唯一なる存在が在るのみ、というのは、古くは、アドヴァイタ(不二一元)と呼ばれます。

この宇宙は、アーカーシャというダルマ(法)とプラーナという実在の力で出来ている、ということを、もっと簡単にわかりやすい例で譬えるならば、アーカーシャは、プログラムのような情報であり、プラーナは、プログラムを動かす、具現化する力を持ったエナジー、ということになるでしょう。

パソコンを動かすには、プログラムもそれを動かすエネルギー(電気)も必要です。

そして、このことは、すべての存在に共通したことであり、それがそのモノとしてこの宇宙に存在するには、絶対不可欠な素材(要素)なのです。

それでは、この宇宙を在らしめている根源なるエネルギー(エナジー)とはどういうものか?というところに話を進めて行きたいと思います。

「真の治癒がもたらされるのは、プラーナによってであります。

プラーナを制御したきよらかな人は、それをある種の振動状態にする力を持ち、その振動は他人につたえられて、彼らの内部におなじ振動をおこします。

みなさんは、それを、日々の活動の中に見ておられます。

私はみなさんにはなしています。

何をしようとしているのでしょう。

言ってみれば自分の心をある振動状態に持って行こうとしているのであって、それに成功すればするほどつよく、みなさんは私の言うことの影響をお受けになるでしょう。』

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

 

ナーナ先生が、サットサンガや個人セッションで、“本質のエナジー”と仰っているのは、プラーナのことであり、ナーナ先生から放たれるエナジーは、他の人に伝わり、その人の内部に振動を起こし、その人を変容させます。

このことは、ナーナ先生のエナジーを受けた多くの人から、個人的体験が感想文として寄せられていて、その一部が、ナーナ先生のブログに掲載されていますが、どれをとっても、身体に起きた変容、気持ちに起きた変容、意識に起きた変容についての報告です。

これは、ナーナ先生のエナジーが変容を起こすことが出来るパワーを秘めたエナジー(シャクティ)である、という証拠でしょう。

この現象を更に詳しく述べるならば、ある振動が、他の者の内部に振動を起こすことを、“共鳴”と言います。

ナーナ先生から放たれるエナジーとは、他のモノの振動数を高めることが出来る振動状態になったプラーナのことだということがわかります。

そして、このプラーナは、宇宙遍在のエナジーですから、私たちひとりひとりもこのプラーナなのですが、ただそのプラーナが高い振動状態になっていないのです。

エネルギーは高い方から低い方へ流れます。

そうやって、低い振動は、高い振動に共鳴していくので、ナーナ先生のエナジーを受けると、ナーナ先生の超微細振動に共鳴した私たちの内部の低い(粗い)振動のプラーナが活性化されていくのです。

このエナジーの共鳴により、私たちの内部の粗い振動は、純粋で超微細な振動となっていく、という現象が起こるのです。

そして、宇宙に遍在するエナジーは、この純粋で超微細なエナジー、プラーナなので、この共鳴現象を体験することで、私たちは、自分の“本質”が何なのか?を識り、そして、最終的には、自分が誰であるのか?何であるのか?を思い出すことになるのです。

この直接体験を可能にするエナジー共鳴を起こすことが出来る“プラーナを制御した”きよらかな人”は、世界でもそれほど多くはいないでしょう。

いえ、むしろ、滅多にいない、と言えると思います。

非二元を語る人は多くいるかもしれませんが、それを直接体験により識らしめる力を持った存在が、どれほど稀有な存在であるかは、ここで申し上げるまでもないでしょう。

変容させ得る力こそが、ホンモノです。

私たちは、目に見えない宇宙根源のエナジーを、共鳴によって起こる直接体験を通して、識っていくことが出来ます。

それを起こすことができる存在は、もうすでに、存在の秘密に対する答えを得ているので、その答えそのものとなって、私たちを究極の答えに導くことが出来るのです。

私たちがすることといったら、本質のエナジーを認め、信じ、心を開いて、それに委ねるだけです。

それだけで、共鳴が起こり、私たちは、私とは誰なのか?何なのか?という究極の答え、存在の実相、この宇宙で唯一の実在に出会っていくことが出来るのです。

そして、自分が本当は誰であったのか?何であったのか?を身を以って識ることは、この宇宙に実在する唯一の存在を識ることにつながります。

そして、個としての“我”が、“本当のわたし”(真我)を思い出すことを、覚醒、目覚め、悟りと呼んでいるのです。

真に覚醒状態にある人のみが、他の人を覚醒に導くことが出来ます。

“それ”そのものになっている存在だけが、他の存在を“それ”に誘えるのです。

ナーナ先生は、そのような存在であり、この地上で彼女のような存在に出会うことは、正に奇跡なのだと感じます。

最後に、直接体験のみが、唯一の答えである、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダ著「ラージャ・ヨーガ」の一文をご紹介して、この長い文を終わりにしたいと思います。

 

『経験は、われわれが持つ唯一の教師です。

たとえ一生涯しゃべって推理しても、それを自分で経験するまでは、われわれは真理のひとことをも、理解することはできないでしょう。

人に数冊の書物をあたえただけでは、彼が外科医になることを期待するわけにはいかないのです。

私に地図を見せるだけで、ある国を見たいという私の好奇心を満足させることはできません。

私は実際に経験しなければならないのです。

地図はわれわれの内部に、もっと安全な知識を得たいという好奇心をよびさますだけなのです。

それ以上には何の価値も持ってはいません。

書物にばかりしがみついていると、人間の心は堕落するだけです。

神の知識のすべてがこの書物、またはあの書物の中にふくまれている、という宣言よりおそろしい冒涜があったでしょうか。

神は無限であると言いながらどうしてあえて、彼を一冊の小さな書物の表紙の中などにおしこめようとするでしょうか!』

 

経験こそすべて!

ナーナ先生は、超微細なエネルギー共鳴により、“それ”を私たちに体験させてくれます。

このことにより、私たちの目覚めのプロセスは格段と進化し、スピードアップするのです。』

 

2015年に書いた感想文と、今、このブログでお伝えしようとしていることは、本質的には、同じことです。

 

今でも、ナーナ先生は、シャクティプラーナを通して、私たちが、私たちの”真の自己”を覚れるようにと、導いて下さっています。

 

それは、ひとえに、アートマン(真我)を覚る以外は、人類にとって、真の自由へ至る道はないとわかっていらっしゃるので、

人びとを救うため、人びとを真理へと導き、生まれ変わりの繰り返しから人びとを解放するために、いまここで、神の御力であるシャクティプラーナを使って下さっているのです。』

 

☆ナーナ先生から放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナ先生の公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

 

 

適正な時に 適正な場所で

それに価する相手に対して

何の報いも考えずに 自分の義務だと心得て

行う寄付はサットワである

 

報いを期待してする寄付行為

将来の見返りを望んでする贈りもの

また 惜しがりながら出す寄付

こうした布施はラジャスである

 

不適当な場所で 不適当な時に

それに価しない相手に贈る金品

相手を尊敬せず 無礼な態度でする寄付

これはタマスの行為である

(バガヴァッド・ギーター第17章20-22)

 

 

 

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☆新企画2019年1月より「自宅に居ながらマインドフルネス瞑想会に参加」できるようになりました!

(詳細は、 http://pranahna.com/(真我が目覚めるとき)の「2019年1月の開催予定」の欄にて、ご確認下さい)

 

日本国内ばかりでなく、地球上のどこに居ても、関谷ニルヴァーナ瞑想センターで開催されますマインドフルネス瞑想会の恩寵のエネルギーフィールドに入ることができ、深い瞑想を体験することができます。

真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

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など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(5)

これまで数回に渡り、わたしたちを含むすべての存在の本性である真我(アートマン)を知らずに、一人の人間として生きているわたしたちが、己の真の本性についての理解を深めるために、シュリ・ラマナ・マハルシの遺された御言葉から、そのヒントとなる部分をご紹介してきました。

 

前回の記事では、霊性探求においては、指導者、良き導き手であるグル(師)の重要性が語られていました。

これまでに「グル」と呼ばれた存在は、世間一般には知られていないだけで、その時代の霊性の探求者を最終ゴールへと導くために、必要に応じて顕現してきたと言えます。

(このこと自体が、すでに慈悲深い神の恩寵であり、神が愛そのものである証でしょう)

 

このブログでもご紹介してきましたラーマクリシュナやラマナ・マハルシは、その最たる存在と言えますが、ただ一つ残念なことは、彼らは現在はいらっしゃらない、と言うことです。

ですから、彼らの遺された御言葉から智慧(ヒント)を得ることはできても、臨在の恩寵に与ることはできないのです。

「いまここ」において、聖者として崇めることはできても、聖者が放つ臨在のパワーに与ることは不可能でしょう。

 

現在でも、世界には、有名な聖者や覚者として、人々の賞賛を得ている方々は、何人かいらっしゃるようですが、彼らにおける臨在のパワーにより、周囲の者に真我が目覚めていくというダイレクトな体験が起きたという話は、ほとんど聞いたことがないと言えます。

 

前回の記事の中で、ナーナ先生のシッディは、「己の本性を悟るのを防げている障害を消滅させ、神秘への扉を開く力を持つ強力なシャクティ・プラーナのパワー」であると書きましたが、わたしがそれをハッキリと体験したのは、ナーナ先生が数回のクンダリニーシャクティの上昇により、「真我一体」となられた9カ月後のことでした。

その時ナーナ先生は、まだ公には活動をされていなかったため、わたしがナーナ先生と出会い、シャクティプラーナの恩寵に与ることができたのは、正に奇跡としか言いようのない状況の中でのことでした。

 

以前より長期に渡る体の不調があり、それを改善するために、ナーナ先生のお慈悲で初めてシャクティプラーナを受けた時のことで、そのほんの一か月前にナーナ先生に一回だけお会いし、少し言葉を交わしただけの間柄であったため、ナーナ先生についてはほとんど何も知らず、もろん、「真我」や「目覚め」などという言葉は、頭の中に微塵もなく、その時に何が起こるか?など全く想像だにしない状態で、それは突然起きたのでした。

 

その時起きたことは、とても言葉では表現しきれないのですが、敢えて言葉にするならば、あっという間に、体が微細な粒子となり、宇宙(全体)に溶けて無くなり、ただただ至福のエネルギーとなって漂う、というような経験でした。

もちろん、このような体験はしたことがなく、一体全体、自分に何が起きたのか?よくわからず、その後で、ナーナ先生に自分に起きたことを簡単にご説明し、「これが、本当のワタシなのですか?」とお聞きするのがやっとでした。

短い時間だったとは言え、それまで考えたこともないことが突然起きて、上手く頭が働かず、呆然としているわたしに、ナーナ先生は、微笑みながら、はっきりと「そう、それが本当のアナタ」と仰ったのでした。

 

その言葉に、直感的に、自分に何が起きたのか?を理解したのですが、それは、突然意識の扉が開き、神の神秘が実在のリアリティをもって明らかになった瞬間でした。

そして同時に、それはほんの始まりであり、真我実現に向けての第一歩を踏み出したに過ぎないことも理解でき、また、有り難いことに、ナーナ先生が、真我実現に向けて、迷える子羊をシャクティプラーナの恩寵のパワーで、本気で導いて下さろうとしていることが、はっきりと理解できたのでした。

 

このことが起きてから、すでに5年が経過していますが、その後も継続してシャクティプラーナの恩寵のエネルギーに与ることで、現在も、心身、意識の変容は続いています。

そして、有り難いことに、シャクティプラーナの恩寵のエネルギーにより、体の不調は改善され、今に至ります。(これらについては、また別の機会にご紹介させて頂きます)

 

これが起きた後、その後読んだスワミ・ヴィヴェーカーナンダが講演会でお話になられた「ヒツジライオン」の例え話が、何を意味しているのか?を、自然と理解できるようになっていました。

この「ヒツジライオン」のお話は、お話の形をとっていますが、リアルな世界で実際に、起こり得ることなのです。

 

ライオン(真我)そのものであられるシュリ・ナーナ先生は、わたしもまたライオン(真我)であることを、そして、真我とは何なのか?わたしとは何なのか?を、言葉ではなく、具体的な体験を通して、身を以って教えて下さったのです。

それは、言葉を超えた神秘的な体験であり、日常感覚を超えた領域に踏み入ることなのですが、それが、とても自然な形でやって来たことは、恩寵のパワーに誘われたからだと思っています。

 

今回は、最初に、過去の記事ですでにご紹介させて頂いたことがありますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ヒツジライオン」のお話を改めてご紹介させて頂き、次に、前回の記事の続きであります「グル」について、質問者による質問に対するシュリ・ラマナ・マハルシのご回答をご紹介したいと思います。

 

 

『えさをさがしていた、身ごもっためすライオンについての話があります。

ヒツジのむれを見て、彼女はそれにとびかかりましたが、そこで死んでしまい、母親のいない子ライオンが生まれました。

それはヒツジにやしなわれて彼らとともに大きくなり、草をたべてメ エメエとないていました。

そして、やがて一頭の十分に成長したライオンになったのですが、自分はヒツジだ、と思っていました。

ある日、もう一頭のライオンがえさをさがしにきて、このヒツジのむれの中に一頭のライオンがおり、ヒツジといっしょに逃げて行くのを見てびっくりしました。

彼はこのヒツジライオンに近づいておまえはライオンであるぞと言ってやりたいと思いましたが、あわれなけものは、彼が近づくと逃げて行ってしまいました。

それでも彼は機会をねらい、ある日、ヒツジライオンがねむっているのを見つけました。

彼はそれに近づき、「おまえはライオンだぞ」と言いました。

あいてが、「私はヒツジです 」と言ってメエメエなくので、彼をみずうみのほとりまでひきずって行き、「ここをごらん、おまえと私のかげだ」と言いました。

彼はライオンと自分の影とを見くらべ、一瞬のうちに、自分はライオンである、ということを悟りました。

ライオンはほえました。

もうメエメエとはなきませんでした。
みなさんはライオンなのです。

きよらかで、無限で、完全な魂なのです。
宇宙の力はみなさんのうちにあります。』
(ギャーナ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

☆新企画2019年1月より「自宅に居ながらマインドフルネス瞑想会に参加」できるようになりました!

(詳細は、 http://pranahna.com/(真我が目覚めるとき)の「2019年1月の開催予定」の欄にて、ご確認下さい)

 

日本国内ばかりでなく、地球上のどこに居ても、関谷ニルヴァーナセンターで開催されますマインドフルネス瞑想会の恩寵のエネルギーフィールドに入ることができ、深い瞑想を体験することができます。

真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

 

『質問者

「何人かの人たちが、グルの必要はないとあなたが語ったと伝えています。

他の人たちは反対の報告をしています。

マハルシは何と言われるでしょうか?」

 

マハルシ

「グルが必要ないと言ったことは一度もない。」

 

質問者

「シュリー・オーロビンドや他の聖者たちが、マハルシはグルをもっていないと言っています。」

 

マハルシ

「それはあなたが何をグルと呼ぶかによる。

グルが人間の姿をしている必要はない。

ダッタートレーヤは地、水、風といった五大元素を含めた二十四のグルをもっていた。

この世界のなかのすべてが彼のグルだったのである。

グルは絶対に必要である。

知覚や知性のジャングルにさ迷う人を救いだすことができるのはグルだけだ、と「ウパニシャッド」は述べている。

それゆえ、かならずグルがいなければならない。」

 

質問者

「私は人間のグルのことを言っていたのです。

マハルシは人間のグルをもっていませんでした。」

 

マハルシ

「かつて私も人間のグルをもっていたのかもしれない。

だが、私はアルナーチャラに讃歌を歌っているのではないかね?

グルとは何だろうか?

グルとは神あるいは真我である。

人は自分の願望を満たそうと神に祈る。

機が熟すと、彼は物質的欲望を満たすよりも、神そのものを求めるようになる。

そのとき、彼の必要に応じて、彼の祈りに応えるために、神は人間や人間以外のものとして彼の前に姿を現すのである。」

 

質問者

「ひとりの師に忠義を尽くしているとき、他の師を敬うことができるのでしょうか?」

 

マハルシ

「グルはひとつである。

彼は身体的存在ではない。

心の弱さがあるかぎり、精神力の支えは必要となろう。」

 

質問者

「J・クリシュナムルティは、「師は必要ない」と言いました。」

 

マハルシ

「彼はどうやってそれを知ったのか?

真我を実現したあとにのみ、そう言えるのであり、その前ではない。」

 

質問者

「バガヴァーンは私たちの真理の実現を助けることができるのでしょうか?」

 

マハルシ

「助けはそこにいつもある。」

 

質問者

「それでは尋ねる必要もありません。

私にはつねに助けがあるとは感じられないのです。」

 

マハルシ

「明け渡しなさい。

そうすればあなたは見いだすだろう。」

 

質問者

「私はいつもあなたの御足元にます。

バガヴァーン、何かウパデシャ(教え)をいただけますか?

さもなければ、六百マイルも離れたところに住む私に、どうして助けを得ることができるというのでしょう?」

 

マハルシ

「サッドグル(真の師)はあなたの内側にいる。」

 

質問者

「それを理解するためにサッドグルの導きが必要なのです。」

 

マハルシ

「サッドグルはあなたの内側にいる。」

 

質問者

「私は目に見えるグルが欲しいのです。」

 

マハルシ

「目に見えるグルが、サッドグルは内側にいると言っているのである。」

 

質問者

「実現の成就はグルの恩寵にかかっているのではありませんか?」

 

マハルシ

「そうだ。あなたの修練自体、恩寵によるものではないのかね?

成果は修練の結果である。

「カイヴァリャ・マヴァニータム」の一節にこうある。

「おお、師よ!あなたは何生にもわたってつねに私とともに有り、解放に向かうように私の道を定めてくださったのです」。

真我は必要が生じるとグルとして外面に現れる。

さもなければ、グルはつねにあなたの内側に住して、必要とされることをしているのである。」

 

質問者

「シルディ・サイ・ババの弟子の幾人かは彼の写真を崇拝し、これが自分のグルだと言います。

そんなことが可能なのでしょうか?

それを神として崇拝することはできるのでしょうが、グルとして崇拝することに何の益があるというのでしょう?」

 

マハルシ

「彼らはそれによって精神集中を確保しているのである。」

 

質問者

「それはそれで良いでしょう。

私も賛成します。

それはある程度、集中の修練なのかもしれません。

しかし、その集中のためにグルが必要なのではありませんか?」

 

マハルシ

「確かにそのとおりだ。

結局、グルとはグリ、集中を意味しているのである。」

 

質問者

「どうして生命のない写真が精神集中の上達を助けるというのでしょうか?

そのためには修練を指導する生きたグルが必要となります。

バガヴァーンなら生きたグルなしで完成を達成することは可能でしょう。

しかし、私のような者にそれが可能でしょうか?」

 

マハルシ

「それは本当だ。

たとえそうだとしても、生命のない写真を崇拝することで、心はある程度の集中力を養うだろう。

その集中力も、探究によって真我を実現するまで定まることはないだろう。

そしてその探究のためには、グルが必要とされるのである」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 心の修行はーー

足ることを知って常に心おだやかに

正直 率直 沈着であり

自己抑制をして心身の浄化につとめること

 

体 言 心の三種の修行を

清らかな信仰を持つ人々が

報果(むくい)を求めずに行うときに

これをサットワの修行と言う

 

自尊心を満足させ 名誉を得るため

衆人の尊敬や崇拝を受けようとして行う

禁欲や苦行はラジャスのもの--

これは不安定で長続きしない

 

無知 愚昧の者がする苦行は

いたずらに自分自身を傷つけ苦しめ

他者をも害し破壊する

これをタマスの苦行と言う

(バガヴァッド・ギーター第17章16-19)

 

 

 

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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

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(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(4)

シュリ・ラマナ・マハルシの遺された叡智の言葉を辿ることで、わたしたちの本性である真我(アートマン)について、少しでも理解を深めることができるように、特に重要だと思われる部分を抜粋して、ご紹介しています。

 

前回ご紹介した中では、ラマナは、真のシッディ(神通力、超能力)とは、

「それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と智慧だ。

それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。

それはひとりでに現れ、神から与えられたものだ。」と語っています。

 

真我に到達し、自然に生じたシッディにより、他者を真我に導くことができる存在を、ヨーガの世界では、「グル」(師)と呼んでいます。

 

シュリ・ラマナ・マハルシが、「グル」について質問した質問者にお答えになったお言葉を読んだ時、これは正に<ナーナ先生のことを仰っているのだ!>と言うことが、ハッキリとわかったのでした。

 

神の恩寵の経路そのものであるナーナ先生のシッディは、己の本性を悟るのを防げている障害を消滅させ、神秘への扉を開く力を持つ強力なシャクティ・プラーナのパワーです。

それは、クンダリニー覚醒体験が何度も起き、真我そのものになっていらっしゃるからこその臨在の力なのですが、その真価に気づいている人はまだまだ極僅かしかいません。

 

その臨在の恩寵により、真我が目覚めていくというダイレクトな体験が起きた者には、シュリ・ラマナ・マハルシが語る「グル」の重要性がよく理解できるのです。

 

真のグルとは誰なのか?何なのか?

また、何故、すべての存在の真の本性である真我が、個(ジーヴァ)の中で目覚めていくには、グル(師)が必要なのか?

 

早速、シュリ・ラマナ・マハルシのお言葉を見て行きましょう。

 

 

『質問者

「グルの恩寵とは何でしょうか?

どのようにして、それは真我の実現に導くのでしょうか?」

 

マハルシ

「グルとは真我である。

ときおり、人は人生に満たされなくなり、自分の持っているものに満足できなくなる。

彼は欲望を満たすために神に祈り、それを通して心は徐々に純粋になっていく。

彼は神を知りたいと願うようになり、世俗的な欲望を満たすよりは神の恩寵を求めるようになる。

そのとき、神の恩寵が現われはじめる。

神はグルの姿をとって帰依者の前に現れ、真理を教え、さらに彼と親密に混じわることによって彼の心を浄める。

帰依者の心は強くなり、内側に向かうようになる。

瞑想によって心はさらに浄化され、わずかなさざ波さえない静寂のなかにとどまる。

その静かな広がりが真我である。

グルは外面と内面の両方だ。

外面からは、心が内面に向かうように後押しをし、内面からは、心を真我に引きこみ静かになるように助ける。

それがグルの恩寵である。

神、グル、真我の間には何の違いもない。」

 

質問者

「神智学協会では、人びとは自分を導いてくれる師を求めて瞑想します。」

 

マハルシ

「師は内側にいる。

師が外側にしかいないという無知をぬぐい去るために瞑想がある。

もし、彼があなたの待っている見知らぬ人であるなら、彼はかならずまたいなくなるだろう。

そんなつかの間の存在が何の役に立つというのだろう?

だが、あなたが自分を分離した身体であると考えているかぎり、外側の師は必要であり、彼は身体をもって現れるだろう。

身体との誤った同一視がやんだとき、師が真我以外の何ものでもなかったことを知るだろう。」

 

質問者

「グルはイニシエーションを通して私たちが真我を知るのを助けてくれるのでしょうか?」

 

マハルシ

「グルはあなたを手で抱きかかえ、耳にささやくのかね?

あなたは師があなた自身のようだと想像している。

あなたは自分が身体のなかに存在すると思っているので、彼もまた身体をもち、あなたに蝕知できるような何かをしてくれるだろうと考えるのである。」

 

質問者

「どうすればグルを見つけられるでしょうか?」

 

マハルシ

「すべてに内在する神は、その恩寵によって愛する帰依者に憐れみを与え、帰依者の進歩に応じて彼自身の姿を現す。

帰依者は師を人間だと思い、二つの物理的身体の間に関係をもとうと期待する。

けれども、神あるいは真我の化身であるグルは内側から働きかけ、弟子が道を誤ったことを気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道を行くように導くのである。」

 

質問者

「真の師(サットグル)の特徴とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「真我の内にしっかりと確立していること、すべてを平等の目で見ること、いつでも、どこでも、どんな状況でも揺るぎない勇気をもっていることである。」

 

質問者

「多くの霊的な師たちがさまざまな方法を教えています。

自分の師として誰を選ぶべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたがシャンティ(平和)を見いだしたなら、その人を師として選ぶがいい。」

 

質問者

「彼の教えも考慮に入れるべきではないでしょうか?」

 

マハルシ

「熱心な探究者に対して、あれやこれをしなさいと指導する人は本当の師ではない。

探究者はすでに彼の活動に苦しみさいなまれて、平和と休息を求めている。

言わば、彼は活動を止めたいと願っているのである。

もし、師がこの上何かをするように指導するなら、それが探究者の助けになるだろうか?

活動は創造である。

活動とは、人が生まれながらにもっている幸福を破壊することである。

もし活動が勧められるなら、助言者は師ではなく殺し屋である。

そのような状況は、師の姿をした死の神(ヤマ)、あるいは創造の神(ブラフマー)が現われたのだと言えるだろう。

そのような人に真理の探究者を解放することはできない。

彼は束縛を強めるだけである。」

 

質問者

「どうすれば自分の師を見いだせるのでしょうか?」

 

マハルシ

「強烈な瞑想によってである。」

 

質問者

「もし「グルは弟子自身の真我である」ということが真実ならば、どれほど弟子に学問があろうとも、どれほど神秘的な力をもっていようとも、グルの恩寵なしに真我を実現することはできないと言われるのは、どのような根拠に基づくのでしょうか?」

 

マハルシ

「絶対的真理においては、グルと自己(真我)の状態が同じであることは真実だが、無知ゆえに個人(ジーヴァ)となった自己にとって、グルの恩寵なしに真の本性を実現することは、きわめてむずかしい。」

 

質問者

「グルの恩寵のしるしとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「それは言葉や想念を超えたものである。」

 

質問者

「そうだとすれば、グルの恩寵によって弟子が真の本性を実現すると言われているのはどうしてでしょうか?」

 

マハルシ

「真の知識あるいは神に達しようと願い、人は絶え間なく帰依に励む。

その帰依が熟すと、彼と同じ本性をもち、彼を内側から見守っている主がその姿を現す。

主は彼自身の三つの自然な特質であるサット―チット―アーナンダ(存在-意識-至福)の助けによって人間の名前と姿を借りて現れ、弟子に祝福を与えんとして近づき、彼を主の内に溶けこませるのである。

この教義によれば、実にグルは主と呼ばれうるものである。」

 

質問者

「それでは、何人かの偉大な人たちはどうやってグルなしで知識を達成したのでしょうか?」

 

マハルシ

「ごくわずかな機の熟した人たちには、神は形なき知識の光として輝き、真理の目覚めを与えたのである。」

 

質問者

「どのようにして正しいグルだと決めるのでしょうか?

グルのスワルーパ(真の姿あるいは本性)とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの心が順応する人、その人が正しいグルである。

あなたは「どうやって誰が正しいグルかを決めるのか、彼のスワルーパは何か?」と尋ねている。

グルは平静、忍耐、寛容、その他の徳を兼ね備えているべきである。

彼には磁石が鉄を引きつけるように、彼の目だけでも他の者たちを引きつける能力がなければならない。

彼はすべてに対して平等の感覚をもっていなければならない。

このような徳を備えた人が真のグルである。

だが、もしグルのスワルーパを知りたいと望むなら、まず自分のスワルーパを知らなければならない。

自己の本性を知らずに、どうしてグルのスワルーパを知ることができよう?

もしグルの真の本性あるいは真の姿を見たいと望むなら、まず宇宙全体をグルの姿としてみることを学ばなければならない。

生きとし生けるものすべてのなかにグルを見なければならない。

自分の真我を知らない人に、どうして神やグルの真の姿を見ることができるだろう?

どうやって決定するというのだろう?

それゆえ、まずあなた自身の真の本性、真の姿を知りなさい。」

 

質問者

「たとえそれを知ることにさえ、グルが必要なのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「そのとおりだ。

世界には数多くの偉大な人びとがいる。

あなたの心が順応する人をグルとして敬いなさい。

あなたが信頼できる人があなたのグルである。」

 

質問者

「解脱の達成におけるグルの恩寵の意義とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「解脱とは、どこかあなたの外側にあるのではない。

それは内側だけにある。

もし解放を熱望するなら、内なるグルはあなたを内面へと引き入れ、外面のグルは外側から真我のなかへと後押しをする。

これがグルの恩寵である。」(続く)

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 

 肉体的修行 苦行について言えば

神々を礼拝し 長上の人や

師 賢者を敬って仕え

清潔 正直 節制 非暴力であること

 

言葉の修行はーー真実を語ること

やさしく快い言葉 有益な言葉を語ること

他人の心を乱したり扇動したりせぬこと

そしてヴェーダ聖典を規則的に読誦すること

 

 

(バガヴァッド・ギーター第17章14-15)

 

 

 

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☆自己変容したい人

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わたしは誰か?-真我探究の道(3)

わたしは誰か?

その答えは、簡単です。

真我(アートマン)です。

 

しかし、この自己の本性である真我(アートマン)を知ることは、現実には、そう簡単ではありません。

個我(ジーヴァ)は、アートマンであるにも拘わらず、アートマンを知らずに、一生を終えます。

このことを「無知」と言うことがありますが、通常、人は無知で生まれ、無知で死んでいくのが一般的であると言えます。

 

そして、真我(アートマン)を知ることにより、この「無知」が取り除かれることで、人は最高の智慧に至り、この智慧の光で無知という暗闇が消え去ると言われています。

 

よって、私たちが抱いているあらゆる疑問も消え去ります。

 

疑問や質問は、「無知」から生じているのです。

 

「わたしは誰か?」という質問も、「無知」が原因で生じているのですが、その質問が起きる源は、「わたし」なので、畢竟、「わたし」とは「無知」そのもの、ということになります。

 

真我探究は、この「無知」(=わたし)を取り除いていく作業である、と言えます。

 

それは、「わたし」(=無知)の源を探って、その正体を知ることで、最高の智慧(ジニャーニ)に至る道なのです。

 

それでは、前回に引き続き、多くの人が興味を持っていると思われるシッディ(神通力、超能力)について、シュリ・ラマナ・マハルシのお言葉を見ていきましょう。

 

 

 

『質問者

「ラーマクリシュナがしたように、イーシュワラ神(名前を持った創造神)と話をすることは可能でしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん、われわれが今たがいに語りあっているように、イーシュワラ神と語りあうことはできる。」

 

質問者

「それなら、なぜそれは私たちに起こらないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それには力強く純粋な心と瞑想が必要とされるのだ。」

 

質問者

「それらの条件が満たされれば、神の存在は証明されるのでしょうか?」

 

マハルシ

「神はあなた自身の実在と同じだけの実在性をもって現れる。

言い換えるなら、目覚めの状態のように自分自身を身体と同一視すれば、あなたは粗大な対象物を見るだろう。

夢見のときのように、あなたが精神的次元あるいは微細身のなかに存在すれば、同じように対象物も微細なものとして見るだろう。

深い眠りのなかでは対象物も存在しないように、あなたは何も見ない。

見られた対象物は見る者の状態と関係しているのである。

神の幻影にもこれと同じことが当てはまる。

神の姿に長い間瞑想をつづければ、それは夢のなかに現れ、のちには目覚めの状態にさえ現れるだろう。」

 

質問者

「ここを訪れる多くの人たちが、あなたから幻影や想念の流れを受け取っていると私に語っています。

私がここに来てすでに一カ月半が経っていますが、まったくそのような体験の兆候がありません。

それは私があなたの恩寵を受けるに値しないということなのでしょうか?」

 

マハルシ

「幻影や想念の流れは心の状態に依存する。

それは個人に依り、普遍の存在に依るのではない。

そのうえ、そのようなことは問題ではない。

問題は心の平和である。

真我の実現とは何だろうか?

それは四本の腕を持ったような奇抜な神の姿を見ることだろうか?

たとえ神がそのような姿で現れたからといって、弟子の無知をぬぐい去ることができるのだろうか?

真理は永遠の実現でなければならない。

直接の知覚は常在の体験である。

神が直接知覚されたとき、神自身が知られるのである。

神が何か特別な姿で弟子の前に現れることを意味するのではない。

永遠のものでなければ、実現は何の役にも立たない。

四本の腕を持った神の顕現が永遠の実在と言えるだろうか?

それは単なる現象であり、幻想でしかない。

そこには見る者がいなければならない。

その見る者こそが実在であり、永遠なるものである。

神が百万の太陽として現れるなら、そうあらしめるがいい

だが、それがプラティヤクシャ(直接体験)と言えるだろうか?

神の幻影を見るには目と心が必要だ。

それは間接的知識であるが、見る者は直接的体験である。

見る者こそがプラクティヤクシャなのである。」

 

質問者

「『パタンジャリ・スートラ』のなかに言及されているシッディは真実なのでしょうか。

それともそれは夢のなかだけのことなのでしょうか?」

 

マハルシ

ブラフマンあるいは真我を実現した人は、シッディを重んじない。

パタンジャリ自身、それらはみな心によって為され、真我の実現を防げると言っている。」

 

質問者

「超人と呼ばれる人たちの能力についてはどうでしょうか?」

 

マハルシ

「二つの種類のシッディが存在する。

そのひとつは実現へ向けての障害となる。

マントラによって、魔術的な効果をもった何かの薬によって、厳しい苦行によって、ある種のサマーディによって、その力は獲得されると言われている。

だが、そのような力は真我実現の助けにはならない。

たとえそれらを得たとしても、あなたは無知のままとどまるだろう。」

 

質問者

「もうひとつの種類とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と智慧だ。

それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。

それはひとりでに現れ、神から与えられたものだ。

それはその人の運命にしたがってやってくる。

だが、シッディを得ようと得まいと、至高の平和に住まうジニャーニは気にとめない。

なぜなら彼は真我を知っており、それこそが不動のシッディである。

彼らは努力によってシッディを得ようとはしない。

あなたが真我の実現の状態にあるとき、その力が何であるかを知るだろう。」

 

質問者

「賢者たちは他の者たちに真我を実現させるため、超自然的な力を用いるのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼の真我実現の力は、他のすべての力よりもはるかに強力なものである。

シッディには多くの種類があると言われているが、ジニャーニだけがそのなかで最高位のものである。

なぜなら、他のシッディを達成した者たちはジニャーナを求めるが、ジニャーナを達成した者たちがシッディを求めることはないからである。

それゆえ、ジニャーナだけを熱望しなさい。

シッディは、それを所有しない者たちにとっては素晴らしいものと映るかもしれない。

だが、それはつかの間のものでしかない。

はかないものを追いかけるのは、はかないことである。

ひとつの不変の真我のなかにすべての不思議が含まれているのである。

全存在である神、自ら進んで与える用意のある神から、役にも立たない超能力を欲深く乞うことは、すべてを喜んで与えようとする慈悲深い人から、古くてかびくさくなった薄がゆを乞うようなものだ。

究極の帰依に輝く炎で灯されたハートのなかには、すべての超能力がひとつとなって備わるようになる。

だが、主の御足元の完全な虜となったハートを持つ帰依者がシッディを望むことはない。

解脱への途上で努力を重ねる探求者が超自然的な力の獲得を目標とすれば、彼らの固い束縛はさらに強められていくだろう。

そしてそのために自我の威力はますます増大していくだろう。

完全なる全体性、解脱の輝きである真我の達成(シッディ)だけが真の知識の成就である。

一方、別の類のシッディは、アニマ(原子ほど小さくなる能力)をはじめとする愚かな心の想像力の妄想なのだ。

人びとはシッディよりもはるかに奇跡的なものごとをたくさん見ている。

だがそれらには驚きもしない。

なぜならそれらは毎日起こっているからだ。

人は生まれたとき、この電球ほどの大きさもない。

ただ成長すると、巨大なレスラー、または世界的に有名な芸術家、講演者、政治家、または聖者になる。

人びとはこれを奇跡とは見なさないで、死体が口をきいたことに驚嘆するのだ。」

 

質問者

「私はこの二十年間、形而上学に興味をもちつづけてきました。

しかし、多くの人たちが主張しているような不思議な体験をしたことがありませんし、透視能力や透過能力ももちません。

私はただの身体のなかに閉じこめられただけの存在なのです。」

 

マハルシ

「それは正しい。

真理はひとつであり、それが真我である。

他のすべては真我のなかで、真我に属し、真我によって起こる単なる現象にすぎない。

見る者、見られるもの、見ることはすべて真我でしかない。

真我を離れて見たり聞いたりすることができるだろうか?

すぐそばにいる人を見たり聞いたりすることと、途方もなく離れたところにいる人を見たり聞いたりすることに何の違いがあろう?

どちらの場合も視覚器官と聴覚器官が必要とされ、また心も必要となる。

どちらの場合も視覚器官と聴覚器官と心のどれかがなければ無理であり、互いに依存しあっているのだ。

それなら、なぜ透視能力や頭頂能力に魅せられるというのだろう?

しかも、獲得されたものはやがて失われてしまう

それらはけっして永遠のものではないのである。」

 

質問者

「テレパシーのような能力を得るのは良いことではありませんか?」

 

マハルシ

「テレパシーやラジオは遠くのものを見たり聞いたりすることを可能にする。

それらは見ることと聞くことという点においては同じである。

近くの音を聞こうと、遠くの音を聞こうと、聞く人にとって違いはない。

基本的な要因は聞く人、主体にある。

超自然的な力(シッディ)は、それゆえ心のなかにしか存在しない。

それは真我にとって生来のものではない。

生来のものではなく、あとから獲得されたものは永遠ではない。

したがって、努力して獲得するだけの価値もないのである。

シッディとは能力が拡大されたものだ。

限定された能力をもつ者は不幸である。

それゆえ、幸福になるために能力を拡大しようとするのである。

だが、本当にそうなのか考えてもみなさい。

もし限定された能力のために不幸だというのなら、能力が拡大するにしたがって不幸も拡大するはずである。

超能力は幸福をもたらすのではなく、人をより不幸にするのである。

しかも、何のための能力なのか?

超能力者になろうとする人は自分の力を他の者たちに誇示して、賞賛を求めているのであり、賞賛が得られなければ幸福にもなれないだろう。

そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされる。

彼は自分より高い能力をもった者に遭遇することさえあるだろう。

それは嫉妬を生みだし、さらに不幸を招くだろう。

どちらが本当の力だろうか?

虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か?

平和をもたらすもの、それが最高の成就(シッディ)である。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

サットワの人は供犠をなすに際して

あくまで聖典の指示に従い

何の報いも求めずに

ただ自らの義務として行う

 

しかし バラタ王家の最も優れた者よ

物質次元の利益を得るため または

虚栄のため 人に見せびらかすための供犠は

ラジャスの行為であると知れ

 

聖典の指示するところに従わず

食物を供えず 讃歌も唱わず

僧侶に布施をせず そして信仰もない供犠は

タマスに属するものである

(バガヴァッド・ギーター第17章11-13)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(2)

前回より、これまでと趣向を変えて、あらゆるウパニシャッドの文献が究極の真理として語っている「わたしは誰か?-アートマン(真我)である」という最奥の叡智に至る手法として、シュリー・ラマナ・マハルシの「真我探究」についてご紹介しています。

 

人には、それぞれ生まれ持った気質がありますが、その気質に応じて、究極の真理へと至る道は、数多く用意されています。

 

これまでの記事で、その内の数個をご紹介させて頂きましたが、「真我探究」はジニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)の道です。

 

アーサナやプラーナヤーマなどの肉体的な修行はせず、どちらかと言うと、哲学的思考と瞑想により、個我を消滅させ、真我を目覚めさせる方法です。

(結論を言ってしまえば、個我が存在すると思っているのは、個我だけであり、実際には、個我は存在せず、実在しているのは、真我(アートマン)だけなのです。

このことを知る、知らないは、個我だけに起きていることなので、知っていても、知らなくても、私たちが常に真我そのものである、と言うことに変わりはありません)

 

クンダリニー・ヨーガやタントラ・ヨーガなどの修行を通して、クンダリニーを目覚めさせなくとも、「真我探究」により、真の自己である本性を悟ることは可能であると、ラマナは語っています。

 

上にも書きましたが、真の自己である真我(アートマン)だけが真の実在であるという叡智に至る道は、いろいろと用意されています。

 

そして、それらの内、どのような道を通っても、私たちが行き着くゴール(目的地)はひとつしかありません。

 

わたしは誰か?

 

その答えがゴールです。

 

それでは、前回の続きをご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「ひとたび瞑想のなかでサット-チット-アーナンダ(存在-意識-幸福)を体験した人が、瞑想が終わるとともに再び身体と同一化することはありうるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それはありうる。

しかし、彼は修練によってその自己同一性を徐々に失っていくだろう。

そして真我のあふれる光のなかで、幻想の闇は永遠に消え去るだろう。

すべてのヴァーサナー(精神的傾向)が根絶されないまま得られた体験は、定着することができない。

ヴァーサナーを消滅させるための努力が必要である。

すべてのヴァーサナーが根絶されたときにのみ、知識は揺るぎないものとなるのである。

われわれは長年の精神的傾向と闘わなければならない。

それらはみな消えるだろう。

ただ、過去においてサーダナ(修練)を重ねてきた者の場合は比較的早く消え、他の者たちの場合はより遅いだろう。」

 

質問者

「心の潜在的傾向は段階的に消えるのでしょうか、それとも突然消えるのでしょうか?

私がこのことを尋ねるのは、長年この場所にいるにもかかわらず、何の段階的な変化も見られないからです。」

 

マハルシ

「太陽が昇るとき、闇は徐々に消えるだろうか、それとも突然消え去るだろうか?」

 

質問者

「私が探求において進歩しているかどうかを、どうすれば知ることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「真我の実現に向けての進歩は、想念の不在の度合によって知られる。

しかし、真我の実現自体に進歩は見られない。

それはつねに変わらない。

真我はつねに実現されているからである。

障害は想念だけであり、進歩の度合は、真我がつねに実現されているという理解への障害をどの程度取り除いたかによって知られるのである。

それゆえ、想念は起こっているのかと探ることによって調べられなければならない。

源を探るところに想念は起こらない。」

 

質問者

「疑問はつねに起こってきます。

それゆえの質問です。」

 

マハルシ

「疑問が起こり、それは解放される。

別の疑問が湧き、それも解決され、そしてまた新たな疑問がつづいていく。

すべての疑問を解くことは不可能である。

誰にその疑問が起こるのかを見てみなさい。

その源へ行き、そのなかにとどまりなさい。

そうすれば疑問は起こらない。

これが疑問を解消する方法である。」

 

質問者

「私は答えることなしに、「私は誰か?」と尋ねつづけるべきなのでしょうか?

誰が誰に尋ねるのでしょうか?

どのようなバーヴァナー(態度)で探究にのぞめばよいのでしょうか?

「私」とは何でしょうか、真我でしょうか、あるいは自我でしょうか?」

 

マハルシ

「「私は誰か?」という探究における「私」とは自我である。

その問いの真意は、自我の源、本性とは何かということである。

そのためにはどんなバーヴァナーも必要ない。

ただあなたがこのような名前をもった、このような姿の身体だというバーヴァナーを放棄する必要があるだけである。

あなたの真の本性に対してバーヴァナーは必要ない。

それはつねにあるがままに在る。

それは実在であり、バーヴァナーではない。」

 

質問者

「しかし、「私」が「私」を探さなければならないということは、おかしなことではないでしょうか?

「私は誰か?」という問いは、結局、空虚な形式に終わってしまうのではないでしょうか?

それとも、私はそれをある種のマントラのように繰り返しながら、際限なく自分自身に問いつづけるべきなのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我探究が空虚な形式でないことは明らかだ。

それはどんなマントラの復唱よりも優れたものである。

「私は誰か?」という問いが単なる知的な質疑でしかないなら、たいした価値はないないだろう。

真我探究の目的そのものは、心を完全にその源へ集中させることにある。

それゆえ、それはひとつの「私」がもうひとつの「私」を探し求めることではない。

真我探究は純粋な真我の覚醒の内に不動の安定を確立すべく、心のすべてを注ぎこむ強烈な活動を要する。

そのため、けっして空虚な形式などではありえない。」

 

質問者

「もし私が朝と夕方にいくらかの時間をアートマ・ヴィチャーラのためにあてがえばじゅうぶんでしょうか?

それとも、たとえ執筆しているときも、歩いているときもつねにするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの真の本性とは何だろうか?

それは書くことや歩くことだろうか、それとも在ることだろうか?

唯一不変の真実とは在ることである。

あなたが純粋な存在状態を実現するまでは、探究を貫き通すべきである。

ひとたびあなたがそのなかに確立すれば、いかなる問題もなくなるだろう。

想念が湧き上がってくるまでは、誰も想念の源を探究することはないだろう。

あなたが「私は歩いている」や「私は書いている」と考えるかぎりは、誰がそれらをするのかと尋ねなさい。」

 

質問者

「もし私が想念を拒否つづけるならば、それをヴィチャーラ(探究)と呼ぶことができるでしょうか?」

 

マハルシ

「それはヴィチャーラへのひとつの足がかりにはなるかもしれない。

だが、あなたが真我に固執し、精神的な動きである想念の波がもはややんだときこそ、本当のヴィチャーラが始まるのである。」

 

質問者

「それではヴィチャーラは知的なものではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや、これはアートマ・ヴィチャーラ、内面の探究である。

心をつかみ、それを調べていくようにと初心者は教えられる。

しかし、結局心とは何だろうか?

それは真我の投影である。

それがどこから現れ、誰にとって現れるのかを見いだしなさい。

すると、「私」という想念がその根本原因であることが知れるだろう。

さらに深く見極めなさい。

すると、「私」という想念は消え、そこには「私」という意識の無限の広がりがあるだろう。」

 

質問者

「私はシュリー・オーロビンド・アーシュラムのマザーに次のように尋ねました。

「私は神が本当の姿で現れることを祈って、想念を起こすことなく、心を空白状態に保つ修練をしましたが、何も見ることはできません」。

すると、彼女の答えはこのようなものでした。

「その態度は正しいものです。

力は天から降りてくるでしょう。

それは直接体験なのです」。

私はこれ以上何かするべきでしょうか?」

 

マハルシ

「あるがままのあなたで在りなさい。

天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。

必要なのは自我を失うことだけだ。

在るものは、つねにそこに在る。

今このときでさえ、あなたはそれである。

空白状態はあなたによって見られている。

空白を見ているあなたはそこに存在している。

何を待つというのだろうか?

「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとする欲望はすべて自我の作用である。

あなたは自我の罠に陥っている。

これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。

あるがままのあなたで在りなさい。

それ以上何も必要ない!

ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。

そしてそれを達成したら、再び戻ってくるのだ。

それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。

あるがままに在りなさい。

あなたが誰なのかを知りなさい。

生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。

そして真我としてとどまりなさい。」

 

質問者

「人はどのようにして真我を知るのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を知ることは、真我として在ることである。

あなたは真我を知らないと言えるだろうか?

鏡がなければ目を直接見ることはできない。

だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?

同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。

それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?

あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点から見た不在を意味している。

なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため自分自身をそれと同一視するからである。

真我を対象化することはできない。

そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にしてしまう。

そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねるのである。」

 

質問者

「あなたは在ることについて語っています。

何として在ることでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。

「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理の要諦である。

その方法は、「静かに在ること」に尽きる。

では静寂とは何を意味するのだろうか?

それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。

なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。

「私はこれである」という観念を放棄しなさい。

真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。

それ以上簡単なことがあるだろうか。

それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なことなのである。

唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。

それを注意の的として射止め、ハートのなかで強烈にそれを知るべきである。

この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。

ハートのなかで絶えず輝き続ける意識こそが真我であり、存在や非存在である何か、などと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)によって

人の好む食物にも三種類ある

供犠 苦行 布施についても同様

この相違にについて話すから聞きなさい

 

サットワの人の好む食物は

生命力を増進し 体を浄化して

力と健康と幸福と喜びをもらたし

水分と脂肪に富み健康的で心を和ませる

 

ラジャスの人の好む食物は

苦味 酸味が強いもの 塩からいもの

熱いもの 乾燥したもの 刺激性のもの

こうした食物は心身の病の原因となる

 

タマスの人の好む食物は

古いもの 味のないもの

残り屑 またはそれが入っているもの

それから 不浄なもの

(バガヴァッド・ギーター第17章7-10)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(1)

これまでの記事で、私たちの体に眠っている生命エネルギーの源であるクンダリニーについてご紹介してきました。

また、前回の記事では、シュリー・ラマナ・マハルシが「クンダリニーアートマン(真我)である」と語っていらっしゃることも、ご紹介しました。

 

ヨーガの修行の目的は、この眠った状態にあるクンダリニーを目覚めさせることですが、シュリー・ラマナ・マハルシは、アーサナやプラーナヤーマなどの体を使ったヨーガの修行とは異なる「真我探究」という方法を提唱しています。

 

これは、心を使って自己の本性を悟るための精神的修練であり、「心のヨーガ」ともいえる方法であり、「ジニャーナ・ヨーガ」(智慧のヨーガ)と呼ばれています。

 

わたしは誰か?

 

この直接的な問いを自らに問うことで、その答えが得られると、シュリー・ラマナ・マハルシは語っています。

 

それでは、ジニャーナの道とは一体どのようなものなのでしょうか?

 

『自分は真我そのものである』という智慧に達することは、霊的探求の目的と言えます。

 

目覚めるのは、クンダリニーであり、真我であり、「わたし」が何かに目覚める訳ではありません。

(ずっと在ったにも拘わらず、その存在が知られていないがために、「眠っている」と表現され、それが表に顕わになることで、「目覚める」と表現されるだけで、実際には、真我は眠っている訳でも、眠りから目覚める訳でもありませんが、人間からすると、そのように感じられるということなのでしょう)

 

アートマン(真我)へと到る直接的な方法『真我探究』(アートマン・ヴィチャーラ)とはどのようなものなのか?早速、シュリー・ラマナ・マハルシの遺されたお言葉をご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「どうすれば平和な心を得られるでしょうか?

ヴィチャーラ(探究)によって平和になったようには思えません。」

 

マハルシ

「平和とはあなたの自然な状態である。

その自然な状態を防げているのは心なのだ。

あなたが平和を体験していないとすれば、それはあなたのヴィチャーラが心のなかだけでされてきたということである。

その心とは何かと調べなさい。

そうすれば、それは消え失せるだろう。

想念を離れて心というものは存在しない。

それでも想念は現れつづけるため、想念がそこから起こりそこへと消えていくそれが心だと推測するのである。

それはいったい何なのかと綿密に調べていけば、心といったものは存在しないことが見いだされるだろう。

このようにして心が消え去ったとき、あなたは永遠の平和を実現するのである。」

 

質問者

「私が「私」という想念の現れるその源へと探り入ると、これ以上先へ進むことのできない心の静寂にたどり着きます。

そこにはどんな想念もなく、虚空、空白の状態があるばかりです。

柔らかな光が広がり、あたかも身体がないかのようです。

身体や形態の認識もありません。

その体験はおよそ半時間ほどつづき、喜ばしいものです。

自由あるいは解放、名前は何であれ、永遠の幸福を確保するということは、この体験が何時間、何日、何か月も維持されるように修練をつづけていくことだと結論づけてよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「これは自由でも解放でもない。

このような状態は、マノラヤ、一時的な心の静止と呼ばれている。

マノラヤとは、思考の動きを一時的に抑えた集中を意味する。

この集中が止まるやいなや、以前のように古い想念や新しい想念が急激に湧き上がってくる。

そしてこの一時的な心の静止がたとえ千年つづいたとしても、誕生と死からの解放がある心の完全な破壊に至ることはけっしてない。

それゆえ、修行者はつねに油断することなく、「この体験は誰に起こったのか」、「この喜びを体験しているのは誰なのか」と尋ねなければならない。

この探究なしでは、彼は長時間のトランス状態あるいは深い眠り(ヨーガ・ニドラー)に陥ってしまうだろう。

この段階における霊的修練の正しい指導者の不在がもとで、多くの修行者が偽りの解放感覚のとりこになって惑わされてきた。

そして無事に目的地にたどり着いたのは、ほんのひと握りの人たちだけだったのである。

一時的な心の静止(マノラヤ)と想念の永久的な破壊(マノナーシャ)の違いを理解するサーダカ(修行者)は非常にまれである。

マノラヤでは想念の波が一時的に静まるが、たとえそれが千年つづいたとしても、マノラヤが止まったとたん、一時的に静止された想念の波は湧き上がってくる。

それゆえ、人は自分の霊的修練の進展を注意深く見守っていなければならず、そのような思考の静止に魅了されるのを許してはならない。

これを体験した瞬間意識を取り戻し、この静寂を体験しているのは誰かと内側に向けて尋ねるべきである。

いかなる想念が入り込むことも許さず、と同時に深い眠り(ヨーガ・ニドラー)あるいは自己催眠にも襲われないようにしなければならない。

これも目的に向けての向上の兆候ではあるが、それはまた解放への道とヨーガ・ニドラーへの道の分岐点でもある。

やさしく直接的な解放への近道がヴィチャーラ・マールガ、真我探究の道である。

探究によって、あなたは想念の流れを深くその源に達するまで導き、そのなかへと溶け去る。

そのときこそあなたは内なる感応を得るだろう。

すべての想念を破壊して、ついに永久のやすらぎを見いだすのである。」

 

質問者

「この「私」という想念は私から現れます。

しかし、私は真我を知らないのです。」

 

マハルシ

「これらはみな精神的観念にすぎない。

現在のあなたは、あなた自身を偽りの「私」、つまり「私」という想念と同一化している。

この「私」という想念は立ち現れては沈みゆく。

それに反して、真の「私」はそのどちらも超えている。

あなたの存在が途切れるということはありえない。

眠っていたそのあなたが、今日覚めているのである。

深い眠りのなかに不幸はなかったが、今それはある。

これらの違いが体験されるのは何が起こったからだろうか?

眠りのなかに「私」という想念はなかったが、今それはある。

真の「私」ははっきりと見えないが、偽りの「私」は自分を誇示している。

この偽りの「私」があなたの正しい智慧を防げているのである。

どこからこの偽りの「私」が立ち現れてくるのか見いだしなさい。

そうすれば、それは消え去るだろう。

そのとき、あなたはあるがままのあなたである絶対的実在として在るだろう。」

 

質問者

「どうすればいいのでしょうか?

いままで私は成功してこなかったのです。」

 

マハルシ

「「私」という想念の源を探究しなさい。

するべきことはそれだけである。

宇宙は「私」という想念が原因で存在している。

「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。

偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのである。

人びとはどのように心を制御すべきかと尋ねてくる。

私は彼らに言う。

「心を見せてみなさい。

そうすれば何をすべきかがわかるだろう」と。

心とは単なる一束の想念にすぎない。

それが事実である。

どうしてそれを思ったり、望んだりすることで絶滅させることができるだろうか?

あななの想念も歓喜も心の一部分なのである。

新たな想念が湧き上がるごとに心は肥えていく。

それゆえ、心によって心を殺そうとすることはばかげている。

心を殺す唯一の方法は、その源を見いだし、それをとらえることである。

そうすれば心はひとりでに消え去るだろう。

ヨーガはチッタ・ヴリッティ・ニロダ(心の活動の静止)を教える。

だが、私はアートマ・ヴィチャーラ(真我探究)を教える。

これは実際的な方法である。

チッタ・ヴリッティ・ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き起こされる。

その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。

だとすればいったい何の役に立つというのだろう?

麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。

だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。

それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしないのである。

では、どうすればその効果が持続するのだろうか?

不幸の原因を突き止めることによってである。

不幸は対象物を知覚することによって起こる。

もし知覚されるものがなければ、それによって引き起こされる想念もなく、不幸も一掃される。

「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題である。

聖典や聖者は、「対象物は単なる心の想像物にすぎない」と言っている。

それらは実質的な存在をもっていない。

物質を調査してみなさい。

そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。

すると、客観的な世界は主観的意識のなかにあるという結論に達するだろう。

それゆえ、真我こそが世界に浸透し、それを包み込む唯一の実在なのである。

そこに二元性は存在せず、それゆえあなたの平和を防げる想念も起こらない。

これが真我の実現である。

真我は永遠であり、その実現もまた永遠のものである。

アビャーサ(霊的修練)は想念に平和を乱されるたびに、真我のなかへと退くことで成り立っている。

それは集中でも心の破壊でもなく、真我のなかに退くことなのである。」

 

質問者

「なぜ集中には効果がないのでしょうか?」

 

マハルシ

「心に心を殺すように頼むのは、泥棒を警官と見なすようなものだ。

彼はあなたと一緒に泥棒を捕まえにいくかのように装うだろう。

だが、それでは何にもなるまい。

あなたは内面に向かい、「私」という想念がどこから起こるのかを見いださなければならない。

そうすれば心は存在しなくなるだろう。」

 

質問者

「心を内面に向けることも、いまだに心を用いていることにならないでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん心を用いている。

心の助けによってのみ、心を殺すことができるのはよく知られ、認められていることである。

だが、そこに心が存在すると想定し、それからそれを殺したいと言うよりも、まず心の源を探究しなさい。

すると、心などまったく存在していなかったことを発見するだろう。

外面に向いた心は想念や対象物を生みだす。

内面に向かえば、心そのものが真我となるのである。」

 

質問者

「しかし、まだよく理解できません。

あなたは「私」が偽りの「私」だと言われます。

いったいどうやって偽りの「私」を消滅させるのでしょうか?」

 

マハルシ

「偽りの「私」を消滅させる必要はない。

いったいどうやって偽りの「私」がそれ自身を消滅させると言うのだろう?

あなたがすべきことは「私」の源を見いだし、そこにとどまることだけである。

そうすることによってのみ、あなたの努力は実る。

そのあとは彼方なるものに身を任せるだけでいい。

そこでは、あなたは無力である。

努力によってそこに到達することはできないのだ。」

 

質問者

「もし「私」が今ここに在るなら、なぜ私はそう感じないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それを感じないと言っているのは誰だろうか?

本当の「私」が言うのか、それとも偽りの「私」が言うのだろうか?

調べてみなさい。

すると、それが偽りの「私」であることがわかるだろう。

偽りの「私」が障害なのである。

真実の「私」が隠れないように、偽りの「私」は取り除かれなければならない。

「私は実現していない」という想いが実現への障害である。

実際には、それはすでに実現されている。

それ以上実現されるべきものはない。

さもなければ実現とは何か新しいものだろう。

いままでなかったものなら、これから起こるということである。

誕生したものは死ななければならない。

実現が永遠のものでなければ、得る価値もない。

それゆえ、われわれが探究するものは、新しく起こる何かではない。

それは永遠なるものなのだ。

ただ障害によって知られていないだけである。

永遠なるものは無知のために知られない。

無知が障害である。

無知をぬぐい去りなさい。

そうすればすべてうまくいくだろう。

無知は「私」という想念と同一のものである。

その源を見つけだしなさい。

そうすれば、それは消滅するだろう。

「私」という想念は霊魂のようなものである。

目には見えないが、身体とともに立ち現れ、成長し、身体とともに消え去る。

身体意識が偽りの「私」なのだ。

この身体意識を棄て去りなさい。

それは「私」の源を探ることによって為される。

身体が「私」を主張することはない。

「私は身体だ」と言うのはあなたである。

この「私」とは誰かを見いだしなさい。

源を探ることによって、それは消え去るだろう。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

サットワの影響下にある者たちは

諸天善神を礼拝し

ラジャスの者たちは魔神 鬼神の類を拝み

タマスの者たちは死霊や幽鬼を拝む

 

また 聖典に示されていない方法で

激しい禁欲や苦行をする者は

虚栄心や我執のために行うのであり

欲と執着のとりこになっているのだ

 

こうした愚かな者どもは

肉体を構成する要素を衰弱させ

体内に住むわたしをも苦しめる

彼らの行為は魔的であると知れ

(バガヴァッド・ギーター第17章4-6)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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