永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(12)

ナーナ先生のお力のお陰で、プラナーナの恩寵に与ることで、超自然的な体験が起き、その体験により明らかになったことがあります。

それは、いままで主役の座に居座り、すべての行為、思考、感情の司令塔であり、この世を体験する主権を握っていると思い込んでいたエゴ(マインド)の本当の正体が明らかになったことでした。

それは、言葉で言えば、この世を体験している「わたし」とは、実際には実体のある存在ではなく、感覚はやって来ては去って行き、思考は湧いては去って行き、行為も自動反応だったり、思考の結果であったり、確かにこの肉体が行っているには違いありませんが、その肉体を「わたし」が動かしているように錯覚しているだけで、本当は、そんな主体としての「わたし」という存在は実在しない、ということでした。

過去の体験が集積した記憶によって、人格や刺激に対して反応する心の枠組み(フレーム)が形作られていて、そのフレームのようなものを「わたし」だと思う思い込みが起きていて、常識と言う人間間の暗黙の了解もあり、それが人間として当たり前になっているのですが、実際には、そのフレームの中に、「わたし」という実体がある訳ではありません。

「自分は生きている」「わたしは存在している」という意識も、脳内に起きているだけで、自分の力が創り出している訳ではないことは、人間なら誰でも了解しています。

自分の力で、頭の髪の毛一本生えさせることができないわたしたち人間には、「自」そのものであるエゴには、到底考えられないことではありますが、「自」という部分はないのです。

一人の人間として生きているのも、この形でこの世に存在しているのも、自力ではなく、完全に他力、神の力によるものなのですが、そして、神の力無しには、何も成し得ず、この世のすべては、神の力によって存在しているのですが、ともすると、人間は自分の力というものがあるかのように錯覚しています。

プラナーナの力により、神の力をダイレクトに体験したことで、エゴは見せかけの力を失い、そして完全にフレーム状態になってしまいました。

この宇宙がまるで実在しているかのように感じられるのは、神の力により、人間の脳内に認識が起きているからで、人間が認識しているような宇宙が、自らの力で実在しているのではなく、人間の持つ知覚感覚器官を通すと、このような宇宙が存在するかのような認識が、人間の脳内に起きているだけなのです。

人間は、生まれてから、知覚感覚器官を通してしか外界を認識したことがないので、目に見える世界が実体のある世界であることは、わたしたち人間にとっては疑いようのないことなのですが、しかし、実際には、そのような世界は、人間の脳の中にしか存在しておらず、宇宙の真の姿を人間の通常の知覚感覚器官を通して把握することは、実は不可能なのです。

その証拠に、他の生物は、人間が認識している世界を、人間と同じようには認識していません。

知覚感覚器官のセンサー能力、及び、それらより送られてきたデータを解析する脳と言うコンピューターの解析能力によって、認識する世界は違ってきます。

肉体は、神の創造によるものであり、人間は人間として同じようなセンサーと脳を持っているので、人間同士が認識している宇宙には、大きな違いはありません。

しかし、その宇宙は、人間の認識によって支えられているだけで、その認識も神の力によって支えられているのです。

そして、この神の力により、宇宙の本当の姿、実相を短い時間でしたが、体験したことで、宇宙は実体を失い、フレーム化してしまい、幻、夢と化してしまったのでした。

空に架かる虹は、見えている時は、まるでそこに存在するかのように見えますが、実際には、光の屈折現象で、虹というモノが実在する訳ではありません。

同じように、この宇宙は、実在するかのように見えていますが、虹と同じように、人間の眼にそのように見えているだけなのです。

わたしたち人間に、この世が存在するかのような錯覚が起きているのも、神の力によるもので、究極的には、神しか実在しません。

宇宙が存在するのは、神の力によるもので、人間も例外ではないのです。

 

プラナーナによる体験を通して、真の宇宙の実相であり、真に実在する”在って在る”とはどんなモノなのか?についての智慧がやって来たのですが、その後、シュリ・ラマナ・マハルシが遺された御言葉の中に、同じようなことが書かれているのを読んだ時、とても嬉しく感じ、更に確信が深まったのでした。

 

それでは、シュリ・ラマナ・マハルシは、神について、どのように語っていらっしゃるでしょうか?

前回の続きをご紹介いたしましょう。

 

 

『質問者

「(この質問は手紙としてシュリ・ラマナに手渡された)神の庇護の元に入り、まったく他に何も考えず、ただ神のみを思いつづけるなら、人はすべてを得ることができると言われています。

それは静かに坐り、つねに神のみに黙想し、身体を維持するために必要な食べ物のことさえも含めたすべての想念を放棄することを意味するのでしょうか?

病気になったときでも、薬や治療のことを考えるのではなく、健康も病気もただ神の摂理にまかせるべきだということでしょうか?

『バガヴァッド・ギーター』は「すべての欲望を放棄し、『私』や『私のもの』という想いもなく、我執なしに行動する人、彼は寂静に達する」(第2章71節)と述べています。

それはすべての欲望を棄て去ることを意味します。

それゆえ、私たちは神への黙想だけに専念し、何も求めず、神の恩寵によって与えられた食べ物や水だけを受け取るべきなのでしょうか?

あるいは少しは努力するべきなのでしょうか?

バガヴァーン、どうかこのシャラナガティ(明け渡し)の秘密を教えてください。」

 

マハルシ

「(手紙を読み終えると、彼はホールにいる皆に向かって語った」アナンニャ・シャラナガティ(完全な明け渡し)とはいかなる想念への執着も、疑いもないことを意味する。

だが、身体を維持するために必要な食べ物や水についての考えさえも放棄するべきだろうか?

彼は「何も求めず、神の思し召しによって得たものだけを食べるべきでしょうか?

あるいは、少しは努力をするべきでしょうか?」と尋ねている。

よろしい。

それでは、われわれはひとりでにやってきたものだけを食べることにしよう。

だがそのときでさえ、誰が食べるというのだろう?

では、誰かがわれわれの口のなかに食べ物を入れたとしよう。

いったい、少なくともそれを飲みこむべきではないだろうか?

それは努力にならないだろうか?

彼は、「もし病気になったら、薬を摂るべきでしょうか、それとも黙って健康も病気も神の手にまかせるべきでしょうか?」と尋ねている。

シャンカラーチャーリヤの「サーダナ・パンチャカム」という本のなかには、空腹と呼ばれる病気の治療のためには、施しによって得られた食べ物を食べるべきであると書かれている。

だが、少なくとも外へ出ていって、托鉢をしなければならないだろう。

もし、人びとが皆、目を閉じて静かに坐り、食べ物が来たなら食べますと言っていたら、世界はどうなってしまうだろうか?

それゆえ、各人がそれぞれの伝統に沿って得たものを受け取ればいいのだ。

だが、自分がそれをしているという感覚から自由にならなければならない。

私がそれをしているという感覚が束縛なのである。

それゆえ、空腹のときに食べるべきか、病気のときに薬を摂るべきかを疑うよりも、どうすれば行為者という感覚を克服できるかを考え、その方法を見いだす必要がある。

このような疑いはいつまでも湧きつづけ、けっして終わることはない。

「痛みがあるときにはうめき声をあげるべきだろうか?」、「息を吐いたあとに吸うべきだろうか?」といった疑いさえ起こるだろう。

何かより高次の力が、各個人の心の発達に合わせてこの世界のすべてを動かしている。

それをイーシュワラ(至高の主)あるいはカルマ(運命)と呼んでもいい。

もし、より高次の力に責任を明け渡せば、ものごとはひとりでに起こるだろう。

われわれは大地の上を歩く。

そうする間、一方の足を上げたあとのもう一方を上げるべきか、あるいはどこかで止めるべきかと一歩ごとに考えるだろうか?

歩くことは自動的に起こるのではないだろうか?

呼気と吸気の場合も同じである。

吸ったり吐いたりすることに特別な努力はいらない。

この人生においても同じことである。

もしわれわれが望めば何でも止められるだろうか?

あるいは何でも望みどおりにすることができるのだろうか?

かなり多くのことが、意識されないまま自動的に行われている。

神への完全な明け渡しとは、すべての想念を放棄し、心を神に集中させることである。

もしそれができれば、他の想念は消え去る。

もし心、言葉、身体の行為が神に溶けあえば、人生のすべての重荷は神のものとなるのである。」

 

質問者

「しかし、神は本当に私が行うすべての行動の行為者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「現状における困難は、人が自分を行為者だと考えていることにある。

だが、それは誤りだ。

すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎない。

もしこの見解を受け入れれば、彼は災いから解放され、さもなければ自ら災いを招くことになる。

例えば、ゴープラム(寺院の塔)の土台に彫刻された像は、あたかも党の重みをその肩に乗せているかのように見える。

その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えている。

だが、考えてもみなさい。

塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っている。

そして彫刻の像は塔の一部にしかすぎず、ただ塔の重量に耐えているように見えるだけなのだ。

おかしくはないかね?

自分が行為をしていると感じている人もまた同じことである。」

 

質問者

「スワミ、神を愛することは善いことではないでしょうか?

それならなぜ愛の道(バクティ・マールガ)にしたがわないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それにしたがえないと誰が言ったのかね?

そうするがいい。

だが、あなたが愛について語るとき、そこには二元性がある。

愛する者と、神と呼ばれる実体である愛される者がいる。

そうではないだろうか?

個人は神から分離してはいない。

それゆえ、愛とは自分の真我に対する愛を意味しているのである。」

 

質問者

「だからこそ、神が愛の道を通して崇拝されていいのかどうかと尋ねているのです。」

 

マハルシ

「それこそ私が言ってきたことである。

愛そのものが神の本当の姿である。

「私はこれを愛さない」、「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。

それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。

それは純粋な至福である。

純粋な至福、神、アートマ、好きなように呼ぶがいい。

それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。

あなたがこのようにすべてを拒絶すると、ただ真我だけが残る。

それが真実の愛である。

その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛で満ちていることを知るだろう。

真我の本性である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。

愛の高みに達した人のみ、解脱は成就される。

それがすべての宗教の本質である。

真我の体験とは愛である。

それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。

それが至福である。」 

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 サットワの離欲者は

不運な仕事をも嫌わず

幸先のよい仕事にも執着せず

活動についての正しい信念を確立している

 

肉体をまとった者たちにとって

活動をすべて止めることは不可能だ

しかし 仕事の結果を放棄した人は

真の離欲者である

 

離欲せぬ者は死後その生前の行為による

快 不快 またはその混合の報果をうける

だが離欲の生活を送った者は

そのような悲喜の報果をうけることはない

 (バガヴァッド・ギーター第18章10-12)

 

 

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(11)

これまでの記事で、わたしにとってナーナ先生は、わたしの中で真我を明らかにして下さった真のグル(師)であると書きましたが、今回は、ナーナ先生のお力により明らかになったことを、少し丁寧に言葉で描写してみようと思います。

(それは、真我そのものではありませんが、このブログを読んで下さる方々に、わたしたちの本質である真我をイメージしやすくなるように、言葉で表現してみたいと思います)

 

通常、わたしたちは、「わたしは存在している」と思っていますが、それは覚醒時に、ある種の感覚を感じていて、その感覚を「存在感」だと思っているからです。

その感覚は、寝ている時は、全く感じません。

それは、その感覚を生みだしている脳が働きを休んでいるので、起きている時に感じている「存在感」が消滅しているからです。

つまり、寝ている間に、「わたしは存在している」という感覚は消滅しています。

そして、眠りから目覚めると、また同じ感覚が戻って来て、「わたしは存在している」という感覚が生じます。

わたしたちは、これを毎日繰り返しています。

あまりにこの感覚に慣れ親しんでしまっているため、この「存在感」は、わたしたちの中では、ごくごく当たり前な感覚となってしまっています。

 

わたしがナーナ先生に体験を通して教えて頂いたのは、ある種のエネルギー共鳴による「実在感」とも言えるもので、それは、それまでわたしの体が慣れ親しんでいた「存在感」とは全く異なるものでした。

 

いつも耳元で、エアコンの室外機の50デシベル位の音がしている状態を想像してみて下さい。

通常は、その音がしている状態に耳が慣れ過ぎてしまい、それよりも静かな木の葉のふれ合う音(20デシベル)はかき消されてしまうので、聞こえません。

日頃、わたしたちが自分だと感じているエネルギーも、これと同じで、肉体に生じている感覚(エネルギー)は、粗くて強いので、それよりも微細なエネルギーを感じることができなくなっています。

しかし、この50デシベルの音が消えると、それまで気づかなかった微細な音(20デシベル)が聴こえるようになります。

これと同じことが、エネルギーにも当てはまり、常にその微細エネルギーは、わたしたちと共に在るのですが、あまりにわたしたちは、生まれた時からの肉体感覚に慣れてしまっているため、それより微細なエネルギーに気づくことができなくなっているのです。

その慣れ親しんだ感覚以外の感覚を体験したことが無いだけでなく、わたしたちがエネルギー的に多層構造になっているだなんて、思ってもみないことでもあるため、大抵は、この微細エネルギーの存在に全く気づかずに、一生が終わってしまいます。

(これが、所謂「無知」と呼ばれている状態であり、仏教では、「無明」(反対は悟り)とも言いますが、この「誤った自己認識」は生まれた時すでにデフォルトで設定されてしまっているため、通常、人間はこのことに疑いを持つことはありません)

 

ナーナ先生が、わたしにして下さったことは、シャクティ・プラーナという微細エネルギーで共鳴を起こし、わたしが通常感じていた粗くて強いエネルギーを鎮めて、微細なエネルギーの存在が、わたしの中で明らかになるようにして下さったことです。

 

それは、エネルギー共鳴とも言えるもので、それが起こるのは、同じ一つのエネルギーがわたしたちすべての存在に共通のものであるからなのです。

 それを、ナーナ先生は、「本質」と呼ばれましたが、ウパニシャッドで言うところの、「我ソレなり」の「ソレ」であり、この宇宙に本当に存在するのは、「ソレ」だけなのです。

(ナーナ先生は、このわたしたちすべての存在に共通のエネルギーを「本質」と言われています。ナーナ先生のブログ、「すべては本質の流れのままに」の「本質」とは、アートマン(真我)=ブラフマンのことです)

 

一般にはほとんど知られていませんが、この宇宙における唯一の実在である「ソレ」は、これまでも、今も、これからも在り続ける唯一の存在であり、いつでも、誰でも「ソレ」と切っても切れない関係にあります。

しかし、ソレを知っている人は、まだ極少数です。

 

所謂、一瞥体験とは、この「ソレ」を短時間、体験することを言い、真理を垣間見ることを指しています。

ナーナ先生のように、真我そのものになられている方は、完全に真我を実現されているので、そこに分離感はありませんが、通常、わたしたちは、真我そのものを知らないため、肉体に生じている粗いエネルギーを自分だと思って生きているため、真我から切り離された感覚があり、「我ソレなり」とは思えないのが普通です。

 

ナーナ先生のシャクティ・プラーナの恩寵のエネルギーにより、共鳴が起きた時、わたしの中で、真我から切り離されている分離感を生じさせている粗いエネルギーが消滅したため、微細エネルギーである「ソレ」だけが在る、ということがはっきりと明らかになったのでした。

短い時間、真実の次元を垣間見ただけでしたが、それでも、自分が本当はどんな存在であったのか?が明らかになるには充分でした。

 

これが起きた時、わたしは人生で二度目の「明け渡し」をした直後で、エゴのエネルギーが弱まっていたためと考えられます。

 エゴ(思考)のエネルギーは粗くて強力なため、この強いエネルギーが、わたしたちの共通の本質である木の葉のふれ合うくらいの超微細なエネルギーをかき消してしまっているので、通常わたしたちが感じている粗くて強いエネルギーが静かにならないと、超微細エネルギーである「本質」が表に出て来ることはありません。

 

瞑想やヨーガで、生じるエネルギーを静かで振幅の少ない状態に保つことができれば、「ソレ」を直接体験することも可能になりますが、それには、かなりの修行が必要でしょう。

普通なら何年も厳しい修行をしなくては到達できないと言われている究極の真理ですが、いまここで、真摯に望む人には誰にでも、ソレへと至る直接体験の道が開かれていることは、神の恩寵に外なりません。

 

今、次元の扉が開かれていることをお伝えするのが、このブログの目的でもあります。

 

一人の人間に起きたエネルギー共鳴が、他の人にも起こる可能性は充分にあると言えます。

その可能性は、誰にでも眠っている潜在能力でもあります。

シャクティ・プラーナの恩寵に与ることで、究極の真理への道が短縮されるという奇跡が起こることは、夢ではないのです。

 

それでは、前回に続き、「明け渡し」について、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

 

 

『質問者

「明け渡したあとにも漂いつづける心とは何なのでしょうか?」

 

マハルシ

「明け渡しをした心がこの質問をしているだろうか?」

 

質問者

「絶えず明け渡そうという欲望をもちつづけることで、より多くの恩寵が体験できることを私は期待しています。」

 

マハルシ

「きっぱりと明け渡し、欲望は棄て去りなさい。

「私が行為者である」という感覚をもちつづけているかぎり、欲望は消えないだろう。

それはまた人格でもある。

これが去れば純粋に輝く真我を見るだろう。

行為そのものではなく、行為者であるという感覚が束縛なのである。

「静かになりなさい。

そして私は神だと知りなさい」。

この言葉は沈黙が個人という痕跡を残さない完全な明け渡しであることを意味している。

沈黙が支配したとき、心の動揺も消え去る。

心の動揺が欲望、行為者という感覚、人格の原因である。

それがやんだとき、静寂がある。

「知ること」とは「在ること」である。

それは知識、知る者、知られるものという三位をともなった相対的な知識ではない。」

 

質問者

「「私は神である」あるいは「私は至高の存在である」といった観念は助けになるでしょうか?」

 

マハルシ

「「私は私であるものである」(I  AM THAT  I  AM)という聖者の言葉がある。

「私は在る」(I AM)とは神のことであり、「私は神である」と考えることではない。

「私は在る」を実現しなさい。

そして「私は在る」と考えてはならない。

聖書には「私は神だと知りなさい」とあり、「私は神だと考えなさい」ではない。

明け渡しについての話はみな、黒砂糖でつくられたガネーシャ神の像から、ひとつまみの黒砂糖を取り、同じガネーシャ神にナイヴァディヤ(供物)として捧げるようなものである。

あなたは、「私は身も心も所有物もすべて神に捧げます」と言うが、それらの捧げ物はあなたのものなのだろうか?

最も良いところで、「私はいままであなたのものであったそれらを、すべて私のものだと誤って想像していました。

今、すべてはあなたのものだと知りました。

もうけっしてそれが自分のものであるようにはふるまいません」と言えるだけだ。

神あるいは真我だけが存在し、「私」や「私のもの」は存在しないという知識――これがジニャーナである。

それゆえ、バクティとジニャーナの間に違いはない。

バクティはジニャーナの母である。」

 

質問者

「世俗の人間である私たちはさまざまな嘆き悲しみをもち、どうやってそれを克服すればいいのかも知りません。

神にも祈るのですが、いまだに満たされません。

どうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「神を信頼しなさい。」

 

質問者

「私たちは明け渡すのですが、それでも救いはないのです。」

 

マハルシ

「もし明け渡したのなら、神の御心にしたがい、あなたの気に入らないことが起こったとしても不平不満なく受け入れなければならない。

今、一見そう起こっているように見えることも、のちにまったく違った結果となるかもしれない。

不幸はしばしば人びとを神への信仰へと導いてきたのである。」

 

質問者

「それでも、私たちは世俗の人間なのです。

妻がいて、子供や友人や親戚がいます。

人格を保つことなく、彼らの存在を無視して自分自身を神の意志にゆだねることはできません。」

 

マハルシ

「つまり、あなたは神に明け渡してはいなかったということである。

あなたは神だけを信じなければならない。

神がその姿を現そうと消え去ろうと、彼の御心にしたがい、すべてを明け渡しなさい。

神のはからいにまかせなさい。

もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく、命令である。

神をあなたに従わせておきながら、自分は明け渡したと考えることはできない。

神は何が最善であり、いつ、どのようにすべきかを知っている。

彼にすべてを完全にまかせなさい。

重荷は彼のものだ。

あなたはもはや何の心配もしなくていい。

あなたの心配はみな彼のものなのである。

明け渡しとはそのようなものだ。

これがバクティである。

さもなければ、これらの質問が誰にとって起こったのか調べなさい。

深くハートのなかに潜り、真我としてとどまりなさい。

二つにひとつの道があなたに開かれている。」

 

質問者

「明け渡しは不可能です。」

 

マハルシ

「そうだ。

はじめのうちから完全なる明け渡しは不可能である。

確かに部分的な明け渡しなら誰にとっても可能だろう。

もしも明け渡しが不可能なら、何ができるというのだろう?

それでは心の平和はない。

あなたに平和をもたらすことはできない。

ただ明け渡しによってのみ、それができるのである。」

 

質問者

「明け渡しだけでもじゅうぶんに真我に到達できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「自己を明け渡すことだけでじゅうぶんだ。

明け渡しとは自分自身を自己の存在の原因の源に放棄することである。

そのような源があなたの外側にある神だと想像することで自分を欺いてはならない。

あなたの源はあなたの内側に在る。

つまり源を探しだし、そのなかに溶け去ることである。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 定められた義務は捨ててはならぬ

もし判断に迷って

義務の遂行を怠るならば

そのような離欲はタマスである

 

定められた義務を煩わしいと思い

また肉体的に苦痛だからと恐れて

それを捨てるのはラジャスの離欲であり

決して霊的向上を望むことはできない

 

アルジュナよ 名誉や利得に関心無く

仕事の結果に何の執着ももたず

ただ自分のすべき義務を果たす人は

サットワの離欲を行じているのだ

 (バガヴァッド・ギーター第18章7-9)

 

 

 

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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

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シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(10)

前回、数十年前に起きたクンダリニーが目覚めた体験について書きましたが、その前後に、夢を見ているかのような不思議な体験が次々と起こりました。

それまで、スピリチュアルな本や情報に触れたことが無く、読んだ本は、文学や科学、心理学などで、宗教とも無縁な生活を送っていました。

それがある日突然に、不思議な能力が芽生えて、不思議な出来事が次々と起こり、そのことを誰にも相談できず、最終的に、二進も三進も行かない状態になり、「すべてを神に委ねる」という「自己放棄」が起こった後に、お腹の底からそれまで感じたことのない巨大なエネルギーが起こり、物凄いスピードで頭の方に駆け上がるということが起きた直後に意識を失い、意識が再び戻ったのは10日後でした。

その超常現象的な出来事が、何故起きたのか?、また、それは何なのか?は、不明のままでしたが、その時を境に、人生という大海を進んで行く航路がはっきりと大きく変化したことを実感したのでした。

 

当時は、全く知識が無かったため、それが、所謂、「クンダリニー」という人体に眠ったように存在している生命エネルギーの源の力(シャクティ)であることを知りませんでしたが、それが人間的な力ではないことは、よくわかっていました。

クンダリニーが目覚める前に、所謂、ESPが目覚めてしまったため、これは何か”尋常ではない”ことが、自分に起きていることは明らかで、全く未知なる経験に、その時は、全くどうしていいのか?わからない状態でした。誰かに言っても信じてもらえないのはわかっていたので、この先、自分はどうなるのだろう?と不安と恐れを感じ、何の情報もない状況の中で、精神的にも不安定な状態だったと記憶しています。

しかし、そんな状態も長くは続かず、程なく、最終的に、自分の知らない聞いたことも無い更に未知なる世界に自分を投げ出さざるを得ない状況となり、後先考えずに、その未知なる世界へと飛び込んだのでした。

 

それから数十年が過ぎ、ナーナ先生に出会った時には、自分に起きたことを冷静に判断できるまでになっていました。

ナーナ先生のお導きもあって、あれがクンダリニーの目覚めだったとわかってからは、短期間の間に、スルスルといろいろなことが手に取るようにわかるようになり、それまで抱いていた疑問への答えがあっという間にやって来るようになったのですが、その中でも、はっきりと明確になったことのひとつは、あの時に起きたことは、「明け渡し」(サレンダー)だったということでした。

 

今日ご紹介するシュリ・ラマナ・マハルシの御言葉通り、”わたしは誰か?”という問いに対する最終的な答えに行き着くには、最終的に、「明け渡し」(サレンダー)という通過門を通り過ぎることが必須だと言っても過言ではないと言えます。

 

もちろん、この一見自己にとっては過酷とも言える「明け渡し」(サレンダー)でさえ、神の慈悲深い恵み(恩寵)の顕れであることは、言うまでもありません。

そして、「明け渡し」(サレンダー)は、予想もしない時に、予想もしない形で起こります。

しかし、エゴ(マインド)のストップがかかっている間は、起きないようになっているとも言えるので、「自分のすべてを投げ出してもいい」と思えるようになるまでは、人間としてこの地球上で様々な体験や修行をしながら、人は誰でもその時のための準備をしていると言っても過言ではないのです。

 

それでは、早速、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

『質問者

「無条件の明け渡しとは何でしょうか?」

 

マハルシ

「もし自分で明け渡したならば、質問をしたり、教えられたりする人は、もはやそこにいないだろう。

すべての想念は、根本的想念である「わたし」を心にとどめることによって、あるいは至高の力に無条件に自己を明け渡すことによって消滅させられる。

真我を実現するには、この二つの方法しかない。」

 

質問者

「完全な明け渡しのためには、解脱や神への欲望さえも放棄するべきではないでしょうか。」

 

マハルシ

「完全な明け渡しのためには、自分自身のいかなる欲望ももたないことが要求される。

あなたは何であれ、神が与えてくれるものに満足しなければならず、それはつまり、あなた自身の欲望をもたないということを意味するのである。」

 

質問者

「今、このことはよく理解できました。

では、明け渡しを成就するための手段とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「二つの道がある。

ひとつは、「私」の源を探り、その源のなかへ溶け去ることである。

もうひとつは、自分自身の力では、私はまったく無力であり、神のみが全能であること、そして彼に我が身を完全に投げ出す以外、他に救われる道はないと感じることである。

この方法によって、神のみが存在し、自我は存在しないという確信は徐々に深まっていく。

どちらの道も同じ目的地にあなたを導く。

完全な明け渡しとは、ジニャーナあるいは解脱のもうひとつの名前なのである。」

 

質問者

「明け渡しのほうがやさしいことがわかりました。

私はこの道を選びたいと思います。」

 

マハルシ

「いかなる道を行こうとも、あなたは自分自身を一者のなかに失わなければならない。

明け渡しは、あなたが「神のみぞすべてなり」「神の御心のままに」という境地に至ってはじめて完全なものとなるのだ。

その境地はジニャーナの境地と異なったものではない。

ソーハム(「私は彼である」という意味)のなかにはドヴァイタ(二元性)が在り、明け渡しのなかにはアドヴァイタ(非二元性)が在る。

だが、実在のなかにはドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、ただ在るものが、在る。

明け渡しはたやすく見える。

なぜなら、ひとたび「私は明け渡します」と口にだして言えば、すべての重荷を神に背負わせ、あとは好きなことを好きなようにすることができると人びとは想像するからである。

だが事実は、明け渡したあとに好き嫌いを言うことなどできない。

あなたの意志は完全に不在となり、神の意志がその場を引き継ぐことになる。

このような自我の死は、結果的にジニャーナと同じ状態をもたらす。

それゆえ、いかなる道を行こうとも、あなたはジニャーナあるいは至高の一者にたどり着かなければならない。」

 

質問者

「自我を消滅させるための最上の方法は何でしょうか?」

 

マハルシ

「各人がそれぞれ魅力を感じ、最も易しいと思うものが最上の方法である。

すべての真我のなかに自我を融合させるという同じ目的地へとつづいている。

バクタ(帰依者)はそれを明け渡しと呼び、ヴィチャーラ(真我探究)に従事する者はそれをジニャーナと呼ぶ。

どちらも自我を、それが現われた源へと戻し、そこに融合させようと努力しているのである。」

 

質問者

「そのような探求者の能力を、恩寵が高めてくれるのでしょうか?」

 

マハルシ

「神にまかせなさい。

無条件に明け渡しなさい。

自分の無力さを認め、至高の力に救いを求めるか、あるいは不幸の原因を探ってその源へ向かい、真我のなかに溶け去るか、二つのうちのひとつが為されなければならない。

どちらの道を行こうと、あなたは不幸から解き放たれるだろう。

すべてを明け渡した者を、神はけっして見放さない。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 バラタ王家で最も秀れた人よ

離欲についてのわたしの判断を聞け

人類のなかで最も秀れた人よ

聖典は「離欲に三種あり」と説く

 

供犠 布施 修行に関する行為は

止めてはいけない 進んで行え

まことに この三つの行為は

賢者をも益々浄化するからである

 

だが これらの活動をするとき

執着なく 結果を期待せずに行え

当然の義務だと思って行うことだ

アルジュナよ これがわたしの結論である

(バガヴァッド・ギーター第18章4-6)

 

 

 

 

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真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

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このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(9)

以前の記事「わたしは誰か?-真我探究の道(5)」で述べた通り、ナーナ先生から発せられるシャクティ・プラーナに初めて触れた瞬間に、自己の本性を覆っていた「無知」というヴェールが剥がれて、その時初めて、「ソレ」を識ることになったのですが、その体験後に、「ソレ」を言い表している言葉に出会いました。

 

その言葉は、「サット・チット・アーナンダ」(実在、智慧、至福)というサンスクリット語で、ラーマ・クリシュナやラマナ・マハルシは、真我(アートマン)を知らない私たちに説明する際に、古来より使われてきた真我(アートマン)を表すこの三語を度々引用しています。

 

しかし、ここで注意しなくてはならないことは、「実在」も「智慧」も「至福」も、観念(言葉)であり、それらの観念(言葉)は、わたしたちの頭の中にある種のイメージを想起させることはできても、「ソレ」そのものではない、ということです。

 

うどんは、「細くて長くて白い食べ物」だと言われて、うどんをイメージできても、表現に使われた言葉(観念)は、うどんそのものではない、ということと同じです。

 

ナーナ先生に出会う数十年前に、何故そういうことが起きたのか?理由はよくはわかりませんが、あることがきっかけで突然クンダリニーシャクティが上昇し、内在神に出会うことになり、その後、内在神の導きの元、手探りで「真理への道」を歩むことになりました。

それまでの世界観はガラリと変わり、目には見えないため、通常の人間には明らかになっていない宇宙観に目覚めながらも、それを表に出すことなく、一人の人間として喜怒哀楽を体験しながら、何十年も生き、そろそろ人生の終盤に差し掛かったという時に、内在神の導きにより、不思議なご縁でナーナ先生に出会い、ナーナ先生のシャクティ・プラーナの恩寵の力により、一瞬にして「ソレ」、つまり、「サット・チット・アーナンダ」(実在・智慧・至福)を体験し、今に至ります。

 

わたしの場合、クンダリニーシャクティが一度上昇したくらいでは、抱いていたすべての疑問が消滅し、真実が明らかになるという最終ゴールに至ることはできませんでした。

そのため、その後、最終的な答えを掴むまで、多くの時間がかかることになりましたが、ナーナ先生の場合は、ナーナ先生が最終的に自己の本性であるアートマンとの完全なる合一(神我一体)をされたのは、数回のクンダリニーシャクティが上昇した後だそうで、しかもそれが短期間の間に続けて起きた、ということです。

 

ストーリー展開は人それぞれですが、この最終ゴールに至るまでのプロセスこそが人間ならではの体験(人生)であり、歓びそのものであり、生きる醍醐味であり、神の恩寵、神の慈悲深い愛であると感じています。

そして、この人生の最奥の目的である最終ゴールへと至る道は、真理を求める誰にでも開かれていると確信しています。

 

ナーナ先生に出会い、「ソレ」を体験する瞬間までは、長い長い時間がかかったようにも感じましたが、すべては時空間の中で起きていて、その時空間もわたしたち人間の認識(脳)の中にしかないというカラクリに目覚めてしまうと、それが起こるのは常に「いま」であり、実際には、この宇宙に「在る」という感覚(錯覚)が生じているのは、「いま」だけということが明らかになるので、悟りに時間的な遅いも早いもないという理解が自然と生まれます。(遅い早いという判断は、人間の認識の中にだけ起きていることー脳の働きの一つであるだけなのです)

時間も空間も実は実体のないものであり、わたしたち人間の頭の中にしか存在していません。

更に言うならば、それを体験している「わたし」という個人的な存在は幻想だということがハッキリとするため、実際には、悟る個人はいないことになり、個人にとっては、そのことが明らかになることが個人の終り、最終ゴールということになります。

 

サット(実在)だけが、真の実在として、常に在り続けます。

 

この真実に至れば、人間が抱くあらゆる疑問や質問は、自ずと消滅します。

 

このことは、ウパニシャッドの重要な教えであり、多くの聖人たちが明らかにしようと試みて下さった人間にとっての最奥の真理と言えます。

 

そして、この最奥の真理である「サット」(実在)は、心の静寂、沈黙の中でのみ明らかになります。

(このため、心が、サットワ(善性優位)な状態であるということは、とても重要な意味があります)

 

それ故、古来から、究極の真理を悟るために、心がサットワ(善性優位)の状態である心の静寂をもたらす「瞑想」が推奨されてきたのです。

 

それでは、前回に引き続き、「サット」(実在)について、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

 

 

『質問者

「バガヴァーンは「ジニャーニの影響は沈黙のうちに帰依者の心のなかに忍びこむ」と言われました。

また、「マハートマ(偉大なる魂)と接触をもつことは、本来の自己を実現するために有効な方法である」とも言われました。」

 

マハルシ

「そうだ。

何か矛盾があるだろうか?

ジニャーニ、偉大な魂、マハートマ――あなたは彼らを区別するだろうか?」

 

質問者

「いいえ。」

 

マハルシ

「彼らと接触をもつことは良いことである。

彼らは沈黙を通して働くだろう。

話すことによって、彼らの力は減少してしまう。

それゆえ、心のつながりが最も良いものである。」

 

質問者

「たとえジニャーニの物理的身体が死んだあとでも、精神的なつながりをもつことは良いことでしょうか、それとも、それは彼が身体のなかにとどまっている間だけのことなのでしょうか?」

 

マハルシ

「グルは身体的形態ではない。

それゆえ、グルの身体が消滅したあとも心のつながりはそのまま残る。

グルが死んだあとに別のグルのところへ行くこともできる。

だが、すべてのグルはひとつであり、そのなかの誰ひとりとして身体である者はいない。

それゆえ、つねに精神的なつながりが最上である。」

 

質問者

「恩寵の働きとは、グルの心が弟子の心に働きかけているのでしょうか、それとも、それは何か違った過程なのでしょうか?」

 

マハルシ

「恩寵の最高の表れは沈黙である。

そしてそれは最高のウパデシャ(教え)でもある。」

 

質問者

「ヴィヴェーカーナンダは、沈黙が最も大きな声の祈りであると言いました。」

 

マハルシ

「探求者の沈黙においてはそうだろう。

グルの沈黙は最も大きな声でのウパデシャなのだ。

それはまた恩寵の最高の表れでもある。

他のすべてのディークシャー(イニシエーション)は沈黙という源から由来しており、それゆえ二次的なものだ。

沈黙がその原初の姿である。

グルが沈黙していれば、弟子の心は自動的に浄化される。」

 

質問者

「シュリー・バガヴァーンの沈黙自体、強力な影響力をもっています。

それは私たちの心に平和をもたらします。」

 

マハルシ

「沈黙は絶えることのない言葉である。

声にだした言葉は沈黙の言葉を妨害してしまう。

沈黙のなかでは、人は周囲との親密な接触の内に在る。

ダクシナームールティの沈黙は四人の弟子たちの疑いを取り払った。

「マウナ・ヴァーキャー・プラカティータ・タットヴァム」とは、「沈黙によって説かれた真理」を意味している。

沈黙は真理の教えである。

沈黙とは実に強力なものである。

音声による言葉には口という器官が必要だ。

そしてそれが言葉に先行する。

だが、沈黙の言葉は想念さえも超えている。

それはつまり、話された言葉も話されない言葉「パラー・ヴァータ」をも超えているのである。」

 

質問者

「誰もがこの沈黙から恩恵を受けるのでしょうか?」

 

マハルシ

「沈黙は真の教えである。

それは完全な教えである。

それは最も熟練した探究者にのみふさわしい。

他の者にとって、それから完全なインスピレーションを引き出すことは不可能だ。

それゆえ、彼らは真理を説明するための言葉を必要とするのである。

だが、真理は言葉を超えている。

それは説明を許されない。

言葉にできることは、ただそれを指し示すだけである。」

 

質問者

「マハートマが帰依者をひと目見るだけでじゅうぶんであり、偶像礼拝や巡礼などにそれほどの効果はないと言われています。

私がここに来てすでに三カ月が経ちましたが、マハルシによって見られたことで自分がどのような恩恵を受けたのかわかりません。」

 

マハルシ

「グルの眼差しには浄化作用がある。

その浄化作用を目で見ることはできない。

石灰を発火させるには長い時間が必要であり、木炭であれば短い時間ですむ。

火薬であれば発火は瞬時に起こるだろう。

マハートマのもとを訪れる人の段階もそれと同じである。

智慧の炎はすべての活動を燃やし尽くす。

賢者との交際(サットサン)、あるいは彼らとの精神的接触によって、智慧は培われるのである。」

 

質問者

「弟子が何の努力もしないのに、グルの沈黙が実現をもたらすこともできるのでしょうか?」

 

マハルシ

「偉大な師の臨在のなかで、ヴァーサナーは活動をやめ、心は静まり、サマーディが起こる。

こうして弟子は、師の臨在のなかで真の智慧と正しい体験を得るのである。

そのなかに揺るぎなくとどまるには、さらにいっそうの努力が必要となる。

最終的に、弟子はそれが彼の真の本性であることを悟り、生きながらにして解脱を得るだろう。」

 

質問者

「探究が内面で行われるものなら、師の身体的な臨在の内にいることが必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「すべての疑いが終焉するまでは必要である。」

 

質問者

「私は自分の力で集中することができません。

私を救ってくれる力を求めています。」

 

マハルシ

「そうだ。

それが恩寵と呼ばれるものである。

精神力が弱いため、個人としてのわれわれには集中は不可能だ。

それゆえ、恩寵が必要となる。

サードゥ、セヴァー(賢者に献身的に奉仕すること)がそれをもたらすだろう。

だが実際には、何も新たに得るものなどない。

弱者が強者の庇護のなかに入るように、精神力の弱い者の心は精神力の強い賢者の臨在のなかで容易に制御される。

ただ恩寵のみが存在する。

それ以外に存在するものは何もないのである。」

 

質問者

「グルに身体的に奉仕することは必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現するためには、グルに十二年間奉仕しなければならないとシャーストラ(聖典)は述べている。

グルは何をするのだろうか?

彼は弟子に真我を手渡すというのだろうか?

真我はつねに実現されているのではないだろうか?

それでは、通常信じられているのはどういうことだろう?

人はつねに真我である。

ただそれを知らないだけだ。

彼はその代わりに真我を身体などの非真我と同一視してしまう。

そのような混同は無知のために起こる。

無知をぬぐい去れば混同はやみ、真実の知識は明らかになるだろう。

真我を実現した賢者との接触を保つことで無知は徐々に消え、ついには永遠なる真我が実現されるのである。」

 

質問者

「私は仕事の関係で仕事場の近くに住まなければなりません。

賢者の近くに暮らすことができないのです。

サットサンなしでも私は実現できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「サットとはアハム・プラトヤ・サーラム、自己の真我のことである。

サードゥ(賢者)とはその自己の真我なのだ。

彼はすべてに内在している。

真我なしにいられる人がいるだろうか?

いいや。

それゆえ、誰もサットサンから離れている人はいないのである。」

 

質問者

「グルの近くに在ることは助けとなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたは身体的な近さを意味しているのだろうか?

それが何の役に立つというのだろう?

ただ心だけが重要なのだ。

心がグルとのつながりをもたなければならないのである。

サットサンが心をハートのなかへと沈みゆくように助けるだろう。

グルとの交際は精神的と身体的なものの両方である。

はっきりと目に見えるグルが探究者の心を内側へと押し入れる。

グルはまた探究者のハートのなかにも存在し、彼の内面に向かうハートのなかへと引き入れるのである。」

 

質問者

「私が知りたいことは、サットサンが本当に必要なことなのか、そして私がここに来ることが私の助けとなるのかどうかということだけです。」

 

マハルシ

「まずサットサンとは何なのか、ということを明らかにしなければならない。

それはサットあるいは真理との交わりを意味する。

真理を実現した人もまた真理であると見なされている。

そのような真理との交わり、あるいは真理を知る人との交際は絶対的に必要である。

この三界のなかで、サットサンのように誕生と死という輪廻の大海を渡り、われわれを安全に運んでくれる舟は他にない、とシャンカラは言っている。

サットサンとはサットとのサンガ(集い)という意味である。

サットとは他でもない真我である。

今は真我がサットであると理解されていないため、それを理解している賢者との集いが求められるのである。

それがサットサンである。

その結果、心は内面を向き、そのときサットが明らかにされるのである。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

供犠 修行 布施を行うに際して

不動の信念でそれをつづけること

またそれをすべて至上者に捧げること

これらもまた サットである

 

アルジュナよ 信仰のない者が

供犠 修行 布施その他のことを行っても

それはアサットと呼ばれ

現世においても来世においても無益である

(バガヴァッド・ギーター第17章27-28)

 

 

 

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日本国内ばかりでなく、地球上のどこに居ても、関谷 ニルヴァーナ瞑想センターで開催されますマインドフルネス瞑想会の恩寵のエネルギーフィールドに入ることができ、深い瞑想を体験することができます。

真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(8)

前回まで3回に渡り、「グル」(師)について、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉をご紹介することにより、「グル」(師)とはどのような存在か?また、その役割や働きなどについて理解を深めてきました。

 

釈迦やイエス・キリストやその他多くの「聖人」と言われた存在には、肉体を持った「グル」はいませんでしたが、シュリ・ラマナ・マハルシが質問者に答えられたように、”「グル」とは「真我」(アートマン)そのものである”ため、肉体を持った存在ばかりが「グル」(師)であるとは限らない、と言うことになります。

 

また一方で、時として、真我(アートマン)が、わたしたちもまた同じ真我(アートマン)であるということが、真実として明らかになるようにと、わたしたちの目の前に「グル」(師)という形(肉体)を持った存在として現れるということも、この世という神の創造の世界では起こり得ることなのです。

 

しかし、世の中には、自称「グル」を語り、人々を惑わすことに長けた人々が現れることもあるため、多くの人々に、「グル」という存在に違和感や不信感を感じることが起きてしまいがちですが、そうした状況があるが故に、真の「グル」を見分ける方法は、とても重要になってきます。

そのために、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉などから学ぶことで、ホンモノかニセモノかを見分ける審美眼を養うことは、わたしたちが「本当は、自分は誰であるのか?」という究極の真理に達するために、超えなければならないひとつの重要な試金石であると言えるでしょう。

 

物事の真贋を見分ける識別力を持つことも、また、神の恩寵のひとつと言えるのですが、その確かな識別力を養うためにも、もう少し、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉から、「グル」とはどのような存在なのか?について、更に理解を深めることが、わたしたちが自分の努力でできる準備のひとつであると言えます。

 

「グル」(導師)と言うからには、何よりも、自分の本性である真我(アートマン)を自力では悟ることができないわたしたちに、神の恩寵である神秘の力により悟らさせることができる存在こそが、真の「グル」であるということになりますが、この「悟る」とは、頭で理解することではありません。

 

「悟る」とは、己の本性である真我(アートマン)を知ることであり、それは知識によってもたらされるものではなく、真我(アートマン)そのものを体験することなのです。

それは、エゴの消滅によって起こりますが、このエゴの消滅は、エゴ自身が引き起こせるものではないため、準備は自分でできても、最終的には、神が微笑まなくては、何も起こらず、結局は、究極の真理を体得することはできません。

この最後の一押し、己の本性を覆っているヴェールを取り去り、それまで全く気づかないでいた真実が明らかになるようにと導いて下さる存在が、グル(真我)であり、それは通常の人間には不可能であるが故に、真のグル(真我)に出会うことは、個人にとっては、探究の終りに向けての最終段階であると言えます。

 

真我(アートマン)は、ブラフマン(在って在るモノ)であり、すべての存在の源であり、所謂「神」という概念で理解される究極の絶対的な存在でもあります。

 

この人類の究極の目的に達した存在のみが、まだゴールに達していないわたしたちを牽引するが如く、神の恩寵の力で導いて下さることができるのです。

 

それでは、一体、グル(師)は、どのような方法でわたしたちを導くのでしょうか?

 

幾人かの人々を究極の真理へと導いたことで「グル」(師)として知られるようになったシュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

 

『質問者

「なぜバガヴァーンは広く人びとに真理を説いてまわらないのでしょうか?」

 

マハルシ

「なぜ私がそうしていないと思うのかね?

真理を説くことは、教壇に上がって人びとに向かい、熱弁をふるうことだろうか?

真理を説くこととは、ただ知識を伝授することである。

本当の意味においてそれがなされるのは、ただ沈黙によってだけである。

一時間もの説教を聞いたあとで、人生を変えるほどの感銘も受けずに立ち去っていく人のことを考えてもみなさい。

その人と、賢者の神聖な臨在のなかに坐り、人生に対する見地が完全に変わってしまった人とを比べてみるがいい。

何の効果もなく、大声で説教するのと、沈黙の内に坐り、内なる力を送るのとどちらが優れているだろうか?

いったいどのようにして話す言葉が起こるのだろうか?

まず、そこには抽象的知識がある。

そこから自我が現れ、その自我から想念が起こる。

そしてその想念を話す言葉として現れるのである。

つまり、言葉は本来の源泉のひ孫にあたる。

言葉がいくらかの効果を生みだせるとすれば、沈黙から真理を説くことがどれだけ強力であるか、自分で判断してみるがいい。」

 

質問者

「どうして沈黙がそれほど強力でありうるのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現した賢者は霊的な波動を送り、それが多くの人びとを彼のもとに引き寄せるのである。

彼は洞窟に坐り、完全な沈黙を保っているかもしれない。

われわれは真理についての講話を聞き、たいした理解もできないままその場を立ち去るかもしれない。

だが、真我を実現した賢者との接触をもてば、たとえ彼が何も話さなくても、真理についてのより深い洞察を得ることだろう。

賢者が公共の場に出ていく必要などまったくない。

必要とあれば、彼は他の者たちを媒介者として使うこともできるのである。

グルは実在からあふれる自己知識の光を啓示して、沈黙を与える者である。

グルの眼差しが弟子の瞳にであえば、いかなる言葉もその意味を失うだろう。」

 

質問者

「バガヴァーンはディークシャー(イニシエーション)を授けるのでしょうか?」

 

マハルシ

「マウナ(沈黙)は最高の、そして最強のディークシャーである。

これはダクシナームールティによって実践されてきた。

触れること、見ることなどによるイニシエーションは順位の低いものである。

沈黙による伝授はすべての者のハートを変えてしまう。

ダクシナームールティは弟子たちがやってきたとき、沈黙を守った。

これがイニシエーションの最高の形態である。

それは他のすべての形態を含んでいる。

他のディークシャーは主体―客体という二元性の関係に基づいていなければならない。

まず、主体が伝授するものを発し、それを受け取る客体がいなければならない。

二人がそこにいないかぎり、どうやってひとりが他を見たり、他に触れたりできるだろうか?

沈黙のディークシャーは最も完全なものである。

それは見ること、触れること、教えることを含んでいる。

それはあらゆる方法で個人を浄化し、彼を実在のなかに確立させるだろう。」

 

質問者

「霊的な師は弟子に霊性を移入させることができる、とスワミ・ヴィヴェーカーナンダは言っています。」

 

マハルシ

「そこに何か移入されるような実体があるだろうか?

霊性を移入するとは、自分は弟子であるという感覚の消滅を意味するのである。

それが師のすることである。

あるとき何かであった人が、のちに何か別のものに変化するということではない。」

 

質問者

「恩寵はグルからの贈り物ではないでしょうか?」

 

マハルシ

「神、恩寵、グルはみな同義語である。

それらは内在する、永遠なるものである。

真我はすでにわれわれの内側に存在しているのではないだろうか?

それはグルの眼差しによって与えられるようなものだろうか?

もしもグル自身がそう考えていたとしたら、彼はグルと呼ばれるに値しない。

ディークシャーには手で触れる、目で見るといった数多くの伝授の種類があると聖典は述べている。

聖典はまた、グルが火、水、ジャパマントラを用いた儀式を執り行い、そのような奇妙な行動がディークシャーだと定義している。

あたかも、グルによって行われるそのような過程を通り抜けて、はじめて弟子が成就するとでも言うように。

グルの臨在の内にあるときに個人という実態を探し出そうとすると、どこにも見いだせない。

グルとはそのような存在である。

ダクシナームールティとはそのような存在である。

彼は何をしたのだろうか?

弟子たちが現われたとき、彼は沈黙を守っていた。

彼は沈黙の内にとどまり、弟子の疑いは一掃された。

それはつまり、彼らが個人としてのアイデンティティを失ったからである。

これこそがジニャーナであり、通常それにまつわる冗漫な儀式のことを言うのではない。

沈黙は最も影響力をもっている。

いかに聖典が広大で力強いものであっても、その効力は無に等しい。

グルは静寂の内にあり、周囲のすべてを平和で包みこむ。

彼の沈黙はすべての聖典をひとつにしてものよりもさらに広大で、さらに力強い。

こういった質問が起こるのは、あなたがここに長く滞在し、多くを聞き、多大な努力を重ねたにもかかわらず、何も得ていないと感じているからである。

内側で進行している成長をはっきりと知ることはできない。

ただ事実は、グルはつねにあなたの内に座しているのである。」

 

質問者

「グルの沈黙が霊的な覚醒のより高次の状態をもたらすというのは本当でしょうか?」

 

マハルシ

「グルの沈黙の力を証明する、古くから伝わる話がある。

タットヴァラヤは彼のグルであるスワルーパーナンダを讃えるために、タミル語でバーラニと呼ばれる詩的形式の作品を創作した。

そして高名な学者たちを呼び集めてその作品を聞いてもらい、評価を下してもらうことにした。

学者たちは、バーラニは戦いで千頭の象をも殺すほどの力をもった偉大な勇者を讃えるためにのみ創作されるべきであり、苦行者のための賛歌ではないと口々に異議を唱えた。

「我がグルのもとへ今すぐ行きましょう。

そこでこの問題を解決させましょう」とすぐさまタットヴァラヤが言った。

彼らがグルのもとに着き、座についたあとで、彼はグルに訪問の目的を伝えたのだった。

グルは沈黙して坐り、皆もまた沈黙の内にとどまった。

一日が過ぎ、夜になった。

そしてさらに何日かの昼と夜が過ぎていった。

それでも皆は沈黙して坐り、想念の起こった者はひとりもいなかった。

考えることも、なぜここにやってきたのかを口にする者さえいなかった。

このようにして何日かが過ぎたあと、グルがほんのわずかに心を動かした。

すると、そこにいた者は皆、直ちに思考の活動を取り戻したのだった。

彼らは驚きとともに言った。

千頭の象に打ち勝つことなど、われわれの自我すべてを合わせた獰猛な象に打ち勝つこととは比べものになりません。

あなたこそまさしくバーラニによって讃えられるに値する人です!」

 

質問者

「この沈黙の力はどのように作用するのでしょうか?」

 

マハルシ

「言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。

それは想念が現われたあとにのみ呼び起こされる。

「私」という想念が立ち現れたあとに、他の想念はつづく。

それゆえ、「私」という想念がすべての会話の根源と言えよう。

思考のない状態にとどまるとき、人は沈黙という普遍の言語によって他者を理解するのである。

沈黙は絶えず語っている。

沈黙は話すことによって防げられてきた絶え間ない言葉の流れである。

私が今こうして話しているこれらの言葉が、その沈黙の言語を防げている。

たとえで言えば、ここに電流が電線を伝わって流れている。

その経路に抵抗を与えることによって、それは電灯として輝き、扇風機として回る。

電線のなかでは、それは電気のエネルギーとしてとどまっている。

同じように、沈黙も永遠に流れる言語であり、言葉によって防げられているのである。

何年にもおよぶ会話でも知ることができなかったことさえ、沈黙のなかでは一瞬にして知られ得る。

ダクシナームールティとその四人の弟子たちの物語はこの良い例である。

これが最高の、そして最も効果的な言語である。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

故にブラフマンを知る人は

供犠 寄進 苦行をおこなうとき

聖典の規則にしたがって

必ずはじめにオームを唱える

 

物質界を解脱して真の自由を願う者は

物質次元の報果(むくい)を期待することなく

聖語”タット”を唱えて

供犠 修行 布施を行え

 

聖なる言葉 ”サット”は

実在と至善の意味に用いる

また プリターの息子よ

サットは善行の意味にも用いられる

(バガヴァッド・ギーター第17章24-26)

 

 

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(7)

前回と前々回の記事で、シュリ・ラマナ・マハルシとスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉をご紹介して、ライオン(真我)でいらっしゃるグル(導師)により、私たちヒツジライオン(真我であることをすっかり忘れている人間)も、実はヒツジ(人間)ではなくライオン(真我)であるという存在の最奥の奥義に触れることが可能であると、お伝えさせて頂きました。

つまり、それは、魂がこの形で顕れた究極の目的を果たすことができる、ということを示唆します。

 

今回の記事では、ナーナ先生が活動を通して為されていることを、もう少し詳しくご紹介させて頂き、その後で、シュリ・ラマナ・マハルシの「グル」についてのお言葉の続きをご紹介したいと思います。

ここで特にお伝えしたいことは、ナーナ先生から放たれる神の恩寵の力であるシャクティ・プラーナは、自己の本性を悟ることを妨げている障害(エゴ)を消滅させることで、自力では、なかなか魂の目的を果たすことが難しい私たちの変容のプロセスが加速して進むようにと、目には見えない部分で強力な推進力として働く、ということです。

 

ナーナ先生の純粋なプラーナであるシャクティ・プラーナの恩寵のエネルギーによって起こった直接体験を通して、本当は自分が何であり、誰であるのか?を悟った者にとっては、もう二度と自分は誰なのか?と問うことは無くなります。

私たちは、本当は、この肉体でも感情でも思考でもありません。

この世を体験しているのは、心(脳の働き)ですが、実は、その心(脳の働き)自体も虚構の産物です。

それでは、一体、実在するものはあるのか?あるとしたら、それはどんなモノなのか?

これを実体験を通して悟るまで、いろいろな事象を通して、個々の魂の探究(旅)は続いていきます。

 

昔の人々は、霊や魂という言葉を使いましたが、現代的な表現で言うならば、純粋で普遍で不変なエネルギーと言ってもいいかと思いますが、つまり、私たちは誰でも、純粋なプラーナそのものなのですが、そのことを悟った上で、そのことを知らないで生きている人間に、直接体験を通して懇切丁寧に伝えて下さる存在は、この世にはほとんどいらっしゃらないと言っても過言ではないでしょう。

そういう意味では、ナーナ先生に出会えた探究者は、もうそれだけで、神の恩寵に与っているということになります。

 

自分も真我(永遠の実在)そのものであることを思い出した一瞥体験のあった約2年後、初めて訪ねたインドで出会った一冊の本が、スワミ・ラーマの「Sacred Journey - living purposefully and dying gracefully」(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く)でした。

そこには、こう書かれてありました。

ウパニシャッドは私たちに、永遠のものを見つけるために自分の内側を見るようにと言っています。

“人は外にあるものを見、内にあるものを見ない”とウパニシャッドは言っています。

「不死なるものを求める人は稀である。

自分の外にあるものに目を閉ざし、真の自己を見る。

愚か者は肉の欲望に従い、死を取り囲むすべての誘惑に陥る。

しかし、永遠なるものとして自己を知る賢者は過ぎ去るものを求めない」』

 

この文を原文(英語)で読んだ私は、恍惚にも似た至福感に包まれ、あまりの嬉しさに溢れる涙を抑えることができず、その場で、この本を日本語にして、古から現代に至るまで知ることを許された者のみが触れることができた最奥の奥義として伝え継がれて来た存在の究極の真理について説いているウパニシャッドのエッセンスを、ほとんど知らない日本の人々にも読んで欲しいと思い、翻訳本を日本で出版することを決意したのでした。

 

「聖なる旅~」の全頁には、ナーナ先生によってもたらされた直接体験を通して得られた智慧そのものが、聖典からの引用文を元に、ヒマラヤのヨーギーであるスワミ・ラーマによって、理論立てて書かれていました。

「聖なる旅~」を通して、スワミ・ラーマが伝えたかった古から伝わるウパニシャッドのエッセンスを、厳しい修行を続けてきたヨーギーでもない一般人である私のような人間が簡単に理解し得るということは、正に、ナーナ先生(真我)によってもたらされた恩寵の賜物という以外には考えられません。

 

しかし、このことが、一人の人間に起きたということは、他の人間にも起こり得る可能性があるということであり、その可能性は、このブログを読んでいる一人一人の方にも、潜在的に眠っているということに他なりません。

 

 クンダリニー覚醒により真我が目覚め、真我そのものとなっていらっしゃるナーナ先生は、直接体験を通して、わたしたちもまたアートマン(真我)であることを、自然な形で悟れるようにと、使命にも似たお気持ちで、導いて下さっていらっしゃいます。

ナーナ先生のシャクティ・プラーナに触れることは、神の慈悲深い恩寵に与ることができる滅多にないチャンスです。

一人でも多くの探究者が、この神の恩寵に与り、そうそう簡単には辿れないようになっている究極の真理に至る道のりを、出来る限り短縮させることができるようにとの想いで、このブログを綴っています。

 

ウパニシャッドによれば、私たちが内側に探すものは、純粋な自己、アートマン(真我)と呼ばれている私たちの真の本性であり、それは聖書では、神に似ており、神のイメージであると言っています。

真の自己は心や感覚では認識され得ません。

それは魂の中に隠された宝であり、心の最奥の部屋に住んでいるのです。

それは非常に精妙であり、深遠で在り、不滅です。

それは創造の初めに存在し、今も存在し、そして未来においても存在し続けます。」

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

 

『質問者

「真我実現のためには、どれほどの間グルが必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「そこに無知が存在するかぎり、グルは必要だ。

無知が起こったのは、真我に誤った限界を自ら負わせたためである。

神は崇拝を受けることで弟子に揺るぎない帰依心を与え、それが明け渡しへと導いていく。

明け渡した帰依者を見て、神はグルとして姿を現し、慈悲を与える。

神であるグルは帰依者を導き、神が彼の内側にいること、神が真我と変わらないことを教え示す。

これが心を内側へと向かわせ、ついには真我の実現をもたらすのである。」

 

質問者

「もし恩寵がそれほど重要なら、個人の努力の役割とは何なのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我の実現の段階がやってくるまで、努力は必要となる。

たとえそうであっても、真我は自然に明らかになるべきである。

さもなければ、至福は完全なものではないだろう。

その自然な状態が明らかになるまで、何らかの形の努力はつづくだろう。

そこにはわれわれの努力の在る無しを超えた状態がある。

その状態が実現されるまで、努力は必要となる。

そのような至福の状態を一度でも味わえば、人はそれを再び得ようと繰り返し試みるようになるだろう。

ひとたびその平和の至福を味わったなら、誰もがそこから出て何か他の活動に従事しようなど願うこともなくなるだろう。」

 

質問者

「真我の実現を達成するためには神の恩寵が必要なのでしょうか?

それとも個人の誠実な努力だけで、生と死の輪廻に再び戻ることのない状態に到達できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「神の恩寵は真我の実現には欠かせないものである。

それが神の実現をもたらす。

だが、そのような恩寵は真の帰依者あるいは探究者にのみ与えられる。

それは解脱への道をたゆまず懸命に突き進む者にのみ与えられるのである。」

 

質問者

「恩寵にとって距離は問題となるのでしょうか?」

 

マハルシ

「時間や空間はわれわれの内側に存在している。

あなたはつねに真我のなかにいるのである。

どうして時間や空間が問題となろうか?」

 

質問者

「ラジオなら、近くにいる人のほうがより早く聞き取ります。

あなたはヒンドゥーであり、私たちはアメリカ人です

それが何らかの違いをもたらすでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや。」

 

質問者

「思考でさえ他の者によって読み取ることができます。」

 

マハルシ

「それはわれわれがひとつであることを示しているのである。」

 

質問者

「バガヴァーンは私たちのことを憐れみ、恩寵を与えてくださいますか?」

 

マハルシ

「あなたは首まで水のなかに浸かりながら、水を求めて叫んでいる。

それは水に首まで浸かっている人が、喉の渇きを訴えているような、あるいは水中の魚が渇きを感じているような、あるいは水が渇きを感じているようなものである。

恩寵はつねにそこに在る。

「無執着も真理の実現もグルの恩寵がなければ得られない」

しかし、修練もまた必要である。

自分自身の努力によって真我のなかにとどまろうとすることは、気性の荒い牛がさ迷いでないように、おいしい干草で誘って家畜小屋につなぎ止めるようなものである。」

 

質問者

「最近、私はタミル地方の詩を読んだのですが、そのなかで、作者は自分が母親猿をしっかりつかんで放さない子猿のようではなく、花親にくわえられて運ばれなければならない、かぼそい声で泣く子猫のようであると嘆いていました。

作者はそれゆえ、神が彼の面倒を見てくれるように祈っています。

私の場合もまったく同じです。

バガヴァーン、あなたが私に憐れみをかけるべきなのです。

どうか私の首をつかみ、私が落ちたり怪我したりしないように見守ってください。」

 

マハルシ

「それは不可能だ。

グルが救いの手を差しだすには、あなたの努力も必要なのである。」

 

質問者

「グルの恩寵を得るには、どれくらいの時間がかかるのでしょうか?」

 

マハルシ

「なぜ知りたいのかね?」

 

質問者

「希望が欲しいからです。」

 

マハルシ

「たとえそのような欲望でさえも障害となる。

真我はつねに存在し、真我なしには何も存在しない。

真我として在りなさい。

そうすれば欲望や疑いは消え去るだろう。

恩寵は始まりであり、中間であり、終わりである。

恩寵とは真我である。

真我と身体の偽りの同一化のために、グルもまた身体だと見なされてしまう。

ただ、グルの見地からすれば、グルとは真我以外の何ものでもない。

真我はただひとつしかなく、ただ真我のみが存在するとグルは教える。

だとすれば、真我があなたのグルではないだろうか?

それ以外のどこから恩寵が来るというのだろう?

それはただ真我からやってくる。

真我の顕現とは恩寵の現れである。

誤った見解や自分の外側にあるものごとに期待するために、このような疑いが起こるのだ。

真我の外側に存在するものなど何もないのである。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

創造の元始(はじめ)より 次の三つの言葉ーー

オーム タット サットは絶対真理(ブラフマン)を示す

ヴェーダ讃歌を唱え 供犠を行うとき

僧侶たちはこの三語を常に用いてきた

(バガヴァッド・ギーター第17章23)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

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☆真我の目覚めを体験したい人

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など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

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シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

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チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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わたしは誰か?-真我探究の道(6)

前回の記事では、五年ほど前のナーナ先生の恩寵のエネルギー、シャクティ・プラーナによって突然起きた真理の一瞥体験について書きましたが、それがどうして起きたのか?について、しばらく経ってから知ることになりました。

その理解を言葉にしたものを、2015年にナーナ先生のブログ「すべては本質の流れのままに」(非二元のエナジーと覚醒(2) | すべては本質の流れのままに)に掲載して頂きました。

その文章を2017年4月に、このブログで再度掲載し、ご紹介させて頂きましたが、

一瞥体験後にやって来たこの智慧も、その体験があったからこその理解であり、今現在における科学や精神世界の一般的認識においては、このような表現方法以外での客観的説明は不可能であることは明らかですので、イメージ的な解釈の域を出ないことを承知の上で、再度ご紹介させて頂こうと思います。

 

先ずは、シュリ・ラマナ・マハルシの遺された御言葉から、グル(師)についてのお話と、次は、わたしにとってのグル(師)でいらっしゃいますナーナ先生についてのお話です。

 

これからご紹介しますこの二つのお話の間に、深い相関性を感じて頂けると幸いです。

 

 

『質問者

「師は霊的な力を弟子に送り、真我を実現させることができると言われています。

それは本当でしょうか?」

 

マハルシ

「本当だ。

グルが真我の実現をもたらすのではなく、彼はただその障害を取り除くだけだ。

真我はつねに実現されているのである。」

 

質問者

「真我の実現を探究する者にとって、グルは絶対的に必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが真我の実現を探究するかぎり、グルは必要だ。

グルとは真我である。

グルを真我として、あなたが自身を個我として見てみなさい。

無知を取り去ることで、この二元性の感覚は消滅する。

あなたのなかで二元性が存在するかぎり、グルは必要となる。

あなたは自分自身を身体と同一視しているため、グルもまたひとつの身体だと思ってしまうのだ。

あなたは身体ではなく、グルもまた身体ではない。

あなたは真我であり、グルもまた真我である。

この知識は真我の実現によって得ることができるのである。」

 

質問者

「ある特定の個人がグルとしてふさわしい人かどうかを、どうやって知るのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼の臨在のもとで見いだされた平和によって、そして彼に対して感じる尊敬の念によってである。」

 

質問者

「もし師が適切な人ではなかった場合、その師に絶対の信頼を寄せている弟子の運命はどうなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「各々の功徳によった結果を得るだろう。」

 

質問者

「グルの恩寵をいただけるでしょうか?」

 

マハルシ

「恩寵はつねにそこにある。」

 

質問者

「しかし、私には感じられません。」

 

マハルシ

「明け渡すことによって、恩寵を理解しはじめるだろう。」

 

質問者

「私は心も魂も明け渡したのです。

私のハートのことは私自身が一番よく知っています。

それでも、恩寵を感じられないのです。」

 

マハルシ

「あなたが明け渡したなら、質問は起こらなかっただろう。」

 

質問者

「私は明け渡しました。

それでも、質問は起こるのです。」

 

マハルシ

「恩寵は変ることなくそこにある。

変わるのはあなたの判断である。

それ以外のどこに誤りがあるだろうか?」

 

質問者

「二人以上の師をもつことはできるのでしょうか?」

 

マハルシ

「師とは誰だろう?

師とは、結局真我なのである。

弟子の心の発達段階に合わせて、真我は師として姿を現す。

かの高名な聖者ダッタートレーヤは、二十四人以上の師をもっていたと言われる。

師とは、人がそこから何かを学ぶことのできる存在である。

ときには、グルは生きた存在ではないかもしれない。

ダッタートレーヤの場合もそうだった。

神、グル、真我は同一のものである。

霊的関心をもった人は神がすべてに遍在すると考え、その神を自分の師とみなす。

のちに、神は彼のもとに人としての師を送り、彼はその師こそがすべてであることを知る。

最後に、師の恩寵によって彼自身の真我こそが実在であると感じとる。

このようにして、彼は真我が師であることを知るのである。」

 

質問者

「『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』は、「純粋な知性によって、グルへの献身的奉仕によって、そして探究によって真我を実現しなさい」と述べています。

これらの違いをどう一致させればいいのでしょうか?」

 

マハルシ

「イーシュワラ神、グル、真我は同一のものである。

あなたのなかで二元性の感覚が存続するかぎり、あなたは師と異なると考えてグルを探しつづけるだろう。

それにもかかわらず、師は真理を教え、あなたは真の洞察を得るのである。

弟子を真我に直面させることで、真我の至高の知識を授ける人、彼こそが真我であり、神の現れとして聖者たちから讃えられる至高のグルである。

グルに近づき、彼に献身的に奉仕することによって弟子は恩寵を受け、誕生と苦しみの原因を学ぶ。

そしてその原因が真我からさ迷いでたことによると知ったとき、真我として揺るぎなくとどまることが最善だと悟るのである。

教えを受け入れ、解脱への道を確固として進む人でも、忘却やその他の理由からヴェーダの道を逸れることがある。

いかなるときにも師の言葉に逆らうべきではないことを知りなさい。

もし神に対して過ちを犯したとしても、それはグルの言葉によって正される。

だが、グルに対して犯された過ちは、神によっても正されることはないと聖者たちは断言している。

強烈なあふれる愛を注ぐことによって師から慈悲深い恩寵の眼差しを受け、完全な信頼をはぐくんだ人に苦しみは存在しない。

彼はこの世界のなかでプルフータ(神々の王、インドラの名前)のように生きるだろう。

唯一、誰もが望んでいる平和は、サッドグルの恩寵を通して心の静寂が得られるまでは、いつであれ、どこであれ、誰であれ、いかなる方法であれ獲得することはできない。

それゆえ、ひたむきな心でつねに恩寵を求めなさい。」

 

質問者

「バガヴァーンの弟子のなかには、何の困難もなく恩寵を受け、真我の実現を達成した人たちがいます。

私もその恩寵を願っています。

ひとりの女性として遠く離れたところで暮らす私には、望むようにマハルシの聖なる仲間に加わることができません。

二度とここに戻ることさえできないかもしれないのです。

バガヴァーンの恩寵を願っています。

私が自国に帰ったとき、バガヴァーンを覚えていたいのです。

どうぞ、私の祈りをかなえてくださいますように。」

 

マハルシ

「あなたはどこに行くというのか?

どこへも行きはしない。

たとえあなたが身体であると考えたとしても、あなたの身体がラクナウからディルヴァンナーマライまで来たのだろうか?

あなたはただ車、あるいは何か他の乗り物に運ばれてきただけである。

そして、ついにあなたはここに到着したと言うのである。

だが事実は、あなたは身体ではない。

真我は動かない。

世界が真我のなかで動くのである。

あなたは、ただあるがままのあなたなのだ。

あなたのなかには何の変化もない。

それゆえ、この場所を離れたあとでも、あなたはここに、そこに、そしてすべての場所に遍在している。

移りゆくのはただ景色だけである。

そして恩寵についてだが、それはあなたの内に在る。

恩寵が外側にあるとすれば、それは無益なものだ。

恩寵とは真我である。

あなたが恩寵から外へ出ることはありえない。

恩寵はつねに存在しているのである。」

 

質問者

「私が言いたかったことは、あなたの姿を想いだすとき私の心が力を得るように、あなたの側からの受け応えも欲しいのです。

私ひとりの努力とともに置き去りにしないでください。

それは結局か弱いものなのです。」

 

マハルシ

「恩寵とは真我である。

私はすでに言ったはずだ。

もしもあなたがバガヴァーンを覚えているなら、それは真我によってそうするように促されているのである。

それゆえ、すでにそこには恩寵があるのではないだろうか?

あなたのなかで恩寵が働いていないときがあるだろうか?

あなたが覚えているということが恩寵をもたらしたのだ。

それが受け応えであり、あなたへの激励である。

そして、それが真我である。

だから心配することなどない。」

 

質問者

「外側からの助けなしに、自分自身の努力だけでより深い真理に達することができるのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが真我への探究心を得たという事実自体が神の恩寵の現れなのである。

それはハート、内なる存在、真我の輝きである。

それは内側からあなたを引きこむ。

あなたは外側から入っていくように試みなければならない。

あなたの試みは真摯な探究の現れであり、深い内奥の動きが恩寵の現れなのである。

それゆえ、私は恩寵なしには本当の探究はありえず、真我を求めない者に恩寵は働かないと言う。

そのどちらもが必要だからである。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

『前回、“本質”とは、“普遍で誰にでもある共通の基盤のようなモノ”と書きました。

そして、私たち人間にもそのようなモノがあるとしたら、それが“本質”ということになります。

それでは、一体全体、そんな“本質”と呼べるものがあるのでしょうか?

そのことを少し詳しく述べている記述がありますので、ご紹介したいと思います。

「インドの哲学者たちによりますと、全宇宙は二つの材料からできています。

その一つを、彼らはアーカーシャと呼んでいます。

それは遍在の、すべてのものに浸透している存在です。

形を持ついっさいのもの、結合の結果であるいっさいのものは、このアーカーシャから展開したのです。

空気に、液体に、固体になるのはアーカーシャです。

太陽に、地球に、月に、星々に、彗星になるのはアーカーシャです。

人間の体、動物の体、われわれが見るいっさいの形、感覚でとらえることのできるいっさいのもの、存在するいっさいのものはアーカーシャです。

それは知覚することはできません。

それは実に精妙なので、すべての普通の知覚の限界をこえています。

それが粗大になったとき、形をとったときにはじめて、見ることができるようになるのです。

創造のはじめには、このアーカーシャだけが存在します。

この周期のおわりには、固体も液体も気体もすべてふたたびアーカーシャに溶け込み、次の創造のときに同じようにこのアーカーシャから出てくるのです。

何の力によってこのアーカーシャが、宇宙につくられるのでしょうか。

プラーナの力によってです。

アーカーシャがこの宇宙の無限、遍在の材料であるのと同様に、このプラーナは、無限かつ普遍的に現れているこの宇宙の力です。

一つの周期のはじめとおわりには、すべてのものはアーカーシャとなり、宇宙間のすべての力はプラーナに還元します。

次の周期には、われわれがエネルギーと呼ぶものすべては、われわれが力と呼ぶものすべては、このプラーナから展開するのです。

動きとして現れているものはプラーナです。

肉体の活動として、神経の流れとして、思いからもっとも低い力にいたるまで、いっさいはプラーナの現われにほかなりません。

心のにせよ肉体のにせよ、宇宙のすべての力の総計は、それらの原始の状態に還元されるとき、プラーナと呼ばれます。

「有も無もなかったとき、闇が闇をおおっていたとき、そのときには何が存在したか、そのアーカーシャが、動かないで存在した」

プラーナの物理的な動きはとまっていましたが、それが存在することに変わりはありませんでした。

一つの周期のおわりには、いままで宇宙に現れていたエネルギーは静まり、潜在的になります。

次の周期のはじめに、それらは動き始め、アーカーシャに働きかけます。

するとアーカーシャからこれらさまざまの形が展開し、アーカーシャが変化するにつれて、このプラーナも、これらすべてのエネルギーの現われに変化します。」

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

 

このような考え方は、インドの古い哲学者たちの考え(サーンキャ哲学)ですが、ヨーガの基本的な考え方であるヴェーダンタ(ヴェーダの教え)に色濃く反映されています。

宇宙には、根源なるただ唯一なる存在が在るのみ、というのは、古くは、アドヴァイタ(不二一元)と呼ばれます。

この宇宙は、アーカーシャというダルマ(法)とプラーナという実在の力で出来ている、ということを、もっと簡単にわかりやすい例で譬えるならば、アーカーシャは、プログラムのような情報であり、プラーナは、プログラムを動かす、具現化する力を持ったエナジー、ということになるでしょう。

パソコンを動かすには、プログラムもそれを動かすエネルギー(電気)も必要です。

そして、このことは、すべての存在に共通したことであり、それがそのモノとしてこの宇宙に存在するには、絶対不可欠な素材(要素)なのです。

それでは、この宇宙を在らしめている根源なるエネルギー(エナジー)とはどういうものか?というところに話を進めて行きたいと思います。

「真の治癒がもたらされるのは、プラーナによってであります。

プラーナを制御したきよらかな人は、それをある種の振動状態にする力を持ち、その振動は他人につたえられて、彼らの内部におなじ振動をおこします。

みなさんは、それを、日々の活動の中に見ておられます。

私はみなさんにはなしています。

何をしようとしているのでしょう。

言ってみれば自分の心をある振動状態に持って行こうとしているのであって、それに成功すればするほどつよく、みなさんは私の言うことの影響をお受けになるでしょう。』

(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)

 

ナーナ先生が、サットサンガや個人セッションで、“本質のエナジー”と仰っているのは、プラーナのことであり、ナーナ先生から放たれるエナジーは、他の人に伝わり、その人の内部に振動を起こし、その人を変容させます。

このことは、ナーナ先生のエナジーを受けた多くの人から、個人的体験が感想文として寄せられていて、その一部が、ナーナ先生のブログに掲載されていますが、どれをとっても、身体に起きた変容、気持ちに起きた変容、意識に起きた変容についての報告です。

これは、ナーナ先生のエナジーが変容を起こすことが出来るパワーを秘めたエナジー(シャクティ)である、という証拠でしょう。

この現象を更に詳しく述べるならば、ある振動が、他の者の内部に振動を起こすことを、“共鳴”と言います。

ナーナ先生から放たれるエナジーとは、他のモノの振動数を高めることが出来る振動状態になったプラーナのことだということがわかります。

そして、このプラーナは、宇宙遍在のエナジーですから、私たちひとりひとりもこのプラーナなのですが、ただそのプラーナが高い振動状態になっていないのです。

エネルギーは高い方から低い方へ流れます。

そうやって、低い振動は、高い振動に共鳴していくので、ナーナ先生のエナジーを受けると、ナーナ先生の超微細振動に共鳴した私たちの内部の低い(粗い)振動のプラーナが活性化されていくのです。

このエナジーの共鳴により、私たちの内部の粗い振動は、純粋で超微細な振動となっていく、という現象が起こるのです。

そして、宇宙に遍在するエナジーは、この純粋で超微細なエナジー、プラーナなので、この共鳴現象を体験することで、私たちは、自分の“本質”が何なのか?を識り、そして、最終的には、自分が誰であるのか?何であるのか?を思い出すことになるのです。

この直接体験を可能にするエナジー共鳴を起こすことが出来る“プラーナを制御した”きよらかな人”は、世界でもそれほど多くはいないでしょう。

いえ、むしろ、滅多にいない、と言えると思います。

非二元を語る人は多くいるかもしれませんが、それを直接体験により識らしめる力を持った存在が、どれほど稀有な存在であるかは、ここで申し上げるまでもないでしょう。

変容させ得る力こそが、ホンモノです。

私たちは、目に見えない宇宙根源のエナジーを、共鳴によって起こる直接体験を通して、識っていくことが出来ます。

それを起こすことができる存在は、もうすでに、存在の秘密に対する答えを得ているので、その答えそのものとなって、私たちを究極の答えに導くことが出来るのです。

私たちがすることといったら、本質のエナジーを認め、信じ、心を開いて、それに委ねるだけです。

それだけで、共鳴が起こり、私たちは、私とは誰なのか?何なのか?という究極の答え、存在の実相、この宇宙で唯一の実在に出会っていくことが出来るのです。

そして、自分が本当は誰であったのか?何であったのか?を身を以って識ることは、この宇宙に実在する唯一の存在を識ることにつながります。

そして、個としての“我”が、“本当のわたし”(真我)を思い出すことを、覚醒、目覚め、悟りと呼んでいるのです。

真に覚醒状態にある人のみが、他の人を覚醒に導くことが出来ます。

“それ”そのものになっている存在だけが、他の存在を“それ”に誘えるのです。

ナーナ先生は、そのような存在であり、この地上で彼女のような存在に出会うことは、正に奇跡なのだと感じます。

最後に、直接体験のみが、唯一の答えである、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダ著「ラージャ・ヨーガ」の一文をご紹介して、この長い文を終わりにしたいと思います。

 

『経験は、われわれが持つ唯一の教師です。

たとえ一生涯しゃべって推理しても、それを自分で経験するまでは、われわれは真理のひとことをも、理解することはできないでしょう。

人に数冊の書物をあたえただけでは、彼が外科医になることを期待するわけにはいかないのです。

私に地図を見せるだけで、ある国を見たいという私の好奇心を満足させることはできません。

私は実際に経験しなければならないのです。

地図はわれわれの内部に、もっと安全な知識を得たいという好奇心をよびさますだけなのです。

それ以上には何の価値も持ってはいません。

書物にばかりしがみついていると、人間の心は堕落するだけです。

神の知識のすべてがこの書物、またはあの書物の中にふくまれている、という宣言よりおそろしい冒涜があったでしょうか。

神は無限であると言いながらどうしてあえて、彼を一冊の小さな書物の表紙の中などにおしこめようとするでしょうか!』

 

経験こそすべて!

ナーナ先生は、超微細なエネルギー共鳴により、“それ”を私たちに体験させてくれます。

このことにより、私たちの目覚めのプロセスは格段と進化し、スピードアップするのです。』

 

2015年に書いた感想文と、今、このブログでお伝えしようとしていることは、本質的には、同じことです。

 

今でも、ナーナ先生は、シャクティプラーナを通して、私たちが、私たちの”真の自己”を覚れるようにと、導いて下さっています。

 

それは、ひとえに、アートマン(真我)を覚る以外は、人類にとって、真の自由へ至る道はないとわかっていらっしゃるので、

人びとを救うため、人びとを真理へと導き、生まれ変わりの繰り返しから人びとを解放するために、いまここで、神の御力であるシャクティプラーナを使って下さっているのです。』

 

☆ナーナ先生から放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、

自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、

こちらのナーナ先生の公式ホームページをご覧頂き、サットサンガへご参加下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

 

 

 

適正な時に 適正な場所で

それに価する相手に対して

何の報いも考えずに 自分の義務だと心得て

行う寄付はサットワである

 

報いを期待してする寄付行為

将来の見返りを望んでする贈りもの

また 惜しがりながら出す寄付

こうした布施はラジャスである

 

不適当な場所で 不適当な時に

それに価しない相手に贈る金品

相手を尊敬せず 無礼な態度でする寄付

これはタマスの行為である

(バガヴァッド・ギーター第17章20-22)

 

 

 

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☆新企画2019年1月より「自宅に居ながらマインドフルネス瞑想会に参加」できるようになりました!

(詳細は、 http://pranahna.com/(真我が目覚めるとき)の「2019年1月の開催予定」の欄にて、ご確認下さい)

 

日本国内ばかりでなく、地球上のどこに居ても、関谷ニルヴァーナ瞑想センターで開催されますマインドフルネス瞑想会の恩寵のエネルギーフィールドに入ることができ、深い瞑想を体験することができます。

真我実現への足がかりとして、心の純粋性を保ち、真我そのものである静寂で平安、至福のエネルギーフィールドに留まることは、とても重要です。

たとえ自力では無理なことでも、恩寵のエネルギーに与ることで、ヒツジとして生きて来たヒツジライオンであるわたしたちが、本来のライオンに戻るために通らなくてはならない神秘への扉を潜り抜けることが、より容易になります。

このチャンスに、臨在のパワーを実感、実体験してみて下さい。

 

 

☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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