永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(39)

人間の真の本性を悟ることは、Jnana Yogaでは、「真我実現」とか「自己実現」と称され、修行の目的となっていますが、この「真我実現」「自己実現」”Self-Realization”への足がかりとして、このブログでは、これまで、様々な聖者と呼ばれている方々の御言葉をご紹介してきました。

それに伴い、少しばかり解説も試みて来ました。

 

今回は、前もっての拙い説明は省略し、三人の聖者の方々の御言葉をご紹介したいと思います。

 

この三つの文章のそれぞれが、最初は、異なるテーマで始まっているにも拘わらず、最終的には、その中心的なテーマが、一つの焦点に絞られていることに気づかれることでしょう。

 

前回同様、最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉、そして最後は、「ヨーガ・ヴァーシシュタ」(ヴァーシシュタとは、インドの長編叙事詩ラーマーヤナに出て来る七人の聖仙の一人とされている聖者の名)からです。

 

 

The Struggle of Life(人生という闘い)

 

生きることは、理想のために闘うことである。

人生は、充足と完成を求める闘いである。

人生は、最高の独立を達成するための闘いである。

人生は、闘いであり、抵抗である。

人生は、獲得の連続である。

人は、進化し、成長し、拡張し、闘いを通して、数々の経験を得る。

人生と社会は、闘い、或いは、闘争なくしては、存在することができない。

もしあなたが、あなたの存在を続けたいのであれば、闘いは必須である。

あなたが闘いを止める時、存在することを止めるだろう。

あなたのハートの戦場で、内面的な敵と勇敢に闘いなさい。

あなたの心や感覚を用いた内なる戦いにおける小さな勝利でさえ、あなたの意志力を開発し、より多くの確信や勇気を与えるだろう。

闘いが激しければ激しいほど、勝利はより栄光あるものとなる。

自己実現は、非常に大きな闘いを必要とする。

神のために生きなさい。

この哀れで、世俗的な人生のすべての困難や苦難に勇敢に立ち向かいなさい。

人間でありなさい。

勇気を持って、偉大なる成就を求めて闘いなさい。

山に登ること、海峡を横切ること、都市を爆破すること、城砦を爆破すること――これらは、英雄的な真の勇気ある行為ではない。

あなたの心(マインド)と感覚をコントロールすること、自制心を獲得することで、怒りや熱情、利己心を克服すること――これらは、人に真の英雄的資質をもたらす。

あなたは、どのくらい長く、情熱や感覚の奴隷でいるのだろうか?

あなたの真の神聖なる性質を断言し、あなたの低い性質や低い自己を抑えることを断言しなさい。

これは、あなたの最も重要な義務である。

 

 

Life is a School(人生は、学校)

 

しかしながら、これは、われわれが物質の物理次元における人生を否定すべきであるという意味ではない。

物質は、神自身のリーラ(神の戯れ)にとっての神の表現である。

物質と霊は、熱と火、冷たさと氷、花と香りのように、不可分である。

ブラフマンとマーヤ(幻妄)は、不可分であり、一つである。

物質次元における人生は、ブラフマンにおける永遠の命のための限定的な準備である。

人生は、多くの有益な修練、人格の発達や神聖なる徳を学ぶための大いなる学校である。

人生は、あらゆる哀しみ、あらゆる苦しみ、あらゆる心痛が特別な修練をもたらす学校である。

地球上の人生は、自己完成の手段である。

世界は、あなたの最も良い教師である。

この世界は、あなたの最も良いグル(導き手)である。

あらゆるモノの中に、修練がある。

それぞれの経験の中に、修練がある。

世界は、慈愛や赦し、辛抱、宇宙的な愛、寛容、高貴、勇気、雅量、忍耐、強い意志、など、数々の神聖な徳の開発のための最も良い修練場である。

世界は、悪魔のような性質で戦うための闘技場であり、そして内側から神性を表現するための闘技場である。

バガヴァッド・ギーターとヨーガ・ヴァシシュタの中心的教えは、人は、この世に在ることにより、真の自己を実現するべきであるということである。

蓮の葉の上の水のように振る舞いなさい。

利己心、渇望、怒り、貪欲、憎しみ、羨望で構成される低い悪魔のような性質を放棄しなさい。

神性なる性質を断言しなさい。

精神的な放棄と献身の人生を送りなさい。」

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「『ギーター』のなかの一節に、「この宇宙全体は私の小片である」とあります。

これはどう理解すればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「神の小さな一部分が分離して、それが宇宙を形成しているという意味ではない。

彼のシャクティ(力)は活動している。

その力による活動の相のひとつの結果として宇宙が姿を現したのである。

同じように、『プルシャ・スークタ』のなかには「すべての生けるものが神の御足の片方を形作っている」と述べられているが、それはブラフマンがいくつかの部分に分かれているという意味ではない。」

 

質問者

「それは理解できます。

ブラフマンは間違いなく分割できるものではありません。」

 

マハルシ

「それゆえ、ブラフマンはすべてであり、分割不可能である。

それはつねに明らかである。

だが、人びとはこのことに気づいていない。

彼はこのことを知らねばならない。

真我がブラフマンだという永遠の真理の啓示を防げる障害を克服すること、それが知識である。

その障害はあなたがひとりの個人として分離しているという概念から成っている。」

 

質問者

「神と真我は同じものでしょうか?」

 

マハルシ

「誰もが真我を知っている。

だが、明確には知られていない。

あなたはつねに存在している。

その「在ること」が真我である。

「私は在る」(I AM)が神の名前である。

神を定義した言葉のなかで、『旧約聖書』の出エジプト記第三章十四節にある「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)ほど、ふさわしい言葉はない。

他にも「ブラフマイヴァーハム」(ブラフマンは私である)「アハム・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、「ソーハム」(私は彼である)という言葉がある。

だが、「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど、直接的に表現したものはないだろう。

絶対的存在とは、ただ在るものである。

それが真我である。

それが神である。

真我を知れば神を知る。

実際、神は真我以外の何ものでもない。」

 

質問者

「神は多くの異なった名前で知られています。

そのなかのいくつかが正しいものと言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ハートの内に宿る無心の神にとって、何千という神の名前の中でも「私」或いは「私は在る」のように真実で、適切で、美しい名前はない。

自我が破壊されたそのとき、真我に注意を向ける人のハートのなかでは、至高なる沈黙の言葉(マウナ-パラー-ヴァーク)が響きわたる。

それが神の名前「私-私」である。

「私」という感覚に注意を払い、「私-私」に絶えず瞑想するなら、人は想念の起こる源に飛びこみ、自我を破壊し去るだろう。

 

質問者

「神と世界の関係とは何でしょうか?

神は世界の創造者あるいは維持者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「感覚のある存在も、感覚のない存在も、すべてのものは太陽が単にそこに在るおかげで活動をしている。

同じように、すべての生けるものたちの活動は、意志も欲望ももたない神の存在によって為されている。

ただ太陽が存在するだけで、蓮のつぼみは開き、睡蓮の花は閉じ、すべての無数の生けるものたちは活動し、休息する。

針が磁石の前で動くように、ムーンストーンが水を放つように、月光が睡蓮の花を咲かせ、蓮の華を閉じさせるように、おびただしい数の世界の秩序は、ただ神の存在によって維持されている。

わずかな意志さえももたない神が存在するというだけで、無数の活動に従事する生きとし生けるものたちは、カルマによって定められた進路に沿って引き寄せられたさまざまな生き方を経て、ついにはその行動のむなしさに目覚め、真我に向きを変え、そして解脱を達成するのである。

世界の活動が太陽に影響を与えることのないように、そして四大元素(土、水、火、空気)の顕著な特質が無限の空間に影響を与えることのないように、生きとし生けるものの行為が、心を超越した神に影響を与えることはない。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

『観念や想念が空に青さを「見る」ように、心は世界を実在と見る。

だが、空に青さはない。

視覚の能力の限界が、空を青だと見なすのだ。

同じように、世界の現れを知覚するのは思考の能力の限界に他ならない。

この世界の現れは錯覚だ。

心の中でそれについての考えを起こさせないほうがいい。

「私は迷っている」と考えることで人は苦悩する。

そして、「私は気づいている」と考えることで人は至福に向かうのだ。

初めから存在していなかったものは、今も存在していない。

存在していたものは、今も存在している。

それが絶対なるブラフマンだ。

これに瞑想することが平安を与える。

なぜなら、そのブラフマンこそが平安だからだ。

いつであれどこであれ、これ以外のものに瞑想してはならない。

そして、人は最大限の力で、最大限の知性を使って、快楽への期待そのものを根こそぎにしなければならないのだ。

老いと死の原因は、ただ無知のみにある。

希望や執着は、無知である精神的条件づけのせいで起こる。

それが、「これは私の財産だ」や「これは私の息子だ」といった考えを生み出す。

この空っぼの物質的身体のどこに「私」と呼ばれるものが存在するというのか?

ラーマよ。実際は「私」や「私のもの」などといった概念はまったく存在しない。

ただ一なる真我だけが真理なのだ。

無知の状態の中でだけ、人はロープの代わりに蛇を見る。

光明を得た状態では、そうは見ない。

光明を得た視野の中にはただ無限の意識だけが存在し、他には何もない。

ラーマよ。

無知な人間になってはならない。

世界の現れを起こさせる精神的条件づけを破壊しなさい。

なぜ無知な人のように、この身体を自己と見なして惨めになるのか?

身体と自己は一緒に存在しているように見えるかもしれないが、それらは別なのだ。

たとえ身体が死んでも真我は死なないからだ。

ラーマよ。「絶対なるブラフマンだけが存在する」という真理を忘れ、存在さえしない無知に人々が確信を抱くのは何と不思議なことだろうか?

無知の存在という愚かな考えを根づかせてはいけない。

なぜなら、意識が無知で穢されると、果てしもない苦しみを招くからだ。

それは非実在であるにもかかわらず、現実の苦しみをもたらす。

蜃気楼や空を飛ぶような幻覚や、天国や地獄を体験するのは無知のせいだ。

それゆえ、ラーマよ。二元的知覚の原因である精神的条件付づけを放棄して、完全に無条件な状態にとどまりなさい。

そうすれば、あなたはすべてに勝る、類い稀な、至高の真我に到達するだろう。

 

ラーマはしばらくの間、深く瞑想し、それからこう尋ねた。

聖者よ!存在しない世界を実在するように見せる幻想を、存在しない無知がつくり出しているとは、実に信じがたいことです。

それに、どうしてラヴァナ王はさまざまな苦しみを体験しなければならなかったのでしょうか?

それを体験したのはいったい誰(何)だったのでしょうか?

どうか教えてください。

 

ヴァシシュタは答えた。

ラーマよ。意識と身体の間に何らかのつながりがあるということは、まったく真実ではない。

この身体は夢の中に現れる身体のように、意識によって空想されたものなのだ。

意識がそれ自身を限定し、自分をジーヴァだと考えたとたん、落ち着きのないエネルギーを授かったそのジーヴァは、世界の現れに巻き込まれてしまう。

過去の行為の結果を楽しんだり、それに苦しんだりする身体を得た存在が、自我、心、ジーヴァと呼ばれるものだ。

苦しみを体験するのは、身体でも光明を得た存在でもない。

ただ無知な人だけが苦しむのだ。

心が世界の現れを夢見るのは、目覚めているときや覚醒を得たときではなく、無知の状態の中だけだ。

それゆえ、苦しみを体験する身体を得た存在は、心、無知、ジーヴァ、精神的条件づけ、個人意識などのさまざまな名前で呼ばれている。

この身体は生命意識を持たないただの物質だ。

それゆえ、それは楽しむことも苦しむこともできない。

不注意や愚かさをもたらすのは無知だけだ。

それゆえ、楽しんだり苦しんだりするのも無知だけなのだ。

実際、生まれたり、泣いたり、殺したり、死んだり、他者を苦しめたりするのは、身体ではなく心だ。

幻想や想像も、幸福や不幸の体験も、すべてを為し、すべてを体験するのは心だ。

心が人なのだ。

心が完全に浄化されたとき、あなたは心が織り成す二元性や多様性から脱する。

ラーマよ、私はすでに「宇宙崩壊のあとに続く」創造の循環の過程について、また、どのように人が「私」や「私のもの」という偽りの観念を心に抱くのかについて述べてきた。

叡知をたずさえた人はヨーガの完成への七つの段階を登り、徐々に解脱を達成するのだ」

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(38)

前回までの記事では、真我(アートマン)は、私たちの「魂」(プルシャ)のことであり、その「魂」は、太陽の如く、自ら存在し(輝き)、エネルギーを放射することで、本来は生命のない物質(Jada)である肉体に、生命エネルギーを送り、肉体はその力を受けて、生命(Chetan)として、この地球上で、「人間」として生命活動をしている、という趣旨のことを書きました。

 

このことを非常に分かり易く説明してくれている文章を、「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)から、ご紹介したいと思います。

 

『ところで、”私は”とか、”私に”とか言う場合、そう呼ばれているものは、実は、二つの実在原理(Tattwa)が集まってできあがっているのです。

その一つは生命の無い物質(Jada)であり、もう一つは生命(Chetan)です。

そしてこの場合、生命は生命の無い物質の内に隠されています。

ですから生命そのものである真我の居所は、物質元素から創られているこの身体であって、真我は城主であり、身体はこの真我を守る城のようなものです。

そしてこの城は、肉体、微細体、原因体という三つの部分から成り立っています。

肉体はまた、粗雑体とも呼ばれていますが、この肉体は真我に到達する道の上に立つ中央門のようなものです。

ですから私達は、まずこの門を通過せねばなりません。

この肉体は五種の粗雑元素からできており、過去に行った種々の行為を反映して創り出されています。

そしてこの肉体は二つの部分から成り立っています。

そのうちのより粗雑な部分は食物鞘(Annamaya Kosha)であり、もう一つは生気鞘(Pranamaya Kosha)です。

これらの鞘はともに、城主である真我に粗雑次元での奉仕をしているわけですが、こうした肉体自身が真我に奉仕する力を持ち合わせているわけではありません。

この、力とかエネルギーと呼ばれるものは、実は、肉体の内側にある別の身体から送られてくるものなのです。

別の身体とは微細体(Sukshma Sharira)のことですが、この身体の場合は、肉体に具わっているような神経とか動、静脈血管、その他の筋肉とか骨といったようなものを持ち合わせているわけではありません。

微細体の場合は、非常に微細な気球のような物質からできています。

ですから、肉体の四肢のようなものを具えてはいませんが、しかし、肉体全体の内に浸透し広がっている身体なのです。

そして力の面から言えば、この微細体は肉体を動かす立場にあると言えます。

言い換えれば、肉体の動きのすべては、この微細体から送られてくる力や刺激によってのみ惹き起こされるのです。

この刺激として伝わってくる力の中には、知識と運動という二種の力が混ざり合っています。

そして、これら二種の力によって、いわゆる、肉体中の生命力と呼ばれている力が生じてきます。

この生命力があれば、肉体は生き長らえ、そのすべての機能を果たすことができるのです。』

「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)

 

このことは、長年の厳しいヨーガ修行を通してのみ知り得る智識(Jnana)ですので、一般人である私たちが、通常の日常生活において実感することは、ほとんど不可能と言えますが、ヨーガにおける、私たちをこの三種の身体である粗雑体、微細体、原因体と分けて考える考え方は、以前の記事ですでにご紹介しましたが、極めて一般的なヨーガの常識とも言えるもので、真の自己である真我(アートマン)を悟って行くプロセスにおいては、肉体よりも微細な領域に入って行くことは、必要不可欠であるため、体験や体感が起こるまでは、ここで改めて復習し、頭の中に、忘れずに銘記しておくことは、とても重要です。

 

ご紹介しました「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)の文章を念頭に置いて、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋の文章とラマナ・マハルシの遺された御言葉の内容を、比べてみて下さい。

 

己のハート(フリダヤ)に「真の自己」である真我(アートマン)として鎮座する「魂」の姿が浮かび上がって来るはずです。

 

その「真の自己」である真我(アートマン)は、神(ブラフマン)であり、神(ブラフマン)の「動」の側面であるシャクティ(力)として顕現していることが、理解できると思います。

 

この世で唯一なる実在は、動いていない場合は、神(ブラフマン)であり、動きのある時は、シャクティ(エネルギー、力)であり、この二つは同じ一つのモノの異なる側面なのです。

(それは、「火」というと、燃焼というモノが燃える「概念」と、実際にモノを燃やす炎という「力」(現象を起こすエネルギー)が含まれており、この二つが「火」を表すのと同じです)

 

本当の自分、真の自己である真我(アートマン)を知ることは、ラマナ・マハルシも語っているように、

「人がはじめて真の自己を知るとき、なにか別のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を占領します。

そのあるものとは、心の背後の無限、神聖、永遠です。

ある人びとは天の王国と呼び、ある人びとは魂と呼び、ある人びとはニルヴァーナと呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼びますが、あなた方は自分たちの好きな名で呼んだらよいでしょう。

これが起こるとき、みずからを失うことは全くなく、むしろ彼は自己を発見するのです。」

 

真の自己の発見。

 

自らの「魂」の発見でもある訳ですが、広く一般的に言われている「魂」には誤解や歪曲があるために、正しく理解されていません。

 

「魂」とは、この世で唯一の永遠の実在であり、永遠不滅の普遍的な存在であり、この意味において、「神」(ブラフマン)と同義なのです。

 

それが、本当の自分であることを真に理解できれば、真理を求める探求は終わります。

(この理解は、頭の中で起こる訳ではなく、直接体験を通してやって来るので、直接体験は、必要不可欠ですが、目的地を知っておくだけでも、プロセスを進む際の指標になることでしょう)

 

 

Life in Matter and Life in the Spirit(物質の中の命と霊的な命)

 

霊的な命は、ただ一つの実在であり、永遠の命である。

忙しなく急いでおり、恐れ、危険、病や軋轢を伴う現代人の人生は、真の人生ではない。

富や権力の人生、或いは、物質的な贅沢は、人生の目的ではない。

このような人生は、心の平和や魂の平静を産み出さない。

感覚的な人生は、生きるに値しない。

肉体的感覚の喜びは、猛毒の薬と調合された蜂蜜のようである。

肉体的感覚の愉しみは、数々の欠点や罪、苦しみ、愛着、悪習、精神的な落ち着きのなさが伴い、感覚的喜びへの耽溺は、神への献身を破壊し、実在を探究するための心(マインド)の能力を弱める。

感覚は、人生、輝き、力、生命力、記憶、富、名声、神聖、至高の存在への献身を破壊する。

それは、地獄という奈落の底へ人を引き入れる。

世俗的な人生は、哀しみ、苦しみ、束縛に満ちている。

それは、欠点、弱さ、制限に満ちている。

それは、憎しみ、羨望、利己心、裏切り、不安、心配、気苦労、病、死、貧困、不正、詐欺、裏表のある行動、激烈な競争、不純と闇、闘い、騒動、紛争と戦争、失望、絶望、落胆、残忍、搾取、扇動、落ち着きのなさで満ちている。

すべての対象物は、少しばかりの想像の喜びで表面を覆われている。

それは、薄い金メッキの板のようである。

本当には、ここでの人生は、すべて金ピカであり、実質のないものである。

砂糖がけの背後に、苦いキニーネがある。

金メッキの背後では、すべてが真ちゅうである。

所謂楽しみの背後には、苦しみ、惨めさ、苦痛がある。

ここでの人生は、恐れ、愛着、苦難で満ちている。

世俗的な人生は、すべて非実在である。

それは、幻であり、束の間のものである。

それは、取るに足らなく、価値のないものである。

その終わりは、ただの塵である。

ほら、噂話、食べることと眠ること以外には何もない。

すべては、幻想であり、すべては苦しみである。

すべては、束の間のものであり、すべてはすばやく過ぎて行く。

世俗的な経験は、価値はなく、実在ではない。

神だけが、実在である。

あなたがそれらの後に1を加えなければ、いかなる数のゼロでも、価値はない。

同じように、あなたが全世界を所有するとしても、もしあなたが霊的な人生を送らなければ、もしあなたが真我実現を持たないならば、何にもならない。

あなたは、魂で生きなくてはならない。

あなたは、ここで人生にアートマン(真我)を加えなくてはならないだろう。

それは、イエス神が言う「先ずは、王国とその正義を求めなさい。そうすれば、すべてのこれらの物は、あなたに加えられるであろう。」と言っている理由である。

(だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイの福音書第六章33)

永遠に生きることは、豊かな人生である。

それは、豊かで内面的で霊的な人生である。

この人生は、哀しみと苦しみはない。

それは、満たされ完全に独立している。

それは、智慧と永遠の至福に満ちている。

それは、すべてに浸透し、不変である。

完全なる満足と滋養物である。

魂という命を抱き締めなさい。

あなたは、純粋で自由となるだろう。

人生の最高の美は、絶対真理の祭壇への最も親愛なる私利私欲という捧げものである。

生きることは、絶対真理を追い求め、そして勇気をもってすべての障害を乗り越えることを意味する。

人生の最も大きな歓びは、神への献身であり、それ自身のハートで神を瞑想することである。

霊的な人生は、人間の人生に意味を与え、栄光を授ける。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「神は顕現と非顕現として描写されています。

前者としては、神は世界をその一部として包含していると言われています。

もしもそうであるなら、世界の一部としての私たちは、彼を目に見える姿で知っているはずです。」

 

ラマナ・マハルシ

「神や世界の本質について決める前に、あなた自身を知りなさい。」

 

質問者

「私自身を知ることが、神を知ることなのでしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「そうだ。神はあなたの内にいる。」

 

質問者

「それでは、私自身あるいは神を知る上で障害となるのは何でしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「あなたのさ迷う心と、道を踏みはずすことである。」

 

質問者

「神は個人なのですか?」

 

ラマナ・マハルシ

「そうだ。彼はつねに第一番目の人であり、「私」であり、永遠にあなたの目の前に存在する人である。

あなたが世俗的なことに優位を与えてきたため、神は背後に遠のいてしまった。

もしあなたが神のみを求め、それ以外のすべてをあきらめるなら、唯一神のみが「私」、真我として残るだろう。」

 

質問者

「神と真我は別のものなのでしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「真我は神である。

「私は在る」(I AM)が神である。

あたなが自我にしがみついているため、このような質問が起こる。

もしあなたが真我をとらえれば、質問は起こらないだろう。

なぜなら、真我は何も問わないだろうし、問いようがないからである。

もし神が真我から分離しているとしたら、その神は真我のない神であり、それはありえない。

存在していないかのように見える神だけが真に存在し、存在しているかのように見える個人はけっして存在しない。

だからこそ、「自分が存在していない」(シューンニャ=空)ことを知っている状態だけが、栄光ある至高の知識である」と聖者たちは言うのである。

現在のあなたは自分を個人だと考え、そして宇宙が存在し、宇宙の彼方に神がいると考えている。

そのため、そこには分離という観念がある。

この観念が去らなければならない。

なぜなら、神はあなたからも宇宙からも分離していないからである。

『バガヴァッド・ギーター』もこう言っている。

アルジュナよ、

私は万物のハートに宿る真我である。

私は万物の原初であり、中間であり、終末である。

(『バガヴァッド・ギーター』第10章20節)

このように、神はただすべての生けるもののハートのなかにいるだけではなく、彼はすべての支柱であり、すべての源であり、すべての生けるものの住まう場であり、彼らの終着点でもある。

すべてが彼から存在を現わし、彼のなかに生き、ついには彼のなかに溶け去る。

それゆえ、彼は分離していないのである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

アルジュナ

「クリシュナよ 今一度詳しくお話し下さい

あなたの神秘な御力と顕現(あらわれ)について

どんなに聞いても私は飽きない

聞けば聞く程もっとその甘露(アムリタ)を味わいたくなるのです」

 

至上者(バガヴァーン)

「よろしい ではアルジュナ

わたしの光り輝く表現(あらわれ)の

主要なものだけを語って聞かせよう

詳しく言えば際限(きり)がないのだ

 

アルジュナよ わたしは真我(たましい)として

一切生類の胸に住んでいる--また

わたしは万物万象の初めであり

中間であり そして終わりである

ーーーーーーーーーーーーーー

そしてその上に アルジュナ

わたしは全存在を生み出す種子である

動くも 動かぬものの

わたし無しには存在し得ない

 

愛するアルジュナ

いま君が見ているわたしの姿を

見ることは まことに難しいのだよ

神々でさえこの姿を見たいと常に憧れている

 

いま君が見ているわたしの姿は

ただヴェーダを学んだだけでは見えない

厳しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない

そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ

 

アルジュナ

わたしを信じて愛慕することによってのみ

いま君の前に立っている真実の姿を見得るのだ

わたしの神秘に参入できるのは

この方法をおいて他に無いのだ

 

アルジュナよ 利得の業を離れ 空理空論を捨て

わたしを愛慕し わたしのために働き

わたしを至上目的とし 一切生類に思いやりをもつ者は

必ず 疑いなくわたしのもとに来るのだ」
(バガヴァッド・ギーター)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(37)

『私』とは、肉体(物質)、心(精神)、魂(霊)の三位一体の存在のように言われることがありますが、実は、「肉体」という物質も「心」という精神作用も、「魂」という霊的な存在からの力がなければ、その働きを全うすることはできず、私たちが人間が、「自分」だと言ったり、思ったりしているのは、この「肉体」と「心」であり、「魂」という言葉は知っているけれども、「魂」とは一体どういうモノなのか?を知らないために、自分自身が、「魂」そのものであると考えたことはなく、ましてや、「魂」だけが実在で、「肉体」や「心」は、「魂」の力に依存している幻のような存在であるとは、思えないことでしょう。(このことは、既に前回までの記事で、詳細に書きました)

「魂」については、死んで肉体を離れた後に、「魂」として「あの世」に存在するようになる、というような曖昧な想像の中でしか、存在していない実体のない存在であり、本当のことはよくわからない、と言っても過言ではないでしょう。

特に、宗教的な人でない限り、霊魂について考える時間を持つことも、少ない現代では、目に見えない存在は、無いに等しい存在となっています。

 

ここで言う「魂」とは、オカルトチックな「霊魂」のことではありません。

(多くの場合、「魂」についてはほとんど知られていないために、世の中には、多くの迷信や誤解があることは、事実です)

「魂」は、実体のない存在どころか、むしろ、そちらが「実体」であって、私たちが「実体」だと考えている「私」の方が、実体のない幻のような存在であるということが、真実であり、そのことが明らかになることが、究極の悟りであり、「真我実現」と呼ばれているものです。

 

「魂」とは、ヨーガでは、私たち人間の一人一人のハートに宿っている「真我」(アートマン)であり、サーンキャ哲学では、「プルシャ」とも言います。

「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」(不二一元論)の代表的な提唱者であるシャンカラが遺した「ウパデーシャ・サーハスリー」では、「真我」(アートマン)の性質が述べられていますが、そこにおいては、「真我」(アートマン)が「認識主体」として説かれています。

「認識主体」とは、誰の力も借りずに、何の力にも依存せずに、自らの力で「主体」となっている存在のことです。

私たち人間は、生や死、性別、人種など、自分の力で選ぶことはできません。

いつ、どこに生まれ、いつ、どこで死ぬのか?は、自分の意志や力の及ばないことであることは、誰でも認めることでしょう。

このように、私たちの人生は、ナニカに依存しているわけです。(それを運命と呼ぶ場合もありますが)

そして、「認識」とは、睡眠中に「認識」が起きていない時は、「私」という意識も「世界」も消えていることから、「認識」と「存在」とは、切っても切れない関係にあることは明らかで、私たちは、往々にして、「私」や「この世」があるので、それらを「認識」していると考えていますが、シャンカラは、それは「認識主体」(=真我(アートマン))が実在しているからこそ、その力により、私たちに「認識」が起き、その「認識」が脳に生じているがために、脳に、「私」や「この世」の存在に対する認識が起き、それ故、それらは存在することができるのだ、と述べています。

 

つまり、考える順番が、真逆なのです。

本当の「主体」は、「真我」(アートマン)である「魂」であり、個我の「わたし」は、自分は主体だと思っているけれども、本当は、真我の力によって存在しているに過ぎない存在であるに過ぎなく、そのために、アドヴァイタ(不二一元)では、真我(アートマン)を実在とし、個我の「わたし」は、非実在とか、幻としています。

 

”主体だと思っている”のは、完全なる個我の思い込みであり、その”思い込み”は、個我の脳に湧いている完全な「錯覚」です。

 

真の自己が目覚めると、この「錯覚」は、消滅します。

これが「真我実現」で起こることです。

「真我実現」とは、本当に実在しているのは何であるのか?が、明らかになることです。

 

このことから言えることは、「認識主体」である「真我」(アートマン)なくしては、私たち人間は、「私」という自分も「この世」という世界も認識できないために、存在することができません。

それ故、両者は、「認識主体」である「真我」(アートマン)に、依存しているということになり、自ら存在している「実在」ではなく、真の「実在」は、「真我」(アートマン)だけであり、私たち一人一人は、真の自己である「真我」(アートマン)に依存している実在ではない、非実在、幻のような存在である、ということになります。

 

そして、この「認識主体」である「真我」(アートマン)は、「魂」として、生物のハートに宿っています。(ハートは、必ずしも、「心臓」を意味してはいません)

 

今回からのテーマは、この「魂」の現れである「命」についてです。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、「秘められたるインド」より、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

Life (命)

 

命は、表現となった神である。

命は、喜びである。

命は、霊の歓びのみなぎりである。

命は、意識の流れである。

命は、あらゆる原子において振動している。

すべての中に、命がある。

命のない物質のようなものはない。

命は、一かけらの石にも含まれている。

物質は、命で振動している。

これは、現代科学者達によって、最終的に証明された。

命は、風景が絶え間なく変化する無限の時間の大海における航海である。

命は、不純から純粋へ、憎しみから宇宙的愛へ、死から不死へ、不完全から完全へ、奴隷から自由へ、多様性から単一へ、無知から永遠の智慧へ、苦しみから永遠の至福へ、弱さから無限の強さへの航海である。

命は、神自身へと進化するために、神の子達のために、創造神によって提供された多いなる機会である。

命は、奉仕と献身である。

命は、愛である。

命は、関係である。

生命は、散文詩ではなく、韻文詩である。

命は、科学ではなく、芸術であり、想像である。

命は、礼拝である。

われわれは、過ぎ行く巡礼者として、ここに居る。

われわれの目的地は、神である。

われわれの探究は、失われた遺産ではなく、忘れられた先祖伝来の遺産である。

命における大いなる中心の目的は、神との一体であるという意識の実現に至ることである。

命は、分離した生命としては、何の意味も無い。

命が全部、或いは、全体になる時、個の魂が至高の魂に結合する時にのみ、命は意味を持つ。

 

 

The Goal of Life (命の目的)

 

命の真の目的は、われわれがやって来た源へと還ることである。

川は、水の供給を得る究極の源である大海に合流するまで、休みなく流れる。

火が、それ自身の起源に溶け込むまで、飛び跳ね、激しく燃えるように、また、われわれも、神の恩恵を得て、神と一つになるまで、ここで休まることはないだろう。

命の単独の目的は、真我実現、絶対的な自由の獲得である。

人間の命の目的は、彼の内に永遠に存在する神性を明らかにし、証明することである。

命の目的は、特色のある個性のすべての意義を失い、神に分解されることである。

無限の命の達成は、限定的な命の至高の目的である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

 

ラマナ・マハーリシ

「自分自身に向かって、『私は誰か?』という問いかけをしなければなりません。

この探究は最後には、あなたの内部、心の背後にあるものを見い出すでしょう。

この偉大な問いを解決しなさい。

そうすればほかのすべての問題が解決します」

マハーリシは重ねて言う――

「こう言ったらもっとはっきりするだろうか。

すべての人間は常に悲しみに汚されることのない幸福を欲しています。

つまり終わりのない幸福をつかみたいと思っているのです。

この本能はほんものです。

ところであなたは、人びとは個別の自分を最も愛している、という事実に気づいたことがありますか?」

「というと?」

「すなわち人びとは、あらゆる手段を使って熱心に幸福を得たいと求めている、という事実です。

たとえば酒によって、あるいは宗教によって、これが人間の真の性質を知る手掛かりとなるのです」

「よく分かりませんが--」

彼の声の調子が高くなる。

「人の真の性質は幸福です。

幸福は、真の自己の生得のものです。

彼の幸福の探求は、彼の真の自己の無意識の探究なのです。

真の自己は不滅です。

それゆえ、人がそれを発見するときは、終わりのない幸福を発見するのです」

「しかし世界は実に不幸ですが」

「そう、しかしそれは、世界が自分の真の自己を知らないからです。

すべての人が例外なしに意識的または無意識的にそれを探しているのです」

「よこしまで獣のような人びとや、犯罪者でも、ですか?」

「彼でさえ、犯す罪のひとつひとつに自己の幸福を見いだそうとして罪を犯すのです。

この努力は人間の本能的なものですが、彼らは、実は自分たちは真の自己を探し求めている、ということを知らないものだから、最初は幸福への手段として邪悪な方法を試みるのです。

もちろんそれらは間違った道です。

人の行為は反射されてみずからに戻ってくるのですから」

「ではわれわれは、本当の自己を知ったときに、永続する幸福を感じるのですか?」

相手はうなずく。

斜めに太陽光線が、ガラスのはまっていない窓をとおしてマハーリシの顔にあたる。

しわのよっていないひたいには、澄んだ静けさがあり、しっかりした口もとには満足があり、その輝く目には聖所のような平安がある。

彼のしわのない容貌は、その啓示的な言葉が偽りでないことを示している。

これらの一見簡単な言葉で、マハーリシは何を言おうとしているだろう。

通訳者は確かにその外側的意味は、英語で私に伝えた。

しかし、そこには彼が伝えることのできない、もっと深い意味がある。

私はそれを自分で発見しなければならない、ということを知っている。

賢者は彼のハートの奥から語りかけているのだ、と私には感じられる。

それは、哲学者やパンディット(サンスクリット学者)として自分の学説を説明しようとしているのではない。

これらの言葉は彼自身が経験した幸福のしるしなのだろうか。

「あなたがおっしゃる自己とは、正確には何なのでしょうか?

仰せのとおりだとすると、人の内部にもうひとつの自分があることになりますか?」

彼の口もとは一瞬微笑にゆるむ。

「人が二つの自分をもつことなどできますか」と、彼は答える。

「この問題を理解するにはまず、その人を分析する必要があります。

長い間、他者の考える通りに考えるのが習慣であったために、いまだかつて彼は、正しい態度で彼の『私』に直面したことがないのです。

彼は、自分というものの正しい概念を持っていません。

あまりに長い間、自分を肉体であり頭脳であると思ってきましたから。

だからこの、『私は誰か?』という探求をする必要があるのです」

彼はこれらの言葉を私の内部にしみ込ませるために間をおく。

私は一心に次の言葉を待つ。

「あなたは、この真の自己を説明してくれとおっしゃるが、それは何と言ったらよいか。

それは、『それ』から人の『私』が生じ、それの中に消えていく、それなのです」

「消える?」答えが反響する。

「どうして人が、自分という感覚を失うことができるのですか?」

「あらゆる思いの最初の最初、すべての人の心に浮かぶ原初の思い、それが『私』という思いです。

この思いが生まれたあと、ほかのあらゆる思いが生じます。

第一人称代名詞『私』が心に生じたあとに、第二人称代名詞『あなた』は現れるのです。

もし『私』という糸を心でたどり、ついにその源に至るなら、それが最初の思いであると同時に最後に消える思いであると、発見するでしょう。

これは経験できる問題です」

「そのような自己の内部への心理的探求はわれわれに充分できる、とおっしゃるのですね?」

「そうですとも!最後の思いである『私』が徐々に消えていくまで、内に入ることができるのです」

「何が残るのですか?」と私はたずねる。

「人はそのときまったく無意識になるのですか?

それとも馬鹿になるのでしょうか?」

「そうではない!まったく逆です。

人の真の性質、真の自己に目覚めると、彼は永遠の意識となり、本当の意味の賢者となるのです」

「しかし、『私』という感覚も、間違いなくそれについてくるのではないですか?」

「『私』という感覚は人格、肉体、頭脳に付属しています」とマハーリシは静かに答える。

「人がはじめて真の自己を知るとき、なにか別のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を占領します。

そのあるものとは、心の背後の無限、神聖、永遠です。

ある人びとは天の王国と呼び、ある人びとは魂と呼び、ある人びとはニルヴァーナと呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼びますが、あなた方は自分たちの好きな名で呼んだらよいでしょう。

これが起こるとき、みずからを失うことは全くなく、むしろ彼は自己を発見するのです」

「人が真の自己のこの探究をはじめない限り、また、それをはじめるまでは、生涯を通じて疑惑と確信の欠如がついてまわるでしょう。

偉大な王や政治家は他者を支配しようと努めますが、同時に心の奥底では、自分が自分を支配し得ないことをよく知っています。

しかし、自分のもっとも深いところを洞察できた人は、最大の力を駆使できるのです。

生涯をさまざまな知識の収集に費やす知性の巨人に、人間の神秘を解明できたかどうか、彼ら自身を征服し得たかどうか、聞いてごらんなさい。

彼らは恥じて頭をたれるでしょう。

自分は何者か、ということをまだ知らないで、あらゆることを知ったとして何になりますか。

人々は真の自己へのこの探究を避けますが、ほかの何がこれほどの価値をもつでしょうか」

「真理の実現は、インド人にとってもヨーロッパ人にとっても同じです。

それにいたる道は、世俗の生活に巻き込まれている人びとにとってはより難しいだろうことは認めますが、それは成し遂げられるものであり、成し遂げなければならないものなのです。

瞑想でもたらされた流れは、実践によって習慣にすることができます。

すると仕事や活動をまさにその状態のまま、おこなうことができるようになります。

それは中断されることはありません。

瞑想と外面的活動との間にちがいはなくなるのです。

もしあなたが、私は誰か、を瞑想するなら――もし肉体も頭脳も欲望も本当の自分ではないということを認識しはじめるなら、その探究自身が、ついには存在の奥底から答えをもたらすでしょう。

それはおのずと深い悟りとしてあなたにおとずれるでしょう。」

「真の自己を知りなさい。

そうすれば真理が、あなたのハートで太陽のように輝くでしょう。

心は悩みなく、真の幸福にあふれます。

幸福と真の自己とはひとつのものですから、ひとたびこの自己に気づけば、けっして疑いを持つことはありません」

(秘められたるインド by ポール・ブラントン)

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(36)

「世界の実在性と創造の理論」におけるアドヴァイタ(非二元)的宇宙は、二元世界に生きている私たちには、理解し難い宇宙観ではありますが、これが、究極的な真理であり、そこに至ることが、Moksha(解放、解脱)、つまり、ヨーガの究極的な目標であることは、古今東西の聖者と呼ばれる方々が、それぞれに遺された御言葉からも、明らかです。

 

前々回では、私たちは、宇宙を直接体験しているようでいて、実は、肉体にある感覚知覚器官を通した情報を脳内で再構築することで、宇宙を宇宙として認識していること、そして、前回では、この再構築(認識)が起きているのは、脳内であり、その一連の脳内の情報処理作用(機序)を「心」と称しており、つまりは、この世を体験しているのは、肉体であるようでいて、実は、「心」であるということをお伝えしました。

(それ故、「心」が認識する「世界」は、「心」の数だけあることになり、同じ地球上における体験であるにも拘わらず、その体験は、「心」によって異なり、体験される「世界」も、それぞれの「心」によって、異なることになります)

 

「心」が無ければ、どんな体験も起こり得ません。

睡眠中は、「心」の働きは起きていないため、「心」はない、と言えます。

「心」のない状態においては、「私」という「主体」も、その「主体」が体験している「世界」もない、ということを確認しました。(「心」=「私」であると言っても過言ではありません)

「世界」と「私」(=心)は、相関関係にあり、両者の関係は、どちらか一方では、あり得ないということになりますが、(「世界」を認識する「心」が無くては、「世界」は無い、ということ)「心」が働いている間に限って、「世界」は存在していることからすると、「世界」を在らしめているのは、私たちの「心」ということになります。

 

しかし、その「心」でさえ、24時間働き続けている訳ではありません。

一日の何時間は、「心」は消えている状態がありますが、それでも、私たちは、その状態を「睡眠」と呼び、「私が寝ている」とし、目覚めが起きて、「世界」を認識する「心」が働き始めると、それと同時に、「私」と「世界」は、同時に出現する訳ですが、一般的には、「世界の中で寝ていた私が、世界の中で目覚めた」という具合に捉えられているために、「主体」は、いつも必ず「私」であることが、人間共通の認識における暗黙のルールとなっています。

 

この一連の流れは、無意識に起こるために、私たちは、当たり前のこととして、「主体は私である」ということに、何かしらの疑問や不都合や矛盾が起こることはありません。

そして、睡眠中も、肉体は在るために、深い睡眠の中で、たとえ「私」(=心の働きの中の自我意識)がいなくなっても、目覚めれば、「私」は、眠りに就く前の「私」に戻り、それが自動的に起こるために、睡眠中の「自己の不在」に対する恐れも不安も疑問も起こらず、よって、継続した「自己の実在性」への疑いは起こりません。

 

しかし、「私」だと思っている「私」は、睡眠中では消えているのに、肉体は存在している訳ですから、「私」(という意識=自我意識)が、肉体を有らしめ動かしている「本当の主体」ではない、ということは明白です。

 

この事実から言えることは、脳は、人間の体の各部位に命令や指令を出し、また、各部位からの情報を処理する変換機でもあるため、肉体全体の司令塔、制御装置のような役割をしている一つの器官に過ぎないということです。

そして、「私」(という自我意識)は、脳内にあり、睡眠時に起きている事実から推察すると、脳の活動に連動していることは明らかで、この脳の司令塔の役割が、「私」という別称で呼ばれていると見ることも可能かと思われます。

 

そして、更に見て行くと、この司令塔である脳ですが、生物発生学的には、一番最後にできる器官なのです。


卵子精子が一つになり、その後、細胞分裂を繰り返し、体を構成する各器官ができ、そして、体の各部位ができていきます。
その中で、一番最初に発生するのは、心臓で、約10ヶ月かけて、体が完成し、出産を通して、"私"が誕生します。

この事実から見ると、発生学的には、少なくとも、肉体で最も重要なのは、脳よりも心臓ということになります。
また、自我意識である"私"の誕生は、体の誕生よりも、もっと後のことで、発達心理学では、誕生後、言葉を発するようになる1歳半~3歳位と言われているようです。

「私」という自我意識や思考の発生源は、脳にありますが、体全体の発生源は、心臓なのです。(その前は、卵子精子、つまり遺伝子です。)

 

心臓が止まると、全身に血液を送れなくなるので、30分後には、脳のニューロンが死滅してしまい、司令塔は司令塔の役割を果たせなくなるために、やがて肉体のすべての器官の働きが停止します。
これが、"脳死"と言われているもので、日本では、法律上の死となっています。

しかし、胎児においては、脳の発生前から、既に心臓の原型は動いていて、生命エネルギーを体全体に届けています。

(このことは、記事の最後にご紹介します受精から胎児になるまでの成長のプロセスの動画でご確認下さい)


このことからも、個人の"私"の源は、少なくとも、脳ではなく、心臓だと言うことになりますが、しかし、心臓は、脳の背後にあって、司令塔である脳を動かしている隠れた存在ではありますが、それでも、心臓も体の中で働く一つの臓器に過ぎません。

この心臓も、自ら動いているように見えても、実は、そうではなく、他の臓器に先駆けて生み出され、動き出したに過ぎない体全体に生命力を送るための一つの臓器と言えます。

そして、この先が、とても大切なのですが、ここに因果律(縁起の法則)を適用するならば、この心臓を動かしている力の源があることになり、体の源である心臓を動かす源がなくては、心臓は動かない、と推論することができます。


この心臓を動かす源は、当然、個人である"私"の源のはずです。

心(脳)は、主体(主人)のように働いていますが、「本当の主体(主人)」ではありません。

この「本当の主体(主人)」の力により、心臓が働き、脳が働き、そして、全身が生命体として躍動することができるのです。

個人の"私"を有らしめている源は、心臓に宿る「本当の主体(主人)」です。

これを、ヨーガでは、真我(アートマン)と呼んでいます。

 

『生類の玄洞(心臓)に鎮まれている真我は、微なるよりも微に、大なるよりもさらに大なり。』(カタ・ウパニシャッド

 

『この見難き秘奥に匿(かく)れ、玄洞(心臓)に棲み、深淵に潜む久遠の神(真我)』(カタ・ウパニシャッド

 

この心臓に宿っている「本当の主体(主人)」である真我(アートマン)を、己の中に見出すことで、「自分とは、本当は、何者であるのか?」という問いへの答えを得ることができます。

 

本当のわたし(本当の主体)は、この肉体でも、この世を体験している心でもなく、時空間を超えた永遠の実在です。

それが、真の自己である真我(アートマン)、魂の姿であり、アートマン(魂)は、この宇宙で唯一の実在である神我である大霊(ブラフマン)と同一です。

 

ここに至って初めて、現象的宇宙の実相、アドヴァイタ的宇宙の仕組み(カラクリ)が明らかになります。

(肉体を通して心が体験する現象的宇宙である物質界、そして、心だけが体験する心象的宇宙であるアストラル界は、宇宙の実相そのものではありません。

両方とも、「心」に投影された影のような存在であり、本当の意味での「実在」ではないのです)

 

こうして、「私」と「世界」の関係性が明らかになることで、Moksha(解放、解脱)が起こります。

 

「わたし」も「世界」も消滅しますが、それでも、尚、「至高の一者」が、すべての存在の源として、何にも依存せず、実在として在り続けています。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

 

「God Only Is:The World Is Not(神だけが存在する:世界は存在しない)

 

実際には、永遠のブラフマンがあるだけである。

実は、他には何も存在しない。

不可分なサッチダーナンダ(※)の塊である絶対者ブラフマンだけが、存在する。

創造は、夢である。

目覚めも、また、夢である。

肉体は、夢である。

この全世界は、完全な虚偽である。

この世は、完全に、非実在である。

感覚的な喜びは、夢の中で不妊の女性の息子を愛撫するようなものである。

天国、解脱と世界は、不妊の女性の息子のように、単なる言葉であるだけである。

すべては、大いなる幻影である。

夢も、深い眠りも、天国も解放もない。

真実は、すべては平和であり、永遠の至福である、ということである。

ここでは、何も生まれていないし、何も死んでいない。

すべての教えの主題、目的は、言葉、或いは、音の遊びであるだけである。

内側と外側である無限は、空間と時間と通して、この世として現れている。

ブラフマンは、世界とし現れている。

世界は、ただの顕れである。

それは、ロープの中の蛇のようであり、蜃気楼の中の水のようであり、空の青さのようなものである。

蛇は、ロープだと思う無知のせいで、現れている:ロープが知られると、蛇は消える。

世界は、真の自己の無知のせいで、顕れている。

アートマン(真我)の智識がある時は、顕れない。

人が真の自己を忘れる時、ブラフマンが宇宙として、彼に顕れる。

人が、自分自身の真の自己に確立する時、宇宙はブラフマンとして顕れる。」

(※:サッチーダーナンダ=サット(実在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)が、”不可分の一つ”として在ることをこの一言で表している)

 

 

Know the Truth(真理を知りなさい)

 

もしあなたが、真の自己の智識を獲得したら、人生の意味は、神秘であることを止めるだろう。

あなたは、明確に、この宇宙の何故?とどのように?を理解するであろう。

物事の性質における目的と進歩は、あなたにとって明確になるであろう。

すべての超越的な物事は、あなたの手の平の中のリンゴのように、知られるであろう。

感覚を引っ込め、瞑想しなさい。

あなたのハートの奥まった処に、深く潜り込みなさい。

あなたは、経験的なリアリティとは非常に異なる、時間のない、空間のない、変化のないリアリティである実在の目覚めを持つだろう、

あなたは、この単なる真実のリアリティの外側であるモノは何でも、単なる顕れ、マーヤ(幻影)であり、夢であるということを感じ、経験するであろう。

絶対的な真理を悟りなさい。

あなたは救われるであろう。

あなたは解放されるであろう。

あなたは悟るであろう。

あなたは自由である。

あなたは、ブラフマンになることによってのみ、ブラフマンを知ることができる。

ブラフマンになることは、神聖なる性質-あなたの本質的な性質を構成している至高の魂―とあなた自身を同一視することである。

ブラフマンを知る者は、ブラフマンになる。

川は、大海に合流し、大海と一つになる。

水滴は、海に混ざり、海と一つになる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda )

 

 

『質問者

「世界のなかの名前や形は実在なのでしょうか?」

 

マハルシ

「名前や形をアディスターナ(根底に在るもの)から分かつことはできない。

あなたが名前と形を理解しようと試みると、そこにはただ実在だけが在ることを見いだす。

それゆえ、つねに実在であるものの知識を達成しなさい。」

 

質問者

「なぜ目覚めの状態はこんなにも実在のように見えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「われわれは映画のスクリーン上にたくさんのものを見る。

だが、それは本物ではない。

スクリーンを除いては、何ひとつそこに本物はない。

それと同じように、目覚めの状態のなかにもアディスターナ以外には何も存在しない。

世界の知識とは、世界を知る者の知識である(ジャーグラト-ブラマーはジャーグラト-ブラマタのプラマーである)。

どちらも眠りのなかでは消えてしまう。」

 

質問者

「なぜ私たちは世界のなかに永続性や一貫性を見るのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは誤った観念のためである。

誰かが、同じ川で二度沐浴をしたと言ったなら、それは誤りだ。

なぜなら、彼が二度目に沐浴したとき、川はすでに一度目に沐浴したときと同じではないからだ。

炎の輝きを見るとき、人は同じ炎をを見ていると言う。

だが、炎は一瞬一瞬変化しつづけている。

目覚めの状態もこのようなものである。

一定した現れは知覚の判断の誤りなのである。」

 

質問者

「誤りはどこにあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「プラマタ(知る者)にある。」

 

質問者

「知る者はどうやって現れたのでしょうか?」

 

マハルシ

「誤った知覚のためである。

実際は、知る者と彼の誤った知覚は同時に現れる。

そして真我の知識が得られたとき、どちらも同時に消え去るのである。」

 

質問者

「知る者と彼の誤った知覚はどこから現れたのでしょうか?」

 

マハルシ

「その質問をしているのは誰だろうか?」

 

質問者

「私です。」

 

マハルシ

「その「私」を見いだしなさい。

そうすればすべての疑いは消え去るだろう。

夢の中に偽りの知識、知る者、そして知られるものが立ち現れるように、目覚めの状態の中でも同じ過程が作用する。

どちらの状態のなかでも、「私」を知ることであなたはすべてを知り、他に知られるべきものは何も残らない。

深い眠りのなかでは、知る者、知識、知られるものは不在である。

これを同じように、あなたが真の「私」を体験した瞬間、知る者、知識、知られるものは存在しなくなるだろう。

目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、知る者だけに起こる。

そしてその知る者自身が非実在であるため、実際は、いままでも何も起こってはいなかったし、いまも何も起こってはいない。

そしてこれからも、何も起こらないのである。」

 

質問者

「「私」という感覚と世界の知識を与えている光は、無知でしょうか、それともチット、意識でしょうか?」

 

マハルシ

「「私」が他と異なっていると信じさせるのは、チットが反映した光である。

このチットが事物を創造させるのである。

だがこの反映のためには、そこに反映されるべき表面がなければならない。」

 

質問者

「その表面とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現したとき、あなたはその反映と反映される表面が、実は存在していないことを知るだろう。

だが、それらはひとつであり、どちらも同じチット(意識)なのである。

世界は存在する。

世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするために光を必要とするそのどちらも同時に立ち現れる。

それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依存しているのである。

世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全な光のなかでも見ることができないのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(35)

ここ数回にわたり、創造と世界の実在性について、アドヴァイタ(非二元)の世界観をご紹介しています。

 

アドヴァイタ(非二元)の世界観は、自己意識との密接な関係性を抜きに、理解することはできません。

両者は、切っても切れない関係にあるからです。

前回の記事の中では、私たち人間が、外界を認識する際の情報処理プロセス、身体にある5つの感覚知覚器官で得た情報が、どのような仕組みで脳に伝達され、そして、脳で再構築され、再現されるのかについて、詳しく見てみました。

直接体験しているように見えても、実は、それは間接体験であることは、身体の仕組みから言えば、やむを得ないことですが、それが、「ロープを蛇に見間違える」という「錯覚」の原因になっているということは、なかなか実感を伴って、納得することはできないことでしょう。

 

私たちは、寝ている間に、夢を見ますが、感覚知覚器官は対象物から情報を得ている訳ではないのに、脳の中では、夢の世界が展開します。

それは、仕組みとしては、過去に蓄積された情報が元になり、脳の中で、夢の世界が構築され、見える形で、夢の世界が現われるからと言えます。(しかし、この場合も、目と言う感覚知覚器官が使われている訳ではなく、夢を見ているのは、目ではなく、脳ということになります)

夢は、脳が見ている映画のような世界と言えます。

このように、私たちは、リアルな感覚知覚情報がなくても、脳の中に、世界を構築できるわけです。

この時の脳の中に現われた世界は、私たちが目覚めている状態で、夢想、空想、想像によって脳に描くビジョン(映像)に、よく似ています。

しかし、夢の世界、空想、想像の世界は、感覚知覚器官を通して得られた情報を元にして再現された世界ではないことを、私たちは知っているので、その世界に実在性を感じて、現実だと思うことはありません。

それらは、純粋に、心だけが体験する世界であり、物質次元ではない架空の世界だという認識があります。

一般的常識的な感覚から、私たちは、無意識に、肉体が体験する物質世界を現実、そうでない心だけが体験する世界を非現実だと識別しているので、この識別知が正常に働いている間は、夢の世界と現実の世界を混同することは起こりませんが、何らかの原因があって、脳がせん妄状態にある時には、この識別知が働かないために、夢と現実の境が消えてしまい、認識に混乱が生じてしまい、非現実と現実が混同された世界を体験することになります。

 

私たちは、通常は、この肉体が体験する世界を現実=実在だと、無意識に認識しており、このことを疑うことはありません。

そして、映像だけの世界、例えば、TVなどに映される映像も、ドラマなら、フィクション(創作)であり、ドキュメンタリーなら、ノン・フィクション(実写)であるという認識で、TVの画像を観ている訳です。

しかし、ノン・フィクションの映像であっても、その映像を見ない人にとっては、無いも同じです。

そして、たとえ、その影像を見た人であっても、それは映像を通して心だけが体験する世界なので、夢と同じくらいのリアリティをもった体験に留まり、自分が体験した世界ほどには、実在感は湧かないことでしょう。

 

また、薬物などの作用で、リアル感に満ちた幻覚の世界を体験することがあります。

それは、薬によって脳神経が興奮状態になり、幻覚が生じることで、その幻覚の世界をリアルに感じる訳ですが、脳の興奮が収まれば、幻覚は消えます。

このように、薬物の作用ではなくても、時に、心(脳)だけが、体験する世界があり、しかもその世界は、空想や想像の世界よりも、リアルに感じるために、それをアストラル界と呼ぶことがあります。

アストラル界は、心(脳)だけが体験する世界ですが、アストラル界では、物質次元よりも自由が利くため、心は、より自由を感じ、肉体次元では不可能であるような宇宙旅行や世界旅行、今は亡き先祖や高次の存在とされているような聖者や神々、天使や妖精など、非現実な存在に出会ったり、というように非現実な世界を構築して、その世界を体験することがあります。

アストラル界における体験は、メンタルな世界での体験ですが、夢と同じような睡眠中の非現実の世界という訳ではなく、脳が体験する世界であるために、覚醒時におけるある種のリアルな感覚が伴っているため、全くの想像、空想の世界という訳でもありません。

そうは言っても、アストラル界は、肉体が体験している物質次元とは違い、身体にある感覚知覚器官を通して体験する世界ではないために、脳内で生じている感覚を伴った一種の幻想の世界であり、宇宙の実相の直接体験とは言えません。

しかし、物質次元における体験も、アストラル次元における体験も、その体験の情報がどのようなルートでやって来たか?は、わからなくても、それは脳にとっては大きな問題ではなく、どちらも脳内で再現された世界であり、リアルな感覚を伴うものなのです。

 

そして、ここで注目したいのは、対象物が物質的なモノであろうと、夢の世界の産物であろうと、それらから得られる反応としての感情は、ほとんど違いがないということです。

恐い夢を見て、汗をビッショリ掻いて、目覚め、「あー、怖かった!」と思うこともありますし、夢の中で悲しくて泣いたら、枕が本当に涙で濡れていたということもあることでしょう。

 

このように、体験しているのは(体験として認識しているのは)、心なのです。

同じ風景を見ていても、ある人は、山を見、ある人は、麓の家を見、ある人は、空に飛ぶ鳥を見、それぞれに関心がある、興味があるものを見ており、それが、その人の世界であり、人が体験する世界は、同じようで、全く同じではない、ということが言えます。

山だけを見ている人には、家も空を飛ぶ鳥も存在していません。

つまり、意識するモノだけが、その人の世界、体験する世界であると言えます。

 

このように、心に起きた反応を体験と呼んでいる訳ですが、反応は、いろいろな条件に左右され、現実と非現実の境は曖昧なことも多く、脳の認知機能によっては、現実と非現実は混同されることもあり、また、一分前に起きた現実は、今は、もう記憶の中以外には、どこにも無い(ビデオなどの映像の中には残っていても)一種の夢とも見間違えるほどのリアリティしか感じられないこともあり、何をもって「実在」(現実ではなく)と言うかというところに、非二元の世界観を理解する上での重要なポイントがあります。

 

次回、更に、世界の実在性と意識との関係を見て行きましょう。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

Why Has God Created This World?(何故、神はこの世界を創ったのか?)

 

「何故、神はこの世界を創ったのか?」という問いに対する答えは、とても不十分なものである。

彼自身の賞賛のために?

私たちは、あまりに多くの曖昧さを彼に帰することはできない。

人類への愛によって?

彼は、それが存在する以前に、一つのモノを如何にして愛するのだろうか、惨めで永続する苦しみのために何万ものモノを創造することが、如何にして、愛と呼べるのだろうか?

世界の創造は、倫理的必然性である。

それは、魂に歓びの果実を与え、彼らが神の実現に達成するのを助けるためにある。

神の創造に対する神の望みは、彼の創造を彼自身の覚醒をもたらすために必要とされるすべてを供給することである。

「何故、神は世界を創造したのか?」という問いは、形而上の問いである。

限定された心は、適当な答えを与えることはできない。

理由は、世俗的な問いにのみ、答えを与えることができる。

問い自体が、誤っているのである。

無知やマーヤ(幻妄の力)やサムサーラ(輪廻転生)に対する原因とは、何であろうか?

これは、形而上のものである。

原因を探究する中で、あなたは、あなたの原因作用の内なる精神的な器官がもはや利用できず、そのために作られていない領域の中に突入するために、それを乱用する。

あなたは、無知、苦しみ、惨めな状態でここにいる。

あなたは、それらから離れた方法を知っている。

それらに対する原因の問いは、無意味である。

粗大であり、時間と空間と因果律に条件づけられた限定された心は、超越的な問いである宇宙の何故?と如何に?を理解することができない。

問いは、誰にも、聖典によっても、聖者や教師によっても、答えられたことはない。

この点に、あなたの心を留めてはならない。

あなたは、この問題に対する解答を得ることは、けっしてできない。

この宇宙を創造することは、ブラフマンの遊戯の輝き(Lila-vilasa)なのである。

それは、彼のマーヤ(幻妄の力)である。

それは、彼の性質なのである。

あなたは、単にあなたのエネルギーと時間を、「何故、神はこの世界を創造したのか?世界は、実在なのか?非実在なのか?」という問いに関する熱した討論に突入することで、浪費するだけである。

世界が実在であろうか、そうでないかは、あなたには、構わないことであろう。

あなたは、このような議論の中に入ることによって、何か価値のあるモノを得ることはないであろう。

あなたは、至高の真我に留まるために、心(マインド)と外に向かう感覚を引っ込めることで、あなたのハートの空洞(※)に深く潜って行かなくてはならないであろう。

それ故、これらの無益な討論を諦め、真の自己の探究とその実現に真直ぐに進みなさい。

木の葉っぱの枚数を数える代わりに、果実を直接食べようとしなさい。

実現によって真の自己の永遠の至福を楽しもうとしなさい。

これは、智慧である。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda )

 

(※)『この見難き秘奥に匿(かく)れ、玄洞(心臓)に棲み、深遠に潜む久遠の神(真我)」』(カタ・ウパニシャッド

 

 

『質問者

「まだまだ完全に理解できたとは言えません。

私たちがさまざまな方法で見、感じ、触れているこの世界は何か夢のようなもの、幻想なのでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるならば、世界を非実在として受け入れる以外に方法はない」

 

質問者

「なぜでしょうか?」

 

マハルシ

「その理由は明らかだ。

世界が実在だという考えをあなたが捨て去らないかぎり、あなたの心はいつも世界を追い求めるからである。

存在するものは実在だけであるにもかかわらず、現れを実在と見なせば、実在そのものを知ることはけっしてできないだろう。

このことが「ロープのなかの蛇」という類似性によって説明されている。

あなたは騙されて一本のロープを蛇だと信じこむかもしれない。

そこに蛇を見ているかぎり、ロープを見ることはない。

あなたにとっては実在しない蛇が実在し、本物のロープがまったく実在していないように見えるのである。」

 

質問者

「究極的には世界が非実在だということを試みに受け入れることはできるのでしょうが、それが本当に非実在だと確信するのは難しいことです。」

 

マハルシ

「あなたが夢を見ている間は、その夢でさえも実在なのだ。

夢がつづいているかぎり、あなたが見たり感じたりするものはすべて実在である。」

 

質問者

「では、世界は夢と同じだということでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが夢を見ている間に、実在としての感覚のなかで何かおかしいと感じることはないだろうか?

あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだはずの人と会話をするような夢を見たとしよう。

一瞬あなたは夢のなかでその夢を疑って自分自身に言うだろう。

「彼は死んだのではなかったか?」

けれどもあなたの心は、何とかしてその夢のできごとと和解して、夢の目的に合わせてその人が生きていてもよいとする。

つまり夢は夢として、あなたがその実在を疑うことを許さないのである。

夢でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の実在性を疑うことはできない。

心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることができよう。

これが夢見の世界と目覚めの世界を比較した理由である。

どちらも心の産物なのである。

心がどちからかに没頭しているかぎり、どちらの実在性も疑うことができない。

夢を見ている間は夢見の世界の実在性を疑えず、目覚めているときは目覚めの世界の実在性を疑うことができない。

反対に、もしあなたが心を完全に世界から引っ込めて内側に向かい、そこにとどまるならば、つまりもしあなたがつねにすべての体験の根底である真我に目覚めつづけるなら、あなたが今気づいている世界は、あなたが夢見のなかで生きていた世界と同じように非実在であることがわかるだろう。」

 

質問者

「私たちはさまざまな方法で世界を見たり感じたりしています。

これらの感覚は、見られ感じられる対象物の反作用であって、人によって異なるばかりか同じ人にとってさえ異なるため、心が創造した夢の世界とは違ったものです。

このことは、じゅうぶん世界の実在性を実証しているのではありませんか?」

 

マハルシ

「世界と夢との矛盾に関する話は、あなたが目覚めている今だけ現れる。

あなたが夢を見ている間、夢はひとつの完全に統合された統一体としてあった。

つまり、夢の中で喉が渇いたとき、幻の水を幻に飲んでも、幻の喉の渇きは癒されたのである。

だが夢自体が幻想だと知らないかぎり、このことはあなたにとって真実であり、幻想ではない。

目覚めの世界についても同じことが言える。

あなたの今の感覚が、世界は実在であるという印象をあなたに与えるように調整をしているのである。

その反対に、もし世界がそれ自体で独立した実在ならば、眠っているとき、なぜ世界は現れないのだろうか?

眠りのなかであなたが存在していかなったと言うことはできない。」

 

質問者

「私は、私が眠っている間の世界の存在を否定などしていません。

それはずっと在りつづけています。

私が眠っている間に見なかったとしても、他の眠っていない人たちが世界を見たでしょう。」

 

マハルシ

「眠っている間もあなたが存在していたというために、それを証明してくれる他者の証言が必要だろうか?

なぜあなたは今その証言を求めるのかね?

あなたが眠っている間に、他者が世界を見たと告げることができるのも、あなた自身が目覚めているときだけである。

あなた自身の存在に関しては別である。

目を覚ましたとき、あなたはよく眠ったと言う。

そう言えるということは、最も深い眠りのなかで、あなたはあなた自身に気づいていたのだ。

ところが世界の存在についてはまったく気づいていなかった。

目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、それともあなただろうか?」

 

質問者

「もちろんそれを言うのは私ですが、私は世界について言っているのです。」

 

マハルシ

「なるほど、あなたは世界が実在だと言う。

だとすれば、自分自身の実在性いついてさえ無知なあなたが、世界の実在性を証明しようとしていることを、世界は無私しているのである。

いずれにせよ、あなたは世界が実在であると主張したがっている。

その実在性の基準とは何だろうか?

何にも依存せずそれ自体で存在し、それ自身によってそれ自身を現わすもの、そして永遠で不変なるもの、それが実在である。

世界はそれ自身で存在するだろうか?

世界が心の助けなしに見られたことはかつてあっただろうか?

眠りのなかでは心も世界も存在しない。

目が覚めれば心があり、世界が存在する。

この不変の付属関係は何を意味するのだろうか?

あなたは科学研究の基礎そのものと見なされている帰納法の原理をよく知っているだろう。

世界の実在性についてのこの問いを、なぜこの一般的な論理の光のなかで解決しないのか?

あなたはあなた自身について「私は在る」と言う。

つまり、あなたの存在は単なる存在ではない。

それはあなたが意識している存在である。

実に、それは意識と同一の存在なのである。」

 

質問者

「世界はそれ自身を意識していないかもしれませんが、それでも存在しているのです。」

 

マハルシ

「意識とはつねに真の自己意識である。

もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識しているのである。

自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。

それはまったく存在などではない。

それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質そのものである。

それはヴァストゥ(実在)である。

それゆえ、実在はサット-チット、つまり存在-意識として知られており、単に他方を除いたものなどではけっしてない。

世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。

どうしてそのような世界を実在と言えよう?

さらに、世界の本性とは何だろうか?

それは尽きることのない変化であり、絶え間なく、果てしない流転である。

依存し、非-自己意識であり、永遠に変化しつづける世界は、実在ではありえない。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(34)

前々回から、「世界の実在性と創造の理論」について、ヨーガの世界観をご紹介しています。

通常、このことを理解することは、かなり難しいので、少し、噛み砕いた説明を試みてみようと思います。

 

改めて、私たちは、どのようにして、世界を体験(認識)しているでしょうか?

 

身体にある感覚知覚器官で得られた感覚情報は、神経線維上は、速い電気現象(活動電位の伝導、または興奮の伝導ともいう)によって、ニューロンニューロンの間隙(シナプス間隙カンゲキ)、およびニューロンと効果器(神経筋接合部)のシナプス間隙は、化学物質(特有の神経伝達物質)によって行われ、末梢から中枢(脳)へとすばやく伝達されます。

 また、身体や内臓の筋肉を動かす時は、同じように、中枢から末梢へと指令が伝達されます。

こうして、人間の体験は、全身からの感覚情報を中枢である脳に伝える神経である求心性神経(感覚神経)、中枢(脳)からの指令を身体の各部位に伝える神経である遠心性神経(運動神経)によって、支えられています。

 

つまり、世界の認識は、一端、求心性神経を通る際には、プラス、マイナスの電気信号に変換され、脳に達した情報は、また、適当な処理を施され、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという感覚に再現されるという一連のプロセスが瞬時に起こることで、体験している世界が、脳内で自動的に(無意識に)再構築されているのです。

こうして、直接体験しているように思われる世界も、実は、脳内で再構築された世界と言えます。

それ故、肉体の有限な感覚知覚器官を通して体験された世界は、限定された宇宙であると言わざるを得ません。

 

例えば、通常の人間は、3色型色覚(赤、緑、青)ですが、非常に稀に、4色型色覚の人もいます。

鳥は、4色型色覚を持つと考えられており、多くの哺乳類は、2色型色覚を持っています。

このように、視神経がどの波長の光に反応するかによって、体験する世界は違って来ることもある訳です。

同じ世界を体験していても、感覚知覚器官が異なるために、世界に対する認識は異なるため、結果として、違う世界を体験している、と言えます。

そしてまた、この電気信号が、何らかの理由で、神経回路間でスムーズに伝達されなかったり、脳において、情報処理が上手く働かなかったりすることも起こり得ます。

それは、人それぞれであり、私たちは、自分が体験している世界が、他人が体験している世界と全く同じであるか?は、断定することはできないのです。

 

視覚に関して言えば、電磁波の波長が、下界は約360-400mn、上界は760-830nmで、可視光線より波長が長くても(赤外線)、短くても(紫外線)、見ることはできません。(太陽光と呼ばれる電磁波の多くは、可視光線です)

しかし、中には、紫外線が見える人がいたり、視力によって、又は、視神経の状態によって、歪んで見えたり、欠けて見えたり、体験する世界は、異なることもあるのです。

 

しかし、このような身体に起きている情報伝達の仕組みから、一つだけ言えることがあります。

 

それは、各自が体験している世界は、脳(心)の中にあると言うことです。

 

この脳(心)について、深く理解することで、自分という存在と自分が体験する世界との相関性が、これまでとは違った形で、見えてくることでしょう。

 

少なくとも、私たちは、世界を直接体験しているようで、実は、それは間接体験だということに留意するならば、限定された感覚知覚器官によって認識された世界は、やはり限定された世界であり、日常生活を送るには、それで充分ですが、宇宙の実相を知るには、それだけでは充分ではないことは、明白です。

 

私たちの感覚知覚器官が、限定的であるために、体験も限定的であり、且つ、間接体験であるがために、ロープが蛇に見えてしまう、ということが起きてしまっています。

それが、マーヤ(幻妄の力による錯覚)の原因とも言えるのですが、肉体を通して、この世を体験している私たちには、この「錯覚」が常に起こり続けているために、この「錯覚」を「錯覚」だと見抜くことができません。

それ故、宇宙の本当の姿である実相を知るには、この「錯覚」を取り除く必要があります。

ロープをロープとして見るためには、「錯覚」は邪魔なのです。

この私たちに生じている「錯覚」を取り除くためには、「錯覚」が生じる源である五感(五つの感覚知覚器官)の働きを全て取り除く必要があることになります。

 

このために、ヨーガでは、深い瞑想が推奨されているのです。

(深い瞑想中は、睡眠中と同じく、五感は働いていません)

 

五感を通してではなく(「錯覚」を通してではなく)、世界を直接体験した時、それはどのような世界なのでしょうか?

これを識ることは、宇宙の実相を識ることであり、これは、ヨーガでは、”ブラフマンの智識(Brahman-Jnana)”と呼ばれている、究極の真理です。

 

このブラフマンの智識(Brahman-Jnana)について、前回同様、前半は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

World Is Mental Creation(世界は、心の創造である)

 

私たちの前に、この創造をもたらすのは、覚醒状態だけである。

この宇宙は、宇宙の原因であるブラフマンから自己展開された心の形態であるに過ぎない。

プラーナの振動である動きは、心を動かす。

心の動きは、宇宙を生み出す。

心は、外側の世界として、現れる。

名前と形は、マーヤ(幻妄の力)の力の一つである心の動揺の力(Vikshepa Sakti)に従って発生する。

動揺(Vikshepa)の力は、覚醒の状態(Jagrat)と夢見(Svapna)の状態で働き、全世界は、この力のために投影される。

眠りでは、それは消滅する。

深い眠りの状態では、あなたは世界の経験は持っていない、何故なら、心がないからである。

これは、明らかに、心があると、その時だけ世界はあり、心だけがこの世界を創造していることを示している。

世界は、心の創造である。

眠りにおいては、世界はない。

サマディにおいては、世界はない。

聖者にとっても、世界はない。

それは、天啓聖典が、この世界は、心のために現われている世界

(Manomatra jagat,Manah-kalpitajagat)であると宣言している理由である。

この動揺し続けるマナス(意思)は、言葉では言い表せないブラフマンから存在の中へとやって来て、この世を自身の意志力(Samkalpa)、想いで創造している。

宇宙のこの虚偽は、マナス(意思)のサンカルパ(意志力)から生まれる。

宇宙が在るように思われるのは、あなたのマナス(意思)のサンカルパ(意志力)を通してであり、そして、もしあなたが宇宙を超越した唯一の実在の高みに舞い上がりたいと望むならば、あなたが捨てることを求められるのは、このサンカルパ(意志力)である。

部分的な意志力(Sankalpa)の成長と共に、宇宙は発生する。

前者の消滅と共に、後者もまた消える。

意志力(Sankalpa)の全滅で、見る者と見られる者との間の相違のすべての概念は消滅し、その時、ブラフマンという実在が、途切れることなく、輝き始めるだろう。

その時、全宇宙の影は、動きがあろうと、なかろうと、非二元状態で、その中に沈み込むのがわかるだろう。

心は、考えることを止め、世界は消滅し、言語に絶する至福がある。

心が考え始めると、直ちに、世界は現れ、そしてそこには、哀しみがある。

“わたし”の黙想で、宇宙の想念のすべてのつながりは始まる。

さもなければ、全宇宙は、太陽の前の闇と同じ位たちどころに消滅するであろう。

心と“わたし”は、一つである。

この“わたし”を破壊しなさい。

その時、心は破壊される。

もし、知性や知覚、活動の道具である心が、消滅するならば、それと共に、この付属的な世界も消滅する。

 

 

The Cosmic Drama(宇宙的ドラマ)

 

この現象的な宇宙は、神聖なる神の意志からの産物であるだけで、心の働きを通して実在しているように見えるだけである。

あなたが、ドラマを書く前に、あなたは、ドラマ全体の生き生きとした精神的な画を心の中に持つ。

その時、あなたは、四幕で連続してそれを書く。

それが上演されると、一部分毎に、連続して演じられる。

同様に、宇宙とその動きは、宇宙の心(マインド)、イーシュワラ(創造神)の心の中では、活き活きとした精神的な画像である。

彼においては、”過去“も”未来“もない。

すべては、彼にとっては“今”である。

彼にとっては、“近い”も“遠い”もない。

すべての場所は、“ここ”である。

すべての時間は“いま”である。

出来事は、長い世界のドラマの舞台上では、時間の経過につれ、連続して出現する。

原子は、継続的に回転する。

古いものは、新しくなり、新しいものは古くなる。

現実において、古いものはないのだ。

新しいというものもないのだ。

個別の心を持った個我は、出来事を連続して目撃している。

しかし、創造神(イーシュワラ)は、すべての出来事を一挙に知る。

彼は、すべてを知っている。

彼は、全知である。

彼は、彼の創造物のすべての細部も知っている。

この巨大な感覚宇宙は、アートマンの意志(Atma-sankalpa)として輝いている。

宇宙的な心(Cosmic Mind)は、マーヤ(幻妄の力)を創り上げる。

個人の心は、妄想の下で、物事を受け取る。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とはシュリー・シャンカラーチャリヤ(※)の常套句です。

しかし、別の人たちは「世界は実在である」と言います。

どちらが真実なのでしょうか?」

 

マハルシ

「どちらも真実である。

それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。

真理の探究者(アビャーシ)は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。

それから彼は世界を非実在として捨て去る。

なぜなら世界は究極的に真我にたどり着く。

その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。

そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。

実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。

真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。」

 

質問者

「バガヴァーンはマーヤ(幻想)と実在が同じものだと言われます。

どうしてそれが可能なのでしょうか?」

 

マハルシ

シャンカラーチャーリヤは彼のマーヤの見解について、人びとから理解されないまま批判された。

彼はこのように言った。

 (1)ブラフマンは実在である。

 (2)宇宙は非実在である。そして

 (3)宇宙はブラフマンである。

彼は第二番目のところで留まらなかった。

なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。

それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。

したがって、マーヤと実在はひとつであり、同じものなのである。」

 

質問者

「そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。

他に道はない。

ある人が、自分は実在であり、永遠に、すべてに遍在するブラフマンだということを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思い込んで、その迷妄(マーヤ)ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は非実在でしかなく、それは迷妄(マーヤ)なのだと気づかせなければならない。

なぜか?

なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。

あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼き付けないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。

ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。

そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。

真我を離れて宇宙は存在しないからである。

人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものと見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。

それはどうすることもできないのだ。

紙を見てみなさい。

われわれは文字だけを見ている。

文字が書かれている紙に気づく人はいない。

文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。

あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わなければならない。」

 

質問者

「それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、個々に分離した名前と形として見られたとき世界は非実在なのでしょうか?」

 

マハルシ

「炎が煙で隠されてしまうように、意識の輝く光は世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。

慈悲深き神の恩寵によって心が清らかになったとき、世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。

心がマーヤの邪悪な力から解放され、世界の知識を棄て去って無執着となり、自らが輝く至高の実在の智識に到達した人だけが、「世界は実在である」という言葉の意味を正しく知ることができるのだ。

もし真理の知識の本質に沿って世界が変容すれば、エーテルアーカーシャ)から始まる5つの元素でできた世界は至高の真理の実在として見られるだろう。

多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の原初の状態は至福であり、多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単一である。

真我の内に在ることで、この真理を知りなさい。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

(※)8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二二元論(アドヴァイタ)を提唱した。

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(33)

通常、私たち人間は、自分の身体に起きている感覚知覚反応、そして脳に起きているその身体で起きた感覚知覚反応を処理する認知作用を通して、自分自身が世界を体験しており、自分自身も世界も実在している、と認識(結論)しています。

 

それは、この世界に対する自分自身に起きている感覚知覚体験以外の体験が起きたことがないために、その感覚知覚の世界の実在性を疑うということが起こらないからと言えます。

 

このリアルな感覚知覚体験が、自己と世界の実在性の根拠になっている訳ですが、それに囚われている限りは、世界と自己の非実在性を唱えている非二元(アドヴァイタ)を真に理解することは、自己存在の否定を伴うために、多くの場合、心の反応として、受け入れられない、理解できないという抵抗や反発が、起きてしまうことでしょう。

 

しかし、この感覚知覚体験は、脳に起きている一種の「錯覚」なのです。

(言葉を換えて言うならば、世界は、人間の脳が五感を通して体験している一種の幻想です)

 

非二元、アドヴァイタ(不二一元)においては、宇宙の創造は、前回の記事の中でご紹介しました「アジャータ教義」で説かれる非創造論です。

 

アドヴァイタ(不二一元)においては、宇宙も自分自身も存在せず、「至高の一者のみが存在する」と説かれています。

 

このことは、世界と自分自身を超えた領域(時間、空間、因果の法則のない領域)の体験が起こらないと、なかなか理解できないことではありますが、それでも、これが、最高の叡智として、古代のリシ(賢者)達にのみ開示された究極の真理なのです。

 

この究極の真理への理解を深めるために、今回も、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、ラマナ・マハルシが遺された御言葉をご紹介したいと思います。

(二番目のEvolution of the Elements(元素の展開)で書かれていることは、古代インド哲学のサーンキャ学派で説かれている宇宙論(二元)ですが、この創造論は、アジャータ教義ではなく、一般的な推論でも理解できる宇宙の創造論と言えます)

 

 

 

God and the Universe(神と宇宙)

 

この全宇宙は、神の身体である。

この全宇宙は、神、マクロコスモス(Virat Svarupa)である。

この世界は、死んだ物質の世界ではなく、生きる実在である。

絶対神ブラフマンは、形を通した宇宙として、それ自身を顕わす。

創造は、ただ一つの歓びに満ちた自己表現である。

王は、彼自身の遊戯のために、乞食の役を演じた。

聖者は、彼自身の遊戯のために、痴呆の役を演じた。

それと同様、この世界は、ブラフマンのリーラ(Lila)、戯れである。

ブラフマンは、世界として現れる。

多様な物質の世界として輝くのは、ブラフマンだけである。

ブラフマン自身は、石や木、星々として現れる。

一つの意識だけが、多様な宇宙として現れる。

一人の男だけが夢中で多くになるように、一つの神が、多くとして存在している。

全宇宙は、本質においてのみ、ブラフマンである。

これらすべては、ブラフマンにおいて、ブラフマンを通して現れているブラフマンであるだけである。

地球、食物、火、太陽は、ブラフマンの形である。

東、西、北、南は、神の部分である。

空、天国、大洋は、ブラフマンの部分である。

呼吸は、ブラフマンの一部分である。

視界は、ブラフマンの一部分である。

聞くことは、ブラフマンの一部分である。

心は、ブラフマンの一部分である。

この人生は、ブラフマンである。

真理であるブラフマンは、宇宙が生まれ、世界の各サイクルの終りには、分解し、宇宙がその存在を持つ性質である。

結果は、その原因から離れては存在しない。

壺は、粘土から離れて存在しない。

この宇宙は、ブラフマンから離れては存在しない。

それは、いかなる独立した存在をも持ってはいない。

それは、ブラフマンと一つである。

もしあなたが、キャンドルの灯を持ち、それから、あなたは他の何千というキャンドルに灯を点けるならば、最初の灯は、他のすべてのキャンドルの中にないだろうか?

それ故、それは、神と共にある。

すべてのモノを創造しながら、霊、呼吸、存在によって、すべての中にいる。

世界は、神の壮麗さ、光輝、崇高で満ちている。

サトウキビのジュースがサトウキビに充満しているように、塩が水に沁み込んでいるように、ひと塊の塩が、その中に溶かされているように、バターがミルクに充満しているように、同じように、ブラフマンは全ての物質や動物、非動物に充満している。

ブラフマンは、一つである。

顕れは、多い。

一つは、多くを持つ。

燃えたつ火から、お互いに似た火花が何千にも出現するように、それと同じく、一つの不滅のブラフマンから、すべての息をする動物、すべての世界、すべての神々、そしてすべての存在が生じる。

 

 

Evolution of the Elements(元素の展開)

 

彼の意志の力によって、崩壊しない根本である宇宙の実在は、自然の原初の均衡の状態を揺さぶり、次第に、連続して、現在の宇宙の形成にとって必要な区分と元素に展開されるようにと、大自然に最初の刺激を与えた。

最初の展開は、アーカーシャ(虚空)である。

アーカーシャ(虚空)は、何故、最初の展開であるべきなのか?

何故ならば、空間なしには、何も存在できないからである。

プラーナ(微細震動)は、空間(Akasa)上で振る舞う。

振動(Spandana)があった。

振動がある所では、動きがなくてはならない。

動きは、風(Air)の性質である。

それ故、風(Air)は、アーカーシャ(虚空)から生まれた。

動きは、熱を生み出す。

それ故、火は風(Vayu)から生まれた。

熱がある時に、水が生み出された。

暑い日には、身体は汗をかく。

そこで、水は火から生まれた。

水のある所には、食物がある。

地は、食物(Annam)でる。

それ故、地は、水から生まれた。

元素が微細であればあるほど、より強力、パワフルである。

水は地よりもパワフルである、何故ならば、それは地よりも微細だから。

火は、水よりもパワフルである、何故ならば、それは水よりも微細だから。

風は、火よりもパワフルである、何故ならば、それは火よりも微細だから。

虚空(真空)は、風よりもパワフルである、何故ならば、虚空(真空)は、風よりも微細だから。

アーカーシャ(虚空)は、風を助ける。

風は、アーカーシャ(虚空)から生まれ、火は風から生まれ、水は火から生まれ、地は水から生まれる。

宇宙の大洪水の間、地は減少するか、水に巻き込まれ、水は火に、火は風に、風はアーカーシャ(虚空)に巻き込まれる。

全世界、4種類の存在の粗大な身体は、つまり、種子として生まれたもの、水蒸気から生まれた卵性の卵から生まれたもの、胎生の胎盤から生まれたもの、そして喜びのすべての対象は、5つの元素から形成されている。

 

 

 

The Doctrine of Ajata-vada(アジャータ・ヴァーダ教義)

 

粗大な心(マインド)を持つ人々は、アジャータ教義(Ajata-vada)、つまり非創造論を理解することができないので、この種の創造の理論(スリシュティークラマ)が与えられる。

もしあなたが、ゴーダパダ(シャンカラの師ゴーヴィンダパダの師)のカリカ(解説)によって学説を提出されたアジャータ教義を学ぶならば、あなたは、この世界は、過去にも現在にも未来にも存在しないことを見出すであろう。

この教義は、隠遁と瞑想の生活を送る高い段階にある探究者によってのみ、理解され得る。

もしあなたが、アラーハーバードに6か月間滞在するならば、あなたはあなたの生まれ故郷マドラスについてのすべてを忘れる。

あなたがアラーハーバードで生きる間、あなたにとってのマドラスはないし、あなたがマドラスに住んでいる間は、あなたにとってのアラーハーバードはない。

この世界は、心によって創造されたサンスカーラ(過去の残存印象)の集積であるだけである。

もしあなたが意識的に、サーダナ(霊性修養)と瞑想によって心(マインド)を破壊することができるならば、世界は消滅する。

それは、すべてブラフマンのみになる。

あなたは、14日間、小部屋に閉じ籠り、新聞を読むのを止め、深い瞑想に没頭し、世界があるかないかを見てみなさい。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『質問者

「創造の目的とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「創造の理論はいくらでもある。

それらすべては外側へと拡張していくものだ。

それには限りがないだろう。

なぜなら、時間と空間は無限だからである。

しかしながら、それらはみな心の中にしか存在していない。

もし心を見いだそうとすれば時間と空間は超越され、真我が実現される。

見る者なしに見られるものも存在しない。

見る者を見いだしなさい。

創造は見る者のなかに含まれているからである。

なぜ外側を見つづけ、果てのない現象を説明しつづけるのか?」

 

質問者

「『ヴェーダ』には宇宙の起源に関する矛盾した説明が見られます。

聖典のある個所では、最初に創造されたのはエーテルだと言及され、別の個所では生気(プラーナ)が最初に創造されたと述べられています。

そしてまた別の箇所では別のものが、また別の箇所では水がというように、いったいこの矛盾をどう一致させればよいのでしょうか?

これは『ヴェーダ』の権威をそこなわないでしょうか?」

 

マハルシ

「真理の異なった相を、異なった人が異なったときに見て、それぞれが異なった見解を強調するのである。

なぜそれらの矛盾した言葉を気にかけるのか?

ヴェーダ』の本質的な目的は、われわれに不滅のアートマンの本性を教え、われわれがその真我だと示すことにあるのだ。」

 

質問者

「その点については私も納得しています。」

 

マハルシ

「ならばそれ以外のことはすべてアルタ・ヴァーダ(余分な議論)、あるいはものごとの起源をたどろうとする無知な人のための説明と見なしなさい。」

 

質問者

「私は創造の一部分を形成しています。

そのため、その創造に依存したままなのです。

私自身が独立するまでは、創造の謎を解くことができません。

それでもバガヴァーン、あなたにお尋ねします。

私の質問に答えてくださいますか?」

 

マハルシ

「そうだ。「独立しなさい。そしてあなた自身でその謎を解くがいい。それはあなたがすることだ」と言っているのはバガヴァーンである。

この質問をしているあなたは今どこにいるのか?

あなたは世界になかにいるだろうか、それともあなたのなかに世界が在るのだろうか?

あなたは眠りの間も自分が存在していることを否定できないが、世界が知覚されていないことは認めるに違いない。

その世界はあなたが目覚めるときに現われる。

では、それはどこにあるのだろうか?

明らかに世界はあなたの想念なのだ。

想念とはあなたが投影したものである。

はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。

世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。

そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造の謎も解明されるのである。

それゆえ、私は言うのだ。「真我を探究しなさい」と。」

今一度言おう。

世界があなたのもとへ来て、「なぜ『私』は存在するのか?

『私』はどうして創造されたのか?」と尋ねるだろうか?

その質問をするのはあなたである。

質問者は彼自身と世界との関係を確立しなければならない。

彼は世界が彼自身の想像であることを認めざるをえない。

いったい誰がそれを想像するのだろうか?

彼に「私」を探させ、それから真我を探させるがいい。

そのうえ、科学的、神学的説明はどれも一致するものがない。

そのような理論の多様性が、説明を探し求めることの無益さを明白にしている。

そのような説明は、単に精神的あるいは知的なもの以上の何ものでもない。

それでも個人の観点にしたがって見れば、それらすべては真実なのである。

真我の実現された状態のなかに創造はない。

人が世界を見るとき、人は真我を見ていない。

人が真我を見るとき、世界は見られていない。

だから、真我を見なさい。

そして創造はなかったのだと悟りなさい。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

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