神秘へ至る道
前回の記事のタイトルは、「神秘への扉」でした。
「神秘」とは、文字通り、神の秘(密)ということになります。
探求者が歩もうとしているのは、この神の神秘へ至る道です。
しかし、その道の途中には、この世とあの世を隔てている扉があり、簡単には、その扉を通過することはできません。
そして、その上、こちらからあちらは見えません。
その扉には、エゴという名前がついています。
エゴが限りなく透明になれば、扉は消滅します。
すると、こちらとあちらの間の境は無くなります。
それが、神我一体(梵我一如)ということです。
ナーナさんは、これを達成された数少ない人間のお一人です。
彼女には、もはや、こちらとあちらを隔てる境が無いので、神秘は存在しません。
神秘とは、こちらとあちらを隔てている扉がある人にとってのみ、あちら側が神秘であり、探求する価値のあるものなのです。
隔てているものが無くなった人には、すべては明知となるので、神秘はありません。
真の自己であるアートマンの直接体験を通して、ただ一つであるブラフマンを識った者は、自分が神だと覚ったわけですから、もはや、それ以上、神を追い求めることはないでしょう。
求めるモノが、求める者だったのです。
しかし、人間には、この究極の悟りに至るまでには、ただの自己と真の自己との間に強固に立ちはだかる扉があります。
この扉を開くことは、最終的には、人間が持っているいかなる力を使っても不可能でしょう。
それは、神だけが、その扉を開く鍵を握っているからです。
その扉を開こうと努力する人にのみ、神は微笑み、恩寵の扉は開きます。
ナーナさんは、人間の解脱への鍵を持って、この世に戻って来て下さいました。
その恩寵の扉を開けることができる鍵を授かるには、乗り越えなくてはならないひとつの試練があります。
それは、
神のためになら、すべてを捨てることができますか?
ということです。
スワミ・ラーマも書いています。
『選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望
か、ということです。
ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。
それが奥義なのです。』
(聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝くー スワミ・ラーマ)
☆ 3月末発売予定
わたしは霊界 精神界 物質界全部の根源
わたしから万有万物は発展し展開する
この真実を知る賢者は
全身全霊でわたしを信仰し讃美する
(バガヴァッド・ギーター第10章8)