永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(43)「死」③

前回の記事では、「死」という現象が私たちに起きた時に、実際には、どのようなプロセスが生じるのか?ということを、ヨーガ的な見地から見た解説をご紹介しました。

 

世の中には、「臨死体験」と呼ばれるような「死」の一歩手前まで行った人たちの生還後の感想などを耳にすることもあるかと思いますが、それは、謂わば、主観的な、個人的な体験談と見ることができると思われます。

 

ここでご紹介しているヨーガ的な見地からの「死」についての解説とは、多くのヨーガ修行を通して得られた体験に共通している事柄を、一つに纏めたもので、ある種の実験結果の総論と言えるような誰にでも共通して起こる現象を述べた客観的な記述と見ることができます。

自転しながら、地球が太陽の周りを回っているという科学的事実は、地動説を個々人が信じるか?信じないか?とは別の話であるように、私たちが、「死」をどのように捉えるか?は、起こる現象とは、全く関係がありません。

 

誰でも避けることができない「死」について、生前に少しでもそのプロセスを知り、考えることは、同時に、「生」について知り、考えることでもあります。

 

目に見え、体験できる世界を「この世」とするならば、死後の世界は、「あの世」ということになりますが、「この世」にいる間に、「あの世」について多少なりとも知ることができれば、知った分だけ、死に対して心の準備ができることでしょう。

 

そして、その心の準備が整えば、死に対する恐怖心は、薄らぐことでしょう。

 

お化け屋敷のお化けも、その正体が予めわかっているならば、どんなお化けが現れようとも、特に大きな恐怖を感じることはないでしょう。

それと同じで、予め、死の際にどのようなことが起こるのか?を知っていたら、死に対する恐怖心は和らぐことでしょう。

 

今回は、初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次に4年前に翻訳出版いたしましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「あの世」について、そして、最後は、ご参考までに、チベット仏教の僧侶が、死に赴く人の枕元で唱えるお経「チベット死者の書:バルドゥ・トェ・ドル(チェンモ)」より、ヨーガとの関連が深いと思われる箇所をご紹介したいと思います。

チベット仏教は、タントラ仏教と言われているように、顕教と呼ばれる大乗仏教に対して、密教と言われていますが、ヨーガにおけるタントラ的な教義と共通する観念や理論が多いと言えます。

それから読み取れることは、チベット仏教で言うところの「不生の法身(ダルマ・カーヤ)」とは、ヨーガで言うところの「真我(アートマン)」であり、究極の存在は、唯一無二であるため、言葉上では異なっていますが、同じものを指していると思われます)

 

 

Death Pangs(死の苦しみ)

 

死の際には、痛みはない。

無知な人々は、死に関する多くの嫌悪や恐れを創り上げて来た。

ガルーダプラーナやアートマプラーナ文献では、死の苦しみが72000匹の蠍の針によって引き起こされる痛みと同程度であると記述されている。

これは、聞き手や読み手の中に恐怖を生み出し、彼らに解脱(Moksha)を求めて働くようにするためだけに書かれている。

スピリチュアリズムにおいては、死の間、少しの痛みでさえないという光明を得た魂からの数多くの報告がある。

彼らは、明らかに、死の際の体験を記述し、彼らがこの物質的身体の脱落によって大きな負担から解放され、彼らが肉体からの分離の時に完全なる平静を楽しむと述べている。

マーヤ(幻妄)は、身体における痙攣性のひきつりを生み出すことで、傍観者の中に無益な恐れを創り出す。

それは、自然であり習慣である。

死の苦しみを恐れてはいけない。

あなたは不滅のアートマンなのだ。

 

 

Prayer for the Dead(死者への祈り)

 

故人の魂は、死の直後は、気絶、或いは、無意識の状態にある。

彼らは、彼らの以前の粗雑体から分離したと感じることができない。

祈り、キールタン(神の御名の称名)や、親族や友人からの良い想念は、故人の魂へ真の慰めを与えることができる。

彼らは、潜在的な波動や彼らの心の鈍くなった状態における目覚めを創り出し、彼らの覆われた意識を取り戻させる。

魂は、彼らが彼らの粗雑体の中に実際にはいないことを悟り始める。

その時、彼らは、虚空(エーテル)の狭い川、境界線を渡って行く努力をする。

それは、ヒンドゥー教徒にとっては、ヴァイタラニ(Vaitarani)として、ゾロアスター教徒にとってはチンナット橋(Chinnnato-bridge)として、イスラム教徒にとってはシラット(Sirat)として知られている。

故人の魂が、平和に沈み込んで行く時に、そして彼らが天国で栄光ある目覚めを持とうとしている時に、彼らは泣いて嘆き悲しんでいる彼らの友人や親戚によって、世俗的な人生の鮮やかな思い出の中に目覚めさせられる。

喪に服す人々の想念が、同じような波動を彼らの心の中に創り出し、激しい痛みと不快さを引き起こす。

そして、制御の利かない彼らの親族の悲しみは、彼らのアストラル次元から、彼らを引きずり下ろす。

これは、天国への道の途上にある彼らをひどく妨害するかもしれない。

これは、彼らにとって、重大な損害を生み出す。

 

 

Last Thought-forms(最後の想いの形)

 

人の最後の想いは、彼の未来の運命を支配する。

それは、彼の未来の誕生を決定する。

放埓な男の最後の想いは、彼の女性についてだろう。

アルコール中毒患者の最後の想いは、彼の酒瓶の栓についてだろう。

戦士の最後の想いは、彼の敵への銃撃についてだろう。

一人息子にひたすら愛着を感じている母の最後の想いは、彼女の一人息子についてだろう。

バラタ王は、慈悲から鹿を看病し、鹿に愛着を感じるようになった。

彼の最後の想いは、鹿についてであった。

それ故、彼は鹿に生まれなくてはならなかった。

人は、常に彼の心を神に固定し、平和に死にたいと願っている。

それは、バガヴァッド・ギーター、ヴァーガバタ、ヴィシュヌ・サハスラナーマ、その他の聖典が病人の死の床で詠唱される理由である。

彼は、話せないかもしれないが、それでも彼は、彼に読まれているものを聞くかもしれない。

これは、彼が身体や病のことを忘れ、神について考えることを助けるだろう。

彼の記憶が弱ると、これらの聖典の聖句が彼に彼の真の性質を思い出させるだろう。

病が身体を苦しめる時、彼の意識が消えそうな時に、死の際に神意識を維持することは難しい。

しかし、彼の心を絶え間ない修練を通して神に固定しようと努力し、生涯を通して、心を訓練した人間にとっては、最後の想いは、神についてだけであろう。

それは、一週間か一か月に一日や二日の時たまの練習によっては起こらない。

それは、一生涯の努力と奮闘である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死のときに、魂は外側の装いである肉体を脱ぎ捨てます。

ヤマ(死神=閻魔)はナチケータに肉体が死んで滅びた後、魂は存在し続けると語りました。

物質的な肉体、あるいは物質的な宇宙の現象の助けなしで、魂が残存する霊的な領域があります。

これらの領域は感覚器官には認識できず、霊的な直感を通してのみ知覚され得ます。

悟らなかった魂たちは、死後ある不特定な期間、死んだ魂の領域に残存します。

それらは、この次元で真の実在の真の性質を悟ることができなかったため、死の通常のプロセスを経験したのでした。

死に伴う恐れのほとんどは、死が苦しいかもしれないという恐れです。

死のプロセス自体は、苦しくはありません。

それは単に状態を変化させるだけです。

準備不足と執着は、死のときに経験される苦しみの原因です。

死は、準備がなされ、アートマンの叡智(えいち)を獲得した人にとっては、けっして苦しいものではありません。

このような個人は、肉体や肉体的な感覚から離れ、肉体的な変化に影響されません。

魂が物質次元や、この世のものや個人に非常に執着しているときは、死は苦しみであり、悲惨な状態へと至るかもしれません。

生と死の間には、プラーナが機能を停止する中間の状態(※1)があります。

人はこの瞬間の準備をしていないと、精神的な責め苦を経験し、他人に何かを説明、表現することはできないでしょう。

実在を知っている人は、この悲惨な状態からは救われます。

死への移行において、外側の乗り物が完全に落とされる前に悟らなかった人々は、喜びや苦しみのそれぞれのいろいろな一時的な段階、あるいは領域を経験しますが、それは以前に成したポジティブまたはネガティブなカルマにかかっています。

例えば、ピトルローカ(※2)では、私たちは祖先や親しい人に逢(あ)い、スワルガローカ(※3)では、いろいろな楽しみを楽しみます。

チベット死者の書ヒンドゥー教のガルーダプラナは、肉体を捨てるプロセスで人が通り過ぎる段階を広範囲にわたって説明しています。

物質的な肉体が落とされた後でさえ、残存する構成要素の純粋か不純かにより、低い天国の領域と高い天国の領域という異なる天国の領域があります。

無知な者にとっては、死は、天国のような、あるいは地獄のような夢のような光景がところどころに入っている長くて深い眠りです。

死んだ魂と意思伝達したと主張する人々は、幻覚を起こしているか嘘(うそ)をついているのです。

誰かが深い眠りにあるとき、誰かと意思伝達することは不可能です。

悟った魂のみが、いつでも十分に意識的であるので、死後、他者と意思伝達することができます。

善い行いをして、正しくて利己的でない人生を送り、今生でいくつかの完成を手に入れた人々は、最も高次な領域で、神聖なる自己のはっきりとしたヴィジョンを楽しむことができます。

しかしながら、最も高次への到達と自己の自覚はこの生だけで持つことができると賢者は言います。

ピトリローカとスワルガローカは最高の真理を表すことはできません。

自由は、この領域では達成されることはできず、天国のいろいろな楽しみは、魂がアートマンを悟ることを邪魔します。

自己認識は、死後ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

死後の死んだ魂の領域で、真の自己を悟ることができると信じている人々は、悲しくも幻滅を感じるでしょう。

肉体の消滅の前に、アートマンの不滅の性質を悟らない人々は、人間の誕生を通してやって来る大いなる好機を失うでしょう。

ブラフマンの達成は、あの世ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘(さや)から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。

感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。 

死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触するようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。

これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマン接触するにはどうしたら可能でしょうか? 

もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。

智慧(ちえ)と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟らされることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。

無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰ってきます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。

生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何度も何度も生まれます。

この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

 

死は恐ろしいものではありませんが、恐ろしいのは、死の恐れです。

死は、ほとんど中身のない、まったく喉の渇きを癒さないカスを噛(か)んでいるようなものであり、この世を楽しむことに彼らの時間とエネルギーを浪費した人々に慰めを与える母親のようなものです。

死は、点であって、終止符ではありません。

死はただの体験であり、誰も逃れることができない変化でしかありません。

その準備をしない人は愚か者です。

真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。

現代の科学は、この世のすべては、他のエネルギーの粒子を引き付けようと、エネルギーの粒子を駆り立てる振動の産物にすぎないことを発見しました。

固体は、連続的に、これらの空の粒子の状態になり、それから電磁波になります。

それは、最後には、エネルギーの形であると理解されるようになりました。

ヨーガの哲学においては、この宇宙に存在し、起こるすべては、宇宙エネルギー、あるいはプラーナが原因である運動と振動の結果です。

この宇宙のすべての生物と無生物は、プラーナの振動によって作られます。

このプラーナの振動は、すべての宇宙的な現象の根源であり、宇宙で起こるすべての出来事の第一原因です。

プラーナは宇宙的生命の原理であり、それ自体の法則を持っています。

プラーナなしには、宇宙は存在しないでしょう。

著名な科学者であるサー・アーサー・エディントンは、物質という概念は基本的な物理学から消え、波動の周期性の概念により置き換えられてきていることを、私たちは思い出さなくてはならないと言いました。

現代科学は、実験により、物理学の世界が精神的な現象であると示唆しています。

それゆえ、物理学が、事実上、形而(けいじ)上学に帰結したのは不思議ではありません。

したがって、古代の師たちの直感的な啓示を確証しています。Sarvam khalv idam Brahma (確かに、これすべてはブラフマンなり)

最初のプラーナの現れは、アカーシャである空間で、それは次第に現象的な宇宙へと発展しました。

ヴェーダンタによると、宇宙には死んでいる物質のようなものはありません。

全宇宙は生きている有機体です。

ヤマは、ナチケータにこの現象界に存在するものは何であれ、プラーナの振動の現れにすぎない、と説明しました。

リグ・ヴェーダによると、宇宙的な力は、展開が始まる前に存在し、現れた宇宙の消滅後も存在し続けるでしょう。

ひとつの巨大な源から、すべての自然の力が、突然現れました。

宇宙は、宇宙の根本であるひとつなるものの現れです。

この宇宙においては、プラーナの振動の消失と獲得のようなものはありせん。

プラーナの力により、発展の力を通して、内側と外側の世界は生まれます。

全世界は、本質においては永遠です。

しかし、その外側の形においては、永遠ではありません。

すべての宇宙の外的な形は破壊され、形のない物質である宇宙の母なるエネルギーが永遠から永遠に存在し続けることでしょう。

生命があるところには、知性の現れがあります。

知性と生命は相伴っています。

この知性は、内なる自己のものであり、その手段としてプラーナという生命力を持っています。

プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己なのです。

対象的な世界は、単に宇宙の半分です。

私たちが感覚で知覚するものは、完全なる世界ではありません。

心、思考、感情を含むもう半分は、外的な対象物の感覚の知覚によって説明することはできません。

五感は、個人的なエゴが外的な世界と接触する主要なドアです。

これらの五感は、私たちが外的世界から振動を受け取るゲートなのです。

これらの振動は、最初は脳細胞に運ばれます。

分子の変化はこれらの細胞で起こり、振動は順番にエゴにより感覚へと翻訳されます。

次に、感覚は知覚概念に形成され、一連の精神的なプロセスの後、観念に変換されます。

これは、終わりなく続きます。

あなたが何かの対象物を考えるとき、あなたは即座に、そのものの精神的なイメージを受け取ります。それは観念と呼ばれます。

もし、知的な心が存在しなければ、どんな認識もないでしょう。

そういうわけで、ヴェーダンタは見解を述べています。

〝感覚器官よりも感覚は微細であるが、心は感覚を超えている。そして、知性は心を超え、宇宙的な自我は、知性よりも偉大である〟

プラーナの力は、肉体における異なった機能により、プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ、サマーナという5つの名前を与えられています。

人間の身体では上昇する空気はプラーナで、下降する空気は、アパーナです。

ヴィヤーナはすべてのランプを貫く炎のようにさっと回り、体中ですべての流動体とエネルギーの循環を維持しています。

ダーナは、死の際に、体から魂のガイドを務め、サマーナのおかげで、栄養が吸収されます。

魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。

話す、掴(つか)む、動く、妊娠する、排泄(はいせつ)するという行為の5つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と5つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。

仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されていません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。

生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの2つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディ(超越意識)を達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

(「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」 by スワミ・ラーマ)

 

(※1)中有と言う。仏教では、人が死んでから次の生をうけるまでの49日間を指す。チベット仏教では、バルドゥと言う。

(※2)祖先が住む世界(ローカ=星界

(※3)神々が住む天国

 

 

 

『第一の光明の体験

 

まずはじめに『チカエ・バルドゥ(※1)における光明のお導き』とはいかなるものかを述べよう。

理解力は良いがまだ覚っていない人と、覚ってはいるが実践の浅い人と、教えの伝授を願っている一般の凡俗な人たち(凡夫)のすべてに対して、この時点においてこの『光明のお導き』が授けられるならば、第一の光明である〈根源の光明〉が覚られて、バルドゥを経過することなく死者の意識は上方への一直線の大道を通って、生まれつきそなわっていたダルマ・カーヤ(不生の法身、※2)を獲得するであろう。

外に吐く息が途絶えてしまって生命の風(ルン、※3)が叡知の中枢脈管(※4)に帰入すると、心は無用の働き(戯論)を離れた光明としてひときわ輝く。

その後に生命の風(ルン)が中枢脈管から逆流して、右・左の脈管(※5)に流入すると、バルドゥの現出が一瞬のうちに起こる。

そこで生命の風(ルン)が右・左の脈管に流入しないうちに、死におもむく者にお導きを授けるべきである。

お導きを授ける時間の長さは、外に吐く息が途絶えて内にある息が留まっているうちに、彼に対して朝食に要する時間ほどの長さでお授けすべきである。

 

第二の光明の体験

死におもむく者が、第一の光明において自身の本体を覚ったならば、彼は解脱できたであろう。

しかしもしも第一の光明において覚ることができないままでいるならば、さらに第二の光明と呼ばれるものが現れるであろう。

これまた時期はというならば、外へ吐く息が途絶えて、一回の食事に要する時間を少し過ぎたぐらいの時である。

死者の生前の善業あるいは悪業によって、右の脈管あるいは左の脈管のいずれかふさわしいものの方に生命の風は流れ込む。

そして、いずれかの適当な孔(※6)から抜け出る。

彼の意識は明るい道に出たように明晰になる。

このようになるまでにまた一回の食事に要する時間がかかると言われるが、脈管の善いか悪いかにより、また生前における仏教の実修の有るか無いかによって、要する時間に差異がある。

こうして死者の意識は、体外に抜け出るが、死んでいるのか、死んでいないのか、その自覚は死者自身にはない。

死者にはかつてと同じように親族や関係者が見えるようになる。

彼らの悲観の叫びも聞こえる。

カルマン(業=カルマ)が引き起こす、死者を錯乱させるような恐ろしい幻影はまだ現れできていない。

今のうちに、ヤマ王(閻魔)のもたらす畏怖がまだ現れてきていないうちに、教訓(教え)が授けられるべきである。』

チベット死者の書

 

 

(※1)バルドゥ(中有)には、六種類がある。

  (1)母胎より誕生してこの世に生きる姿のバルドゥ(キエネエ・バルドゥ)

  (2)夢の状態のバルドゥ(ミラム・バルドゥ)

  (3)禅定・三昧状態のバルドゥ(サムテン・バルドゥ)

  (4)チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)

  (5)チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)

  (6)シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)

 

(※2)仏の身体についての三つの考え方。法身・報身・化身。

法身は真理そのもの。

永遠の理法の体現で、一切の存在はこれを根拠とし、これのあらわれとされる。

報身は、唯識で「受用身」とも呼ばれ、過去世における願いと修行の「報い」として数限りない優れた美徳をそなえ、その楽しみを享受している仏の姿。

化身は変化身とも呼ばれ、救いを受ける人々の素質・能力に対応していろいろな時・所において、人・鬼神・動物等のさまざまな姿をとって化現する仏の姿。

 

(※3)ヨーガでは、プラーナ(生気)。生命エネルギーのこと。

 

(※4)ヨーガでは、生気(プラーナ)を通す微細次元の導管をナディと呼び、その中でも、脊髄に沿って尾骶骨から脳まで伸びている中央導管をスシュムナーと呼んでいる。

 

(※5)ヨーガでは、右の脈管をピンガラ(別名、スーリアナディ=太陽の気道)と呼び、左の脈管をイダー(チャンドラナディ=月の気道)と呼ぶ。

 

(※6)ヨーガで言うチャクラのこと。微細次元の神経叢、エネルギー中枢で、身体に7つ、或いは、それ以上、あるとされている。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(42)「死」②

前回から、「死」について考える上でのヒントをご紹介しています。

 

それは、「解脱」つまり、インドで発祥した宗教思想であるヴェーダに大きな影響を受けているヒンドゥー教ジャイナ教シク教などは、すべて、生と死を繰り返すと言われている「輪廻」からの「解放」(解脱)が、その主要な教義の中心にあり、また、日本に一番馴染みが深い「仏教」の教えの中にも、「輪廻転生」からの「解脱」が、仏教で説かれている「ニルヴァーナ」(涅槃)という境地に置き換わっていることは明らかで、仏教の経典に触れたことがある人なら、生と死の繰り返しから自由になることが、仏教を通して人間が到達し得る最高の境地となっていることは、容易に理解できることでしょう。

また、ヨーガにおいても、その根幹には、「解脱」(Moksha)を目指すことが、サーダナ(霊的修練)の最終目標となっていますので、これらの宗教や教義や修練法は、それぞれ異なっていても、共通している唯一のことがあり、それは、いかに生きるか?ということではなく、いかに死ぬか?ということにあると言っても過言ではないと言えます。

 

そのためには、一般的には忌み嫌われている「死」について、普通なら考えたくもない、考えるだけで悲しくなり、恐ろしくなる人々にとっては、「死」について生前に学んでおくことは、人間の宿命として自分自身の将来に必ずや起こる「死」そのものを乗り越えていく大きなヒントになり、それによって、「死」に対する捉え方が変わり、「死」は忌むべきものであり、哀しい苦しいことである、というような「死」に対する先入観や思い込みが変わる可能性があります。

また、その延長で、生と死の繰り返し(輪廻転生)があると思っている人びとにとっては、その繰り返し(輪廻転生)自体をも乗り越えていくという私たち人間に秘められた潜在的にもっている可能性が開花するきっかけともなり得ます。

(もちろん、これは、自死を推奨している訳はなく、むしろ、生と死の繰り返し(輪廻転生)の理論からすれば、自死しても、生と死の繰り返し(輪廻転生)から抜け出せるわけではありませんので、一時的に、肉体を離れても、また、戻って来るというのが、輪廻転生の考え方ですから、その繰り返しを永久にストップすることを目指すならば、どんなに苦しくとも、安易な考えを抱かない、ということを生涯を通して、心に銘記しておくことは、生と死の繰り返しからの完全なる自由を目指して道を歩む上での基本的な心構えとして、とても大切です)

 

前回の記事では、スワミ・シヴァナンダの御言葉「死は、5元素(地水火風空)の分解である。」という内容と、その次にご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」でご紹介した文章は、物質である肉体に起こる現象について書かれたものです。

つまり、私たちの肉体は、地元素としては、37兆個とも言われている細胞や骨、水元素としては、血液や体液、胃液、膵液、唾液などの分解酵素液、火元素としては、消化作用(体温約40℃で体内で食べたモノを消化吸収しています)や体温、風元素としては、呼吸、運動や感覚に関する神経伝達及びその結果として生じる心の働き、そして、空元素としては、(これが一番難しいのですが)、「虚空」つまり、実体のない「 」であり、一種のスペース(空間)と考えられており、それだけが、唯一、万物に共通であり、分かち難いモノとして存在しており、これらの五元素が元になって、この宇宙は、この世として成り立っています。

そして、重要なことは、私たちが「死」と呼んでいる現象は、所謂、肉体に起こる現象であって、それが、すべての終りではない、ということなのです。

ヨーガやウパニシャッドでは、肉体の消滅とは、火元素(火葬や腐敗=微生物の消化作用)によって起こる地元素と水元素の消滅を指し、風元素や空元素は、肉体と一緒には消滅しない、とされています。(前回ご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」の文章の中で、『次いで、ブラフマランドラの意思、理智、それにすべての感覚器官が五種の微細生気からなる球体とともに心臓部へと向かい、そこで原因体を取り囲みます。こうして、感覚器官の持つ力は五種の微細元素からなる球体中に納められますが、微細体のすぐ内側には、微細生気球、続いて我執球、次に心素球があり、中心には真我が納まっています。そして、真我がこれらの光り輝く球体をその周りに引きつけたまま、肉体から抜け出してゆくのです。』というのは、そのことを言っています。)

 

ヴェーダでは、生命エネルギーの源である「魂」は永遠であり、肉体が消滅した後も、在り続けるとしています。

そして、私たちの本性は、この生命エネルギーの源である「魂」、すわなち、真我(アートマン)なのです。

ですから、私たちは、やがて滅ぶことになっている一番外側の鞘である「食物鞘」である肉体ではありませんし、更には、この世を体験している「心」でもないのです。

 

しかし、反対に、「身体」や「心」を自分だとし、自分と言う個我が実体のある存在だと思い込んでいる場合には、それらの消滅は、個我に大きな苦しみや悲しみをもたらすことでしょう。

それでも、その苦しみや悲しみを乗り越える方法があり、その苦しみと悲しみの繰り返しから自由になる道があることは、「死」が宿命である個我の私たちにとっては、大きな救いと言えるでしょう。

 

前回は、スワミ・ヨーゲシヴァランダの「魂の科学」から「肉体の死」についてご紹介しましたので、今回は、その反対の「誕生」において、どのような現象が起きているのか?をご紹介したいと思います。

その次に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からのご紹介と、4年前に翻訳出版いたしましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」に書かれてある「死を学ぶ」をご紹介いたします。

 

 

 

精子卵子とが結び付き、いかにして母体の中の小さな胎児の身体が造られるか、そのきっかけとなる事柄を考えてみて下さい。

このとき真我は直接この胎児の中に入ってくるのです。

ですから、よく言われるように、真我は地上に降り注ぐ雨とともに地中に浸み込み、まず食物の中に取り込まれ、次に体内に摂取される滋養分に姿を変えて次第に精液の中に取り込まれ、精子卵子とが結合した際に胎児としてその姿を現してくる、などと説明する必要は全くありません。

実際、真我は、私達の身体中に入り込む力を持っていますし、また、身体のどこからでも自由に抜け出すこともできます。

真我が身体内に宿る時は、さしずめ、王様が家臣を従えてその居を定める場合とよく似ていると言えます。

その家臣とは、この場合、二十四とか二十五とか言われる実在原理(Tattwa)のことを言います。

それはまず、根本自生(Prakriti)、大なる実在原理(Mahar Tattwa)、宇宙我執、五種の微細元素の八つの実在原理ですが、これらは総称して八種の根本自生とも言われています。

と言いますのも、これらに続いて生じて来る事物の質料因となっているからです。

そして、知識に関係する五つの知覚感覚器官、運動に関する五つの運動器官、五つの粗雑元素(Mahabhuta=地水火風空)、それに意思を合わせた十六種の実在原理が、前述の八種の根本自生から生じてくる結果なのです。

こうして二十四の実在原理が生じてくるのですが、ここで私は、大なる実在原理を心素(Chitta)と理智(Buddhi)とに分けて考えていますので、全部で二十五の実在原理があるということになります。

胎児が体内に宿る時、これら二十五の実在原理も、ちょうど、卵のような形となって一つに集まり、この楕円形をした胎児の真中に真我が入ってきます。

こうして胎児の中に宿った真我は、心素を介してその生命力を伝え始めますので、胎児は、五種の粗雑元素の中でも特に善性が勝っている部分のみを取り入れて、次第に子供の姿へと育ってゆくのです。

こうして胎児は大きく育ってゆくわけですが、だからと言って真我を取り巻く微細体や原因体もともに大きく育ってゆくかと言うと、決してそうではありません。

それはたとえば、今、一つの光を洞窟の内部に置くとしますと、その光はその洞窟内だけを照らし出しますが、その光を、今度は洞窟よりもさらに広い部屋の中に置けば、その広い部屋全体を照らし出します。

これと同じように、胎児が大きく育ってゆく時、これら二つの身体(微細体や原因体)の光も、その胎児の肉体の大きさにつれて広がってゆくわけです。

また、生殖行為から生まれた胎児の中に、もしも真我が宿らなかったとしたら、その胎児はそれ以上育ちませんし、時には、ある種の業(Karma)の結果、胎児が大きく育っていても流産してしまったりする場合もあります。

そうした時には、真我も身体内から抜け出してしまいます。

つまり、この生命活動を有する真我と一緒でなければ、生命を持ち合わせていない各元素は、どんな働きもなし得ません。

こうして、母親の血液中に混ざっている善性優位の五種の粗雑元素を吸収しながら、胎児は大きく育ってゆくのです。

そして、胎児の成長につれて精妙な二つの身体の光も大きく広がってゆきます。

これら微細体と原因体とは、大きくなったり小さくなったりする事ができますので、これらの身体が宿る肉体の大きさに合わせて、その大きさを自由に変えています。

つまり、肉体がどのような大きさになっても、その肉体全体にゆきわたって働けるようになっているのです。

以上にように、胎児の形をした食物鞘は、次第に大きく育ってゆきます。』

(魂の科学 by スワミ・ヨーガシヴァラナンダ)

 

 

 

Signs of Death(死のサイン)

 

死のリアルなサインを見いだすことは、大変難しい。

心臓鼓動の停止、脈拍や呼吸の停止は、死の実際のサインではない。

心臓鼓動、脈拍、呼吸、四肢の死体硬直、体のじとじとする汗、体温低下は、死の一般的なサインである。

医師は、眼の角膜反射があるかどうかを見つけようとする。

彼は、足を折り曲げようとする。

呼吸や心臓鼓動の停止があり、それでも、しばらくして人が生き返るという幾つかのケースがあったので、これらのサインは、死の本当のサインではない。

ハタ・ヨーガの行者は、箱に入れられ、地中に40日間埋められる。

その後、彼らは取り出され、そして彼らは生き返る。

脈拍は、長い間、止まるかもしれない。

怪しい動画の場合では、脈拍は二日間止まる。

多くの場合は、記録されてきた。

心臓鼓動は、何時間、何日間かは、止まるかもしれないが、その時は、回復することができる。

何が死の実際の最終的なサインであるのかを言うのは、極めて難しい。

体の分解と腐敗が、死のただ一つの最終的なサインかもしれない。

誰でも、分解が始まる前に、死後直ぐに埋葬されるべきではない。

人は死んでいると思うかもしれないが、ところが事実は、彼は、トランス状態にあって、カタレプシー(強硬症、擬死)エクスタシー(恍惚状態、法悦)、或いは、サマディ(超越意識状態)にいるかもしれない。

トランス、サマディ、カタレプシーやエクスタシーは、死に似た状態である。

外面的なサインは、同じである。

心臓疾患を患っている人は、特別な時間の後に、心臓鼓動が再び開始するかもしれないので、直ぐに埋葬されるべきではない。

埋葬は、身体が分解し始めた後にだけ、執り行われるべきである。

 

 

Soul’s Journey after Death(死後の魂の旅)

 

人が死ぬ時、彼は、彼と共に、5つの感覚知覚器官、5つの運動器官、5つのプラーナ、心(マインド)、理智(ブッディ)、チッタ(潜在意識)、我執(アハンカーラ)、次の生の形成を決定する変移するカルマの貯蔵所から作り上げられている永遠の微細体(アストラル体)を運ぶ。

魂は、すべての感覚を結び、退く。

油が切れると、ランプの炎が段々とほの暗くなって行くように、肉体的な感覚は、徐々に朧げになって行く。

微細体(Sukshma Sarira)は、霧のように肉体から消え去る。

魂は、主要な主生気(Mukhya Prana)、感覚器官、心(マインド)、によって伴われ、それ自身の無知、良い悪い行為、過去の存在によって残された印象を伴って、古い身体を去り、新しい身体を手に入れる。

それが、一つの身体から別の身体へと通過する時、新しい身体の種子である要素の微細な部分によって覆い隠される。

魂は、やって来る身体のビジョンを持つ。

ヒルや芋虫が、それが一つの物体の影響力を失う前に、別の物体をつかむように、魂は、現在の身体を離れる前に、やって来る身体を想像する。

 

 

Dissolution of the Elements at Death(死の際の元素の分解)

 

この肉体は、粗雑元素である地水火風空の五大元素から成っている。

神々たちは、神聖、或いは、光輝の身体を授けられている。

火元素は、その中でも他よりも優勢である。

人においては、地元素が勝っている。

水中生物の場合は、水元素が勝っている。

鳥の場合は、風元素が勝っている。

身体の固さは、地の割合による。

流動性は、水の割合による。

あなたが身体に感じる温かさは、火による。

前後に動くことや他の活動は、風による。

空間は、アーカーシャ(宇宙)、エーテル(空)による。

個の魂(Jivatman)は、5つの元素とは異なる。

死後、これらの元素は分解される。

それらは、自然の無尽蔵の貯蔵庫の中に、原初の源に行き着く。

地元素は、地球の貯蔵庫に行き、加わる。

他の元素もまた、それらの源へと還って行く。

器官の主要な機能は、統括する神々と融合する。

視覚は、ヴィジョンの力を持つ太陽へ、話すことは火へ、呼吸は風へ、耳は方位へ、体は地球へ、体毛は一年生植物へ、髪の毛は木々へ、血液と精液は水へと行く。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『ヤマはナチケータに生を理解するには、死を理解することが大切だと教えました。

そして同様に、生は死を理解するために理解されなくてはならないと。

ナチケータは、死は生の終わりではなく、継続する物語における単なる一時的な休止だと学びました。

死は単に、ニューヨーク市のグランドセントラル駅のような駅――ちょうど特別な列車を降りて別の列車に乗る準備をする場所――での停車です。

これは、生または死の意義を減らすことではありません。

どのようにして生は導かれるのか、言い方を換えると、グランドセントラルへ行く途中で選ぶ列車は、私たちが到着するとき、私たちがどんな心の状態であるか、そして、私たちの旅における次の移り変わりのために、私たちがどれくらい用意できるかを決定します。

私たちは散らかった貧しい列車を拾うこともできるでしょうし、きちんとしたきれいな列車を拾うこともできるでしょう。

私たちはあらゆる種類の誘惑と娯楽、踊り子たちやビデオゲーム、そして富と名声の列車を拾うこともできます。

ひとたび私たちが、あらゆる娯楽と肉体的感覚の満足に釘づけにされると、その列車を降りるのは困難になることでしょう。

または、私たちがグランドセントラルで列車を降りる時間がやって来ると、努力なしに喜んでそうすることができるように、私たちは道に沿った自然の光景を楽しむことを学ぶ列車を拾うこともできるでしょう。

ナチケータは、正しい列車を拾った人の一例です。

彼は知識の列車以外にどんな列車も持とうとしませんでした。

何も彼に興味を持たせられませんでした。

長寿、富、反対の性別、子供たちは、彼の実在の知識と生と死の秘密への願望に対して見劣りがしました。

ナチケータにとっては、生と死の秘密だけが持つに値するものだったのです。

内側に居住するアートマンの永遠の本質は、ウパニシャッドの中心的なテーマです。

これは死の神秘の秘密であり、生を理解するための鍵です。

神はすべてに浸透し、私たちの生命の命である魂に生命力を吹き込んでいるアートマンです。

アートマンは永遠に存続し、不変であり、故に死ぬことはありません。

滅びるものだけが死なねばなりません。

滅びるものは、不滅なるものの発見における道具として仕えるためだけにそこにあります。

死ぬのは、この世の次元を訪問する際に、魂の覆いを提供している外観である体です。

内側の自己は影響を受けないままです。

それは永遠なる存在なので、死にませんし、死ぬことができません。

バガヴァッド・ギーターは述べています。〝彼は非顕現であり、思考の対象ではない、そして不朽だと言われている。それ故、彼を知れば、あなたは誰かのことを嘆き悲しむことはない〟

私たちが人生で気にかけているものを失うことは悲しいことです。

愛する誰かが死ぬときは、悲しいです。

その喪失への哀しみは妥当ですが、その哀しみは長引かせるべきではありません。

過度に喪に服することは不健康です。

哀しみによって消耗すべきではありません。

なぜなら、喪失と死は必然的なことだからです。

それが、いくつかの文化と宗教的な制度において、哀しみに時間制限を設けている理由です。

例えば、厳格なユダヤ人は喪の段階に従います。愛する人の埋葬後は、近しい家族は7日間喪に服します。

この間、彼らは緊急時以外、家を離れません。

そして髭を剃(そ)ったり、髪を切ったりせず、あるいは、新しい服を着ません。

彼らは椅子に座ること、または靴を履くことさえ許されません。

彼らは哀しみに専念することを許され、喪に集中します。

その後、少し緊張が緩んだ23日間の喪中期間が続きます。

ユダヤ人の中には、11か月間の穏やかな喪に服す人もいます。

私たちは、私たちに近い人々の死を哀しみ、私たち自身の死を恐れます。

喪の期間があり、手放す時間があります。

このように、地球上及び私たちの歴史を通して、文化が、手放し喪に服するという、死を釣り合いのとれた見方に委ねる習慣を考案してきたのです。

これらの習慣は人々に彼らの人生を続けさせ、彼ら自身の死の準備をするのを助けています。

肉体の死は魂の終わりではありません。自己は不変です。

それ故、自分の時間の限界を超えた哀しみは賢明ではありません。

もし、人にとって重要なことが死んでいくことであるなら、死は恐ろしいものとして大きく立ちはだかります。

死はその人にとって中心的で意味のあったものに対する終わりを意味します。

その哲学における苦痛は深遠です。

しかし、もし、人が死するものを手放すために、物、あるいは人間関係を手放すことを学び、そして永遠であるものだけを求めるなら、死は恐ろしいものではありません。

それは単に方向転換、服を換えることなのです。

ですから、哀しみなさい。

しかし、そう長い時間は哀しまないことです。

同じアドバイスは失った何に対しても当てはまります。――結婚、仕事、友人、家、夢。そのために哀しみなさい。それから前進しなさい。

死の恐れと死に伴う苦痛は、過ぎ去っていく名前と形を持った世界への執着に本質的につながっています。

悲劇であると同じくらい皮肉ですが、人は、ある意味、死を否定し、彼らのこの世の人生が一時的なものであるという現実を快適なものにするために、この世における物と人間関係を求めます。

手当ては、慢性の病気よりもなお悪いのです。

死の恐れを強化しているのは、これらの物と人間関係への執着と、それらを必要とする信念だけなのです。

物と人間関係につきものの変化は、それらの喪失を確かなものとします。

所有者を快適にする代わりに、これらの変化、破壊、死んでいく物は、人々に彼らが恐れる死を思い出させます。――肉体、思考、癖、物や人間関係への執着の死を。

これらの執着は、喪失と再発する喪失の恐れを生み出し、再生し、強化します。

それらは人生を惨めにし、死を恐ろしいものにします。

この惨めさと恐れからの自由への鍵は、執着を起こさないことにかかっています。

人生の出来事のすべては、死から生が生じることを教えようとしています。

プロセスにおいては、死ぬことができない何かを知り、感じようとする衝動があります。

エスは〝自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです〟と教えました。

次の文では、イエスは尋ねました〝人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう〟

エスは、この世の人生と、この地球的な体に執着する人は誰でも、死においては、それらを失うことを意味して言ったのでした。

しかし、この世の人生とこの地球的な体への執着を離れ、イエスが意味する永久、あるいは、神意識と自分とを同一視する者は、けっして死ぬことはないでしょう。

この世のすべての富やすべての愉しみを持つことは、どんな役に立つのでしょうか? 

それらは私たちが人生と呼ぶ瞬間にすべて消えます。

この世の愉しみに意識を集中することは、心をあまりに散らすため、内側の自己を探求することができないままになります。

仏陀の4つの素晴らしい真理は、人生は苦しみであると述べています。

苦しみには原因があり、苦しみの終わりがあり、それを終わりにする手段である解決法があります。

仏陀の解決法は、人生を正しく生き、人生を生産的に楽しく旅することです。

この道は、苦しみの原因である執着と願望を処理することを必要とします。

〝執着から完全に自由である者にとっては、哀しみはない、恐れもない。

欲することから哀しみが生じ、欲することから恐れが生じる。

欲することから完全に自由である者にとっては、哀しみはなく、恐れもない〟と仏陀は言いました。

別の仏教の経典は〝願望の放棄を通して、不死が悟られる〟と述べています。

一般的に、私たちは人生の早い時期に、幸福とは、何かを獲得することや人間関係から何かを得ることで、もたらされるというメッセージを得ます。

物は失われ、人間関係は変化し、苦痛が結果です。

私たちは、自分と同一視する次から次へと起こる感情と思考を持ち、これが苦痛をもたらします。

私たちは、自分が肉体であると思い、肉体が病気になったり、年をとると、あるいは、他の人の肉体が病気になったり、年を取ったりするのを見ると、苦痛を経験します。

苦痛は、何かがバランスを欠いているということを示唆する警告システムです。

失った物、変化した人間関係、移ろう感情や思考、弱っていく肉体の痛みは、私たちに何を語っているのでしょうか? 

ひとつの可能性は、単純に人生がどういう状態であるかということです。

私たちはここに到着し、私たちが必要だと思うことは何でも手に入れるために努力します。

そして、プロセスにおいて苦痛を経験します。

そして、物語は終わります。

ですが、それはそれほど道理にかなっていません。

もし、誰かが足に痛みを感じるなら、彼に感染症に警戒させる痛みが単に、こう言うでしょう。〝やれやれ、足が感染症に罹った〟

感染は足を通って広がり、その人を殺します。

それは理性的ではありません。

人は、体に注意を必要とする問題を確認するために痛みを使うのです。

彼は、それは解決を必要とする問題だと見るでしょう。

人生の痛みは、私たちが物、人、感情、思考、体に対する関係を間違って知覚していると、私たちに語っているのです。

私たちは、それらの物、人、感情、体に依存しています。

私たちは、それらと自分を同一視し、それらに執着しています。

それらが去ったり、変化したりすると、私たちは苦痛を感じます。

これらの執着は、無知と同伴で、死の恐れの源です。

私たちが執着すればするほど、私たちが持つ死に対する恐れは大きくなります。

どんな執着もない人々――彼らの人生において自分自身が何かを所有していると知覚せず、彼らの肉体はただの器であると知っている人々は、恐れからは自由です。

執着するということは、あるいは、何かと自己同一視するということは、何を意味するのでしょうか? 

執着は、私たちが私たちの存在のために何かを必要とすると信じている、ということを意味します。

これはエゴの働きです。

それは言います〝私はとても重要であるし、私はこの車を持つ必要がある。この車は私のもの、この車は私が成功しているという意味である、この車は私を自己確認するのを助けてくれる〟あるいは、〝私はこの女性と関係を持つ必要がある。彼女なしでは、私は幸せにはなれない。もし、彼女が私のもとを去ったら、私は永遠に壊れてしまうだろう、そして人生は無意味になるだろう〟

人は物の理想にまで執着します。

例えば、アメリカの文化では、人は、人生はこうあるべきというあるイメージを持って育てられてきました。

彼らは、自分が子供の頃から、成長して素晴らしい結婚をし、フェンスと花のある白い家に住み、献身的な子供たちを持つことを夢見ます。

彼らはより大きな家や2台目の車、リゾート地の別荘、早期退職を夢見ます。

これらは文化が作り出した理想であり、これらの物が彼らの理想に合致しないとなると、彼らは惨めになります。

彼らはまるで何かの悪い罠が彼らに仕掛けられたように感じるのです。

これは、理想と自分とを同一視することです。

あなたはあなた自身を、あなたの人格を、花や完璧な人生がある白い家にいる人として見ます。

あなたは、それはあなたであると思います。

しかし、それはあなたではありません。

これらのイメージに執着してはなりません。

人生と共に流れることを学び、すべては浮き沈みがあるということを学びなさい。

同じ傾向が、感情と共に、低次の心で働きます。

私たちは怒り、思います。〝私は怒っている〟誰が怒っているのでしょうか? 〝私は怒っている〟とは感情と自分とを同一視することであり、感情は私であると信じているということです。

私たちは感情にはなれません。

人間として私たちは怒りを持ったり、怒りを経験したりできますが、私たちは怒りや他の感情ではありません。

同様に、私たちは体ではありません。

私たちは体を持っています。

それらは私たちが使用するための道具なのです。

私たちは言います。〝私は6フィート1インチで、金髪で青い瞳を持っています〟私たちはそれではありません。それでもこれは私たちが思っていることなのです。

誰かが私たちの外見を批評すると、私たちは傷つきます。

自分の体が年老いていき、動きがゆっくりとなるのを見ると、それは私たちを恐れさせます。

私たちのほとんどは、体に意識があり、それが、私たちが自分自身を体だと認識している理由です。

人は、不死の自己から死する自己を切り離すことを学ぶと、識別力が徐々に発達します。

死は真の自己に触れません。

それは、ただ私たちがあまりに強く自分自身を体や周りの世界と同一視するので、信じるのが難しいのです。

私たちが何かを意識していないのは、単にそれが存在していないという意味ではありません。

ヤマは、ナチケータに言います。〝すべての願望と情熱が取り除かれると、完全なる静寂が優勢となり、人間は不死となる〟それが鍵です。

死は死を意味しません。

何故なら、死は自己に何の影響も与えないからです。

生と死のサイクルは行き当たりばったりで不運な現実ではありません。

それは指導者です。

タオイズムの思想家、荘子は述べています。

〝誕生は始まりではなく、死は終わりではない。無限の存在があり、始まりのない継続がある。誕生があり、死がある。吹き出るものがあり、入るものがある。人はそれを通して中に入り、それを見ることなく出ていく。それは神の門である〟

永遠を探し求めるために、一時的なものではなく、永久的であるものと生を同一視し、それによって死を克服するように導くのが、今述べているウパニシャッドです。

ヴェーダンタによると、私たちは体のためにではなく、まさに私たちの存在のために存在しています。

内側の自己は体を創造します。

寝ている間、私たちは体を意識しませんが、それでも私たちは存在します。

物質主義的な思想家たちは、あべこべにします。

彼らは体に頼り、それは私たちの存在の証拠であると宣言し、もし内的な存在があるとするなら、それは体を通って生じる、と。

ヴェーダンタは、正に反対のことを言います。

意識が私たちの体を存在するように思わせているのです。

死は恐れるべきものではなく、生における機能であるということが理解されるべきです。

死を受け入れることは現実であり、それは、あなたがここでのこの生は一時的なものであり、世界はただの停車駅であり、あなたは学び成長するための旅の途中でここにやって来て、それで旅は終わるのだと悟るのを助けることでしょう。

同時に、永遠の真実、あるいは、神があなたの内側にいらっしゃるということを忘れずにいなさい。

死はあなたにこの世界に執着しないように注意しています。

世界から学び、それを手放しなさい。

あなたの体をただの道具として見なさい。

それが目的に適うと、その仕事がなされます。』

(聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(41)「死」①

前回まで数回にわたり、「生」や「命」について、ウパニシャッドやヨーガの世界で説かれている智慧をご紹介しましたが、今回の記事は、「生」に対極する「死」についてです。

 

この地球に生息している人間で「自分は生きている」という自覚のない人はいないことでしょう。

そして、誰でも、「いつか、自分は死んで、この世からいなくなる」ということを知っています。

肉体の老いは否定できない事実ですし、他者の死を通して、人間にとって「死は必然」であることを認めると同時に、「死」に対して、予め理解して、その日を迎えたいという想いや、「死後、人間はどうなるのだろう?」という漠然とした疑問が生じることもあるでしょう。

 

「真我実現」や「悟り」「解脱」には興味はないけれども、「死」に関しては知りたいという方も、多くいらっしゃることでしょう。

 

今回からは、「生前解脱」を果たされた(とされる)聖者や賢者の方々の「死」についての解説や洞察をご紹介したいと思います。

(「生前解脱」の境地は、ほとんど「死」と同じ状態になることですので、ヨーガの厳しい修練を通してその境地に至り、そして、その状態から戻ったという聖者や賢者の方々のお話は、非常に貴重であり、死について考える上で、多くのヒントを与えてくれることでしょう。)

 

「死」という現象は、誰にでも突然に起こる可能性がありますが、生前に、少しでも「死」について知っておくことは、何も知識がない場合よりも、死のプロセスが個我に起こる際に、何らかの役に立つことでしょう。

 

仏教やヒンドゥー教ジャイナ教など、インド発祥の宗教思想においては、「輪廻転生」(生と死の繰り返し、生まれ変わりのサイクル)からの「解脱」(解放)が、その教えの根幹にあります。

 

「真我実現」や「悟り」と言われているものは、最終的には、個我に「解脱」(解放)をもたらします。

それと同時に、「死」について、ある理解や洞察がやって来るのですが、しかし、それは、誰にでも起こることではないと言えますので、聖者や賢者の方々による「死とは何なのか?」という智慧に触れるだけでも、「死」に対する理解や印象は、大きく違って来ることでしょう。

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次は、以前にもご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァランダの「魂の科学」から、「肉体に起こる死」について、ヨーガ的な見地からの解説をご紹介いたします。

 

 

Death(死)

 

偉大なる科学者達、多くの驚異的な物を発明した人達、途方もない仕事を為した力のある皇帝達、霊感溢れる詩人達、素晴らしい芸術家達、多くのブラーマー(司祭)達、賢者達、ヨーギー達は、やって来ては、去って行った。

あなたは、彼らがどうなったのかをとても知りたいと思う。

彼らは、まだ存在しているのか?

死という対岸には、何があるのか?

彼らは、非存在になってしまったのか、空虚な無へと減少して行ったのか?

このような質問は、すべての人のハートに自然に湧き起こるものである。

同じ質問は、何千年も前に湧き起こったように、今日湧き起こる。

誰も、それを止めることはできない、何故ならば、それは、われわれの性質と不可分に繋がっているからである。

死の考えは、宗教や宗教的人生の最も強力な原動力であった。

死は、人を不死の探究へと駆り立てる。

人は、死を恐れる。

人は、死にたくない。

彼は、永遠に生きたいと思う。

これは、哲学のスタートの地点である。

哲学は、質問し、調査する。

それは、大胆にも、宣言する。

「人よ、死を恐れるな。

不滅の住居がある。

それは、ブラフマンである。

それは、あなたの心臓の小房に住まうあなた自身のアートマン(真我、魂)である。

あなたのハートを純粋にし、この純粋で不滅で不変なる真の自己に瞑想しなさい。

あなたは、不死に到達するであろう。」

あなたは、死なない、何故ならば、あなたは生まれたことがないからである。

あなたは不滅のアートマン(真我、魂)なのだ。

誕生と死は、マーヤという非実在のドラマにおける二つの誤った場面なのだ。

それらは、5つの元素(地水火風空)の結合によって形作られた誤りの産物である物質的な鞘(コーシャ)だけに関係している。

誕生と死の考えは、単なる迷信である。

すべての魂は、一つの環である。

この環の周辺は、何処でもないが、その中心は、身体の中にある。

死は、身体から身体へのこの中心の変化を意味する。

その時、あなたは、どうして死を恐れる必要があろうか?

 

 

What Is Death?(死とは何か?)

 

死は、肉体からの魂の分離である。

魂が肉体へ入ることは、誕生と呼ばれている。

身体からの魂の離脱は、死と呼ばれている。

魂が不在ならば、体は死んでいる。

死は、一つの側面から他の側面へと開いているドアである。

死は、身体の、物質的な活動の停止であり、物質的な有機的な機能の停止であり、身体的意識の停止である。

死は、在るという一つの状態からもう一つの状態の移行であり、もう一つの次元であるアストラル次元、精神次元への意識の形態の変化である。

振動の度合により、氷は水になり、水は水蒸気や霧や目に見えないガスになる。

肉体、アストラル次元、メンタル次元の命は、それと同じである。

死は、あなたの人格や自我意識を終わりにしない。

それは、単に命のより高い形態への扉を開けるだけである。

死は、より充実した命への入り口に過ぎない。

死は、あなたの人格の消滅ではない。

それは、単に重要な個性の停止であるに過ぎない。

それは、単なる形態の変化であるだけである。

命は、宇宙の獲得を達成するために流れ続け、命は、それが永遠の中に溶け込むまで、流れ続ける。

死は、命の終りではない。

それは、命の一つの側面である。

それは、命の進路における自然な出来事である。

それは、あなたの進化のために必要である。

死は、命の反対ではない。

それは、単なる命の一つの側面であるだけである。

命は、止まることなく流れ続ける。

果実は腐るが、種子は命に溢れている。

種子は死ぬが、大きな木が種子から成長する。

木は腐っても、豊富な命を持つ石炭になる。

水が消えると、水は新しい命の種子を含んだ目に見えない蒸気になる。

石は消えるが、新しい命に満ちた石灰になる。

物質的な鞘だけが脱がれるが、命は持続する。

肉体の分解は、単なる眠りである。

人は、眠り、目覚めるように、死と誕生も同じである。

死は、眠りのようなものである。

誕生は、目覚めのようなものである。

死は、新しい、より良い人生へと昇進をもたらす。

識別力と智慧のある人は、死を恐れない。

彼は、死が命の門であると知っている。

死は、彼にとっては、もはや単に命の糸を切るための剣を身に着けている骸骨ではなく、彼のために、はるかに広く、充実した幸せな存在への扉の錠を開ける黄金の鍵を持つ天使である。

誕生は、目覚めが眠りに従うように、死に従う。

あなたは、あなたの以前の人生において、あなたによって残された仕事を再び始めるだろう。

それ故、死を恐れてはいけない。

誕生と死は、マーヤ(幻妄の力)の手品である。

生まれた彼は、死に始める。

死んだ彼は、生き始める。

命は死であり、死は命である。

誕生と死は、この世という舞台の単なる入口と出口であるだけである。

あなたが、一つの家から別の家へ引っ越すように、魂は、経験を得るために、一つの身体から別の身体へと通過する。

人が、古くなった衣服を脱ぎ捨てながら、新しい衣服を着るように、この身体の居住者は、新しい他者に入り込む。

おお、人よ、死をまったく恐れるな。

死は、マーヤ(幻妄の力)の幻影の現象である。

死は、5元素(地水火風空)の分解である。

あなたは、不滅の魂(アートマン)なのだ。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死ということの真の意味も、私達は知っておかねばなりません。

ほとんどの生き物の場合、単に死の事実を見せられただけで非常に怖がるものですが、しかし、それは全く必要のないことです。

死に際に味わう肉体的苦痛について言えば、そのほとんどは罪の深い行為から生じてきた結果であるといえます。

ですから、こうした罪深い者がいまわのきわにもだえ苦しむ姿を見て、普通の者は死を迎える時に味わうであろう苦痛を恐れてしまうのです。

しかし、もし死期を迎えても苦しみや悲しみを受けずに済むとしたら、死など少しも恐れる必要はないのです。

そればかりでなく、絶対者ブラフマンから祝福された行者ならば、そうした罪だけでなく、罪から生じた行をも真智の炎で焼き尽くすことができるはずです。

このような行者は、死というものをもう恐れはしません。

しかし俗人の場合は、迷妄の世界に沈み込み苦悩を味わい続けています。

なぜなら、俗人は自分自身の肉体のとりこになってしまっているからです。

つまり、食べること、飲むことといった感覚器官を満足させることにのみ夢中になっていますし、親や子といった身近な者に囚われ、また、富や幸福とかを異常なまでに追い求め、逆に、真我が転生を繰り返すことなど信じようともしません。

もちろん、真我とはどんなものか知ることもありません。

こうした人々ですから、死期を迎えんとする時、この世を離れたくないといって嘆き悲しむのです。

しかし、真我を知る者はこの世の本当の姿を知っていますので、死期を迎えても恐れることがありません。

さて、私達は瞑想の境地にある時、死を迎えた際に肉体の中にどんなことが生じるのか、その事実をあらかじめ霊視することができます。

すなわち、瞑想の中で思考(Samkalpa)と想像(Vikalpa)の働きが消え失せると、私達の意識は身体の中心により鋭く向けられるようになってきます。

この時、まず肉体上にある変化が生じてきます。

すなわち、瞑想の境地に入って間もなく生気の動きが鈍くなってきますと、修行の初心者であっても、自分の手足にまるでアリでもはっているかのような感じを受けることがあります。

そして、眠りにつく時のように、手足が次第に重く感じるようになってきます。

初心者の場合、こうした状態を非常に恐れますが、しかし、しばらくして生気の均衡が保たれれば四肢や身体の重みは消え失せてしまいます。

これと同様に、行者が死期を迎えその肉体から抜け出す時も少しも動揺することなく、上手に生気の均衡を保たせることができるのです。

また、行者はその意志の力で、死の間際と同じ状況を瞑想中に創り出すことができますが、一般の人々にとってはいまわのきわに一体どのようなことが起きるのか解らぬままになっています。

そのために、死を迎えた時に驚き戸惑うのです。

しかし肉体に死が訪れた際には、ちょうど水源地からの水の流れが止まったために川の水が干し上ってしまうのと全く同じことが生じるだけなのです。

つまり、まず心臓内の心素から放射されてくる生命力としての微細生気(Sukshuma Prana)の動きが鈍くなってきます。

このように、死は普通、一瞬の内にやってくるということはありません。

もちろん、心臓が一時に止まってしまえば、その時死は即座にやってきますが、一般的には死は少しずつやってきます。

ですから、まず自分ではウトウト眠っているような気の遠くなった無意識の状態が肉体全体に広まってきますが、やがて再び無意識状態へと戻っていってしまいます。

しかし時には、この状態から抜け出して目覚めることもあり、そうした時は周りの者と言葉を交わしたりもしますが、やがて再び無意識状態へと戻っていってしまいます。

ですからあなた自身、瞑想の境地にあってこうした生命力がどこから生じて来るのか、よく霊視してみなくてはなりません。

実際こうした時は、心臓内にあって生命力をたえず流し続けてきた微細生気の動きが阻害されてしまっています。

そのため、流れが止まったり再び流れ出したり、間歇的なこうした生命の流れの中には、知識と運動に関するは働きが混ざっていますが、通常この生命の流れは各鞘を通過して肉体へと到達し、そして肉体全体へと行きわたり、肉体を機能させています。

しかし死期を迎えた今、この肉体に向けての生命の流れが阻害されているのです。

それはちょうど、部品が壊れてしまったポンプが、遠くまで思うように水を飛ばすことができなくなるのと同じで、生命の流れる今、その力を失いつつあるのです。

ですから、時としてはある鞘までは届き、また、別の時は他の鞘までは届くのですが、最後には、心臓の内部にしか流れなくなってしまうのです。

その結果、生気鞘の動きが止まりその影響がまず肉体上に表われてくると言うわけです。

ところで、主生気と補助生気という肉体全体に行きわたっている生命の活動力は、その源となる力を得るために心臓部分へと向かって動いていますが、心臓部ですでに生命の活動力が充分に流れなくなっているのを見て、この心臓内部へと戻ってきてしまうのです。

この瞬間に肉体全体に行きわたっていた動きと意識とが失われてしまいます。

つまり、手足が重く冷たくなり収縮してくるのを感じるようになり、遂には肉体全体が全く動かなくなり、さらに脳内部にある意思鞘と理智鞘とがその働きを止めてしまいます。

次いで、ブラフマランドラの意思、理智、それにすべての感覚器官が五種の微細生気からなる球体とともに心臓部へと向かい、そこで原因体を取り囲みます。

こうして、感覚器官の持つ力は五種の微細元素からなる球体中に納められますが、微細体のすぐ内側には、微細生気球、続いて我執球、次に心素球があり、中心には真我が納まっています。

そして、真我がこれらの光り輝く球体をその周りに引きつけたまま、肉体から抜け出してゆくのです。

これらの球体全体は、ちょうど巻貝のような形をした光の塊となって宇宙空間へと入ってゆきますが、微細体と原因体の場合は、どんな生物の中に入るかによって、その姿形が変わります。

ですから、たとえば人間の肉体に入るとその姿形も人間の肉体と同じものになりますが、動物や昆虫、うじ虫などの中に入れば、そうした姿形になるわけです。

しかし、真我の場合は全く変化するということがありません。

つまり、微細体と原因体だけが膨張したり収縮したりしながら、どんな肉体の中にでも入ってゆくという性質をもっているのです。』

(「魂の科学」by スワミ・ヨーゲシヴァランダ)

 

 

 

 

『物質世界の生物に内在(やど)る不滅の霊魂は

わたし自身の極小部分である--かれは

心をふくむ六つの感覚を用いて

苦労しながら肉体を操っているのだ

 

霊魂は風が芳香を運ぶように

自らの意想感情を次の体に運ぶ

このようにしてかれは或る種の身体をとって生き

またそれを捨てて他の体をまとう

 

不滅の霊魂はこのようにして

耳 眼 舌 鼻 触覚と

また心意(こころ)をもった物質体をとって誕生し

それらに相応した対象を味わい経験する

 

霊魂は物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)の支配下

自己の心性に相応した体で様々な経験をし

時期が来ればその体を離れていく

迷える者にはこの事実が見えないが智慧の眼をもつ者には見える

 

修行する求道者(ヨーギー)たちは自己の本性を覚って

この事実を明らかに理解している

だが未熟で自覚(さとり)に到らぬ者たちは

努力しても不滅の霊魂を感知できない』

(バガヴァッド・ギーター 第15章7ー11)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(40)「命」④

前回から「生命」「命」「生」について、ご紹介しています。

 

私たちは、今、「命」を体験し、人間として「生きている」わけですが、それぞれの人が、「命」については、個人的な感想を持っているとは思いますが、ヨーガにおける「命」の捉え方をご紹介したいと思います。

 

今回は、いつものような前もっての解説は省略しますので、ダイレクトに聖者の方々が遺された御言葉を感じ取って頂けたらと思います。

 

前半は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉から、「命」の根源としての「神」について、多くのヒントが込められた数々の叡智の言葉に触れ、人生の隠された目的を果たすために、役立てて頂きたいと思います。

 

 

 

Sure Ways for Success in Life and God-realization(人生における成功への確実な道と神の実現)

 

シンプルで謙遜に満ちた生き方をしなさい。

食べるために生きるのではなく、生きるために食べなさい。

妬むな、中傷するな、嘘をつくな、詐欺を犯すな、悪意を抱くな。

あなたは、常に歓びに溢れ、幸せで平和になるだろう。

道義的に正しいことは、人生のルールである。

高潔な人生を送りなさい。

ダルマ(宇宙の理)を厳格に信奉しなさい。

人間の人生は、徳なしには、人間的ではない。

人生の塩は、無私の奉仕である。

人生のパンは、宇宙的な愛である。

もしあなたが、全人類に奉仕し愛するのでなければ、人生は充分に生き、充分に実現しされてこなかったのである。

真の人生の秘密は、神の愛と人類への奉仕の中にある。

他者を助けるために生きなさい。

神聖なる力は、あなたを通して、命を与える力として流れるであろう。

聖者の人生を学び、彼らから直感を引き出しなさい。

優しいハート、与える手、親切な会話、奉仕の人生、平等な視野、偏見のない態度を養いなさい。

あなたの人生は、必ず、祝福されるだろう。

奉仕し、愛し、与え、浄化し、瞑想しなさい。

あなたの旅は、あなたを新しい無限の至福の王国の中へと連れて行くだろう。

あなたは、輝く宝を発見するであろう。

あなたは、神を再発見するであろう。

あなたは、強くなり、健康になり、自由になり、快適になり、幸せになり、平和になるであろう。

あなたは、あなたが触れるすべての命に霊感を与え、祝福するであろう。

人生を絶え間ない喜びにしなさい。

正直(Satya)から歓びを得なさい。

苦行(Tapas)から歓びを得なさい。

同情心から歓びを得なさい。

シンプルな人生を送りなさい。

規則正しい人生を送りなさい。

勤勉な人生を送りなさい。

まるでそれが最後の日であるかのように、日々を捉え、祈りや瞑想、奉仕の中でどんな瞬間も役立たせなさい。

あなたの人生を神への絶え間ない捧げものとしなさい。

現在に生きなさい。

過去に生きてはいけない。

未来の希望を諦めなさい。

人生の意味をよく理解し、それから探求を始めなさい。

人生は、最も偉大なる贈り物である。

どんな瞬間も、有効に役立たせなさい。

成功は、しばしば、躊躇わず行動する人にやって来る。

成功は、臆病者にはやって来ない。

 

 

Unity of Life(命の統合)

 

命を一つの全体として見なさい。

命の包括的な見方をしなさい。

すべての命は、一つである

すべての命は、ただ一つであり、唯一の実在であるブラフマン、或いは、絶対者から発している。

神は、すべての命の中で息づいている。

世界は、一つの家である。

すべては、一つの人間の家族のメンバーである。

すべての創造は、有機的な全体である。

その全体から独立している人はいない。

人は、他者から彼自身を分離させることによって、彼自身を惨めにしている。

分離は、死である。

統一は、永遠の命である。

宇宙的な愛を養いなさい。

すべてを包み込みなさい。

すべてを抱擁しなさい。

他者の価値を認めなさい。

人から人を分離するすべての障害を破壊しなさい。

すべての創造物の内側に、不滅の本質である非二元の原理を認めなさい。

すべての命を神聖なものとしなさい。

その時、この世界は、美の楽園、平和と平静の天国になるであろう。

花や植物と共に笑いなさい。

蝶や鳥、鹿と共に遊びなさい。

灌木やシダ、木の小枝と握手しなさい。

虹や風、星や太陽に話しかけなさい。

流れている小川や海の波と語り合いなさい。

杖と話しなさい。

あなたの隣人、犬、猫、牛、人間、木、花などと友情を持つようになりなさい。

その時、あなたは広く、完全で、豊かな、満ち足りた人生を持つことができるであろう。

あなたは、ワンネス、或いは、命の統合を実現するだろう。

これは、ほとんど言葉で述べることはできない。

あなたは、あなた自身で感じなくてはならないだろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「いったいどうしてサンサーラ(誕生と死の輪廻)は悲しみと邪悪に満ちているのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは神の意志によって!」

 

質問者

「なぜ神はそう望まれるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは測り知ることのできないものなのだ。

どんな動機も神の力には属さない。

欲望も、成し遂げようとする目的も、無限の一者、全知全能の存在は主張しない。

神は彼の存在のなかで起こる現象とは無縁である。

太陽と世界の現象を比べてみなさい。

多者(世界)となる前に、一者(神)に現象の動機や責任を負わせることは意味がない。」

 

質問者

「すべては神の意志で起こるのでしょうか?」

 

マハルシ

「全能である神の命令にさからって何かを為すことは誰にもできない。

それゆえ、すべての苦悩の源である、邪悪で不安定な、人を惑わす心を棄て去り、神の御足元に沈黙の内にとどまることが最善である。」

 

質問者

「徳行に報い罪業を罰す、イーシュワラ神(人格神)というひとつの独立した存在があるのでしょうか?

神は存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。」

 

質問者

「彼はどのような存在なのですか?」

 

マハルシ

「イーシュワラは心と身体のなかに、いずれは滅びゆく個体性をもっている。

だが、それと同時に、彼は超越意識と解脱を内に秘めている。

宇宙の至高の創造者であるイーシュワラ、人格神は本当に存在している。

だがこれは、まだ真理を実現せず、個我の実在性を信じている人びとの相対的な見地から見たときに誤った真実である。

賢者の絶対的な見地からすれば、無形の一者である、個我を超えた真我以外には、他のどんな存在もありえない。

イーシュワラは物理的身体、名前と形をもっている。

だが、それはこの物理的身体ほど粗大なものではない。

それは幻想のなかで帰依者によって想い描かれた姿で見られる。

神の名前と形は数多くさまざまであり、それぞれの宗教によって異なっている。

彼の本質は、われわれの本質と同じ無形の一者の真我である。

それゆえ、彼がとる姿はただの想像あるいは現れにすぎない。

イーシュワラは宇宙の至るところに存在するすべての人、すべてのもののなかに内在している。

すべてのものとすべての生けるものの総体が神を成しているのである。」

 

質問者

「それでは、究極的にはイーシュワラは実在ではないのですね?」

 

マハルシ

「イーシュワラの存在は、われわれがもつイーシュワラの概念の結果である。

まず、イーシュワラが誰の概念なのかを知ろうではないか。

概念はそれを考え出した人によって生じる。

あなたが誰なのかを見いだしなさい。

そうすれば他の問題はひとりでに解決するだろう。

イーシュワラ、神、創造者、人格神は消え去るべき最後の非実在の姿である。

唯一、絶対的存在のみが実在である。

それゆえ、世界だけではなく、自我だけではなく、人格神もまた非実在なのである。

われわれはまさしく絶対なるものを見いださなければならない。」

 

質問者

「あなたは最高位の神さけも、ひとつの概念にすぎないと言われます。

それはつまり、神は存在しないということでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや、イーシュワラは存在している。」

 

質問者

「彼はある特定の場所に、特定の姿で存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「もし個人が姿をもっているなら、主である真我、源でさえひとつの姿をもって現れるだろう。

神は、長期の瞑想のなかで帰依者によって繰り返し思い描かれたいかなる姿もとる。

このように、神は無数の名前を受け入れるが、真の無形の意識だけが本当の神である。

神の住みかについてだが、彼はハート以外のどこにも住むことはない。

自我によって産まれた「私は身体だ」という観念のために、神の王国はどこか他にあると思われている。

ハートこそが神の王国だと知りなさい。

あなたは、神の王国の存在を可能にするだけでなく、それを何か素晴らしい天国のように見せる完全な光輝であるということを知りなさい。

ただこれを知ることだけがジニャーニである。

それゆえ、神の王国はあなたの内側にある。

心が完全に没入した状態にある高度に成熟した探究者のハートのなかで、突如として、あふれんばかりに輝きだすトウリーヤーティータ(四つの状態を超えた、つまり真我)の無限の空間、今まで知らなかったような新鮮な体験、それはごうまれにしか到達されることのない、真我の光に輝く真のシヴァ・ローカ(神の王国)である。」

 

質問者

ジーヴァ(個人)は限定された視野と知識といった邪悪な幻想の影響の支配下にあると言われています。

その反対に、イーシュワラはすべてを包括する視野と知識をもっています。

また、個人が限定された視野と知識を放棄すれば、ジーヴァとイーシュワラは同一化するとも言われています。

もしそうだとすれば、イーシュワラもまたすべてを包括する視野と知識を放棄するべきではないでしょうか?

それらもまた幻想なのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「それがあなたの疑いなのかね?

まず自分の限定された視野を放棄しなさい。

そのあとで、すべてを包括するイーシュワラの視野と知識について充分考える時間があるだろう。

まず自分の限定された知識を取り除きなさい。

なぜイーシュワラについて心配するのかね?

彼が彼自身の面倒を見るだろう。

われわれがもっている能力と同じだけイーシュワラももっているのではないかね?

なぜわれわれが、イーシュワラがすべてを包括する視野と知識をもっているかどうかを気に病むのだろうか?

もしわれわれが自分自身の面倒を見ることができるなら、それ以上のことはない。」

 

質問者

「しかし、神はすべてを知っているのでしょうか?」

 

マハルシ

「『ヴェーダ』は神が全知全能だと述べている。

だがそれは、無知ゆえに自分が智識をもたないと考えている人たちに向けられた言葉なのだ。

だが、もし人が真実ありのままの神を知ったなら、神が何も知らないことを悟るだろう。

なぜなら、彼の本性は永遠なる実在の全体であり、その他に知られるべきものは何ひとつ存在しないからである。」

 

質問者

「なぜ、宗教は神や天国や地獄などについて語るのでしょうか?」

 

マハルシ

「ただ人びとに、それらがこの世界と同程度のものであり、そしてただ真我だけが実在だということに気づかせるためである。

宗教は真理の探究者の見地にしたがって現れる。」

 

質問者

「ヴィシュヌ、シヴァなどの神々は存在するのでそうか?」

 

マハルシ

「存在するものとして知られているのは人間だけではない。」

 

質問者

「では、神々の聖地カイラーサやヴァイクンタは実在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたがこの身体のなかにいるのと同じようにそれらは実在である。」

 

質問者

「彼らは私の身体のように、現象的存在を所有しているのでしょうか?

あるいは、彼らは野ウサギの角のような作り話にすぎないのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼らは確かに存在している。」

 

質問者

「もしそうであれば、彼らはどこかにいるはずです。

どこにいるのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼らを見たことのある人びとは、彼がどこかに存在していると言っている。

それゆえ、われわれはその言葉を信じなければなるまい。」

 

質問者

「どこに存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたのなかに。」

 

質問者

「では、それは私が創造し、支配できるただの観念なのでしょうか?」

 

マハルシ

「すべてがそのようなものなのだ。」

 

質問者

「しかし、野ウサギの角のようなまったくの虚構や、部分的には真実である蜃気楼のようなものなら想像で作りだすこともできます。

それにもかかわらず、私の想像力と関わりのない事実もまた存在するのです。

イーシュワラ神やシヴァ神はそのように存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。」

 

質問者

「神はプララヤ(宇宙的崩壊)を被るのでしょうか?」

 

マハルシ

「どうしてかね?

真我に気づいている人は宇宙の崩壊をも超越して解脱を得る。

ならば、なぜはるかに賢く能力をもったイーシュワラのそうできないことがあろう?」

 

質問者

「デーヴァ(天使)たちやピサーチャ(悪魔)たちも同じように存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「そのとおりだ。」

 

質問者

「神々は真我との関係のなかでどのような位置をしめているのでしょうか?」

 

マハルシ

「シヴァやガナパティやブラフマンのような他の神々は、人間の視点から見れば存在している。

つまり、あなたが個人的な自己を実在だと考えるなら、神々も存在する。

ちょうど政府の行政雲絵のために高官がいるように、創造者がいるのである。

たが、真我の見地からすれば、これらの神々はすべて幻想であり、神々自身が実在のなかに溶け去らなければならないのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(39)「命」③

人間の真の本性を悟ることは、Jnana Yogaでは、「真我実現」とか「自己実現」と称され、修行の目的となっていますが、この「真我実現」「自己実現」”Self-Realization”への足がかりとして、このブログでは、これまで、様々な聖者と呼ばれている方々の御言葉をご紹介してきました。

それに伴い、少しばかり解説も試みて来ました。

 

今回は、前もっての拙い説明は省略し、三人の聖者の方々の御言葉をご紹介したいと思います。

 

この三つの文章のそれぞれが、最初は、異なるテーマで始まっているにも拘わらず、最終的には、その中心的なテーマが、一つの焦点に絞られていることに気づかれることでしょう。

 

前回同様、最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉、そして最後は、「ヨーガ・ヴァーシシュタ」(ヴァーシシュタとは、インドの長編叙事詩ラーマーヤナに出て来る七人の聖仙の一人とされている聖者の名)からです。

 

 

The Struggle of Life(人生という闘い)

 

生きることは、理想のために闘うことである。

人生は、充足と完成を求める闘いである。

人生は、最高の独立を達成するための闘いである。

人生は、闘いであり、抵抗である。

人生は、獲得の連続である。

人は、進化し、成長し、拡張し、闘いを通して、数々の経験を得る。

人生と社会は、闘い、或いは、闘争なくしては、存在することができない。

もしあなたが、あなたの存在を続けたいのであれば、闘いは必須である。

あなたが闘いを止める時、存在することを止めるだろう。

あなたのハートの戦場で、内面的な敵と勇敢に闘いなさい。

あなたの心や感覚を用いた内なる戦いにおける小さな勝利でさえ、あなたの意志力を開発し、より多くの確信や勇気を与えるだろう。

闘いが激しければ激しいほど、勝利はより栄光あるものとなる。

自己実現は、非常に大きな闘いを必要とする。

神のために生きなさい。

この哀れで、世俗的な人生のすべての困難や苦難に勇敢に立ち向かいなさい。

人間でありなさい。

勇気を持って、偉大なる成就を求めて闘いなさい。

山に登ること、海峡を横切ること、都市を爆破すること、城砦を爆破すること――これらは、英雄的な真の勇気ある行為ではない。

あなたの心(マインド)と感覚をコントロールすること、自制心を獲得することで、怒りや熱情、利己心を克服すること――これらは、人に真の英雄的資質をもたらす。

あなたは、どのくらい長く、情熱や感覚の奴隷でいるのだろうか?

あなたの真の神聖なる性質を断言し、あなたの低い性質や低い自己を抑えることを断言しなさい。

これは、あなたの最も重要な義務である。

 

 

Life is a School(人生は、学校)

 

しかしながら、これは、われわれが物質の物理次元における人生を否定すべきであるという意味ではない。

物質は、神自身のリーラ(神の戯れ)にとっての神の表現である。

物質と霊は、熱と火、冷たさと氷、花と香りのように、不可分である。

ブラフマンとマーヤ(幻妄)は、不可分であり、一つである。

物質次元における人生は、ブラフマンにおける永遠の命のための限定的な準備である。

人生は、多くの有益な修練、人格の発達や神聖なる徳を学ぶための大いなる学校である。

人生は、あらゆる哀しみ、あらゆる苦しみ、あらゆる心痛が特別な修練をもたらす学校である。

地球上の人生は、自己完成の手段である。

世界は、あなたの最も良い教師である。

この世界は、あなたの最も良いグル(導き手)である。

あらゆるモノの中に、修練がある。

それぞれの経験の中に、修練がある。

世界は、慈愛や赦し、辛抱、宇宙的な愛、寛容、高貴、勇気、雅量、忍耐、強い意志、など、数々の神聖な徳の開発のための最も良い修練場である。

世界は、悪魔のような性質で戦うための闘技場であり、そして内側から神性を表現するための闘技場である。

バガヴァッド・ギーターとヨーガ・ヴァシシュタの中心的教えは、人は、この世に在ることにより、真の自己を実現するべきであるということである。

蓮の葉の上の水のように振る舞いなさい。

利己心、渇望、怒り、貪欲、憎しみ、羨望で構成される低い悪魔のような性質を放棄しなさい。

神性なる性質を断言しなさい。

精神的な放棄と献身の人生を送りなさい。」

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「『ギーター』のなかの一節に、「この宇宙全体は私の小片である」とあります。

これはどう理解すればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「神の小さな一部分が分離して、それが宇宙を形成しているという意味ではない。

彼のシャクティ(力)は活動している。

その力による活動の相のひとつの結果として宇宙が姿を現したのである。

同じように、『プルシャ・スークタ』のなかには「すべての生けるものが神の御足の片方を形作っている」と述べられているが、それはブラフマンがいくつかの部分に分かれているという意味ではない。」

 

質問者

「それは理解できます。

ブラフマンは間違いなく分割できるものではありません。」

 

マハルシ

「それゆえ、ブラフマンはすべてであり、分割不可能である。

それはつねに明らかである。

だが、人びとはこのことに気づいていない。

彼はこのことを知らねばならない。

真我がブラフマンだという永遠の真理の啓示を防げる障害を克服すること、それが知識である。

その障害はあなたがひとりの個人として分離しているという概念から成っている。」

 

質問者

「神と真我は同じものでしょうか?」

 

マハルシ

「誰もが真我を知っている。

だが、明確には知られていない。

あなたはつねに存在している。

その「在ること」が真我である。

「私は在る」(I AM)が神の名前である。

神を定義した言葉のなかで、『旧約聖書』の出エジプト記第三章十四節にある「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)ほど、ふさわしい言葉はない。

他にも「ブラフマイヴァーハム」(ブラフマンは私である)「アハム・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、「ソーハム」(私は彼である)という言葉がある。

だが、「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど、直接的に表現したものはないだろう。

絶対的存在とは、ただ在るものである。

それが真我である。

それが神である。

真我を知れば神を知る。

実際、神は真我以外の何ものでもない。」

 

質問者

「神は多くの異なった名前で知られています。

そのなかのいくつかが正しいものと言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ハートの内に宿る無心の神にとって、何千という神の名前の中でも「私」或いは「私は在る」のように真実で、適切で、美しい名前はない。

自我が破壊されたそのとき、真我に注意を向ける人のハートのなかでは、至高なる沈黙の言葉(マウナ-パラー-ヴァーク)が響きわたる。

それが神の名前「私-私」である。

「私」という感覚に注意を払い、「私-私」に絶えず瞑想するなら、人は想念の起こる源に飛びこみ、自我を破壊し去るだろう。

 

質問者

「神と世界の関係とは何でしょうか?

神は世界の創造者あるいは維持者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「感覚のある存在も、感覚のない存在も、すべてのものは太陽が単にそこに在るおかげで活動をしている。

同じように、すべての生けるものたちの活動は、意志も欲望ももたない神の存在によって為されている。

ただ太陽が存在するだけで、蓮のつぼみは開き、睡蓮の花は閉じ、すべての無数の生けるものたちは活動し、休息する。

針が磁石の前で動くように、ムーンストーンが水を放つように、月光が睡蓮の花を咲かせ、蓮の華を閉じさせるように、おびただしい数の世界の秩序は、ただ神の存在によって維持されている。

わずかな意志さえももたない神が存在するというだけで、無数の活動に従事する生きとし生けるものたちは、カルマによって定められた進路に沿って引き寄せられたさまざまな生き方を経て、ついにはその行動のむなしさに目覚め、真我に向きを変え、そして解脱を達成するのである。

世界の活動が太陽に影響を与えることのないように、そして四大元素(土、水、火、空気)の顕著な特質が無限の空間に影響を与えることのないように、生きとし生けるものの行為が、心を超越した神に影響を与えることはない。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

『観念や想念が空に青さを「見る」ように、心は世界を実在と見る。

だが、空に青さはない。

視覚の能力の限界が、空を青だと見なすのだ。

同じように、世界の現れを知覚するのは思考の能力の限界に他ならない。

この世界の現れは錯覚だ。

心の中でそれについての考えを起こさせないほうがいい。

「私は迷っている」と考えることで人は苦悩する。

そして、「私は気づいている」と考えることで人は至福に向かうのだ。

初めから存在していなかったものは、今も存在していない。

存在していたものは、今も存在している。

それが絶対なるブラフマンだ。

これに瞑想することが平安を与える。

なぜなら、そのブラフマンこそが平安だからだ。

いつであれどこであれ、これ以外のものに瞑想してはならない。

そして、人は最大限の力で、最大限の知性を使って、快楽への期待そのものを根こそぎにしなければならないのだ。

老いと死の原因は、ただ無知のみにある。

希望や執着は、無知である精神的条件づけのせいで起こる。

それが、「これは私の財産だ」や「これは私の息子だ」といった考えを生み出す。

この空っぼの物質的身体のどこに「私」と呼ばれるものが存在するというのか?

ラーマよ。実際は「私」や「私のもの」などといった概念はまったく存在しない。

ただ一なる真我だけが真理なのだ。

無知の状態の中でだけ、人はロープの代わりに蛇を見る。

光明を得た状態では、そうは見ない。

光明を得た視野の中にはただ無限の意識だけが存在し、他には何もない。

ラーマよ。

無知な人間になってはならない。

世界の現れを起こさせる精神的条件づけを破壊しなさい。

なぜ無知な人のように、この身体を自己と見なして惨めになるのか?

身体と自己は一緒に存在しているように見えるかもしれないが、それらは別なのだ。

たとえ身体が死んでも真我は死なないからだ。

ラーマよ。「絶対なるブラフマンだけが存在する」という真理を忘れ、存在さえしない無知に人々が確信を抱くのは何と不思議なことだろうか?

無知の存在という愚かな考えを根づかせてはいけない。

なぜなら、意識が無知で穢されると、果てしもない苦しみを招くからだ。

それは非実在であるにもかかわらず、現実の苦しみをもたらす。

蜃気楼や空を飛ぶような幻覚や、天国や地獄を体験するのは無知のせいだ。

それゆえ、ラーマよ。二元的知覚の原因である精神的条件付づけを放棄して、完全に無条件な状態にとどまりなさい。

そうすれば、あなたはすべてに勝る、類い稀な、至高の真我に到達するだろう。

 

ラーマはしばらくの間、深く瞑想し、それからこう尋ねた。

聖者よ!存在しない世界を実在するように見せる幻想を、存在しない無知がつくり出しているとは、実に信じがたいことです。

それに、どうしてラヴァナ王はさまざまな苦しみを体験しなければならなかったのでしょうか?

それを体験したのはいったい誰(何)だったのでしょうか?

どうか教えてください。

 

ヴァシシュタは答えた。

ラーマよ。意識と身体の間に何らかのつながりがあるということは、まったく真実ではない。

この身体は夢の中に現れる身体のように、意識によって空想されたものなのだ。

意識がそれ自身を限定し、自分をジーヴァだと考えたとたん、落ち着きのないエネルギーを授かったそのジーヴァは、世界の現れに巻き込まれてしまう。

過去の行為の結果を楽しんだり、それに苦しんだりする身体を得た存在が、自我、心、ジーヴァと呼ばれるものだ。

苦しみを体験するのは、身体でも光明を得た存在でもない。

ただ無知な人だけが苦しむのだ。

心が世界の現れを夢見るのは、目覚めているときや覚醒を得たときではなく、無知の状態の中だけだ。

それゆえ、苦しみを体験する身体を得た存在は、心、無知、ジーヴァ、精神的条件づけ、個人意識などのさまざまな名前で呼ばれている。

この身体は生命意識を持たないただの物質だ。

それゆえ、それは楽しむことも苦しむこともできない。

不注意や愚かさをもたらすのは無知だけだ。

それゆえ、楽しんだり苦しんだりするのも無知だけなのだ。

実際、生まれたり、泣いたり、殺したり、死んだり、他者を苦しめたりするのは、身体ではなく心だ。

幻想や想像も、幸福や不幸の体験も、すべてを為し、すべてを体験するのは心だ。

心が人なのだ。

心が完全に浄化されたとき、あなたは心が織り成す二元性や多様性から脱する。

ラーマよ、私はすでに「宇宙崩壊のあとに続く」創造の循環の過程について、また、どのように人が「私」や「私のもの」という偽りの観念を心に抱くのかについて述べてきた。

叡知をたずさえた人はヨーガの完成への七つの段階を登り、徐々に解脱を達成するのだ」

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(38)「命」②

前回までの記事では、真我(アートマン)は、私たちの「魂」(プルシャ)のことであり、その「魂」は、太陽の如く、自ら存在し(輝き)、エネルギーを放射することで、本来は生命のない物質(Jada)である肉体に、生命エネルギーを送り、肉体はその力を受けて、生命(Chetan)として、この地球上で、「人間」として生命活動をしている、という趣旨のことを書きました。

 

このことを非常に分かり易く説明してくれている文章を、「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)から、ご紹介したいと思います。

 

『ところで、”私は”とか、”私に”とか言う場合、そう呼ばれているものは、実は、二つの実在原理(Tattwa)が集まってできあがっているのです。

その一つは生命の無い物質(Jada)であり、もう一つは生命(Chetan)です。

そしてこの場合、生命は生命の無い物質の内に隠されています。

ですから生命そのものである真我の居所は、物質元素から創られているこの身体であって、真我は城主であり、身体はこの真我を守る城のようなものです。

そしてこの城は、肉体、微細体、原因体という三つの部分から成り立っています。

肉体はまた、粗雑体とも呼ばれていますが、この肉体は真我に到達する道の上に立つ中央門のようなものです。

ですから私達は、まずこの門を通過せねばなりません。

この肉体は五種の粗雑元素からできており、過去に行った種々の行為を反映して創り出されています。

そしてこの肉体は二つの部分から成り立っています。

そのうちのより粗雑な部分は食物鞘(Annamaya Kosha)であり、もう一つは生気鞘(Pranamaya Kosha)です。

これらの鞘はともに、城主である真我に粗雑次元での奉仕をしているわけですが、こうした肉体自身が真我に奉仕する力を持ち合わせているわけではありません。

この、力とかエネルギーと呼ばれるものは、実は、肉体の内側にある別の身体から送られてくるものなのです。

別の身体とは微細体(Sukshma Sharira)のことですが、この身体の場合は、肉体に具わっているような神経とか動、静脈血管、その他の筋肉とか骨といったようなものを持ち合わせているわけではありません。

微細体の場合は、非常に微細な気球のような物質からできています。

ですから、肉体の四肢のようなものを具えてはいませんが、しかし、肉体全体の内に浸透し広がっている身体なのです。

そして力の面から言えば、この微細体は肉体を動かす立場にあると言えます。

言い換えれば、肉体の動きのすべては、この微細体から送られてくる力や刺激によってのみ惹き起こされるのです。

この刺激として伝わってくる力の中には、知識と運動という二種の力が混ざり合っています。

そして、これら二種の力によって、いわゆる、肉体中の生命力と呼ばれている力が生じてきます。

この生命力があれば、肉体は生き長らえ、そのすべての機能を果たすことができるのです。』

「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)

 

このことは、長年の厳しいヨーガ修行を通してのみ知り得る智識(Jnana)ですので、一般人である私たちが、通常の日常生活において実感することは、ほとんど不可能と言えますが、ヨーガにおける、私たちをこの三種の身体である粗雑体、微細体、原因体と分けて考える考え方は、以前の記事ですでにご紹介しましたが、極めて一般的なヨーガの常識とも言えるもので、真の自己である真我(アートマン)を悟って行くプロセスにおいては、肉体よりも微細な領域に入って行くことは、必要不可欠であるため、体験や体感が起こるまでは、ここで改めて復習し、頭の中に、忘れずに銘記しておくことは、とても重要です。

 

ご紹介しました「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)の文章を念頭に置いて、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋の文章とラマナ・マハルシの遺された御言葉の内容を、比べてみて下さい。

 

己のハート(フリダヤ)に「真の自己」である真我(アートマン)として鎮座する「魂」の姿が浮かび上がって来るはずです。

 

その「真の自己」である真我(アートマン)は、神(ブラフマン)であり、神(ブラフマン)の「動」の側面であるシャクティ(力)として顕現していることが、理解できると思います。

 

この世で唯一なる実在は、動いていない場合は、神(ブラフマン)であり、動きのある時は、シャクティ(エネルギー、力)であり、この二つは同じ一つのモノの異なる側面なのです。

(それは、「火」というと、燃焼というモノが燃える「概念」と、実際にモノを燃やす炎という「力」(現象を起こすエネルギー)が含まれており、この二つが「火」を表すのと同じです)

 

本当の自分、真の自己である真我(アートマン)を知ることは、ラマナ・マハルシも語っているように、

「人がはじめて真の自己を知るとき、なにか別のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を占領します。

そのあるものとは、心の背後の無限、神聖、永遠です。

ある人びとは天の王国と呼び、ある人びとは魂と呼び、ある人びとはニルヴァーナと呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼びますが、あなた方は自分たちの好きな名で呼んだらよいでしょう。

これが起こるとき、みずからを失うことは全くなく、むしろ彼は自己を発見するのです。」

 

真の自己の発見。

 

自らの「魂」の発見でもある訳ですが、広く一般的に言われている「魂」には誤解や歪曲があるために、正しく理解されていません。

 

「魂」とは、この世で唯一の永遠の実在であり、永遠不滅の普遍的な存在であり、この意味において、「神」(ブラフマン)と同義なのです。

 

それが、本当の自分であることを真に理解できれば、真理を求める探求は終わります。

(この理解は、頭の中で起こる訳ではなく、直接体験を通してやって来るので、直接体験は、必要不可欠ですが、目的地を知っておくだけでも、プロセスを進む際の指標になることでしょう)

 

 

Life in Matter and Life in the Spirit(物質の中の命と霊的な命)

 

霊的な命は、ただ一つの実在であり、永遠の命である。

忙しなく急いでおり、恐れ、危険、病や軋轢を伴う現代人の人生は、真の人生ではない。

富や権力の人生、或いは、物質的な贅沢は、人生の目的ではない。

このような人生は、心の平和や魂の平静を産み出さない。

感覚的な人生は、生きるに値しない。

肉体的感覚の喜びは、猛毒の薬と調合された蜂蜜のようである。

肉体的感覚の愉しみは、数々の欠点や罪、苦しみ、愛着、悪習、精神的な落ち着きのなさが伴い、感覚的喜びへの耽溺は、神への献身を破壊し、実在を探究するための心(マインド)の能力を弱める。

感覚は、人生、輝き、力、生命力、記憶、富、名声、神聖、至高の存在への献身を破壊する。

それは、地獄という奈落の底へ人を引き入れる。

世俗的な人生は、哀しみ、苦しみ、束縛に満ちている。

それは、欠点、弱さ、制限に満ちている。

それは、憎しみ、羨望、利己心、裏切り、不安、心配、気苦労、病、死、貧困、不正、詐欺、裏表のある行動、激烈な競争、不純と闇、闘い、騒動、紛争と戦争、失望、絶望、落胆、残忍、搾取、扇動、落ち着きのなさで満ちている。

すべての対象物は、少しばかりの想像の喜びで表面を覆われている。

それは、薄い金メッキの板のようである。

本当には、ここでの人生は、すべて金ピカであり、実質のないものである。

砂糖がけの背後に、苦いキニーネがある。

金メッキの背後では、すべてが真ちゅうである。

所謂楽しみの背後には、苦しみ、惨めさ、苦痛がある。

ここでの人生は、恐れ、愛着、苦難で満ちている。

世俗的な人生は、すべて非実在である。

それは、幻であり、束の間のものである。

それは、取るに足らなく、価値のないものである。

その終わりは、ただの塵である。

ほら、噂話、食べることと眠ること以外には何もない。

すべては、幻想であり、すべては苦しみである。

すべては、束の間のものであり、すべてはすばやく過ぎて行く。

世俗的な経験は、価値はなく、実在ではない。

神だけが、実在である。

あなたがそれらの後に1を加えなければ、いかなる数のゼロでも、価値はない。

同じように、あなたが全世界を所有するとしても、もしあなたが霊的な人生を送らなければ、もしあなたが真我実現を持たないならば、何にもならない。

あなたは、魂で生きなくてはならない。

あなたは、ここで人生にアートマン(真我)を加えなくてはならないだろう。

それは、イエス神が言う「先ずは、王国とその正義を求めなさい。そうすれば、すべてのこれらの物は、あなたに加えられるであろう。」と言っている理由である。

(だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイの福音書第六章33)

永遠に生きることは、豊かな人生である。

それは、豊かで内面的で霊的な人生である。

この人生は、哀しみと苦しみはない。

それは、満たされ完全に独立している。

それは、智慧と永遠の至福に満ちている。

それは、すべてに浸透し、不変である。

完全なる満足と滋養物である。

魂という命を抱き締めなさい。

あなたは、純粋で自由となるだろう。

人生の最高の美は、絶対真理の祭壇への最も親愛なる私利私欲という捧げものである。

生きることは、絶対真理を追い求め、そして勇気をもってすべての障害を乗り越えることを意味する。

人生の最も大きな歓びは、神への献身であり、それ自身のハートで神を瞑想することである。

霊的な人生は、人間の人生に意味を与え、栄光を授ける。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「神は顕現と非顕現として描写されています。

前者としては、神は世界をその一部として包含していると言われています。

もしもそうであるなら、世界の一部としての私たちは、彼を目に見える姿で知っているはずです。」

 

ラマナ・マハルシ

「神や世界の本質について決める前に、あなた自身を知りなさい。」

 

質問者

「私自身を知ることが、神を知ることなのでしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「そうだ。神はあなたの内にいる。」

 

質問者

「それでは、私自身あるいは神を知る上で障害となるのは何でしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「あなたのさ迷う心と、道を踏みはずすことである。」

 

質問者

「神は個人なのですか?」

 

ラマナ・マハルシ

「そうだ。彼はつねに第一番目の人であり、「私」であり、永遠にあなたの目の前に存在する人である。

あなたが世俗的なことに優位を与えてきたため、神は背後に遠のいてしまった。

もしあなたが神のみを求め、それ以外のすべてをあきらめるなら、唯一神のみが「私」、真我として残るだろう。」

 

質問者

「神と真我は別のものなのでしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「真我は神である。

「私は在る」(I AM)が神である。

あたなが自我にしがみついているため、このような質問が起こる。

もしあなたが真我をとらえれば、質問は起こらないだろう。

なぜなら、真我は何も問わないだろうし、問いようがないからである。

もし神が真我から分離しているとしたら、その神は真我のない神であり、それはありえない。

存在していないかのように見える神だけが真に存在し、存在しているかのように見える個人はけっして存在しない。

だからこそ、「自分が存在していない」(シューンニャ=空)ことを知っている状態だけが、栄光ある至高の知識である」と聖者たちは言うのである。

現在のあなたは自分を個人だと考え、そして宇宙が存在し、宇宙の彼方に神がいると考えている。

そのため、そこには分離という観念がある。

この観念が去らなければならない。

なぜなら、神はあなたからも宇宙からも分離していないからである。

『バガヴァッド・ギーター』もこう言っている。

アルジュナよ、

私は万物のハートに宿る真我である。

私は万物の原初であり、中間であり、終末である。

(『バガヴァッド・ギーター』第10章20節)

このように、神はただすべての生けるもののハートのなかにいるだけではなく、彼はすべての支柱であり、すべての源であり、すべての生けるものの住まう場であり、彼らの終着点でもある。

すべてが彼から存在を現わし、彼のなかに生き、ついには彼のなかに溶け去る。

それゆえ、彼は分離していないのである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

アルジュナ

「クリシュナよ 今一度詳しくお話し下さい

あなたの神秘な御力と顕現(あらわれ)について

どんなに聞いても私は飽きない

聞けば聞く程もっとその甘露(アムリタ)を味わいたくなるのです」

 

至上者(バガヴァーン)

「よろしい ではアルジュナ

わたしの光り輝く表現(あらわれ)の

主要なものだけを語って聞かせよう

詳しく言えば際限(きり)がないのだ

 

アルジュナよ わたしは真我(たましい)として

一切生類の胸に住んでいる--また

わたしは万物万象の初めであり

中間であり そして終わりである

ーーーーーーーーーーーーーー

そしてその上に アルジュナ

わたしは全存在を生み出す種子である

動くも 動かぬものの

わたし無しには存在し得ない

 

愛するアルジュナ

いま君が見ているわたしの姿を

見ることは まことに難しいのだよ

神々でさえこの姿を見たいと常に憧れている

 

いま君が見ているわたしの姿は

ただヴェーダを学んだだけでは見えない

厳しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない

そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ

 

アルジュナ

わたしを信じて愛慕することによってのみ

いま君の前に立っている真実の姿を見得るのだ

わたしの神秘に参入できるのは

この方法をおいて他に無いのだ

 

アルジュナよ 利得の業を離れ 空理空論を捨て

わたしを愛慕し わたしのために働き

わたしを至上目的とし 一切生類に思いやりをもつ者は

必ず 疑いなくわたしのもとに来るのだ」
(バガヴァッド・ギーター)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(37)「命」①

『私』とは、肉体(物質)、心(精神)、魂(霊)の三位一体の存在のように言われることがありますが、実は、「肉体」という物質も「心」という精神作用も、「魂」という霊的な存在からの力がなければ、その働きを全うすることはできず、私たちが人間が、「自分」だと言ったり、思ったりしているのは、この「肉体」と「心」であり、「魂」という言葉は知っているけれども、「魂」とは一体どういうモノなのか?を知らないために、自分自身が、「魂」そのものであると考えたことはなく、ましてや、「魂」だけが実在で、「肉体」や「心」は、「魂」の力に依存している幻のような存在であるとは、思えないことでしょう。(このことは、既に前回までの記事で、詳細に書きました)

「魂」については、死んで肉体を離れた後に、「魂」として「あの世」に存在するようになる、というような曖昧な想像の中でしか、存在していない実体のない存在であり、本当のことはよくわからない、と言っても過言ではないでしょう。

特に、宗教的な人でない限り、霊魂について考える時間を持つことも、少ない現代では、目に見えない存在は、無いに等しい存在となっています。

 

ここで言う「魂」とは、オカルトチックな「霊魂」のことではありません。

(多くの場合、「魂」についてはほとんど知られていないために、世の中には、多くの迷信や誤解があることは、事実です)

「魂」は、実体のない存在どころか、むしろ、そちらが「実体」であって、私たちが「実体」だと考えている「私」の方が、実体のない幻のような存在であるということが、真実であり、そのことが明らかになることが、究極の悟りであり、「真我実現」と呼ばれているものです。

 

「魂」とは、ヨーガでは、私たち人間の一人一人のハートに宿っている「真我」(アートマン)であり、サーンキャ哲学では、「プルシャ」とも言います。

「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」(不二一元論)の代表的な提唱者であるシャンカラが遺した「ウパデーシャ・サーハスリー」では、「真我」(アートマン)の性質が述べられていますが、そこにおいては、「真我」(アートマン)が「認識主体」として説かれています。

「認識主体」とは、誰の力も借りずに、何の力にも依存せずに、自らの力で「主体」となっている存在のことです。

私たち人間は、生や死、性別、人種など、自分の力で選ぶことはできません。

いつ、どこに生まれ、いつ、どこで死ぬのか?は、自分の意志や力の及ばないことであることは、誰でも認めることでしょう。

このように、私たちの人生は、ナニカに依存しているわけです。(それを運命と呼ぶ場合もありますが)

そして、「認識」とは、睡眠中に「認識」が起きていない時は、「私」という意識も「世界」も消えていることから、「認識」と「存在」とは、切っても切れない関係にあることは明らかで、私たちは、往々にして、「私」や「この世」があるので、それらを「認識」していると考えていますが、シャンカラは、それは「認識主体」(=真我(アートマン))が実在しているからこそ、その力により、私たちに「認識」が起き、その「認識」が脳に生じているがために、脳に、「私」や「この世」の存在に対する認識が起き、それ故、それらは存在することができるのだ、と述べています。

 

つまり、考える順番が、真逆なのです。

本当の「主体」は、「真我」(アートマン)である「魂」であり、個我の「わたし」は、自分は主体だと思っているけれども、本当は、真我の力によって存在しているに過ぎない存在であるに過ぎなく、そのために、アドヴァイタ(不二一元)では、真我(アートマン)を実在とし、個我の「わたし」は、非実在とか、幻としています。

 

”主体だと思っている”のは、完全なる個我の思い込みであり、その”思い込み”は、個我の脳に湧いている完全な「錯覚」です。

 

真の自己が目覚めると、この「錯覚」は、消滅します。

これが「真我実現」で起こることです。

「真我実現」とは、本当に実在しているのは何であるのか?が、明らかになることです。

 

このことから言えることは、「認識主体」である「真我」(アートマン)なくしては、私たち人間は、「私」という自分も「この世」という世界も認識できないために、存在することができません。

それ故、両者は、「認識主体」である「真我」(アートマン)に、依存しているということになり、自ら存在している「実在」ではなく、真の「実在」は、「真我」(アートマン)だけであり、私たち一人一人は、真の自己である「真我」(アートマン)に依存している実在ではない、非実在、幻のような存在である、ということになります。

 

そして、この「認識主体」である「真我」(アートマン)は、「魂」として、生物のハートに宿っています。(ハートは、必ずしも、「心臓」を意味してはいません)

 

今回からのテーマは、この「魂」の現れである「命」についてです。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、「秘められたるインド」より、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

Life (命)

 

命は、表現となった神である。

命は、喜びである。

命は、霊の歓びのみなぎりである。

命は、意識の流れである。

命は、あらゆる原子において振動している。

すべての中に、命がある。

命のない物質のようなものはない。

命は、一かけらの石にも含まれている。

物質は、命で振動している。

これは、現代科学者達によって、最終的に証明された。

命は、風景が絶え間なく変化する無限の時間の大海における航海である。

命は、不純から純粋へ、憎しみから宇宙的愛へ、死から不死へ、不完全から完全へ、奴隷から自由へ、多様性から単一へ、無知から永遠の智慧へ、苦しみから永遠の至福へ、弱さから無限の強さへの航海である。

命は、神自身へと進化するために、神の子達のために、創造神によって提供された多いなる機会である。

命は、奉仕と献身である。

命は、愛である。

命は、関係である。

生命は、散文詩ではなく、韻文詩である。

命は、科学ではなく、芸術であり、想像である。

命は、礼拝である。

われわれは、過ぎ行く巡礼者として、ここに居る。

われわれの目的地は、神である。

われわれの探究は、失われた遺産ではなく、忘れられた先祖伝来の遺産である。

命における大いなる中心の目的は、神との一体であるという意識の実現に至ることである。

命は、分離した生命としては、何の意味も無い。

命が全部、或いは、全体になる時、個の魂が至高の魂に結合する時にのみ、命は意味を持つ。

 

 

The Goal of Life (命の目的)

 

命の真の目的は、われわれがやって来た源へと還ることである。

川は、水の供給を得る究極の源である大海に合流するまで、休みなく流れる。

火が、それ自身の起源に溶け込むまで、飛び跳ね、激しく燃えるように、また、われわれも、神の恩恵を得て、神と一つになるまで、ここで休まることはないだろう。

命の単独の目的は、真我実現、絶対的な自由の獲得である。

人間の命の目的は、彼の内に永遠に存在する神性を明らかにし、証明することである。

命の目的は、特色のある個性のすべての意義を失い、神に分解されることである。

無限の命の達成は、限定的な命の至高の目的である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

 

ラマナ・マハーリシ

「自分自身に向かって、『私は誰か?』という問いかけをしなければなりません。

この探究は最後には、あなたの内部、心の背後にあるものを見い出すでしょう。

この偉大な問いを解決しなさい。

そうすればほかのすべての問題が解決します」

マハーリシは重ねて言う――

「こう言ったらもっとはっきりするだろうか。

すべての人間は常に悲しみに汚されることのない幸福を欲しています。

つまり終わりのない幸福をつかみたいと思っているのです。

この本能はほんものです。

ところであなたは、人びとは個別の自分を最も愛している、という事実に気づいたことがありますか?」

「というと?」

「すなわち人びとは、あらゆる手段を使って熱心に幸福を得たいと求めている、という事実です。

たとえば酒によって、あるいは宗教によって、これが人間の真の性質を知る手掛かりとなるのです」

「よく分かりませんが--」

彼の声の調子が高くなる。

「人の真の性質は幸福です。

幸福は、真の自己の生得のものです。

彼の幸福の探求は、彼の真の自己の無意識の探究なのです。

真の自己は不滅です。

それゆえ、人がそれを発見するときは、終わりのない幸福を発見するのです」

「しかし世界は実に不幸ですが」

「そう、しかしそれは、世界が自分の真の自己を知らないからです。

すべての人が例外なしに意識的または無意識的にそれを探しているのです」

「よこしまで獣のような人びとや、犯罪者でも、ですか?」

「彼でさえ、犯す罪のひとつひとつに自己の幸福を見いだそうとして罪を犯すのです。

この努力は人間の本能的なものですが、彼らは、実は自分たちは真の自己を探し求めている、ということを知らないものだから、最初は幸福への手段として邪悪な方法を試みるのです。

もちろんそれらは間違った道です。

人の行為は反射されてみずからに戻ってくるのですから」

「ではわれわれは、本当の自己を知ったときに、永続する幸福を感じるのですか?」

相手はうなずく。

斜めに太陽光線が、ガラスのはまっていない窓をとおしてマハーリシの顔にあたる。

しわのよっていないひたいには、澄んだ静けさがあり、しっかりした口もとには満足があり、その輝く目には聖所のような平安がある。

彼のしわのない容貌は、その啓示的な言葉が偽りでないことを示している。

これらの一見簡単な言葉で、マハーリシは何を言おうとしているだろう。

通訳者は確かにその外側的意味は、英語で私に伝えた。

しかし、そこには彼が伝えることのできない、もっと深い意味がある。

私はそれを自分で発見しなければならない、ということを知っている。

賢者は彼のハートの奥から語りかけているのだ、と私には感じられる。

それは、哲学者やパンディット(サンスクリット学者)として自分の学説を説明しようとしているのではない。

これらの言葉は彼自身が経験した幸福のしるしなのだろうか。

「あなたがおっしゃる自己とは、正確には何なのでしょうか?

仰せのとおりだとすると、人の内部にもうひとつの自分があることになりますか?」

彼の口もとは一瞬微笑にゆるむ。

「人が二つの自分をもつことなどできますか」と、彼は答える。

「この問題を理解するにはまず、その人を分析する必要があります。

長い間、他者の考える通りに考えるのが習慣であったために、いまだかつて彼は、正しい態度で彼の『私』に直面したことがないのです。

彼は、自分というものの正しい概念を持っていません。

あまりに長い間、自分を肉体であり頭脳であると思ってきましたから。

だからこの、『私は誰か?』という探求をする必要があるのです」

彼はこれらの言葉を私の内部にしみ込ませるために間をおく。

私は一心に次の言葉を待つ。

「あなたは、この真の自己を説明してくれとおっしゃるが、それは何と言ったらよいか。

それは、『それ』から人の『私』が生じ、それの中に消えていく、それなのです」

「消える?」答えが反響する。

「どうして人が、自分という感覚を失うことができるのですか?」

「あらゆる思いの最初の最初、すべての人の心に浮かぶ原初の思い、それが『私』という思いです。

この思いが生まれたあと、ほかのあらゆる思いが生じます。

第一人称代名詞『私』が心に生じたあとに、第二人称代名詞『あなた』は現れるのです。

もし『私』という糸を心でたどり、ついにその源に至るなら、それが最初の思いであると同時に最後に消える思いであると、発見するでしょう。

これは経験できる問題です」

「そのような自己の内部への心理的探求はわれわれに充分できる、とおっしゃるのですね?」

「そうですとも!最後の思いである『私』が徐々に消えていくまで、内に入ることができるのです」

「何が残るのですか?」と私はたずねる。

「人はそのときまったく無意識になるのですか?

それとも馬鹿になるのでしょうか?」

「そうではない!まったく逆です。

人の真の性質、真の自己に目覚めると、彼は永遠の意識となり、本当の意味の賢者となるのです」

「しかし、『私』という感覚も、間違いなくそれについてくるのではないですか?」

「『私』という感覚は人格、肉体、頭脳に付属しています」とマハーリシは静かに答える。

「人がはじめて真の自己を知るとき、なにか別のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を占領します。

そのあるものとは、心の背後の無限、神聖、永遠です。

ある人びとは天の王国と呼び、ある人びとは魂と呼び、ある人びとはニルヴァーナと呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼びますが、あなた方は自分たちの好きな名で呼んだらよいでしょう。

これが起こるとき、みずからを失うことは全くなく、むしろ彼は自己を発見するのです」

「人が真の自己のこの探究をはじめない限り、また、それをはじめるまでは、生涯を通じて疑惑と確信の欠如がついてまわるでしょう。

偉大な王や政治家は他者を支配しようと努めますが、同時に心の奥底では、自分が自分を支配し得ないことをよく知っています。

しかし、自分のもっとも深いところを洞察できた人は、最大の力を駆使できるのです。

生涯をさまざまな知識の収集に費やす知性の巨人に、人間の神秘を解明できたかどうか、彼ら自身を征服し得たかどうか、聞いてごらんなさい。

彼らは恥じて頭をたれるでしょう。

自分は何者か、ということをまだ知らないで、あらゆることを知ったとして何になりますか。

人々は真の自己へのこの探究を避けますが、ほかの何がこれほどの価値をもつでしょうか」

「真理の実現は、インド人にとってもヨーロッパ人にとっても同じです。

それにいたる道は、世俗の生活に巻き込まれている人びとにとってはより難しいだろうことは認めますが、それは成し遂げられるものであり、成し遂げなければならないものなのです。

瞑想でもたらされた流れは、実践によって習慣にすることができます。

すると仕事や活動をまさにその状態のまま、おこなうことができるようになります。

それは中断されることはありません。

瞑想と外面的活動との間にちがいはなくなるのです。

もしあなたが、私は誰か、を瞑想するなら――もし肉体も頭脳も欲望も本当の自分ではないということを認識しはじめるなら、その探究自身が、ついには存在の奥底から答えをもたらすでしょう。

それはおのずと深い悟りとしてあなたにおとずれるでしょう。」

「真の自己を知りなさい。

そうすれば真理が、あなたのハートで太陽のように輝くでしょう。

心は悩みなく、真の幸福にあふれます。

幸福と真の自己とはひとつのものですから、ひとたびこの自己に気づけば、けっして疑いを持つことはありません」

(秘められたるインド by ポール・ブラントン)

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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