永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(36)「創造」⑤

「世界の実在性と創造の理論」におけるアドヴァイタ(非二元)的宇宙は、二元世界に生きている私たちには、理解し難い宇宙観ではありますが、これが、究極的な真理であり、そこに至ることが、Moksha(解放、解脱)、つまり、ヨーガの究極的な目標であることは、古今東西の聖者と呼ばれる方々が、それぞれに遺された御言葉からも、明らかです。

 

前々回では、私たちは、宇宙を直接体験しているようでいて、実は、肉体にある感覚知覚器官を通した情報を脳内で再構築することで、宇宙を宇宙として認識していること、そして、前回では、この再構築(認識)が起きているのは、脳内であり、その一連の脳内の情報処理作用(機序)を「心」と称しており、つまりは、この世を体験しているのは、肉体であるようでいて、実は、「心」であるということをお伝えしました。

(それ故、「心」が認識する「世界」は、「心」の数だけあることになり、同じ地球上における体験であるにも拘わらず、その体験は、「心」によって異なり、体験される「世界」も、それぞれの「心」によって、異なることになります)

 

「心」が無ければ、どんな体験も起こり得ません。

睡眠中は、「心」の働きは起きていないため、「心」はない、と言えます。

「心」のない状態においては、「私」という「主体」も、その「主体」が体験している「世界」もない、ということを確認しました。(「心」=「私」であると言っても過言ではありません)

「世界」と「私」(=心)は、相関関係にあり、両者の関係は、どちらか一方では、あり得ないということになりますが、(「世界」を認識する「心」が無くては、「世界」は無い、ということ)「心」が働いている間に限って、「世界」は存在していることからすると、「世界」を在らしめているのは、私たちの「心」ということになります。

 

しかし、その「心」でさえ、24時間働き続けている訳ではありません。

一日の何時間は、「心」は消えている状態がありますが、それでも、私たちは、その状態を「睡眠」と呼び、「私が寝ている」とし、目覚めが起きて、「世界」を認識する「心」が働き始めると、それと同時に、「私」と「世界」は、同時に出現する訳ですが、一般的には、「世界の中で寝ていた私が、世界の中で目覚めた」という具合に捉えられているために、「主体」は、いつも必ず「私」であることが、人間共通の認識における暗黙のルールとなっています。

 

この一連の流れは、無意識に起こるために、私たちは、当たり前のこととして、「主体は私である」ということに、何かしらの疑問や不都合や矛盾が起こることはありません。

そして、睡眠中も、肉体は在るために、深い睡眠の中で、たとえ「私」(=心の働きの中の自我意識)がいなくなっても、目覚めれば、「私」は、眠りに就く前の「私」に戻り、それが自動的に起こるために、睡眠中の「自己の不在」に対する恐れも不安も疑問も起こらず、よって、継続した「自己の実在性」への疑いは起こりません。

 

しかし、「私」だと思っている「私」は、睡眠中では消えているのに、肉体は存在している訳ですから、「私」(という意識=自我意識)が、肉体を有らしめ動かしている「本当の主体」ではない、ということは明白です。

 

この事実から言えることは、脳は、人間の体の各部位に命令や指令を出し、また、各部位からの情報を処理する変換機でもあるため、肉体全体の司令塔、制御装置のような役割をしている一つの器官に過ぎないということです。

そして、「私」(という自我意識)は、脳内にあり、睡眠時に起きている事実から推察すると、脳の活動に連動していることは明らかで、この脳の司令塔の役割が、「私」という別称で呼ばれていると見ることも可能かと思われます。

 

そして、更に見て行くと、この司令塔である脳ですが、生物発生学的には、一番最後にできる器官なのです。


卵子精子が一つになり、その後、細胞分裂を繰り返し、体を構成する各器官ができ、そして、体の各部位ができていきます。
その中で、一番最初に発生するのは、心臓で、約10ヶ月かけて、体が完成し、出産を通して、"私"が誕生します。

この事実から見ると、発生学的には、少なくとも、肉体で最も重要なのは、脳よりも心臓ということになります。
また、自我意識である"私"の誕生は、体の誕生よりも、もっと後のことで、発達心理学では、誕生後、言葉を発するようになる1歳半~3歳位と言われているようです。

「私」という自我意識や思考の発生源は、脳にありますが、体全体の発生源は、心臓なのです。(その前は、卵子精子、つまり遺伝子です。)

 

心臓が止まると、全身に血液を送れなくなるので、30分後には、脳のニューロンが死滅してしまい、司令塔は司令塔の役割を果たせなくなるために、やがて肉体のすべての器官の働きが停止します。
これが、"脳死"と言われているもので、日本では、法律上の死となっています。

しかし、胎児においては、脳の発生前から、既に心臓の原型は動いていて、生命エネルギーを体全体に届けています。

(このことは、記事の最後にご紹介します受精から胎児になるまでの成長のプロセスの動画でご確認下さい)


このことからも、個人の"私"の源は、少なくとも、脳ではなく、心臓だと言うことになりますが、しかし、心臓は、脳の背後にあって、司令塔である脳を動かしている隠れた存在ではありますが、それでも、心臓も体の中で働く一つの臓器に過ぎません。

この心臓も、自ら動いているように見えても、実は、そうではなく、他の臓器に先駆けて生み出され、動き出したに過ぎない体全体に生命力を送るための一つの臓器と言えます。

そして、この先が、とても大切なのですが、ここに因果律(縁起の法則)を適用するならば、この心臓を動かしている力の源があることになり、体の源である心臓を動かす源がなくては、心臓は動かない、と推論することができます。


この心臓を動かす源は、当然、個人である"私"の源のはずです。

心(脳)は、主体(主人)のように働いていますが、「本当の主体(主人)」ではありません。

この「本当の主体(主人)」の力により、心臓が働き、脳が働き、そして、全身が生命体として躍動することができるのです。

個人の"私"を有らしめている源は、心臓に宿る「本当の主体(主人)」です。

これを、ヨーガでは、真我(アートマン)と呼んでいます。

 

『生類の玄洞(心臓)に鎮まれている真我は、微なるよりも微に、大なるよりもさらに大なり。』(カタ・ウパニシャッド

 

『この見難き秘奥に匿(かく)れ、玄洞(心臓)に棲み、深淵に潜む久遠の神(真我)』(カタ・ウパニシャッド

 

この心臓に宿っている「本当の主体(主人)」である真我(アートマン)を、己の中に見出すことで、「自分とは、本当は、何者であるのか?」という問いへの答えを得ることができます。

 

本当のわたし(本当の主体)は、この肉体でも、この世を体験している心でもなく、時空間を超えた永遠の実在です。

それが、真の自己である真我(アートマン)、魂の姿であり、アートマン(魂)は、この宇宙で唯一の実在である神我である大霊(ブラフマン)と同一です。

 

ここに至って初めて、現象的宇宙の実相、アドヴァイタ的宇宙の仕組み(カラクリ)が明らかになります。

(肉体を通して心が体験する現象的宇宙である物質界、そして、心だけが体験する心象的宇宙であるアストラル界は、宇宙の実相そのものではありません。

両方とも、「心」に投影された影のような存在であり、本当の意味での「実在」ではないのです)

 

こうして、「私」と「世界」の関係性が明らかになることで、Moksha(解放、解脱)が起こります。

 

「わたし」も「世界」も消滅しますが、それでも、尚、「至高の一者」が、すべての存在の源として、何にも依存せず、実在として在り続けています。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

 

「God Only Is:The World Is Not(神だけが存在する:世界は存在しない)

 

実際には、永遠のブラフマンがあるだけである。

実は、他には何も存在しない。

不可分なサッチダーナンダ(※)の塊である絶対者ブラフマンだけが、存在する。

創造は、夢である。

目覚めも、また、夢である。

肉体は、夢である。

この全世界は、完全な虚偽である。

この世は、完全に、非実在である。

感覚的な喜びは、夢の中で不妊の女性の息子を愛撫するようなものである。

天国、解脱と世界は、不妊の女性の息子のように、単なる言葉であるだけである。

すべては、大いなる幻影である。

夢も、深い眠りも、天国も解放もない。

真実は、すべては平和であり、永遠の至福である、ということである。

ここでは、何も生まれていないし、何も死んでいない。

すべての教えの主題、目的は、言葉、或いは、音の遊びであるだけである。

内側と外側である無限は、空間と時間と通して、この世として現れている。

ブラフマンは、世界とし現れている。

世界は、ただの顕れである。

それは、ロープの中の蛇のようであり、蜃気楼の中の水のようであり、空の青さのようなものである。

蛇は、ロープだと思う無知のせいで、現れている:ロープが知られると、蛇は消える。

世界は、真の自己の無知のせいで、顕れている。

アートマン(真我)の智識がある時は、顕れない。

人が真の自己を忘れる時、ブラフマンが宇宙として、彼に顕れる。

人が、自分自身の真の自己に確立する時、宇宙はブラフマンとして顕れる。」

(※:サッチーダーナンダ=サット(実在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)が、”不可分の一つ”として在ることをこの一言で表している)

 

 

Know the Truth(真理を知りなさい)

 

もしあなたが、真の自己の智識を獲得したら、人生の意味は、神秘であることを止めるだろう。

あなたは、明確に、この宇宙の何故?とどのように?を理解するであろう。

物事の性質における目的と進歩は、あなたにとって明確になるであろう。

すべての超越的な物事は、あなたの手の平の中のリンゴのように、知られるであろう。

感覚を引っ込め、瞑想しなさい。

あなたのハートの奥まった処に、深く潜り込みなさい。

あなたは、経験的なリアリティとは非常に異なる、時間のない、空間のない、変化のないリアリティである実在の目覚めを持つだろう、

あなたは、この単なる真実のリアリティの外側であるモノは何でも、単なる顕れ、マーヤ(幻影)であり、夢であるということを感じ、経験するであろう。

絶対的な真理を悟りなさい。

あなたは救われるであろう。

あなたは解放されるであろう。

あなたは悟るであろう。

あなたは自由である。

あなたは、ブラフマンになることによってのみ、ブラフマンを知ることができる。

ブラフマンになることは、神聖なる性質-あなたの本質的な性質を構成している至高の魂―とあなた自身を同一視することである。

ブラフマンを知る者は、ブラフマンになる。

川は、大海に合流し、大海と一つになる。

水滴は、海に混ざり、海と一つになる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda )

 

 

『質問者

「世界のなかの名前や形は実在なのでしょうか?」

 

マハルシ

「名前や形をアディスターナ(根底に在るもの)から分かつことはできない。

あなたが名前と形を理解しようと試みると、そこにはただ実在だけが在ることを見いだす。

それゆえ、つねに実在であるものの知識を達成しなさい。」

 

質問者

「なぜ目覚めの状態はこんなにも実在のように見えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「われわれは映画のスクリーン上にたくさんのものを見る。

だが、それは本物ではない。

スクリーンを除いては、何ひとつそこに本物はない。

それと同じように、目覚めの状態のなかにもアディスターナ以外には何も存在しない。

世界の知識とは、世界を知る者の知識である(ジャーグラト-ブラマーはジャーグラト-ブラマタのプラマーである)。

どちらも眠りのなかでは消えてしまう。」

 

質問者

「なぜ私たちは世界のなかに永続性や一貫性を見るのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは誤った観念のためである。

誰かが、同じ川で二度沐浴をしたと言ったなら、それは誤りだ。

なぜなら、彼が二度目に沐浴したとき、川はすでに一度目に沐浴したときと同じではないからだ。

炎の輝きを見るとき、人は同じ炎をを見ていると言う。

だが、炎は一瞬一瞬変化しつづけている。

目覚めの状態もこのようなものである。

一定した現れは知覚の判断の誤りなのである。」

 

質問者

「誤りはどこにあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「プラマタ(知る者)にある。」

 

質問者

「知る者はどうやって現れたのでしょうか?」

 

マハルシ

「誤った知覚のためである。

実際は、知る者と彼の誤った知覚は同時に現れる。

そして真我の知識が得られたとき、どちらも同時に消え去るのである。」

 

質問者

「知る者と彼の誤った知覚はどこから現れたのでしょうか?」

 

マハルシ

「その質問をしているのは誰だろうか?」

 

質問者

「私です。」

 

マハルシ

「その「私」を見いだしなさい。

そうすればすべての疑いは消え去るだろう。

夢の中に偽りの知識、知る者、そして知られるものが立ち現れるように、目覚めの状態の中でも同じ過程が作用する。

どちらの状態のなかでも、「私」を知ることであなたはすべてを知り、他に知られるべきものは何も残らない。

深い眠りのなかでは、知る者、知識、知られるものは不在である。

これを同じように、あなたが真の「私」を体験した瞬間、知る者、知識、知られるものは存在しなくなるだろう。

目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、知る者だけに起こる。

そしてその知る者自身が非実在であるため、実際は、いままでも何も起こってはいなかったし、いまも何も起こってはいない。

そしてこれからも、何も起こらないのである。」

 

質問者

「「私」という感覚と世界の知識を与えている光は、無知でしょうか、それともチット、意識でしょうか?」

 

マハルシ

「「私」が他と異なっていると信じさせるのは、チットが反映した光である。

このチットが事物を創造させるのである。

だがこの反映のためには、そこに反映されるべき表面がなければならない。」

 

質問者

「その表面とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現したとき、あなたはその反映と反映される表面が、実は存在していないことを知るだろう。

だが、それらはひとつであり、どちらも同じチット(意識)なのである。

世界は存在する。

世界はその存在のために場所と、それを知覚可能にするために光を必要とするそのどちらも同時に立ち現れる。

それゆえ、世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依存しているのである。

世界は深い眠りのように、アヴィディヤー(無知)の完全な暗闇のなかでは見ることができないし、また真我実現やサマーディのように、完全な光のなかでも見ることができないのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(35)「創造」④

ここ数回にわたり、創造と世界の実在性について、アドヴァイタ(非二元)の世界観をご紹介しています。

 

アドヴァイタ(非二元)の世界観は、自己意識との密接な関係性を抜きに、理解することはできません。

両者は、切っても切れない関係にあるからです。

前回の記事の中では、私たち人間が、外界を認識する際の情報処理プロセス、身体にある5つの感覚知覚器官で得た情報が、どのような仕組みで脳に伝達され、そして、脳で再構築され、再現されるのかについて、詳しく見てみました。

直接体験しているように見えても、実は、それは間接体験であることは、身体の仕組みから言えば、やむを得ないことですが、それが、「ロープを蛇に見間違える」という「錯覚」の原因になっているということは、なかなか実感を伴って、納得することはできないことでしょう。

 

私たちは、寝ている間に、夢を見ますが、感覚知覚器官は対象物から情報を得ている訳ではないのに、脳の中では、夢の世界が展開します。

それは、仕組みとしては、過去に蓄積された情報が元になり、脳の中で、夢の世界が構築され、見える形で、夢の世界が現われるからと言えます。(しかし、この場合も、目と言う感覚知覚器官が使われている訳ではなく、夢を見ているのは、目ではなく、脳ということになります)

夢は、脳が見ている映画のような世界と言えます。

このように、私たちは、リアルな感覚知覚情報がなくても、脳の中に、世界を構築できるわけです。

この時の脳の中に現われた世界は、私たちが目覚めている状態で、夢想、空想、想像によって脳に描くビジョン(映像)に、よく似ています。

しかし、夢の世界、空想、想像の世界は、感覚知覚器官を通して得られた情報を元にして再現された世界ではないことを、私たちは知っているので、その世界に実在性を感じて、現実だと思うことはありません。

それらは、純粋に、心だけが体験する世界であり、物質次元ではない架空の世界だという認識があります。

一般的常識的な感覚から、私たちは、無意識に、肉体が体験する物質世界を現実、そうでない心だけが体験する世界を非現実だと識別しているので、この識別知が正常に働いている間は、夢の世界と現実の世界を混同することは起こりませんが、何らかの原因があって、脳がせん妄状態にある時には、この識別知が働かないために、夢と現実の境が消えてしまい、認識に混乱が生じてしまい、非現実と現実が混同された世界を体験することになります。

 

私たちは、通常は、この肉体が体験する世界を現実=実在だと、無意識に認識しており、このことを疑うことはありません。

そして、映像だけの世界、例えば、TVなどに映される映像も、ドラマなら、フィクション(創作)であり、ドキュメンタリーなら、ノン・フィクション(実写)であるという認識で、TVの画像を観ている訳です。

しかし、ノン・フィクションの映像であっても、その映像を見ない人にとっては、無いも同じです。

そして、たとえ、その影像を見た人であっても、それは映像を通して心だけが体験する世界なので、夢と同じくらいのリアリティをもった体験に留まり、自分が体験した世界ほどには、実在感は湧かないことでしょう。

 

また、薬物などの作用で、リアル感に満ちた幻覚の世界を体験することがあります。

それは、薬によって脳神経が興奮状態になり、幻覚が生じることで、その幻覚の世界をリアルに感じる訳ですが、脳の興奮が収まれば、幻覚は消えます。

このように、薬物の作用ではなくても、時に、心(脳)だけが、体験する世界があり、しかもその世界は、空想や想像の世界よりも、リアルに感じるために、それをアストラル界と呼ぶことがあります。

アストラル界は、心(脳)だけが体験する世界ですが、アストラル界では、物質次元よりも自由が利くため、心は、より自由を感じ、肉体次元では不可能であるような宇宙旅行や世界旅行、今は亡き先祖や高次の存在とされているような聖者や神々、天使や妖精など、非現実な存在に出会ったり、というように非現実な世界を構築して、その世界を体験することがあります。

アストラル界における体験は、メンタルな世界での体験ですが、夢と同じような睡眠中の非現実の世界という訳ではなく、脳が体験する世界であるために、覚醒時におけるある種のリアルな感覚が伴っているため、全くの想像、空想の世界という訳でもありません。

そうは言っても、アストラル界は、肉体が体験している物質次元とは違い、身体にある感覚知覚器官を通して体験する世界ではないために、脳内で生じている感覚を伴った一種の幻想の世界であり、宇宙の実相の直接体験とは言えません。

しかし、物質次元における体験も、アストラル次元における体験も、その体験の情報がどのようなルートでやって来たか?は、わからなくても、それは脳にとっては大きな問題ではなく、どちらも脳内で再現された世界であり、リアルな感覚を伴うものなのです。

 

そして、ここで注目したいのは、対象物が物質的なモノであろうと、夢の世界の産物であろうと、それらから得られる反応としての感情は、ほとんど違いがないということです。

恐い夢を見て、汗をビッショリ掻いて、目覚め、「あー、怖かった!」と思うこともありますし、夢の中で悲しくて泣いたら、枕が本当に涙で濡れていたということもあることでしょう。

 

このように、体験しているのは(体験として認識しているのは)、心なのです。

同じ風景を見ていても、ある人は、山を見、ある人は、麓の家を見、ある人は、空に飛ぶ鳥を見、それぞれに関心がある、興味があるものを見ており、それが、その人の世界であり、人が体験する世界は、同じようで、全く同じではない、ということが言えます。

山だけを見ている人には、家も空を飛ぶ鳥も存在していません。

つまり、意識するモノだけが、その人の世界、体験する世界であると言えます。

 

このように、心に起きた反応を体験と呼んでいる訳ですが、反応は、いろいろな条件に左右され、現実と非現実の境は曖昧なことも多く、脳の認知機能によっては、現実と非現実は混同されることもあり、また、一分前に起きた現実は、今は、もう記憶の中以外には、どこにも無い(ビデオなどの映像の中には残っていても)一種の夢とも見間違えるほどのリアリティしか感じられないこともあり、何をもって「実在」(現実ではなく)と言うかというところに、非二元の世界観を理解する上での重要なポイントがあります。

 

次回、更に、世界の実在性と意識との関係を見て行きましょう。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

Why Has God Created This World?(何故、神はこの世界を創ったのか?)

 

「何故、神はこの世界を創ったのか?」という問いに対する答えは、とても不十分なものである。

彼自身の賞賛のために?

私たちは、あまりに多くの曖昧さを彼に帰することはできない。

人類への愛によって?

彼は、それが存在する以前に、一つのモノを如何にして愛するのだろうか、惨めで永続する苦しみのために何万ものモノを創造することが、如何にして、愛と呼べるのだろうか?

世界の創造は、倫理的必然性である。

それは、魂に歓びの果実を与え、彼らが神の実現に達成するのを助けるためにある。

神の創造に対する神の望みは、彼の創造を彼自身の覚醒をもたらすために必要とされるすべてを供給することである。

「何故、神は世界を創造したのか?」という問いは、形而上の問いである。

限定された心は、適当な答えを与えることはできない。

理由は、世俗的な問いにのみ、答えを与えることができる。

問い自体が、誤っているのである。

無知やマーヤ(幻妄の力)やサムサーラ(輪廻転生)に対する原因とは、何であろうか?

これは、形而上のものである。

原因を探究する中で、あなたは、あなたの原因作用の内なる精神的な器官がもはや利用できず、そのために作られていない領域の中に突入するために、それを乱用する。

あなたは、無知、苦しみ、惨めな状態でここにいる。

あなたは、それらから離れた方法を知っている。

それらに対する原因の問いは、無意味である。

粗大であり、時間と空間と因果律に条件づけられた限定された心は、超越的な問いである宇宙の何故?と如何に?を理解することができない。

問いは、誰にも、聖典によっても、聖者や教師によっても、答えられたことはない。

この点に、あなたの心を留めてはならない。

あなたは、この問題に対する解答を得ることは、けっしてできない。

この宇宙を創造することは、ブラフマンの遊戯の輝き(Lila-vilasa)なのである。

それは、彼のマーヤ(幻妄の力)である。

それは、彼の性質なのである。

あなたは、単にあなたのエネルギーと時間を、「何故、神はこの世界を創造したのか?世界は、実在なのか?非実在なのか?」という問いに関する熱した討論に突入することで、浪費するだけである。

世界が実在であろうか、そうでないかは、あなたには、構わないことであろう。

あなたは、このような議論の中に入ることによって、何か価値のあるモノを得ることはないであろう。

あなたは、至高の真我に留まるために、心(マインド)と外に向かう感覚を引っ込めることで、あなたのハートの空洞(※)に深く潜って行かなくてはならないであろう。

それ故、これらの無益な討論を諦め、真の自己の探究とその実現に真直ぐに進みなさい。

木の葉っぱの枚数を数える代わりに、果実を直接食べようとしなさい。

実現によって真の自己の永遠の至福を楽しもうとしなさい。

これは、智慧である。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda )

 

(※)『この見難き秘奥に匿(かく)れ、玄洞(心臓)に棲み、深遠に潜む久遠の神(真我)」』(カタ・ウパニシャッド

 

 

『質問者

「まだまだ完全に理解できたとは言えません。

私たちがさまざまな方法で見、感じ、触れているこの世界は何か夢のようなもの、幻想なのでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるならば、世界を非実在として受け入れる以外に方法はない」

 

質問者

「なぜでしょうか?」

 

マハルシ

「その理由は明らかだ。

世界が実在だという考えをあなたが捨て去らないかぎり、あなたの心はいつも世界を追い求めるからである。

存在するものは実在だけであるにもかかわらず、現れを実在と見なせば、実在そのものを知ることはけっしてできないだろう。

このことが「ロープのなかの蛇」という類似性によって説明されている。

あなたは騙されて一本のロープを蛇だと信じこむかもしれない。

そこに蛇を見ているかぎり、ロープを見ることはない。

あなたにとっては実在しない蛇が実在し、本物のロープがまったく実在していないように見えるのである。」

 

質問者

「究極的には世界が非実在だということを試みに受け入れることはできるのでしょうが、それが本当に非実在だと確信するのは難しいことです。」

 

マハルシ

「あなたが夢を見ている間は、その夢でさえも実在なのだ。

夢がつづいているかぎり、あなたが見たり感じたりするものはすべて実在である。」

 

質問者

「では、世界は夢と同じだということでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが夢を見ている間に、実在としての感覚のなかで何かおかしいと感じることはないだろうか?

あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだはずの人と会話をするような夢を見たとしよう。

一瞬あなたは夢のなかでその夢を疑って自分自身に言うだろう。

「彼は死んだのではなかったか?」

けれどもあなたの心は、何とかしてその夢のできごとと和解して、夢の目的に合わせてその人が生きていてもよいとする。

つまり夢は夢として、あなたがその実在を疑うことを許さないのである。

夢でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の実在性を疑うことはできない。

心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることができよう。

これが夢見の世界と目覚めの世界を比較した理由である。

どちらも心の産物なのである。

心がどちからかに没頭しているかぎり、どちらの実在性も疑うことができない。

夢を見ている間は夢見の世界の実在性を疑えず、目覚めているときは目覚めの世界の実在性を疑うことができない。

反対に、もしあなたが心を完全に世界から引っ込めて内側に向かい、そこにとどまるならば、つまりもしあなたがつねにすべての体験の根底である真我に目覚めつづけるなら、あなたが今気づいている世界は、あなたが夢見のなかで生きていた世界と同じように非実在であることがわかるだろう。」

 

質問者

「私たちはさまざまな方法で世界を見たり感じたりしています。

これらの感覚は、見られ感じられる対象物の反作用であって、人によって異なるばかりか同じ人にとってさえ異なるため、心が創造した夢の世界とは違ったものです。

このことは、じゅうぶん世界の実在性を実証しているのではありませんか?」

 

マハルシ

「世界と夢との矛盾に関する話は、あなたが目覚めている今だけ現れる。

あなたが夢を見ている間、夢はひとつの完全に統合された統一体としてあった。

つまり、夢の中で喉が渇いたとき、幻の水を幻に飲んでも、幻の喉の渇きは癒されたのである。

だが夢自体が幻想だと知らないかぎり、このことはあなたにとって真実であり、幻想ではない。

目覚めの世界についても同じことが言える。

あなたの今の感覚が、世界は実在であるという印象をあなたに与えるように調整をしているのである。

その反対に、もし世界がそれ自体で独立した実在ならば、眠っているとき、なぜ世界は現れないのだろうか?

眠りのなかであなたが存在していかなったと言うことはできない。」

 

質問者

「私は、私が眠っている間の世界の存在を否定などしていません。

それはずっと在りつづけています。

私が眠っている間に見なかったとしても、他の眠っていない人たちが世界を見たでしょう。」

 

マハルシ

「眠っている間もあなたが存在していたというために、それを証明してくれる他者の証言が必要だろうか?

なぜあなたは今その証言を求めるのかね?

あなたが眠っている間に、他者が世界を見たと告げることができるのも、あなた自身が目覚めているときだけである。

あなた自身の存在に関しては別である。

目を覚ましたとき、あなたはよく眠ったと言う。

そう言えるということは、最も深い眠りのなかで、あなたはあなた自身に気づいていたのだ。

ところが世界の存在についてはまったく気づいていなかった。

目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、それともあなただろうか?」

 

質問者

「もちろんそれを言うのは私ですが、私は世界について言っているのです。」

 

マハルシ

「なるほど、あなたは世界が実在だと言う。

だとすれば、自分自身の実在性いついてさえ無知なあなたが、世界の実在性を証明しようとしていることを、世界は無私しているのである。

いずれにせよ、あなたは世界が実在であると主張したがっている。

その実在性の基準とは何だろうか?

何にも依存せずそれ自体で存在し、それ自身によってそれ自身を現わすもの、そして永遠で不変なるもの、それが実在である。

世界はそれ自身で存在するだろうか?

世界が心の助けなしに見られたことはかつてあっただろうか?

眠りのなかでは心も世界も存在しない。

目が覚めれば心があり、世界が存在する。

この不変の付属関係は何を意味するのだろうか?

あなたは科学研究の基礎そのものと見なされている帰納法の原理をよく知っているだろう。

世界の実在性についてのこの問いを、なぜこの一般的な論理の光のなかで解決しないのか?

あなたはあなた自身について「私は在る」と言う。

つまり、あなたの存在は単なる存在ではない。

それはあなたが意識している存在である。

実に、それは意識と同一の存在なのである。」

 

質問者

「世界はそれ自身を意識していないかもしれませんが、それでも存在しているのです。」

 

マハルシ

「意識とはつねに真の自己意識である。

もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識しているのである。

自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。

それはまったく存在などではない。

それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質そのものである。

それはヴァストゥ(実在)である。

それゆえ、実在はサット-チット、つまり存在-意識として知られており、単に他方を除いたものなどではけっしてない。

世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。

どうしてそのような世界を実在と言えよう?

さらに、世界の本性とは何だろうか?

それは尽きることのない変化であり、絶え間なく、果てしない流転である。

依存し、非-自己意識であり、永遠に変化しつづける世界は、実在ではありえない。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(34)「創造」③

前々回から、「世界の実在性と創造の理論」について、ヨーガの世界観をご紹介しています。

通常、このことを理解することは、かなり難しいので、少し、噛み砕いた説明を試みてみようと思います。

 

改めて、私たちは、どのようにして、世界を体験(認識)しているでしょうか?

 

身体にある感覚知覚器官で得られた感覚情報は、神経線維上は、速い電気現象(活動電位の伝導、または興奮の伝導ともいう)によって、ニューロンニューロンの間隙(シナプス間隙カンゲキ)、およびニューロンと効果器(神経筋接合部)のシナプス間隙は、化学物質(特有の神経伝達物質)によって行われ、末梢から中枢(脳)へとすばやく伝達されます。

 また、身体や内臓の筋肉を動かす時は、同じように、中枢から末梢へと指令が伝達されます。

こうして、人間の体験は、全身からの感覚情報を中枢である脳に伝える神経である求心性神経(感覚神経)、中枢(脳)からの指令を身体の各部位に伝える神経である遠心性神経(運動神経)によって、支えられています。

 

つまり、世界の認識は、一端、求心性神経を通る際には、プラス、マイナスの電気信号に変換され、脳に達した情報は、また、適当な処理を施され、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという感覚に再現されるという一連のプロセスが瞬時に起こることで、体験している世界が、脳内で自動的に(無意識に)再構築されているのです。

こうして、直接体験しているように思われる世界も、実は、脳内で再構築された世界と言えます。

それ故、肉体の有限な感覚知覚器官を通して体験された世界は、限定された宇宙であると言わざるを得ません。

 

例えば、通常の人間は、3色型色覚(赤、緑、青)ですが、非常に稀に、4色型色覚の人もいます。

鳥は、4色型色覚を持つと考えられており、多くの哺乳類は、2色型色覚を持っています。

このように、視神経がどの波長の光に反応するかによって、体験する世界は違って来ることもある訳です。

同じ世界を体験していても、感覚知覚器官が異なるために、世界に対する認識は異なるため、結果として、違う世界を体験している、と言えます。

そしてまた、この電気信号が、何らかの理由で、神経回路間でスムーズに伝達されなかったり、脳において、情報処理が上手く働かなかったりすることも起こり得ます。

それは、人それぞれであり、私たちは、自分が体験している世界が、他人が体験している世界と全く同じであるか?は、断定することはできないのです。

 

視覚に関して言えば、電磁波の波長が、下界は約360-400mn、上界は760-830nmで、可視光線より波長が長くても(赤外線)、短くても(紫外線)、見ることはできません。(太陽光と呼ばれる電磁波の多くは、可視光線です)

しかし、中には、紫外線が見える人がいたり、視力によって、又は、視神経の状態によって、歪んで見えたり、欠けて見えたり、体験する世界は、異なることもあるのです。

 

しかし、このような身体に起きている情報伝達の仕組みから、一つだけ言えることがあります。

 

それは、各自が体験している世界は、脳(心)の中にあると言うことです。

 

この脳(心)について、深く理解することで、自分という存在と自分が体験する世界との相関性が、これまでとは違った形で、見えてくることでしょう。

 

少なくとも、私たちは、世界を直接体験しているようで、実は、それは間接体験だということに留意するならば、限定された感覚知覚器官によって認識された世界は、やはり限定された世界であり、日常生活を送るには、それで充分ですが、宇宙の実相を知るには、それだけでは充分ではないことは、明白です。

 

私たちの感覚知覚器官が、限定的であるために、体験も限定的であり、且つ、間接体験であるがために、ロープが蛇に見えてしまう、ということが起きてしまっています。

それが、マーヤ(幻妄の力による錯覚)の原因とも言えるのですが、肉体を通して、この世を体験している私たちには、この「錯覚」が常に起こり続けているために、この「錯覚」を「錯覚」だと見抜くことができません。

それ故、宇宙の本当の姿である実相を知るには、この「錯覚」を取り除く必要があります。

ロープをロープとして見るためには、「錯覚」は邪魔なのです。

この私たちに生じている「錯覚」を取り除くためには、「錯覚」が生じる源である五感(五つの感覚知覚器官)の働きを全て取り除く必要があることになります。

 

このために、ヨーガでは、深い瞑想が推奨されているのです。

(深い瞑想中は、睡眠中と同じく、五感は働いていません)

 

五感を通してではなく(「錯覚」を通してではなく)、世界を直接体験した時、それはどのような世界なのでしょうか?

これを識ることは、宇宙の実相を識ることであり、これは、ヨーガでは、”ブラフマンの智識(Brahman-Jnana)”と呼ばれている、究極の真理です。

 

このブラフマンの智識(Brahman-Jnana)について、前回同様、前半は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

World Is Mental Creation(世界は、心の創造である)

 

私たちの前に、この創造をもたらすのは、覚醒状態だけである。

この宇宙は、宇宙の原因であるブラフマンから自己展開された心の形態であるに過ぎない。

プラーナの振動である動きは、心を動かす。

心の動きは、宇宙を生み出す。

心は、外側の世界として、現れる。

名前と形は、マーヤ(幻妄の力)の力の一つである心の動揺の力(Vikshepa Sakti)に従って発生する。

動揺(Vikshepa)の力は、覚醒の状態(Jagrat)と夢見(Svapna)の状態で働き、全世界は、この力のために投影される。

眠りでは、それは消滅する。

深い眠りの状態では、あなたは世界の経験は持っていない、何故なら、心がないからである。

これは、明らかに、心があると、その時だけ世界はあり、心だけがこの世界を創造していることを示している。

世界は、心の創造である。

眠りにおいては、世界はない。

サマディにおいては、世界はない。

聖者にとっても、世界はない。

それは、天啓聖典が、この世界は、心のために現われている世界

(Manomatra jagat,Manah-kalpitajagat)であると宣言している理由である。

この動揺し続けるマナス(意思)は、言葉では言い表せないブラフマンから存在の中へとやって来て、この世を自身の意志力(Samkalpa)、想いで創造している。

宇宙のこの虚偽は、マナス(意思)のサンカルパ(意志力)から生まれる。

宇宙が在るように思われるのは、あなたのマナス(意思)のサンカルパ(意志力)を通してであり、そして、もしあなたが宇宙を超越した唯一の実在の高みに舞い上がりたいと望むならば、あなたが捨てることを求められるのは、このサンカルパ(意志力)である。

部分的な意志力(Sankalpa)の成長と共に、宇宙は発生する。

前者の消滅と共に、後者もまた消える。

意志力(Sankalpa)の全滅で、見る者と見られる者との間の相違のすべての概念は消滅し、その時、ブラフマンという実在が、途切れることなく、輝き始めるだろう。

その時、全宇宙の影は、動きがあろうと、なかろうと、非二元状態で、その中に沈み込むのがわかるだろう。

心は、考えることを止め、世界は消滅し、言語に絶する至福がある。

心が考え始めると、直ちに、世界は現れ、そしてそこには、哀しみがある。

“わたし”の黙想で、宇宙の想念のすべてのつながりは始まる。

さもなければ、全宇宙は、太陽の前の闇と同じ位たちどころに消滅するであろう。

心と“わたし”は、一つである。

この“わたし”を破壊しなさい。

その時、心は破壊される。

もし、知性や知覚、活動の道具である心が、消滅するならば、それと共に、この付属的な世界も消滅する。

 

 

The Cosmic Drama(宇宙的ドラマ)

 

この現象的な宇宙は、神聖なる神の意志からの産物であるだけで、心の働きを通して実在しているように見えるだけである。

あなたが、ドラマを書く前に、あなたは、ドラマ全体の生き生きとした精神的な画を心の中に持つ。

その時、あなたは、四幕で連続してそれを書く。

それが上演されると、一部分毎に、連続して演じられる。

同様に、宇宙とその動きは、宇宙の心(マインド)、イーシュワラ(創造神)の心の中では、活き活きとした精神的な画像である。

彼においては、”過去“も”未来“もない。

すべては、彼にとっては“今”である。

彼にとっては、“近い”も“遠い”もない。

すべての場所は、“ここ”である。

すべての時間は“いま”である。

出来事は、長い世界のドラマの舞台上では、時間の経過につれ、連続して出現する。

原子は、継続的に回転する。

古いものは、新しくなり、新しいものは古くなる。

現実において、古いものはないのだ。

新しいというものもないのだ。

個別の心を持った個我は、出来事を連続して目撃している。

しかし、創造神(イーシュワラ)は、すべての出来事を一挙に知る。

彼は、すべてを知っている。

彼は、全知である。

彼は、彼の創造物のすべての細部も知っている。

この巨大な感覚宇宙は、アートマンの意志(Atma-sankalpa)として輝いている。

宇宙的な心(Cosmic Mind)は、マーヤ(幻妄の力)を創り上げる。

個人の心は、妄想の下で、物事を受け取る。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とはシュリー・シャンカラーチャリヤ(※)の常套句です。

しかし、別の人たちは「世界は実在である」と言います。

どちらが真実なのでしょうか?」

 

マハルシ

「どちらも真実である。

それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。

真理の探究者(アビャーシ)は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。

それから彼は世界を非実在として捨て去る。

なぜなら世界は究極的に真我にたどり着く。

その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。

そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。

実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。

真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。」

 

質問者

「バガヴァーンはマーヤ(幻想)と実在が同じものだと言われます。

どうしてそれが可能なのでしょうか?」

 

マハルシ

シャンカラーチャーリヤは彼のマーヤの見解について、人びとから理解されないまま批判された。

彼はこのように言った。

 (1)ブラフマンは実在である。

 (2)宇宙は非実在である。そして

 (3)宇宙はブラフマンである。

彼は第二番目のところで留まらなかった。

なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。

それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。

したがって、マーヤと実在はひとつであり、同じものなのである。」

 

質問者

「そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。

他に道はない。

ある人が、自分は実在であり、永遠に、すべてに遍在するブラフマンだということを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思い込んで、その迷妄(マーヤ)ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は非実在でしかなく、それは迷妄(マーヤ)なのだと気づかせなければならない。

なぜか?

なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。

あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼き付けないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。

ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。

そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。

真我を離れて宇宙は存在しないからである。

人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものと見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。

それはどうすることもできないのだ。

紙を見てみなさい。

われわれは文字だけを見ている。

文字が書かれている紙に気づく人はいない。

文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。

あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わなければならない。」

 

質問者

「それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、個々に分離した名前と形として見られたとき世界は非実在なのでしょうか?」

 

マハルシ

「炎が煙で隠されてしまうように、意識の輝く光は世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。

慈悲深き神の恩寵によって心が清らかになったとき、世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。

心がマーヤの邪悪な力から解放され、世界の知識を棄て去って無執着となり、自らが輝く至高の実在の智識に到達した人だけが、「世界は実在である」という言葉の意味を正しく知ることができるのだ。

もし真理の知識の本質に沿って世界が変容すれば、エーテルアーカーシャ)から始まる5つの元素でできた世界は至高の真理の実在として見られるだろう。

多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の原初の状態は至福であり、多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単一である。

真我の内に在ることで、この真理を知りなさい。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

(※)8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二二元論(アドヴァイタ)を提唱した。

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(33)「創造」②

通常、私たち人間は、自分の身体に起きている感覚知覚反応、そして脳に起きているその身体で起きた感覚知覚反応を処理する認知作用を通して、自分自身が世界を体験しており、自分自身も世界も実在している、と認識(結論)しています。

 

それは、この世界に対する自分自身に起きている感覚知覚体験以外の体験が起きたことがないために、その感覚知覚の世界の実在性を疑うということが起こらないからと言えます。

 

このリアルな感覚知覚体験が、自己と世界の実在性の根拠になっている訳ですが、それに囚われている限りは、世界と自己の非実在性を唱えている非二元(アドヴァイタ)を真に理解することは、自己存在の否定を伴うために、多くの場合、心の反応として、受け入れられない、理解できないという抵抗や反発が、起きてしまうことでしょう。

 

しかし、この感覚知覚体験は、脳に起きている一種の「錯覚」なのです。

(言葉を換えて言うならば、世界は、人間の脳が五感を通して体験している一種の幻想です)

 

非二元、アドヴァイタ(不二一元)においては、宇宙の創造は、前回の記事の中でご紹介しました「アジャータ教義」で説かれる非創造論です。

 

アドヴァイタ(不二一元)においては、宇宙も自分自身も存在せず、「至高の一者のみが存在する」と説かれています。

 

このことは、世界と自分自身を超えた領域(時間、空間、因果の法則のない領域)の体験が起こらないと、なかなか理解できないことではありますが、それでも、これが、最高の叡智として、古代のリシ(賢者)達にのみ開示された究極の真理なのです。

 

この究極の真理への理解を深めるために、今回も、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、ラマナ・マハルシが遺された御言葉をご紹介したいと思います。

(二番目のEvolution of the Elements(元素の展開)で書かれていることは、古代インド哲学のサーンキャ学派で説かれている宇宙論(二元)ですが、この創造論は、アジャータ教義ではなく、一般的な推論でも理解できる宇宙の創造論と言えます)

 

 

 

God and the Universe(神と宇宙)

 

この全宇宙は、神の身体である。

この全宇宙は、神、マクロコスモス(Virat Svarupa)である。

この世界は、死んだ物質の世界ではなく、生きる実在である。

絶対神ブラフマンは、形を通した宇宙として、それ自身を顕わす。

創造は、ただ一つの歓びに満ちた自己表現である。

王は、彼自身の遊戯のために、乞食の役を演じた。

聖者は、彼自身の遊戯のために、痴呆の役を演じた。

それと同様、この世界は、ブラフマンのリーラ(Lila)、戯れである。

ブラフマンは、世界として現れる。

多様な物質の世界として輝くのは、ブラフマンだけである。

ブラフマン自身は、石や木、星々として現れる。

一つの意識だけが、多様な宇宙として現れる。

一人の男だけが夢中で多くになるように、一つの神が、多くとして存在している。

全宇宙は、本質においてのみ、ブラフマンである。

これらすべては、ブラフマンにおいて、ブラフマンを通して現れているブラフマンであるだけである。

地球、食物、火、太陽は、ブラフマンの形である。

東、西、北、南は、神の部分である。

空、天国、大洋は、ブラフマンの部分である。

呼吸は、ブラフマンの一部分である。

視界は、ブラフマンの一部分である。

聞くことは、ブラフマンの一部分である。

心は、ブラフマンの一部分である。

この人生は、ブラフマンである。

真理であるブラフマンは、宇宙が生まれ、世界の各サイクルの終りには、分解し、宇宙がその存在を持つ性質である。

結果は、その原因から離れては存在しない。

壺は、粘土から離れて存在しない。

この宇宙は、ブラフマンから離れては存在しない。

それは、いかなる独立した存在をも持ってはいない。

それは、ブラフマンと一つである。

もしあなたが、キャンドルの灯を持ち、それから、あなたは他の何千というキャンドルに灯を点けるならば、最初の灯は、他のすべてのキャンドルの中にないだろうか?

それ故、それは、神と共にある。

すべてのモノを創造しながら、霊、呼吸、存在によって、すべての中にいる。

世界は、神の壮麗さ、光輝、崇高で満ちている。

サトウキビのジュースがサトウキビに充満しているように、塩が水に沁み込んでいるように、ひと塊の塩が、その中に溶かされているように、バターがミルクに充満しているように、同じように、ブラフマンは全ての物質や動物、非動物に充満している。

ブラフマンは、一つである。

顕れは、多い。

一つは、多くを持つ。

燃えたつ火から、お互いに似た火花が何千にも出現するように、それと同じく、一つの不滅のブラフマンから、すべての息をする動物、すべての世界、すべての神々、そしてすべての存在が生じる。

 

 

Evolution of the Elements(元素の展開)

 

彼の意志の力によって、崩壊しない根本である宇宙の実在は、自然の原初の均衡の状態を揺さぶり、次第に、連続して、現在の宇宙の形成にとって必要な区分と元素に展開されるようにと、大自然に最初の刺激を与えた。

最初の展開は、アーカーシャ(虚空)である。

アーカーシャ(虚空)は、何故、最初の展開であるべきなのか?

何故ならば、空間なしには、何も存在できないからである。

プラーナ(微細震動)は、空間(Akasa)上で振る舞う。

振動(Spandana)があった。

振動がある所では、動きがなくてはならない。

動きは、風(Air)の性質である。

それ故、風(Air)は、アーカーシャ(虚空)から生まれた。

動きは、熱を生み出す。

それ故、火は風(Vayu)から生まれた。

熱がある時に、水が生み出された。

暑い日には、身体は汗をかく。

そこで、水は火から生まれた。

水のある所には、食物がある。

地は、食物(Annam)でる。

それ故、地は、水から生まれた。

元素が微細であればあるほど、より強力、パワフルである。

水は地よりもパワフルである、何故ならば、それは地よりも微細だから。

火は、水よりもパワフルである、何故ならば、それは水よりも微細だから。

風は、火よりもパワフルである、何故ならば、それは火よりも微細だから。

虚空(真空)は、風よりもパワフルである、何故ならば、虚空(真空)は、風よりも微細だから。

アーカーシャ(虚空)は、風を助ける。

風は、アーカーシャ(虚空)から生まれ、火は風から生まれ、水は火から生まれ、地は水から生まれる。

宇宙の大洪水の間、地は減少するか、水に巻き込まれ、水は火に、火は風に、風はアーカーシャ(虚空)に巻き込まれる。

全世界、4種類の存在の粗大な身体は、つまり、種子として生まれたもの、水蒸気から生まれた卵性の卵から生まれたもの、胎生の胎盤から生まれたもの、そして喜びのすべての対象は、5つの元素から形成されている。

 

 

 

The Doctrine of Ajata-vada(アジャータ・ヴァーダ教義)

 

粗大な心(マインド)を持つ人々は、アジャータ教義(Ajata-vada)、つまり非創造論を理解することができないので、この種の創造の理論(スリシュティークラマ)が与えられる。

もしあなたが、ゴーダパダ(シャンカラの師ゴーヴィンダパダの師)のカリカ(解説)によって学説を提出されたアジャータ教義を学ぶならば、あなたは、この世界は、過去にも現在にも未来にも存在しないことを見出すであろう。

この教義は、隠遁と瞑想の生活を送る高い段階にある探究者によってのみ、理解され得る。

もしあなたが、アラーハーバードに6か月間滞在するならば、あなたはあなたの生まれ故郷マドラスについてのすべてを忘れる。

あなたがアラーハーバードで生きる間、あなたにとってのマドラスはないし、あなたがマドラスに住んでいる間は、あなたにとってのアラーハーバードはない。

この世界は、心によって創造されたサンスカーラ(過去の残存印象)の集積であるだけである。

もしあなたが意識的に、サーダナ(霊性修養)と瞑想によって心(マインド)を破壊することができるならば、世界は消滅する。

それは、すべてブラフマンのみになる。

あなたは、14日間、小部屋に閉じ籠り、新聞を読むのを止め、深い瞑想に没頭し、世界があるかないかを見てみなさい。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『質問者

「創造の目的とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「創造の理論はいくらでもある。

それらすべては外側へと拡張していくものだ。

それには限りがないだろう。

なぜなら、時間と空間は無限だからである。

しかしながら、それらはみな心の中にしか存在していない。

もし心を見いだそうとすれば時間と空間は超越され、真我が実現される。

見る者なしに見られるものも存在しない。

見る者を見いだしなさい。

創造は見る者のなかに含まれているからである。

なぜ外側を見つづけ、果てのない現象を説明しつづけるのか?」

 

質問者

「『ヴェーダ』には宇宙の起源に関する矛盾した説明が見られます。

聖典のある個所では、最初に創造されたのはエーテルだと言及され、別の個所では生気(プラーナ)が最初に創造されたと述べられています。

そしてまた別の箇所では別のものが、また別の箇所では水がというように、いったいこの矛盾をどう一致させればよいのでしょうか?

これは『ヴェーダ』の権威をそこなわないでしょうか?」

 

マハルシ

「真理の異なった相を、異なった人が異なったときに見て、それぞれが異なった見解を強調するのである。

なぜそれらの矛盾した言葉を気にかけるのか?

ヴェーダ』の本質的な目的は、われわれに不滅のアートマンの本性を教え、われわれがその真我だと示すことにあるのだ。」

 

質問者

「その点については私も納得しています。」

 

マハルシ

「ならばそれ以外のことはすべてアルタ・ヴァーダ(余分な議論)、あるいはものごとの起源をたどろうとする無知な人のための説明と見なしなさい。」

 

質問者

「私は創造の一部分を形成しています。

そのため、その創造に依存したままなのです。

私自身が独立するまでは、創造の謎を解くことができません。

それでもバガヴァーン、あなたにお尋ねします。

私の質問に答えてくださいますか?」

 

マハルシ

「そうだ。「独立しなさい。そしてあなた自身でその謎を解くがいい。それはあなたがすることだ」と言っているのはバガヴァーンである。

この質問をしているあなたは今どこにいるのか?

あなたは世界になかにいるだろうか、それともあなたのなかに世界が在るのだろうか?

あなたは眠りの間も自分が存在していることを否定できないが、世界が知覚されていないことは認めるに違いない。

その世界はあなたが目覚めるときに現われる。

では、それはどこにあるのだろうか?

明らかに世界はあなたの想念なのだ。

想念とはあなたが投影したものである。

はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。

世界は「私」によって創造され、「私」は真我から立ち現れる。

そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造の謎も解明されるのである。

それゆえ、私は言うのだ。「真我を探究しなさい」と。」

今一度言おう。

世界があなたのもとへ来て、「なぜ『私』は存在するのか?

『私』はどうして創造されたのか?」と尋ねるだろうか?

その質問をするのはあなたである。

質問者は彼自身と世界との関係を確立しなければならない。

彼は世界が彼自身の想像であることを認めざるをえない。

いったい誰がそれを想像するのだろうか?

彼に「私」を探させ、それから真我を探させるがいい。

そのうえ、科学的、神学的説明はどれも一致するものがない。

そのような理論の多様性が、説明を探し求めることの無益さを明白にしている。

そのような説明は、単に精神的あるいは知的なもの以上の何ものでもない。

それでも個人の観点にしたがって見れば、それらすべては真実なのである。

真我の実現された状態のなかに創造はない。

人が世界を見るとき、人は真我を見ていない。

人が真我を見るとき、世界は見られていない。

だから、真我を見なさい。

そして創造はなかったのだと悟りなさい。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(32)「創造」①

これまでの記事で、私たちは、人間としての体験を通して、この世界(宇宙)が存在し、自分自身も○○××という個人として存在していると認識していますが、それが、マーヤ(幻妄の力)という神の魔術的な力が私たち人間に働いているために、脳に一種の「錯覚」が起きているからである、というような趣旨のことを書きましたが、これまでの一般的な世界観、宇宙観に囚われている間は、一元(アドヴァイタ)を理解することは、直ぐには無理でしょう。

 

「ただ至高の一者のみが存在している」

 

この「至高の一者のみ」という所が、二元世界で生きている私たちに、なかなか理解できないと言うことが起きてしまう原因かと思われますが、しかし、究極の真理は、これしかないのです。

 

そのことを体験を通して理解して行くことが求められているのですが、そこに至るまでには、補足的な説明が必要な場合があります。

 

その補足説明も、究極の真理に達した後には、もはや必要ではありません。

 

これは、ヨーガでも、Jnana Yoga(智識の道)ですが、肉体制御のハタ・ヨーガやアシュタンガ・ヨーガに対し、心を制御するヨーガと言えます。

いかなるヨーガ(合一)も、同じ究極の真理に到達します。

 

真理は一つしかありません。

 

そこに到達すると、世界、宇宙、人間、「わたし」という存在への観念が、180度ひっくり返ってしまうことでしょう。

 

ヨーガではありませんが、正に、仏教のお経である「般若心経」において説かれている「顛倒夢想究竟涅槃」(てんどうむそうくぎょうねはん」の意味を深く理解することができることでしょう。(仏教の修養は、ある意味で、「Jnana Yoga」であり、心のヨーガと言えます)

 

前回と同じく、始めに、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」からの抜粋と、次に、ラマナ・マハルシが遺された御言葉をご紹介したいと思います。

 

 

Creation(創造)

 

宇宙は、神秘である。

誰も、それがどのように在るようになったのか?を言うことはできない。

あなたは、リグ・ヴェーダの中に「ここにおいては、この雑多な宇宙のすべてが、何処からやって来たのか?を知る人も、述べることができる人もいない。」と書かれているのを見つけることだろう。

宇宙は、神の命令によって、無から創造され、それは大洪水の期間に、再び無になるだろうと考える人がいる。

この創造の独断は、科学者たちによって是認されてはいない。

彼等は、今存在しているモノは、常に存在して来たし、何かの形で常に存在し続けるだろうと、断固として言う。

サーンキャ哲学でも、あなたは、「在るモノは、無いモノから出て来ることはできない」と見つけるだろう。

バガヴァッド・ギーターも言っている“非実在から実在はあり得ないし、現存するモノは、なくならない。両方についての真理は、見る者によって感知されてきた。」

何かは、無から出て来ることはできない。

何かは、何かからのみ出て来ることができる。

草は、地球から出て来て、地球へと吸収される。

そうであるならば、この宇宙もブラフマンから出て来て、ブラフマンに残り、ブラフマンに分解するであろう。

 

 

The Cause of This Universe(この宇宙の原因)

 

初めに、一秒も無く一つであるブラフマンだけが存在している。

闇が闇を覆っている時、存在だけがあった。

ブラフマンの中で、世界が投影される以前に、振動があった。

これは、ブラフマンの意志(Sankalpa)である。

彼は思った(意図した)「私は一つである。私は多くになれ」

この振動は、水に浸された時の地面の中の種子の膨らみに相当する。

その時、全世界は投影された。

普通の下手な魔術師が、マンゴー、フルーツ、お金、甘いモノ、想像上の神殿など、を取り出すことができる時、魔術や黒魔術を通して、彼-全能の支配者は、この意味のない世界を彼自身の遊技場として創造できないだろうか?

王は、彼の宮殿を家具や絵画、骨董品、庭園、噴水などで飾る時、彼は、この世界を美しい風景、輝く太陽や月、星々、大きな河や大海原を備え付けることができないだろうか?

 

 

Nature of the Creative Process(創造のプロセスの性質)

 

この眼に見える世界は、神の魔術である。

この世は、混沌(カオス)ではない。

それは、統制された、神聖な機構である。

世界は、神の幻影である。

ブラフマンは、彼自身のリーラ(戯れ)のために、マーヤ(幻妄の力)という人を惑わす力を通して、この想像もできない宇宙を創造する。

この宇宙の現象は、マーヤ(幻妄の力)と呼ばれる力のせいであり、その力により、絶対者は、それ自身により、それ自身の中で変化することなく、時間と空間によって条件づけられた現象の絶え間なく続く連続性として現れる。

ブラフマンは、この宇宙を、いかなる方法においても影響を受けることなく投影する。

雲から降る雨が、空を湿らすことがないように、絶対者は、絶対者なしに進行する世界のプロセスに影響されることはない。

一つのブラフマンが、彼のシャクティ(力)を通して、すべてこれらの数え切れない名前と形を装い、多くとして、現れることができる。

彼自身においては、何も変化がない。

世界は、ただの顕れである。

ブラフマンは、これらの形を作るために、いかなる指示も手も必要としない。

彼は、純粋意識であり、自ら輝く知性である。

ただ意志を働かせることによって、かれは数知れない世界を生み出すことができる。

種子の潜在力が、木を生み出すように、それと同様、ブラフマンの潜在力(Svabhava)が、この宇宙を生み出す。

投影は存在と共存する。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「スリシュティ(創造)はどのようにして起こったのでしょうか?

ある者は運命によってだと言い、またある者は神のリーラ(遊戯)あるいは娯楽だと言います。

何が真実なのでしょうか?」

 

マハルシ

聖典のなかにはさまざまな説明が見られる。

だが、どこに創造があるというのだろう?

もしそこに創造があるとするなら、それがどのようにして起こったかが説明されなければならない。

われわれはこれらの理論については何も知らないかもしれないが、われわれが存在することは間違いなく知っている。

まずその「私」を知りなさい。

それから創造があるかどうかを見てみるがいい。」

 

質問者

「シュリー・シャンカラチャーリヤのヴェーダーンタ哲学のなかでは、初心者のために世界の創造の原理が受け入れられていますが、より熟達した探究者には非創造の原理が説かれています。

この問題におけるあなたの見解はどのようなものでしょうか?」

 

マハルシ

「そこには世界の崩壊もなく、束縛された人も霊的修練を積む人もいない。

解脱を求める人も解脱した人もいない。

これが絶対的な真理である」。

このシュローカ(聖典の一節)は『ガウデパーダ・カーリカー』の第二章に見られる。

真我のなかに確立された人は、自らの真理の知識によってこれを知るのである。」

 

質問者

「私たちが見ているこの世界は、真我によって創造されたのではないでしょうか?」

 

マハリシ

「真我自身が多様な名称と形態の世界として現れたのであって、真我が世界の創造、維持、破壊という行為(ニミッタ・カーラナ)をするのではない。

「どうして真我が真実を知らずに混乱して、それ自身を世界として現わしたのか?」と尋ねるよりも、「この混乱は誰にとって起こったのか?」と探求していきなさい。

そうすれば、このような混乱が真我に起こったことはないと知るだろう。」

 

質問者

「どうやら、あなたはアドヴァイタ・ヴェーダンタのアジャータ教義の主唱者のようですね。」

 

マハルシ

「私はアジャータ教義だけを教えてはいない。

私はすべての教義を承認している。

教えを聞く者の許容量にしたがって、同じ真理が異なった方法で表現されなければならない。

アジャータ教義は、「ただひとつの真理だけが存在する。

誕生も死もなく、世界を投影することも、世界から退くこともない。

真理の探究者も、束縛も、解脱もない。

ただ至高の一者だけが存在する」と説く。

この真理を理解することが困難な者たちは「どうして私たちを取り巻くこの堅固な世界を無視することができましょう」と言う。

彼等には夢見の体験が指摘され、「あなたが見ているものすべては見る者に依存している。

見る者なしには見られるものもない」と説かれるのである。

これはドリシュティ-スリシュティ・ヴァーダと呼ばれる。

人はまず自分の心から創造をし、それから心自体が創造したものを見るという理論である。

何人かの人たちはこれさえも理解できず、「夢見の体験はとても短く、一方、世界はつねに存在しています。

夢見の体験は私だけに限定されたものです。

一方、世界は私だけでなく、他の多くの人びとに体験されています。

そのような世界を非実在と呼ぶことはできません」と議論しつづける。

このように議論する人たちにはスリシュティードリシュティの理論が与えられる。

例えば、「まず、神はこれらの要素からこれらのものを創造し、それから何か他のものを創造し、それから。。。」といった説明がなされる。」

この段階にいる人たちは、この説でしか満足できないからである。

さもなければ、彼らの心は飽き足らず、自分自身に問いかけ始める。「どうしてすべての地理や、地図、すべての科学、星や惑星、そしてそれらを支配している法則、そのすべての知識がまったく偽りだと言うのだろう?」。

このような人たちにはこう告げるのが一番である。

「そうだ。神がこれらすべてを創造し、それゆえ、あなたはそれを見ているのだ」と。」

 

質問者

「しかし、これらすべてが真実ではありえないでしょう。

ただひとつの教義だけが真実のはずです。」

 

マハルシ

「これらの理論は学ぶ者の能力に合わせて編み出されたもので、絶対なる真理はただひとつしかない。

ヴェーダーンタは、宇宙は見る者と同時に出現し、創造の過程といったものは存在しないと説く。

これはユガパト-スリシュティ(同時の創造)と言われる。

それは体験の対象が体験者と同時に出現する夢見のなかでの創造とまったく同じである。

多くの人びとは客観的知識に深く根づいているため、これが説明されても満足できない。

彼らはどのようにして突然の創造が可能なのかを見いだそうとする。

原因が結果にしたがうという因果関係があるはずだと彼らは論争する。

つまり彼らは自分たちを取り囲む世界の存在の説明を求めているのである。

そのために、聖典は創造の理論で彼らの好奇心を満たそうとするのである。

このような創造の問題を扱う手段はクラマ-スリシュティと呼ばれる。

だが、真の探究者ならユガパト-スリシュティを進んで受け入れるべきである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(31)「マーヤー」⑥

前回の記事でご紹介しましたSwami Sivanandaのお言葉の中に、

アートマン(真我)の智識(Atman-Jnana)に到達し、マーヤ(幻妄の力)を克服した彼は、何がマーヤ(幻妄の力)であるのかを知り、どのようにそれが発生し、破壊されるのかを知るだけであろう。

マーヤ(幻妄の力)の何故は、あなたがブラフマン智を獲得した時にのみ、理解することができる。』

とありましたが、この「アートマン(真我)の智識(Atman-Jnana)」や「ブラフマン智」とは、どのようなものなのでしょうか?

 

このことを識るだけでも、心の明晰さは増すと思われますので、ここで、改めて、再確認してみましょう。

最終的には、自らの体験を通して、これらの智識(Jnana)を獲得していくことが、Moksha(解脱=解放)へと至る道なのですが、観念的に識っているだけでも、最終的なゴールに至るまでの間、無知と混乱と誤認知を少しでも取り払うための霊性修養を進める上で、大きな助けとなってくれることでしょう。

 

前回と同じように、前半は、スワミ・シヴァナンダの「Waves of Bliss」からの抜粋で、後半は、ラマナ・マハルシのお言葉をご紹介いたします。

 

 

 

Supreme Driver(至高の操縦者)

 

壺や水差しなどがある。

これらすべてを作った陶芸家がいなくてはならない。

椅子やベンチや簡易ベッドがある。

これらすべてを作った大工がいなくてはならない。

エンジンがあり、車がある。

これらを運転する人がいなくてはならない。

容器、薪、お米などがある。

食物を調理できる人がいなくてはならない。

 

この身体というエンジンを操縦するためには、知性のある操縦者がいなくてはならない。

この身体というエンジンの操縦者は、操縦者の中でも最高の操縦者である。

彼は、ブラフマン、神である。

 

生物や木、川や山がある。

これらすべての創造者がいなくてはならない。

その創造者は、あなたのハートの個室に住む全能の神である。

最高の操縦者である彼を知り、常に幸せでいなさい。

 

 

VISHNUMAYAM JAGAT

 

ハリ(ヴィシュヌ神)は、地球、水、火、虚空の中にいる。

ハリは、太陽、月、星々の中にいる。

ハリは、心、プラーナ、感覚の中にいる。

ハリは、花、木、野菜の中にいる。

ハリは、コーヒー、お茶、ココアの中にいる。

ハリの顔は、何処にでも向けられる。

彼は、全宇宙を満たしている。

彼は、内在する存在である。

彼は、世界に住み、そこら中を包み込んでいる。

この全世界は、彼の形であるだけである。

彼は、地球であり、太陽であり、火であり、個の魂である。

すべての形は、ハリの形であるだけである。

それ故、誰をも嫌わず、傷つけてはいけない。

あらゆる処に、彼の存在を感じなさい。

すべての形の中に、彼を見出しなさい。

彼を悟り、常に至福でありなさい。

 

 

ONE ESSENCE(一つの本質)

 

すべての名前と形の背後には、一つの名前の無い、形の無い本質がある。

すべての支配者の背後には、一つの至高の支配者たちの中の支配者がいる。

すべての光の背後には、一つの光の中の光がある。

すべての音の背後には、音の無い至高の静寂がある。

すべての教師の背後には、一人の至高のグルの中のグルがいる。

あなたは、それである。

 

これらすべての腐敗しやすいモノの背後には、腐敗しない絶対者がいる。

これらすべての動きの背後には、一つの動きの無い無限がある。

時間、分、日々の背後には、一つの時間の無い永遠がある。

恐れ、暴動、戦争の背後には、一つの隠された愛がある。

あなたは、それである。

 

 

Brahman only Exists(ブラフマンだけが存在する)

 

マーヤ(幻妄の力)もない。マーヤ(幻妄の力)の活動もない。

幻影もない、魅惑的な世界もない。

エゴもない、チッタ(記憶)もない。

身体もない、カルマもない。

器官もない、視覚もない。

見る者もいない、知る者もいない。

智慧もない、無知もない。

霊的な修行もない、サマディ(三昧)もない。

束縛もない、解放もない。

ただ自在するブラフマンが在るだけである。

 

 

Brahman alone is true(ブラフマンだけが真実である)

 

見られるモノは、全くの偽りである。

聞かれるモノも、また偽りである。

味わわれるモノは、すべて偽りである。

触れられるモノは、全くの偽りである。

楽しまれるモノは、すべて偽りである

考えられるモノは、恐ろしい偽りである。

無色であり、味のない、形のない絶対で純粋な自ら輝くブラフマン

それのみが、真実である。

唯一の生きる実在であり、

生きる真実であり、

唯一の生きている存在である。

これを悟り、永遠に自由になりなさい。

 

 

BRAHMAN AND MAYA(ブラフマンとマーヤ)

 

この世は、非実在であるが、それでも現れている。

それは、幻想のマーヤ(幻妄の力)の結果である。

それは、現れているが、非実在なのである。

マーヤ(幻妄の力)とブラフマンは、同時に存在することはできない。

猫と鼠が、一つの籠の中で居ることができないように、

一つは、去らなくてはならない。

猫と鼠は、正反対のものである。

もしあなたがマーヤ(幻妄の力)を見るならば、ブラフマンを見ることはできない。

もしあなたが、ブラフマンを悟るならば、マーヤ(幻妄の力)は消滅する。

もしあなたが、蛇を見るならば、ロープはない。

もしあなたがロープを見るならば、蛇は消滅する。

マーヤ(幻妄の力)とブラフマンは、正反対の性質を持っている。

ブラフマンは、実在(Sat)、意識(Chit)、至福(Ananda)である。

マーヤ(幻妄の力)は、非実在(Asat)、生命のないもの(Jada)、苦しみ(Duhkha)である。

もし、ゴム製の猫ならば、本物の鼠は、残ることができる。

そして、反対も然りである。

 

 

The World is False(この世界は、偽りである)

 

元素は、偽りである。

この世界は、偽りである。

創造、維持、破壊は、偽りである。

愉しみは偽りであり、束縛も偽りである。

すべての事物は偽りであり、運命も偽りである。

富、家、快楽、痛みも、偽りである。

心と言葉も、偽りである。

神秘な神も、偽りである。

瞑想も、偽りである。

心によって考えられるモノは、偽りである。

触ること、聞くこと、見ること、嗅ぐこと、味わうことは、偽りである。

わたし、あなた、これ、あれは、偽りである。

時は、偽りである。

すべての現われは、偽りである。

ブラフマン、至高の一者だけが、真実である。』

Waves of Bliss by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「世界中に災害が蔓延し、飢饉や伝染病などによる荒廃が広まっています。

このような状態の原因は何なのでしょうか?」

 

マハルシ

「これらすべては誰にとって現れたのでしょうか?」

 

質問者

「それは通用しません。

私は苦しみを至るところで見ているのです。」

 

マハルシ

「眠りの中では、あなたは世界とその苦しみに気づいていませんが、今、目覚めの状態の中ではそれを意識しています。

あなたがそれらに悩まされていない状態の中にとどまりなさい。

つまりあなたが世界に気づいていないとき、その苦しみはあなたに影響をあたえないのです。

眠りのときのように、あなたが真我としてとどまるとき、世界とその苦しみはあなたに影響を与えないでしょう。

それゆえ、内面を見なさい。

真我を見なさい!

そのとき、世界とその不幸は終息するでしょう。」

 

質問者

「しかしそれは利己主義です。」

 

マハルシ

「世界は外側にあるのではありません。

あなたが誤って自己と身体と同一視するために、世界を外側に見て、その苦しみが現れるのです。

しかしそれは実在ではありません。

実在を探し出し、この偽りの感覚を払い去りなさい。」

 

質問者

「世界の悲惨な状態を解決することのできない政府高官や偉大な人がいます。」

 

マハルシ

「彼らは自分本位である、それゆえ問題を解決できないのです。

もし彼らが真我の内にとどまるなら、彼らも違っていることでしょう。」

 

質問者

「マハートマーたちはどうして助けないのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼らが助けていないと、どうして知っているのですか?

マハートマーの沈黙は、演説、身体的活動、物質的援助のすべてに勝ります。

彼らは他の誰よりも成果を達成するのです。」

 

質問者

「世界の状況を改善するために、私たちにできることは何でしょうか。」

 

マハルシ

「もしあなたが苦しみから解放されれば、苦しみはどこにもなくなるでしょう。

現在の問題はあなたが世界を外側に見て、そこに苦しみがあると考えるからです。

しかし世界もその苦しみもあなたの中にあるのです。

もしあなたが内側を見れば、苦しみはなくなるでしょう。」

 

質問者

「神は完全です。

それなのに、なぜ神は世界を不完全に創造したのでしょうか?

作品は作者の性質を帯びるものです。

しかし世界に関してはそうではありません。」

 

マハルシ

「その質問をしているのは誰でしょうか?」

 

質問者

「私、つまり個人です。」

 

マハルシ

「この質問をするあなたは神から分離しているでしょうか?

自分自身を身体だと考えているかぎり、あなたは世界を外側に見ます。

そして、それはあなたにとって不完全なものとして現れるでしょう。

神は完全です。

彼の仕事も完全です。

しかし誤った自己同一視ゆえに、あなたは世界を不完全なものと見るのです。」

 

質問者

「なぜ真我はこの悲惨な世界として現れるのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたに真我を探究させるためです。

あなたの目はそれ自身を見ることができません。

鏡を置いてみなさい。

そうすれば、目はそれ自身を見ることができます。

創造についても同じことなのです。

「まずあなた自身を見なさい。そして全世界を真我として見なさい」

 

質問者

「つまり、常に内側を見るべきだということですね。」

 

マハルシ

「そうです。」

 

質問者

「世界をまったく見るべきではないということでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたは世界に対して目を閉じるようにと言われたわけではありません。

まずあなた自身を見て、それから全世界を真我として見なさい。

もしあなたが自分自身を身体だと考えるなら、世界は外側に現われるでしょう。

もしあなたが真我であるなら、世界はブラフマンとして現れるのです。」』

(ラマナ・マハルシとの対話1)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Sefl-Realization)(30)「マーヤー」⑤

ここ数回に渡り、マーヤ(幻妄の力)について、ご紹介しています。

 

人は、生まれてから、時間が経つにつれ、年を取り、やがて死を迎えます。

誕生から死までの期間は、人それぞれであり、その間に体験することも、最後の瞬間に起こることも、人それぞれです。

この一連の流れは、あらゆる生命のある存在に、例外なく働いています。

私たち人間は、この一連の流れを「人生」と呼んでいますが、この地球上に同じ「人生」は、二つとありません。

そして、この「人生」は、自分で作り出しているように感じますが、少なくとも、誕生と死は、(自死でない限り)自分が作り出せるものではないことを知っています。

そして、「人生」においては、自分が想像もしない出来事が起こり、一瞬で「人生」の流れが変わってしまうということも起こります。

それを「運命」と呼ぶ人もいますが、そこに「神の力」を感じる人もいます。

 

マーヤ(幻妄の力)は、宇宙の星々の運行、地球の自然現象、生物の生滅、人間の人生など、ありとあらゆるモノに働いています。

戦争や紛争が起きたり、疫病が流行ったり、天変地異が起きたり、人間を悩ます諸々の現象に、私たちの人生や日常生活が脅かされることは、珍しいことではありません。

 

マーヤ(幻妄の力)によって生じた世界を、難なく、または、何とか、渡り切って安堵していても、人生の最後は「死」であり、それが早く来るか、遅く来るかの違いはありますが、生命ある存在に起こる最後の現象は、存在の消滅という点では、同じです。

 

私たちは、何処から来て、何処へ行くのでしょうか?

それさえも知らされずに、この地球で、次の瞬間は、何が起こるかわからない状態で、生きているのです。

たとえ、このような疑問が湧いても、答えは、簡単には見つからないために、ほとんどの場合、生じた疑問は解決を見ずに、そのまま人生の終わりの時を迎えることになります。

こうして、疑問は、そのまま継続し、時を超えて、持ち越されてしまいます。

 

「死」が、その人にとって、完全なる終わりであるならば、人々の人生は、不平等極まりないものであり、誰が、このような不平等な世界を創造したのか?という疑問が湧いて来ることでしょう。

 

人生だけでなく、世界の混乱に遭遇した時、未来の世界に危機感を抱いた時、その世界で生きなくてはならない自分の人生を考えた時、マーヤ(幻妄の力)は、否応なく、多くの人を巻き込み、大混乱の中で右往左往するような事態は、これまでも起こりましたし、これからも起こることでしょう。

 

しかし、人は、この物質界にあっても、マーヤ(幻妄の力)の正体を知り、その力に翻弄されずに、影響を受けることなく、賢明に生きることはできるのです。

それは、ある種の智慧(Jnana)がもたらしてくれる結果なのですが、その智慧(Jnana)は、輪廻の大海、再誕の大海を、何の影響も受けずに、乗り越えて行く智慧(Jnana)でもあります。

 

その智慧(Jnana)とは何なのか?ということを理解するために、今回も、始めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハリシが遺された御言葉をご紹介したいと思います。

 

 

The “Why” of Maya(マーヤの原因)

 

マーヤ(幻妄の力)の原因、人間の原因、宇宙の原因、存在の謎、宇宙の謎は、有限な人間の知性の範囲を超えている問題である。

人間の知性は、全くこれらの疑問を解くことはできないし、試みれば試みる程、それは益々混乱したものとなる。

これらの問題は、ブラフマン智(Brahma-Jnana)、或いは、神聖なる智慧を獲得した後にだけ、理解されることができる。

答えは、絶対者の中にしまい込まれており、扉は相対的な心や知性に対しては閉じられている。

どんな言葉も、充分にマーヤ(幻妄の力)の起源を述べることはできない。

アートマン(真我)の智識(Atman-Jnana)に到達し、マーヤ(幻妄の力)を克服した彼は、何がマーヤ(幻妄の力)であるのかを知り、どのようにそれが発生し、破壊されるのかを知るだけであろう。

マーヤ(幻妄の力)の何故は、あなたがブラフマン智を獲得した時にのみ、理解することができる。

マーヤ(幻妄の力)の何故を知るために、あなたの頭を悩ませてはならない。

あなたは、いかなる聖典の中にも答えを見出すことはできないだろう。

何故は、論理的な不条理そのものである。

あなたは、理性(ブッディ)が機能する世俗的な事物のためにだけ、何故を持つことができる。

時間と空間によって条件づけられているので、粗雑で限りある知性が届かない形而上次元の質問のための何故はあり得ない。

経験的な世界を説明しようと努力する人は誰でも、一歩ごとに無知に立ちはだかれて来て、人間的な知力がここまでで、それ以上は行かれないことを告白せざるを得なかったのである。

真理のすべての先見者、すべての教師、すべての預言者、すべての哲学者、すべての形而上学者、すべての神学者は、完全に失敗してしまった。

だからどうぞ、このマーヤ(幻妄の力)の起源についてこれ以上、あなたの頭を悩ませないように。

しかし、その破壊の手段を調べなさい。

もし、それが破壊されると、その時あなたは、それがどのようにして発生し、いつ発生するのか、その性質は何か、それはどのように消滅するのかを知ることができるだろう。

もし、あなたが一服の智識(Jnana)を注入してもらったら、その時あなたは有害な再誕の大海で溺れ死ぬことはないであろう。

恐ろしいマーヤ(幻妄の力)は、本当には存在しない。

 

 

Maya-A Negative Existense(マーヤ - 否定的な存在)

 

光りの欠如は、闇である。

闇は、本当の存在ではない。

それで、マーヤ(幻妄の力)は、否定的な存在を持つ。

光りがもたらされると、闇は消滅する。

同様に、智識がやって来ると、マーヤ(幻妄の力)は消えてしまう。

覆いが、美しさを隠す。

ポットは、粘土を隠す。

指輪は、金を隠す。

象は、森を隠す。

砂糖菓子は、砂糖を隠す。

布は、糸を隠す。

釘は、鉄を隠す。

無知は、永遠を隠す。

形は、ブラフマンを隠す。

マーヤ(幻妄の力)の覆いの背後には、ブラフマンが隠れている。

覆いを破りなさい。

光りの中の光を見出しなさい。

証明の道における人生の旅は、長く退屈で疲れる。

それには、不屈の根気のよい活力を伴った誠実で真剣な実践的な努力が要求される。

無駄な討論を止めなさい。

直ちに、道へ進みなさい。

果実を食べなさい。

炎によって服が燃えている人は、直ぐに、水へと走って行く。

彼は、けっして、激しい苦痛の真っ最中に、火がどのようにしてやって来て、どのようにして彼の服を燃え上がらせたのか?を尋ねはしない。

同じように、あなたが、数々の惨めさや苦悩、苦痛や艱難を伴うこの恐ろしいサムサーラ(輪廻)の生と死の車輪の中に囚われている時、あなたは、マーヤ(幻妄の力)から逃れるために、あなたの最善を試さなくてはならない。

マーヤ(幻妄の力)を破壊する方法はある。

この破壊の後に、あなたはマーヤ(幻妄の力)の原因と性質を知るだろう。

無知の眠りから目覚めなさい。

冷静、識別、「わたしは誰か?」という質問を発展させなさい、そうすれば、あなたは、ブラフマンの永遠の至福に達するであろう。

維持しなさい。

こつこつと歩みなさい。

勇敢に進んで行きなさい。

サーダナ(霊的修行)において規則正しくありなさい。

永遠の警戒と内省を実践しなさい。

祈りなさい。

ジャパ(神の名を唱えること)をしなさい。

礼拝し、瞑想しなさい。

マーヤ(幻妄の力)は、あなたにけっして、けっして近づかないであろう。

あなたは、いつか神の恩寵を持つだろう。

すべての覆いは、破られるであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

質問者

「どのようにしてマーヤ(幻妄の力)を取り除くのでしょうか」

マハルシ

「マーヤ(幻妄の力)を征服しようとしてはいけません。

あなたの真の状態でありなさい。

そうすればマーヤ(幻妄の力)は自発的に去っていくでしょう。

それを征服しようとすれば、それはあなたを多くの困難に導くでしょう。

今のままでいなさい。

もしあなたのところになんらかの外来の想念がやってきたならば、それが誰のところに来ているのかを発見しなさい。

しかし、あなたが本当の真我であると考えても考えなくても、あなたはつねにそれなのです。

真我実現のような単純で明白なことのために、こんなに多くの心配事とこんなに多くのヨーガの技法があるのです!

なぜでしょうか。

あなたは本当の真我です。

あなたはどのように真我と異なったものであることができるでしょうか」

 

質問者

「あなたはマーヤ(幻妄の力)の教えを支持しています。

しかし私は、この椅子が実在であるという私の感覚を、それが非実在であるというあなたの主張と調和させることができません」

マハルシ

「あなたの困難の根源は、たとえば「私」と「身体」というような、二つの別個の観念を一つに混ぜ合わせることによって生じている混乱の中にあります。

あなたが椅子に気づいたとき、それは「私は身体である」という原初の想念に続いて起こってきている想念なのです。

「私は身体である」という想念が、世界の経験についてのすべてのあなたの想念の土台なのです。

その想念がまず起こり、その後はじめて、他の想念が起こるのです。

それが、深い眠りの中でのように「私は身体である」という想念が起こっていないときには、世界の経験もまたあなたの意識の中に入ってこない、という理由なのです。

ところでこれらの二つの観念のうち「私」という想念は持続するものであり、身体の想念は一時的なものです。

このことは夢によって明らかにされます。

そこであなたは「私」という感覚をなおももちづづけていますが、肉体には気づいていません。

そのようにすべてのあなたの身体的経験とそれにリンクしている世界の経験は、あなたの心に入ってきたもの以外の何ものでもないのです。

これが、心は想念以外の何ものでもないと私が言うときに意味していることなのです。

「私」は、それがまさに永続的なものであるという理由で、きわめて実在的な存在なのです。

想念が止まった後に心を発見しなさい。」

 

質問者

「なぜマーヤ(幻妄の力)が働くようになるのですか。」

マハルシ

「いったいこの質問はどのようにして起こるのでしょうか。

あなた自身がマーヤ(幻妄の力)の中にいるのです。

あなたはこの質問を発するために、その宇宙の活動(マーヤ)から離れて立っているのでしょうか。

すべての疑問が最終的になくなるように、同じ力がこの疑問を提起させているのです。

マーヤ(幻妄の力)は神の幻力(イーシュワラ・シャクティ)、あるいは実在の活動にほかならないのです。

 

宇宙は真我の内部に存在しています。

それゆえにそれは実在です。

しかし、それは真我からその実在性を獲得するという理由でのみ実在なのです。

しかし、われわれはその変化する外観と一時的な形を示すために、それを非実在であると呼びます。

一方われわれは真我を不変であるという理由で実在と呼びます。

真我を実現した後では、身体やその他のすべてのものが真我とは異なったものとして現れることはありません。」

(不滅の意識 ラマナ・マハルシとの会話)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

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