永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(29)「マーヤー」④

前回より、マーヤ(幻妄の力)が働いているがために、「世界」(人間の個人もこの中に含まれます)が実在しているかのような認識が、私たち人間に起きている、ということをご紹介しましたが、私たち人間が、自分の本性であるアートマン(真我)、世界の実相であるブラフマン(神我)を悟れないのは、このマーヤ(幻妄の力)によって、非実在を実在と見做し、実在を非実在(単に、気付いていないだけなのですが)と見做していることに原因があると、ご紹介しました。

それを、シュリ・シャンカラ(不二一元を唱えたインドの哲学者)は、「無知」と呼びましたが、この「無知」の消滅は、非実在が消滅し、実在だけが顕わになるという真実が明らかになることで起こります。

 

このカラクリは、とても功名ですが(それが、魔術と言われる所以でしょう)、ひとたび正しい理解が起これば、その智識(Jnana)の光により、あらゆる謎(闇)は消滅することでしょう。

 

より理解を容易くするために、今回は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、ラマナ・マハルシ「不滅の意識」からの抜粋をご紹介したいと思います。

 

二人の聖者の方々は、同じ一つのことを、違う方向から語っていますが、「無知」の原因は、私たちの「心」の働きそのものにある、と指摘しています。

 

つまり、マーヤ(幻妄の力)というのは、「心」の働きのことであり、それが、私たちが、真実を悟ることができないでいる最大で唯一の原因です。

それは、「心」が、内側に「わたし」(という自我意識)を作り出し、外側に「世界」を投影するため、この働きによって、「わたし」と「世界」は、見る者と見られる物という二極に分離し、それが元になって、私たち人間が認識している二元世界が顕れます。

しかし、それは、「心」の働きによるものであって、「心」が無ければ、存在できない非実在のモノなのです。

故に、この原因(無知)が取り去られれば、非実在である「世界」も「わたし」(個我)も消滅し、「在って在るモノ」だけが在る、という実相だけになります。(不二一元)

 

それは、常に在るのですが、私たちの「心」の源であるために、源より生じた「心」には、その源を対象物として認知することは、不可能なため、「心」を通しては、真実は掴むことはできないでしょう。

 

しかしながら、この仕組みや原理について理解しようとすることで、自分という存在についての理解が深まり、真我実現への道は、着実に短縮されることでしょう。

 

 

 

『Vidya Maya and Avidya Maya(智識のマーヤと無知のマーヤ)

 

マーヤ(幻妄の力)は、無知(Avidya)を通して、個の魂を束縛し、智識(Vidya)を通して彼を解放する。

彼女は、智識(Vidya)であり、無知(Avidya)である。

無知(Avidya)のマーヤ(幻妄の力)は、あなたを束縛の道に降ろし、肉欲、怒り、貪欲、自尊心、憎悪などに特徴づけられる。

智識(Vidya)のマーヤ(幻妄の力)は、あなたを自由の道に連れて行き、無差別、平静、献身によって特徴づけられる。

 

 

Maya and Mind(マーヤとマインド)

 

マーヤ(幻妄の力)は、人間個人の中では、心(マインド)としてはっきりと表れている。

心(マインド)だけが、マーヤ(幻妄の力)である。

マーヤ(幻妄の力)は、心(マインド)だけである。

心(マインド)のコントロールは、マーヤ(幻妄の力)のコントロールである。

マーヤ(幻妄の力)のコントロールは、心(マインド)のコントロールである。

マーヤ(幻妄の力)は、心(マインド)を通して戯れる。

マーヤ(幻妄の力)は、心(マインド)を通して惨害を与える。

マーヤ(幻妄の力)は、心(マインド)の印象を通して、大混乱を演じる。

女性は、美しくないが、印象は美しい。

砂糖は甘くないが、印象は甘い。

食物は美味しくないが、印象は美味しい。

人間は、弱くないが、印象は弱い。

マーヤ(幻妄の力)と心(マインド)の性質を理解し、賢くなりなさい。

正しく考えることで、この心(マインド)の印象を抑制し、印象や思考の無いブラフマンに安らぎなさい。

心(マインド)があると、この宇宙があるだろう。

深い睡眠中、心(マインド)の機能はない。

それ故、世界はない。

あなたが、対象物について考えれば考える程、この世界は、あなたに対して、現実として現れるだろう。

もしあなたがよくよく感覚的対象物について考えると、宇宙の実在の概念は、増すだろう。

もし心(マインド)が、感覚的な対象物に対して狂乱して向かうと、マーヤ(幻妄の力)は人間の本拠となる。

マーヤ(幻妄の力)は、心(マインド)を通して惨害を与える。

このより低い瞬発的な心(マインド)は、あなたをあらゆる種類の些細な感覚的な喜びに引き下ろし、数々の方法で、惑わす。

マーヤ(幻妄の力)は、彼女の力を通して、心(マインド)の中に、何万という想念(サンカルパ)を起こさせる。

個の魂は、想念(サンカルパ)への餌食となる。

このより低いマナス(意思)は、実在と非実在の強力な識別力を持つ人々には近づくことができない。

強力な決意と識別を持つ人間によって、マーヤ(幻妄の力)を看破することは、非常に容易く、真の自己の実現は、非常に簡単である。

これらの力、識別力と意志力を通して、マーヤ(幻妄の力)は、コントロールすることができる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

ラマナ・マハルシ

『宇宙はひとつの観念にすぎません。

すべてのこれらの形態を受け取るのはハートです。

それは、その中にエゴも個体的感覚も残していないアートマンと呼ばれます。

霊魂は誤って自分を肉体と同一視します。

身体は心によって投影され、心はそれ自身霊魂から発生します。

誤った同一視が止めば、平安と永久に途切れることのない喜びがあるでしょう。

生命はあなたの真我である存在です。

それは永遠の生命です。

逆に、あなたがそうではないときを想像できますか。

あなたは無条件の生命です。

この身体があなたの心の投影としてあなたに一時的に付着して、あなたは「私は身体である」という考えによって悩まされるのです。

もしこの考えがなくなれば、あなたはあなたの真我です。

あなたは眠りの中では身体がなくても存在します。

目覚めたときエゴが生まれ、その後に心が存在するようになります。

エゴ、心は身体を投影するものです。

あなたは、身体が生まれたと言い、そしてそれは死ぬだろうと言います。

そしてそれを、あなたは生まれた、あなたは死ぬだろうと言いかえることによって、身体を真我に移しかえるのです。

実際、眠りの中ではあなたは身体なしに存在します。

ちょうど今はまたあなたが身体といっしょに存在しているように。

真我は身体から離れて存在することができます。

「私は身体である」という想念は無知です。

それゆえ、身体は真我から離れてはいないということは知識です。

身体は心の投影なのです。

身体という想念は真我から注意をそらされたものなのです。

誰にとっての身体あるいは誕生なのでしょうか。

それは真我、霊魂によってのものではありません。

それは自分自身を分離されたものと想像する非自己にとってのものです。

ちょうど守銭奴が自分の財宝をいつも自分のものとして保ちつづけ、決して手放さないように、真我は、それ自身にもっとも近いものの中に、すなわちハートの内部にヴァーサナ(Vasanas:生来の傾向と気質)を保護しています。

ハートは脳に生命力を放射してそれを機能させます。

ヴァーサナはもっとも微細な形でハートの中に囲いこまれ、その後に、高度に拡大されてそれを映す脳の上に投影されます。

これが世界が進行させられる仕方であり、またこれが世界がシネマ・ショー以外の何ものでもない理由なのです。

世界は永遠のものではありません。

世界は意識によってだけ認知されるのですから、感覚的印象は外部に起源をもつことができません。

世界は存在するとは言いません。

そう言うのはあなたです。

それはあなたの印象なのです。

しかしこの印象は途切れなく続くものではありません。

眠りの中では世界は認知されません。

眠っている人にとって、それは存在しないのです。

それゆえ世界はエゴの所産です。

エゴを発見しなさい。

その源が最終の目標です。

世界はあなたの心の所産なのです。

あなたの心を知りなさい。

世界は純粋意識の上に現われている現象にすぎないのです。

純粋意識は何かに影響されることのないそれ自身なのです。

宇宙は画面に描かれた絵のようなものです。

生じたり没したりするものは、それが生じてきたものによって創り上げられているのです。

宇宙の終局は真我です。

実在するものは決して非実在になることはできませんし、逆もまた同じです。

世界は眠りの中では非実在になります。

それゆえにそれは決して実在性を保つことはなかったのです。

しかし存在、「私」はつねに存在します。

それゆえにそれはつねに実在なのです。』

(不滅の意識 ラマナ・マハルシとの会話)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(28)「マーヤー」③

前回より、アドヴァイタ(不二一元=梵我一如)の基本的な考え方におけるヒントを、「マーヤ(幻妄の力)」に絞って、ご紹介していますが、ヨーガにおいて、最高の智慧(Prajnana)を獲得した聖者たちは、自らの体験を通して、真の宇宙構造を発見し、それをアドヴァイタ(二つではない)と名付け、宇宙の根本原理(Prajnana=真智=ブラフマン智)としました。

 

この最高の智慧によって明らかになったことの一つには、譬えで言うならば、「ロープを、蛇に見てしまう」という現象(一つを二つに見てしまうという誤認知)が人間に起きていることでした。

そして、この誤認知は、人間の錯覚、勘違い(という現象)であり、その錯覚の原因は、人間に生じている根本的な「無知」にあると指摘しています。

 

「無知」の反対は、「明知」です。

そして、この「明知」とは、「ブラフマン智」のことなのですが、実際には、この「ブラフマン智」とは何であるか?でさえ知っている人は、ごく僅かであると言わざるを得ません。

 

ブラフマン智」を真に理解するには、霊的な体験が必要ですが、「ブラフマン智」について知っているだけでも、(自分と他者の)人生を別の角度から眺めることができるようになり、世界を別の視点から眺めることができるようになることでしょう。

また、自己探求という霊性修養の基本的な考え方を学ぶことは、自分という存在を理解する上でのヒントとして、この世に束縛されて生き辛さを感じている人にとっては、束縛が緩む方向に働いてくれることでしょう。

 

真理は、いつの世でも、真理ですし、真実は、真実として永遠に変わりません。

究極の真理は、人間の脳の理解力を超えているので、短時間で理解することは、簡単ではないでしょう。

しかし、チッタ(記憶)の中に、小さな種子が蒔かれると、その種子は、やがて芽を出し、結実する時が巡って来るまで、サンスカーラ(過去の残存印象)の中で、眠った状態で保存されます。

そして、然るべき時がやって来ると、この世で結実するために、目覚め、やがて、形として現れ、私たちは、その結果を体験することになるのです。

それが、カルマ(業)と呼ばれているもので、行為の種子と考えられています。

(種子が先で、結果が後であるのは、因果の法則に則っているからです。

二元世界では、因果の法則は、ダルマ(宇宙の自然法則)なので、すべての存在は、ダルマ(宇宙の自然法則)に則って、展開しています)

 

良い種子を撒けば、良い実が実り、悪い種子を撒けば、悪い実が実ります。

(これは、聖書の中のイエス・キリストの言葉でもあります)

 

種子が、結実するまで成長するには、この三次元世界では、時間が必要です。

しかし、種子は、いつか必ず、芽吹き、芽吹いた種子は、結実することでしょう。

 

これは、ダルマ(宇宙の自然法則)であり、この世は、マーヤ(幻妄の力)によって展開している世界ではありますが、ダルマ(宇宙の自然法則)の世界でもあります。

 

しかし、マーヤ(幻妄の力)もダルマ(宇宙の自然法則)も、「絶対者ブラフマン」から生じたモノなので、両者は、「ブラフマン」には作用しないため、「ブラフマン智」に達すれば、マーヤ(幻妄の力)もダルマ(宇宙法則)も、幻影と共に、消滅することでしょう。

 

 

Manifestation of Maya(マーヤの顕れ)

 

マーヤ(幻妄の力)は、最も偉大な芸術家であり、最も偉大な手品師である。

俗人は、ほとんど彼女のトリックを見破ることができない。

彼女は、情熱的な人や不用心な人を惑わす。

彼女は、実在を隠し、非実在を実在のように見せる。

彼女は、永続的でないものを永続するかのように見せ、不純なものを純粋なものであるかのように見せ、痛みを快感のように見せ、アートマン(真我)でないものをアートマン(真我)のように見せる。

あなたは、あなたが死ぬだろうということを知っている、それでも、あたなは、永久に生きるだろうと思う。

これは、マーヤ(幻妄の力)である。

マーヤ(幻妄の力)は、誤った光輝を引き起こし、惑わされた個の魂を罠にかける。

彼女は、ちょっとした電気メッキの仕事をしている。

人は、罠にかけられ、生と死の車輪に捕らえられる。

マーヤ(幻妄の力)の砂糖がけの背後に、苦いキニーネがある。

感覚的な快楽の園の背後には、涙の覆いがある。

女性の微笑みの背後には、憎しみ、欺き、狡猾さ、不誠実がある。

深紅の唇の背後には、粘液や病気を引き起こす病原菌がある。

バラ色の頬の背後には、生肉がある。

元気な若さの背後には、よろよろした足取りの老齢がある。

美しさの背後には、醜さがある。

この宇宙の魅力の背後には、死、病気、蛇に咬まれること、蠍に刺されること、非難、屈辱、地震、暴風雨、戦争、原子力爆弾がある。

この心をそそるマーヤ(幻妄の力)に騙されてはいけない。

マーヤ(幻妄の力)は、数々の方法で、あなたを縛り付ける。

彼女の秘密の仕事を見つけだすことは、難しい。

人は、世界を捨て、サニヤーサ(出家者)になり、アシュラム(隠者の住処)を開く。

彼は、ゆっくりとアシュラムと彼の修養に愛着を感じる。

彼は、制度的な利己心、サニヤーサ(出家者)への執着、放棄と学びの誇りを発達させる。

路上の人は、微笑み、敬意を払い、あなたの足に触れる。

あなたは、彼に愛着を感じる。

人があなたに仕え、あなたを讃美し、あなたに贈り物を贈る。

あなたは、彼に愛着を感じる。

他の人は、親切な言葉を話し、あなたに良い食べ物や快適な家をくれる。

あなたは、彼と家そのものに愛着を感じる。

微笑み、愛情、快適さ、名前、名声、親切な言葉、妻、子ども、家、財産、尊敬、名誉、力、威信、地位、肩書、天国は、すべて惑わされた魂を罠にかけるマーヤ(幻妄の力)の誘惑の餌である。

マーヤ(幻妄の力)の魅力に気をつけなさい。

おお、無知なる人間よ!マーヤ(幻妄の力)の網に陥るな。

全世界は、無知で惑わされた魂を罠にかけるためのマーヤ(幻妄の力)の網である。

注意し、警戒し、気付きなさい。

全宇宙は、無知の誤った光輝である。

それは、罠と誘惑に満ちている。

色、音、感触は、マーヤ(幻妄の力)の魅惑的な罠である。

女性、金、力は、彼女の誘惑、砂糖菓子、花、金は、マーヤ(幻妄の力)の魅力である。

神のマーヤ(幻妄の力)は、神秘である。

彼女は、数々の微細な形を帯び、多様な方法で、人を惑わす。

あなたが情熱を諦める時、あなたは怒りが残るのを見る。

あなたが怒りをコントロールすると、貪欲がまたあなたと共にいる。

貪欲がコントロールされると、自尊心があなたに頑強にくっつく。

あなたがお茶と珈琲を放棄すると、あなたはミルクとフルーツに執着する。

あなたが舌をコントロールすると、目があなたを悩ますために待っている。

あなたが古い友人を放棄すると、新しい友人があなたにくっつく。

あなたが、一つの仕事を諦めると、他の仕事があなたを待っている。

一足ごとに、マーヤ(幻妄の力)は覆いをかける。

あなたがサーダナ(霊的修行)の最後の段階で、たった一つの覆いを破らなくてはならないだろう、などと考えてはいけない。

マーヤ(幻妄の力)は、数え切れない覆いをかける:執着、切望、願望、好き嫌い、心酔、自尊心、羨望、憎悪、貪欲、性本能、衝動、五つの鞘、シッディ(超能力)を追い求めること、サーダナ(霊的修行)の誤った満足、鈍った理解、知性の鈍感さは、すべて彼女の覆いの形である。

もしあなたが、少しばかり不注意で不用心であるならば、彼女は覆いの後に覆いをかける。

あなたは、取り除かなくてはならない数え切れないほどの覆いに遭遇するであろう。

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

LIFE HERE IS TRANSITORY (ここでの人生は一時的なもの)

 

人生は、光る閃光のようなものであり、あっという間に過ぎて行く一時的なものである。

それは、虹のように素早く消えて行く。

水の上の痕跡のようなものであり、夢か泡、影、霧、幻のようである。

それでも尚、人間は人生はここにおいては永久的なものであると思う。

これは、マーヤ(幻妄の力)の幻想であり、心(マインド)の魔術であり、感覚の惑わしである。

目覚めよ、人間よ。この長い眠りから。

マーヤ(幻妄の力)のトリックを理解し、識別することを学びなさい。

無限の智識に達しなさい。

そして、ブラフマンの不滅の至福を楽しみなさい。

Waves of Bliss by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(27)「マーヤー」②

前回の記事で、神の力(シャクティ)が、マーヤ(幻妄の力)であるということについてご紹介させて頂きました。

 

この宇宙のすべての展開、動き(創造、維持、破壊、帰滅)が、神の力(シャクティ)によってもたらされていることを、先ず、理解し、心の奥深くに銘記することは、非常に重要です。

このことがはっきりとわかれば、「わたしは誰か?」「宇宙とは何か?」についての答えは、自然とやって来ることでしょう。

そして、被造物である「わたし」が、創造主である「神」の中に、吸収され消滅すると、梵我一如(アドヴァイタ=不二一元:アートマンブラフマンなり)が真理として、顕わになることでしょう。

 

それは、己の中に実在する「真我」を発見することで、もたらされます。

「真我」(アートマン)は、別名「魂」とも呼ばれるモノですが、70億人の人間に内在している「魂」は、「生命の源」であり、人間だけではなく、命ある生命体であるならば、どの生命体においても、共通の存在として内在しています。

全体で一つであって、”あなた”と”わたし”の「魂」が違うということはありません。

アートマンは、水や空気や電気と同じように、それ自体の性質を有していますが、個別性はありません。

コップの中の水と川を流れる水が同じように、日本で吸う空気と南極で吸う空気が同じように、アートマンアートマンであって、単一の存在なのです。

(よって、小さな昆虫のアートマンも、大きな象のアートマンも、人間と同じアートマンです)

この世で体験をしているのは、ジーヴァと呼ばれる個体(個人)ですが、一方、アートマンは、ジーヴァ(個人)に内在し、個人を生かしている生命力の源なのですが、私たちは、アートマンの存在を知らないために、大きな勘違いをしています。

私たち生物は、食べ物を食べることで、身体が養われ、それで生物として生きていると思っていますが、食べ物は、この「わたし」を構成する一番外側の食物鞘を構成し、維持し、肉体を動かして活動するためには必要ですが、食物が生命を生じさせている原因ではないことは、誰もが知っています。

しかし、ひとたびアートマンが知られると、アートマン=生命力と言っても過言ではないことが、明らかになることでしょう(何故ならば、アートマン無しでは、どのような生命も生じないからです)

私たち人間を含むすべての生命体には、アートマン(真我)が内在しています。

人間に関して言えば、ハートの中心から、生命力という生命エネルギーを、「人間」を構成しているすべての5つの鞘(歓喜鞘、理智鞘、意思鞘、生気鞘、食物鞘)に放っています。

こうして、私たちは、「人間」として、この世で、いろいろな体験をしているのです。

アートマンから放たれる生命エネルギーが無ければ、私たちは、ただの”肉などのゲル化したタンパク質の塊”にしか過ぎません。(死後の肉体が、そのことを示しています)

つまり、私たち人間は、自分で考え、自分が感じ、自分が行動して(いると思って)いますが、実は、アートマンからの生命エネルギー(生命力)を受けて、生命活動をしている存在なのです。

このことは、「自分が生まれて来て、自分が生き、自分が死ぬ」ということは、勘違い(錯覚)であることを示唆しています。

この「勘違い」(錯覚)は、本当のことを知らない「無知」から生じています。

本当のことを識れば、「無知」は消滅します。

(ヨーガ(神との合一)が成就するには、更に、最後の覆いを取り除く必要がありますが、それについては、また、違う機会にご紹介したいと思います。)

 

実は、この「無知」こそが、マーヤ(幻妄の力)の本当の正体なのですが、このトリック(仕組み)について、スワミ・シヴァナンダが、「Bliss Divine」の中で、わかりやすく解説して下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

The Great Illusion(偉大なる幻影)

 

このマーヤ(幻妄の力)によって、全世界は、至高の実在の場所に顕われる。

マーヤ(幻妄の力)は、ブラフマンに少しも影響を与えることなく、この世界を創造する。

不可能を引き起こす力は、マーヤ(幻妄の力)に特有である。

マーヤ(幻妄の力)は、無限の謎の母である。

マーヤ(幻妄の力)は、ブラフマンを覆い隠し、それをそうではないように、顕わさせる。

それは、名前と形、性質のない、無限のブラフマンを、経験の限定された中心の中に分裂させ、名前と形と性質をそれらに賦与している。

マーヤ(幻妄の力)は、宇宙の多様さの認識の原因として存在しているが、しかし、真実には、それは、実在などではない。

それは、また、それが引き起こす顕れのような顕れである。

それは、存在すると言うことができないし、存在していないと言うこともできない。

それは、顕れのように見えるという誤った原因である。

人は、正確にそれが何であるか?を言うことはできない。

それは、不可解、又は、不確定である。

マーヤ(幻妄の力)は、真実でもないし、誤りでもない。

それは、真実と言えば偽りだが、偽りと言えば真実なのである。

それは、実在でもないし、非実在でもない。

それは、ブラフマンのように、実在ではない、何故ならば、人がブラフマンの智識を得ると、それは消滅してしまうからだ。

それは、不妊の女性の息子、或いは、うさぎの角のような非実在ではない、何故ならば、その存在は、感じられるから。

このマーヤ(幻妄の力)は、ある種の魔術である。

あなたは、魔術師を見ない限り、驚く。

魔術師を知るや否や、結果は非実在だと知り、驚きは、直ぐに止む。

あなたが、ブラフマンを悟った時、マーヤ(幻妄の力)の働きの驚きは、消滅する。

あなたは、驚きを鼓舞していたモノが、非実在だと知るようになる。

催眠術師が全聴衆に催眠術をかける時、すべての人々は、人が空中でロープを上がっていると信じる。

すべての人々は、催眠術師が、大きな剣をむさぼり食い、箱の中の若者の身体を切り刻むのを見る。

たとえそうでも、あなた達はみな、マーヤ(幻妄の力)と無知よって催眠術をかけられ、あなたは、この非実在な固体を実在と見做しているのである。

ブラフマンの智識を得ることで、あなた自身を催眠術から覚めさせなさい。

その時、あなただけは、マーヤ(幻妄の力)の壮大なる魔術を理解するだろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

The World is False(この世界は、偽りである)

 

元素は、偽りである。

この世界は、偽りである。

創造、維持、破壊は、偽りである。

愉しみは誤りであり、束縛も偽りである。

すべての事物は誤りであり、運命も偽りである。

富、家、快楽、痛みも、偽りである。

心と言葉は、偽りである。

天界の神々は、偽りである。

瞑想は、偽りである。

心によって考えられるモノは、偽りである。

触ること、聞くこと、見ること、嗅ぐこと、味わうことは、偽りである。

わたし、あなた、これ、あれは、偽りである。

時は、偽りである。

すべての現われは、偽りである。

ブラフマン、至高の一者だけが、真実である。

Waves of Bliss by Swami Sivananda)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(26)「マーヤー」①

 

 前回まで数回に渡り、「神」について、ヨーガやウパニシャッドで語られている「神」の概念について、ご紹介しましたが、これまで漠然と頭に抱いていた「神」とは、かなり違っていたかもしれません。

 

より具体的な「神像」に迫るために、今回からは、前回ご紹介しました記事の中で、シュリ・ラーマ・クリシュナが「神」と「神の力」は同じものであるという例え話の中で使われた「アディヤシャクティ(宇宙生命力・根元造化力)」であるマーヤ(幻妄の力)について、ご紹介したいと思います。

 

このマーヤ(幻妄の力)についてですが、その言葉自体を初めて聞く人には、何のことを言っているのか?見当もつかない場合もあるでしょうが、そうでなくても、その仕組みや概要を理解するのは、そう簡単ではありません。

これまでの考え方、世界の捉え方を変えなくては、理解できない仕組みとも言えますので、この本題に入る前に、少し自分自身をチェックしてみましょう。

 

ブログの記事や精神世界の本を読んだだけでは、なかなか「人間(私)」「神」「世界」についての捉え方が変化する訳ではありません。

物事の捉え方は、70億人の数だけあり、一様ではなく、その人の意識によって異なっているため、私たちは、同じ地球に居ながら、全く同じ世界を体験している訳ではありません。 

物事の捉え方は、自己の意識の変化によって、変化します。

そして、自己の意識の変化によって、体験する世界が異なるために、自分が体験する世界も、意識の変化と共に、変化します。(これにより、生き易さや生き難さが生じてしまいます)

体験する世界の変化を促す自己の意識の変容を求めるならば、実践的な心の修養が不可欠ですが、この心の修養は、特別な訓練や修行の中でしか達成できない訳ではなく、日常生活でも充分可能です。

グル(師)について修行をしている場合では、グル(師)が生徒の意識の変容の進捗状況を見てくれますが、そうでない場合は、自分の意識がどれ位変化したか?霊性修養がどの程度進んだか?は、なかなか自分では判断し難いものです。

このことは、私たちが、霊性修養を実践する中で、中途半端に終わってしまう、或いは、挫折してしまう大きな理由の一つと言えるでしょう。

 

自分の意識に変化が訪れると、世界を見る目も変化し、物事の捉え方が変わるので、世界全体が変わったように感じます。

その結果、私たちは、同じ地球に住んでいても、各個人個人が体験している世界は、同じようでいて、実は異なることに、気付くことでしょう。(同じ現象が起きた時、それに対して異なった反応、対応が起こり、それにより、人生の味わいは、個人により大きく異なります)

 この物事を捉える視点が、ひとたび変わってしまうと、その後は、その視点から物事を見るようになります。

それはまるで、山を登っている時に、高度が上がるにつれ、周りの景色が変わって行き、遠くまで見通せるようになるのに似ています。

富士山の一合目から見える景色と、富士山の五合目から見える景色と、山頂から見える景色が違うように、同じ世界でも、見る視点により、世界は違って見えるのです。

そして、一合目にいる人は、山頂からの景色はわからないので、自分の見える風景について語りますが、中には、想像も加味されるので、個人個人が切り取って見る風景はいろいろで、同じ風景とは思えないこともあり、その違いが人間間のコミュニケーションや認識に誤解や軋轢を生み、人間社会に混乱を招くことがあります。

しかし、霊性修養が進むにつれ、風景を見る視点の高度が上がって来ると、格段に視界が広がるので、世界を全体的に見ることができるようになります。

これは、同じ出来事が起きても、個人個人によって、全く異なる解釈をし、その解釈に対する対応が、一様でないことで明らかですが、最高の智慧に至った人々の世界の見方は同じで、マーヤ(幻妄の力)について語っています。

それは、山頂に到達した人々は、全体として一つの同じ風景を見ることになるので、真理はたった一つであり、それ以外にはない、ということが、自ずとわかるようになり(自明)、それが、共通の認識(真理)となるため、最高の智慧(プラジャニー)は一つしかない、と確信できるようになります。

その智慧の眼を通して、山頂から、世界を見渡して、それを言葉で表現しようとすると、「マーヤ(幻妄の力)」について言及することなく、私たちと世界の関係性を説明することは、不可能であるからでしょう。

 

様々な体験を経ながら山を登り、最終的に到着する山頂は、「我、それなり」(梵我一如)であり、これを不二一元(アドヴァイタ)と言います。

 

今回は、前半に、スワミ・シヴァナンダの「霊的な進歩のバロメーター」をご紹介しますので、自分の場合に当てはめて、考えてみて下さい。

もう既に、ここに書かれている状況に置かれても、心が混乱することなく、動揺せずに、穏やかで平安な気持ちで過ごせるならば、日常生活を営みながらも、ヨーガ(神との合一)の修養は、充分に実践できていて、最終的なゴールに向かって、着実に進んでいるという証と言えますので、時々、自分自身でチェックしてみると、自分を客観視することで、見えて来るモノがあり、霊性修養の励みになることでしょう。

 

後半は、神の力(シャクティ)が、マーヤ(幻妄の力)であるということについて、スワミ・シヴァナンダとシュリ・ラーマ・クリシュナの御言葉をご紹介いたします。

 

 

『ここに、あなたの霊的な進歩の度合がわかる絶対に確実なバロメーターがある。

このような時、あなたなら、どう感じるだろうか?

 

① あなたのきれいな手や最も良い洋服が汚れてしまった時

② 躓いたり、大失敗をして笑われた時

③ 偶然に怪我をしたり、虫や蠍に刺されたり、傷を負わせられた時

④ 病気や痛みに苦しむ時

⑤ 努力しても成功しない時

⑥ 欲しいモノを得られない時、あなたの所有物が紛失していることを発見した時

⑦ 何人かの人々によって、長時間待たされている時

⑧ 理由なく、侮蔑されたり、罵られた時

⑨ 他人が、あなたに対する彼らの義務を怠った時

⑩ 喪失や死別を経験した時

 

もしこれらのことが、あなたの心の平和を乱すことなく、あなたがそれらに無関心であるならば、あなたは苦闘に打ち勝ち、50%の自己制御(self control)を達成したのである。

神は、あなたの人格を強くするために、試みや問題を送る。

それを歓迎し、あなた自身をテストしなさい。

 

 

MAYA(マーヤ)

 

本当には、ないが、あるように見えるモノが、マーヤ(迷妄の力)である。

夢中にさせる、或いは、思い違いを引き起こすモノが、マーヤである。

マーヤは、顕れである。

それは、見せかけである。

それは、神の錯覚の力である。

彼女は、この宇宙の創造者である。

彼女は、神のリーラ(戯れ)のために、この世界を投影する。

心(マインド)、知性、身体、感覚は、彼女の形である。

彼女は、エネルギー、神の母性的な側面である。

熱が炎から、固さが氷から分離できないように、マーヤはブラフマンから分離できないモノである。

それは、ブラフマンに依存している。

マーヤは、数え切れない潜在力を持っている。

石の固さは、マーヤの力である。

水の流動性は、マーヤのもう一つの力である。

火は、三つ目のマーヤの燃える力である。

空気は、マーヤの動く力である。

空間は、空であり、または、マーヤの宇宙的な力である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『聖ラーマクリシュナ

「虚空(アーカーシャ)のようなものだよ。

ブラフマンのなかには変化はない。

炎に色がないようにね。

それが力(シャクティ)として、あの御方はいろいろにおなりになさる。

サットヴァ(調和性・悟性)、ラジャス(積極性・建設性)、タマス(消極性・破壊性)の三性(グナ)は、シャクティの性質だ。

無色の炎に白い物を投げ入れると白く見えるだろう。

赤いものを入れると赤く見える。

黒いものを投げ込むと黒く見える。

ブラフマンは三つの性質を超越している。

あの御方はこういうものだと、口で言うことは出来ないよ。

言葉を超越しているんだからーー。

これではない、これではない、と打ち消していって最後に残るもの、そこにある常楽(よろこび)、それがブラフマンだ。」

 

マヘンドラ・グプタ

「仰せの通り、あの御方がすべてのものになっていらっしゃるならば、こんなふうにいろいろな感じ方、考え方があるのは何故でございましょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「あの御方は、あらゆる処、あらゆるものに遍在しておいでだが、力の顕れ方がいろいろ違う。

ある場所には明知(ヴィディヤー)として、ある場所には無明無知(アディヴィディヤー)として、ある場所には強く大きく、ある場所には弱く小さく顕れていらっしゃる。

ご覧、人間の中にだって、殺し屋もサギ師もいるし、虎みたいに恐ろしい人もいる。

わたしはだから殺し屋神、虎神と言っているんだよ」

「あの御方とあの御方の造化力(ちから)――ブラフマンシャクティ――これ以外には何もないんだよ」

 

マヘンドラ・グプタ

「それから、霊はどういう相(すがた)のものでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「どんなものかって?

――ちょうど水のようなもの――修行をしていくうちにだんだんわかってくるよ。

お前、“相(すがた)”を信じろ。

ブラフマン智に達したら、不異(おなじ)ということがわかるが――ブラフマンと働き(シャクティ)が不異だということがね。

火と燃える力だ。

火を思えば燃える力を思わんわけにはいかないし、燃える力を思えば火を思うことになる。

牛乳と牛乳の白さ。

水とその冷やす力だ。

だが、ブラフマン智のそのまた上がある。

智識(ジニューナ)の上が覚智(ヴィジュニャーナ)だ。

智慧ある人は自分の無知にも気付く。

賢者ヴァシシュタは百人の息子を亡くして嘆き悲しんでいなすった。

ラクシュマナにきかれてラーマはこう答えた

『弟よ、智と無智を超えてしまえ。

智を持つものは無智をももつ。

足にトゲが刺さったら、もう一本トゲをもってきて、そのトゲをほじくって抜く。

それがすんだら二本目のトゲも捨ててしまえ』」

 

マヘンドラ・グプタ

「無智も、智慧も、二つとも捨てなければいけないのですか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「そうだよ。――覚智が最後の目的だ!

わかるかい。

光を知るものは闇を知る。

幸福の味がわかるものは不幸の味もわかる。

徳について思うものは罪についても考える。

善を思うものは悪をも思う。

清浄を感じるものは不浄の感じもある。

ワタシがあればアナタがある。

覚智とは、あの御方と特別に近く親しくなることだ。

木の中に火の性があるという感じ――この確信をもつことを智識(ジニャーナ)という。

その火で米を煮て食べて栄養をとる。

これを真実智と言うんだ。

神様は実在する――これを心の経験で知るのが智識。

あの御方と話をしたり、あの御方と楽しんだり。。。。。

つまり、あの御方の子供になったり友だちになったり、召使いになったり恋人になったりして――これこそ、覚智というものだ。

あの御方が宇宙とすべての生物になっていらっしゃる。

これを見抜くのが覚智というものだ。

ある一派の考えによると、あの御方は見ることが出来ないそうだ。

――いったい、誰が誰を見るというのかね。

自分が自分を見るんだよ。

黒い海に船が入ると戻ってこない――だから戻って報告をすることも出来ない」

 

「なぜ、これでもない(ネーティ)、これでもない(ネーティ)なんてばかり言ってうろついているんだい?

ブラフマンについて何一つ説明することは出来ないよ。

ただ、“実在そのもの”と言えるだけだ。

ただ“ラーマ”だけだ。

わたしらが見たり考えたりすることはみんなあの根源造化力の、あの造化力意識のすばらしい顕れなんだよ。

 

――造る、保つ、壊す。

生物世界、それに瞑想と瞑想する人、信仰、愛、すべてあの御方の力の表現(あらわれ)だ。

だが、ブラフマンシャクティ(力)は同じものだよ。

ちょうど舵と蛇行の関係――舵のように曲がりくねった動きを考えると、どうしても舵のことを考える。

舵のことを考えると、蛇行のような動きもいっしょに考えてしまう。

牛乳を考えると牛乳の色を考える――白い色を。

牛乳のような白さといえばすぐ牛乳を考えてしまう。

水の冷やす力を考えれば水のことを考えるし、水を考えれば水の冷やす力のことを考える。

この根源造化力(アディヤシャクティ、または、大現象(マハーマーヤー)がブラフマンを覆っている。

この覆いの幕が除かれてはじめて、“永遠に実在(あ)り通しの我”だ。

“わたしはあなた、あなたはわたし”だ!

この覆いの幕が残っている間は、ヴェーダーンタ派の決まり文句――つまり、“我こそ、かのブラフマンである”などと口にするのは正しい態度ではないんだよ。

波は水のものだが、何で水が波のものであるもんか。

まだ幕がかかっている間は、母親――大実母(マー)と呼ぶのがいい。

あなた(神)は母親、私はあなたの子供、あなたは御主人、私はあなたの召使い。

この主人と召使いの考え方もとてもいいよ。

この召使いという考え方から、ほかのいろんな思い方が出てくる。

静かで平安な態度や、友達関係と見る態度も――

主人が召使いを可愛がっていれば、『これ、私の傍にきてお坐り、お前と私は一心同体だよ』と言ってくれることもあるさ。

けれども、召使いが自分勝手に主人のそばへきて坐りこめば、主人は怒るだろう?」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(25)「神」④

前回までの記事で、「神とはどのような存在か?」「神は何処にいるか?」など、神についての智識をお伝えしました。

 

これらのことを知ることは、ヨーガ(神との合一)の道を短縮することにつながる有益な情報として、サンスカーラ(過去の残存印象、潜在意識)に蓄積され、今後の探究のプロセスおいて、有効に働き、良い結果へとつながって行くことでしょう。

目的地に到達しようとする際は、闇雲に行き当たりばったり歩くよりも、地図を参考に見ながら歩く方が、時間も労力をも無駄に浪費せずに済むので、それにより、目的地までのプロセスを楽しむ余裕が生まれますし、信頼できる地図があれば、迷わずに済み、旅に費やす時間の短縮につながるのは、言うまでもありません。

このことは、今私たちが歩んでいる魂の旅(多くの人は、そのことを意識していませんが)にも、同じことが言えます。

 

ヨーガ(神との合一)という山頂に至るには、他者が自分の代わりに上がれる訳ではありませんし、自己実現のためには、山頂までは自分の足で上る必要があります。

自分が歩むのですから、自分が行く道は、少なくとも、自分が決めることができます。

どの道を辿るか?を決める際に、先人が辿った道について知ることは、確実に山頂に辿り着ける道を選択することにつながります。

 

今回も、前半で、シュリ・ラーマ・クリシュナの御言葉をご紹介し、後半で、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋をご紹介したいと思います。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

ヴェーダンタ派なんかのブラフマン智の行者たちはこんなふうに言う。

”創造、維持、破壊、そして生物と世界ーーこういうものはすべてシャクティ(造化力)の遊戯(リーラー)である。

よく考えて判断していけば、すべてのものは夢まぼろしである。

ブラフマンだけが実在で、ほかはみな非実在だ。

シャクティでさえ夢のようなものであって実在ではない”とね。

けれども、何千何万回考えて決心してみても、三昧(サマディ)にならない限りはシャクティの領域から逃れる方法(みち)はない。

”私は瞑想している””私は考えている”などというのも、すべてこれシャクティの領域でのこと。

シャクティの勢力の中でのことだよ。

だから、ブラフマンシャクティは不異(おなじ)だというのだ。

一つを思ったら、もう一つの方も思わずにはいられない。

ちょうど火とその燃える力のようなものでねーー火を心に想いうかべると、燃える力もいっしょに思うことになる。

燃える力を除けて火を想像することは出来ないし、火のことを言えばどうしても燃える力を思うことになる。

太陽といえば日光が心に浮かんでくるし、日光がなくては太陽を考えることは出来ない。

牛乳はどんなものかね?

考えるまでもない。

牛乳がなくては牛乳のあの白さを思い浮かべることはできない。

そして、牛乳の白さなしには牛乳を思い浮かべることは出来ない。

だから、ブラフマンなしにシャクティを考えることは出来ないし、シャクティなしにブラフマンを考えることは出来ない。

永遠(ニティヤ)なものなしには変化(リーラー)を、変化(リーラー)なしには永遠(ニティヤ)なものを思うことは出来ないんだよ!

アディヤシャクティ(宇宙生命力・根元造化力)は絶えず変化活動している。

創造し、維持し、破壊している。

その力のことをカーリー(ヒンドゥー教の暴力と殺戮を好む戦いの女神)と呼ぶのだ。

カーリーこそブラフマンで、ブラフマンこそカーリーなんだ!

唯一つの本体が動かないときーーつまり、創造、維持、破壊の仕事をしていなさらぬと考えるとき、その御方をブラフマンと呼ぶ。

その御方がそうした活動をなすっているときにはカーリーとかシャクティと呼ぶ。

その御方はただひとり。名前とポーズが違うだけ。

あの御方のことをアッラーと呼んでいる人もあれば、ゴッドと呼んでいる人もあり、ブラフマンと呼ぶ人も、カーリーと呼ぶ人もある。

ラーマ、ハリ(クリシュナ)、イエスドゥルガーなどと呼んでいる人もある」

「ただ一つのものがあるだけで、ほかには何もないんだよ。

”私”がある間は、かの至高至聖のブラフマンが、アディヤシャクティ(根源造化力)という相(すがた)で創造したり、維持したり、破壊したりしているように見せかけて下さっているだけだ。

ブラフマンがアディアシャクティなのだ。

ある王様が、『たった一言で朕に智慧をさずけよ』と、一人のヨーギーに申しつけた。

ヨーギーは、『よろしい。たった一言であんたは智慧を得るだろう』と請け合った。

しばらくすると、王の傍で突然『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言う。

王は何のことかわからず呆気にとられてただ見ていた。

しばらく見ていると、二本の指は一本になってしまった。

魔術師は一本になった指をグルグル廻しながら、『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言っている。

つまり、ブラフマンとアディアシャクティははじめのうちは二つに見える。

しかし、ブラフマン智慧を得ると、もう二つは存在しないんだよ。

同じなんだよ。一つなんだ!

一つが二つになっているんじゃないーー不二(アドヴァイタ)なんだ!」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

How to Realize God ?(神を悟る(実現する)方法)

 

神は、受容と供給の問題である。

もし、あなたが、本当に神のダルシャン(謁見)を切に願うならば、彼は、直ぐにでも、あなたに彼自身を現わして下さるだろう。

あなたは、神を悟ることに、技術も科学も、学びも学識も要らないが、誠実さと純粋さ、献身は必要である。

すべての世俗的な事柄-妻、息子、富、財産、親戚、友人-に対してあなたが大事にする愛をすべてに結合しなさい。

それから、この結びつけられた愛を神に対して適用しなさい。

あなたは、直ちに、悟るであろう。

神と同時に富に仕えることは、不可能である。

あなたは、真我の至福と感覚的な喜びを、一つの同じカップで、楽しむことはできない。

あなたは、光と闇を同時に持つことはできない。

神は、あなたの全ハートを要求している。

あなた自身を、神の前でゼロにまで減少させなさい。

その時だけ、神は完全に、あなたを引き受け、護ってくれるだろう。

その時だけ、帰依は完全となる。

あなた自身の利益や、あなた自身の切望や、あなた自身の望みを忘れなさい。

あなたは、至高の自己の至福に達するであろう。

もしあなたが、神との合一を望むならば、低い自己を磔に処し、生贄に捧げなさい。

あなたのエゴイズムを空にしなさい。

あなたは、神で満たされるであろう。

あなたの個性を失くしなさい。

あなたは、神聖なる命を見出すだろう。

あなたは、神を実現する(悟る)だろう。』

 

 

『The Easiest Approach to God (最も簡単な神へのアプローチ)

 

バクティ(神への信愛)は、いかなる神へのアプローチの他の方法よりも簡単である。

ジュニャーナ(Jnana)とヨーガ(Yoga)には、堕落するリスクがある。

献身の道においては、献身者が神から十分なサポートと助けを受け取るので、リスクはない。

ジュニャーナ(Jnana)やヨーガの道を辿る人は、彼らの力と知恵を誇りがちである。

献身者は、謙虚である。

謙遜は、バクティ・ヨーガ(神への信愛、献身のヨーガ)の基本である。

ジュニャーナ(Jnana)・ヨーガ(不二一元の智識のヨーガ)は、智慧のヨーガである。

それは、分析と拒絶の道である。

それは、終わりのない否定の道である。

これは、大変難しい道である。

ラージャ・ヨーガ(八つの階梯のヨーガ)も、また、難しい。

それは、大海の波を鎮めるのに似ている。

あなたは、全部の波を鎮めなくてはならない。

カルマ・ヨーガ(奉仕のヨーガ)も、難しい。

それは、最も高い頂きに登るのに似ている。

あなたは、強大な意志力を必要とする。

バクティ・ヨーガだけは、簡単である。

神は、サンスカーラ(過去の残存印象、潜在意識)の泥沼からあなたを引き上げるために、手を伸ばしている。

あなたは、神の手をしっかりと掴まなければならないだろう。

しかし、ここでは、一つのことが、絶対に欠くことができない。

あなたは、神と神だけの考えの他に、どんな考えをも持つべきではない。

(神のことだけを思いなさい)』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

ALL WISDOM IS EVER WITHIN YOU (すべての智慧は、いつもあなたの内側にある)

 

すべての智慧は、いつもあなたの内側にある。

不滅の至福は、いつもあなたの内側にある。

すべての善は、いつもあなたの内側にある。

すべての力は、いつもあなたの内側にある。

すべての平和は、いつもあなたの内側にある。

すべての富は、いつもあなたの内側にある。

あなたは、達成方法を知るべきである。

あなたは、それらを得るために勇気を持たなくてはならない。

あなたは、まず初めに、四つのモノを獲得しなくてはならない。

あなたは、四人の歩哨と親しくしなくてはならない。

あなたは、誠実、熱望、献身を持たなくてはならない。

あなたは、純粋なハート、明晰な意識、抗えない意志、燃えるような決意、そして目的の粘り強さを持たなくてはならない。

(Waves of Bliss by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(24)「神」③

ヨーガ(神との合一)という言葉にあるように、「神との合一」(見神)を果たすには、「神」についての智識(Brahma Jnana)は、ある側面では役立つとは言え、智識(Brahma Jnana)は、ただの観念(言葉)にしか過ぎない、ということも否めません。

神の智識(Brahma Jnana)そのものが、実在する「神」そのものではないため、神の智識(Brahma Jnana)によって、神を見たり、神を体験したり、神を知ることにはなりませんが、それでも、神について知ることは、私たちの内部にある「無知」を軽減することに役立ってくれることは、間違いありませんし、「神」についての明確なビジョンを持つことは、「見神」においては、とても重要です。

(ポポーというフルーツを食べたことがない人に、いくらポポーについて語っても、ポポーを知らない人は、聞いた情報を元に想像することはできても、実際にポポーを知ったことにはならないのと同じ理屈ですが、ポポーについて予め知っていると、ポポーを食べた瞬間に、それがポポーだということがわかることでしょう。)

 

今回の記事の前半では、趣向を変えて、4年前に出版した「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の著者であるスワミ・ラーマの「ヒマラヤ聖者とともに」という本の中で語られた、若き日のスワミ・ラーマ自身が体験した教訓的なエピソードを、ご紹介したいと思います。

 

そして、後半部分は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋の続きをご紹介いたします。

 

二人のスワミたちが、仰っていることは、同じです。

(前回の記事でもご紹介しましたが、シュリ・ラーマ・クリシュナも同じことを仰っていました。『智者はよく知っているよ。神様は”ここ、ここ”--ほんとに近く、胸のうちに、心のすべてを見ていてくれるものとしてあること。』)

 

他の聖者の方々も、同じことを仰ることでしょう。

 

彼らが示唆している場所、方法以外には、私たちが、神を直接体験し、神を見ることは不可能と言えますが、しかし、反対に考えれば、ただ一つだけですが、神へと至る道があり、それが、自分自身の中にあるのですから、その道を辿るのに、誰の許可も必要とせず、誰にも邪魔されず、誰にも咎められず、誰にも遠慮することなく、自分の意志次第で、自由に進んで行くことができる訳です。

 

実際にこの道を行こうとする人は、とても少ないのが現実ですが、本当は、誰にでも開かれた道であり、誰であろうとも、進んで行くのに、特別な資格は必要ないのです。

 

 

神とはどんな存在か?

 

ある日、私は師に言った。

「あなたは私をだましています」

自分が不十分なのにエゴが強いとき、人は他を責めようとするものだ。

師は尋ねた。「どういうことだ?」

私は答えた。「あなたは私がまだ子どもだと思い、私に隠しているものがあります」

「言いなさい。私が何を隠している?」

「あなたは私に神を見せようとしない。おそらくあなたにはそれができず、神について教えることしかできないのです。それがあなたの力の限界だということなら、正直にそう言ってください」

師は言った。「では明日の朝、おまえに神を見せよう」

私は尋ねた。「本当ですか?」

師は言った。「おそらくは。。。おまえにはその準備ができているのだな?」

ふだんは規則的に寝る前に瞑想していたが、その晩はできなかった。

朝には神を見られることが確かなのに、瞑想して何の意味があるだろう。

私は興奮して落ちつかず、一晩中眠れなかった。

翌朝早く、師のもとに行った。

風呂にも入らなかった。「師が神を見せるというのに、風呂などに入っている時間はない」私は頬を軽く叩き、髪をなでつけ、師のところへ行った。

師は言った。「座りなさい」

私は思った。「いよいよ神を見せてもらえる」

私がつつましくあったことはめったにないが、その日の朝はこれまでになく謙虚になった。私は師に何度も頭を下げた。

師は私を見て行った。「どうしたというのだ?そのおかしなふるまいは何だ?何をそう高ぶっている?」

私は言った。「忘れたのですか?私に神を見せると約束したのを」

「よかろう。では、おまえがどんな神を見ようとしているのか言いなさい」

私は尋ねた。「マスター、そんなに種類があるのですか?」

「おまえの神というもの、神の定義は何だ?私はおまえの確信と定義どおりの神を見せよう。

心の内に何ら確かな神というものもなしに、誰もが神を見たいと言う。

求める対象について確かでなくて、何が見つかるというのだ?

目にするすべてが神だと私が言っても、おまえは満足しないだろう。

神はおまえの内にいると言っても、やはりおまえは満足しまい。

私が神を見せ、おまえが『いいえ、それは神ではありません』と言うなら、私に何ができる?

おまえが神だと思うものを言いなさい。私はその神をおまえのためにつくりだそう」

私は言った。「ちょっと待ってください。考えてみます」

「神はおまえの思考の範疇にはない。瞑想の座に戻り、準備ができたら言いなさい。どんな神を見たいか決まったら、いつでも私のところに来なさい。私は嘘をつかない――神を見せる。私の責務、それはおまえに神を見せることだ」

私は神とは何か最善をつくして想像したが、私の想像は人の姿を超えなかった。

植物界について考え、動物界について考え、それから人間のことを考えた。

私は賢く美しい人物、たいへん強くすぐれた力のある人物を想像した。

私は思った。「きっと神はこんなふうに違いない」

そのとき、自分が愚かな要求をしていたのだと悟った。心に明晰さがなくて、いったい何を体験できるだろう。

ついに私は師のもとへ行き言った。「マスター、私たちを苦しみから解放し、幸せを授ける神を見せてください」

師は言った。「それはおまえ自身が培うべき、均衡と平静の境地のことだ」

心に明晰さもなく、ただ神を見たいというのは暗闇を探るに等しい。

人の心には限界というものがあり、そうした制約つきの情報源から見えるものを見ることしかできない。

神とは何か説明できる人も、想像で神を理解できる人もいはしない。

神は真理である、愛の源泉である、絶対者である、森羅万象を具現した唯一者である、そう言うことはできる。

しかしこうした抽象的な概念のいずれも、神を見たいという欲望を満たしはしない。

そこに何を見るべきだろう。

神を何らかの存在であると信じる人は、想像したヴィジョンを見ることもあるだろうが、実際には、神は人の目を介して見ることはできない。

自らの真のセルフ、そして万人万物のセルフを知ることでのみ、真に神を見ることができる。

「神が見たい。師は神を見せようとしない。師は私の欲するものを授けない」という姿勢の生徒は、最後にはそれが師の側の責務の問題ではないと知る。

適切でない要求をしていないか探り、師に求めるかわりに内から自分を変えていくことだ。

神は自らの内におり、自らの内にあるものは自ら理解することができる。

誰も他人に神を見せることはできない。

自らの真のセルフを悟らねばならない。

そうして万物のセルフ、神と呼ばれるものを知る。

生徒は、無知の状態で神を何らかの特定の存在であると思い、外界の何かを目にするのとまったく同じように、その存在を見たいと思う。

それは決して起こらない。

しかし、神は真理であると知り、行いと言葉で真理を実践するとき、神というものにまつわる無知は消失し、自己覚醒の夜が明ける。』

(ヒマラヤの聖者とともに by Swami Rama)

 

 

Where is God?(神は何処にいるのか?)

 

神は、何処にいるのか?

神がいない処は、ない。

ちょうど、一本の糸が、一つの花輪のすべての花を貫いているように、一つの真の自己が、これらすべての生きている存在を貫いている。

彼は、種子の中の脂のように、ミルクの中のバターのように、脳の中の心のように、身体の中のプラーナのように、子宮の中の胎児のように、雲の背後の太陽のように、木の中の火のように、大気中の水蒸気のように、水の中の塩のように、花の中の香りのように、蓄音機のレコードの中の音のように、石英の中の金のように、血の中の白血球のように、すべての存在と形の中に隠れている。

神は、生命や意識として、すべての存在の中に住んでいらっしゃる。

神は、ライオンの唸り声、鳥の囀り、赤ん坊の泣き声の中にいらっしゃる。

何処にでも、彼の存在を感じなさい。

蝶の羽に、アルファやオメガの文字に、患者の咳に、小川のせせらぎに、ベルの音に、神を見なさい。

この世界のすべての物質の中に、神の顔の不思議を見出しなさい。

鼻の中を流れるすべての呼吸、心臓における脈打つすべての鼓動、身体における律動するすべての動脈、心に生じるすべての考えは、あなたに、神は近くにいると語っている。

香りを漂わせるすべての花、あなたを魅了するすべての果物、そよぐすべての優しいそよ風、スムーズに流れるすべての川は、神と神の恵みを語っている。

力強い波の大海原、氷河の巨大なヒマラヤ、広大な空の明るい太陽と星々、枝のある背の高い木、丘や谷の冷たい泉は、あなたに神の無限なる力を語っている。

甘美な歌い手たちの音楽、力強い演説者の講義、名だたる詩人たちの詩歌、有能な科学者たちの発明、指先の器用な外科医の手術、聖なる聖者たちの言葉、バガヴァッド・ギーターの教え、ウパニシャッドの啓示は、神と神の知恵について語っている。

すべては神である。

幸福は神であり、不幸も神である。

すべての中に神を拝し、至福の中で平和に安らぎなさい。

神は、全宇宙に充満している。

彼は、乞食のみなりで歩く。

彼は、病人を装い、痛みでうめく。

彼は、ぼろを着て森を彷徨う。

あなたの目を開け、すべての中に、神を見なさい。

すべてに仕え、すべてを愛しなさい。

あらゆる所に、神聖なる存在を感じなさい-あらゆる形、あらゆる考え、あらゆる感覚、あらゆる所感、あらゆる動き、あらゆる感情の中に。

神は、感覚を通して見ると、物質であり、知性を通して見ると、心であり、霊を通して見ると、真我であるアートマンである。

神は、あなたの中に内在している。

神は、内なる支配者であり、内なる目撃者(Antaryamin)であり、あなたの人生を守り、支配している。

神は、あなたの中におり、あなたは、神の中にいる。

神は、あなたのすぐ近くにいる。

神は、少しも離れておらず、あなたよりもあなたの近くにいる。

あなたは、神がカイラス山や、ラーメーシュワラム(註①)やメッカ、エルサレムや空や天国でのみ見出されると、初めは考えていた。

あなたは、とても曖昧な考えを持っていた。

この身体は、神の動く神殿である。

神聖な場所は、あなた自身のハートの空洞である。

あなたの目を閉じなさい。

感覚の対象物からあなたの感覚器官を引っ込めなさい。

一点に集中した心と献身と純粋な愛で、あなたのハートの中に神を探しなさい。

あなたは、必ず、神を見つけるだろう。

神は、あなたを抱擁するために、腕を広げて、そこで待っている。

もし、あなたが神をそこで見つけることができないならば、他の如何なる場所であっても、あなたは神を見つけることはできない。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

(註①この地は、古代インドの叙事詩ラーマーヤナ』において、ラーマ王子(ヴィシュヌ神の化身とされる)がラーヴァナにさらわれた妻シータ―を助けにランカー島へ渡る際に橋をかけた場所、とされている)

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(23)「神」②

前回から、ヨーガの世界における「神」、また、ウパニシャッドで説かれている「神」について、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」(日本未出版)から、抜粋して御言葉をご紹介しています。

 

さて、この「神」については、このブログの過去記事でも、度々ご紹介してきましたが、今回は、その過去記事の中から、今回ご紹介しますスワミ・シヴァナンダの御言葉と、全く同じ趣旨のことをシュリ・ラーマ・クリシュナが語って下さっていますので、改めてその御言葉も、併せてご紹介したいと思います。

 

これは、「神」についての正しい智識(Brahma Jnana)であると同時に、自己実現(Self-Realisation)を望む人なら誰でも、最終的に導かれるゴールであります。

 

So ham !(我、ソレなり!)

 

これが、最終的なヨーガ(神との合一)の究極的なゴールであり、人間に生じている「無知」を消滅させることができる「最高の智慧」(Brahman Jnana)であり、ここに至る道こそが、私たちが「無知」から生じる「輪廻」から「解脱」する唯一の道と言えるでしょう。

 

 

ラーマ・クリシュナ

『お前さんたち、遠いところから苦労して此処へやってくるが、神様を探して歩いているのかい?

大方の人は庭を眺めて満足しているだけで、庭の造り主のことを聞くのはほんの一人、二人だ。

この宇宙の美しさがわかっても、その造り主を探そうとしない。』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

『Is There a God ?(神はいるか?)

 

神は、人間の想像を超えているが、生きる実在である。

ブラフマン形而上学の抽象概念などではなく、最も豊かでリアルな存在である。

神の存在は、科学的な実験では証明されることはできない。

絶対者は、最も偉大な学者の心でさえ困惑させ、最も強力な知性でさえ、捕らえようとしても捕まらない。

それは、純粋な意識として体験され、そこでは、知性は死に、学識は消滅し、全存在自体が、完全にその中に消え去る。

すべてが消え去り、すべてが見出される。

あなたは、実験室の証明が欲しいのか?

大いに結構!

あなたは、あなたの試験官やガラス管や化学物質の中に、無限で、すべてに遍在している神を制限したいのだ。

神は、あなたの化学物質にとっての源であり、あなたの原子、電子、分子にとっての根本である。

神無しには、どんな原子も電子も動かない。

神は、内なる支配者である。

私たちの感覚に力を、心に認識力を、知性に識別力を、手足に力を与えているのは、神である。

私たちが生きて死ぬのは、神の意志を通してである。

しかし、人間はいたずらに、神が役者であり、享受者であると想像している。

人間は、宇宙における動きを指令する全能で支配する力の前では、ただの無である。

神の意志は、何処においても、法則として、それ自身を表す。

重力、分子の結合力、相対性、原因と結果の法則、電子や化学や物理学の法則、すべての心理学的な法則は、神の意志の表現である。

私たちが原因と結果の法則によって、自然の中のすべてを説明するように、全体としての自然も、説明されなくてはならない。

それは、幾つかの原因を持っていなくてはならないし、この原因は、結果とは異なっていなくてはならない。

それは、超自然的な存在、例えば、神でなくてはならない。

自然は、ただの偶然の出来事の寄せ集めや、ただの機会の偶然の集まりではなく、秩序のある出来事である。

植物は規則正しく蕾になり、種子は規則的に木に成長し、季節はそれぞれ順番に続いて起こる。

自然は生命のないもの(Jada)であり、それ自身に命令することはできない。

それは、責任がある知性のある存在-神の存在を必要としている。

科学者のアインシュタインでさえ、至高の知性による宇宙の創造を強く確信していた。

日中に、星々を見ることはないが、それでも星々は存在する。

曇りの日に太陽を見ることはできないが、それでも太陽は存在する。

あなたは、この肉体の目で神を見ることはできないが、たとえそうであっても、神は存在する。

もしあなたが、瞑想の実践によって、神聖なる目や直感の目を得るならば、あなたは、神を見るだろう。

神は、神ご自身が自己証明される。

神は、証明の過程や行為の基礎であるため、どんな証明も必要としていない。』
(Bliss Divine by Swami Savananda)

 

 

ラーマ・クリシュナ

『神とは何か、もしそれを理解していれば、それこそ生きながら解脱した人だ。

だが、みんなこれを信じていないのだ。

ただ口でしゃべるだけのことだ。

神は実在し、神の意志ですべてのことは起こっている、と世間の連中は聞いているだけで信じてはいない。

世間の人は、神についてどんなふうに知っていると思う?

伯母さんたちの口ゲンカを聞いて、子供たちがけんかをしながらそのマネをして言うーー”あたしには神様がついていらっしゃるから”--あれだよ。

全部の人があの御方を理解できると思うかい?

あの御方は善い人をお創りになる、悪い人をお創りになる、信心深い人をお創りになる、不信人な人をお創りになる、神を信じる人をお創りになる、神を信じない人をお創りになる。

あの御方のリーラー(神の遊戯)の場は、すべてが多種多様で不可思議だよ。

あの御方の力は、ある場所には溢れるほどたくさん顕れているし、ある場所にはほんとに少なくしか顕れていない。

太陽の光は地面よりも水面によく反射するし、水面より鏡にもっとよく反射する。

それから、神の信者にもいろいろある。上、中、下とあるんだ。

バガヴァッド・ギーターにみんな書いてあるよ。

下の信者は、「神様はいらっしゃる。天上はるか遠くに」と言う。

中の信者は、「神はすべての生物のなかに、意識として、生命として宿っていらっしゃる」と言う。

上の信者は、「神ご自身があらゆるものに成っていらっしゃる。見るもの一つ一つが神の色相(すがた)なのだ。

あの御方が現象(マーヤー)、生きとし生けるもの、この世界すべてになっていらっしゃるのだ。

神の外には何一つ存在しない」と言う。

”あんたとあんたのもの”これが智慧だ。”私と私もの”--これが無智だ。

身体も、心も、家も、家族も、ほかの生きとし生けるもの、この宇宙、世界ーーみんな、みんな、あんたのもの、私のものは一つもないーーこの理解が智慧というものだよ。

無智な人はこう言う、神様は”あっち、あっち”、ずーと遠くの方に!

智者はよく知っているよ。

神様は”ここ、ここ”--ほんとに近く、胸のうちに、心のすべてを見ていてくれるものとしてあること。

そして、自分で一つ一つ様々な色形(かたち)をとって、そこに住んでいらっしゃることをね』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

あなたは至高のブラフマン 無上の安息所

そしてすべてを浄化する御方

永遠至聖にして不生無始

全宇宙に遍在する元始の神

(バガヴァッド・ギーター第10章12)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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