智者と覚者
これまでの記事で書いてきたことは、かなり難しい内容も含まれていましたので、
それらのすべてを理解するのは、そうそう簡単なことではないでしょう。
ですから、時間があったら、何度も読み返してみて下さい。
出来れば、時間を空けて読み返してみると、以前は理解できなかった内容が、ある日、突然理解できるようになっていることも起こり得ますので、
最初は、今は、わからなくても、諦めずに、何度でも読んでみて下さい。
読んで理解しようとすればするほど、『真理』の概要、そのイメージが掴めるようになると思います。
このブログの目的は、一番最初の記事に書いた通りですが、もう一度、ここに掲載させて頂きます。
『この世にいる人間は、大ざっぱに分けて四種類あるんだよ。
ーー縛られた人。解脱を求める人。解脱した人。それから、永遠の人。
永遠の人は--人びとを幸福にするため、人びとに真理を教えるためにだけ、この世にいる。
縛られた人は--世間のことに心を奪われてしまい、神のことをすっかり忘れている。夢にも神のことなど考えたりはしない人間だ。
解脱を求める人は--この世のカセから、自由になりたいと思って努力している人たちだ。だが彼らのなかでも解脱できる人もあり、できない人もある。
解脱した人は--この世の”女と金”に縛られない。聖者や、偉大な魂の人だ。この人たちの心には世俗的な思いは全然なく、ひたすら神の蓮華の御足を想っている。
湖に魚網がしかけてある。二、三匹の魚は利口で、決して網にかからない。
これは永遠の人に似ている。だがほとんどの魚は網にかかってしまう。
このなかで、いく匹かの魚は逃げようとしてがんばる。
これが解脱(自由)を求める人だ。けれども皆が逃げられるわけではない。
二匹か三匹くらいが、ドボーン、ドボーンと音をたてて逃げていく。
--そんなとき、漁師は言うよ。『オッ、一匹でかい奴が逃げちまったぞ!』
しかし、網にかかった大部分の魚は逃げられない。逃げようともしない。
それどころか、網の目を口にくわえて湖底の泥のなかにもぐりこんで、ジッとして横になって、『もう心配ない。おれたちはうまくいっている』などと考えている。
やがて漁師たちが網を引きあげて、一匹のこらずつかまってしまうのに、それがどうしてもわからないんだ。
これがそっくりそのまま縛られた人の有様だよ。』
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
「永遠の人」と「解脱した人」は、もう何の教えもサポートもグル(師)でさえ必要ありませんから、探求者として、自分の内側、外側を探す必要はないでしょう。
また、「縛られた人」は、自分が縛られていることにさえ気が付いていないので、その束縛から自由になりたいという想いもなく、「解放」を望むこともないでしょう。
ですから、このブログを読んでいる人は、少なくとも、何らかの形で、「解脱を求める人」すなわち、「解放を求める人」であろうと思われます。
そういう方々に向けて、アドヴァイタ(不二一元論)を基本に、ご参考になると思われる記事を書いてきましたが、
最終的には、「知識」は知識でしかなく、言葉で表現されたモノは、「観念」「イメージ」でしかなく、
いかなる聖者が言われたこと、聖なる本に書かれたことでさえ、「神」「絶対者」「それ」などと呼ばれている「この宇宙で唯一の実在」そのものではありません。
これまでも何度もご紹介してきましたが、聖人ラーマ・クリシュナが仰っているように、
私たちには、知識を得ることではなく、「そのもの」を体験することが重要なのであって、知識は、体験までの案内書として、私たちを導く役割しかありません。
とは言え、道案内のガイドブックがあれば、闇雲に歩いて探すようなことはなくなりますし、目的地に到着することは、より簡単になることでしょう。
ガイドブックに書いてあることへの理解をより深めることで、道が短縮されることもあります。
そういう観点から、真の目覚めへとつながっていく示唆となり得るような記事をもう少し書いてみようと思います。
(より簡単で具体的で確実な方法については、後日、記事に書かせて頂く予定です)
『読むことより聞くのが良く、聞くより見るのが上だ。
師匠(グル)や修行者(サードゥ)の口から聖典の話を聞かせてもらうとよくわかる。
そうすれば、余計なところにひっかかって無駄なことを考えずにすむ。
聞くことより見る方がはるかにマシだ。
見たならば疑いはみな消えてしまう。
聖典にはいろんなことが書いてあるが、神様に直接に会わなかったらーーあの御方の蓮華の御足を信じられなかったらーー心が清浄にならなかったらーーすべては無駄なことだ。」
「聖典や経文とにらめっこして考えるのは何時までだと思うかね?
神様と直接に会うまでだ。
蜜蜂がブンブンいっているのはいつまで?
花にとまるまでだ。
花にとまって蜜を吸いはじめると、もう音をたてなくなる。
でも、もう一つ、神に会った後でも話をすることがある。
その人の話はただ、神と神の歓喜についてだ。」
「智者(ジュニャーニ)は”これでもない””これでもない”と分別判断する。
この否定をつづけていって最後のところで大歓喜を得る。
それがブラフマンだ。
智者はどんな傾向かというとーー智者は聖典に従って行動する。
だが、智者は質問されなければ、神に関する話をしない。
先ず時候のあいさつとか、健康のこととか、家族の様子などをきくものだよ。
しかし、覚者の様子は智者とは全く違う。
とにかく無頓着だ。
着ているものもだしなくしていたり、脱いで横っちょにかかえていたりーーまるで子供みたいだ!
神様の実在を知っている人、これを智者と呼ぶんだよ。
木には必ず火がふくまれているということを知る人が智者だ。
木を燃やして物を煮て、食べて栄養をとることの出来る人、それが覚者だ。」
「覚者はいつも神を見ている。
だから明けっぴろげで無頓着なんだよ。
目をあいているままで神様が見えるんだ。
時には永遠不変(ニティヤ)のところから下りてきて変化無常(リーラー)の世界に住むしーー時にはまた、無常の世界から永遠の世界に行く」
「これでもない(ネーティ)、これでもない(ネーティ)と分別判断しつづけたあげく、あの永遠完全なサッチダーナンダに到達するわけだ。
彼らはこう考えるーーあの御方は生物ではない、世界でもない、二十四の(存在)原理でもないーーというふうに。
そして、”永遠完全”に到達するとまた、あの御方があらゆるものになっていらっしゃるーー生物にも、世界にも、二十四の(存在)原理にもーーと見るようになる。
牛乳を凝らせてバターをとる。
バターをとってみると、バターミルクがバターで、バターがバターミルクだということがわかる。
外皮あっての中身、中身あっての外皮だ」
「バターってものがあればこそ、バターミルクがあるんだよ。
バターを思い浮かべれば、いやでもバターミルクもいっしょに考えなければならない。
バターミルクがなければバターもないからさ。
だから、永遠なるものを認めるなら、変化無常も認めなければならない。
上昇と下降だ。
形ある神も形のない神もハッキリ見た後が、こういう境地なんだよ!
形のある神は霊(チンマヤーー純粋意識により成るもの)の種々相、無形の神というのは完全円満なサッチダーナンダだ。
あの御方がすべてのものになっていらっしゃる。
だから覚者にとっては”この世は遊び小屋”だ。
智者にとっては”この世は幻影の幕”。
覚者は神の喜びをもっとも豊富に楽しんでいる。
ミルクの話を聞く人もあり、それを見る人もあり、また飲む人もある。
覚者はミルクを飲んで楽しみ、しかも豊かに栄養をとっている」
(大聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
「クリシュナよ 私は
プラクリティとプルシャについて
用地(クセートラ)と用地の認識者について また
知識と知識の対象について学びたいのです」
「クンティーの息子よ
この肉体が用地(クセートラ)であり
この肉体を知覚認識している者が
用地を認識者(しるもの)である
バラタの子孫よ そして このわたしが
全ての肉体の認識者であると知れ
肉体とその認識者について理解することが
真の知識であると わたし考えている
(バガヴァッド・ギーター第13章1ー3)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
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わたしは誰か?-アートマンについて(11)
真の自己であり、私たちの本質であるアートマンについて、そして、アートマンとブラフマンは同一である、というアドヴァイタ(不二一元)について、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集からご紹介してきましたが、
今回は、このアドヴァイタは、宗教的な教え、思想というだけでなく、この地上においては、あらゆる人類が抱える問題を解決へと導く叡智である、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉を、ご紹介したいと思います。
『得るものは何か。力です。
あなたが世界の上にかけたあの催眠術のヴェイルを取り去れ。
人類に向かって弱さの思いや言葉を送り出すな、すべての罪、すべての悪は弱さというこの一語に要約され得るのだ、ということを知れ。
全ての悪い行為の原動力は弱さです。
全ての利己主義の源は弱さです。
人々をして他者を傷つけしめるのは弱さです。
彼らをして、真の自己でない姿を現しめるのは弱さなのです。
彼ら全てをして、自分たちは何者であるかを知らしめよ。
彼らをして、昼も夜も自分たちがあるところのものを繰り返さしめよ。
ソーハム(私は“かれ”である)、彼らをしてそれを、この力の思想を、母の乳と共に吸わしめよ――私は“かれ”である、私は“かれ”である。これはまず最初に聴かれるべきものであります――そしてそれから、彼らをしてそれについて考えしめよ。
するとその思考の中から、そのハートの中から、世界がかつて見たことのないような働きが生まれるでありましょう。
何がなされるべきであるか。
そう、このアドワイタは、ある人によって実際的ではないと言われて来ました。
つまり、それはまだ物質世界にはみずからを現していない、と言うのです。
ある程度、それは真実です。
なぜなら、ヴェーダの章句を思い出して下さい――
「オーム、これはブラフマンである。
オーム、これは最も偉大なる実在である。
このオームの秘密を知る者は、欲するもののことごとくを得ることができる」
そうです、ですからまず、あなたはオームであると言う、このオームの秘密を知りなさい。
このタットヴァマシ(汝は“それ”なり)の秘密をお知りなさい。
かくして初めて、欲するものことごとくは、やって来るのです。
もしあながたが物質的に偉大になりたいのなら、自分はそうである、とお信じなさい。
私は小さな泡かも知れない、そしてあなたは山のように高い波でしょう。
しかし私たちの何れもが、その背後に無限の大海を控えているのだ、ということをお知りなさい。
無限のブラフマンが私たちの力と強さとの倉庫であって、泡である私も、山のように高い波であるあなたも、二人ともが、自分が欲しいだけそこから引き出すことができるのです。
ですから、あなた自身をお信じなさい。
アドワイタの秘密は、まずあなた方自身を信ぜよ。
それから、他の何ものでもを信ぜよ、と言うものです。
世界の歴史の中で、自らを信じた国々のみが偉大に、そして強くなったことを皆さんはごらんになるでしょう。
各国の歴史の中では、彼ら自らを信じた個人たちのみが偉大に、そして強くなったことをごらんになるでしょう。
これは実践の面での教えです。
ですから、皆さんは自分をお信じなさい。
そしてもし物質的な富が欲しいと思うなら、それを実行しなさい。
必ず獲得するでしょう。
もし知的になりたいと思うなら、知性の分野でそれを実行しなさい。
あなたは知的な人になるはずです。
そしてもしあなたが解脱を得たいと思うなら、霊的な面でそれを実行しなさい。
あなたは自由になり、ニルヴァーナ、永遠の至福に入ります。
しかしアドワイタの中にある一つの欠点は、それが長い間霊的な面でのみ実行されて他の面では実行されなかった、ということです。
今や、皆さんがそれを実用的にしなければならない時がやって来ました。
もはやそれはラハシャ、秘密であってはなりません。
洞穴や森の中やヒマラヤ山中で僧と共にある、というだけではいけません。
それは人々の日々の生活の中におりて来なければなりません。
王の宮殿の中で、隠遁者の洞穴の中で実現させましょう。
貧しい人々の小屋の中で、街頭の乞食によって、到る処、それが実践され得る限りのあらゆる場所で実現させましょう。
それゆえ、あなたが女であろうと、シュ―ドラ(カーストという身分制度の中で、最も卑しいとされている階級)であろうと、恐れてはなりません。
主クリシュナは、この宗教は実に偉大であって、その一しずくさえ膨大な量の善をもたらす、と言っていらっしゃるのです。
それゆえ、アリアン人の子供たちよ、目ざめよ、立て、そしてゴールに着くまで止まるな。
アドワイタが実行に移されるべきときが来たのです。
これが現代の摂理です。
ああ、古代のわれわれの祖先たちの声が、それを天界から地上にひきおろせ、と告げています。
皆さんの教えが社会の毛孔の一つ一つに入り込むまで、それらがついにあらゆる人の共有財産となるまで、それらが皆さんの人生の眼目となるまで、それらがわれわれの血脈に入り込んでそこで血液の一滴一滴と共に震動するようになるまで、それらをこの世界に浸透おさせなさい。
「賢者たちが責めようと誉めようとかまわない。
ラクシュミ(富の女神)が今日来ようと、または行ってしまおうとかまわない、死がたった今訪れようと百年のうちに来ようとかまわない、正しい道からたとえ一歩たりとも踏みはずさぬ一、かれこそは実に賢者である」
起きよ、そしてめざめよ、時はすぎ行き、われわれの全てのエネルギーは空しいおしゃべりによって浪費されるのです。
起きよ、そしてめざめよ、些末な事柄や、細目についての口論や、小さな主義主張についての争いなどは傍らに投げ捨ててしまえ、ここにあらゆる仕事の中の最大のものがあるのです。
ここに、沈みつつある幾百万人がいるのです。
われわれに必要なのは、多くの霊性よりも、少しばかりのアドワイタを物質世界の中に持って来ることです。
先ずパン、それから宗教です。
貧しい人々が飢えているというのに、われわれは彼らに宗教を詰め込みすぎます。
飢えを満たす教義などはどこにもありますまい。
ここには二つのわざわいがあります。
第一はわれわれの弱さ、第二は、われわれの嫌悪、われわれの干からびたハートです。
たとえ幾百万の教えを語っても、億万の宗教をこしらえても、ああ、あなたが感じるハートを持っていなければ、何にもなりません。
皆さんのヴェーダが教えているように、彼らのためにお感じなさい。
彼らは自分の肉体の一部である、ということが分かるまで、自分も彼らも、貧しきも富めるも、聖者も罪人も、みな共に自分がブラフマンと呼ぶ“唯一、無限の統一体”の一部なのである、ということを理解するまで。
紳士諸君、私は皆さんの前に、アドワイタ体系の輝かしい点の二、三を提示しました。
そして今や、それがこの国だけでなくあらゆる所で実行に移されなければならない時が来ているのです。
現代科学とそれの強力な打撃は、到る処で二元論的宗教のセトモノの土台を粉砕しつつあります。
二元論者が経典のこじつけを行なっているのはここばかりではありません。
経典はこれ以上伸びようがないというところまで伸ばされてしまっています――経典はインドゴムではないのですから。
彼らが自分たちを護るためにそれらのすみずみにまで入り込んでいるのはここばかりではないのです。
ヨーロッパやアメリカでは一層その現象が顕著です。
それゆえかの地にも、この思想に含まれる何ものかが行かなければならないでしょう。
それは、もう行っています。
それは成長し増大して、彼らの文明をも救わなければならないでしょう。
なぜなら、西洋では古いものの秩序は消滅して、黄金の崇拝、富の神の崇拝という新しい秩序に場所をゆずりつつあるのです。
このようなわけで、この宗教という古いシステムは、いわば競争と黄金である現代のシステムよりも良いものでした。
どんなに強くても、このような基礎の上に立ち続けることのできる民族はありません。
世界の歴史は、このような基礎を持っていた民族はことごとく亡び去ったことを告げています。
まず第一にわれわれは、このような波がインドに入りこむのを止めなければなりません。
ですから、宗教が近代科学の衝撃に堪えられるよう、あらゆる人にアドワイタを説いておきかせなさい。
そればかりでなく、皆さんは他者をも助けなければなりますまい。
皆さんの思想はヨーロッバやアメリカを救うでしょう。
それら全てにも増して、私にもう一度念をおさせて下さい、ここに実地の仕事の必要があります。
それの第一歩は、皆さんがインドの沈みつつある幾百万人のもとに行き、主クリシュナの次の言葉を思い起こしながら彼らの手を取ることであります。
「その心があらゆるものの同一性に確固と集中している人は、この世に生きながら相対界を克服したのである。
神は全てに対して純粋かつ同一であるから、それ故かかる人は、神の中に生きている、と言われる」』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『わたしはいつも言うんだが、皆があの御方に呼びかけているんだよ。
お互いに、嫉みや憎しみは無用だ。
神様は相(すがた)を持っていると言い張る人もあるし、いや、神は無相の実在だ、と言う人もある。
だから、わたしは言うのさ、『形ある神を信じる人は、その姿心を集中しろ。
無相の実在を信じている人は、その無相の実在というものを瞑想していればいい』とね。
わたしが言いたいのは、ひとりよがりは良くない、と言うことだ。
つまり、『自分の宗教は正しいが、ほかのものは皆、間違っている』と思うのがよくない。
『私の宗教は正しい。だが、他の宗教が正しいか間違っているか、ホンモノかニセモノか、そういうことは私にはわからない』--こう思っていればいいんだよ。
そうだろうじゃないか。
神様に直に会ってみなければ、あの御方の相(すがた)や性質がわかるわけがない。
ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、シャクティ教、シヴァ派、ヴィシュヌ派、それに古代、リシたちの時代にブラフマン智を求めた人びとも、今の時代の新興宗教の信者も、皆がみんな一つの本質を探し求めているんだよ。
それで、大実母は子供たちのお腹に合うように料理をつくって下さるんだよ。
どういうことかわかるかい?
国と時代と容器(人の理解力)に応じて、神様はいろんな宗教をおつくりになるというわけだ。
どの教義(いけん)も道ではあるが、教義は決して神そのものではない。
だが、熱心に信仰して一つの教義(みち)に従っていけば、やがて神様のところへ到着する。
教義に間違いがあったとしても、誠実で熱心ならば、あの御方ご自身がその間違いを正して下さる。
もし誰かが、心の底からジャガンナートに参詣したいと思って出発したが、間違えて南へ行かずに北の方に行ったとする。
すると途中で、誰かがきっと、「おや、ジャガンナートはこっちじゃありませんよ。南の方へ行かなくちゃ」と教えてくれるよ。
そして、遅かれ早かれ、目的地へ着くことができる。
だから、他の宗教に誤りがあっても、何もわたしたちが心配することはない。
世界の主(あるじ)であるあの御方が、ちゃんと面倒見て下さる。
わたしらの義務(つとめ)は、何としてでもジャガンナートに会うことなんだ。』
(大聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
どんな事物にも喜ばず悲しまず
こうあって欲しいとも欲しくないとも思わず
吉凶禍福に超然として心動かさぬ者
このような人をわたしは愛する
友も敵も等しく扱い 名誉不名誉に関心なく
寒暑 苦楽 また賞賛 非難に心動かさず
常に無益な交際をせず 無益な口をきかず
何事にも満足し 住所住居に執着なく
確固たる決心で心をわたしに結びつけ
信愛行(バクティ・ヨーガ)にはげむ人をわたしは愛する
わたしを信じ 愛慕し
わたしを究極至上の目的として
この永遠不滅の法道を行くわたしの信者を
わたしはこの上なく愛している
(バガヴァッド・ギーター第12章17-20)
わたしは誰か?-アートマンについて(10)
前回は、この宇宙で唯一の実在であるブラフマンについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集よりご紹介させて頂きましたが、
今回は、「我は”それ”なり」という梵我一如の思想であるアドヴァイタ(不二一元)について、少し理解を深めるために、前回と続きとなりますが、ご紹介させて頂きます。
『このようにして、皆さんはこれが、しかもこれだけが、唯一の科学的な宗教であり得るのだ、ということを理解なさったと思います。
半分教育された現代のインドで毎日行われている科学に関する片言のおしゃべりをきき、毎日のように耳にする合理主義や理性に関する談義をきき、私は皆さんの全宗派がやって来て思い切ってアドワイティストとなり、仏陀が言った「多くの人の利益のために、多くの人の幸福のために」あえてそれを説法されるよう、期待するものであります。
もしそれをしないなら、私は皆さんを卑怯だと思います。
もし皆さんが自分の臆病を克服することができず、恐れる気持ちを口実とするのなら、他者にも同じ自由をお与えなさい。
哀れな偶像崇拝者を粉砕しようなどとしてはいけません。
かれを悪魔と呼んではいけません。
自分も完全には同意できないようなことを、相手かまわずに説いてまわってはなりません。
まずお知りなさい、自分みずからが臆病者であるのだということを、もし社会が恐ろしいのなら、もしあなた自身の過去の迷信がそんなに恐ろしいのなら、これらの迷信があの無知な人々をおびやかし縛りつけるさまはそれにも増してどれほどのものでしょう。
それがアドワイタの見地です。
他人に慈悲をお持ちなさい。
全世界が明日にでも、理論だけではなく悟りによってアドワイティストになったらよいのだけれど。
しかしそれが不可能なら、われわれはその次の最善のことをしようではありませんか。
無知な人々の手を取って、彼らの行けるところまで一歩一歩と常に導いて行きましょう。
そして、インドにおけるすべての宗教的進歩の、あらゆる段階は道程だったのだということを知りましょう。
それは悪から善へと向かっているのではなく、善からもっと善いものへと向かっているのです。
道徳的関係についてもう少し申し上げておかなければならないことがあります。
わが国の若者たちは近頃――誰から教わったのやら――アドワイタは人を不道徳にする、もし我らが一つであって全て神であるなら、道徳の必要がないのではないか、などと楽しそうに話しています!
まず第一に、それは笞が無ければ鎮めることのできない獣の議論です。
もし皆さんがそんな獣であるなら、笞で抑えられなければならない人間と見れられるよりはむしろ自殺をなさい。
笞がなくなると皆が悪魔になるのでしょう!
そんなことなら殺される方がましです。
常に笞の監督のもとに生きなければならない、そのような人には救いはありません。
第二には、アドワイタが、しかもアドワイタのみが、道徳を説明することができるのです。
あらゆる宗教が、すべての道徳の真髄は他者に善をなすことである、と説くでしょう。
なぜですか。
非利己的であれ。
なぜそうでなければならないのか。
ある神がそうおっしゃったからである。
その神は私の神ではありません。
ある聖典にそう書いてあるのだ。
聖典にはそう言わせておくがよい、私には何の関係もないことです。
全部の聖典がそう言うがよい、たとい彼らがそう言っても、私は何の痛痒も感じません。
めいめい自分のことが第一、遅れた者は馬鹿を見るのです。
これが世間の、少なくとも大多数の、道徳です。
私は道徳的でなければならない、という理由はどこにあるのでしょうか。
ギーターに次のように説かれている真理を知るようにならなければ、それを説明することはできません。
「あらゆる者をかれ自身の内に見、かれ自身をあらゆる者の内に見、かくして全ての者の内に宿る同一の“神”を見る者、かれ、すなわち賢者は、もう自己によって“自己”を殺さない」
アドワイタによって、何者であれ自分が傷つければ、自分は自分を傷つけているのである、彼らは全て自分なのである、ということをお知りなさい。
あなたが知る知らぬにかかわらず、全ての手によってあなたは働いており、全ての足によってあなたは動いているのです。
あなたは王宮で快適に暮らす王であり、あなたは街頭であの惨めな生活をしている乞食であるのです。
あなたは学識ある者たちの内にあると同時に無知な者たちの内部にもいます。
あなたは弱い者たちの内にいます。
そして強い者たちの内にいます。
このことを知って、慈悲深くおありなさい。
それだから、われわれは他者を傷つけてはならないのです。
それだから、私は自分が餓死せねばならぬとしても気にとめさえしないのです。
なぜなら同時にすべての至福を楽しんでいるのです。
また誰が、私すなわち宇宙を殺すことができますか。
この中に、道徳があるのです。
ここ、アドワイタの中においてのみ、道徳は説明することができるのです。
他の教えもそれを説きます。
しかしその理由を挙げることができません。
ですから説明まではできないのです。』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
わたしもあなたもブラフマン(神)である、という確固たる認識を持つことにより、私たちは精神的に、大きな影響を受けます。
その影響は、霊的な目覚めを伴う人間性の向上につながっていきます。
アドヴァイタ(不二一元)は、理論だけではなく、実践を伴ってこそ、真の真価を発揮するのです。
宇宙と、神と、わたしは”ひとつ”である。
そこに、恐れはありません。
これこそが、人を強くし、歓びを生み出し、人生を実り豊かにする奥義なのです。
誰にも迷惑をかけず 干渉もせず
誰からも心の平安を乱されない者
順境にも逆境にも心平静な者
このような人をわたしは愛する
私心なく 身心ともに清純で何事にも適切に対処し
何事も心配せず何事にも悩まず
結果を期待した企画や努力をしない者
このような人をわたしは愛する
(バガヴァッド・ギーター第12章15-16)
わたしは誰か?-アートマンについて(9)
前回、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集からご紹介した部分では、
私たちの本質は、アートマンであり、アートマンは、実は、ブラフマンに他ならない、という理論が展開しました。
この宇宙で唯一の実在を、ウパニシャッドでは、「ブラフマン」と呼んでいます。
今回は、アートマンではなく、このブラフマンについての理解を深めるために、前回の続きをご紹介したいと思います。
『このアイディヤを、われわれは理解しなければなりません。
「知る者をどのようにして知るか」知る者は、知られることはあり得ません。
もしそれが知られたとしたら、もうそれは知る者ではありますまい。
皆さんが自分の眼を鏡で見ても、映像はもはや皆さんの眼ではなく、他のあるもの、すなわち単なる映像なのです。
ではもしこの”霊”、真の皆さんであるところのこの”普遍の”、”無限の存在”が単に目撃者であるだけだったら、何のよいことがありましょう。
それは、われわれがしているように生き、動きまわり、そしてこの世界を楽しむ、ということができません。
人々は目撃者がどんなに楽しむことができるものであるかということを理解し得ていません。
彼らは言うのです。
「おお、君たちヒンドゥは、人は目撃者であるというこの教えによって無活動の役立たずになってしまった!」と。
まず申し上げますが、楽しむことのできるのは目撃者だけなのです。
角力の試合があるとすれば、誰がそれを楽しみますか。
試合をする者たちですか、それともアウトサイダースーー見物人ですか。
人生のあらゆることについて皆さんが目撃者であればあるほど、皆さんは一層それを楽しむのです。
これがアーナンダ(至福)です。
ですから、この宇宙の”目撃者”(照覧者)になったときに初めて、無限の至福は皆さんのものになるのです。
そのときに初めて、あなたは一個のムクタ・プルシャ(肉体を持ちながらブラフマンの叡智に目覚めている人)なのです。
いかなる欲望も持たずに、天国に行くことも考えず、罰せられることも、責められることも一切考えないで働くことのできる者は”目撃者”だけです。
”目撃者”だけが楽しむのです。他の者はだめです。
道徳的な面に移りますと、アドワイティズムの形而上学的面と道徳的面との間には一つのものがあります。
それはマーヤー(幻)の学説です。
アドワイタの体系の中のこれらの点のどれもが、理解するには何年をも必要とし、説明するには何か月をも必要とします。
ですから、ここではそれにちょっと触れるだけであってもどうぞ許して下さい。
あらゆる時代において、このマーヤーの学説は理解することが最も難しいものでした。
かんたんに申し上げると、それは確かに学説ではありません。
デシャ・カーラ・ニミッターー空間、時間、および因果律ーーという、三つの観念の結合です。
そしてこの時間と空間と因果律とは、更にナーマ・ルパ(名と形)にまで縮められました。
海上に波が立っているとします。
波はその形と名とにおいてのみ海とは異なるものであり、そしてこの名とこの形とは、波から離れては存在することはできません。
それらは波と共にのみ存在するのです。
波の形とは、波から離れて存在することはできません。
それらは波と共にのみ存在するのです。
波は退くでしょう。
しかし、その波についていた名と形は永久に消えても、同じ量の海水はそのまま残っています。
それゆえこのマーヤーは、私と皆さんとの、すべての獣たちと人間との、神々と人間とのちがいをつくるところのものです。
事実、アートマンが幾百万の生きものの中に言わば、捕らえられるようにするのはこのマーヤーであって、これは名と形によってのみ区別ができるものなのです。
もしそれをそのままにしておき、名と形を去らせてしまうなら、すべての多様性は永久に消え失せて、あなたはあなたが真実あるところのものであります。
これがマーヤーなのです。
くり返して言いますが、これは学説ではなく、事実の宣言です。
リアリストが、このテーブルは存在する、と宣べる場合には、かれは、このテーブルはそれ自身の独立した存在を持っていて、宇宙間の他の何ものの存在にも依存しているのではなく、もし全宇宙が破壊され消滅しても、このテーブルは今のままに存続するであろう、ということを意味しています。
そんなことはあり得ない、ということはちょっと考えたら分るでしょう。
ここ感覚の世界の一切物は従属的であって相互に依存しあっており、相対的であって相互に関係し合っており、他に依存するという存在です。
ですから、われわれのものの知識には三つの段階があります。
第一は、各々のものは個別的であって他とは離れている、というもの、次の段階は、すべてのものの間には関係があり相互関係がある、ということを見出すこと、そして第三は、われわれが多数と見ているところのたった一つのものがあるのだ、ということです。
無知な人々の最初の神の観念は、この神は言わば宇宙の外のどこかにいる、というもので、神をごく人間的なものと考えています。
もっと大きくもっと高いスケールで行なうというだけで、”かれ”は人がするのと全く同じことをします。
そして次の観念は、われわれが到る処にその現れを見る一つの力、という観念です。
これは、チャンディ(経典の名、母なる神の一名でもある)の中に見られる、真の”人格神”です。
しかし、よくおききなさい、皆さんがすべての善い性質の貯蔵庫と考える、そういう神ではありません。
皆さんは、神と悪魔というように、二つの神を持つことはできません。
たった一つを持たなければならない、そして”かれ”を、思い切って善とも悪とも呼ばなければならないのです。
一つだけをお持ちなさい。
そして、論理的な結果を甘受なさい。
チャンディにはこう書いてあります。
「私どもは”あなた”におじぎを致します。
おお、生きとし生けるものの中に平和として宿っておいでになる、”母なる神”よ。私どもは”あなた”におじぎを致します。
おお、生きとし生けるものの中に浄らかさとして宿っておいでになる、”母なる神”よ」
同時に、われわれは”かれ”を”全ての形をした者”と呼ぶことの結果を全面的に甘受しなければなりません。
「このすべては至福です。
おお、ガールギよ、至福のあるところすべてに、神の一部分があります」
皆さんはそれを好きなように使えばよいのです。
私の前のこの灯火の下で、あなたは貧しい人に百ルピーを与えるかも知れない、そしてもう一人の男はあなたの名前をかたるかも知れない、しかし灯火は二人にとって同じものでしょう。
これが第二の段階です。
第三の段階は、神は自然界の外にいるのでも内にいるのでもない、神と自然と魂と宇宙はすべて、同一の意味を持つ言葉である、というものです。
皆さんは決して、二つのものは見ません。
皆さんを欺いたのは、皆さんの形而上学上の用語です。
皆さんは、自分は肉体であってしかも魂を持っている、自分はその両方を一しょにしたものである、と思っておいでです。
どうしてそんなことがあり得ましょう。
自分の心の中で試してみてごらんなさい。
もし皆さんの中にヨギがおられるなら、その人は自分をチャイタニヤ(意識)と見ています。
かれにとっては肉体はもう消えているのです。
普通の人は自分を肉体だと思っています。
霊という観念はかれから消えてしまっています。
しかし人は肉体と魂とこれらすべてのものを持っている、という形而上学的観念があるものですから、皆さんは、それらすべてが同時にそこにあるのだ、と思うのです。
一つの時には一つのものです。
物質が見えているときには神をかたりなさるな、あなたは結果を、結果だけを見ているのであって、原因はあなたには見えてはいません。
あなたが原因を見ることができた瞬間に、結果は消えているでしょう。
世界はそのときどこにあるのか、また誰がとり去ったのでしょう。
「常に意識として現前するもの、絶対の至福、すべての束縛を超え、すべての比較を超え、すべての性質を超えて、常に自由で、大空のように限界なく、部分も持たず、絶対の、完全なるーーこのようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニ(見識者)のハートの中で輝くのだ。
自然のすべての変化が永久にやむところ、すべての思いを超えて思われる者、すべてのものと等しくそれでいて比類の無い者、見ることができない、ヴェーダが述べている者、我らが我らの存在と呼ぶもののエッセンスである者、完全なる者――このようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニのハートの中で輝くのだ。
すべての誕生と死とを超えた、“無限なる一者”、比べることのできない、マハープララヤ(宇宙の解消状態)の中で水没した宇宙のようにーー上も水、下も水、四方八方水、そしてその水の表面には一滴もなく、さざ波ひとつも立っていないーー無言のそして静寂な、すべてのヴィジョンは消え去った、馬鹿者や聖者たちの闘いやけんかや戦争は永久に止んでしまったーーそのようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニのハートの中で輝くのだ」
それもまた、やって来ます。
そしてそれがやって来るとき、世界は消えているのです。
それからわれわれは、このブラフマン、この実在が知られていないし知ることができないものであるというのは不可知論者が言うような意味においてではなく、あなたがすでに“かれ”であるのだから“かれ”を知るということは冒涜に当るからだ、ということを知りました。
また、このブラフマンはこのテーブルではないがしかしこのテーブルなのである、ということも知りました。
名と形を取り去れば、実体であるものは“かれ”です。
“かれ”は、あらゆるものの内なる実体です。
「あなたは女である、あなたは男である、あなたは少年である、あなたは少女でもある、あなたは杖に身を支える老人である、あなたは宇宙間のすべてのすべてである」
これが、アドワイティズムのテーマです。
もうひと言つけ加えます。
ここにこそ、ものの本質の説明がひそんでいることをわれわれは見出すのです。
ここに立って初めて、論理と科学知識との奔流に確実に対応することができるのだ、ということをわれわれは知りました。
ここでは少なくても、理性が確固たる基礎を持っています。
しかも同時に、インドのヴェーダーンティストはそれ以前の段階の悪口を言いません。
かれはふり返ってそれらを祝福します。
それらは真理であったのだ、ただ間違って理解され、間違って述べられただけである、ということを知っています。
それらは同じ真理だったので、ただマーヤーの眼鏡を透して見られただけだったのです。
ゆがんではいたかも知れないが、真理以外の何ものでもありませんでした。
無知な人が自然界の外に見た、その神、少ししか知らない人が宇宙に浸透していると見たその神、賢者がかれ自身の“自己”として、全宇宙それ自身として悟るその神――すべては“同一の実在”、異なる立場から見られ、マーヤーの異なる眼鏡を透して見られ、異なる心によって理解された同一の実体なのです。
すべてのちがいはそのことによってできたものでした。
そればかりでなく、一つの見解は必ず他の見解に通じています。
科学と普通の知識とのちがいは何ですか。
暗夜に街に出て、何か普通でない気配がしたら、通行人の一人に原因を尋ねてご覧なさい。
十人のうち九人までは、幽霊が出たのだ、と言うでしょう。
人は常に、外にいる幽霊や霊魂を追いかけています。
結果の外に原因を求めるのは無知な人々の性質なのです。
もし石が落ちて来れば、それは悪魔か幽霊が投げたのである、と無知な男は言います。
しかし科学的な男は、それは自然の法則、引力の法則であり、と言うでしょう。
到る処に見られる科学と宗教とのたたかいは何ですか。
宗教は、外部から来る実に多量の説明によって邪魔をされていますーーある天使は太陽の係り、もう一人は月の係り、というように際限がありません。
あらゆる変化は霊魂によってひき起され、たった一つの共通点は、彼らは全部、そのものの外にいる、ということです。
科学は、ものの原因は本来そのもの自体の中に見出されるのだ、と説きます。
科学は一歩一歩と進歩するにつれて、自然現象の説明を霊魂や天使たちの手から取り上げてしまいました。
アドワイティズムは、霊的な事柄について同様のことをしたのですから最も科学的宗教です。
この宇宙はいかなる宇宙外の神によってつくられたのでもなく、いかなる宇宙外の天才の仕事でもありません。
それはみずから創造し、みずから解消し、みずから顕現する、“唯一無限の実在”、ブラフマンです。
「汝は“それ”である。おお、シュヴェターケトゥよ!」』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『上信の人とは?
ブラフマン智を得たあとで、あの御方が宇宙世界、人間、動物、二十四の存在原理になっていらっしゃるのだ、と観ている人のことだよ。
はじめのうちは、”これではない””これでもない”と分別して進んで屋根の上に登るんだよ。
そうすると、屋根も階段の材料と同じレンガや石灰で出来ているということがわかる。
そのとき世界と生き物になっていらっしゃるのはブラフマンそのものだと、はっきりと覚るんだよ。
ただ、分別分析ばかりしているなんて!
ペッ!ペッ!役にも立たん』
『なぜ分別ばかりして、味もソッケもない人間になるんだい?
”私とあんた”がある間は、あの御方の蓮の御足に清い信仰を持っているのがいいんだよ。
わたしは時々、”あんたがわたし、わたしがあんた”と言うが、時には、”あんたがあんた”になってしまうんだよ!
そのときは、”わたし”はどこを探しても見当たらないんだ。
シャクティが神の化身(アヴァタラ)となるんだ。
ある学説によると、ラーマもクリシュナも歓喜と至高意識の大海の二つの波なんだそうだよ。
不二一元(アドヴァイタ)の智識に達した後で、霊性、意識とは何かがわかる。
すると、あるとあらゆる生物のなかに、意識、霊性というかたちであの御方がいらっしゃることがはっきりとわかるんだよ。
それがわかったら、居ても立ってもいられないほど嬉しくなる。
不二一元(アドヴァイタ)--霊意識(チャイタニヤ)--永遠のよろこび(ニティヤーナンダ)だ」
(聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
すべての生類に対して悪意を持たず
彼らの親切な友となり 我執と所有欲なく
幸 不幸を等しく平静に受け入れ
他者に対して寛大である者
常に足ることを知って心豊かに
自制して断固たる決意のもとに
心と知性(ブッディ)をわたしにゆだねる者
このような人をわたしは愛する
(バガヴァッド・ギーター第12章13-14)
わたしは誰か?-アートマンについて(8)
私たちの真の自己、真の本性である「アートマン」について理解するために、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダのインド人に向けて講演された遺稿集の中から、いくつかご紹介しておりますが、
今回は、前々回の続きを見ていきたいと思います。
個の魂である「アートマン」は、この宇宙の唯一の実在である「ブラフマン」と同一である、という理論が展開します。
つまり、「わたしは誰か?」⇒「アートマンである」=「ブラフマンである」ということになります。
これが、梵我一如、アドヴァイタ(不二一元論)です。
長くて、少し難しい内容ですが、とても需要ですので、「アートマン」(ブラフマン)についての理解を少しでも深めるために、ご紹介させて頂きます。
『次に仏教徒は言います。
あなた方はこの点、すなわち一切のことはカルマの法則の結果である、というところまでは完全に合理的であったと。
皆さんは魂たちの無限性を信じ、魂たちには誕生も死もないことを信じています。
そしてこの魂たちの無限性とカルマの法則の信仰は、疑いもなく完全に論理的です。
結果がなければ原因はあり得ません。
現在はそれの原因を過去の中に持っていたに違いなく、そして未来にその結果を持つのでありましょう。
ヒンドゥ教徒は、カルマはジャダ(生気のないこと)であってチャイタニヤ(意識、精神)ではないから、この原因を結実にまで導くには若干のチャイタニヤが必要だ、と言います。
そうでしょうか。
植物に実を結ばせるのにチャイタニヤが必要なものでしょうか。
もし私が種子をまいて水をやるなら、チャイタニヤは必要ではありません。
ある原始のチャイタニヤがそこにあった、とおっしゃるかも知れませんが、しかし、魂みずからがチャイタニヤだったのです。
他に何ものも必要ではありません。
もし人間の魂も亦それを持っているのなら、仏教徒とはちがって魂を信じるが神を信じないジャイナ教徒たちが言うように、神なるものを持つ必要がどこにありましょう。
皆さんはどこで論理的だと言えますか、どこで道徳的だと言えますか。
また皆さんがアドワイティズムを批判してそれは不道徳を助長する恐れがあるとおっしゃるなら、二元論的宗派がインドにおいて行ったことを、まあ少しばかり読んでご覧なさい。
もし今日までに二万人の非二元論のならず者がいたとすれば、二万人の二元論者のならず者もいました。
総じて、二元論者のならず者の方が多いでしょう。
アドワイティズムを理解するにはより優れた心が必要ですし、アドワイティストたちは、おどろかされて何かをする、というようなことはほとんどありませんから。
すると、ヒンドゥ教徒の皆さんには何が残るでしょうか。
仏教徒の手中から皆さんを救い出す手はありません。
かれは言うでしょう。
「私のトリピタカ(ス)はそうは説いていない。
また、これらには初めもなければ終わりもない。
これは仏陀が書いたのでもないのだ。
仏陀が、自分はただそれらを誦しているだけだ、と言っている。
それらは永遠のものである」と。
そしてこうつけ加えます。
「あなた方のは間違っている。
われわれのがほんとうのヴェーダである。
あなた方のはブラーミンの聖職者たちによって作られたものだ。
だからそんなものはすててしまえ」と。
どのようにしてここから脱しますか。
ここに脱出口があるのです。
まず第一の反論、実体と性質とは異なる、という形而上学的反論を取り上げましょう。
アドワイティストは言います。
それらは違わない、と。
実体と性質との間には差異はないのです。
皆さんは、なわがヘビに見間違えられるという、あの古いたとえをご存知でしょう。
あなたがヘビを見ているときにはなわは全然見ていない、なわは消えてしまっているのだ、というのです。
ものを実体と性質とに分ける、ということは、哲学者の頭脳の中で行われる形而上学的サムシングです。
外部では実際には決してそういうことはあり得ません。
あなたがもし普通の人間であれば性質を見るし、もし偉大なヨギであれば実体を見ます。
しかしあなたは決して、同時に両方を見ることはないのです。
それゆえ、仏教徒たちよ、実体と性質についてのあなた方の言い分は、実際にはあり得ない一つの誤算にすぎなかったのである。
しかし、もし実体は性質を持たないものであるあら、それは一つしかあり得ない。
もしあなた方が魂から性質を取り去り、そしてこれらの性質は心の中にあるものだ、ほんとうは魂の上に置き重ねられたものである、と言うなら、そこには決して二つの魂はあり得ないのだ。
一つの魂ともう一つの魂との間に差異をつくるのは限定、つまり特質なのだから。
一つの魂が他の魂と異なるということを皆さんはどのようして知りますか。
ある差別を示す特徴、すなわちある特質によってです。
また特質が存在しないところにはどうして差別があり得ましょうか。
それゆえ二つの魂は存在せず、”一つ”があるだけなのです。
そして、皆さんのパラマートマンは不必要なのです。
それは、この魂に他ならないのです。
その”一者”がパラマートマンと呼ばれ、それと同一の”一者”がジヴァートマン(=個別の魂)と呼ばれているのです。
そして、魂はVibhuつまり遍在であると主張する、サーンキャ哲学信奉者およびその他のような二元論者の皆さん、皆さんはどのようにして、二つの無限をつくることができるのですか。
無限は一つしかないはずです。
そうではありませんか。
この”一つ”が唯一の”無限の”アートマンであって、他の一切物はそれの現れなのであります。
ここで仏教徒は沈黙します。
しかしそれは、ここで終わるのではありません。
アドワイティストの立場は、単に批判だけをする弱いものではありません。
アドワイティストは、他者が余りにかれに近寄って来ると、彼らを批判してちょっと投げとばします。
それだけです。
しかしかれは、同時にかれ自身の立場を示します。
かれは、批判をするが批判と書物を示すことをするだけでやめてはしまわない、唯一の者です。
まあおききなさい。
皆さんは、宇宙は不断の運動をつづけているものだ、と言うでしょう。
有限なるものVyashtiの中では、あらゆるものが動いています。
皆さんは動いている、このテーブルは動いている、至るところ運動です。
それは不断の運動、サムサーラです。
それはジャガトJagatです。
ですから、このジャガトの中には個体はあり得ません。
個体というのは、変わらないもの、ということなのですから。
変化する個体などは無いはずです。
それは矛盾した言葉です。
われわれのこの小さな世界すなわちジャガトの中には、個体などというものは無いのです。
思いおよび感情、心および肉体、人間および動物およい植物は、不断の流動状態にあるのです。
しかし、かりに皆さんが完全なる単一体としての宇宙をとり上げたとすると、それは変化したり動いたりできますか。
決してできません。
運動というのは、より少なく動くものか全く動かないものと比較した場合にあり得るのですから。
それゆえ、統一体としての宇宙は不動であり不変です。
したがって皆さんは、完全にそれになったときに初めて、つまり「私は宇宙である」という自覚に達したときに初めて、一個の個体、となるのです。
ヴェーダンティストが、二つがある間は恐怖はやまない、と言うのはそれだからです。
人が他者を見ないときに初めて、他者を感じないときに初めて、全てが一つであるときに初めてーーそのときに初めて恐怖は消滅するのです。
そのときに初めてサムサーラは消えるのです。
ですからアドワイタはわれわれに、人は普遍的である場合には個体であり、個別的である場合には個体ではない、と教えています。
皆さんは完全体であるときにのみ、不死なのです。
宇宙であるときにのみ、無恐怖であり、不死であるのです。
そしてそのとき皆さんが宇宙と呼ぶものは、皆さんが”神”と呼ぶものと同一であり、実在と呼ぶものと同一であり、完全体と呼ぶものと同一です。
それは、われわれがわれわれと同じような心の状態の人々と共にこの多様世界として眺めている、唯一不可分の”実在”なのです。
もう少し善いカルマをなしとげてもっと善い心の状態を得ている人々は、死ぬと、”それ”(=実在)をスヴァルガ(天界)と眺め、インドラ(複数)等々を見ます。
更にもっと高い境地の人々はそれを、全く同じものを、ブラマ・ロカ(最高の世界)と見るでしょう。
そして完成された人々は、この世界も見なければもろもろの天界も見ず、いかなるロカ(生きものの住む世界)も全く見ないでありましょう。
宇宙は消滅し、その代りにブラフマンがあるでしょう。
われわれはこのブラフマンを知ることができますか。
私はサムヒターの中の”無限者”の描写のことをお話しました。
ここでは、もう一つの面が示されるのを見出すでしょう。
内なる無限者です。
あれは筋力の無限者でした。
ここでは思考の”無限者”が得られるでしょう。
あそこでは、無限者を肯定的な言葉で描くことが試みられました。
ここではあの言葉は役に立たず、否定的な言葉でそれを描写することが試みられています。
ここにこの宇宙があります。
それはブラフマンであり、ということを認めはしても、われわれはそれを知ることができますか。
否!否!
皆さんはこの一つの事実をもう一度、はっきりと理解しなければいけません。
くり返しくり返し、この疑問は皆さんの心に生まれるでしょう。
もしこれがブラフマンであるのなら、どのようにしてわれわれはそれを知ることができるのか、と。
「何によって、知る者が知られるのか」
どうして、知る者を知ることができましょうか。
眼はあらゆるものを見ます。
その眼が自分自身を見ることができますか。
できはしません。
知識という、そのことが一つの格下げなのです。
アリアン族の子供たちよ、皆さんはこのことを憶えていなければいけません。
ここにこそ、重要な話が含まれているのです。
皆さんのところにやって来るすべての西洋の誘惑は、この一事の上にその形而上学的根拠を持っています。
すなわち、そこには感覚的知識より高いものは一つもないのです。
東洋では、我らのヴェーダの中に、この知識は、もうそれ自体より低いものである、なぜなら、それは常に一つの限定なのだから、と説いてあります。
皆さんがあるものを知ろうと欲すると、そのものは直ちに、皆さんの心によって限定されるのです。
真珠貝が真珠をつくる、その例を参照して、あるものを取り上げてそれを意識の中に入れるがそれを完全体として知るのではない、知識とは如何に限定であるか、よく見よ、と彼らは言います。
このことはあらゆる知識に関して真実なのであって、”無限者”の場合にはそれほどではない、などというものではありません。
すべての知識の実体である”かれ”を、シャークシ、”目撃者”であってかれ無しにはいかなる知識を得ることもできない、という”かれ”を、全宇宙の”目撃者”であり、われわれの魂の内なる”目撃者”であって属性を全く持っていない”かれ”を、そのように限定することができますか。
皆さんはどのようにして、”かれ”を知ることができますか。
どんな方法で、”かれ”を縛り上げることができるのですか。
一切物、全宇宙が、このような間違った努力なのです。
この無限なるアートマンが言わば”かれ”自身の顔を見ようと努力しており、最低の動物から最高の神々に到るすべての存在は、その中に”かれ”自身を映す無数の鏡のようなものなのです。
そして”かれ”はそれらでは不十分と見て更に他の鏡を取り上げつつ、ついに人間の身体の中で、それは限定に限定を加えられたもの、すべては有限のものである、有限のものの中には”無限者”の如何なる表現もあり得ないのだ、ということを知るに到るのです。
そこで、逆戻りの行進が始まります。
これがヴァイラーギャ、すなわち放棄と呼ばれるものです。
感覚から後退せよ、戻れ!
感覚の方に行くな、というのがヴァイラーギャの標語です。
これがすべての道徳の標語であり、これがすべての福利の標語なのです。
なぜなら、皆さんは、われわれにあっては宇宙はタパシヤーの中で、放棄の中で、始まるのであるということを憶えていなければなりません。
皆さんが後退し更に後退するにつれて、あらゆる形が眼前に現れつつ、一つまた一つとわきに捨て去られ、ついに皆さんは、皆さんが真にあるところのもの、として残るのです。
これがモクシャ、すなわち解脱であります。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
ここに、初めて「解脱」への道が示されました。
まずは、自分自身を、「アートマン」と同一視すること。
自分自身と「アートマン」の間には、何の隔たりもないことを確信すること。
それにより、ブラフマンのみが存在する、という宇宙が現れます。
自他のない「ただひとつ」である宇宙。
真に実在するのは、「それ」だけなのです。
わたしのために働くことのできぬ者は
わたしに全部を任せて
仕事の結果に執着せず
努めてこれを放棄(すて)るように心がけよ
ヨーガの実修ができぬ者は智識を究めよ
だが 智識より瞑想が勝り
瞑想より行果の放棄が勝る
行果を捨て去れば直ちに心の平和が得られる
(バガヴァッド・ギーター第12章11-12)
わたしは誰か?-アートマンについて(7)
前回の記事で、仏教について、仏教とヒンドゥ教におけるアドヴァイタ・
ヴェーダンタ(不二一元論)における考え方の違いについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの見解をご紹介しましたが、仏教について、もう少し詳しく見てみますと、
『釈迦が生存していた当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。』(wikipediaより)とあり、
当時、圧倒的な宗教的な権威を誇っていたバラモンという祭祀などを執り行うことを許された家系が代々世襲され、ブラーミンという聖職者階級を形成しており、これは、カーストという階級制度によってインドの人々の中に、身分による差別を生むことになり、ブラーミンは、そのカーストの中でも、最高位の階級とされ、特権階級として君臨していました。
釈迦は、バラモン出身ではなく、クシャトリアという戦士、王族の出身だったため、カーストを説くヴェーダには批判的だったと言われています。
実際に、釈迦の弟子たちのほとんどは、バラモン以外のカースト出身者でした。
釈迦の入滅後(死後)、弟子たちが、釈迦の教えをまとめるために経典結集を開いた際に、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていたアーナンダが中心となって、(彼の記憶を頼りに)数々の経典が編纂された、と言われています。
つまり、今現存しているのは、弟子たちによって釈迦の教えとして伝えれれたものであり、釈迦が直接、遺したものではありません。
以前の記事でご紹介しましたように、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが解説されているように、
『すなわち、もし外部世界を「X」で現すなら、われわれがほんとうに知っているものは「X」プラス心であって、この心という要素は非常に大きく、「X」の全部をおおっていて「X」は相変わらず未知のままであり、また全然知ることのできないものである、従って、もしそこに外部世界というものがあっても、それは常に知られざるものであり、また知ることのできないものである、という事実です。
それについてわれわれが知っているのは、それがわれわれの心によってこね上げられ、形づくられたところのものなのです。
内なる世界についても同じことが言えます。』
ということが起きてしまうのです。
ですから、仏教は、真の自己であるアートマン(神)の実在性(実体)を認めていない、と解釈されていますが、実際に、釈迦が、そうであったかどうかは、不明であると、考えることも可能なのです。
この可能性について、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと同じく、アドヴァイタ・ヴェーダンタの立場をとるスワミ・ラーマもその著書「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」の中で、こう記しています。
『仏陀は彼の弟子に、神について考えるな、論じるなと指示しました。
この指示のせいで、仏陀と仏教徒は無神論者であると誤解されています。
仏陀が意味したことは、神、あるいは純粋意識は有限な心を超えており、知性を超えているということです。
神が有限な心により考えられるやいなや、神は有限となります。
それで仏陀は彼の弟子に、本当の自己と彼らを隔てている障壁を取り除くことに集中するように言ったのです。
それがなされたとき、そのときこそ、私たちが究極の真理と呼ぶものが本性を現すのです。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
こうして、バラモン教(後のヒンドゥ教)と非常によく似た考え方を示しながらも、真の自己である「アートマン」の実在性(実体)においては異なる見解を示したとされた釈迦の説いた教えが、「仏教」として弟子たちにより、インドに広まっていきます。
一方、バラモンの流れを汲むヴェーダ聖典を信奉する人々の中では、バラモン教は、ヒンドゥ教として発展し、5世紀頃から、ブラフマニズム(バラモン教の教え)を掲げる数々の聖者(哲学者)の登場もあって、ヒンドゥ教が勢力を伸ばし、それに伴って、インドでは、徐々に、仏教は衰退していきました。
この流れの中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、スワミ・ラーマ、そして、聖ラーマクリシュナ、ラマナ・マハルシなど、その他のアドヴァイタ(不二一元論)の見地から後世に影響を与えている人びとはすべて、「アートマン」の実在性(実体)に言及しています。
それは、「アートマン」の実在性(実体)は、想像上のものではなく(頭、脳の中にあるヴィジョンや創造物ではなく)、経験を通して、掴むことができるからなのです。
「アートマン」の直接体験なくしては、「アートマン」は、他の人格神と同様、単なる人間の想像上の存在であるにしか過ぎず、その実在性(実体)について不確実性を唱える人々がいるのは、当然でしょう。
それ故、「アートマン」について言及するには、それなりの直接体験が必要になってくるため、「アートマン」について語ることができる人々は、極端に限られてしまい、
私たちの真の本性であるにも拘わらず、私たちは、「それ」を知ることなく、この世を去っていく、ということが起きてしまっています。
このブログの目的は、唯一つ、真の自己である「アートマン」についての理解を深めることで、少しでも「アートマン」に回帰する道を示すことです。
スワミ・ラーマが「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」で述べているように、
『人生の目的は成長、拡張、そして自分自身の真の本性を完全に悟ることです。
もし人がゴールに向かう道を取らないと、そのとき、世界は人をそれに向かわせることでしょう。
暴風の後に暴風、人が理解し始めるまで、ひとつの不幸が別の不幸に続き、ひとつの失望が別の失望に続きます。
良いものと楽しいものとの間の選択は明らかになっていきます。
カタ・ウパニシャドのテーマは人生の宝である真の自己は内側に見出されるということです。
不死は内側にあります。
内側にはアートマン、あるいは実在が住んでいます。
真の自己を発見する旅は、人生のゴールまたは目的なのです。
自分自身の真の自己を悟った人は、そのとき、全宇宙を包含する宇宙的自己を悟ることができます。
二元論者は、個人、宇宙、そして宇宙的自己は独立した存在として完全に分離した単位だと信じています。
この信念に従うと、自分自身の自己を知ることにより、人は部分的な知識だけを得ます。
ヴェーダンタとこの学派を分けている大きな隔たりがあります。
ヴェーダンタ文学の最も価値があり気高い貢献は、真我、或いは神は私たちから離れておらず、あるいは遠くにおらず、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃるということなのです。
これはヴェーダンタ哲学における中心的な教えです。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
「アートマン」について、また、アドヴァイタ(不二一元論)については、
日本では、テキストや本などでも紹介されていることが少ないため、その概念が一般的にはまだ広く浸透していないために、困惑される方も多くいらっしゃることでしょう。
このブログでは、これらの教えが、日本に上陸してから、まだそれ程多くの時間が経っていないため、サンスクリット語をそのまま使用していますが、
やがて、「アートマン」である実在が、広く一般的に知られるようになれば、いつかは、他の言葉で表現される可能性もあり、その時には、「アートマン」はもっと身近な存在として認識されるようになるかもしれません。
ただ、この「教え」は、以前にも書きましたが、ヴェーダ聖典の中でも、ウパニシャッドとして、それを受けるに相応しい人々にのみに継承されてきた「奥義」ですので、誰もがこれを簡単には理解できないのは、当然であると認めつつ、
それでも、絶対真理探究者にとっては、究極の命題であり、「アートマン」の叡智なくしては、到底解けない多くの謎がそのままに残ってしまうため、
あらゆる疑問への答えを得るためには、私たちを覆っている「無智」を払い除け、私たちの実体である「アートマン」について、理解を深めていくことが、不可欠であるという見地から、こうして時間をかけて解説しているのです。
今回は、前回とは論点が違った内容となってしまいましたが、
次回は、また、元に戻り、真の自己である「アートマン」についての理解を深めるために、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ヴェーダンタ」からご紹介したいと思います。
信愛行(バクティ・ヨーガ)が実修ができない者は
わたしのために働くように心がけよ
わたしのために働くことによって
やがて完成の境地に到るであろう
(バガヴァッド・ギーター第12章10)
わたしは誰か?-アートマンについて(6)
前回の記事でも書きましたが、
私たちは、自分の肉体を見て、または、他者の肉体を見て、同じ形をしていると判断できる場合は、同じ「ヒト」という生物であると認識します。
その肉体は、この地上に現れてから、日々、成長を続け、やがて成長はピークに達し、その後は、衰退が始まり、終には、肉体にある機能のすべてが停止する日がやって来て、肉体は滅びます。
私たちが、自分たちを、この「肉体」と同一視している限りは、個体としての消滅を宿命として受け入れるしかありません。
自分たちを、「肉体」と限定してしまうと、肉体の消滅と共に、「個人」のすべてが消滅します。
「わたし」という意識は、寝ている間は、ありませんから、肉体に属していることは明らかです。
ですから、「わたし」という意識(自我意識)は、肉体の消滅と共に、消滅します。
これは、個人にとっては、完全なる消滅を意味し、死への恐怖心が育ちます。
ここにもう一つの考えがあります。
それは、「肉体」の消滅後も、何らかの形で「個人」は存在し、また、この地上に生まれ変わる、というもので、これが、現在言われているところの「輪廻転生」の考え方です。
個人にとっては、死後は、何も無くなる、と考えるか?、それとも、魂は死なずに、何らかの形で存在し続け、それが輪廻転生する、と考えるか?という二通りの考えしかありません。
前者は、肉体がすべてである、という考えに根差しており、
後者は、肉体が滅んでも、(個の)魂は生きている、という考えに根差しています。
人それぞれに、どちらの考え方を選ぶか?は、それぞれでしょう。
完全なる消滅と考えると、死の際に、人は、死に対して恐怖を感じることでしょう。
しかし、輪廻転生すると思っていても、今生が輪廻転生の結果であるわけですから、
次の転生先が不可測であるという理由で、やはり、人は不安を感じることでしょう。
どんな「人間」になるのかわかりませんし、前回の記事でご紹介した内容から言えることは、「人間」になるかどうかも、わからない、ということなのですから。
これら二者択一の考え方に対して、もう一つの考え方があります。
それが、アドヴァイタ(不二一元論)です。
アドヴァイタ(不二一元論)を理解していくにつれ、私たち「人間」という存在事由が次第に明らかになって行きます。
そして、それに伴い、「死」に対する疑問への答えが明らかになり、やがて、疑問は消滅します。
しかし、それまでは、これらの疑問を念頭に置きながら、真理解明のために「アートマン」への理解を深めていく必要があります。
それでは、前回の続きから見ていきたいと思います。
(以下の文は、インド独立よりも約50年ほど前のイギリスの植民地時代に行われたインド人に向けた講演会で話された内容であることを、念頭に置いて読んで下さい)
『ところがここに、すさまじい論争が始まります。
ここに仏教徒がいて、同じように肉体を物質の流れにまで分析し、心をも同様にもう一つの物質の流れにまで分析します。
そしてこのアートマンについては、彼らは、”それ”は不必要であると言うのです。
だからわれわれはアートマンを仮定する必要などは全くない。
実体とその実体にくっついている性質とが何の役に立つのか。
われわれは言う、グナ、すなわち性質、それだけだ。
一つの原因が全体を説明し得るのに、二つの原因を仮定するのは非論理的である、と。
そして論争はつづき、(アートマンの)実体説を掲げるすべての学説は仏教徒によってなぎ倒されてしまいました。
実体および性質を認める説、すなわちあなたも私も、そして各人がそれぞれに、心および肉体とは別個の魂を持っている、とする説を固守する人々の系列全体が崩壊しました。
今まではわれわれは、二元論の考えは差し支えないと見て来ました。
肉体があり、それから精妙な体すなわち心があり、このアートマンがあり、すべてのアートマンに遍満して、かのパラマートマン、すなわち神がある、というのです。
難点はここにあります。
すなわち、このアートマンとパラマートマンとが両方とも実体と呼ばれ、そこに心、肉体、およびいわゆる物質が、さまざまの性質のようにくっついています。
誰も未だかつて(アートマンという)実体なるものを見たことはないし、誰もそれを思い浮かべることもできはしません。
何でこの実体を考える必要があるのか。
クシャニカヴァーディンになって、存在するものはことごとく、この心の流れの連続であってそれ以上の何ものでもない、と言ったらよいではないか。
それらは互いにくっついているものではない、それらは一単位を構成しているものではない、一つがもう一つを追いながら、海の波のように、決して完成することはなく、決して一つの完全な単位をつくることは無いのである。
人間は波の連続、一波が消えるとき、それは次の波を生み出す、そしてこれらの波動の停止が、ニルヴァーナと呼ばれるものである、と。
この説の前に二元論は沈黙してしまうこと、ごらんの通りです。
いかなる反論も不可能なのです。
そして二元論的な神もまた、ここでは存続することはできません。
遍在であるがしかし手を使わないで創造を行ない、足がなくて歩きまわったりする一人格神、クンバカーラ(陶工)がガタ(瓶)を作るようにして宇宙を創造した一人格である神、があると思うのは子供じみている、と仏教徒は言います。
そして、もしこれが神であるなら、これを拝むようなことはせずこれと戦おう、と言うのです。
この世界は不幸にみちています。
もしこれが神の仕事であるなら、この神と闘いましょう。
そして第二に、皆さん全てがご存知のように、この神は不合理であり、そして不可能です。
神の「計画説」の欠点は、すでに我らのクシャニカたちすべてが十分によく示していますから、われわれが説明する必要はありません。
こういう次第で、この人格神は粉砕されてしまったのでした。
あなたの神と、”かれ”のグナと、そして実体であるところの無限数の魂とを認めつつ、あなたはどのようにして”かれ”の実在を証明するのでしょうか。
しかも各々の魂が独立の個体なのです。
何の中で、あなたは個体なのですか。
肉体として個体なのではない。
なぜなら今日あなたは昔の仏教徒よりもよく、太陽の中の物質だったかも知れないものがたった今あなたの体内の物質となり、そして出て行って植物の中の物質となるであろうということを知っているのですから。
では、何某氏よ、あなたの個体性はどこにあるのか。
同じことが心にもあてはまります。
どこにあなたの個体性はあるのか。
あなたは今晩ある思いを思い、明日は別の思いを思います。
あなたは子供のときに考えたのと同じ様には考えません。
また老いた人々は若い時に考えたのと同じ様には考えません。
それではあなたの個人性はどこにあるのか。
意識つまりこのアハンカーラの中にある、などと言うことはできません。
これはあなたの存在のごく僅かの部分を占めているにすぎないのですから。
私が今こうして皆さんに話をしている間も私の身体のすべての器官ははたらきつづけているのですが、私はそれを意識していません。
もし意識が存在の証拠であるなら、それは存在しないことになります。
私がそれらを意識していないのですから。
するとあなたの人格神説のもとであなたはどこにいることになるのか。
どのようにして、あなたはこのような神を証明することができるのですか。
また、仏教徒は立ち上って宣言するでしょう。
それは不合理であるばかりでなく不道徳でもある、なぜならそれは、人に卑怯者になって外部に援助を求めることを教えるのだから、しかも誰もかれにそんな助けを与えたりはしないのだ、と。
ここに宇宙があります。
人がそれをつくったのです。
それになぜ、未だかつて誰も見たことも感じたこともない、また助けて貰ったこともない、外部の想像上の存在に依り頼むのですか。
なぜ卑怯者になって、人間の最高境地は、犬のようになってこの想像上の存在の前に這って行き、私は弱くて悪い者でございます、この宇宙間のあらゆる悪を背負っております、と申し上げることである、などと自分の子供たちに教えるのですか。
他方、仏教徒は、あなたは虚言をついている、と主張するだけでなく、あなたは子供たちの上に莫大な不幸をもたらしつつある、と言うでしょう。
なぜなら、よくおききなさい。
この世界は催眠術の結果です。
皆さんは皆さんが自分に言ってきかせるものになるのです。
偉大な仏陀がほとんど最初に語った言葉は、「あなたが思うもの、あなたはそれである、あなたが思うであろうもの、あなたはそれになるであろう」と言うものでした。
もしこれが真実であるなら、自分はつまらないものである、などということを、そうです、ここに住んではいないが雲の上にすわっているある者の助けを借りなければ自分は何事もなし得ないのだ、などということを自分に教えてはなりません。
その結果、皆さんは日ごとに層一層弱くなって行くでしょう。
「私たちは大そう不純でございます。主よ、どうぞ私たちを浄めて下さい」とたえずくり返していると、その結果は皆さんがあらゆる種類の悪を犯すよう自分に暗示をかけていることになるのです。
そうです、仏教徒は、あらゆる社会にみられるこれらの悪徳の90パーセントはこの人格神の思想から来る、と言っています。
生命のこの表現、生命のこのすばらしい表現の最後の目的が犬のようになることだというのは、人間としてひどい考え方です。
仏教徒はヴィシュヌ派の信者に向かって、もしあなたの理想、あなたの目標が、神の住居であるヴァイクンタという所に行ってそこでいつまでも手を組み合わせて”かれ”の前に立つ、ということであるなら、そんなことをするよりは自殺をした方がましだ、と言います。
仏教徒はこうまでも言い張るでしょう。
それだから自分は、これを逃れるために絶滅、すなわちニルヴァーナに入ろうとしているのだ、と。
私は、少しの間だけ仏教徒になったつもりで、これらの考えを皆さんの前にお示ししているのです。
なぜなら近頃これらすべてのアドワイタ的な思想が皆さんを不道徳にしている、と言われているので、もう一つの面はどんな風に見えているのかを皆さんにお話ししたいと思うからです。
われわれは大胆かつ勇敢に両方の面を直視しようではありませんか。
われわれはまず第一に、これは証明することができない、ということを知りました。
この、世界を創造する人格神、という考え、今日これを信じることのできる子供がいるでしょうか。
クンバカーラはガタを作る、それだから神は世界をつくったのだ!
もしそうであるなら、皆さんのクンバカーラもやはり神です。
そしてもし誰かが皆さんに、かれは頭も手もなくて行動している、と告げたら、皆さんはかれを精神病院につれて行くでしょう。
皆さんが一生呼びつづけている皆さんの人格神、世界の創造主が、かつて皆さんを助けたことがあるのか、と言うのが、現代科学からの次なる挑戦です。
皆さんが得た助けはことごとく、皆さん自身の努力によってそれ以上にも得られるはずのものだったのだ、皆さんはあのような叫びにエネルギーを消耗しないでもよかったのだ、あのように泣いたり叫んだりしなくてももっとうまくやりとげることができたのである、ということを彼らは証明するでありましょう。
そしてわれわれは、この人格神の思想と共に圧制と聖職者の政略とがやって来るのを見て来ました。
この思考が存在したところには必ず、圧制と聖職者の政略とがはびこって来たのです。
この虚偽がぶちこわされない限り、圧制はやまないだろう、と仏教徒は言います。
人は自分は超自然的な存在の前に畏まらなければならないのだと考えている間は、この種の哀れな人たちは相変わらず、祭祀に携わる者たちにとりなしを頼むでありましょうから、権利と特典を主張して人々を自分の前に畏まらせるような聖職者はあとをたたないでしょう。
ブラーミン(ヒンドゥ教の祭祀、聖職者階級)は斥けることができるかも知れませんが、しかしよくおききなさい。
そういうことをする者たちがブラーミンのあとがまにすわるでしょう。
そしてブラーミンよりも悪いことをするでしょう。
ブラーミンはある程度の雅量を持っていますがこの種の成り上り者は常に最悪の暴君になるからです。
乞食が富を獲ると、全世界をわらくずのように思うものです。
そういうわけでこの人格神思考が存続する間はこれらの聖職者たちはあとをたたず、従って社会に大きな道徳性を期待することはできないでしょう。
聖職者の権力欲と圧制とは共に行くものです。
なぜそれが発明されたのか。
昔、ある強い者たちが、人々を自分たちの手中に納めて、従わなければ殺すぞ、と言いました。
要するにそれだったのです。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
このブログを通して、お伝えしているのは、これまでに何度も書いてきましたが、
ギャーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)です。
論理的な思考により、<至高の自己>である「アートマン」に到る道です。
ですから、内容が難解であることは、当たり前なのです。
難解であればあるほど、「錯覚」というヴェールが剥がれ落ちた後に現れる「叡智」は、この上もない人類の「宝」であるという確信が起こることでしょう。
その確信に到るために、次回も続きを見ていきたいと思います。
富の征服者 アルジュナよ もし
わたしに不動の信心決定ができないなら
信愛行(バクティ・ヨーガ)の実習に努めよ
これによってわたしへの愛が目覚めるのだ
(バガヴァッド・ギーター第12章9)