永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(8)

私たちの真の自己、真の本性である「アートマン」について理解するために、

スワミ・ヴィヴェーカーナンダのインド人に向けて講演された遺稿集の中から、いくつかご紹介しておりますが、

今回は、前々回の続きを見ていきたいと思います。

 

個の魂である「アートマン」は、この宇宙の唯一の実在である「ブラフマン」と同一である、という理論が展開します。

 

つまり、「わたしは誰か?」⇒「アートマンである」=「ブラフマンである」ということになります。

 

これが、梵我一如、アドヴァイタ(不二一元論)です。

 

長くて、少し難しい内容ですが、とても需要ですので、「アートマン」(ブラフマン)についての理解を少しでも深めるために、ご紹介させて頂きます。

 

 

『次に仏教徒は言います。

あなた方はこの点、すなわち一切のことはカルマの法則の結果である、というところまでは完全に合理的であったと。

皆さんは魂たちの無限性を信じ、魂たちには誕生も死もないことを信じています。

そしてこの魂たちの無限性とカルマの法則の信仰は、疑いもなく完全に論理的です。

結果がなければ原因はあり得ません。

現在はそれの原因を過去の中に持っていたに違いなく、そして未来にその結果を持つのでありましょう。

ヒンドゥ教徒は、カルマはジャダ(生気のないこと)であってチャイタニヤ(意識、精神)ではないから、この原因を結実にまで導くには若干のチャイタニヤが必要だ、と言います。

そうでしょうか。

植物に実を結ばせるのにチャイタニヤが必要なものでしょうか。

もし私が種子をまいて水をやるなら、チャイタニヤは必要ではありません。

ある原始のチャイタニヤがそこにあった、とおっしゃるかも知れませんが、しかし、魂みずからがチャイタニヤだったのです。

他に何ものも必要ではありません。

もし人間の魂も亦それを持っているのなら、仏教徒とはちがって魂を信じるが神を信じないジャイナ教徒たちが言うように、神なるものを持つ必要がどこにありましょう。

皆さんはどこで論理的だと言えますか、どこで道徳的だと言えますか。

また皆さんがアドワイティズムを批判してそれは不道徳を助長する恐れがあるとおっしゃるなら、二元論的宗派がインドにおいて行ったことを、まあ少しばかり読んでご覧なさい。

もし今日までに二万人の非二元論のならず者がいたとすれば、二万人の二元論者のならず者もいました。

総じて、二元論者のならず者の方が多いでしょう。

アドワイティズムを理解するにはより優れた心が必要ですし、アドワイティストたちは、おどろかされて何かをする、というようなことはほとんどありませんから。

すると、ヒンドゥ教徒の皆さんには何が残るでしょうか。

仏教徒の手中から皆さんを救い出す手はありません。

ヴェーダを引用しても、かれはヴェーダを信じません。

かれは言うでしょう。

「私のトリピタカ(ス)はそうは説いていない。

また、これらには初めもなければ終わりもない。

これは仏陀が書いたのでもないのだ。

仏陀が、自分はただそれらを誦しているだけだ、と言っている。

それらは永遠のものである」と。

そしてこうつけ加えます。

「あなた方のは間違っている。

われわれのがほんとうのヴェーダである。

あなた方のはブラーミンの聖職者たちによって作られたものだ。

だからそんなものはすててしまえ」と。

どのようにしてここから脱しますか。

ここに脱出口があるのです。

まず第一の反論、実体と性質とは異なる、という形而上学的反論を取り上げましょう。

アドワイティストは言います。

それらは違わない、と。

実体と性質との間には差異はないのです。

皆さんは、なわがヘビに見間違えられるという、あの古いたとえをご存知でしょう。

あなたがヘビを見ているときにはなわは全然見ていない、なわは消えてしまっているのだ、というのです。

ものを実体と性質とに分ける、ということは、哲学者の頭脳の中で行われる形而上学的サムシングです。

外部では実際には決してそういうことはあり得ません。

あなたがもし普通の人間であれば性質を見るし、もし偉大なヨギであれば実体を見ます。

しかしあなたは決して、同時に両方を見ることはないのです。

それゆえ、仏教徒たちよ、実体と性質についてのあなた方の言い分は、実際にはあり得ない一つの誤算にすぎなかったのである。

しかし、もし実体は性質を持たないものであるあら、それは一つしかあり得ない。

もしあなた方が魂から性質を取り去り、そしてこれらの性質は心の中にあるものだ、ほんとうは魂の上に置き重ねられたものである、と言うなら、そこには決して二つの魂はあり得ないのだ。

一つの魂ともう一つの魂との間に差異をつくるのは限定、つまり特質なのだから。

一つの魂が他の魂と異なるということを皆さんはどのようして知りますか。

ある差別を示す特徴、すなわちある特質によってです。

また特質が存在しないところにはどうして差別があり得ましょうか。

それゆえ二つの魂は存在せず、”一つ”があるだけなのです。

そして、皆さんのパラマートマンは不必要なのです。

それは、この魂に他ならないのです。

その”一者”がパラマートマンと呼ばれ、それと同一の”一者”がジヴァートマン(=個別の魂)と呼ばれているのです。

そして、魂はVibhuつまり遍在であると主張する、サーンキャ哲学信奉者およびその他のような二元論者の皆さん、皆さんはどのようにして、二つの無限をつくることができるのですか。

無限は一つしかないはずです。

そうではありませんか。

この”一つ”が唯一の”無限の”アートマンであって、他の一切物はそれの現れなのであります。

ここで仏教徒は沈黙します。

しかしそれは、ここで終わるのではありません。

アドワイティストの立場は、単に批判だけをする弱いものではありません。

アドワイティストは、他者が余りにかれに近寄って来ると、彼らを批判してちょっと投げとばします。

それだけです。

しかしかれは、同時にかれ自身の立場を示します。

かれは、批判をするが批判と書物を示すことをするだけでやめてはしまわない、唯一の者です。

まあおききなさい。

皆さんは、宇宙は不断の運動をつづけているものだ、と言うでしょう。

有限なるものVyashtiの中では、あらゆるものが動いています。

皆さんは動いている、このテーブルは動いている、至るところ運動です。

それは不断の運動、サムサーラです。

それはジャガトJagatです。

ですから、このジャガトの中には個体はあり得ません。

個体というのは、変わらないもの、ということなのですから。

変化する個体などは無いはずです。

それは矛盾した言葉です。

われわれのこの小さな世界すなわちジャガトの中には、個体などというものは無いのです。

思いおよび感情、心および肉体、人間および動物およい植物は、不断の流動状態にあるのです。

しかし、かりに皆さんが完全なる単一体としての宇宙をとり上げたとすると、それは変化したり動いたりできますか。

決してできません。

運動というのは、より少なく動くものか全く動かないものと比較した場合にあり得るのですから。

それゆえ、統一体としての宇宙は不動であり不変です。

したがって皆さんは、完全にそれになったときに初めて、つまり「私は宇宙である」という自覚に達したときに初めて、一個の個体、となるのです。

ヴェーダンティストが、二つがある間は恐怖はやまない、と言うのはそれだからです。

人が他者を見ないときに初めて、他者を感じないときに初めて、全てが一つであるときに初めてーーそのときに初めて恐怖は消滅するのです。

そのときに初めてサムサーラは消えるのです。

ですからアドワイタはわれわれに、人は普遍的である場合には個体であり、個別的である場合には個体ではない、と教えています。

皆さんは完全体であるときにのみ、不死なのです。

宇宙であるときにのみ、無恐怖であり、不死であるのです。

そしてそのとき皆さんが宇宙と呼ぶものは、皆さんが”神”と呼ぶものと同一であり、実在と呼ぶものと同一であり、完全体と呼ぶものと同一です。

それは、われわれがわれわれと同じような心の状態の人々と共にこの多様世界として眺めている、唯一不可分の”実在”なのです。

もう少し善いカルマをなしとげてもっと善い心の状態を得ている人々は、死ぬと、”それ”(=実在)をスヴァルガ(天界)と眺め、インドラ(複数)等々を見ます。

更にもっと高い境地の人々はそれを、全く同じものを、ブラマ・ロカ(最高の世界)と見るでしょう。

そして完成された人々は、この世界も見なければもろもろの天界も見ず、いかなるロカ(生きものの住む世界)も全く見ないでありましょう。

宇宙は消滅し、その代りにブラフマンがあるでしょう。

われわれはこのブラフマンを知ることができますか。

私はサムヒターの中の”無限者”の描写のことをお話しました。

ここでは、もう一つの面が示されるのを見出すでしょう。

内なる無限者です。

あれは筋力の無限者でした。

ここでは思考の”無限者”が得られるでしょう。

あそこでは、無限者を肯定的な言葉で描くことが試みられました。

ここではあの言葉は役に立たず、否定的な言葉でそれを描写することが試みられています。

ここにこの宇宙があります。

それはブラフマンであり、ということを認めはしても、われわれはそれを知ることができますか。

否!否!

皆さんはこの一つの事実をもう一度、はっきりと理解しなければいけません。

くり返しくり返し、この疑問は皆さんの心に生まれるでしょう。

もしこれがブラフマンであるのなら、どのようにしてわれわれはそれを知ることができるのか、と。

「何によって、知る者が知られるのか」

どうして、知る者を知ることができましょうか。

眼はあらゆるものを見ます。

その眼が自分自身を見ることができますか。

できはしません。

知識という、そのことが一つの格下げなのです。

アリアン族の子供たちよ、皆さんはこのことを憶えていなければいけません。

ここにこそ、重要な話が含まれているのです。

皆さんのところにやって来るすべての西洋の誘惑は、この一事の上にその形而上学的根拠を持っています。

すなわち、そこには感覚的知識より高いものは一つもないのです。

東洋では、我らのヴェーダの中に、この知識は、もうそれ自体より低いものである、なぜなら、それは常に一つの限定なのだから、と説いてあります。

皆さんがあるものを知ろうと欲すると、そのものは直ちに、皆さんの心によって限定されるのです。

真珠貝が真珠をつくる、その例を参照して、あるものを取り上げてそれを意識の中に入れるがそれを完全体として知るのではない、知識とは如何に限定であるか、よく見よ、と彼らは言います。

このことはあらゆる知識に関して真実なのであって、”無限者”の場合にはそれほどではない、などというものではありません。

すべての知識の実体である”かれ”を、シャークシ、”目撃者”であってかれ無しにはいかなる知識を得ることもできない、という”かれ”を、全宇宙の”目撃者”であり、われわれの魂の内なる”目撃者”であって属性を全く持っていない”かれ”を、そのように限定することができますか。

皆さんはどのようにして、”かれ”を知ることができますか。

どんな方法で、”かれ”を縛り上げることができるのですか。

一切物、全宇宙が、このような間違った努力なのです。

この無限なるアートマンが言わば”かれ”自身の顔を見ようと努力しており、最低の動物から最高の神々に到るすべての存在は、その中に”かれ”自身を映す無数の鏡のようなものなのです。

そして”かれ”はそれらでは不十分と見て更に他の鏡を取り上げつつ、ついに人間の身体の中で、それは限定に限定を加えられたもの、すべては有限のものである、有限のものの中には”無限者”の如何なる表現もあり得ないのだ、ということを知るに到るのです。

そこで、逆戻りの行進が始まります。

これがヴァイラーギャ、すなわち放棄と呼ばれるものです。

感覚から後退せよ、戻れ!

感覚の方に行くな、というのがヴァイラーギャの標語です。

これがすべての道徳の標語であり、これがすべての福利の標語なのです。

なぜなら、皆さんは、われわれにあっては宇宙はタパシヤーの中で、放棄の中で、始まるのであるということを憶えていなければなりません。

皆さんが後退し更に後退するにつれて、あらゆる形が眼前に現れつつ、一つまた一つとわきに捨て去られ、ついに皆さんは、皆さんが真にあるところのもの、として残るのです。

これがモクシャ、すなわち解脱であります。』

ヴェーダンタ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

ここに、初めて「解脱」への道が示されました。

 

まずは、自分自身を、「アートマン」と同一視すること。

 

自分自身と「アートマン」の間には、何の隔たりもないことを確信すること。

 

それにより、ブラフマンのみが存在する、という宇宙が現れます。

 

自他のない「ただひとつ」である宇宙。

 

真に実在するのは、「それ」だけなのです。

 

 

 

わたしのために働くことのできぬ者は

わたしに全部を任せて

仕事の結果に執着せず

努めてこれを放棄(すて)るように心がけよ

 

ヨーガの実修ができぬ者は智識を究めよ

だが 智識より瞑想が勝り

瞑想より行果の放棄が勝る

行果を捨て去れば直ちに心の平和が得られる

(バガヴァッド・ギーター第12章11-12)