わたしは誰か?-アートマンについて(10)
前回は、この宇宙で唯一の実在であるブラフマンについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集よりご紹介させて頂きましたが、
今回は、「我は”それ”なり」という梵我一如の思想であるアドヴァイタ(不二一元)について、少し理解を深めるために、前回と続きとなりますが、ご紹介させて頂きます。
『このようにして、皆さんはこれが、しかもこれだけが、唯一の科学的な宗教であり得るのだ、ということを理解なさったと思います。
半分教育された現代のインドで毎日行われている科学に関する片言のおしゃべりをきき、毎日のように耳にする合理主義や理性に関する談義をきき、私は皆さんの全宗派がやって来て思い切ってアドワイティストとなり、仏陀が言った「多くの人の利益のために、多くの人の幸福のために」あえてそれを説法されるよう、期待するものであります。
もしそれをしないなら、私は皆さんを卑怯だと思います。
もし皆さんが自分の臆病を克服することができず、恐れる気持ちを口実とするのなら、他者にも同じ自由をお与えなさい。
哀れな偶像崇拝者を粉砕しようなどとしてはいけません。
かれを悪魔と呼んではいけません。
自分も完全には同意できないようなことを、相手かまわずに説いてまわってはなりません。
まずお知りなさい、自分みずからが臆病者であるのだということを、もし社会が恐ろしいのなら、もしあなた自身の過去の迷信がそんなに恐ろしいのなら、これらの迷信があの無知な人々をおびやかし縛りつけるさまはそれにも増してどれほどのものでしょう。
それがアドワイタの見地です。
他人に慈悲をお持ちなさい。
全世界が明日にでも、理論だけではなく悟りによってアドワイティストになったらよいのだけれど。
しかしそれが不可能なら、われわれはその次の最善のことをしようではありませんか。
無知な人々の手を取って、彼らの行けるところまで一歩一歩と常に導いて行きましょう。
そして、インドにおけるすべての宗教的進歩の、あらゆる段階は道程だったのだということを知りましょう。
それは悪から善へと向かっているのではなく、善からもっと善いものへと向かっているのです。
道徳的関係についてもう少し申し上げておかなければならないことがあります。
わが国の若者たちは近頃――誰から教わったのやら――アドワイタは人を不道徳にする、もし我らが一つであって全て神であるなら、道徳の必要がないのではないか、などと楽しそうに話しています!
まず第一に、それは笞が無ければ鎮めることのできない獣の議論です。
もし皆さんがそんな獣であるなら、笞で抑えられなければならない人間と見れられるよりはむしろ自殺をなさい。
笞がなくなると皆が悪魔になるのでしょう!
そんなことなら殺される方がましです。
常に笞の監督のもとに生きなければならない、そのような人には救いはありません。
第二には、アドワイタが、しかもアドワイタのみが、道徳を説明することができるのです。
あらゆる宗教が、すべての道徳の真髄は他者に善をなすことである、と説くでしょう。
なぜですか。
非利己的であれ。
なぜそうでなければならないのか。
ある神がそうおっしゃったからである。
その神は私の神ではありません。
ある聖典にそう書いてあるのだ。
聖典にはそう言わせておくがよい、私には何の関係もないことです。
全部の聖典がそう言うがよい、たとい彼らがそう言っても、私は何の痛痒も感じません。
めいめい自分のことが第一、遅れた者は馬鹿を見るのです。
これが世間の、少なくとも大多数の、道徳です。
私は道徳的でなければならない、という理由はどこにあるのでしょうか。
ギーターに次のように説かれている真理を知るようにならなければ、それを説明することはできません。
「あらゆる者をかれ自身の内に見、かれ自身をあらゆる者の内に見、かくして全ての者の内に宿る同一の“神”を見る者、かれ、すなわち賢者は、もう自己によって“自己”を殺さない」
アドワイタによって、何者であれ自分が傷つければ、自分は自分を傷つけているのである、彼らは全て自分なのである、ということをお知りなさい。
あなたが知る知らぬにかかわらず、全ての手によってあなたは働いており、全ての足によってあなたは動いているのです。
あなたは王宮で快適に暮らす王であり、あなたは街頭であの惨めな生活をしている乞食であるのです。
あなたは学識ある者たちの内にあると同時に無知な者たちの内部にもいます。
あなたは弱い者たちの内にいます。
そして強い者たちの内にいます。
このことを知って、慈悲深くおありなさい。
それだから、われわれは他者を傷つけてはならないのです。
それだから、私は自分が餓死せねばならぬとしても気にとめさえしないのです。
なぜなら同時にすべての至福を楽しんでいるのです。
また誰が、私すなわち宇宙を殺すことができますか。
この中に、道徳があるのです。
ここ、アドワイタの中においてのみ、道徳は説明することができるのです。
他の教えもそれを説きます。
しかしその理由を挙げることができません。
ですから説明まではできないのです。』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
わたしもあなたもブラフマン(神)である、という確固たる認識を持つことにより、私たちは精神的に、大きな影響を受けます。
その影響は、霊的な目覚めを伴う人間性の向上につながっていきます。
アドヴァイタ(不二一元)は、理論だけではなく、実践を伴ってこそ、真の真価を発揮するのです。
宇宙と、神と、わたしは”ひとつ”である。
そこに、恐れはありません。
これこそが、人を強くし、歓びを生み出し、人生を実り豊かにする奥義なのです。
誰にも迷惑をかけず 干渉もせず
誰からも心の平安を乱されない者
順境にも逆境にも心平静な者
このような人をわたしは愛する
私心なく 身心ともに清純で何事にも適切に対処し
何事も心配せず何事にも悩まず
結果を期待した企画や努力をしない者
このような人をわたしは愛する
(バガヴァッド・ギーター第12章15-16)
わたしは誰か?-アートマンについて(9)
前回、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集からご紹介した部分では、
私たちの本質は、アートマンであり、アートマンは、実は、ブラフマンに他ならない、という理論が展開しました。
この宇宙で唯一の実在を、ウパニシャッドでは、「ブラフマン」と呼んでいます。
今回は、アートマンではなく、このブラフマンについての理解を深めるために、前回の続きをご紹介したいと思います。
『このアイディヤを、われわれは理解しなければなりません。
「知る者をどのようにして知るか」知る者は、知られることはあり得ません。
もしそれが知られたとしたら、もうそれは知る者ではありますまい。
皆さんが自分の眼を鏡で見ても、映像はもはや皆さんの眼ではなく、他のあるもの、すなわち単なる映像なのです。
ではもしこの”霊”、真の皆さんであるところのこの”普遍の”、”無限の存在”が単に目撃者であるだけだったら、何のよいことがありましょう。
それは、われわれがしているように生き、動きまわり、そしてこの世界を楽しむ、ということができません。
人々は目撃者がどんなに楽しむことができるものであるかということを理解し得ていません。
彼らは言うのです。
「おお、君たちヒンドゥは、人は目撃者であるというこの教えによって無活動の役立たずになってしまった!」と。
まず申し上げますが、楽しむことのできるのは目撃者だけなのです。
角力の試合があるとすれば、誰がそれを楽しみますか。
試合をする者たちですか、それともアウトサイダースーー見物人ですか。
人生のあらゆることについて皆さんが目撃者であればあるほど、皆さんは一層それを楽しむのです。
これがアーナンダ(至福)です。
ですから、この宇宙の”目撃者”(照覧者)になったときに初めて、無限の至福は皆さんのものになるのです。
そのときに初めて、あなたは一個のムクタ・プルシャ(肉体を持ちながらブラフマンの叡智に目覚めている人)なのです。
いかなる欲望も持たずに、天国に行くことも考えず、罰せられることも、責められることも一切考えないで働くことのできる者は”目撃者”だけです。
”目撃者”だけが楽しむのです。他の者はだめです。
道徳的な面に移りますと、アドワイティズムの形而上学的面と道徳的面との間には一つのものがあります。
それはマーヤー(幻)の学説です。
アドワイタの体系の中のこれらの点のどれもが、理解するには何年をも必要とし、説明するには何か月をも必要とします。
ですから、ここではそれにちょっと触れるだけであってもどうぞ許して下さい。
あらゆる時代において、このマーヤーの学説は理解することが最も難しいものでした。
かんたんに申し上げると、それは確かに学説ではありません。
デシャ・カーラ・ニミッターー空間、時間、および因果律ーーという、三つの観念の結合です。
そしてこの時間と空間と因果律とは、更にナーマ・ルパ(名と形)にまで縮められました。
海上に波が立っているとします。
波はその形と名とにおいてのみ海とは異なるものであり、そしてこの名とこの形とは、波から離れては存在することはできません。
それらは波と共にのみ存在するのです。
波の形とは、波から離れて存在することはできません。
それらは波と共にのみ存在するのです。
波は退くでしょう。
しかし、その波についていた名と形は永久に消えても、同じ量の海水はそのまま残っています。
それゆえこのマーヤーは、私と皆さんとの、すべての獣たちと人間との、神々と人間とのちがいをつくるところのものです。
事実、アートマンが幾百万の生きものの中に言わば、捕らえられるようにするのはこのマーヤーであって、これは名と形によってのみ区別ができるものなのです。
もしそれをそのままにしておき、名と形を去らせてしまうなら、すべての多様性は永久に消え失せて、あなたはあなたが真実あるところのものであります。
これがマーヤーなのです。
くり返して言いますが、これは学説ではなく、事実の宣言です。
リアリストが、このテーブルは存在する、と宣べる場合には、かれは、このテーブルはそれ自身の独立した存在を持っていて、宇宙間の他の何ものの存在にも依存しているのではなく、もし全宇宙が破壊され消滅しても、このテーブルは今のままに存続するであろう、ということを意味しています。
そんなことはあり得ない、ということはちょっと考えたら分るでしょう。
ここ感覚の世界の一切物は従属的であって相互に依存しあっており、相対的であって相互に関係し合っており、他に依存するという存在です。
ですから、われわれのものの知識には三つの段階があります。
第一は、各々のものは個別的であって他とは離れている、というもの、次の段階は、すべてのものの間には関係があり相互関係がある、ということを見出すこと、そして第三は、われわれが多数と見ているところのたった一つのものがあるのだ、ということです。
無知な人々の最初の神の観念は、この神は言わば宇宙の外のどこかにいる、というもので、神をごく人間的なものと考えています。
もっと大きくもっと高いスケールで行なうというだけで、”かれ”は人がするのと全く同じことをします。
そして次の観念は、われわれが到る処にその現れを見る一つの力、という観念です。
これは、チャンディ(経典の名、母なる神の一名でもある)の中に見られる、真の”人格神”です。
しかし、よくおききなさい、皆さんがすべての善い性質の貯蔵庫と考える、そういう神ではありません。
皆さんは、神と悪魔というように、二つの神を持つことはできません。
たった一つを持たなければならない、そして”かれ”を、思い切って善とも悪とも呼ばなければならないのです。
一つだけをお持ちなさい。
そして、論理的な結果を甘受なさい。
チャンディにはこう書いてあります。
「私どもは”あなた”におじぎを致します。
おお、生きとし生けるものの中に平和として宿っておいでになる、”母なる神”よ。私どもは”あなた”におじぎを致します。
おお、生きとし生けるものの中に浄らかさとして宿っておいでになる、”母なる神”よ」
同時に、われわれは”かれ”を”全ての形をした者”と呼ぶことの結果を全面的に甘受しなければなりません。
「このすべては至福です。
おお、ガールギよ、至福のあるところすべてに、神の一部分があります」
皆さんはそれを好きなように使えばよいのです。
私の前のこの灯火の下で、あなたは貧しい人に百ルピーを与えるかも知れない、そしてもう一人の男はあなたの名前をかたるかも知れない、しかし灯火は二人にとって同じものでしょう。
これが第二の段階です。
第三の段階は、神は自然界の外にいるのでも内にいるのでもない、神と自然と魂と宇宙はすべて、同一の意味を持つ言葉である、というものです。
皆さんは決して、二つのものは見ません。
皆さんを欺いたのは、皆さんの形而上学上の用語です。
皆さんは、自分は肉体であってしかも魂を持っている、自分はその両方を一しょにしたものである、と思っておいでです。
どうしてそんなことがあり得ましょう。
自分の心の中で試してみてごらんなさい。
もし皆さんの中にヨギがおられるなら、その人は自分をチャイタニヤ(意識)と見ています。
かれにとっては肉体はもう消えているのです。
普通の人は自分を肉体だと思っています。
霊という観念はかれから消えてしまっています。
しかし人は肉体と魂とこれらすべてのものを持っている、という形而上学的観念があるものですから、皆さんは、それらすべてが同時にそこにあるのだ、と思うのです。
一つの時には一つのものです。
物質が見えているときには神をかたりなさるな、あなたは結果を、結果だけを見ているのであって、原因はあなたには見えてはいません。
あなたが原因を見ることができた瞬間に、結果は消えているでしょう。
世界はそのときどこにあるのか、また誰がとり去ったのでしょう。
「常に意識として現前するもの、絶対の至福、すべての束縛を超え、すべての比較を超え、すべての性質を超えて、常に自由で、大空のように限界なく、部分も持たず、絶対の、完全なるーーこのようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニ(見識者)のハートの中で輝くのだ。
自然のすべての変化が永久にやむところ、すべての思いを超えて思われる者、すべてのものと等しくそれでいて比類の無い者、見ることができない、ヴェーダが述べている者、我らが我らの存在と呼ぶもののエッセンスである者、完全なる者――このようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニのハートの中で輝くのだ。
すべての誕生と死とを超えた、“無限なる一者”、比べることのできない、マハープララヤ(宇宙の解消状態)の中で水没した宇宙のようにーー上も水、下も水、四方八方水、そしてその水の表面には一滴もなく、さざ波ひとつも立っていないーー無言のそして静寂な、すべてのヴィジョンは消え去った、馬鹿者や聖者たちの闘いやけんかや戦争は永久に止んでしまったーーそのようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニのハートの中で輝くのだ」
それもまた、やって来ます。
そしてそれがやって来るとき、世界は消えているのです。
それからわれわれは、このブラフマン、この実在が知られていないし知ることができないものであるというのは不可知論者が言うような意味においてではなく、あなたがすでに“かれ”であるのだから“かれ”を知るということは冒涜に当るからだ、ということを知りました。
また、このブラフマンはこのテーブルではないがしかしこのテーブルなのである、ということも知りました。
名と形を取り去れば、実体であるものは“かれ”です。
“かれ”は、あらゆるものの内なる実体です。
「あなたは女である、あなたは男である、あなたは少年である、あなたは少女でもある、あなたは杖に身を支える老人である、あなたは宇宙間のすべてのすべてである」
これが、アドワイティズムのテーマです。
もうひと言つけ加えます。
ここにこそ、ものの本質の説明がひそんでいることをわれわれは見出すのです。
ここに立って初めて、論理と科学知識との奔流に確実に対応することができるのだ、ということをわれわれは知りました。
ここでは少なくても、理性が確固たる基礎を持っています。
しかも同時に、インドのヴェーダーンティストはそれ以前の段階の悪口を言いません。
かれはふり返ってそれらを祝福します。
それらは真理であったのだ、ただ間違って理解され、間違って述べられただけである、ということを知っています。
それらは同じ真理だったので、ただマーヤーの眼鏡を透して見られただけだったのです。
ゆがんではいたかも知れないが、真理以外の何ものでもありませんでした。
無知な人が自然界の外に見た、その神、少ししか知らない人が宇宙に浸透していると見たその神、賢者がかれ自身の“自己”として、全宇宙それ自身として悟るその神――すべては“同一の実在”、異なる立場から見られ、マーヤーの異なる眼鏡を透して見られ、異なる心によって理解された同一の実体なのです。
すべてのちがいはそのことによってできたものでした。
そればかりでなく、一つの見解は必ず他の見解に通じています。
科学と普通の知識とのちがいは何ですか。
暗夜に街に出て、何か普通でない気配がしたら、通行人の一人に原因を尋ねてご覧なさい。
十人のうち九人までは、幽霊が出たのだ、と言うでしょう。
人は常に、外にいる幽霊や霊魂を追いかけています。
結果の外に原因を求めるのは無知な人々の性質なのです。
もし石が落ちて来れば、それは悪魔か幽霊が投げたのである、と無知な男は言います。
しかし科学的な男は、それは自然の法則、引力の法則であり、と言うでしょう。
到る処に見られる科学と宗教とのたたかいは何ですか。
宗教は、外部から来る実に多量の説明によって邪魔をされていますーーある天使は太陽の係り、もう一人は月の係り、というように際限がありません。
あらゆる変化は霊魂によってひき起され、たった一つの共通点は、彼らは全部、そのものの外にいる、ということです。
科学は、ものの原因は本来そのもの自体の中に見出されるのだ、と説きます。
科学は一歩一歩と進歩するにつれて、自然現象の説明を霊魂や天使たちの手から取り上げてしまいました。
アドワイティズムは、霊的な事柄について同様のことをしたのですから最も科学的宗教です。
この宇宙はいかなる宇宙外の神によってつくられたのでもなく、いかなる宇宙外の天才の仕事でもありません。
それはみずから創造し、みずから解消し、みずから顕現する、“唯一無限の実在”、ブラフマンです。
「汝は“それ”である。おお、シュヴェターケトゥよ!」』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『上信の人とは?
ブラフマン智を得たあとで、あの御方が宇宙世界、人間、動物、二十四の存在原理になっていらっしゃるのだ、と観ている人のことだよ。
はじめのうちは、”これではない””これでもない”と分別して進んで屋根の上に登るんだよ。
そうすると、屋根も階段の材料と同じレンガや石灰で出来ているということがわかる。
そのとき世界と生き物になっていらっしゃるのはブラフマンそのものだと、はっきりと覚るんだよ。
ただ、分別分析ばかりしているなんて!
ペッ!ペッ!役にも立たん』
『なぜ分別ばかりして、味もソッケもない人間になるんだい?
”私とあんた”がある間は、あの御方の蓮の御足に清い信仰を持っているのがいいんだよ。
わたしは時々、”あんたがわたし、わたしがあんた”と言うが、時には、”あんたがあんた”になってしまうんだよ!
そのときは、”わたし”はどこを探しても見当たらないんだ。
シャクティが神の化身(アヴァタラ)となるんだ。
ある学説によると、ラーマもクリシュナも歓喜と至高意識の大海の二つの波なんだそうだよ。
不二一元(アドヴァイタ)の智識に達した後で、霊性、意識とは何かがわかる。
すると、あるとあらゆる生物のなかに、意識、霊性というかたちであの御方がいらっしゃることがはっきりとわかるんだよ。
それがわかったら、居ても立ってもいられないほど嬉しくなる。
不二一元(アドヴァイタ)--霊意識(チャイタニヤ)--永遠のよろこび(ニティヤーナンダ)だ」
(聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
すべての生類に対して悪意を持たず
彼らの親切な友となり 我執と所有欲なく
幸 不幸を等しく平静に受け入れ
他者に対して寛大である者
常に足ることを知って心豊かに
自制して断固たる決意のもとに
心と知性(ブッディ)をわたしにゆだねる者
このような人をわたしは愛する
(バガヴァッド・ギーター第12章13-14)
わたしは誰か?-アートマンについて(8)
私たちの真の自己、真の本性である「アートマン」について理解するために、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダのインド人に向けて講演された遺稿集の中から、いくつかご紹介しておりますが、
今回は、前々回の続きを見ていきたいと思います。
個の魂である「アートマン」は、この宇宙の唯一の実在である「ブラフマン」と同一である、という理論が展開します。
つまり、「わたしは誰か?」⇒「アートマンである」=「ブラフマンである」ということになります。
これが、梵我一如、アドヴァイタ(不二一元論)です。
長くて、少し難しい内容ですが、とても需要ですので、「アートマン」(ブラフマン)についての理解を少しでも深めるために、ご紹介させて頂きます。
『次に仏教徒は言います。
あなた方はこの点、すなわち一切のことはカルマの法則の結果である、というところまでは完全に合理的であったと。
皆さんは魂たちの無限性を信じ、魂たちには誕生も死もないことを信じています。
そしてこの魂たちの無限性とカルマの法則の信仰は、疑いもなく完全に論理的です。
結果がなければ原因はあり得ません。
現在はそれの原因を過去の中に持っていたに違いなく、そして未来にその結果を持つのでありましょう。
ヒンドゥ教徒は、カルマはジャダ(生気のないこと)であってチャイタニヤ(意識、精神)ではないから、この原因を結実にまで導くには若干のチャイタニヤが必要だ、と言います。
そうでしょうか。
植物に実を結ばせるのにチャイタニヤが必要なものでしょうか。
もし私が種子をまいて水をやるなら、チャイタニヤは必要ではありません。
ある原始のチャイタニヤがそこにあった、とおっしゃるかも知れませんが、しかし、魂みずからがチャイタニヤだったのです。
他に何ものも必要ではありません。
もし人間の魂も亦それを持っているのなら、仏教徒とはちがって魂を信じるが神を信じないジャイナ教徒たちが言うように、神なるものを持つ必要がどこにありましょう。
皆さんはどこで論理的だと言えますか、どこで道徳的だと言えますか。
また皆さんがアドワイティズムを批判してそれは不道徳を助長する恐れがあるとおっしゃるなら、二元論的宗派がインドにおいて行ったことを、まあ少しばかり読んでご覧なさい。
もし今日までに二万人の非二元論のならず者がいたとすれば、二万人の二元論者のならず者もいました。
総じて、二元論者のならず者の方が多いでしょう。
アドワイティズムを理解するにはより優れた心が必要ですし、アドワイティストたちは、おどろかされて何かをする、というようなことはほとんどありませんから。
すると、ヒンドゥ教徒の皆さんには何が残るでしょうか。
仏教徒の手中から皆さんを救い出す手はありません。
かれは言うでしょう。
「私のトリピタカ(ス)はそうは説いていない。
また、これらには初めもなければ終わりもない。
これは仏陀が書いたのでもないのだ。
仏陀が、自分はただそれらを誦しているだけだ、と言っている。
それらは永遠のものである」と。
そしてこうつけ加えます。
「あなた方のは間違っている。
われわれのがほんとうのヴェーダである。
あなた方のはブラーミンの聖職者たちによって作られたものだ。
だからそんなものはすててしまえ」と。
どのようにしてここから脱しますか。
ここに脱出口があるのです。
まず第一の反論、実体と性質とは異なる、という形而上学的反論を取り上げましょう。
アドワイティストは言います。
それらは違わない、と。
実体と性質との間には差異はないのです。
皆さんは、なわがヘビに見間違えられるという、あの古いたとえをご存知でしょう。
あなたがヘビを見ているときにはなわは全然見ていない、なわは消えてしまっているのだ、というのです。
ものを実体と性質とに分ける、ということは、哲学者の頭脳の中で行われる形而上学的サムシングです。
外部では実際には決してそういうことはあり得ません。
あなたがもし普通の人間であれば性質を見るし、もし偉大なヨギであれば実体を見ます。
しかしあなたは決して、同時に両方を見ることはないのです。
それゆえ、仏教徒たちよ、実体と性質についてのあなた方の言い分は、実際にはあり得ない一つの誤算にすぎなかったのである。
しかし、もし実体は性質を持たないものであるあら、それは一つしかあり得ない。
もしあなた方が魂から性質を取り去り、そしてこれらの性質は心の中にあるものだ、ほんとうは魂の上に置き重ねられたものである、と言うなら、そこには決して二つの魂はあり得ないのだ。
一つの魂ともう一つの魂との間に差異をつくるのは限定、つまり特質なのだから。
一つの魂が他の魂と異なるということを皆さんはどのようして知りますか。
ある差別を示す特徴、すなわちある特質によってです。
また特質が存在しないところにはどうして差別があり得ましょうか。
それゆえ二つの魂は存在せず、”一つ”があるだけなのです。
そして、皆さんのパラマートマンは不必要なのです。
それは、この魂に他ならないのです。
その”一者”がパラマートマンと呼ばれ、それと同一の”一者”がジヴァートマン(=個別の魂)と呼ばれているのです。
そして、魂はVibhuつまり遍在であると主張する、サーンキャ哲学信奉者およびその他のような二元論者の皆さん、皆さんはどのようにして、二つの無限をつくることができるのですか。
無限は一つしかないはずです。
そうではありませんか。
この”一つ”が唯一の”無限の”アートマンであって、他の一切物はそれの現れなのであります。
ここで仏教徒は沈黙します。
しかしそれは、ここで終わるのではありません。
アドワイティストの立場は、単に批判だけをする弱いものではありません。
アドワイティストは、他者が余りにかれに近寄って来ると、彼らを批判してちょっと投げとばします。
それだけです。
しかしかれは、同時にかれ自身の立場を示します。
かれは、批判をするが批判と書物を示すことをするだけでやめてはしまわない、唯一の者です。
まあおききなさい。
皆さんは、宇宙は不断の運動をつづけているものだ、と言うでしょう。
有限なるものVyashtiの中では、あらゆるものが動いています。
皆さんは動いている、このテーブルは動いている、至るところ運動です。
それは不断の運動、サムサーラです。
それはジャガトJagatです。
ですから、このジャガトの中には個体はあり得ません。
個体というのは、変わらないもの、ということなのですから。
変化する個体などは無いはずです。
それは矛盾した言葉です。
われわれのこの小さな世界すなわちジャガトの中には、個体などというものは無いのです。
思いおよび感情、心および肉体、人間および動物およい植物は、不断の流動状態にあるのです。
しかし、かりに皆さんが完全なる単一体としての宇宙をとり上げたとすると、それは変化したり動いたりできますか。
決してできません。
運動というのは、より少なく動くものか全く動かないものと比較した場合にあり得るのですから。
それゆえ、統一体としての宇宙は不動であり不変です。
したがって皆さんは、完全にそれになったときに初めて、つまり「私は宇宙である」という自覚に達したときに初めて、一個の個体、となるのです。
ヴェーダンティストが、二つがある間は恐怖はやまない、と言うのはそれだからです。
人が他者を見ないときに初めて、他者を感じないときに初めて、全てが一つであるときに初めてーーそのときに初めて恐怖は消滅するのです。
そのときに初めてサムサーラは消えるのです。
ですからアドワイタはわれわれに、人は普遍的である場合には個体であり、個別的である場合には個体ではない、と教えています。
皆さんは完全体であるときにのみ、不死なのです。
宇宙であるときにのみ、無恐怖であり、不死であるのです。
そしてそのとき皆さんが宇宙と呼ぶものは、皆さんが”神”と呼ぶものと同一であり、実在と呼ぶものと同一であり、完全体と呼ぶものと同一です。
それは、われわれがわれわれと同じような心の状態の人々と共にこの多様世界として眺めている、唯一不可分の”実在”なのです。
もう少し善いカルマをなしとげてもっと善い心の状態を得ている人々は、死ぬと、”それ”(=実在)をスヴァルガ(天界)と眺め、インドラ(複数)等々を見ます。
更にもっと高い境地の人々はそれを、全く同じものを、ブラマ・ロカ(最高の世界)と見るでしょう。
そして完成された人々は、この世界も見なければもろもろの天界も見ず、いかなるロカ(生きものの住む世界)も全く見ないでありましょう。
宇宙は消滅し、その代りにブラフマンがあるでしょう。
われわれはこのブラフマンを知ることができますか。
私はサムヒターの中の”無限者”の描写のことをお話しました。
ここでは、もう一つの面が示されるのを見出すでしょう。
内なる無限者です。
あれは筋力の無限者でした。
ここでは思考の”無限者”が得られるでしょう。
あそこでは、無限者を肯定的な言葉で描くことが試みられました。
ここではあの言葉は役に立たず、否定的な言葉でそれを描写することが試みられています。
ここにこの宇宙があります。
それはブラフマンであり、ということを認めはしても、われわれはそれを知ることができますか。
否!否!
皆さんはこの一つの事実をもう一度、はっきりと理解しなければいけません。
くり返しくり返し、この疑問は皆さんの心に生まれるでしょう。
もしこれがブラフマンであるのなら、どのようにしてわれわれはそれを知ることができるのか、と。
「何によって、知る者が知られるのか」
どうして、知る者を知ることができましょうか。
眼はあらゆるものを見ます。
その眼が自分自身を見ることができますか。
できはしません。
知識という、そのことが一つの格下げなのです。
アリアン族の子供たちよ、皆さんはこのことを憶えていなければいけません。
ここにこそ、重要な話が含まれているのです。
皆さんのところにやって来るすべての西洋の誘惑は、この一事の上にその形而上学的根拠を持っています。
すなわち、そこには感覚的知識より高いものは一つもないのです。
東洋では、我らのヴェーダの中に、この知識は、もうそれ自体より低いものである、なぜなら、それは常に一つの限定なのだから、と説いてあります。
皆さんがあるものを知ろうと欲すると、そのものは直ちに、皆さんの心によって限定されるのです。
真珠貝が真珠をつくる、その例を参照して、あるものを取り上げてそれを意識の中に入れるがそれを完全体として知るのではない、知識とは如何に限定であるか、よく見よ、と彼らは言います。
このことはあらゆる知識に関して真実なのであって、”無限者”の場合にはそれほどではない、などというものではありません。
すべての知識の実体である”かれ”を、シャークシ、”目撃者”であってかれ無しにはいかなる知識を得ることもできない、という”かれ”を、全宇宙の”目撃者”であり、われわれの魂の内なる”目撃者”であって属性を全く持っていない”かれ”を、そのように限定することができますか。
皆さんはどのようにして、”かれ”を知ることができますか。
どんな方法で、”かれ”を縛り上げることができるのですか。
一切物、全宇宙が、このような間違った努力なのです。
この無限なるアートマンが言わば”かれ”自身の顔を見ようと努力しており、最低の動物から最高の神々に到るすべての存在は、その中に”かれ”自身を映す無数の鏡のようなものなのです。
そして”かれ”はそれらでは不十分と見て更に他の鏡を取り上げつつ、ついに人間の身体の中で、それは限定に限定を加えられたもの、すべては有限のものである、有限のものの中には”無限者”の如何なる表現もあり得ないのだ、ということを知るに到るのです。
そこで、逆戻りの行進が始まります。
これがヴァイラーギャ、すなわち放棄と呼ばれるものです。
感覚から後退せよ、戻れ!
感覚の方に行くな、というのがヴァイラーギャの標語です。
これがすべての道徳の標語であり、これがすべての福利の標語なのです。
なぜなら、皆さんは、われわれにあっては宇宙はタパシヤーの中で、放棄の中で、始まるのであるということを憶えていなければなりません。
皆さんが後退し更に後退するにつれて、あらゆる形が眼前に現れつつ、一つまた一つとわきに捨て去られ、ついに皆さんは、皆さんが真にあるところのもの、として残るのです。
これがモクシャ、すなわち解脱であります。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
ここに、初めて「解脱」への道が示されました。
まずは、自分自身を、「アートマン」と同一視すること。
自分自身と「アートマン」の間には、何の隔たりもないことを確信すること。
それにより、ブラフマンのみが存在する、という宇宙が現れます。
自他のない「ただひとつ」である宇宙。
真に実在するのは、「それ」だけなのです。
わたしのために働くことのできぬ者は
わたしに全部を任せて
仕事の結果に執着せず
努めてこれを放棄(すて)るように心がけよ
ヨーガの実修ができぬ者は智識を究めよ
だが 智識より瞑想が勝り
瞑想より行果の放棄が勝る
行果を捨て去れば直ちに心の平和が得られる
(バガヴァッド・ギーター第12章11-12)
わたしは誰か?-アートマンについて(7)
前回の記事で、仏教について、仏教とヒンドゥ教におけるアドヴァイタ・
ヴェーダンタ(不二一元論)における考え方の違いについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの見解をご紹介しましたが、仏教について、もう少し詳しく見てみますと、
『釈迦が生存していた当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。』(wikipediaより)とあり、
当時、圧倒的な宗教的な権威を誇っていたバラモンという祭祀などを執り行うことを許された家系が代々世襲され、ブラーミンという聖職者階級を形成しており、これは、カーストという階級制度によってインドの人々の中に、身分による差別を生むことになり、ブラーミンは、そのカーストの中でも、最高位の階級とされ、特権階級として君臨していました。
釈迦は、バラモン出身ではなく、クシャトリアという戦士、王族の出身だったため、カーストを説くヴェーダには批判的だったと言われています。
実際に、釈迦の弟子たちのほとんどは、バラモン以外のカースト出身者でした。
釈迦の入滅後(死後)、弟子たちが、釈迦の教えをまとめるために経典結集を開いた際に、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていたアーナンダが中心となって、(彼の記憶を頼りに)数々の経典が編纂された、と言われています。
つまり、今現存しているのは、弟子たちによって釈迦の教えとして伝えれれたものであり、釈迦が直接、遺したものではありません。
以前の記事でご紹介しましたように、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが解説されているように、
『すなわち、もし外部世界を「X」で現すなら、われわれがほんとうに知っているものは「X」プラス心であって、この心という要素は非常に大きく、「X」の全部をおおっていて「X」は相変わらず未知のままであり、また全然知ることのできないものである、従って、もしそこに外部世界というものがあっても、それは常に知られざるものであり、また知ることのできないものである、という事実です。
それについてわれわれが知っているのは、それがわれわれの心によってこね上げられ、形づくられたところのものなのです。
内なる世界についても同じことが言えます。』
ということが起きてしまうのです。
ですから、仏教は、真の自己であるアートマン(神)の実在性(実体)を認めていない、と解釈されていますが、実際に、釈迦が、そうであったかどうかは、不明であると、考えることも可能なのです。
この可能性について、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと同じく、アドヴァイタ・ヴェーダンタの立場をとるスワミ・ラーマもその著書「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」の中で、こう記しています。
『仏陀は彼の弟子に、神について考えるな、論じるなと指示しました。
この指示のせいで、仏陀と仏教徒は無神論者であると誤解されています。
仏陀が意味したことは、神、あるいは純粋意識は有限な心を超えており、知性を超えているということです。
神が有限な心により考えられるやいなや、神は有限となります。
それで仏陀は彼の弟子に、本当の自己と彼らを隔てている障壁を取り除くことに集中するように言ったのです。
それがなされたとき、そのときこそ、私たちが究極の真理と呼ぶものが本性を現すのです。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
こうして、バラモン教(後のヒンドゥ教)と非常によく似た考え方を示しながらも、真の自己である「アートマン」の実在性(実体)においては異なる見解を示したとされた釈迦の説いた教えが、「仏教」として弟子たちにより、インドに広まっていきます。
一方、バラモンの流れを汲むヴェーダ聖典を信奉する人々の中では、バラモン教は、ヒンドゥ教として発展し、5世紀頃から、ブラフマニズム(バラモン教の教え)を掲げる数々の聖者(哲学者)の登場もあって、ヒンドゥ教が勢力を伸ばし、それに伴って、インドでは、徐々に、仏教は衰退していきました。
この流れの中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、スワミ・ラーマ、そして、聖ラーマクリシュナ、ラマナ・マハルシなど、その他のアドヴァイタ(不二一元論)の見地から後世に影響を与えている人びとはすべて、「アートマン」の実在性(実体)に言及しています。
それは、「アートマン」の実在性(実体)は、想像上のものではなく(頭、脳の中にあるヴィジョンや創造物ではなく)、経験を通して、掴むことができるからなのです。
「アートマン」の直接体験なくしては、「アートマン」は、他の人格神と同様、単なる人間の想像上の存在であるにしか過ぎず、その実在性(実体)について不確実性を唱える人々がいるのは、当然でしょう。
それ故、「アートマン」について言及するには、それなりの直接体験が必要になってくるため、「アートマン」について語ることができる人々は、極端に限られてしまい、
私たちの真の本性であるにも拘わらず、私たちは、「それ」を知ることなく、この世を去っていく、ということが起きてしまっています。
このブログの目的は、唯一つ、真の自己である「アートマン」についての理解を深めることで、少しでも「アートマン」に回帰する道を示すことです。
スワミ・ラーマが「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」で述べているように、
『人生の目的は成長、拡張、そして自分自身の真の本性を完全に悟ることです。
もし人がゴールに向かう道を取らないと、そのとき、世界は人をそれに向かわせることでしょう。
暴風の後に暴風、人が理解し始めるまで、ひとつの不幸が別の不幸に続き、ひとつの失望が別の失望に続きます。
良いものと楽しいものとの間の選択は明らかになっていきます。
カタ・ウパニシャドのテーマは人生の宝である真の自己は内側に見出されるということです。
不死は内側にあります。
内側にはアートマン、あるいは実在が住んでいます。
真の自己を発見する旅は、人生のゴールまたは目的なのです。
自分自身の真の自己を悟った人は、そのとき、全宇宙を包含する宇宙的自己を悟ることができます。
二元論者は、個人、宇宙、そして宇宙的自己は独立した存在として完全に分離した単位だと信じています。
この信念に従うと、自分自身の自己を知ることにより、人は部分的な知識だけを得ます。
ヴェーダンタとこの学派を分けている大きな隔たりがあります。
ヴェーダンタ文学の最も価値があり気高い貢献は、真我、或いは神は私たちから離れておらず、あるいは遠くにおらず、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃるということなのです。
これはヴェーダンタ哲学における中心的な教えです。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
「アートマン」について、また、アドヴァイタ(不二一元論)については、
日本では、テキストや本などでも紹介されていることが少ないため、その概念が一般的にはまだ広く浸透していないために、困惑される方も多くいらっしゃることでしょう。
このブログでは、これらの教えが、日本に上陸してから、まだそれ程多くの時間が経っていないため、サンスクリット語をそのまま使用していますが、
やがて、「アートマン」である実在が、広く一般的に知られるようになれば、いつかは、他の言葉で表現される可能性もあり、その時には、「アートマン」はもっと身近な存在として認識されるようになるかもしれません。
ただ、この「教え」は、以前にも書きましたが、ヴェーダ聖典の中でも、ウパニシャッドとして、それを受けるに相応しい人々にのみに継承されてきた「奥義」ですので、誰もがこれを簡単には理解できないのは、当然であると認めつつ、
それでも、絶対真理探究者にとっては、究極の命題であり、「アートマン」の叡智なくしては、到底解けない多くの謎がそのままに残ってしまうため、
あらゆる疑問への答えを得るためには、私たちを覆っている「無智」を払い除け、私たちの実体である「アートマン」について、理解を深めていくことが、不可欠であるという見地から、こうして時間をかけて解説しているのです。
今回は、前回とは論点が違った内容となってしまいましたが、
次回は、また、元に戻り、真の自己である「アートマン」についての理解を深めるために、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ヴェーダンタ」からご紹介したいと思います。
信愛行(バクティ・ヨーガ)が実修ができない者は
わたしのために働くように心がけよ
わたしのために働くことによって
やがて完成の境地に到るであろう
(バガヴァッド・ギーター第12章10)
わたしは誰か?-アートマンについて(6)
前回の記事でも書きましたが、
私たちは、自分の肉体を見て、または、他者の肉体を見て、同じ形をしていると判断できる場合は、同じ「ヒト」という生物であると認識します。
その肉体は、この地上に現れてから、日々、成長を続け、やがて成長はピークに達し、その後は、衰退が始まり、終には、肉体にある機能のすべてが停止する日がやって来て、肉体は滅びます。
私たちが、自分たちを、この「肉体」と同一視している限りは、個体としての消滅を宿命として受け入れるしかありません。
自分たちを、「肉体」と限定してしまうと、肉体の消滅と共に、「個人」のすべてが消滅します。
「わたし」という意識は、寝ている間は、ありませんから、肉体に属していることは明らかです。
ですから、「わたし」という意識(自我意識)は、肉体の消滅と共に、消滅します。
これは、個人にとっては、完全なる消滅を意味し、死への恐怖心が育ちます。
ここにもう一つの考えがあります。
それは、「肉体」の消滅後も、何らかの形で「個人」は存在し、また、この地上に生まれ変わる、というもので、これが、現在言われているところの「輪廻転生」の考え方です。
個人にとっては、死後は、何も無くなる、と考えるか?、それとも、魂は死なずに、何らかの形で存在し続け、それが輪廻転生する、と考えるか?という二通りの考えしかありません。
前者は、肉体がすべてである、という考えに根差しており、
後者は、肉体が滅んでも、(個の)魂は生きている、という考えに根差しています。
人それぞれに、どちらの考え方を選ぶか?は、それぞれでしょう。
完全なる消滅と考えると、死の際に、人は、死に対して恐怖を感じることでしょう。
しかし、輪廻転生すると思っていても、今生が輪廻転生の結果であるわけですから、
次の転生先が不可測であるという理由で、やはり、人は不安を感じることでしょう。
どんな「人間」になるのかわかりませんし、前回の記事でご紹介した内容から言えることは、「人間」になるかどうかも、わからない、ということなのですから。
これら二者択一の考え方に対して、もう一つの考え方があります。
それが、アドヴァイタ(不二一元論)です。
アドヴァイタ(不二一元論)を理解していくにつれ、私たち「人間」という存在事由が次第に明らかになって行きます。
そして、それに伴い、「死」に対する疑問への答えが明らかになり、やがて、疑問は消滅します。
しかし、それまでは、これらの疑問を念頭に置きながら、真理解明のために「アートマン」への理解を深めていく必要があります。
それでは、前回の続きから見ていきたいと思います。
(以下の文は、インド独立よりも約50年ほど前のイギリスの植民地時代に行われたインド人に向けた講演会で話された内容であることを、念頭に置いて読んで下さい)
『ところがここに、すさまじい論争が始まります。
ここに仏教徒がいて、同じように肉体を物質の流れにまで分析し、心をも同様にもう一つの物質の流れにまで分析します。
そしてこのアートマンについては、彼らは、”それ”は不必要であると言うのです。
だからわれわれはアートマンを仮定する必要などは全くない。
実体とその実体にくっついている性質とが何の役に立つのか。
われわれは言う、グナ、すなわち性質、それだけだ。
一つの原因が全体を説明し得るのに、二つの原因を仮定するのは非論理的である、と。
そして論争はつづき、(アートマンの)実体説を掲げるすべての学説は仏教徒によってなぎ倒されてしまいました。
実体および性質を認める説、すなわちあなたも私も、そして各人がそれぞれに、心および肉体とは別個の魂を持っている、とする説を固守する人々の系列全体が崩壊しました。
今まではわれわれは、二元論の考えは差し支えないと見て来ました。
肉体があり、それから精妙な体すなわち心があり、このアートマンがあり、すべてのアートマンに遍満して、かのパラマートマン、すなわち神がある、というのです。
難点はここにあります。
すなわち、このアートマンとパラマートマンとが両方とも実体と呼ばれ、そこに心、肉体、およびいわゆる物質が、さまざまの性質のようにくっついています。
誰も未だかつて(アートマンという)実体なるものを見たことはないし、誰もそれを思い浮かべることもできはしません。
何でこの実体を考える必要があるのか。
クシャニカヴァーディンになって、存在するものはことごとく、この心の流れの連続であってそれ以上の何ものでもない、と言ったらよいではないか。
それらは互いにくっついているものではない、それらは一単位を構成しているものではない、一つがもう一つを追いながら、海の波のように、決して完成することはなく、決して一つの完全な単位をつくることは無いのである。
人間は波の連続、一波が消えるとき、それは次の波を生み出す、そしてこれらの波動の停止が、ニルヴァーナと呼ばれるものである、と。
この説の前に二元論は沈黙してしまうこと、ごらんの通りです。
いかなる反論も不可能なのです。
そして二元論的な神もまた、ここでは存続することはできません。
遍在であるがしかし手を使わないで創造を行ない、足がなくて歩きまわったりする一人格神、クンバカーラ(陶工)がガタ(瓶)を作るようにして宇宙を創造した一人格である神、があると思うのは子供じみている、と仏教徒は言います。
そして、もしこれが神であるなら、これを拝むようなことはせずこれと戦おう、と言うのです。
この世界は不幸にみちています。
もしこれが神の仕事であるなら、この神と闘いましょう。
そして第二に、皆さん全てがご存知のように、この神は不合理であり、そして不可能です。
神の「計画説」の欠点は、すでに我らのクシャニカたちすべてが十分によく示していますから、われわれが説明する必要はありません。
こういう次第で、この人格神は粉砕されてしまったのでした。
あなたの神と、”かれ”のグナと、そして実体であるところの無限数の魂とを認めつつ、あなたはどのようにして”かれ”の実在を証明するのでしょうか。
しかも各々の魂が独立の個体なのです。
何の中で、あなたは個体なのですか。
肉体として個体なのではない。
なぜなら今日あなたは昔の仏教徒よりもよく、太陽の中の物質だったかも知れないものがたった今あなたの体内の物質となり、そして出て行って植物の中の物質となるであろうということを知っているのですから。
では、何某氏よ、あなたの個体性はどこにあるのか。
同じことが心にもあてはまります。
どこにあなたの個体性はあるのか。
あなたは今晩ある思いを思い、明日は別の思いを思います。
あなたは子供のときに考えたのと同じ様には考えません。
また老いた人々は若い時に考えたのと同じ様には考えません。
それではあなたの個人性はどこにあるのか。
意識つまりこのアハンカーラの中にある、などと言うことはできません。
これはあなたの存在のごく僅かの部分を占めているにすぎないのですから。
私が今こうして皆さんに話をしている間も私の身体のすべての器官ははたらきつづけているのですが、私はそれを意識していません。
もし意識が存在の証拠であるなら、それは存在しないことになります。
私がそれらを意識していないのですから。
するとあなたの人格神説のもとであなたはどこにいることになるのか。
どのようにして、あなたはこのような神を証明することができるのですか。
また、仏教徒は立ち上って宣言するでしょう。
それは不合理であるばかりでなく不道徳でもある、なぜならそれは、人に卑怯者になって外部に援助を求めることを教えるのだから、しかも誰もかれにそんな助けを与えたりはしないのだ、と。
ここに宇宙があります。
人がそれをつくったのです。
それになぜ、未だかつて誰も見たことも感じたこともない、また助けて貰ったこともない、外部の想像上の存在に依り頼むのですか。
なぜ卑怯者になって、人間の最高境地は、犬のようになってこの想像上の存在の前に這って行き、私は弱くて悪い者でございます、この宇宙間のあらゆる悪を背負っております、と申し上げることである、などと自分の子供たちに教えるのですか。
他方、仏教徒は、あなたは虚言をついている、と主張するだけでなく、あなたは子供たちの上に莫大な不幸をもたらしつつある、と言うでしょう。
なぜなら、よくおききなさい。
この世界は催眠術の結果です。
皆さんは皆さんが自分に言ってきかせるものになるのです。
偉大な仏陀がほとんど最初に語った言葉は、「あなたが思うもの、あなたはそれである、あなたが思うであろうもの、あなたはそれになるであろう」と言うものでした。
もしこれが真実であるなら、自分はつまらないものである、などということを、そうです、ここに住んではいないが雲の上にすわっているある者の助けを借りなければ自分は何事もなし得ないのだ、などということを自分に教えてはなりません。
その結果、皆さんは日ごとに層一層弱くなって行くでしょう。
「私たちは大そう不純でございます。主よ、どうぞ私たちを浄めて下さい」とたえずくり返していると、その結果は皆さんがあらゆる種類の悪を犯すよう自分に暗示をかけていることになるのです。
そうです、仏教徒は、あらゆる社会にみられるこれらの悪徳の90パーセントはこの人格神の思想から来る、と言っています。
生命のこの表現、生命のこのすばらしい表現の最後の目的が犬のようになることだというのは、人間としてひどい考え方です。
仏教徒はヴィシュヌ派の信者に向かって、もしあなたの理想、あなたの目標が、神の住居であるヴァイクンタという所に行ってそこでいつまでも手を組み合わせて”かれ”の前に立つ、ということであるなら、そんなことをするよりは自殺をした方がましだ、と言います。
仏教徒はこうまでも言い張るでしょう。
それだから自分は、これを逃れるために絶滅、すなわちニルヴァーナに入ろうとしているのだ、と。
私は、少しの間だけ仏教徒になったつもりで、これらの考えを皆さんの前にお示ししているのです。
なぜなら近頃これらすべてのアドワイタ的な思想が皆さんを不道徳にしている、と言われているので、もう一つの面はどんな風に見えているのかを皆さんにお話ししたいと思うからです。
われわれは大胆かつ勇敢に両方の面を直視しようではありませんか。
われわれはまず第一に、これは証明することができない、ということを知りました。
この、世界を創造する人格神、という考え、今日これを信じることのできる子供がいるでしょうか。
クンバカーラはガタを作る、それだから神は世界をつくったのだ!
もしそうであるなら、皆さんのクンバカーラもやはり神です。
そしてもし誰かが皆さんに、かれは頭も手もなくて行動している、と告げたら、皆さんはかれを精神病院につれて行くでしょう。
皆さんが一生呼びつづけている皆さんの人格神、世界の創造主が、かつて皆さんを助けたことがあるのか、と言うのが、現代科学からの次なる挑戦です。
皆さんが得た助けはことごとく、皆さん自身の努力によってそれ以上にも得られるはずのものだったのだ、皆さんはあのような叫びにエネルギーを消耗しないでもよかったのだ、あのように泣いたり叫んだりしなくてももっとうまくやりとげることができたのである、ということを彼らは証明するでありましょう。
そしてわれわれは、この人格神の思想と共に圧制と聖職者の政略とがやって来るのを見て来ました。
この思考が存在したところには必ず、圧制と聖職者の政略とがはびこって来たのです。
この虚偽がぶちこわされない限り、圧制はやまないだろう、と仏教徒は言います。
人は自分は超自然的な存在の前に畏まらなければならないのだと考えている間は、この種の哀れな人たちは相変わらず、祭祀に携わる者たちにとりなしを頼むでありましょうから、権利と特典を主張して人々を自分の前に畏まらせるような聖職者はあとをたたないでしょう。
ブラーミン(ヒンドゥ教の祭祀、聖職者階級)は斥けることができるかも知れませんが、しかしよくおききなさい。
そういうことをする者たちがブラーミンのあとがまにすわるでしょう。
そしてブラーミンよりも悪いことをするでしょう。
ブラーミンはある程度の雅量を持っていますがこの種の成り上り者は常に最悪の暴君になるからです。
乞食が富を獲ると、全世界をわらくずのように思うものです。
そういうわけでこの人格神思考が存続する間はこれらの聖職者たちはあとをたたず、従って社会に大きな道徳性を期待することはできないでしょう。
聖職者の権力欲と圧制とは共に行くものです。
なぜそれが発明されたのか。
昔、ある強い者たちが、人々を自分たちの手中に納めて、従わなければ殺すぞ、と言いました。
要するにそれだったのです。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
このブログを通して、お伝えしているのは、これまでに何度も書いてきましたが、
ギャーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)です。
論理的な思考により、<至高の自己>である「アートマン」に到る道です。
ですから、内容が難解であることは、当たり前なのです。
難解であればあるほど、「錯覚」というヴェールが剥がれ落ちた後に現れる「叡智」は、この上もない人類の「宝」であるという確信が起こることでしょう。
その確信に到るために、次回も続きを見ていきたいと思います。
富の征服者 アルジュナよ もし
わたしに不動の信心決定ができないなら
信愛行(バクティ・ヨーガ)の実習に努めよ
これによってわたしへの愛が目覚めるのだ
(バガヴァッド・ギーター第12章9)
わたしは誰か?-アートマンについて(5)
「わたしは誰か?」
普段、私たちは、こんな問いを発することなく、日々の生活を送っています。
「わたしは誰か?」なんて、考えるまでもなく、答えは決まっている。。。
まずは、一般的でオーソドックスな答えとしては、「人間です」というものでしょう。
本当にそうですか?
この形と習性を持った動物を、確かに、「人間」と呼ぶことにしたのは、紛れもなく自分たちである「人間」です。
「わたしは人間です」というのは、自称なのです。
自分で、自分のことを、そう呼んでいるということから、私たちは「人間」となっただけである、と考えることも可能だと言うことなのです。
けっして、そのように、私たちの創造者が、決められた訳ではないのです。
私たちが、犬や猫や他の生物、無生物を形で区別し、それぞれに名前を付けたので、
それらは、そういうものになりました。
そして、その延長で、同じ形と習性を持った「自分たち」を「人間」と呼ぶことにしたのです。
もし、すべてのモノを区別する、ということがなかったら、それぞれに名前をつけることもなかったことでしょう。
これらの形と名前は、人間と人間の間だけの「決まり事」として機能しているだけで、全宇宙的な視点からすると、そのような区別はなく、従って、「決まり事」というようなモノは存在していません。
「決まり事」というのは、人間の脳(頭)の中だけに、存在しているのです。
人間は、神を想定し、「神」X「人間」という構図を造り上げています。
もし、「神」が、「あなたは神なのだ」と仰ったら、
私たちは、「人間」ではなく、「神」でしょう。
しかし、私たちは、「神」がどういう存在であるのか?を知らないので、私たちは、
自分たちを「人間」として定義してきたのです。
ここで、以前の記事でご紹介した「ヒツジライオン」の話を思い出して下さい。
本当は「ライオン」なのに、「自分はヒツジだと思い込んで生きているライオン」を「ヒツジライオン」と称し、
その「ヒツジライオン」が、最後には「自分は、正真正銘のライオンであることを思い出す」というお話でした。
このお話をそっくりそのまま、今の私たちに当てはめると、どうなるか?と言いますと、
私たち人間は、「人間だと思い込んで生きている神」であり、最後には、人間は「自分は、正真正銘の神であることを思い出す」ということになります。
ですから、私たちは、すでにアートマンであるのですが、<わたし>(という自我)は、そのことをそのまま受け入れられずに、「自分は人間である」と思っている、ということになります。
これは、単に、脳にそういう”想い”が起きている、ということなのですが、
生まれてこの方、あの「ヒツジライオン」の話のように、「ヒツジ」だと思い込まされて生きてきたのですから、自分を「ヒツジ」だと思うのは、無理のないことではあります。
確かに、形としての肉体は、猿が進化した形である哺乳類サル目(霊長類)の分類群 のひとつである「ヒト」ということになりますが、
私たちは、滅びて消滅する「肉体」という物質ではありません。
ヴェーダでは、この物質である体は、アートマンが宿る「器」としています。
「器」は、分解された後、また、集められ、別の形を取りますが、それは「永遠」の存在ではなく、一時的な、この世に在るための「道具」なのです。
それでは、前回の続きを見ていきたいと思います。
『ここにもう一つの思想があります。
おそらくびっくりなさるでしょう。
しかしそれは極めてインド的な性格をもった思想でありまして、もしわれわれのすべての宗派に共通の考え方があるとすれば、それはこれです。
ですから、この一つの思想によく注意を払い、それを憶えていて下さるようお願いします。
なぜなら、これこそまさに、われわれインド人が持つすべてのものの土台なのですから、その思想というのはこれです。
皆さんは、西洋でドイツやイギリスの学者たちが説いている、自然界の進化の説のことは聞いておいででしょう。
それはわれわれに、異なる動物たちの身体は実は一つのものである、われわれが眼にする差異は同じ一続きの中の表現の差異にすぎないのである、最低の虫けらから最高かつ最も聖なる人間に到るまでたった一つのものーーそれが完成をとげるまで、より高くもっと高くと変化しつづけて行く一つのものーーにすぎないのである、と教えています。
この考え方もまた、われわれは持っていました。
我らのヨギ、パタンジャリは言明しています。
一種ーージャーティは種ですーーが他種に変化するーー進化のことです。
パリナーマというのは、ちょうど一つの種が別の種に変るように一つのものが別のものに変ることを言うのです。
どこで、われわれはヨーロッバ人と違うのでしょうか。
パタンジャリは、プラクルティヤープラート「自然のthe infillingによって」と言っています。
ヨーロッパ人は、一つの体に別の体の形を取ることを強いるのは、競争、自然および異性の選択等々である、と言います。
しかしここに、もっと優れた分析であり、もっと深く物の核心をついている、もう一つの考えがあって、「自然のインフィリング作用によって」と言うのです。
この自然のインフィリングと言うのは何でしょうか。
われわれは、アメーバが次第々々に高く昇ってついに一人の仏陀となる、ということは認めます。
われわれはそれは認めます。
しかし同時に、一つの機械にどんな形にせよ一定量のエネルギーを投入しておかなければ、それにふさわしい結果は得られない、ということもよく分かっています。
それがどのような形をとるにせよ、エネルギーの総計は常に変らないのです。
これらの端で一定量のエネルギーを欲するのなら、もう一方の端からそれだけのものを注入しておかなければなりません。
別の形をとってはいるかも知れませんが、そこから生み出されるべきエネルギーの量は同じであるに違いないのです。
ですから、もし一人の仏陀が一連の変化の終りであるなら、そのアメーバもやはり仏陀であったに違いありません。
もしその仏陀が進化をとげたアメーバであるのなら、そのアメーバもまた、内に含まれた仏陀であったのです。
もしこの宇宙がほとんど無限と言ってよいほどのエネルギーの現れであるのなら、この宇宙がプララヤ(解消)の状態であったときも、それは同じ分量の内に含まれたエネルギーを代表していたに違いありません。
それ以外ではあり得ないのです。
そういうわけですから、当然あらゆる魂が無限である、ということになります。
われわれの足もとを這いまわる最低のうじ虫から、最も高貴で最も偉大な聖者たちに到るまで、すべてがこの無限の力、無限の浄らかさ、および無限の一切物を持っているのです。
違いはただ表現の程度にあるだけです。
虫はただ、その無限のエネルギーのほんの少しを現わしているだけです。
皆さんはもっとたくさん現していらっしゃる。
もう一人の神人は更にもっと沢山現しました。
それが違いのすべてです。
その無限の力は全く同じようにそこにあるのです。
パタンジャリは言っています。
「自分の畑を灌がいする農夫のように」と。
畑の隅に小さな水門をあけて、かれはどこかにある貯水池から水を引き入れいます。
そして多分、かれはせきを作って、水がドッと流れ込むのを防げているのです。
かれが水を欲するならただそのせきを切りさえすればよいのであって、そうすれば水はおのずからドッと流れ込むはずです。
水に力を加える必要はありません。
それはすでに、貯水池にたたえられているのです。
そのようにわれわれの誰もが、あらゆる生きものが、各自の背後にこのような、無限の力、無限の純粋さ、無限の至福、および無限の存在という力の貯蔵庫を持っているのであって、ただこれらのせきが、すなわちこれらの肉体が、われわれが自分の真の姿を十二分に発揮するのを防げているのです。
そしてこれらの肉体が層一層精妙に組織されて来るにつれて、タモグナ(タマスの性質=暗性優位)がラジョグナ(ラジャスの性質=活動優位)となるにつれ、ラジョグナがサトワグナ(サットワの性質=善性優位)になるにつれて、この力と純粋性とが層一層明らかになります。
ですから、わが国の人々は飲み食いや食物のことについて非常に深い注意を払って来たのです。
今は本来の考え方は忘れられてしまっているのかも知れません。
これが、インドにおけるわれわれもろもろの宗派の何れもが信じなければならない、アートマンの思想です。
ただ、あとでお分かりになることですが二元論者たちは、このアートマンは悪い行為によってサンクチタになる、すなわちその力とその性質が全部収縮し、よい行為によって再びその性質が拡大する、と説きます。
するとアドワイティストは、アートマンは決して拡大も収縮もしない、ただそう思われるだけだ、と言います。
収縮したように見えるのです。
それが違いのすべてです。
すべての宗教が、我らのアートマンはすでに全ての力を持っている、外部から何かが”それ”のところに来る、ということはない、天空から何かが”それ”の中に落ちて来る、というようなことは決してない、という、同一の考えを持っています。
皆さん注目して下さい。
皆さんのヴェーダは、吹き込まれるto be inspiredものではなく、引き出されるto be expiredものです。
外部のどこかからやって来たものではなくて、それはあらゆる魂の内に生きている永遠の法則なのです。
ヴェーダはアリの魂の中にあり、神の魂の中にもあります。
アリはただ進化して賢者すなわちリシの身体を得ればよいので、そうすれば永遠の法則がみずからを表現し、ヴェーダが出て来るでしょう。
われわれの力はすでにわれわれのものである、われわれの救いはすでにわれわれの内にある、ということ、これは理解すべき一つの偉大な思想です。
それは収縮したのであると言っても、それはマーヤー(幻想)のヴェイルにおおわれているのだ、と言ってもよろしい。
問題ではありません。
アイディヤはすでにそこにあるのです。
それを信じなければなりません。
すべての人間の可能性を信じなければなりません。
最低の人間の内部にも、仏陀の内にあるのと同じ可能性がひそんでいるのです。
それがアートマンの教義です。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
少しずつ、朧気ながらでも、私たちの「真の自己」である「アートマン」について、その姿を掴み、イメージを描くことができましたでしょうか?
今回の記事の内容について、
スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」では、このように語られています。
『私たちすべての内側には2つの面があります。
真の自己と単なる自己です。
後者は前者の鏡でしかありません。
一方は不滅で変化を超えていますが、他方は楽しむ者であり苦しむ者です。
ヤマはナチケータに言いました。
「一方(絶対者)は自ら光り輝く太陽のようである。
他方(エゴ、あるいは、限られた自己)はイメージ、あるいは、反射であり、光と闇の間にあるような関係を持っている。
一方は目撃者のようであり、他方はそれ自身の考えや行いの果実を食べる」
目撃者はアートマンです。
9世紀のインドの偉大な聖者であり哲学者であるシャンカラは述べています。
”アートマンの性質は純粋な意識である。
アートマンは心と物質のこの全宇宙を明らかにしている。
それは限定されない。
目覚めている、夢見ている、寝ているという意識の様々な状態を通して、それは私たちの継続する自己認識の自覚を維持している。
それは知性の目撃者として現れる”
カタ・ウパニシャドは、アートマンはけっして生まれず、けっして死なないと言っています。
そしてそれは広大な空間よりもさらに広大で、最も小さな原子よりさらに小さなものだとも言っています。
それはすべての生き物の心臓の中に隠れています。
シャンカラは、ちょうど瓶が壊れても瓶の中の空気は存在しなくならないように、肉体が分解するときでもアートマンは分解しないと言いました。
不変であり、変化することなく、不生であり、不死であり、永遠であるアートマンは、私たち自身の最奥の部屋に座し、個人と心のすべての活動を知っています。
”それは体のすべての行動、感覚器官と生命力の目撃者である”とシャンカラは言いました。
”ちょうど、火が鉄の玉と同じだとされるように、これらすべてと同じだと思われている。
しかしそれは行動もせず、ほんの少しも変化することはない”
バガヴァッド・ギーターは、大いなる自己であるアートマンについて述べています。
”彼はけっして生まれず、けっして死なない。
在ったことはなく、再び在らなくなることもない。
不生であり、永遠であり、永久である、この太古のひとつなるものは、体が殺されても殺されない。
これが、不滅であり、永遠であり、不生であり、代わりとなる者がないと知る者は。。。”
”使い古した衣類を脱いだ人が、その後、新しい服を着るように、肉体の所有者も同じように、使い古した肉体を脱ぎ捨て、新しい肉体を身に着ける。。。”
”武器は彼を裂かず、火は彼を燃やさず、水は彼を濡らさず、風は彼を乾かすこともない”
”彼は裂かれることなく、燃えることなく、濡らされることなく、乾かされることなく、永遠で、すべてに浸透し、絶対であり、不動である。
彼は遍在し、全知である。
彼は太古よりひとつである”』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
次回は、更に深く、アートマンについて、どのような説明がなされているか?見ていきたいと思います。
「わたしは誰か?」--「アートマンである」
このことを知るために、人生を使いなさい、とスワミ・ラーマは書いています。
それが、生の奥義であり、死を超越する唯一の道なのです。
常に心をわたしに結びつけている者たちを
プリターの息子よ
わたしは速やかに
生死の海から救い出す
常にわたしのことのみを想い
知性(ブッディ)のすべてをわたしに委ねよ
そうすることによって疑いなく
君はわたしのなかに住んでいるのだ
(バガヴァッド・ギーター第12章7ー8)
わたしは誰か?-アートマンについて(4)
「わたしとは誰か?」との問いに対する答えは、「アートマン」である、とウパニシャッドでは説かれています。
それは、信じるに値する真実であるのか?どうか?
また、真実であるなら、その「アートマン」とは、どのようなモノなのか?ということを知ることは、絶対真理探究者にとっては、永遠の命題です。
この「アートマン」について知ることは、自分を含めた「人間」について、地球を含む「宇宙」について、そして、この両者の創造者ということになっている「神」について、正しく理解することにつながっていきます。
科学は、物質世界における様々な現象の中に、ある種の「法則」を見出してきましたが、
人間の真の自己である「アートマン」については、未だ何の発見もなされていません。
現代科学は、ウパニシャッドが唱える真の自己である「アートマン」、及び、この宇宙に遍在する「ただひとつ」である「ブラフマン」を発見するには、時期尚早であるので、その存在にすら気づいていません。
ですから、今の段階では、私たちは、「わたしは誰か?」についての理解を得るためには、「アートマン」について説かれている唯一の文献であるウパニシャッドに頼らなくてはならないのです。
それでは、今回も、前回の続きを見ていきたいと思います。
『次に理解しなければならないことはこれです。
この肉体は一つの連続した物質の流れの名前ではないか、という質問が起こりました。
一瞬間毎にわれわれはそれに新たな物質を加えつつあり、そして各瞬間に、若干の物質がそれから捨て去られて行きます。
それは絶えず流れつつある一すじの川のようなもの、川は莫大な量の水が常にその場所を変えつつあるのですが、それにもかかわらずわれわれはその全体を心に描いて、それを同一の川と呼ぶのです。
われわれは川を何と呼びますか。
各瞬間に水は変わっています。
岸は変わって行きます。
各瞬間に環境は変化しつつあります。
それでは川とは何なのでしょうか。
それはこの一続きの変化の名前です。
心の場合も同じことです。
これがあの偉大なクシャニカ・ヴィジャニヤーナ・ヴェーダという学説でありまして、最も難解なのですが、仏教哲学の中でも精密にそして論理的に説かれています。
しかもこの学説は、インドではヴェーダンタのある部分に反対するものとして生まれました。
それに対して答えが出されなければならなかったのでありまして、他の何ものを以てしても不可能であるがアドワイティズムによってのみ、これに応酬することができるのだ、ということが、後ほど明らかになるでありましょう。
デュアリズム(二元論)およびその他のもろもろのイズムは礼拝の手段としてはまことに良く、非常に心を満足させるものであり、またおそらく、それらは心の進歩を助けて来たでありましょう。
しかしもし人が合理的であってしかも同時に宗教的でありたいと思うなら、その人にとってはアドワイタが唯一の体系です。
さて、今、われわれは心をば、一方で絶えずそれ自身を満たしつつ他方でそれを空にしつつある川のようなもの、と見ましょう。
ではわれわれがアートマンと呼ぶあの単一体はどこにあるのでしょうか。
その考えはこうです。
すなわち、肉体におけるこの不断の変化にもかかわらず、また心におけるこの不断の変化にもかかわらず、われわれの内部には、われわれのものの観念を不変のものと現れさせる、変わらざる何ものかがある、というのです。
異なった方向から来る光線は、一枚のスクリーンか壁かまたは他の、不動のものの上に堕ちたときに始めて、一つの個体をつくることができます。
一つの完全な全体を形成することができます。
さまざまの観念が、言ってみれば、人間器官の上に落ちて結合し、一つの完成された個体となるのですが、この個体は人間器官のどこにあるのでしょうか。
心もまた変化するものであるのを見れば、これは決して心そのものではありません。
ですから、そこには、肉体でもなければ心でもないあるもの、変化しないもの、われわれのすべての思い、われわれの感覚がその上に落ちて完全な統一体をつくるような恒久的なあるもの、がなければなりません。
そしてこれが人の真の魂、アートマンなのであります。
そして、皆さんが精妙な物質と呼ぼうと心と呼ぼうと物質的な一切のものは常に変化しなければならないのを見れば、皆さんが粗大な物質と呼ぶものすなわち外部世界も、それに比べてやはり変化にみちたものであるのを見れば、この変わらざるあるものは、物質定な材料からできたものであろうはずはなく、従ってそれは霊的なものであります。
すなわち、それは物質ではなく、破壊されることなく変ることのないものであります。
次にもう一つの質問がやって来ます。
外界に関してのみ論じるあの古い議論、誰がこの外部世界を造ったのか、誰が物質を創造したのか、などというような議論とは別に、考えはここでは、人の内面の性質からのみ真理を知ろう、というものであって、質問は、それが魂について尋ねられたときと全く同じ形で生まれています。
各人の内部に不変の、心でも肉体でもない魂がある、というのは議論の余地のないこととしても、更に、魂たちの間に観念の統一、感情の統一、共鳴があります。
どうして、私の魂があなたの魂にはたらきかけることができるのでしょうか。
それがよって以て働くことのできる、作用することのできる媒介物はどこにあるのでしょうか。
どのようにして、私は皆さんの魂について何かを感じることができるのでしょうか。
皆さんの魂と私の魂との両方に接触があるのは何なのでしょうか。
ですからそこには、もう一つの魂の存在を認めるべき、形而上学的必然性があります。
なぜならそれは、すべての異なれる魂たちに接触し、また物質を通して、はたらく一個の魂に違いないからです。
世界のすべての無限数の魂をおおい、その中に遍満し、それを通して彼らは生き、それを通して彼らは同感し、愛し、互いのために働くという一つの”魂”です。
そしてこの普遍的な魂が、パラマートマン、宇宙の”主”なる神なのです。
また、魂は物質でできているのではないから、それは霊性であるから、物質の法則には従わない、物質の法則によって判定することはできない、ということは当然です。
ですからそれは、征服され得ないもの、不生、不死、そして不変のものです。
「この自己、武器も突き通すことはできず、火も焼くことはできず、水もぬらすことはできず、空気も干すことはできない。
”変わることなく、一切所に遍満し、動かず動かされず、不死である、人の内なるこの”自己”は」われわれはギーターおよびヴェーダンタによって、この個々の”自己”は同時にヴィブVivhuである、と知り、またカピラによって、それは遍在である、と教えられています。
もちろん、インドには、”自己”はAnuである、つまり無限に小さい、と主張する学派もありますが、彼らは、その現れがAnuである、と言っているのです。
それの真の性質はヴィブ、すなわち全てに遍満しているものであります。』
(ヴェーダンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
ウパニシャッドで説いているように、すべてに遍満している存在は、不生、不死、不変である、なら、
私たちにも、この普遍的な魂「パラマートマン」(宇宙の”主”なる神)が遍満しているはずであり、
そうであるならば、私たちは、不生であり、不死であり、不変な存在であるはずです。
しかし、実際には、物質である肉体は生まれ、滅び、消滅しますので、
もし、私たちが肉体であるなら、生まれ、滅び、消滅する存在ということになります。
私たちは、肉体と共に消滅する存在として、この世界に生まれてきたのでしょうか?
この世には、初めがあれば、終わりがある、ことになっていて、変化せずに、永遠に存在し続けるものはありません。
生まれては消滅を繰り返すだけのために、今、ここに在るのでしょうか?
それに対する答えとして、ウパニシャッドを題材に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、力強く、「わたしもあなたもアートマンという永遠の存在である」と仰っているのです。
これは、死後、アートマンになる、という意味ではありません。
昔も今もこれからも、実在するのはアートマンである、と言っているのです。
ですから、今、これを読んでいる「あなた」も、アートマンなのです。
俄かには信じがたいことかもしれませんが、
次回も、このことを深く理解するために、続きを見ていきたいと思います。
至上者の非人格的な相(すがた) 即ち非顕現の真理に
心をよせる者たちの進歩は甚だ困難である
肉体をもつ者たちにとって
その道は険しく様々な困難を伴う
だが わたしに熱い信仰をもって
すべての行為をわたしのために行い
常にわたしを想い 念じ
常にわたしを礼拝し 瞑想する者たち
常に心をわたしに結びつけている者たちを
プリターの息子よ
わたしは速やかに
生死の海から救い出す
(バガヴァッド・ギーター第12章5-6)